プッチーニ (1858-1924) レビュー一覧
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投稿日:2025/06/10
他社のSACDはもっと安価である。なぜこんなに高いのか理解に苦しむ。
ソナタ形式の楽章はリピートすべきと思う老人 さん |60代
投稿日:2025/04/10
ライザー&コーリエ演出の『蝶々夫人』には2017年に収録されたヤオ主演、パッパーノ指揮の映像ディスクがあるが、グリゴリアンが歌うということで、再演時に二度目の録画が実現。演出はすでに定評あるもので、何の読み替えもないが、ポリシーは明確。すなわち、今回はスズキ、ゴローを中国、台湾出身の歌手が歌っているとはいえ、演出は全くリアリズムを目指すものではなく、舞台は現実の長崎ではなく、あくまで西洋人のオリエンタリズム幻想の中の日本というアンチリアルな仕様。こういう路線の演出では、メトのミンゲラ演出と双璧だと思うが、余計なことをしない、歌の邪魔をしないという点では一枚上手か。 前の録画で歌っていたエルモネラ・ヤオも非常に優れた題名役だったと思うが、グリゴリアンの存在感はさすが。もちろん日本人にも十五歳にも見えないが、彼女の演じる蝶々さんを見ていると、人間の男を愛してしまった妖精、ルサルカか人魚姫のように見えてくるから不思議。一見、彼女好みのキャラクターではなさそうな蝶々さんを各地で好んで歌っている理由が分かったような気がした−−全幕ほとんど出ずっぱりのプリマドンナ・オペラだから、ソプラノとして歌い甲斐のある役なのは当然だけど。ピンカートンは2018年のグラインドボーンの映像もあったゲレーロ。この人が演ずる人物は、誰もどこか自信なさげに見えるけど、この軽薄無責任男にはぴったり。逆にヴァサール演じるシャープレスは(名前に反して)意外にしっかりした男に見える。唯一、惜しまれるのは指揮。丁寧なのはいいけど(パッパーノより全曲で10分ほど長い)、ここぞという所での盛り上がりが不発。「花の二重唱」など、もっと速いテンポが欲しいし、20世紀初頭の音楽らしい表現主義的な(だから当時のイタオペの観客には前衛的過ぎた)幕切れも、もう少し盛り上げてほしい。
村井 翔 さん |70代
投稿日:2025/04/09
スカラ座初演時の稿による演奏ということで、「歌に生き、愛に生き」の末尾、第3幕幕切れなどに出版稿と若干の違いがあるが、『蝶々夫人』のようにスカラ座初演版と改訂版の間に決定的な違いがあるわけではない。でも、シャイーがこの稿の方が良いというのなら、確かにそうなのでしょう。指揮はいつもながら周到で、文句を付けるところはない。ネトレプコ、メーリ、サルシの主役三人も全くお見事。かなり身体の重そうなネトレプコは、演技に関してはトゥーランドットのような、あまり動かない役の方が今後は良いかなと思うけれど、細やかな歌の表情の美しさは声が重くなっても少しも変わらない。 指揮よし、歌よしでどこにけなす余地があるのかと思う人が多いだろうが、やはり演出は物足りない。両端幕は回り舞台を駆使したデコラティヴな装置で、第2幕もファルネーゼ宮の内部を忠実に再現しているらしい。でも、基本的には何の読み替えもない演出。第1幕では投影された黒髪の聖母像と金髪のマグダラのマリア像を入れ換えたり、第2幕でも装飾画の人物が動く、幕切れでトスカがナイフを振りかざす自分のフラッシュバックを見る、そして第3幕終わりの「フライイング」シーンなど、演出家は細かい部分にこだわってみるしか芸がない。そして残念ながら明らかになるのは『トスカ』というオペラは、まともに上演しようとすると、現代の観客にはもはや「金のかかった学芸会」にしか見えないという残酷な事実だ。サルドゥの原作戯曲自体が、プッチーニの音楽なしでは後世に残るはずもない、安っぽい三文芝居に過ぎなかったわけだから、今となっては演出家が何の策も講じないと、もう現代人の鑑賞に耐えるオペラではないのだ。ウィーンのマルティン・クーシェイ演出については、別のところで誉めたが、歌手が一段落ちるものの、アムステルダムのバリー・コスキー演出もとても良い。これぐらいのことをしないと、もはやまともに見られるオペラではない、ということだ。
村井 翔 さん |70代
投稿日:2025/04/08
2022年1月、オミクロン株が爆発的に流行し始めた時期の上演とあって、ウィーン少年合唱団の出演はかなわず、第1幕での子供たちの出演場面は女声合唱で代替、第3幕冒頭の牧童の歌は舞台上でカヴァラドッシが歌っている。さらにこの演出ではサンタンドレア教会もサンタンジェロ城も出てこず、一面の雪原、中央の冬枯れの樫の木には、切り刻まれた遺体がぶら下がっているという酷薄な舞台。したがって堂守、牢番もおらず、彼らのパートはシャルローネが歌っている。代わりに黙役のアッタヴァンティ伯爵夫人が、同じくスカルピアに囚われているという設定で登場しており、一番最後で重要な役割を担う。彼女にとってトスカは恋敵かつ兄の仇でもあるから、これも面白い。第3幕でトスカはスカルピアの血がついた彼の白セーターを奪って着ているのだが、シャルローネがそれを見とがめる様子もなく、彼らはカヴァラドッシのみならず、トスカも最初から殺すつもりであったようだ。マルク・アルブレヒトの速いテンポによる、甘さを排したハードボイルドな指揮が、この寒々とした舞台にぴったり。 2017年のバーデンバーデン・イースター・フェスティヴァル(ラトル指揮)でも歌っていたオポライスが相変わらず素晴らしい。「歌に生き、愛に生き」など歌詞の内容と舞台上の演技が正反対なのは笑ってしまうが、この演出では原作通りの信心深い、清純な乙女ではなく、目的のためには色仕掛けも辞さない女性にキャラクターを変えている。オペラの舞台では滅多に見られないような、エロティックなトスカとスカルピアの駆け引きは、演出の最大の見どころ。歌と演技の総合点では、これまで見聞きしてきたトスカ役の中でも最高の一人と断言して良い。テテルマンは圧倒的存在感とは言えないものの、悪くない主役テノール。歌はいまいちのブレッツ(スカルピア)も演技はとてもうまい。
村井 翔 さん
投稿日:2025/04/06
新星エレオノーラ・ブラットが素晴らしいトスカを聴かせる。声自体の輝かしさはもとより、繊細な表情の美しさ、劇的な場面のメリハリともに申し分なく、半世紀前のミレルラ・フレーニを思い出させると言っても過言ではない。フリットリ以来、久しぶりの純イタリア産ディーヴァだけに、このところロシアや東欧出身のソプラノ頼りだったイタリア・オペラ界をしばらく席巻するのではないか。テテルマンは強さと弱さを兼ね備えた「等身大」のカヴァラドッシ。これも悪くないが、さらに印象深いのは、例によって主役テノールを食ってしまっているテジエのお下劣な悪党ぶり。演奏会形式上演の映像もあるようだが、音だけでもその怪演ぶりが目に見えるようだ。ハーディングは全曲を完全に支配しているが、かつてのマゼールのようなアクの強さは感じない。緻密、周到だけど、このオペラがしばしば陥りがちな下品な感じにはならない。こういう『トスカ』どこかで聴いたよね、と思い返してみて分かった−−サイモン・ラトルに似ているんだ。
村井 翔 さん |70代
投稿日:2025/02/07
珍しいプッチーニの歌曲と管弦楽を収めた一枚。カストロノヴォの歌声はソットヴォーチェの部分は美しいですが、高域のフォルテは少し苦しそうに聴こえてしまいます。録音は明晰で優れた出来と思います。
好事家 さん
投稿日:2024/12/12
グリゴリアンとヴェルザー=メストのコンビによる「サロメ」「エレクトラ」に続くザルツブルク音楽祭でのプロダクション第3弾は、意外にもプッチーニの三部作だった。プッチーニの三部作は通常「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の順で上演されるが、ここでは「ジャンニ・スキッキ」「外套」「アンジェリカ」の順で上演された。明らかにグリゴリアンをフューチャーするために上演順を変えたのであろう。そのグリゴリアンだが、歌い過ぎの兆候が既に表れており、絞り出すような発声が目に付くようになったのは心配だ。「外套」ではジョルジェッタの疲れ切った心情にリアリティを生み出しているが、「ジャンニ・スキッキ」ではラウレッタを世間ずれした女のように感じさせてしまう。「アンジェリカ」では必要以上に現世での苦悩が強調され過ぎている。しかし性格表現は抜群であり、わが子の死を知る前後の揺れ動く心理を見事に表出し、聴衆を大きな感動へと誘う。他の歌手も実力派を揃えているが、ベルカントといえない歌いぶりは好悪を分けるだろう。ヴェルザー=メストの指揮はヴェリズモに近い三部作を、古典的な様式感を感じさせるほど精緻に描写する。プッチーニの音楽が持つ豊かな情感を表現するよりは、その構造性を解き明かすような音楽作りとなっている。近年人気のロイの演出は期待外れだ。ザルツブルク祝祭大劇場特有の横広な舞台に手を焼いたようで、いつものような機知に富んだ舞台を生み出すには至っていない。ロイらしからぬプロットに忠実な演出は、ザルツブルク音楽祭の常連であろう年配のパトロンたちには受け入れやすいだろうが、どうにも物足りない。全体としては並み以上のプロダクションだが、ザルツブルク音楽祭ということを考えると星は三つくらいといったところか。
banban さん
投稿日:2024/10/19
名作「トスカ」の映像先品は少なくないが、このヴェローナのプロダクションを収めたものが最良だろう。伝統的な演出の中にリアリティを込めたデ・アナの演出は、最近流行りの読み替え演出とは異なり、観る者を音楽に、ドラマに惹き込んでくれる。そしてチェドリンス、アルバレス、ライモンディと主役3人が揃って素晴らしい歌と演技を繰り広げる。しかもオーレンのドライヴの利いた指揮が舞台を引き締めていく。全ての音楽ファンに見て頂きたい名プロダクションだ。
banban さん
投稿日:2024/10/06
残念ながら本盤はデータに誤りがあり、マルチェッロ役はカプッチッリではなくサッコマーニが出演した3月30日のライヴです。とは言え演奏自体はクライバーの面目躍如たる名演です。カプッチッリが出演したライヴはMYTOからリリースされていました。そちらはクライバーが残した「ボエーム」の中でも最高の名演でした。
banban さん
投稿日:2024/10/01
カラヤン得意の《ボエーム》のSACD盤が遂に発売となった。これまでブルーレイオーディオ付のCDがリリースされたことがあった(勿論購入した)が、SACD盤が出たならば、やはり注文することとなる。ベルリン・フィルのサウンドがワーグナー的であるとか、オーケストラ(カラヤン)が主張し過ぎるとか、いろいろと批判されることもあるようだが、この天下の名盤をもって《ボエーム》の代表盤とすることに、私は些かも躊躇しない。 プッチーニには。そもそもある種独特の響きがあって、マーラー的、ドビュッシー的、時にはワーグナー的要素をも感じさせる。それは、カラヤンが振った場合だけではなく、シノーポリやセラフィンの演奏でも感じるもの。それがベルリン・フィルというドイツのオーケストラを起用したことによって顕在化していることは確かだが、私はそれをマイナスには感じない。ウィーン・フィルだったならば、当然もう少し淡い色彩になったであろうが、その代わりにこれほどの圧倒的な感銘には至らなかったのではないか? セラフィン盤ももちろん素晴らしい。しかし全盛期のパヴァロッティとフレーニの名唱、カラヤン(ベルリン・フィル!)の絶妙なサポート、それらを鮮明に捉えた録音は圧倒的な説得力で聴く者の心を揺さぶる。 カラヤンという指揮者は共演する相手によってや演奏のスタイルを変化させる。生前『フルトヴェングラーかカラヤンか』の著者でベルリン・フィルのティンパニストだったテーリヒェンに「カラヤンは何回録音をしても基本的に演奏のスタイルは同一で、その違いは録音の良し悪しだけだ」などと断じられ、日本の評論家諸氏はこぞってそれに同調したが、私はその意見に与しない。カラヤンの作品に謙虚に耳を傾ければ明らかなように、オーケストラやソリストによって、或は録音会場や録音技術の違いによって、この指揮者は制作のコンセプトやポリシーを大きく変える。誰にでも解る卑近な例として、チャイコフスキー後期交響曲の71年のEMI盤と75〜77年のDGG盤が挙げられる。EMI盤がダーレムのイエス・キリスト教会で、クォドラフォニック(4CH)で収録されたのに対して75〜77年盤は本拠地ベルリン・フィルハーモニーザールでのステレオ録音で、前者のコンセプトが、個々の楽器の音を拾うよりもオーケストラのサウンドをホール全体に鳴り響かせる『マクロ的』乃至『開放的』な収録ポリシー、演奏スタイルも縦の線を合わせるよりも、音楽の流れを重視したホットでライヴな性格のものであるのに対し、後者は、個々の楽器の音を緻密に正確に捉える『求心的』な録音ポリシーで、演奏自体も譜面に記された音符を、まるで顕微鏡で観るかのような明晰な奏し方で彫塑するというスタイル。さらには、最晩年のウィーン・フィルとのDGG盤では、自身の心(魂)の叫びを赤裸々に刻印するというか、従来のスタイリッシュなイメージをかなぐり捨てるかのような壮絶な演奏が展開されている。これらを耳にして「ただ録音の良し悪しの違いだけだ」と言うなら、いったい何を聴いているのか?ということになる。同じチャイコフスキーのピアノ協奏曲でもリヒテルと共演した演奏とワイセンベルグとのもの、ベルマンとのもの、キーシンとのものとではカラヤンの採るスタンスはまったく異なり、リヒテルとは『競演』、ワイセンベルグとは『協演』、ベルマンとは『共演』、キーシンとは『教演』となる。 話を《ボエーム》に戻す。おそらくカラヤンは、ウィーン・フィルと録音するなら「あのよう」にスカラ座と収録するなら「そのよう」に、ベルリン・フィルを起用するなら「このよう」に演奏するのであろう。そのどれが一番優れているか、という見方ではなく、それぞれの特徴を活かした演奏スタイル、録音ポリシーを採択するということを理解したうえで、その成果を楽しむのが、聴き手としてはもっとも賢明な鑑賞の仕方ではないかと思うのだが・・・。 ほぼ同時期に同じレーベル(Decca)で制作された《ボエーム》と《蝶々夫人》。カラヤンが、片やベルリン・フィル、片やウィーン・フィルと使い分けているのは予め意図してのことと考えねばなるまい。ヴェルディ(EMI)でも《オテロ》と《トロヴトーレ》《ドン・カルロ》はベルリン・フィルで、《アイーダ》《仮面舞踏会》はウィーン・フィルだった。実に巧みな起用法ではないか?
jasmine さん
既に投票済みです
ありがとうございました
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