CD 輸入盤

交響曲第4番『ロマンティック』、第5番、第6番、第7番、第8番、第9番 ハインツ・レーグナー&ベルリン放送交響楽団(6CD)

ブルックナー (1824-1896)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BC0301632
組み枚数
:
6
レーベル
:
:
Germany
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


レーグナー・ブルックナー・ボックス(6CD)

おなじみのレーグナーのブルックナー交響曲選集(第4〜9番)が、新たなマスタリングで登場。最良のマスターからの制作ということで、黄金時代のベルリン放送交響楽団による多彩な表情を持つ演奏の魅力がさらに高まるものと思われます。ブックレットには使用したマスターテープの箱の写真も掲載し、その際に判明した日付情報を、今回のセットでは「録音データ」として記載しているということです。エンジニアは近年評判の良いクリストフ・シュティッケル。

Berlin Classics所蔵の使用オリジナル・アナログ・マスターテープ


マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)

ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。
全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づいています。
マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。
アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。
また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。


レーグナーのブルックナー

【演奏スタイル】
レーグナーのブルックナーの特徴は、機動力のあるテンポにより、ときに煽情的なまでの生々しさと大きな起伏をもって音楽を生き生きと聴かせるという演奏スタイルで、リズムも柔軟、フレージングも自在、デュナーミクも絶妙という独特の説得力のあるスタイルとも言えると思います。
 背景には、ベルリン国立歌劇場音楽総監督として600回以上もオペラの指揮をしてきた経験のほか、レーグナーが戦時中からその演奏に親しみ、戦後はワイマール・ドイツ国民劇場でその下で働くことにもなった御大ヘルマン・アーベントロートの影響があるかもしれません。
 アーベントロートは、ゲヴァントハウス管弦楽団を中心に、半世紀以上に渡ってブルックナーに取り組んだスペシャリスト。1934年以降は主にライプツィヒが拠点だったため、レーグナーの人生との重複期間は5歳から27歳までの22年間にも及びます。晩年のアーベントロートは、ライプツィヒ放送交響楽団を指揮してかなり自由なアプローチで録音を遺しているので、比較してみるのも面白そうです。


 また、レーグナーはフランツ・コンヴィチュニーとも親しい関係にあり、ベルリン国立歌劇場の音楽総監督として招かれたりもしていました。コンヴィチュニーはライプツィヒ音楽院在学中、ゲヴァントハウス管弦楽団の臨時のヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として弾いていましたが、卒業後は、ブルックナーの弟子でもあるルドルフ・フィッツナーの主催する「フィッツナー四重奏団」のヴィオラ奏者となり、同四重奏団が1927年に解散すると、シュトゥットガルト歌劇場のコレペティートア(助手)として契約し、のちに第1楽長にまで昇格。その後、フライブルクでさらに知名度を上げたコンヴィチュニーは、1935年、33歳のときに同地でおこなわれた国際ブルックナー協会ブルックナー・フェストで、第4・5・7・9番と、800名の合唱による「テ・デウム」を指揮して注目されるようになります。
 コンヴィチュニーの若い頃は活力のある芸風だったということですが、晩年はゆったりテンポのおおらかなスタイルとなり、レーグナーとはあまり共通点がない印象で、ブルックナー作品の解釈もだいぶ異なっていたようです。



【ライプツィヒのブルックナー演奏史】
レーグナーが生まれ育ち、長く暮らしたライプツィヒは、ブルックナー演奏の一大拠点としても有名。ライプツィヒでのブルックナー演奏環境がレーグナーに与えた刺激や影響には少なからぬものがあると考えられるので、以下、ゲヴァントハウス管弦楽団を中心に、ライプツィヒでおこなわれた演奏について概観しておきます。
 1884年、ライプツィヒ市立歌劇場の若き音楽総監督アルトゥール・ニキシュが、歌劇場のオーケストラ(ゲヴァントハウス管弦楽団)を指揮して、特別に歌劇場でおこなった交響曲第7番の世界初演が大成功。ブルックナーと29歳のニキシュは、手紙や電報のやりとりの末に現地で綿密に打ち合わせ。さらにニキシュは事前に批評家を招いてピアノでレクチャーし、リハーサルも当時異例の5回おこなうなど準備万端でした。この公演での成功が呼び水になり、以後、ブルックナーの名声が急速に高まるのですが、肝心のゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者は、保守的なカール・ライネッケ[1824-1910]ということで、ライプツィヒでのブルックナー演奏はしばらくは無理な状態が続きます。
 ニキシュ自身も、1889年から1893年まではボストン交響楽団の音楽監督、1893年から1895年まではブダペスト王立歌劇場(ハンガリー国立歌劇場)の音楽監督に就いたためライプツィヒ不在。1895年にゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に就任してライプツィヒに戻ったものの、約150km離れたベルリン・フィルの首席指揮者と兼務で、さらに1897年にはハンブルクのフィルハーモニー協会のオーケストラでの指揮も承諾。ライプツィヒとベルリン、ハンブルクでの仕事はニキシュの死まで続いていましたが、その間、ウィーン・フィルやコンセルトヘボウ管弦楽団、ロンドン交響楽団、コヴェントガーデン王立歌劇場などでの仕事も舞い込み、さらに1902年から1907年にはライプツィヒ音楽院院長も兼ねるなど、多忙な状況が継続。
 結果、1897年:テ・デウム、1899年:5番(ブゾーニによるピアノ・レクチャー付き公演)、1902年:3番、1904年:7番と2番、1906年:8番と9番、1907年:2番、1908年:8番、といった具合に、散発的にしかブルックナー作品を取り上げることができませんでしたが、1910年以降は亡くなるまで毎年とりあげるようになり、特に1919/1920年のシーズンには史上初となるブルックナーの交響曲連続演奏会シリーズを敢行、大成功を収め、ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者就任25周年ということもあって、ブルックナーの肖像画を贈られたりもしています。任期中のブルックナー関連客演指揮者は、カール・ムック(7番)、カール・シュトラウベ(テ・デウム)など。
 ゲヴァントハウス管弦楽団の後任の首席指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーも、ニキシュのブルックナーへの取り組みを維持したいと語り、1928年に退任するまでの6年間、第4・5・7・8・9番をとりあげたほか、客演にオットー・クレンペラー(8番)、カール・シューリヒト(5番)、クレメンス・クラウス(3番)も呼んでブルックナーを盛り上げてもいます。
 フルトヴェングラー退任の翌年、レーグナーの生まれた1929年には、ブルーノ・ワルターがゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に就任。1933年までの4年間に第4・5・8・9番を指揮、第0番を取り上げようとしたところで政府により解雇。任期中のブルックナー関連客演指揮者は、ハンス・ヴァイスバッハ(9番)、オイゲン・ヨッフム(7番)、オットー・クレンペラー(7・5番)、ヘルマン・アーベントロート(4番)などと充実。
 ワルターの急な解雇後、第0番はハンス・・ヴァイスバッハによって無事に紹介され、その後、カール・ムック(7番)、オイゲン・パプスト(8番)と客演での繋ぎが続きます。
 1934年にゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に就任したヘルマン・アーベントロートは、敗戦の半年後までの11年間に、交響曲第1・2・3・4・5・6・7・8・9番、及びテ・デウム、ニ短調ミサを数多く取り上げたほか、国際ブルックナー協会により新たに出版が始まった原典版の紹介にも熱心に取り組んだというブルックナーのスペシャリスト。任期中のブルックナー関連客演指揮者はギュンター・ラミン(詩篇150番、ヘ短調ミサ)、パウル・シュミッツ(6番)など。
 戦後、ゲヴァントハウス管弦楽団の新たな首席指揮者となったのはヘルベルト・アルベルト。2年間の任期のうちに、第1・5・7・8・9番を指揮。任期中のブルックナー関連客演指揮者は、パウル・シュミッツ(2番)、フリッツ・レーマン(6番)、レオポルト・ルートヴィヒ(8番)、そしてギュンター・ラミン(合唱曲)というもので、レーグナーはこの時期に、ラミンと親しく交流してもいました。
 1949年、東ドイツ成立の年には、フランツ・コンヴィチュニーがゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に任命。ライプツィヒ市立歌劇場が爆破されオペラ上演が減少していたこともあって、着任間もなくオーケストラと長期の海外ツアーに出かけたところ大成功。以後、数多くの長期ツアーを実施することになります。そのため、オペラ上演と聖トーマス教会でのコンサートに支障が出ないよう楽員数も大幅に増強し、オーケストラ・コンサートが最優先という取り決めも実現。コンヴィチュニーは1935年、33歳のときに国際ブルックナー協会ブルックナー・フェストで、第4・5・7・9番と800名の合唱によるテ・デウムを指揮した実績の持ち主(そのフェストでの第1・8番がアーベントロート、第2・6番がカール・レオンハルト、第3番がハンス・ロスバウト)。この東ドイツでの人事でも、ベルリン国立歌劇場音楽総監督との兼務という過酷な条件ながら、得意のブルックナーには楽員数も含めて十分に配慮、数々の本番演奏に加え、第5・7・9番をセッション録音してもいます。1962年、ツアー中に突然死するまでの13年間の任期中には、パウル・シュミッツ(0番)、クルト・マズア(1番)、ゲルハルト・プフリューガー(00番)などがブルックナー作品で客演。
 同じく1949年には、ヘルマン・アーベントロートがライプツィヒに戻り、ライプツィヒ放送交響楽団の首席指揮者に就任。亡くなる1956年までの7年間、ブルックナーの放送録音など実施。アーベントロートは、1900年代なかばからリューベック、1910年代の終わりからケルンでブルックナーに取り組み、1934年から1945年にはゲヴァントハウス管弦楽団で大規模かつ集中的にブルックナーを演奏。そして戦後はライプツィヒ放送交響楽団で再びブルックナーに見事な演奏を聴かせています。
 アーベントロートの後任として、1958年からヘルベルト・ケーゲルが着任。ブルックナーについては早くからとりあげ、第3・4・5・6・7・8・9番、及びテ・デウムを指揮。客演でコンヴィチュニーがブルックナー作品を指揮したりもしていました。

【録音会場】
交響曲第6番以外の5作品のレコーディングがおこなわれたホールのある「フンクハウス・ナレーパシュトラーセ」は、東ドイツ時代にべルリンの南東部に建設された巨大な放送センター。約135,000u(東京ドームの約3倍)の広大な敷地に1950年代初頭から工場改修や新築などによって施設運用がおこなわれるようになり、やがて4つの放送局を収容。5,000人以上の人々が働く放送や録音制作の拠点として、1991年、ドイツ統一の翌年まで稼働。その後は一時閉鎖されていましたが、改修を経て現在もレコーディングなどに使用されています。


 レコーディングに使用された大ホール「SRK1」は響きが豊かで、ベルリン放送交響楽団をはじめとする東ベルリンのオーケストラやアンサンブルの録音が数多くおこなわれてきました。「SRK」は国家放送委員会の略で、「1」は第1ホールの略。


交響曲第6番のレコーディングがおこなわれたのは東ベルリンの「キリスト教会」で、西ベルリンの「イエス・キリスト教会」と並んで録音の多いことでも有名な教会。レーグナーは1980年代初頭まではこの「キリスト教会」をドイツ・シャルプラッテンのレコーディングに使用することが多かったようです。音響的にはどちらも優れているので、敢えて放送施設外に出て録音していたということは、ホール使用のスケジュールの問題か、ドイツ・シャルプラッテン側の予算の問題などがあったのかもしれません。


レーグナー 拠点別まとめ

【ライプツィヒ 1929〜1951年(22年間) 0〜22歳】

●ライプツィヒの音楽学校で、ピアノ、オルガンを勉強、合唱指揮も経験
●ライプツィヒ音楽大学で、指揮、オペラ、ピアノ、ヴィオラを勉強

1929年にライプツィヒに生まれたレーグナーは、16歳のときに祖国の第2次大戦敗戦を経験しています。ライプツィヒから約100km南東にあるドレスデンは英米の絨毯爆撃で市街地が徹底的に破壊され、ライプツィヒも市全体ではドレスデンの1.5倍以上の爆弾が投下されるという惨状でした。
 そうした過酷な環境ではありましたが、戦中から戦後にかけて、レーグナーは地元ピアノ・コンクールで優勝したり、オルガンも勉強して合唱指揮も経験、合唱指揮者でオルガニストの重鎮らとも交流しています。
 合唱指揮者でオルガニストのギュンター・ラミン[1898-1956]は、聖トーマス教会のカントルに就任して間もない戦時中、ライプツィヒ放送合唱団を解散して新設された「ライヒス・ブルックナー合唱団」の指揮者に任命されトレーニングをしますが、リンツのフローリアン修道院への移動が決まると辞任。これにより戦後も亡くなるまでトーマスカントルを続けることができました。合唱指揮とオルガンにはまっていたレーグナー少年には神のような存在だったラミンと、その師であるカール・シュトラウベ[1873-1950]とも交流することができたのは得難い経験だったと思われ、合唱音楽やブルックナー作品への関心にも繋がっていったものと考えられます。
 また、トーマス学校の学生だった同年齢のオルガニスト、ハンネス・ケストナー[1929-1993]との交流は、1980年録音の『タラス・ブーリバ』にオルガニストとして参加という形でも生かされてもいます。
 ソ連の軍政局が占領統治するレーグナーの暮らす地域では、行政の共産化が急速に進められるものの、音楽環境や教育環境には、アメリカの軍政局が占領統治する地区ほどの深刻な影響はありませんでした。
 レーグナーは18歳の時にライプツィヒ音楽大学(下の画像)に入学して、指揮とオペラ・コースを、アーベントロートの弟子であるエゴン・ベルシェ[1907-1970]に、ピアノをフーゴー・シュトイアー[1914-2004]に、ヴィオラをオットー・グッチュリヒトに師事。
 ピアノのシュトイアーは、ゲルハルト・オピッツやアンネローゼ・シュミットを指導した名教師。しかしレーグナーはジャズ・ピアノの達人となるなどかなり自由に過ごしていたようで、在学中、ライプツィヒでおこなわれた多ジャンル開催の「フォルクスビューネ・コンサート」に出演してもいました。



【ワイマール 1951〜1954年(3年間) 22〜25歳】

●ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者、作曲家

ライプツィヒ音楽大学を卒業すると、22歳で、アーベントロートが音楽総監督を務めるワイマール・ドイツ国民劇場(下の画像)に配属。コレペティートア(助手)として仕事を始めますが、すぐに実力を認められ、オペラ、オペレッタの指揮と、演劇部門への劇音楽の作曲などに多忙な3年間を過ごすことになります。
 オペラ部門では『椿姫』、『イーゴリ公』、『こうもり』、『密猟者』、『皇帝と船大工』、『パガニーニ』などを指揮。ミルティン作曲『トレンビータ』という珍しいソ連のオペレッタもありました。
 レーグナーは演劇部門のためにも働き、シェイクスピアの『マクベス』、ゲーテの『ファウスト』、シラーの『ヴァレンシュタイン三部作』などの音楽を作曲して舞台上演に供してもいます。
 また、レーグナーは、ワイマール・ドイツ国民劇場で、室内楽コンサートやピアノ・コンサートにも出演していました。



【ライプツィヒ 1954〜1962年(8年間) 29〜33歳】

●ライプツィヒ音楽大学 オペラ科主任と指揮科講師
●ライプツィヒ放送大管弦楽団 首席指揮者

ワイマール・ドイツ国民劇場での現場実績が買われたレーグナーは、若くして母校ライプツィヒ音楽大学に、オペラ科主任と指揮科講師として配属。4年間、教育活動にいそしみます。ちなみにライプツィヒ音楽大学(音楽院)は、アーベントロートが1933年から1945年までの12年間、指揮科教授を務めたところでもあります。


 続いて29歳のときに、ヘルベルト・ケーゲルの後任として、「ライプツィヒ放送大管弦楽団」の首席指揮者というポジションに任命。
 当時、人口約70万人のライプツィヒには、以下の3団体が目立った活躍をしていました。

 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(コンヴィチュニー)
 ライプツィヒ放送交響楽団(ケーゲル)
 ライプツィヒ放送大管弦楽団(レーグナー)

「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」はコンサートとライプツィヒ市立歌劇場のオペラ、「ライプツィヒ放送交響楽団」はクラシック作品の放送とコンサート、そして「ライプツィヒ放送大管弦楽団」はクラシック作品の放送のほか放送オペラなども担当。シュプリンガーシュトラーセのフンクハウスで活動しており、「大管弦楽団」という名前はついていますが、実際にはフレキシブルで、小規模編成の演奏も多かったりします。
 レーグナーが首席指揮者就任の翌年に収録した共産主義系作曲家クルト・シュヴェーンの放送オペラ『フェッツァーの脱出』は、3年後に東ドイツの映像作品制作会社、DEFA(デーファ)でテレビ・ドラマ化された際、ウルブリヒト国家評議会議長夫人のロッテに問題視され激しく糾弾されて再放映は中止、さかのぼって元ネタになった1959年のレーグナー、シュライヤー、ライプツィヒ放送合唱団らによる放送オペラのテープも消却されていました。内容は、共産主義的なものですが、前年に「ベルリンの壁」が建設されたばかりで、脱出とそのための殺人や帰還のための赦しが簡単に描かれ過ぎているのが問題とされたのかもしれません。


 なお、「ライプツィヒ放送大管弦楽団」は、よく「ライプツィヒ放送交響楽団」と混同されていますが、まったくの別団体で、1977年に他のオケに吸収されてしまったことと、ケーゲルもレーグナーも両方のオーケストラと密接な関係があったことが混乱を招いている面もあるようです。レーグナーの後任、アドルフ・フリッツ・グール[1917-1977]は、1977年1月に急死するまで実に14年間に渡って「ライプツィヒ放送大管弦楽団」の首席指揮者を務めて放送演奏に貢献していましたが、彼の死から間もなく、オーケストラは「ライプツィヒ放送エンターテイメント管弦楽団」に吸収され、31年間の活動を終えています。Marco Poloレーベルの「ロルツィング序曲集」では、レーグナー1曲、グール3曲ですが、彼らの演奏を聴くことができます(CDにはライプツィヒ放送交響楽団と誤記)。



【ベルリン 1962〜1993年(31年間) 33〜64歳】

●ベルリン国立歌劇場 常任指揮者→音楽総監督
●ベルリン放送交響楽団 首席指揮者
●読売日本交響楽団 常任指揮者→特別客演指揮者
●ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学 教授


1961年8月13日の突然のベルリンの壁の出現は、社会に混乱をもたらし、クラシック業界にも大きな衝撃を与えています。ベルリン国立歌劇場の出演者や関係者には、西ドイツやオーストリアなど西側諸国から来る人も多く、また、東ドイツ人であっても、住居は西ベルリンというケースも割と一般的だったため、一晩でベルリンの壁が築かれた影響には深刻なものがありました。
 劇場に来ることが難しくなった指揮者、歌手、オーケストラ楽員、合唱団員、バレエ団員、舞台関係者はかなりの数にのぼり、東ドイツ政府は、急遽、他の歌劇場の歌手や、オーケストラの楽員、合唱団員、東ドイツの4つの音楽学校の卒業生、バレエ学校の卒業生をベルリンに集め、ベルリン国立歌劇場の上演水準を保つために懸命な努力がおこなわれます。
 ベルリン国立歌劇場は、「レパートリー・システム」で運営される劇場の為、数多い演目を、不連続で複数回に渡って上演するという運用形態になっており、経験豊富な指揮者の存在は不可欠とあって早急な人材確保が必要とされていました。
 そこで音楽総監督のコンヴィチュニーは、自身のもうひとつの重要拠点であるライプツィヒで活躍していた3人の指揮者、ハインツ・フリッケ[1927-2015](ライプツィヒ市立歌劇場)、ヘルムート・ザイデルマン[1901-1962](ライプツィヒ市立歌劇場)、ハインツ・レーグナー(ライプツィヒ放送大管弦楽団)を呼ぶことにします。
 フリッケとザイデルマンは歌劇場勤務で指揮者が複数いたためすぐに移って、12月に音楽総監督に任命されましたが、レーグナーは放送オケの首席指揮者だったのでなかなか動けず、最初に指揮できたのが1962年7月の『フィデリオ』で、コンヴィチュニーの急死の2週間前でした。その間、ザイデルマンが着任から4か月後の1962年1月17日に急死しており、劇場は、万能音楽総監督フリッケのもと(生涯オペラ・レパートリーは180)、多くの常任、客演指揮者が登場してなんとか運営されていたというのが実情のようです。
 レーグナーは1962年9月のシーズン開始から移ることができ、12月にはベンツィン文化大臣から音楽総監督に任命。当時のベルリン国立歌劇場は、1955年の再建オープンから規模が大掛かりになっていたことから、音楽総監督を複数置くことが可能とされており、下記のメンバーで東ドイツ時代を乗り切っています。

1955-1958 コンヴィチュニー/マタチッチ/シュタイン
1958-1961 コンヴィチュニー/シュタイン
1961-1962 コンヴィチュニー/フリッケ/ザイデルマン
1962-1962 コンヴィチュニー/フリッケ
1962-1964 フリッケ/レーグナー
1964-1971 スイトナー/フリッケ/レーグナー
1971-1974 フリッケ/レーグナー
1974-1990 スイトナー/フリッケ


ベルリンの壁出現直後、1961年秋からのシーズンを支えたのは音楽総監督のほか、常任指揮者と客演指揮者で、1960年シーズンから継続指揮のアペルトとハネルに加え、レーグナーと似た名前のハインツ・レットガー[1909-1977](デッサウ州立劇場)、朝比奈隆[1908-2001](大阪フィルハーモニー交響楽団)、チャールズ・マッケラス[1925-2010](イングリッシュ・ナショナル・オペラ)、ヘルムート・コッホ[1908-1975](ベルリン室内管弦楽団)、ヘルベルト・ケーゲル[1920-1990](ライプツィヒ放送交響楽団)、ハンス・アウエンミュラー[1926-1991](ノルトハルツ市立劇場)のほか、ルドルフ・ノイハウス[1914-1990](ドレスデン国立歌劇場)、ゲルハルト・プフリューガー[1907-1991](ワイマール・ドイツ国民劇場)、カール・シューベルト[1906-2006](シュターツカペレ・シュヴェリーン)、ホルスト・フェルスター[1920-1986](ハレ国立フィル)、アーセン・ナイデノフ[1899-1995](ソフィア国立歌劇場)、ゲルハルト・アウアー[1925-2002](スロヴァキア国立歌劇場)、ルドルフ・ヴァシャタ[1911-1982](スメタナ劇場[プラハ国立劇場])、ルスラン・ライチェフ[1919-2006](ソフィア国立歌劇場)、ヴィルモス・コモル[1895-1971](ハンガリー国立歌劇場)、等々、多くの東側、もしくは東側と縁のある指揮者が実務に携わっています。
 下の画像は再建されたベルリン国立歌劇場で、以前の建物とは屋根の上部などが違っています。また、右隣に見える聖ヘートヴィヒ大聖堂も爆撃で上部構造物が破壊されてシンプルになっています。ちなみに、ベームやクリュイタンス、マルケヴィチ、ケンペ、フリッチャイ、フォルスターなどと大量のレコーディングをおこなっていた聖ヘートヴィヒ大聖堂合唱団の録音が急に少なくなってしまったのもベルリンの壁が原因でした。


ベルリンの壁の影響は、ベルリン放送交響楽団にも及び、一夜にして楽員の3分の1がいなくなるという事態に陥っています。政府はオーケストラを解散しようとしますが、首席指揮者ロルフ・クライネルト[1911-1975]と、作曲家で東ドイツ国歌も書いたハンス・アイスラー[1898-1962]が一緒になって交渉して危機を回避、すぐに楽員を集めて再建を果たすことに成功しています。そのクライネルトが11年後の1972年に病に倒れて指揮ができなくなったため、後任として指名されたのがレーグナーでした。
 レーグナーはすでにオペラでもコンサートでも立派な実績がありましたが、シンフォニー・オーケストラを指揮して、幅広いレパートリーを放送やコンサートで聴かせる仕事は魅力的だったようで、通算20年間も務めあげています。
 その間、ドイツ・シャルプラッテンなどと多くのレコーディングもおこない、ドイツ・オーストリア物からフランス物、ロシア物など、個性的なアルバムを多数制作していました。
 ちなみにレーグナーは、クライネルトが倒れて間もない時期に、アイスラーの組曲第2・3・4番と小交響曲をドイツ・シャルプラッテンに録音しています。アイスラー没後10周年記念録音なのか、クライネルトの代役としての録音なのか判然としませんが、上述のオーケストラ救済の件を考えると意義深いことにも思えます。


 着任5年目の1978年には初の来日も果たし、読売日本交響楽団を指揮してベートーヴェンの第9を5回演奏。その5年後には読売日本交響楽団常任指揮者に就任し、多くのコンサートを指揮、「ベルリンの壁」崩壊のゴタゴタで退任はしましたが、すぐに「特別客演指揮者」に任命されて、亡くなる前年まで来日公演を継続。
 また、この時期のレーグナーは、故郷のライプツィヒ放送交響楽団にもよく客演してもいました。
 その他、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学から教授の称号を送られていますが、それは長年に渡って同校で開催したマスターコースへの返礼でした。



【ライプツィヒ 1993〜2001年(8年間) 64〜72歳】

●読売日本交響楽団 特別客演指揮者

レーグナーの華々しいベルリン時代は、ベルリンの壁がきっかけで始まり、ドイツ統一の影響で終焉を迎えていました。
 所在地が「(元)東ドイツ地域」のオーケストラやオペラは、ドイツ統一から数年以内に「西側」の指揮者を迎えるケースがほとんどで、インド、スペイン、フランス、イタリア、アルゼンチン、デンマーク、そして(元)西ドイツなどさまざまな「西側」の指揮者たちが、「(元)東ドイツ地域」に職を得ています。
 これは、ドイツ統一の時点で、有名オーケストラやオペラの指揮者、監督など「東ドイツの要職」に就いていた人は、数年のあいだは一律で「体制側」と見做されてしまったことによるもので、クルト・マズアが例外扱いだったのは、「民主化デモ」に協力することで、「非・体制側」をアピールすることができたからでした。
 加えて、東ドイツが西ドイツに吸収されたことで、放送局網の大規模な再編や、市場経済の導入も実施され、オーケストラやオペラの運営組織も大きく変化したことで、レーグナーが招聘される機会も少なくなっていたようです。
 たとえば「ライプツィヒ放送交響楽団」は、「MDR交響楽団」に変わり、首席指揮者はインドのナザレス、「ベルリン放送交響楽団」は名前は変わらなかったものの、新たに設立された公共放送「ドイチュラントラジオ」と「ドイツ政府」が資金の75%を拠出して運営、首席指揮者にはスペインのフリューベック・デ・ブルゴスが就任するなど、何よりもわかりやすい「見た目の変化」が求められていました。
 こうした背景もあって、読売日本交響楽団の特別客演指揮者というポジションは、レ−グナーにとって非常に重要なものだったと思われ、亡くなる前年の来日公演で見ることのできた指揮姿も元気なものでした。
 また、ベルリン放送交響楽団への客演も少ないとはいえありましたし、脳出血による急死の5か月後にはシベリウスの2番と6番の客演コンサートも予定されていたということなので、まだまだ現役の状態での死だったことが残念でなりません。


年表

音楽関係は太字、社会関係は細字。

1929年(0歳)

●1月16日、ハインツ・レーグナー、ライプツィヒに誕生。父はエルンスト・レグナー、母はヘルタ・レーグナー(旧姓:シュリーベン)。
◆9月3日、アメリカ、しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株の平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定のための「売り」が集中して1か月に渡って下がり続けて17%下落。その時点で底値と判断した「買い」が入って下落分の半分ほどまで上昇したもののそこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として、各国への投資や預金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
◆ドイツの失業者数約200万人。

1930年(0〜1歳)

◆9月、ドイツの国会選挙で、社民党が143議席を獲得して第1党、ナチ党が102議席で第2党、ついで共産党が77議席を獲得。
◆ドイツの失業者数約400万人。

1931年(1〜2歳)

◆6月、プロペラ推進の実験用鉄道車両「シーネンツェッペリン」が時速230kmを記録。


◆「世界大恐慌」の影響で経済が疲弊していたドイツとオーストリアが2国間の関税同盟を結んで、少しでも経済を活性化しようとしたことに対し、フランス政府は反発、国際連盟や国際司法裁判所に提訴、両国の関税同盟成立を阻止。結果的にドイツによるオーストリア併合への期待をオーストリア国民にもたせることになります。

1932年(2〜3歳)

◆2月、ヒトラーがドイツに帰化。市民権を取得。
◆7月、「アルトナの血の日曜日」事件発生。労働者の多く住むアルトナ地区に、1万人を超える突撃隊(ナチ党員)が武装警官隊と共に侵入、アルトナ地区の住民は共産党員を中心に応戦するものの16名が殺害(ナチ側は1名)、全体で数百名が負傷。
◆7月、ドイツの国会選挙で、ナチ党が230議席を獲得して第1党に躍進。第2党は社民党で133議席、ついで共産党が89議席獲得。
◆11月、ドイツの国会選挙で、ナチ党が34議席を失って196議席を獲得。第2党社民党は12議席失って121議席、共産党は11議席増やして100議席獲得。
◆ドイツの失業者数約600万人。

1933年(3〜4歳)

◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
◆2月20日、 ヒトラーとゲーリングがドイツ経済界首脳陣と会合、大恐慌で経済の悪化する中、300万ライヒスマルクの政治献金を獲得。
◆2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。これを受けて、「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」が発令され、犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党も活動禁止措置。
◆3月5日、ドイツ総選挙でナチ党が43.9%を獲得。
◆3月、ドイツの国民啓蒙・宣伝省大臣にヨーゼフ・ゲッベルスが就任。プロパガンダのほか、新聞・雑誌・放送・音楽・映画・演劇・文学・絵画・観光・旅行などの「管理・検閲」を実施。当初の予算は1,400万ライヒスマルクでしたが、1944年には13倍以上の1億8700万ライヒスマルクにまで規模を拡大、下部組織に「帝国文化院」も設置して各分野への統制をおこなっていました。
◆3月23日、ドイツで全権委任法が成立。
◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な運営を開始。
◆4月7日、世界恐慌の影響で約600万人に急増していた失業者の就業対策の目玉として「職業官吏再建法」が施行。公務員から非アーリア人を追放する法律で、ドイツの全公務員、および新政権により新たに「国有化」された膨大な数の企業・団体の職員が対象。同時に国外に出るユダヤ人の財産を奪って国庫に収める政策も実施され、公共事業財源などに利用されます。
◆4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。
◆5月10日、ドイツ学生協会の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までに大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。ドイツの34の大学都市で、学生たちによって実施された「非ドイツ的精神への抵抗」は成功し、新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。なお、ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。
◆5月26日、ドイツで共産主義者の財産没収に関する法律が成立。
◆5月26日、ドルフース政権、オーストリア共産党を非合法政党と認定し活動禁止措置。
◆6月19日、ドルフース政権、オーストリア・ナチ党を非合法政党と認定し活動禁止措置。これによりオーストリア・ファシズム政権による独裁体制が確立し、ローマ・カトリックを国教として認定。
◆6〜7月、ドイツで社会民主党活動禁止措置。続いてドイツ国家人民党・ドイツ国家党・中央党・バイエルン人民党・ドイツ人民党が自主解散。
◆7月14日、ドイツで政党新設禁止法が成立。
◆11月、ドイツ国会選挙。ナチ党への反対票(と無効票)が3,398,249票(7.89%)で、賛成票が39,655,224票(92.11%)と賛成が圧倒的多数でした。投票率も非常に高く95.3%の有権者が選挙に参加。

1934年(4〜5歳)

●レーグナー、ピアノのレッスンを開始。
◆隣国オーストリアの実質賃金は1929年に較べて44%も減少、失業率も1928年の8.3%に対し、1934年は38.5%と凄まじい景気の悪化ぶりで、政治・社会も大きく混乱。
◆2月、ウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と、オーストリア社会民主党の支援する「防衛同盟」戦闘員が衝突、4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。
●12月、エーリヒ・クライバーがベルリン国立歌劇場音楽監督辞任をプロイセン州政府に申し入れます。直前にはフルトヴェングラーがヒンデミット事件の引責でベルリン国立歌劇場音楽総監督を辞していました。
●12月、プロイセン州政府から、クレメンス・クラウスにベルリン国立歌劇場音楽監督就任要請。
●12月11日、ウィーン国立歌劇場でヴェルディ『ファルスタッフ』上演の際に政治団体活動家らによる暴動が起き、警官隊が介入。『ファルスタッフ』は、楽員で活動家のブルクハウザーとトラブルになっていた演目でもあります。
●12月15日、クラウスはウィーン国立劇場音楽監督を辞任。

1935年(5〜6歳)

●1月、エーリヒ・クライバーが、ベルリン国立歌劇場で『タンホイザー』を指揮(1月1日と3日)。その後、家族に反ユダヤ政策が適用されないようにするためドイツを出国。
●1月、クラウス、ベルリン国立歌劇場音楽監督に就任。音楽総監督フルトヴェングラー、音楽監督クライバーの後任となったクラウスは、1月15日に『マイスタージンガー』で登場し、26日からは『ニーベルングの指環』を披露。
 契約期間は10年で、ヴィオリカ・ウルズレアック、ヨゼフ・フォン・マノヴァルダ、フランツ・フェルカー、エーリヒ・ツィマーマン、アデーレ・カーン等、ウィーン国立歌劇場の信頼する歌手たちと共に移籍していましたが、総監督のハインツ・ティーティエン(ティーチエン)[1881-1967]の組織運営と演出に関する考え方は、クラウスとは大きく異なっていたようで、仕事は妨害され、バイエルン行きのオファーもあったことから、クラウスは翌1936年には辞任しています。
 ジブラルタル海峡に面した風光明媚な海辺の町、モロッコのタンジェ出身のティーティエンは、早くから政府高官との関係を大切にしたほか、ヴィニフレート・ワーグナーとも親密で、1933年から1944年にかけてバイロイトが非常に政治的だった時代に全舞台(!)を演出(指揮はフルトヴェングラー、エルメンドルフ、アーベントロート、シュトラウス、サバタ等)したほか、ときおり指揮をしていたことでも知られています。策士としても恐れられており、ナチの機関紙でクレンペラー率いるクロールオペラを攻撃したほか、カラヤンや、フリッチャイともトラブルを起こしていた人物です。
 なお、エーリヒ・クライバーが前年12月にベルリン国立歌劇場音楽監督辞任をプロイセン州政府に申し入れたことについて、ヒンデミット事件で引責辞任することになったベルリン国立歌劇場音楽総監督(1933年10月就任、この場合ほとんど名誉職のようなものでした)のフルトヴェングラーに合わせたものとも言われていますが、実際には、クライバーの妻ルースがユダヤ系アメリカ人で、息子カール(のちのカルロス)と娘ヴェロニカもユダヤ系となるため、外来ユダヤ人の国籍剥奪や職業官吏再建法、就学制限、学者追放といった反ユダヤ政策の連続的な制定・運用を受けての行動と考えるのが自然です。すでに前年3月にはドイツ国内に強制収容所が建設され、収容者も2か月で2万5千人に達していたことから、辞任せざるを得ない状況でもありました(ちなみにフルトヴェングラーは3か月後には指揮活動を再開しています)。



◆3月、ドイツ、再軍備宣言と共に徴兵制も復活。

1936年(6〜7歳)

◆ドイツ経済が大恐慌前の水準に回復。
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ軍、ラインラントへ進駐。
●クラウス、ベルリン国立歌劇場音楽監督辞任。
◆12月、ヒトラーユーゲント義務化法が成立。10歳から18歳の健康な「ドイツ人全員」を対象としたもので、違反者には罰金刑や拘禁処置が適用。ちなみに1936年に約440万人だったヒトラーユーゲント構成員は、1937年に約580万人、1938年に約700万人、1939年には約810万人に達するという増え方で、1939年当時の対象者人口は約887万人だったので、その時点での加入率は実に91%と非常に高いものとなっています。ヒトラーユーゲントは健康志向で、ヒトラーが熱中した禁煙運動、アルコールやカフェイン飲料の禁止(節減)、菜食、ワンダーフォーゲルなど自然回帰に関する運動が推進されました。

1937年(7〜8歳)

◆ゲッベルスにより「批評禁止令」布告。
●アーベントロート、ナチ党に入党。

1938年(8〜9歳)

◆3月、ドイツ、オーストリアを併合。当時のドイツは失業率が劇的に改善し、国民の貯蓄額も急伸、公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方、アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も、国境線拡大に加え、オーストリアの保有していた金資産や外貨、鉱物資源、そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際、ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億ライヒスマルクに達し、これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万ライヒスマルクの実に18倍以上という凄いものでした。
 しかし、景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く、約60万人も失業者がおり、自国経済の改善に期待する市民の思いは、併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映、賛成99.75%という数字にも表れていました。
 併合後は、1925年に「クローネ」から変更されたばかりのオーストリア通貨「シリング」を廃止してライヒスマルクを導入。ライヒスバンクは当初、オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを想定していたものの、市民感情にも配慮し、「1.5シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを設定、民間組織の国有化など経済再建を進めます。
●プロイセン国立劇場連盟総裁で、策士としても知られるハインツ・ティーティエン[1881-1967]からカラヤンにベルリン国立歌劇場への客演要請。交渉の過程でティーティエンはカラヤンの覇気に興味を示します。
●10月21日、カラヤンがベルリン国立歌劇場で『トリスタンとイゾルデ』を指揮。新聞で「奇跡のカラヤン(Das Wunder Karajan)」と報道。前年にゲッベルスにより「批評禁止令」が布告され、根拠のない誹謗などが禁じられている中、文中でフルトヴェングラーを馬鹿にし、カラヤンだけでなく、なぜか総監督のティーティエンを賛美するようなことまで書かれていてヤラセ感がみえみえだったため、フルトヴェングラーは激怒。
 半年前にはその実力を高く評価した若者が、自分に害をなす権力者と結びついたたと思いこんだ憎悪も加わり、フルトヴェングラーに一生消えない心の傷を負わすことになってしまいます。そしてそれが、亡くなるまで16年間に渡って繰り返されたカラヤンへの執拗な妨害行為の火種となったことは明らかでした。
 記事は実際にはティーティエンが、カラヤンをフルトヴェングラーの対抗馬に仕立てるべく批評家に書かせたものでしたが、内容に問題があったため結果的に逆効果になっています。
 記事を書いた批評家のエトヴィン・フォン・デア・ニュル[1905-1945]は、バルトーク研究などをおこなう音楽学者でもあり、2年後の1940年にドイツ空軍の音楽部門に配属され、音楽研究の仕事を継続、除隊後の1943年には著作の出版などもおこないますが、戦争末期にベルリンに隣接するポツダムで死去。

◆11月7日、パリでユダヤ人によるドイツ外交官暗殺事件発生。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。

1939年(9〜10歳)

◆2月17日、ユダヤ人に対し貴金属拠出令。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。
●11月、カラヤン、ベルリン国立歌劇場から国家指揮者の称号を授与され、シュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)によるオーケストラ演奏会を復活させて指揮者に就任。コンサートのほかレコーディング・セッションも増加。
 高給を得ているアーヘン市の音楽総監督と兼務になるため、「2週間ごとにアーヘンとベルリンを往復、アーヘン交響楽団のコンサートは全部自分が指揮をし、重要なオペラについては練習も自分が行う」と宣言、しかし、当初は良かったものの次第にベルリンでの仕事が増えて、本来の職場であるアーヘンを留守にしがちになり、不満の声が高まっていきます。


1940年(10〜11歳)

◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆5月11日、チャーチルがイギリスの首相に就任。市街地空爆など民間人攻撃を強力に推進し、ドイツの民間人約41万人を殺害、500万人分以上の住居を破壊しています。
◆5月11〜12日、イギリス空軍、ドイツ西部のメンヒェングラートバッハ空爆。両国の間での最初の空爆はイギリス側が実施。
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。
 同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。
◆8月25日〜9月4日、イギリス空軍、ベルリン空爆。
◆9月7日、ドイツ空軍、ロンドン空爆(死者約300人)。
◆11月14日、ドイツ空軍、コヴェントリー空爆(死者568人)。

1941年(11〜12歳)

●フルトヴェングラーがベルリン国立歌劇場に復帰。カラヤンはオペラの指揮から締め出され、オーケストラ演奏会のみを指揮するようになりますが、翌1942年には、その回数も年間6回にまで制限されます。
◆3月27日、ドイツ国防会議により法令布告。闇取引および買い溜めに関する取り締まりを強化。最高刑は死刑。
◆3月29日、ドイツ財務省が法人税増税について発表。前年度利益が3万ライヒスマルクを超えた場合、利益の25〜30%を徴税。
●4月10日、イギリス空軍がベルリンを爆撃。ベルリン国立歌劇場が部分的に破壊され火災も発生するもののなんとか消火。ヒトラーの命令によりすぐに修復工事がおこなわれ、1942年12月12日に再開。
◆6月、独ソ戦開戦。

1942年(12〜13歳)

◆イギリス空軍、リューベック空爆により民間人約320人を殺害。
◆5月30〜31日、イギリス空軍、ケルン空爆により民間人約480人を殺害。
●12月12日、ベルリン国立歌劇場200周年記念公演として、フルトヴェングラー指揮『マイスタージンガー』が上演。前年にイギリス軍により破壊された劇場の再建公演でもあります。

1943年(13〜14歳)

◆5月16〜17日、イギリス空軍、ドイツのダムを空爆する洪水作戦を展開し、約1,300人を殺害。
◆6月19日、ベルリンでユダヤ人ゼロ宣言。
◆7月27〜28日、連合国軍、ハンブルク空爆により民間人約41,000人を殺害。
◆8月、連合国軍、ベルリン空爆開始。翌年3月までに民間人約9,400人を殺害。
◆11月1日、モスクワ宣言。3回モスクワ会議でのソ連・アメリカ・イギリスの外相らにより取り決められた内容で、オーストリアについては、ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の国であるとされる一方、ドイツへの戦争協力にも言及し、今後、オーストリアそのものがドイツからの解放にどのくらい関与したかで戦争責任の追及が変わってくるなどと指摘。以後、オーストリア国内でのレジスタンスは数を増すこととなり、1944年の終わりには、臨時オーストリア国民委員会も結成して抵抗運動を本格化していました。

1944年(14〜15歳)

●2月、ベルリン国立歌劇場が2度目の破壊。イギリス空軍によるベルリン爆撃によるもので、今回は修復不可能な被害規模。そのため、戦後は不要派も多く、再構築プランが決まるのがようやく1951年、完成はさらにその4年後の1955年のことでした。
◆2月、イギリス空軍、ボンへの空爆開始。ボンは小さな文教都市で軍事施設はありませんでしたが、連合国軍による民間人大虐殺戦略の一環として、1945年2月までに計72回爆撃、約6,400人を殺害、旧市街の建物約70%を破壊する成果を上げていました。
◆2月20日、ライプツィヒへの爆撃により、ゲヴァントハウスが焼失。ゲヴァントハウス管弦楽団は、旧市街の映画館「テアター・カピトール」で演奏会を開催するようになります。
◆4月、連合国軍、ベルギーとフランスの交通機関へ空爆開始。11月までにベルギーとフランスの民間人など約15,000人を殺害。
◆9月1日、ゲッベルスにより、全ドイツの劇場(歌劇場)閉鎖令が布告。これは7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件とクーデーターを収拾させたゲッベルスが、国家総力戦総監に任命され、国家総力戦の一環として劇場を閉鎖することを策定したもの。立案は7月末におこなわれ、一部の劇場では早期の運用がおこなわれていました。
◆9月11〜12日、連合国軍、ダルムシュタット空爆により約12,300人を殺害。
◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果の方も限定的でした。
◆10月18日、連合国軍、ドイツに対して24時間体制で空爆を開始。

1945年(15〜16歳)

◆2月12日、連合国軍、スヴィーネミュンデ空爆(死者約23,000人)。
◆2月13〜14日、連合国軍、ドレスデン空爆により3万人から15万人を殺害。
◆2月23〜24日、連合国軍、プフォルツハイム空爆により2万人以上を殺害。
◆4月16日、赤軍のジューコフ元帥によりベルリン砲撃開始。ベルリンの戦いは3週間続き、ソ連側死者約8万人に対し、ドイツ側死者約32万人という激戦となります。
◆4月30日、ソ連の猛攻の中、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
◆ベルリン、戦勝4か国占領下におかれ、ソ連が東部、英・米・仏が西部を統治。


●5月、ベルリン放送交響楽団、ソ連軍政当局により許可され活動を開始。場所は前放送組織が1929年に建設した巨大な建物で、ベルリンのイギリス占領地区にあったため、イギリス軍政当局はソ連に抗議しましたが、圧倒的な数の赤軍を駐留させていたソ連は相手にせず、新しい放送センターが完成するまでの約10年、そのまま使用させていました。


◆6月10日、ソ連軍政当局により「反ファシズム的政党の設立と活動」が許可。
◆6月11日、「ドイツ共産党(KPD)」が設立。
◆6月15日、「ドイツ社会民主党(SPD)」が設立。
◆6月26日、「キリスト教民主同盟(CDU)」が設立。
◆7月5日、「ドイツ自由民主党(LDP)」が設立。
◆上記、4つの政党の合意により、「反ファシズム民主諸政党統一戦線(アンティファ・ブロック)」が形成。
●7月8日、アーベントロート、戦後初のコンサートでチャイコフスキー5番とエグモント序曲を指揮。ライプツィヒの反ファシズム同盟によって、赤軍(ソ連軍)を歓迎するため開催されたコンサートでした。続いて、メンデルスゾーンとマーラーのユダヤ系作曲家コンサートをおこない、自身の方針が「親ソ&親ユダヤ」であることを示します(赤軍将校にはユダヤ系多数)。
●8月9日、アーベントロート、ナチ政権が禁じていたヒンデミット作品をコンサートで指揮。自身の方針が「反ファシズム」であることを強調。
●8月、ベルリン放送交響楽団の首席指揮者探しのために、ソ連軍政当局が指揮者コンクールを開催。7月にすでにこのオケの指揮台に立っていた若きセルジュ・チェリビダッケが、師のハインツ・ティーセンの勧めで改めてコンクールに参加し、ブラームス交響曲第1番とストラヴィンスキー『火の鳥』を指揮して12人以上の参加者の中から優勝。首席指揮者として契約。
 その新人チェリビダッケの任期は1年ほど。以後、ローター(3年間)、アーベントロート(亡くなるまでの6年間)、クライネルト(病気辞任までの14年間)と続き、1973年には、レーグナーが首席指揮者になって20年も務めあげています。
 なお、この「ベルリン放送交響楽団(Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin)」は、ワイマール共和政時代の1923年に前身組織が設立された放送団体のオーケストラで、のちに出現する西側所属の「ベルリン放送交響楽団」とは異なります。
 西ベルリンの「ベルリン放送交響楽団」は、1946年にアメリカ軍政当局によってアメリカの統治地区に設立された「RIAS交響楽団」が、占領統治終了の1956年に「ベルリン放送交響楽団(Radio-Symphonie-Orchester Berlin)」と改名して誕生したものです。

◆9月、ソ連占領地域で土地改革。100ヘクタール以上の地主の土地は没収、地主は追放。同時に大企業の土地・資産も没収。
●11月29日、アーベントロート、ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督として最後のコンサートで指揮。
●ソ連軍占領政府から、元ナチ党員の現職契約は、全員無効とすることが決まったとアーベントロートに連絡。ザクセン州当局は、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督、ライプツィヒ音楽院教授職を解任。アーベントロートが1937年に強要されたとはいえ、ナチ党に入党してしまったことによるものでした。

1946年(16〜17歳)

◆1月、アメリカ軍政当局を中心に非ナチ化裁判が開始(1949年まで)。10万人以上のドイツ人が裁判にかけられ、音楽界でもナチ関連疑惑のあった人物が続々と法廷に送られることになったため、連合国軍側の作成したブラックリストに載っていなかった(=知名度が高くない)音楽家たちや、外国人、ユダヤ人たちには大きなチャンスが訪れることになります。
 なお、この各国軍政当局によってドイツで実施された非ナチ化裁判については、アメリカだけが熱心で、ソ連、イギリス、フランスの軍政当局はあまりおこなわないなど、国によって温度差が大きかったのですが、その後のアメリカ人音楽家やユダヤ人音楽家のドイツでの躍進ぶりを考えると、最初からそれが目的だったとも考えられます。
 実際、外国人が入り込めない「役所」や公的機関・団体などについては、非ナチ化の追求はほとんど実施されなかったようですし、弁護士の約90%が元ナチ党員ということもあって裁きようがないため処罰を免れた約800万人以上の元ナチ党員や党友が普通に生活、行政機構も戦時中からほぼそのまま継続していたため、役人はほとんどが元ナチ党員で、たとえば性的マイノリティの作曲家・指揮者のヘンツェが、自殺未遂寸前まで追い込まれたりもしていました(ナチ政権下では同性愛者は迫害対象)。1957年の調査でも、西ドイツ司法省上級職員の元ナチ党員率が約77%、裁判長で約70%となっています。
 ちなみに、ソ連はまず占領したドイツ東部での行政の抜本的な変更を最優先、行政機関の主要な役職者は、新政党「ドイツ社会主義統一党(SED)」党員などの共産主義者に総入れ替えし、「国家社会主義」から「民主社会主義」への移行を推進。また、ソ連の音楽家をドイツに就職斡旋する考えは無く、そのため、ブラックリストに名前が載っている元ナチ党員の音楽家であっても、いったん契約を無効にするといった程度でした。たとえばアーベントロートの場合も、ライプツィヒの職は解かれましたが、まもなくワイマールのドイツ国民劇場の音楽監督に就任させています。
 フランスの場合は、約4年間ドイツ占領統治下にあったため、フランス人によってフランス人を裁いて非ナチ化することが喫緊の課題ということで、事実証明よりもフランス国民感情への配慮が重視され、フランスの全教師の実に4分の3を入れ替えたり、音楽関係の業務に携わっただけのアルフレッド・コルトーを、ヴィシー政権で働いたということで国内演奏禁止とするなど厳しく断罪したりもしています。一方で、ドイツ政府に協力してユダヤ人1,690人を引き渡したり、レジスタンス活動家や共産主義者の情報をドイツに提供したとされるモーリス・パポンはお咎めなし。しかもパポンは1948年にシュヴァリエ勲章を授与され、1954年にはオフィシエ勲章を授与されたのちパリ警視総監に就任、1961年10月には、パリ在住のアルジェリア人による大規模な非武装デモを、1万人の警官隊に攻撃させ、銃撃や撲殺などにより約200人を殺害させる「パリ虐殺」を指揮するものの、7年後には国民議会議員に選出、1978年には予算担当大臣も務め、2007年に96歳で大往生という特別待遇でした。
 戦後のドイツ南西部に設定されたフランス占領地域に関しても、非ナチ化はほとんどおこなっておらず、同地区での職務後に終戦を迎えた元ナチ党員のフランツ・コンヴィチュニーは、戦後すぐにイギリス占領地域のハノーファー国立歌劇場(州立歌劇場)の音楽総監督に就任し、1949年からは東ドイツに移ってゲヴァントハウス管弦楽団を率いています。
◆4月、「ドイツ社会主義統一党(SED)」が成立。前年に設立された「ドイツ共産党(SPD)」と「ドイツ社会民主党(KPD)」が合体。
◆4月、「自由ドイツ青年同盟(FDJ)」創設。「ドイツ社会主義統一党(SED)」の下部組織で、ソ連の「コムソモール」に相当。
◆ドイツのソ連占領地域で、教育制度改革実施。これにより、8年間の共通教育の後、2年間の職業教育コースと大学進学コースへの準備期間が設定。
◆ドイツのソ連占領地域に、国営映画会社「DEFA」設立。
●アーベントロート、チューリンゲン州議会の議員に任命。

1947年(17〜18歳) ライプツィヒ音楽大学在学

●レーグナー、ライプツィヒ音楽大学に入学。アーベントロートの弟子であるエゴン・ベルシェ[1907-1970]に指揮とオペラ・コース、フーゴー・シュトイアー[1914-2004]にピアノ、オットー・グッチュリヒトにヴィオラを師事。
●レーグナー、ライプツィヒでフォルクスビューネ・コンサートに出演。フォルクスビューネは、19世紀終わりのドイツで、自由劇場運動から派生した観客組織の運営する民衆舞台。

1948年(18〜19歳) ライプツィヒ音楽大学在学

◆6月20日、米英仏占領区域で通貨改革。これによりベルリンは経済的に分断。
◆6月24日、ソ連軍政局がベルリンを封鎖(1949年5月12日まで)。
◆西側大空輸作戦を開始。
●アーベントロート、ワイマール・ドイツ国民劇場の音楽総監督に就任。

1949年(19〜20歳) ライプツィヒ音楽大学在学

◆4月、北大西洋条約機構(NATO)発足。
●8月、アーベントロート、国家賞を授与。
◆9月、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。
◆10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。
●アーベントロート、ドイツ国家民主党(NDPD)の地区メンバーに選出。
●アーベントロート、ドイツ人民会議参加メンバーに選出。
●アーベントロート、ライプツィヒ放送交響楽団の首席指揮者に就任。

1950年(20〜21歳) ライプツィヒ音楽大学在学

◆10月、東ドイツ、第一回人民議会選挙。でSED70%の議席獲得

1951年(21〜22歳) ライプツィヒ音楽大学在学、ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家

●レーグナー、ライプツィヒ音楽大学を卒業。
●レーグナー、ワイマール・ドイツ国民劇場にコレペティートア(助手)として配属されますが、すぐに能力を認められ、指揮者、劇音楽作曲家として活躍。
 ワイマール・ドイツ国民劇場の音楽総監督は、ヘルマン・アーベントロート[1883-1956](在任期間:1945-1956)で、オペラと、「シュターツカペレ・ワイマール」のオーケストラ・コンサートの両方を指揮していました。

●アーベントロート、東ドイツ文化連盟に所属(1954年まで)。
●アーベントロート、国家芸術委員会の委員に選出。
◆東ドイツ、社会主義的教育計画の実施が本格化。
●12月、イェーナ市立劇場で、ゲーテの戯曲『エグモント』をベートーヴェンの音楽付きで上演。指揮はレーグナー。

1952年(22〜23歳) ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家

●アーベントロート、ドイツ芸術アカデミーのメンバーに選出。
◆2月、国家保安省(シュタージ)設置。
●3〜6月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ファウスト』第1部をレーグナー作曲の音楽付きで16回上演。
◆5月、東ドイツと西ドイツの間に国境が設定。国境から500m以内に居住する者は、強制的に退去。
●5〜6月、ドイツ国民劇場。トレネフの戯曲『リュボフ・ヤロヴァヤの確信』をレーグナー作曲の音楽付きで19回上演。
◆7月、農業従事者の就業形態を、個人から集団(国営)へ移行させる政策が施行。
●8〜12月、ドイツ国民劇場。フリードリヒ・ヴォルフの戯曲『貧しいコンラート』をデッサウ作曲の音楽付きで18回上演。指揮はレーグナー。
◆秋、農業改革の影響により収穫量減少。食糧が不足。配給制度が本格化。
●10〜12月、レーグナー、ドイツ国民劇場。レハール『パガニーニ』。3回指揮。
●9〜12月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ファウスト』第1部をレーグナー作曲の音楽付きで8回上演。
●11〜12月、ドイツ国民劇場。トレネフの戯曲『リュボフ・ヤロヴァヤの確信』をレーグナー作曲の音楽付きで17回上演。

1953年(23〜24歳) ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家

●1〜3月、ドイツ国民劇場。トレネフの戯曲『リュボフ・ヤロヴァヤの確信』をレーグナー作曲の音楽付きで4回上演。
●1〜6月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ファウスト』第1部をレーグナー作曲の音楽付きで10回上演。
●2月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ヴェルディ『椿姫』。
●2〜3月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ロルツィング『皇帝と船大工』。2回指揮。
◆3月5日、スターリン死去。
◆3月、東ドイツ、経済の悪化により西側への移住が増加。
●3〜6月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『ヴァレンシュタイン三部作』をレーグナー作曲の音楽付きで8回上演。
●4〜6月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ミルティン『トレンビータ』。ソ連のオペレッタ。5回指揮。
●5月、レーグナー、ドイツ国民劇場。レハール『パガニーニ』。
◆6月、東ベルリン暴動発生。東ベルリンの「スターリン通り」建設に際し、労働者が厳しいノルマに対して反発。これをきっかけに東ドイツ各地で蜂起が発生するものの、ソ連の武力介入により鎮圧。死者は民衆側と政府側を合わせて数百名規模。


●6月、レーグナー、ドイツ国民劇場。シューベルト歌曲&ヴァイオリン・ソナティナ・リサイタル。レーグナーはピアノ伴奏。
●6〜12月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『ヴァレンシュタイン三部作』をレーグナー作曲の音楽付きで6回上演。
●10〜12月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ゴットフリーデンス・フォン・ベルリヒンゲンの歴史』をケニッツァー作曲の音楽付きで16回上演。指揮はレーグナー。
●アーベントロート、ベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任。
●11月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ボロディン『イーゴリ公』。
●11〜12月、ドイツ国民劇場。ゲルナーの戯曲『シンデレラ』をレーグナー作曲の音楽付きで14回上演。
●12月、ドイツ国民劇場。コルネイチュークの戯曲『部隊の崩壊』をレーグナー作曲の音楽付きで3回上演。
◆東ドイツ、食糧配給制。

1954年(24〜25歳) ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家、ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師

●1〜2月、ドイツ国民劇場。ゲルナーの戯曲『シンデレラ』をレーグナー作曲の音楽付きで15回上演。
●1〜5月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ゴットフリーデンス・フォン・ベルリヒンゲンの歴史』をケニッツァー作曲の音楽付きで7回上演。指揮はレーグナー。
●1〜6月、ドイツ国民劇場。コルネイチュークの戯曲『部隊の崩壊』をレーグナー作曲の音楽付きで23回上演。
●1〜8/月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『ヴァレンシュタイン三部作』をレーグナー作曲の音楽付きで7回上演。
●7〜8月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『オルレアンの少女』をレーグナーとホーエンゼー作曲の音楽付きで3回上演。
●2月、ドイツ国民劇場。レーグナーのピアノの即興演奏、および詩とレーグナー作曲の音楽のコンサートを開催。
●3〜8月、ドイツ国民劇場。シェイクスピアの戯曲『マクベス』をレーグナー作曲の音楽付きで18回上演。
●4〜6月、レーグナー、ドイツ国民劇場。J.シュトラウス『こうもり』。4回指揮。
●4〜5月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ロルツィング『密猟者』。3回指揮。
●5〜6月、ドイツ国民劇場。シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』をレーグナー作曲の音楽付きで10回上演。
●レーグナー、ライプツィヒ音楽大学に、オペラ科主任&指揮科講師として配属(1958年まで)。


●9〜12月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『オルレアンの少女』をレーグナーとホーエンゼー作曲の音楽付きで13回上演。
●10〜12月、ドイツ国民劇場。シェイクスピアの戯曲『マクベス』をレーグナー作曲の音楽付きで6回上演。
●レーグナー、ライプツィヒ放送交響楽団に客演。当時の首席指揮者は、ヘルマン・アーベントロートでした。

1955年(25〜26歳) ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家、ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師

●1〜4月、ドイツ国民劇場。シェイクスピアの戯曲『マクベス』をレーグナー作曲の音楽付きで5回上演。
●1〜8月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『オルレアンの少女』をレーグナーとホーエンゼー作曲の音楽付きで17回上演。
◆5月、ワルシャワ条約機構発足。ソ連主導の軍事同盟。


●9月4日、ベルリン国立歌劇場が再建。記念公演はコンヴィチュニーの『マイスタージンガー』でした。
◆9月8日、西ドイツ、アデナウアー首相がモスクワを訪問し、ソ連と国交を樹立。ドイツ人捕虜が帰国できるよう交渉。
◆9月22日、西ドイツ、アデナウアー首相により、「ハルシュタイン・ドクトリン」が宣言。東ドイツを国家として承認する国とは断交することを表明。これは東ドイツを経済面で破綻させ、崩壊させるための作戦で、西ドイツは実際に、ユーゴスラヴィア、キューバと断交していました(ソ連は国交を樹立したばかりなので除外)。
◆11月、西ドイツ、ドイツ連邦軍の正式発足に伴い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟。再軍備の準備は1950年からおこなわれていましたが、長年のフランスの反対で時間がかかりました。
◆東ドイツ、食糧配給制。

1956年(26〜27歳) ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師

●ケーゲル指揮ライプツィヒ放送合唱団とライプツィヒ放送交響楽団員によるダラピッコラの『囚われ人の歌』で、レーグナーがピアノを担当。もう一人のピアノはマンフレート・ライネルト。
●東ドイツの放送新拠点、フンクハウス・ナレーパシュトラーセの本格的な運用が開始。東ベルリンの名所としても知られる巨大な放送センターは、約135,000u(東京ドームの約3倍)の広大な敷地に1950年代初頭から工場改修や新築などによって施設運用がおこなわれるようになり、やがて4つの放送局を収容。5,000人以上の人々が働く放送や録音制作の拠点として、1991年、ドイツ統一の翌年まで大きな役割を果たすことになります。


●ベルリン放送交響楽団の新拠点、フンクハウス・ナレーパシュトラーセの大ホール「SRK1」の使用が開始。SRKは国家放送委員会の略。


◆3月、東ドイツが再軍備を開始。志願制の人民軍を創設。前年11月の西ドイツ再軍備に対応して1月に法制化されたもので、ワルシャワ条約機構にも加盟。
●5月29日、アーベントロート、イェーナで客死。
◆10月、ハンガリー動乱。ハンガリーの共産主義政権に対して蜂起した市民たちを制圧すべくソ連が軍事介入。市街戦の様相を呈した「ハンガリー動乱」は、死傷者1万7千人という犠牲を出し、難民の数も20万人とも言われる大惨事。ウィーン郊外の収容施設には、膨大な数の難民が受け入れられ、中には音楽家たちも数多く含まれていました。


◆東ドイツ、食糧配給制。

1957年(27〜28歳) ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師

◆東ドイツ、食糧配給制。

1958年(28〜29歳) ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師、ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者

◆5月、東ドイツの食糧配給制が廃止。食糧事情が安定。
●レーグナー、「ライプツィヒ放送大管弦楽団」の首席指揮者に就任(1962年まで)。ヘルベルト・ケーゲル[1920-1990]が1949年から1953年まで首席指揮者を務めていたオーケストラで、レーグナーの後任はアドルフ・フリッツ・グール[1917-1977]。グールは1977年1月に急死するまで14年間に渡って「ライプツィヒ放送大管弦楽団」の首席指揮者を務めましたが、彼の死から間もなく、オーケストラは「ライプツィヒ放送エンターテイメント管弦楽団」に吸収されています。
 なお、「ライプツィヒ放送大管弦楽団」は、よく「ライプツィヒ放送交響楽団」と混同されていますが、まったくの別団体です。ケーゲルとレーグナーが両方のオーケストラと密接な関係があったため、混乱を招いている面もあるようです。


1959年(29〜30歳) ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者

●レーグナー、結婚。相手は1936年ライプツィヒ生まれの歌劇場所属ソプラノ歌手、ジークリンデ・ヤーン。レーグナーとのあいだに2人の子供をもうけます。レコーディングには、スイトナー指揮するデッサウのオペラ『アインシュタイン』に参加したものがありました。
●4月、レーグナー、デーネシュ・コヴァーチの伴奏でモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを演奏。コヴァーチはハンガリー国立歌劇場のコンサートマスター。ライヴ録音。
●レーグナー、ライプツィヒ放送室内管弦楽団。ボッケリーニ:セレナータ。

1960年(30〜31歳) ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者

◆9月、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第一書記であるヴァルター・ウルブリヒト[1893-1973]が、初代の「国家評議会議長」に就任。ウルブリヒトは、党の第一書記は1971年に健康問題を理由に辞任させられるものの、「国家評議会議長」には1973年に亡くなるまで留まっています。

1961年(31〜32歳) ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者、ベルリン国立歌劇場常任指揮者

●レーグナー、ライプツィヒ放送大管弦楽団。J.シュトラウス『もろびと手をとり』。
◆春、東ドイツの経済が急速に悪化。
◆5月、東ドイツ、バターと肉が配給制に。
◆6月15日、ウルブリヒト議長が議会で壁を建設するつもりはないと発言。
◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。
◆8月13日、東ドイツ、ホーネッカーの指揮で「ベルリンの壁」の建設を開始。1952年からフェンスと警報装置が備えられ、国境警備もおこなわれていた西ベルリンと東ドイツの境界線に、頑丈なコンクリートの壁と有刺鉄線を設置。幅広い分離帯も設けて障害物を置いたほか、地雷を埋めたりもして、東ドイツから西ベルリンへの越境を阻止するために莫大な国費が投じられます。
 ちなみに東ドイツ建国からこの1961年までの約11年間に、累計約360万人の東ドイツ人が西ドイツに移り、累計約50万人の西ドイツ人が東ドイツに移っています。当時の東ドイツの人口は約1,700万人で、移住者の多くは生産年齢に該当したため、東ドイツ経済を押し下げ、西ドイツ経済を押し上げるのに十分な数でした。また、東ベルリンと西ベルリンの相互移動に問題がなかった時期には、物価や賃金水準の違いによって生じた往来人口は1日あたり約50万人に達しており、東側からの物品流出や、東側通貨弱体化の要因ともなっていました。
 なお、「ベルリンの壁」建設後に脱出に成功した人の数は約18万人で、これに合法的に西ドイツに移住した約72万7千人を加えると、「ベルリンの壁」建設後の流出人口は約90万7千人となります。合法的転出者の多くは高齢者でした。下の画像、ブランデンブルク門のある左側が東ベルリンで、右側が西ベルリンとなります。


●ベルリン国立歌劇場、「ベルリンの壁」の影響で運営の危機。ベルリン国立歌劇場の出演者や関係者には、西ドイツやオーストリアなど西側諸国から来る人も多く、また、東ドイツ人であっても、住居は西ベルリンというケースも割と一般的だったため、一晩で「ベルリンの壁」が築かれた影響には深刻なものがありました。
 劇場に来ることが難しくなった指揮者、歌手、オーケストラ楽員、合唱団員、バレエ団員、舞台関係者はかなりの数にのぼり、東ドイツ政府は、急遽、他の歌劇場の歌手や、オーケストラの楽員、合唱団員、東ドイツの4つの音楽学校の卒業生、バレエ学校の卒業生をベルリンに集め、ベルリン国立歌劇場の上演水準を保つために必死の努力がおこなわれます。
 総監督(インテンダント)のマックス・ブルクハルト[1893-1977]と音楽総監督のフランツ・コンヴィチュニー[1901-1962]、常任指揮者のアルトゥール・アペルト[1907-1993]とロベルト・ハネル[1925-2009]は、東ドイツ人なので問題なかったものの、音楽総監督のホルスト・シュタイン[1928-2008]と、常任指揮者のハンス・レーヴライン[1909-1992]の2名は職務継続が難しくなり、レーヴラインはフランクフルト歌劇場の第1指揮者に転身、ホルスト・シュタインも1963年にマンハイム国立劇場の音楽総監督に就任することを決めています。
 ベルリン国立歌劇場は、「レパートリー・システム」で運営される劇場の為、数多い演目を、不連続で複数回に渡って上演するという運用形態になっており、経験豊富な指揮者の存在は不可欠とあって早急な人材確保が必要とされていました。
 そこで音楽総監督のコンヴィチュニーは、自身のもうひとつの重要拠点であるライプツィヒで活躍していた3人の指揮者、ハインツ・フリッケ[1927-2015](ライプツィヒ市立歌劇場)、ヘルムート・ザイデルマン[1901-1962](ライプツィヒ市立歌劇場)、ハインツ・レーグナー(ライプツィヒ放送大管弦楽団)を呼ぶことにします。
 フリッケとザイデルマンは歌劇場勤務で指揮者が複数いたためすぐに移って、12月に音楽総監督に任命されましたが、レーグナーは放送オケの首席指揮者だったのでなかなか動けず、最初に指揮できたのが1962年7月の『フィデリオ』で、コンヴィチュニーの死の2週間前のこと。その間、ザイデルマンが着任から4か月後の1962年1月17日に急死しており、劇場は、多くの常任、客演指揮者が登場して運営されていたというのが実情でした。
 レーグナーは1962年9月のシーズン開始から移ることができ、12月にはベンツィン文化大臣から音楽総監督に任命。当時のベルリン国立歌劇場は、1955年の再建オープンから規模が大掛かりになっていたことから、音楽総監督を複数置くことを可能としており、下記のメンバーで東ドイツ時代を乗り切っています。

1955-1958 コンヴィチュニー/マタチッチ/シュタイン
1958-1961 コンヴィチュニー/シュタイン
1961-1962 コンヴィチュニー/フリッケ/ザイデルマン
1962-1962 コンヴィチュニー/フリッケ
1962-1964 フリッケ/レーグナー
1964-1971 スイトナー/フリッケ/レーグナー
1971-1974 フリッケ/レーグナー
1974-1990 スイトナー/フリッケ


「ベルリンの壁」直後、1961年秋からのシーズンを支えたのは音楽総監督のほか、常任指揮者と客演指揮者で、1960年シーズンから継続指揮のアペルトとハネルに加え、レーグナーと似た名前のハインツ・レットガー[1909-1977](デッサウ州立劇場)、朝比奈隆[1908-2001](大阪フィルハーモニー交響楽団)、チャールズ・マッケラス[1925-2010](イングリッシュ・ナショナル・オペラ)、ヘルムート・コッホ[1908-1975](ベルリン室内管弦楽団)、ヘルベルト・ケーゲル[1920-1990](ライプツィヒ放送交響楽団)、ハンス・アウエンミュラー[1926-1991](ノルトハルツ市立劇場)のほか、ルドルフ・ノイハウス[1914-1990](ドレスデン国立歌劇場)、ゲルハルト・プフリューガー[1907-1991](ワイマール・ドイツ国民劇場)、カール・シューベルト[1906-2006](シュターツカペレ・シュヴェリーン)、ホルスト・フェルスター[1920-1986](ハレ国立フィル)、アーセン・ナイデノフ[1899-1995](ソフィア国立歌劇場)、ゲルハルト・アウアー[1925-2002](スロヴァキア国立歌劇場)、ルドルフ・ヴァシャタ[1911-1982](スメタナ劇場[プラハ国立劇場])、ルスラン・ライチェフ[1919-2006](ソフィア国立歌劇場)、ヴィルモス・コモル[1895-1971](ハンガリー国立歌劇場)、等々、多くの国の指揮者が実務に携わっています。

 その後、1963年には総監督が演劇畑のマックス・ブルクハルト[1893-1977]から、元チェンバロ奏者で、ドイツ社会主義統一党(SED)のハンス・ピシュナー[1914-2016]に代わって劇場としての力が強まり、1964年にはオトマール・スウィトナーがドレスデン国立歌劇場から転身して音楽総監督に就任、人気を博すようになります。ピシュナーは21年間総監督に在任。それ以前にも、ベルリン放送局音楽局長、文化省音楽部長など要職を歴任。
 やがてスイトナーは1971年、ウルブリヒト体制からホーネッカー体制に切り替わったのを機に、西ベルリンでの子供の誕生もあってか、N響客演などコンサート指揮者としての活動に軸足を移してベルリン国立歌劇場を離れたため、フリッケとレーグナーの2人が音楽総監督を務めるようになります。そのレーグナーも、2年後の1973年には、病床のロルフ・クライネルトに代わってベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任しますが、ベルリン国立歌劇場での音楽総監督としての指揮は翌年まで継続、しばらくは兼務で忙しい状態が続きます。
 なお、スウィトナーは1974年にベルリン国立歌劇場音楽総監督に返り咲き、以後、1990年にパーキンソン病で引退するまで在任していました。
 下の画像は再建されたベルリン国立歌劇場で、以前の建物とは屋根の上部などが違っています。また、右隣に見える聖ヘートヴィヒ大聖堂も爆撃で上部構造物が破壊されてシンプルになっています。ちなみに、ベームやクリュイタンス、マルケヴィチ、ケンペ、フリッチャイ、フォルスターなどと大量のレコーディングをおこなっていた聖ヘートヴィヒ大聖堂合唱団の録音が急に少なくなってしまったのも「ベルリンの壁」が原因でした。



◆9月15日、「国境警備隊」が人民軍に編入。越境者の監視任務につき、必要な場合は、越境者が分離帯に入った時点で銃撃などで対応。監視塔は約300設置されることになり、200人近くが射殺されています。

1962年(32〜33歳) ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者、ベルリン国立歌劇場常任指揮者→音楽総監督

◆1月、東ドイツ、兵役を義務化。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』。
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ウィンザーの陽気な女房たち』、『フィデリオ』。
●10月18日、ライプツィヒ放送合唱団の首席指揮者、ディートリヒ・クノーテが解任。理由はフンクハウスでおこなわれた建国記念式典で、国歌が歌われる前に、(式次第を把握していなかった)クノーテが、合唱団と共にその場から去ってしまったというものです。その後、クノーテはタクシー・ドライバーや、バレエ学校の練習ピアニストとして働き、1966年にベルリン・ジングアカデミーの副指揮者となって合唱界に復帰。ベルリン国立歌劇場音楽総監督のレーグナーが指揮するシュターツカペレ・ベルリンの合唱コンサートでの共演も繰り返しおこなっています。レーグナーは、ライプツィヒ放送大管弦楽団の首席指揮者として、クノーテとは4年間の共演実績がありました。クノーテはその後、1975年にコッホが亡くなると首席指揮者に昇格し、1982年にはライプツィヒ放送合唱団の首席指揮者となって1993年まで在任し、レーグナーと35年間に及ぶ共演を重ねています。


●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、祝祭コンサート。
◆10月、キューバ危機。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ばらの騎士』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『フィデリオ』、『後宮からの誘拐』、『ばらの騎士』。
●12月13日、DEFA制作のTVドラマ『フェッツァーの脱出』が放映。東ドイツから西ドイツに脱出するという筋書きが、ウルブリヒト国家評議会議長夫人のロッテに問題視され激しく糾弾されて再放映は中止、さかのぼって元ネタになった1959年のレーグナー、シュライヤー、ライプツィヒ放送合唱団らによる放送オペラのテープも消却されていました。内容は、共産主義的なものですが、前年に「ベルリンの壁」が建設されたばかりで、脱出とそのための殺人や帰還のための赦しが簡単に描かれ過ぎているのが問題とされたのかもしれません。


●12月25日、レーグナー、ハンス・ベンツィン文化大臣より音楽総監督に任命。
●レーグナー、ライプツィヒ放送大管弦楽団。ドヴォルザーク5番。ライヴ収録。

1963年(33〜34歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、総監督(インテンダント)のマックス・ブルクハルトが退任し、文化副大臣のハンス・ピシュナーが着任。ピシュナーは晩年のクレンペラーと親交のあった人物。
●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『ばらの騎士』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『マイスタージンガー』、『蝶々夫人』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ばらの騎士』、『後宮からの誘拐』、『フィデリオ』、『マイスタージンガー』、『アイーダ』、シンフォニー・コンサート(未完成、田園、ほか)。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『マイスタージンガー』、『ばらの騎士』、『後宮からの誘拐』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『後宮からの誘拐』、『ばらの騎士』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ばらの騎士』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『アイーダ』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『ばらの騎士』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『アイーダ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『ばらの騎士』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』、シンフォニー・コンサート(ツェヒリン)。
●レーグナー、ヴェツィヒ、ベルリン放送響。ハイドン:オーボエ協奏曲、R.シュトラウス:オーボエ協奏曲。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1964年(34〜35歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『こうもり』、『ナブッコ』、『ばらの騎士』、『ドン・ジョヴァンニ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、リート・リサイタル伴奏。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『こうもり』、『ばらの騎士』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『ナブッコ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『ナブッコ』、『フィデリオ』、『こうもり』、『ばらの騎士』、リート・リサイタル伴奏。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『ナブッコ』、『こうもり』、『ばらの騎士』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『ばらの騎士』、『ナブッコ』、『こうもり』、『ばらの騎士』、『後宮からの誘拐』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『フィデリオ』。
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ばらの騎士』、『ナブッコ』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『アイーダ』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』
◆10月、フルシチョフ死去。
◆10月、ウクライナ生まれのロシア人ブレジネフが最高指導者に。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』
◆11月、東ドイツ、退職年齢者(男65歳・女60歳)のみ西ドイツ訪問を許可。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『アイーダ』、『ナブッコ』、『こうもり』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。

1965年(35〜36歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『こうもり』、『蝶々夫人』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『ばらの騎士』、『こうもり』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『アイーダ』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『ナブッコ』、『こうもり』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、シンフォニー・コンサート(ケンプとのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1〜3番)、(同第4・5番、ほか)。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『アイーダ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』、『蝶々夫人』、『マイスタージンガー』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』。
●6月、レーグナー、ライプツィヒ放送響。モーツァルト30番。ライヴ録音。
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『こうもり』、『ばらの騎士』、『後宮からの誘拐』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『ばらの騎士』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、オープニング・コンサート。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』、ゾリステン・コンサート。

1966年(36〜37歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『ドン・ジョヴァンニ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『蝶々夫人』、『ナブッコ』、『リゴレット』、『こうもり』
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『マイスタージンガー』、『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』、『マイスタージンガー』、『後宮からの誘拐』
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』、『フィガロの結婚』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』、『フィガロの結婚』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『アイーダ』、シンフォニー・コンサート(シューベルト5番、マーラー4番)
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『蝶々夫人』、『ナブッコ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』、『アイーダ』、『後宮からの誘拐』、シンフォニー・コンサート(ケンプとのブラームス:ピアノ協奏曲第1番、ほか)。
●9月、レーグナー、シュターツカペレ・ベルリン。モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番(ケンプ)。ライヴ録音。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ウィンザーの陽気な女房たち』、『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』

1967年(37〜38歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ウィンザーの陽気な女房たち』、『フィガロの結婚』、『アイーダ』、『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『こうもり』、『ナブッコ』、『リゴレット』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』、『ナブッコ』、『リゴレット』、『フィデリオ』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『フィガロの結婚』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『蝶々夫人』、モンテヴェルディ生誕400周年記念スペシャル・コンサート。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『フィデリオ』、『フィガロの結婚』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、『リゴレット』。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『フィデリオ』、『リゴレット』、『蝶々夫人』。
●7月、レーグナー、ライプツィヒ放送響。モーツァルト:6つのドイツ舞曲。ライヴ録音。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、『リゴレット』、『ナブッコ』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『フィガロの結婚』、『蝶々夫人』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『フィガロの結婚』『後宮からの誘拐』、『リゴレット』、『こうもり』。
●レーグナー、ライプツィヒ放送合唱団、ライプツィヒ放送響。J.シュトラウス『ジプシー男爵』抜粋、キュンネケ『どこかのいとこ』抜粋。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1968年(38〜39歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『リゴレット』、『フィガロの結婚』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『フィデリオ』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『こうもり』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『リゴレット』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『リゴレット』、『蝶々夫人』、『ナブッコ』、シンフォニー・コンサート(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『リゴレット』、『後宮からの誘拐』。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『リゴレット』。
◆8月、チェコ民主化運動事件「プラハの春」発生。25万人から成るワルシャワ条約機構軍(ソ連、東ドイツ、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー)が、戦車2,000輌、軍用機800機の規模でチェコスロヴァキアに侵攻し、すぐに全土を占領。ピーク時の展開人数は約50万人、戦車は6,300輌に達しましたが、チェコ軍は一貫して無抵抗、武装市民による攻撃をやめさせるための展開となり、死者は武装市民側が137人、占領軍側が112名という結果。また、一般市民の国外脱出に特に制限が無かったため、人口の約0.5%にあたる7万人の市民が国をあとにしています。


●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『後宮からの誘拐』、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、『こうもり』、TVコンサート(「魔法のメロディ」、J.シュトラウス、レハール)、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●レーグナー、ライプツィヒ放送合唱団、ドレスデン・フィル。J.シュトラウス『ヴェネツィアの一夜』抜粋。フェルゼンシュタインによる短縮版を使用。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1969年(39〜40歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『リゴレット』、『蝶々夫人』、『ナブッコ』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』、『こうもり』、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)、バッハ・ツィクルス(シュライヤー)、バレエ(『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『ナブッコ』、『リゴレット』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、バッハ・ツィクルス(カンタータ)、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『ドン・ジョヴァンニ』、『フィデリオ』、ハイドン『勘違いの不貞』、バレエ(『ドン・キホーテ』)。
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、ハイドン『勘違いの不貞』
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『リゴレット』、『後宮からの誘拐』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。ハイドン『勘違いの不貞』、『リゴレット』、『こうもり』。
●レーグナー、ズスケ、ベルリン放送響。ヴィクトア・ブルンス:ヴァイオリン協奏曲第1番。ベルリン国立歌劇場管弦楽団のファゴット奏者が1959年に作曲。ライヴ収録。(Nova)

1970年(40〜41歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『後宮からの誘拐』、『リゴレット』、『蝶々夫人』、ハイドン『勘違いの不貞』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『後宮からの誘拐』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、室内コンサート。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、ハイドン『勘違いの不貞』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ドン・ジョヴァンニ』、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『リゴレット』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『リゴレット』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ドン・ジョヴァンニ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、室内コンサート。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『こうもり』。

1971年(41〜42歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『フィデリオ』、ハイドン『勘違いの不貞』、『リゴレット』、『後宮からの誘拐』、『皇帝と船大工』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『皇帝と船大工』。●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『皇帝と船大工』、ハイドン『勘違いの不貞』、『後宮からの誘拐』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『リゴレット』、『後宮からの誘拐』。
◆5月、ヴァルター・ウルブリヒトが、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第一書記を辞任。後任は、エーリッヒ・ホーネッカー[1912-1994]。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、ハイドン『勘違いの不貞』、『リゴレット』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『蝶々夫人』、『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『皇帝と船大工』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『蝶々夫人』、『皇帝と船大工』、『ドン・ジョヴァンニ』、シンフォニー・コンサート(モーツァルト、ドビュッシー。病気のアルベルト・エレーデの支援のため)。
●レーグナー、ズスケ、ベルリン放送響。ヴィクトア・ブルンス:ファゴット協奏曲。ブルンスはベルリン国立歌劇場管弦楽団のファゴット奏者で作曲家。ライヴ収録。(Nova)

1972年(42〜43歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『リゴレット』、ハイドン・コンサート(ブルマイスター)。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『皇帝と船大工』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ラ・ボエーム』、『後宮からの誘拐』、『皇帝と船大工』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ラ・ボエーム』、『リゴレット』、『皇帝と船大工』。
●4月、レーグナー、ベルリン放送響。メンデルスゾーン:2台のピアノのための協奏曲(ヴェラ・レイスコワ、ウラディーミル・レイシェク)。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』、ハイドン『勘違いの不貞』。
◆6月、「ベルリン協定」が発効。前年に連合国4各国の外相らにより同意されていたもので、西ドイツとベルリンの間の交通・通信の十分な確保と、西ベルリンから東ドイツへの入国も認めるというソ連の決定、および米英仏による西ドイツと西ベルリンの連携が決定。四半世紀以上に渡って東西緊張の場となっていたベルリンの状況が改善した「通過交通協定」。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ジュリアス・シーザー』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『リゴレット』、『ラ・ボエーム』、『皇帝と船大工』、『フィガロの結婚』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィガロの結婚』、『ラ・ボエーム』、『後宮からの誘拐』、ガイスラー『こわれがめ』。
●10〜11月、レーグナー、ベルリン放送響。アイスラー:組曲第2・3・4番、小交響曲。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィガロの結婚』、『後宮からの誘拐』、『皇帝と船大工』、ガイスラー『こわれがめ』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ラ・ボエーム』、『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』。
◆12月、「東西ドイツ基本条約」が東ベルリンで署名されて締結。1973年6月に発効。

1973年(43〜44歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督、ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、ガイスラー『こわれがめ』、『フィガロの結婚』、『リゴレット』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、ガイスラー『こわれがめ』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、ガイスラー『こわれがめ』、『リゴレット』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、ガイスラー『こわれがめ』、バッハ・ツィクルス。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』、『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』、『ラ・ボエーム』。
◆6月、「東西ドイツ基本条約」発効。緊張の緩和。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、ガイスラー『こわれがめ』。
●7月5〜9日、レーグナー、シュターツカペレ・ドレスデン。ブラームス:大学祝典序曲、ハンガリー舞曲集。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●7月11〜14日、レーグナー、ツォフ、シュターツカペレ・ドレスデン。ディッタースドルフ:ハープ協奏曲、ヘンデル:ハープ協奏曲、フランセ: ハープとオーケストラのための六楽章の詩的な遊戯。ドイツ・シャルプラッテン録音。
◆9月、東西ドイツ、国際連合に加盟。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●12月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト:序曲 D.648。ライヴ収録。(Weitblick)。
●10月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト6番、序曲 D.470。ライヴ収録。(Weitblick)。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、ガイスラー『こわれがめ』、『後宮からの誘拐』。
●12月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト:序曲 D.556、5つのメヌエットと5つのドイツ舞曲(弦楽合奏版) D.89。ライヴ収録。(Weitblick)。
●レーグナー、ベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任。


1974年(44〜45歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督、ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『皇帝と船大工』、ガイスラー『こわれがめ』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。ガイスラー『こわれがめ』。
●4〜5月、レーグナー、ギュトラー、ベルリン放送響。トランペット協奏曲集。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ラ・ボエーム』。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。ビゼー:『アルルの女』、『子供の遊び』、『美しきパースの女』。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』。
◆10月7日、東ドイツ、建国25周年を機に憲法を改正。

1975年(45〜46歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。ガイスラー『こわれがめ』。
●12月、レーグナー、ベルリン放送響。ヴォルフ=フェラーリ:序曲、管弦楽曲集。ドイツ・シャルプラッテン録音。(+1976年1・2月)
●レーグナー、東ドイツ国家賞受賞。
●レーグナー、メゼー、ベルリン放送響。ボッケリーニ:チェロ協奏曲 G482。ライヴ収録。
●レーグナー、シフ、ベルリン放送響。ドヴォルザーク:チェロ協奏曲。ライヴ収録。
●レーグナー、ベルリン放送響。レーガー『ある悲劇の為の交響的プロローグ』、『ロマンティック組曲』。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1976年(46〜47歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●レーグナー、ライプツィヒ放送響。チレンシェク:ヴァイオリンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック。ライヴ収録。(Nova)

1977年(47〜48歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

◆東ドイツでコーヒー危機。ブラジル産コーヒーの急騰により、東ドイツ政府は外貨節約のため(石油輸入にまわすため)、コーヒーなどの嗜好品輸入を制限。国民は猛反発。これが1980年以降の東ドイツとベトナムの関係強化に直結。東ドイツの支援でベトナムはコーヒー農園の面積を14倍に拡大、コーヒー生産に関わるベトナム人も1万人増やし、病院・学校を含めた集落を建設、水力発電、灌漑システム、建設機器などにも莫大な費用を投じています。これによりベトナムは巨大なコーヒー産地へと成長。もともと東ドイツは共産圏ということでベトナム戦争では北ベトナムを支持、戦時中の1973年には、エテルナ・レーベルから、スイトナーやボンガルツ、マズア、ケーゲル、コッホらクラシックのアーティストの音源を集めた応援LPも発売されたりしていました。
●2月、レーグナー、ベルリン放送響。ワーグナー『マイスタージンガー』第1幕前奏曲、『ラインの黄金』前奏曲、『トリスタンとイゾルデ』第1幕前奏曲、R.シュトラウス『サロメ』〜「サロメの踊り」、『ばらの騎士』〜第1・2・3幕へのワルツ。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●3月、レーグナー、ベルリン放送響。デュカス『魔法使いの弟子』、エネスク『ルーマニア狂詩曲第1番』、ファリャ『火祭りの踊り』、ミヨー『世界の創造』、サン=サーンス『死の舞踏』。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●3・4・10月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト7番(ワインガルトナー編、35分ほどの曲)。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●10月11日、レーグナー、ベルリン放送響。ケルビーニ:レクイエム第1番。ベルリン大聖堂でライヴ収録。(PILZ)

1978年(48〜49歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス3番、シューベルト9番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー6番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●6月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト9番。東ベルリン、キリスト教会での日本コロムビア録音。
●9月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト2番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●10〜11月、レーグナー、ベルリン放送響。ワーグナー:交響曲ハ長調、ジークフリート牧歌。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11月4日、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス4番。ライヴ収録。(Weitblick)
●12月、レーグナー、初来日。読売日本交響楽団を指揮して第9を5回演奏。


●レーグナー、マロヴァー、ベルリン放送響。ドヴォルザーク『ジプシーの歌』。ライヴ収録。

1979年(49〜50歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

◆EMS(欧州通貨制度)設置。EEC(欧州経済共同体)加盟国間での通貨変動を年間±2.5%以内に抑制し、為替相場を安定。これにより西ドイツ・マルクが台頭。イギリスは1990年から1992年の期間のみ参加。
●レーグナー、ヴェツィヒ。ヴィクトア・ブルンス:オーボエ協奏曲。ベルリン国立歌劇場管弦楽団のファゴット奏者が1952年に作曲。ライヴ収録。
●10月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー7番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●11月、レーグナー、ベルリン放送響。ヤナーチェク『シンフォニエッタ』。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1980年(50〜51歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン放送響。シェーンベルク:5つの管弦楽曲。ライヴ収録。(Weitblick)。
●4月、レーグナー、ベルリン放送響。ヤナーチェク『タラス・ブーリバ』。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。東ベルリン、共和国宮殿コンサート。
●6月、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス1番。ライヴ収録。(Weitblick)
●6月17〜19日、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー6番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11〜12月、レーグナー、ベルリン放送響。チャイコフスキー『眠りの森の美女』抜粋。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●12月、レーグナー、ベルリン放送響。ボンテンポ:レクイエム。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1981年(51〜52歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●レーグナー、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学より、長年の指導実績から教授の称号を授与。
●1・2月、レーグナー、ベルリン放送響。マーラー6番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●2月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。シェーンベルク『ペレアスとメリザンド』、ほか。ライヴ収録(Weitblick)。
●6月、レーグナー、ベルリン放送合唱団、ベルリン放送響。ヘンデル『ザロモ(ソロモンのドイツ語版)』全曲(170分)。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●6月24日〜25日、レーグナー、読響。ベートーヴェン3番、ヴァイオリン協奏曲(藤川真弓)。
●6月28日、レーグナー、読響。ベートーヴェン3番、ピアノ協奏曲第5番(神谷郁代)。
●7月6日、レーグナー、読響。ブラームス2番、バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番、モーツァルト:オーボエ協奏曲。
●7月12,13日、レーグナー、読響。ブルックナー9番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(神谷郁代)。
●11月、レーグナー、ベルリン放送響。チャイコフスキー『白鳥の湖』抜粋。ドイツ・シャルプラッテン録音。(+1982年3月)
●レーグナー、ライプツィヒ放送合唱団、ライプツィヒ放送響。フォーレ:レクイエム。新ゲヴァントハウスのオープニング・シリーズ。

1982年(52〜53歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン放送響。ベートーヴェン序曲集。ドイツ・シャルプラッテン録音。(+1983年9月)
●2月、レーグナー、ライプツィヒ放送響。ノイエ・ゲヴァントハウスでのDDR放送シンフォニー・コンサート。
●2月、レーグナー、ベルリン放送響。東ベルリン、共和国宮殿コンサート。
●4月、レーグナー、ベルリン放送響。テオドラキス3番。ライヴ収録。(ドイツ・シャルプラッテン)
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。東ベルリン、共和国宮殿コンサート。
●8・9・11月、レーグナー、ベルリン放送響。チャイコフスキー『くるみ割り人形』抜粋。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●9月13日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番、ハイドン53番、リスト:ピアノ協奏曲第1番(中村紘子)。
●9月16日、レーグナー、読響。ラヴェル:ピアノ協奏曲(舘野泉)。
●9月22日、レーグナー、読響。ブラームス3番、モーツァルト:フルート協奏曲第2番(ゴールウェイ)、R.シュトラウス『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』。

1983年(53〜54歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー4番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●1月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
●1・10月、レーグナー、ベルリン放送響。マーラー3番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●2月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー9番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●2月9〜12日、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー9番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
◆2月14日、東ドイツのドレスデンで10万人規模の平和デモ。
●4月、レーグナー、読売日本交響楽団常任指揮者に就任。


●9月、レーグナー、「ワルシャワの秋」音楽祭に出演。
●10月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー7番。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1984年(54〜55歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●1月27日、レーグナー、読響。モーツァルト1・41番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番(花房晴美)。
●2月2日、レーグナー、読響。シベリウス2番、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(和波孝禧)。
●2月4日、レーグナー、読響。シベリウス2番、チャイコフスキー『白鳥の湖』抜粋。
●2月10日、レーグナー、読響。ブルックナー8番。
●3月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー5番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●5月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。シェーンベルク:室内交響曲第2番6。ライヴ収録。(Weitblick)。
●7月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー4番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11月、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス4番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●12月12日、レーグナー、読響。ブラームス4番、バルトーク『ハンガリー農民の歌』、ピアノ協奏曲第3番(アンドラーシュ・シフ)。

1985年(55〜56歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

◆3月、ゴルバチョフ、ソ連最高指導者に選出。ペレストロイカ(再構築、リストラクチャー)を前面に掲げて改革を推進。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー4番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●7月、ケーゲル、ドレスデン市当局より、65歳定年を理由にドレスデン・フィル首席指揮者を解任。ドレスデンの聴衆はライプツィヒと違って保守的で、ケーゲルと市当局は現代作品をめぐるプログラム構成で衝突が頻発。また、東ドイツ政府は、男性65歳、女性60歳という引退年齢に達した者は、国を去ることも推奨するほどの財政難でした。
●8月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー8番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●レーグナー、アーレンス、ベルリン放送響。ラヴェル:ピアノ協奏曲、左手の為のピアノ協奏曲。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1986年(56〜57歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

◆ゴルバチョフ、グラスノスチ(情報公開)を本格化。
●4月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
●9月19・20日、レーグナー、読響。ブラームス1番、モーツァルト『魔笛』序曲、ピアノ協奏曲第27番(ケン・ノダ)。
●9月24・25・26・28・30日、10月1・22日、レーグナー、読響。ベートーヴェン7番、『エグモント』序曲、ピアノ協奏曲第3番(神谷郁代)。
●10月13日、レーグナー、読響。ブルックナー7番、モーツァルト31番。
●10月21日、レーグナー、読響。R.シュトラウス『祝典前奏曲』。
●10月27・28日、レーグナー、読響。ベートーヴェン7番、バッハ:G線上のアリア。
●10月、レーグナー、作曲家のトーマス・ベットガー[1957- ]が、東ベルリンから西側に脱出する際、自分の妻と娘も会食に同席させて協力。

1987年(57〜58歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●1月1日、レーグナー、シャウシュピールハスでおこなわれたシュターツカペレ・ベルリンのベルリン市制750周年記念コンサートに、ザンデルリング、フリッケ、ロイター、フロールらと共に出演。ライヴ収録。
●1月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス2番。ライヴ収録。(Weitblick)
●9月22日、レーグナー、読響。ブラームス2番、R.シュトラウス『ドン・ファン』、ラヴェル:ピアノ協奏曲(セシル・リカド)。
●9月28日、レーグナー、読響。マーラー『大地の歌』(ローゼマリー・ラング、小林一男)、ベルク:ヴァイオリン協奏曲(塩川悠子)。
●10月5日、レーグナー、読響。ベートーヴェン5番、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(塩川悠子)、序曲『フィンガルの洞窟』。
●10月10〜12日、レーグナー、読響。ベートーヴェン5番、グルック『アウリスのイフィゲニア』序曲。武蔵野音楽大学ベートーヴェン・ホールでのドイツ・シャルプラッテン録音。
●10月19日、レーグナー、読響。ベートーヴェン『ミサ・ソレムニス』(渡辺美佐子、伊原直子、佐々木正利、ヘルマン・クリスティアン・ポルスター、晋友会合唱団)。
●10月26・27日、レーグナー、読響。シベリウス2番、ハイドン94番、モーツァルト:演奏会用アリアK512、513、612(ヘルマン・クリスティアン・ポルスター)。

1988年(58〜59歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●3月8日、レーグナー、読響。マーラー9番、武満徹:トゥイル・バイ・トゥワイライト。
●3月14日、レーグナー、読響。モーツァルト25、41番、ヴァイオリン協奏曲第5番(ゲアハルト・ヘッツェル)。
●5月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
●9〜10月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー:ミサ曲第2・3番、テ・デウム。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●9月27・28・29・30日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番、ピアノ協奏曲第5番(野島稔)、『プロメテウスの創造物』序曲。
●10月7日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番、ワーグナー『タンホイザー』序曲、『マイスタージンガー』〜「ニワトコのモノローグ」、『ワルキューレ』〜「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」(テオ・アダム)。
●10月9・10日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●10月14日、レーグナー、読響。ブルックナー6番、ブラームス:ピアノ協奏曲第1番(アンネローゼ・シュミット)。
●11月、レーグナー、ベルリン放送交響楽団と来日公演。
●レーグナー、シュンク、ベルリン放送響。ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲。ライヴ収録。

1989年(59〜60歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●1月13日、レーグナー、ゲヴァントハウス管に客演。ブラームス3番、チャイコフスキー『悲愴』。
◆1月15日、ライプツィヒで、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの追悼行事とデモがおこなわれ約1万4千人が参加。逮捕者80名。
●3月、レーグナー、ベルリン放送響。シェーンベルク:室内交響曲第1番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●4月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。シェーンベルク:変奏曲。ライヴ収録。(Weitblick)。
◆5月、民主化推進中のハンガリーのネーメト首相、オーストリアとの約350kmの国境線から鉄条網と警報装置の撤去を決定。
◆9月4日、ライプツィヒ、「月曜デモ」。
●9月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
◆9月、ハンガリーのネーメト首相、東ドイツとの国境を開放。約20万人の東ドイツからの転出者を受け入れたのち、西ドイツのコール首相から難民受け入れの承諾をとって出国させています。
◆9月10日、東ドイツで反体制団体「ノイエス・フォールム」が結成。ホーネッカー政権に対する反政府運動を開始。
◆9月、ホーネッカー議長、チェコとの国境を閉鎖。
◆9月25日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約8千人規模に拡大。
●9月25日、レーグナー、読響。ベートーヴェン3番、ピアノ協奏曲第2番(園田高弘)。
●9月30日、レーグナー、読響。プロコフィエフ7番、シューマン:ピアノ協奏曲(ダン・タイ・ソン)、シベリウス:トゥオネラの白鳥。
●10月2,3日、レーグナー、読響。ベートーヴェン3番。武蔵野音大ベートーヴェンホールでのドイツ・シャルプラッテン録音。
●10月9日、レーグナー、読響。ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、ドビュッシー『海』、エルガー:チェロ協奏曲(ポール・トゥルトゥリエ)、ラヴェル『ラ・ヴァルス』。
◆10月9日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約7万人規模に拡大。
◆10月16日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約10万人規模に拡大。ホーネッカー議長は軍に武力鎮圧を命じるものの、シュトレーレッツ大将は拒否。


●10月17・19日、レーグナー、読響。ブルックナー5番、ハイドン:トランペット協奏曲(ホーカン・ハーデンベルガー)。
◆10月18日、ホーネッカー議長辞任。
●10月26・27・28・30日、レーグナー、読響。ベートーヴェン5番、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、ショパン:ピアノ協奏曲第1番(小山実稚恵)。
◆11月9日、「ベルリンの壁」崩壊。
●12月、レーグナー、読売日本交響楽団常任指揮者を退任。
◆東ドイツから西側への転出者が約34万人。

1990年(60〜61歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者

●1月、レーグナー、読売日本交響楽団特別客演指揮者に就任。
◆2月、東西ドイツ通貨統合案の策定。実勢レートで4.4倍の差がある西ドイツ・マルクと東ドイツ・マルクを1:1の対等な比率で交換することで、東ドイツ国民の財産が4.4倍になるというプラン。
◆3月1日、東ドイツに「トロイハント信託公社」設立。人民の財産と称する国営企業の資産(400万人以上が働く約8,500社の資産)を、西側に売却する為につくられた組織。


◆3月18日、東ドイツの人民議会選挙で、西ドイツとの経済連携や、1対1の通貨交換を強く訴求したキリスト教民主同盟(CDU)とその同盟勢力が、48%以上の票を獲得。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト:6つのドイツ舞曲 D.820(ヴェーベルン編)。ライヴ収録。(Weitblick)。
●6月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー5番。ライヴ収録。(Weitblick)。
◆7月1日、東西ドイツの「通貨同盟」により、東ドイツのマルクを西ドイツのマルクに1対1で交換し、マルクを統合(東ドイツのマルクを廃止)。実質的には通貨価値に4.4倍(10〜20倍という見方も)の格差があったにもかかわらず、6千マルクまでは1対1で交換したため、東ドイツの物価や手数量が3倍から4倍ほどに急上昇。ドイツ・マルクの外国為替相場にも顕著に反映され、統合前に69円前後だったマルク/円は、統合により一時は94円ほどまで上昇(1.36倍!)し、輸出競争力も大幅に低下してしまいます。
◆10月3日、ドイツ統一。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)にドイツ民主共和国(東ドイツ)を編入する形で統一したため、ドイツ連邦共和国はそのままの名前で領土と人口が増え、ドイツ民主共和国が消滅したことになります。また、トロイハント信託公社による東ドイツから西側への国有資産売却のため、急速に人員解雇が進められ、7月の「通貨同盟」(東西マルク対等交換)効果による東ドイツ地域でのインフレも手伝って、東ドイツ経済が崩壊。約1,600万人の人口に対し、失業者は数百万人に達し、多くの東ドイツ人たちに深刻な影響が及びます。


●10月13日、レーグナー、読響。ブルックナー4番、ベートーヴェン:三重協奏曲(ウィーン・ベートーヴェン・トリオ)。
●10月19日、レーグナー、読響。ベートーヴェン8番、R.シュトラウス:組曲『ばらの騎士』、ほか。
●10月24-26日、レーグナー、読響。ベートーヴェン8番、ワーグナー『ローエングリン』、『パルシファル』聖金曜日の音楽。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11月20日、ヘルベルト・ケーゲル、ピストルを用いて自殺。ケーゲルは、1985年7月にドレスデン市当局と演奏会プログラムに占める現代作品の割合で揉め、ドレスデン・フィル首席指揮者の職を定年ということで解任されていますが、その後も客演は継続。1989年10月にはドレスデン・フィルの来日ツアーをまかされて外貨を獲得(同じ頃にレーグナーも来日して読響を指揮)、事態の好転も期待される状況となりました。
 もともと、ケーゲルが18年間務めたライプツィヒ放送響首席指揮者からドレスデン・フィル首席指揮者転じた最大の理由が、「マイクの前よりも聴衆の前」「海外ツアーがしやすいオーケストラ」ということで、実際、ドレスデン・フィルはそれまでに、ソ連、西欧、東欧、北欧、中東などを訪れてもいます。
 しかし、1989年10月の来日ツアーの翌月には「ベルリンの壁」が崩壊。ドイツ統一に向けての動きが加速され始めます。
 6か月後の1990年5月、ドレスデン市の重要人事(指揮者なども含まれます)を左右する「市長選」で選ばれたのは、元市民運動家で、「ドイツ・キリスト教民主同盟(CDU)」所属のヘルベルト・ワーグナーという、東ドイツ育ちながら専制政治の犠牲者追悼もおこなうほどの民主主義者で41歳の新進政治家でした。
 ケーゲルはこの20年前の1970年、ライプツィヒ市が執りおこなった葬儀式典に、市の役職者としてクルト・マズアと共に出席、重要な役回りを任されています。その葬儀はパウル・フレーリヒという政治家の死に際しておこなわれたもので、フレーリヒは、「東ベルリン暴動」での市民運動家への弾圧や、「パウリナー教会爆破事件」で知られた「スターリン主義者」の専制政治家でもありました。西ドイツでは、その「東ベルリン暴動」の発生した1953年6月17日こそ、ドイツ統一のきっかけになる日であるとして、翌1954年から1990年までの36年間に渡って「ドイツ統一の日」という国民の祝日にまで指定していたので、その「東ベルリン暴動」でライプツィヒの警官隊に射撃命令を出し、ウルブリヒト議長から称賛されたフレーリヒの名前には悪いイメージが定着。「ドイツ統一」からしばらくすると、マズアがその葬儀で重要な役回りだったことを批判する人も現れたりしています(ケーゲルは既に死去)。
 ちなみに「東ベルリン暴動」は日本だけの呼び名で、実際には東ドイツ各地で蜂起が発生したことから、海外では「1953年6月17日の蜂起」という呼称が一般的。
 そしてフレーリヒの葬儀の翌年、1971年には東ドイツが「スターリン主義者」のウルブリヒト体制から、「マルクス=レーニン主義者」のホーネッカー体制に移行しており、何の後ろ盾もないケーゲルは、自分が「マルクス=レーニン主義者」であると表明(ちなみにマズアは、ドイツ統一後、自身をクリスチャンだと語っていました)。
 以上のような状況から、もしかしたらこの1970年のフレーリヒ葬儀への出席(とワーグナー市長の存在)が、家族が出て行ってしまって鬱気味だったケーゲルのさらなる心の負担になっていたのかもしれません。
 レーグナーがケーゲル指揮ダラピッコラの『囚われ人の歌』の演奏で、ピアノを担当してから34年、その2年後にはケーゲルの後任として、レーグナーはライプツィヒ放送大管弦楽団の首席指揮者に就任。ケーゲルはレーグナーが音楽総監督を務めていた時代のベルリン国立歌劇場でもよく指揮をしていましたし、レーグナーが初来日した1978年12月の1年後にはケーゲルも初来日を果たし、以後、何度も日本を訪れていました。共にアーベントロートのもとで働いたことがあり、政党や政治団体に所属せず、レパートリーが広く、現代音楽にも強く、また、合唱指揮にも精通するなど、芸風は異なるものの共通点も多い2人でした。




1991年(61〜62歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者

◆4月、「トロイハント信託公社」総裁のデトレフ・ローヴェッターがライフル銃で暗殺。ドイツ赤軍が犯行声明を出しているものの、犯人は不明。ローヴェッターはドイツ社会民主党(SPD)のメンバーで、後任のキリスト教民主同盟(CDU)議員ビルギット・ブロイエルは、西ドイツのニーダーザクセン州経済労働大臣でした。
●11月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト8番、シェーンベルク『浄夜』。ライヴ収録。(Weitblick)。
●11-12月、レーグナー、ベルリン放送響。来日公演。モーツァルト:レクイエム、アヴェ・ヴェルム・コルプス、フリーメーソンのための葬送音楽、ヴァイオリン協奏曲第5番、ブラームス2番、ベートーヴェン9番、ヴァイオリン協奏曲、バッハ:G線上のアリア、ほか。ライヴ収録。(ドイツ・シャルプラッテン&徳間)
◆12月、ソ連崩壊。ゴルバチョフ辞任&ソ連共産党解散。



1992年(62〜63歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者

◆1月、エリツィン、貿易、価格、通貨の自由化と緊縮財政策を導入し、市場経済への移行を準備。国債も大量に発行。
◆ロシアで前年比2500%を超えるハイパーインフレ状態となり、市民生活の質が大幅に低下。GDP下落率もマイナス14.5%を記録。
◆10月、ロシアの国有資産を民間に移行できるよう株式売買制度を改革。制度を利用して新興財閥が続々と誕生。
●12月6日、レーグナー、読響。ベートーヴェン5番、ワーグナー『タンホイザー』序曲、ショパン:ピアノ協奏曲第1番(花房晴美)、スクリャービン『法悦の詩』。
●12月12日、レーグナー、読響。ベートーヴェン4番、シューマン:ピアノ協奏曲(伊藤恵)、スクリャービン『法悦の詩』。
●12月15・16日、レーグナー、読響。ベートーヴェン1・4番。ドイツ・シャルプラッテン録音。

1993年(63〜64歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者

●レーグナー、ベルリン放送交響楽団首席指揮者退任。在任期間は20年間。


1994年(64〜65歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●2月10日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番、ドヴォルザーク:交響的変奏曲、ヴァイオリン協奏曲(藤原浜雄)。
●4月25・26日、レーグナー、読響。ベートーヴェン2番、ワーグナー『ワルキューレの騎行』『ジークフリートのラインの旅』『ジークフリートの葬送行進曲』『ローエングリン』第3幕前奏曲。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●4月30日・5月1日、レーグナー、読響。ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番、ブラームス2番。
◆5月29日、元社会主義統一党中央委員会書記のエーリッヒ・ホーネッカー、チリのサンティアゴで死去。1989年の失脚後、1991年にソ連に亡命、1992年にドイツに戻され、1993年に訴追免除となったのち、娘の住むチリに渡り、翌年に肝臓がんにより81歳で死去。
●12月20・21・22・23・25・26日、レーグナー、読響。ベートーヴェン9番。20日はドイツ・シャルプラッテンがライヴ録音。

1995年(65〜66歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者


1996年(66〜67歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●2月15日、レーグナー、読響。ブルックナー7番、モーツァルト36番。
●2月22日、レーグナー、読響。メンデルスゾーン2番(緑川まり、大沼美恵子、伊達英二、二期会合唱団)、ヴェーベルン:パッサカリア。

1997年(67〜68歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●3月5・7・8日、レーグナー、読響。マーラー1番、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(トーマス・クリスチャン)。
●3月15日、レーグナー、読響。ブラームス2番、ハイドン変奏曲、R.シュトラウス:ヴァイオリン協奏曲(渡辺玲子)。
●3月20日、レーグナー、読響。ベルリオーズ『幻想交響曲』、メンデルスゾーン『フィンガルの洞窟』、グリーグ:ピアノ協奏曲(小川典子)。

1998年(68〜69歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者


1999年(69〜70歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

◆1月1日、ユーロ導入。当面は帳票上の通貨。現物の流通は2002年1月1日から。

2000年(70〜71歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●3月17・18日、レーグナー、読響。モーツァルト35番、『後宮からの誘拐』序曲、ドビュッシー『海』、ラヴェル『ボレロ』。
●3月23・24日、レーグナー、読響。ブラームス4番、R.シュトラウス『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』、ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲(前橋汀子)。

2001年(71〜72歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●12月10日夜、レーグナー、ライプツィヒで脳出血のため死去。突然の死だったということで、2002年4月19日には、ベルリン放送交響楽団とのシベリウス第2番と第6番のコンサートも予定されていました。

収録情報

CD1
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調『ロマンティック』WAB.104 (ノーヴァク版)

録音:1984年7月、東ベルリン、フンクハウス・ナレーパシュトラーセ SRK1
プロデューサー:エバーハルト・ガイガー、エンジニア:ローター・ヒューブナー

CD2
ブルックナー:交響曲第5番 変ロ長調 WAB.105 (原典版)

録音:1984年3月、東ベルリン、フンクハウス・ナレーパシュトラーセ SRK1
プロデューサー:エバーハルト・ガイガー、エンジニア:ローター・ヒューブナー

CD3
ブルックナー:交響曲第6番 イ長調 WAB.106 (ノーヴァク版)

録音:1980年6月17-19日、東ベルリン、キリスト教会
プロデューサー:エバーハルト・ガイガー、エンジニア:エバーハルト・リヒター

CD4
ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調 WAB.107 (ハース版)

録音:1983年10月、東ベルリン、フンクハウス・ナレーパシュトラーセ SRK1
プロデューサー:エバーハルト・ガイガー、エンジニア:ローター・ヒューブナー

CD5
ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調 WAB.108 (ハース版)

録音:1985年8月、東ベルリン、フンクハウス・ナレーパシュトラーセ SRK1
プロデューサー:エバーハルト・ガイガー、エンジニア:不明

CD6
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調 WAB.109 (ノーヴァク版)

録音:1983年2月9-12日、東ベルリン、フンクハウス・ナレーパシュトラーセ SRK1
プロデューサー:エバーハルト・ガイガー、エンジニア:ハインツ・イェッケル

ベルリン放送交響楽団
ハインツ・レーグナー(指揮)



商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ノヴァエス
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ

弦楽四重奏団
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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人物・団体紹介

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ブルックナー (1824-1896)

1824年:オーストリアのアンスフェルデンでヨーゼフ・アントン・ブルックナー誕生。 1845年:聖フローリアン修道院の助教師に就任。 1856年:リンツ聖堂及び教区教会のオルガン奏者に就任。 1866年:交響曲第1番完成。 1868年:音楽大学の教授に就任。 1869年:交響曲第0番完成。 1872年:交響曲第2番完成。 1873年

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