マグダ・タリアフェロ・ボックス(11CD)
フランス人の両親のもとにブラジルで生まれたタリアフェロは、カザルスに才能を見出されて13歳でパリ音楽院に留学、1等賞を得たのちにコルトーからロマン的な作品解釈の指導を受けて消化し、強靭なテクニックを活かした情熱的な表現によって独自の世界を築きあげたピアニスト。
当セットにはタリアフェロの代表的な音源をCD11枚分収録。得意のフランス物、ラテン・アメリカ物からブラームス、ベートーヴェンまで幅広い内容で、作曲者と親しかったレイナルド・アーンやヴィラ=ロボスの作品も含まれています。
名前
タリアフェロの出生名は、「マグダレーナ・マリア・イヴォンヌ・タリアフェロ」で、以下のような性格の名前となっています。
「マグダレーナ」:汎ヨーロッパ語的な固有名詞
「マリア」:汎ヨーロッパ語的な固有名詞
「イヴォンヌ」:フランス語由来の固有名詞
「タリアフェロ」:イタリア語由来の固有名詞
姓の「タリアフェロ」は、父方の祖父がイタリア人だったことで継承されたもので、イタリア語由来の名詞であることを考慮せず、そのままフランス語風に読むと「タリアフェホ」となり、これはブラジルポルトガル語の場合でも同じです。ちなみにイタリア語とスペイン語では「タリアフェッロ」、英語とドイツ語では「タリアフェロ」なので、日本での表記は英語・ドイツ語と同じということになります。
タリアフェロは最初、「マグダレーナ・タリアフェロ」の名前で活動していましたが、ある日、コルトーからコンサートのポスターには名前が長すぎると言われ、「マグダ」に短縮。しかしブラジルではこの短縮名はあまり受け入れられず、その後も「マグダレーナ」で一貫したということで、タリアフェロの名前は、ブラジルでは「マグダレーナ」、それ以外の地域では「マグダ」と記述されています。
ちなみに、タリアフェロのスペルは「TAGLIAFERRO」ですが、フランス語や英語、ドイツ語では「RR」のなじみが薄いことに配慮してか、それらの地域では第2次大戦後まもなくまでは「R」を1文字削除して「TAGLIAFERO」という名前で活動。SPレコードや、戦前のコンサート・プログラム冊子のスペルが「TAGLIAFERO」なのはそのためですが、LP時代になってからもSP復刻盤などには「TAGLIAFERO」のスペルが使用されることがありました。
なお、タリアフェロ本人はブラジル生まれなので、本来はブラジルポルトガル語がネイティヴなはずですが、フランス人の両親のもとに生まれてフランス系の学校に通っていたため、幼いころからフランス語が得意で、その後、13歳から第2次大戦までの34年間はフランスで生活。戦後も1年のうち9か月がフランス拠点、ヨーロッパでシーズンオフの3か月ほどがブラジル拠点という生活が長く続き、晩年に出版した自伝もフランス語で執筆、ブラジルポルトガル語への翻訳は別な人がおこなっていました。
ファッション・恋愛
音楽家としての実力だけでなく、容姿にも恵まれたタリアフェロは、十代前半からパリで暮らしたため、15歳ごろからは当時出版され始めていた華やかなファッション誌さながらにベルエポックなどの影響も受けた格好をすることもありました。
やがて行動的なボブやマルセルといったヘアスタイルで、音楽ビジネスの世界で活躍するようになると、男性から数多くの誘いもあったようです。しかしタリアフェロは、12歳の頃には修道女願望もあったというほどの真面目な気質も持ち合わせており、さらに練習、本番、ツアーという日々にやがて教職も加わって多忙だったことで、そうした誘いにはあまり応じなかったようです。
長く付き合った最初の恋人は、ツアーなどで数多く共演した16歳年長のヴァイオリニストで指揮者のジュール・ブシュリ[1877-1962]。10年間恋愛関係にありましたが、その後も仕事などで交流が継続。1940年にタリアフェロがフランスを離れた際には、パリ郊外にあるタリアフェロの自宅をブシュリに使わせており、ブシュリはそこでユダヤ人音楽家たちを匿い、元弟子のヴァイオリニスト、ドゥニーズ・ソリアーノ[1916-2006]と一緒に彼らの世話をしていました。タリアフェロの共演仲間でもあったソリアーノは、その後、40歳になった1956年に、79歳のブシュリと結婚しています。
結婚・破局・破産
タリアフェロの最初の結婚相手は、コルトーらが設立した「エコール・ノルマル音楽院」の不動産協会のアンドレ・B会長。アンドレ・Bの先妻は、コルトーに夢中になるものの、相手にされなかったため自殺してしまった人物。タリアフェロはコルトーを通じてアンドレ・Bと知り合い、ほどなく結婚していますが、先妻の娘たちはタリアフェロを嫌っており、さらにアンドレ・Bとの関係も悪化。そこにタリアフェロの実の母ルイーズの死とドイツとの戦争が重なり、タリアフェロは、フランス外務省のプロパガンダ・ツアーに参加し、アメリカに向けて旅立つことになります。
その後、フランスがドイツに占領されたため、タリアフェロはブラジルに行き、アンドレ・Bに対して離婚手続きを要求。
タリアフェロの再婚相手は、戦前のギリシャ・ツアーで知り合い、戦時中にブラジルで再会、ほどなくペトロポリスで結婚することになる農学者のヴィクトル・コン。パリで不動産の知識を得ていたタリアフェロは、自分の資産運用をヴィクトルにまかせ、ブラジルのスイスとも呼ばれる標高1,600メートルの「カンポス・ド・ジョルダン」の不動産などに投資させますが、ヴィクトルは全財産を失ったばかりか大きな損失を出し、そのままタリアフェロのもとを去ってしまいます。10年ほどの結婚生活でした。以後、タリアフェロは負債の返済のために懸命に働くことになります。
芸風
父パウロがピアノと声楽の両方を教えていたこともあって、タリアフェロは歌もうまかったようで、ワグネリアンのコルトーの影響でワーグナーのオペラに接してからは歌うことも真剣に考えるようになり、実際にコルトーと一緒にリサイタルを開いたりしましたが、残念ながら喉があまり丈夫ではなかったのと、ピアノほどにはうまくいかなかったので、その後はピアノに専念しています。しかし、歌への取り組みがタリアフェロのピアノ演奏に与えた影響は大きかったようで、繊細な抑揚や効果的なルバート、自然に息づく美しいフレージングなどのカンタービレな要素はそうした影響の表れかもしれません。
タリアフェロの代表作とも言われるサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番『エジプト風』で聴かせる大胆で濃厚な表現は、古典的演奏スタイルの擁護者でもあったサン=サーンスの名技的作品を、徹底してロマン的に演奏したもので実にユニーク。タリアフェロの芸風を最もわかりやすく示したものといえると思います。
恩師コルトーは、サン=サーンスのピアノ演奏について、ペダルを使わないパキパキしたものと批判していました。タリアフェロの解釈には、そうしたコルトーの見解を擁護するような印象もあり、どんな音にも意味を探るというコルトーのロマン的演奏スタイルからの影響が、情熱的で名技的なアプローチに含意され、タリアフェロならではの演奏として結実しています。
勲章
タリアフェロの若い頃は、女性に参政権が認められないなど、まだまだ世界的に女性差別(=男性保護)が横行していた時代でした(ブラジル女性参政権:1932年、フランス女性参政権:1945年)。しかしタリアフェロは、早くも1928年にレジオンドヌール勲章を授与され、以後もその演奏家や教育者としての実績が評価されて多くの勲章を授与されることになります。主なものは以下のような感じです。
1928年:フランス、レジオンドヌール勲章(5等)
1937年:フランス、レジオンドヌール勲章(4等)
1952年:フランス、レジオンドヌール勲章(3等)
1961年:フランス、芸術文化勲章(2等)
1973年:ブラジル、リオ・ブランコ勲章
1974年:フランス、国家功労勲章(2等)
1979年:フランス、国家功労勲章(1等)
世界的な活躍
パリを中心に世界的に活動していたタリアフェロは、協奏曲演奏でオーケストラと共演することも多く、モントゥー、ミュンシュ、パレー、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ピエルネ、アンセルメ、ストコフスキー、マゼール、バルビローリといった指揮者陣や、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ管弦楽団、ニューヨーク・フィル、スイス・ロマンド管弦楽団などという一流オケとの共演経験も多数でした。
早くからピアニストとしてソロや室内楽、協奏曲などの実演で活躍していたタリアフェロは、レコーディングもSP時代からおこなっています。しかし1937年にパリ音楽院で教えるようになり、さらに戦争が始まってブラジルに渡ってからは夫の不動産投資の失敗もあって、収入の安定する教育者の仕事の比率を増やしたため、レコーディングの仕事は減少、さらにアメリカの大手マネジメントに所属しないと国際的な成功は難しいという第2次大戦後にクラシック演奏家の置かれた実演環境(≒録音環境)の問題もあり、知名度・実力の割にレコーディングに恵まれないという面もありました。
しかしたとえば国際コンクールの審査員という、集客要素の絡まない実績重視の人選には対象となることも多く、ショパン国際コンクール、チャイコフスキー国際コンクール、エリーザベト王妃国際コンクールなどに参加。
また、フォーレやシュミット、ラヴェル、アーン、ヴィラ=ロボス、プーランクといった作曲家との交流のほか、ホロヴィッツなど多くのアーティストとも親しくしていました。
【年表】
1815年
◆「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」成立。
1816年
◆フランスの大規模な文化使節団がブラジルに招聘。以後、芸術やファッションの分野に大きな影響を及ぼすことになります。ブラジル文化は長く宗主国だったポルトガル文化の影響下にありましたが、莫大な投資などにより経済的な結びつきも強かったイギリス文化からの影響も大きく、そこに第3の勢力としてフランス文化が登場。芸術分野中心にフランスと文化交流、フランスからの労働人口流入や移民も増えていきます。
1822年
◆ブラジル独立。帝政による「ブラジル帝国」成立。
1888年
◆ブラジル、奴隷解放。
1889年
◆ブラジル、共和制に移行。「ブラジル合衆国」成立。
1893年(0歳)
●1月19日、タリアフェロ、ブラジルの避暑地ペトロポリスで誕生。出生名は、「マグダレーナ・マリア・イヴォンヌ・タリアフェロ」。同地に休暇で長期滞在していた両親は共にフランス人。パリで生まれた父パウロは、父親がイタリア人、母親がフランス人で、「パウロ・タリアフェロ」という姓名はイタリア語の固有名詞。
父パウロはパリ音楽院で、同じくイタリア系フランス人のラウール・プーニョ[1852-1914]らに師事してピアノを学ぶ一方で、技術職の勉強もし、フランス政府の仕事に就いてブラジルに派遣。その仕事が終わったあともブラジルに残る道を選択し、サンパウロ音楽院で音楽の勉強を継続したのちピアニスト、声楽家としても活動。しかし安定した収入を得るために、サンパウロの自宅でピアノと歌を教えて生計を立てるようになります。
母ルイーズ(旧姓:エルゲンレーダー)はドイツ系のフランス人。
タリアフェロの生地ペトロポリスは、標高800メートルの高原の都市で、夏の1月でも平均気温は最高27度、最低19度と快適。当時の首都リオデジャネイロ近郊のためかつては皇帝の離宮があり、帝国崩壊後も各国の大使館などが置かれた穏やかで美しい街。
ペトロポリスは標高800メートルの高原都市なので、列車は平地からかなりの勾配を登ることになり、当時は蒸気機関車3両を使用していました。
休暇が終わるとタリアフェロ家は、サンパウロに戻ります。当時のサンパウロは、本格的な国策移民が始まって十数年という状況。人口もまだ10万人ほどでしたが、ブラジルの中では過ごしやすい標高約760メートルの高原ということで、大がかりな都市建設と共に人口は爆発的に増加していきます。
1894年(1歳)
1895年(2歳)
1896年(3歳)
1897年(4歳)
1898年(5歳)
●タリアフェロ、父からピアノを学び始めます。
1899年(6歳)
1900年(7歳)
1901年(8歳)
1902年(9歳)
●タリアフェロ、サンパウロのインターナショナル・クラブでモーツァルトのピアノ協奏曲第20番を演奏。
1903年(10歳)
●タリアフェロ、カザルスに紹介。南米ツアー中のパブロ・カザルス[1876-1973]に、父親がタリアフェロの演奏を聴かせたところ、26歳のカザルスはその実力を認め、パリ音楽院への入学を勧めます。
1904年(11歳)
●タリアフェロ、アルゼンチン、ウルグアイ・ツアー実施。
1905年(12歳)
●10月、タリアフェロ、通学していたサンパウロのシオン・カレッジを父により退学させられ、音楽家としての教育が本格化。当時のシオン・カレッジは、修道女が運営するフランス式の学校で、上流階級の子女を対象に教育を実施。タリアフェロ本人も修道女になりたいと思うようになっていたため、父が辞めさせることに。
◆12月9日、フランスで政府により政教分離法公布。フランス政府と地方公共団体の宗教予算は全て廃止され、聖職者の政治活動も禁止、宗教的儀式での公的性格も否定され、以後、信仰は私的なものに限定されることとなり、教育機関からの教会関係者の排除方針も決定。教会財産の管理と組織運営は信徒会の管轄となり、売却なども自由化。
1906年(13歳)
●タリアフェロ家、父の病気をフランスの専門医に診てもらうため、パリに転居。
●父パウロ、タリアフェロをパリ音楽院に入学させるために、かつての師ラウル・プーニョを訪ねて、パリ音楽院女子クラス教授のアントナン・マルモンテル宛ての推薦状を依頼。プーニョはタリアフェロの演奏に感激して熱心な推薦文を書き、マルモンテルも注目するところとなります。
●タリアフェロ、パリ音楽院に入学。アントナン・マルモンテル[1850-1907]に師事。マルモンテルはタリアフェロを気に入り、「ブラジルから来た私の子猿」と呼んで特別に可愛がります。
1907年(14歳)
●7月、タリアフェロ、パリ音楽院で、満場一致のプルミエ・プリ(一等賞)獲得。タリアフェロが弾き終わった後は拍手がしばらく鳴りやまず、次の学生がなかなか開始できないほどでした。審査員にはモーリッツ・モシュコフスキ[1854-1925]や、チェーザレ・ガレオッティ[1872-1929]、イサーク・アルベニス[1860-1909]、そしてアルフレッド・コルトー[1877-1962]などもいました。タリアフェロはこの勝利によって、当時最大のグランド・ピアノを贈られたほか、パリの有名ホール「サル・エラール」でバッハ・リサイタルも開催することができました。
●7月23日、アントナン・マルモンテル、56歳で急死。
●タリアフェロ、マルモンテルに変わる教師を探そうとしますが、心配性のラウル・プーニョが、彼女がほかのピアノ教師に連絡することを禁じてしまいます。しかしプーニョ本人はレコーディングや、ナディア・ブーランジェとのコンサートに忙しかったりで時間がとれず、結局、プーニョがレッスンをすることはありませんでした。
●コルトー、マルモンテルの後任として、パリ音楽院ピアノ科女子クラスの教授に任命。
●タリアフェロ、パリ音楽院で、コルトーに師事。大きな影響を受け、コルトーの自宅にも頻繁に遊びに行き、コルトーの妻や2人の娘とも親しく交流。また、コルトー、カザルス、ティボーとの4人でテニスに興じることもありました。
1908年(15歳)
◆1月、エッフェル塔から初の長距離無線送信。
●タリアフェロ、パリ音楽院のリュシアン・カペーの室内楽クラスに参加。室内楽の演奏について学ぶ一方で、カペーから気に入られ、カペー四重奏団のツアーにも同行。
●タリアフェロ、パリ音楽院院長のガブリエル・フォーレ[1845-1924]に招かれてフランス・ツアーに同行。2台ピアノのコンサートでフォーレと共演。
1909年(16歳)
1910年(17歳)
◆1月、パリ大洪水。長雨でセーヌ川の水位が8.6メートル上昇し、2か月に渡ってパリは洪水状態に。
1911年(18歳)
1912年(19歳)
1913年(20歳)
1914年(21歳)
◆5月、ドイツがフランスとベルギーに対して宣戦布告。
◆8月、フランスがオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告。
◆11月、フランス、イギリス、ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告。
1915年(22歳)
◆5月、イギリスの豪華客船ルシタニア号がドイツ軍のUボートにより撃沈。乗員・乗客1,959名のうち、61%にあたる1,198名が死去。また、アメリカ人乗客に関しては139名中128名、死亡率92%という状況でした。これは海難事故の場合、船内の下層からの脱出が困難なことが原因と考えられます。
船内スペースの使用が限定され、上層とは生活・居住スペースが隔離されていた格安チケットの三等旅客ブロック(1,186名収容可能)の乗客は、魚雷攻撃など爆発による急速な沈没(このケースでは18分)では助かる見込みが極端に少なくなるのに対し、乗組員の多くと、上層の1等旅客&2等旅客ブロック(計1,012名収容可能)は生存確率が高くなる傾向があり、実際に船長も助かっています。仮に犠牲者のほとんどが三等旅客だったとすると死亡率は89%となり、アメリカ人乗客の死亡率と近いものとなります。
なお、この魚雷攻撃は、イギリス海軍による「海上封鎖」に対抗するためドイツ海軍が策定した「無制限潜水艦作戦」の一環としておこなわれたもので、在米ドイツ大使館によってアメリカの新聞で予告されていたほか、事件の後にはミュンヘンで攻撃成功を祝う記念メダルが発行され、さらにイギリスでは、そのコピー品が25万枚以上も販売されていました。
こうした流れもあって、アメリカの対ドイツ世論は「親ドイツ」から「嫌ドイツ」へと大幅に変化しますが、対ドイツ投融資の処理や、貿易、軍備の問題もあり、ウィルソン大統領はドイツ政府に抗議するにとどめ、宣戦布告までには約2年を要することになります。
1916年(23歳)
1917年(24歳)
◆4月、ブラジル商船が、Uボートにより撃沈。
◆ブラジル、ドイツに対して宣戦布告し、連合国側に所属。戦闘行動は無し。
1918年(25歳)
◆3月、ドイツ軍の列車砲「パリ砲」でパリへの砲撃を開始(8月まで)。パリから114キロ離れた地点から発射し、成層圏まで達する長距離砲撃で、パリへの被害は限定的でした。
◆12月1日、フランス軍、アメリカ軍、イギリス軍などによる「ラインラント占領」開始。1930年6月30日まで、11年7カ月に渡って継続。フランス軍の駐留規模は多い時で約25万人という膨大なものでした。アメリカ軍も当初は約25万人規模でしたが、すぐに約2万人規模にまで縮小しています。
1919年(26歳)
1920年(27歳)
◆2月、フランス、ドイツ領だったメーメル(現リトアニアのクライペダ)を占領(現在のドイツ国歌の歌詞でも、メーメルまではドイツのようなことが謳われたままなので、いずれは何とかするつもりなのかもしれません)。
◆3月、ルール蜂起。ドイツの工業地帯ルール地方で、左派の労働者兵士5万人ほどで組織された「ルール赤軍」が蜂起し、「ヴァイマル共和国軍」と戦闘状態になり、1か月ほどで鎮圧されます。ルール地方は3年後、フランス・ベルギー軍に占領されます。
1921年(28歳)
1922年(29歳)
◆2月、ワシントン海軍軍縮条約により、戦勝各国海軍の主力艦保有率を策定。アメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.75、イタリア1.75という数字はフランスには不満の残る数字でした。
◆10月29日、イタリアでムッソリーニ政権が成立、ファシスト体制に移行。ムッソリーニは1930年代初頭までは反ドイツ的な姿勢でした。
◆12月26日、ロンドンで、ドイツの戦時賠償支払い義務不履行が、債権各国によって認定。
1923年(30歳)
◆1月11日、フランス・ベルギー軍が、ドイツの賠償金不払い、および石炭出荷拒否を理由に、ドイツのルール地方を占領。イタリアも技術者を派遣。
◆ドイツでハイパーインフレ策実施。通貨供給量を戦前の2,000倍とすることで、戦費調達などで生じた膨大な国内債務を劇的に削減。国民生活は犠牲になるものの、レンテンマルク導入によりなんとか事態を収拾。
●タリアフェロ、ブラジル・ツアー実施。
1924年(31歳)
◆1月25日、フランス・チェコスロヴァキア相互防衛援助条約締結。
◆2月、ポアンカレ首相が財務権限も取得し、JPモルガンから借り入れ。
◆4月、連合国賠償委員会の要請で「ドーズ委員会」開催。8月に「ドーズ・プラン」が合意され、9月に発効。ドイツのハイパーインフレの原因とされたフランス・ベルギー軍によるルール地方占領を終結させると共に、占領の原因となったドイツの賠償問題をいったん白紙とし、ドイツをまず金本位制に復帰させることを目的としたアメリカ副大統領チャールズ・ドーズ主導の経済プラン。政治的問題を利用した経済プランでもあり、フランスのポアンカレ首相は猛反対するものの、イギリスがアメリカ側に付き、フランスもアメリカに大きな負債のある立場上、押し切られる形になります。
「ドーズ・プラン」では、賠償の基礎となるドイツ通貨の安定を目指してまずドイツを金本位制に復帰させ、ゴルトマルク(金兌換マルク)相場が変動した際には送金を猶予するなど外国為替市場にも配慮、金本位制復帰のための準備金を「ドーズ公債」として証券化し、JPモルガンを中心に販売(イングランド銀行も2割ほど販売)、その資金でドイツが工業生産を再開し、賠償準備ができるように決定。結果としてアメリカ資本のドイツへの莫大な投資が促進され、ヴァイマル共和政下での復興の主軸ともなって、同時にアメリカの投資家に大きな利益をもたらしてもいました。
もともとアメリカは第1次大戦途中までは、ドイツ側、英仏側の両陣営と取引しており、参戦が遅れたのもドイツへの投資の回収に時間がかかったからで(交戦状態になると財産が没収されてしまうため)、さらに参戦するとアメリカ国内に停泊中の巨大豪華客船などドイツ船を略奪して軍事利用し戦後は売却するという手法で巨額の利益をあげており、その仕上げともいえるのがこの「ドーズ・プラン」でした。
これにより、英仏がアメリカへの返済で充てにしていたドイツの賠償額がいったん棚上げと決定。さらに「ドーズ委員会」メンバーだったオーウェン・ヤングが主導し、1929年9月に適用された「ヤング・プラン」によってドイツの賠償が59年間の分割払いと決定。
これは英仏経済に大きな打撃を与えます。両国では戦後の復興事業で発生していたアメリカ業者への支払いに賠償金を充てる計画でしたが、それが自己資金に変更になったということが不安視され、輸出していたアメリカ業者の株価にも影響、翌月の株価大暴落(世界大恐慌)の引き金にもなっています。
一方で、潤沢なアメリカ投資家の資金によってドイツの工業化が進んだことで、再軍備を支援したという側面もありました。ちなみに1925年から1928年の間に、ドイツの債務は19.7%から43.7%に増加しており、これが世界大恐慌で破綻したことがナチ政権を生み出す要因にもなっていました。
◆5月、パリ・オリンピック開催。ドイツ、ソ連、東欧諸国は不参加。
◆5月、フランス政府、20%増税(最大72%)。
◆5月、フランス総選挙で左派が躍進。
◆6月、フラン切り下げ。フランス政府が戦後復興のため紙幣を大量に増刷してインフレが継続していたことが原因(インフレ率約14%)。これにより資産家の財産や海外からの投資は大きな損失を被りますが、GDPは10.3%増加。
◆イタリア政府、フランス国債の購入を禁止。
1925年(32歳)
◆4月、フランスの左派活動家(共産主義者)たちが、右派の選挙集会を銃や刃物で襲撃。4人を殺害し約50人を負傷させています。
1926年(33歳)
◆フランス政府、フラン下落に歯止めをかける名目で関税引き上げを開始し、1926年中に全品目について関税を30%引き上げ。ちなみにフランの購買力は、たび重なる切り下げで1922年から1926年にかけて57%下落していました。1915年から1920年までの戦中戦後の下落率が30%だったことを考えるとすごいペースです。
1927年(34歳)
1928年(35歳)
◆6月、レイモン・ポアンカレ首相兼財務大臣が、フランを約5分の1(!)に切り下げ。国内債務の大幅な削減と輸出条件の向上による経済再建策。
●タリアフェロ、録音。フォーレ:バラード、即興曲第3番(CD1)
●タリアフェロ、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章」(5等)授与。
1929年(36歳)
1930年(37歳)
◆「世界大恐慌」の影響が顕在化。金本位制のアメリカとフランスでの失策や、関税施策、金利施策の失敗が原因ともいわれる「世界大恐慌」には、1930年時点でのアメリカの金準備の世界シェア約38%、フランスの約20%という、2国だけで世界の6割近いシェアのもたらした国際的な資金の極端な移動も背景にありました。といっても、その5年前の1925年時点ではアメリカの金準備シェアは約44%で、5年間で6%減少という流れなのに対し、フランスは1925年には約8%だったので、実に2.5倍に膨らんでいたことになります。これによりパリではいくつもの銀行が倒産し、投資家や資産家たち、さまざまな産業も影響を受けるようになります。
◆11月、ブラジル、ジェトゥリオ・ヴァルガス[1882-1954]議員らの引き起こした軍事クーデターにより軍事独裁政権誕生。ヴァルガスが大統領となり、1945年10月29日まで15年間に渡って独裁体制を継続。
●タリアフェロ、録音。ドビュッシー:ピアノのために〜前奏曲、サラバンド、モンポウ:庭のおとめたち、ギター奏者と老馬の情景(CD1)、モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番(CD2)
1931年(38歳)
●2月、タリアフェロ、レイナルド・アーンのピアノ協奏曲を作曲者の指揮で初演。アーンはヴェネズエラ出身のフランスの作曲家。
1932年(39歳)
●タリアフェロ、録音。フォーレ:即興曲第2番、ドビュッシー:雨の庭、ピアノのために〜トッカータ(CD1)、モーツァルト:トルコ行進曲(CD2)、アルベニス:セギディーリャ、グラナドス:スペイン舞曲集第6番(CD3)
1933年(40歳)
●タリアフェロ、録音。ショパン:即興曲第1番、ワルツ第5番(CD4)
1934年(41歳)
●タリアフェロ、録音。フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番(CD1)、シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化、3つロマンス〜第2曲、アルベニス:セビリア(CD3)、ショパン:幻想即興曲(CD4)
1935年(42歳)
◆3月、ドイツ、徴兵制復活(再軍備宣言)。
1936年(43歳)
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐。
◆9月、フランス政府、フランを約28%切り下げ。金兌換停止、および金(ゴールド)の輸出も停止。
●タリアフェロ、録音。ウェーバー:華麗なロンド「ざれごと」、メンデルスゾーン:6つの子供の小品〜第4番、練習曲(CD3)、アーン:ソナチネ(CD4)
1937年(44歳)
●タリアフェロ、パリ音楽院の教授に就任。
●タリアフェロ、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章」(4等)授与。
●タリアフェロ、録音。モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第39番(CD2)、アーン:ピアノ協奏曲(CD4)
1938年(45歳)
1939年(46歳)
◆9月3日、フランスがドイツに対して宣戦布告。大規模な徴兵も実施。
●12月、タリアフェロ、フランス外務省のプロパガンダ・ツアーに参加。就航したばかりのパンアメリカン航空の大型飛行艇「ディキシー・クリッパー」により渡航。片道費用が現在の貨幣価値換算で100万円以上という富裕層向けの乗り物でした。タリアフェロはアメリカにしばらく滞在することになります。
1940年(47歳)
●3月、タリアフェロ、バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルと共演。シューマンのピアノ協奏曲。
◆5月10日、ドイツ、フランスへの侵攻を開始。前年9月にドイツに対して宣戦布告したフランスでしたが、実際にドイツ軍がフランスへの侵攻を始めたのは8か月も後のことで、油断したフランスはすぐに国防の要衝マジノ線を突破されてしまいます。慌てたフランス軍と政府は、パリ市民に対して、そのままパリに留まるよう要請したり、疎開を促したりと、混乱した情報を通告。
ほどなく市民たちも南下を始め、フランス国立放送管弦楽団など数多くの音楽家たちも南を目指すことになります。その数はごく短期間のうちに100万人を超えるという凄まじいもので、落ち着き先のフランス中部でも南部でも大きな混乱が生じることとなります。
◆5月26日〜6月4日、ダンケルクからの撤退。ドイツ軍の攻勢に押されたイギリス軍(とフランス軍)は退却を決定。約70キロほど離れた対岸のイギリスに、331,226名(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)が駆逐艦や大型船を使って退却した作戦。民間小型船も徴用され、10万人近くを浜辺から沖合の大型船まで運ぶ作業に従事。
◆6月3日、ドイツ軍、パリを爆撃。254人を殺害(ちなみにイギリス軍とアメリカ軍が第2次大戦中に爆撃で殺害したフランスの民間人は約7万人で、フランチェスカッティの弟もアメリカ軍に殺されています)。
◆6月10日、イタリアがフランスとイギリスに対して宣戦布告。
◆6月11日、フランス政府、パリから脱出。トゥール、ボルドーを経て、7月2日には巨大なカジノと数多くの宿泊施設を持つ温泉保養地ヴィシーにまるごと避難。
◆6月13日、フランス軍、パリから撤退。ペタン元帥がラジオで休戦演説。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。
◆6月15日、イタリア軍、フランスへの侵攻を開始。
◆6月16日、レノー内閣総辞職、ペタン元帥が首相に就任。
◆6月17日、ペタン元帥がドイツに対して休戦の申し入れ。
◆6月22日、独仏休戦協定締結。発効は25日。
◆6月22日、フランス、「フランス共和国」から「フランス国」となり、遷都先のヴィシーで政府が成立、アメリカ、ソ連など多くの国が国家として承認。ド・ゴールの逃亡先であるイギリスは承認せず。
◆6月24日、伊仏休戦協定締結。発効はドイツと同じく25日。ドイツとイタリアに降伏したフランスでは、国民は不自由な生活を強いられるようになりますが、当初は、湾岸部やパリなどの北部が「ドイツ軍占領地域」、南東部とコルシカ島が「イタリア軍占領地域」で、ほかはペタン元帥率いるヴィシー政府の管轄する「自由地域」となっていました。
もっとも、「自由地域」とはいっても、占領軍がいない分、フランス警察による監視への要求は厳しく、言葉が通じるだけに、ドイツとイタリアの「占領地」よりもかえって不自由だったとされるのがヴィシー政府管轄地域の都市部でもあり、ユダヤ人のクララ・ハスキルも1942年9月に警察に連行されたりしていました(すぐに釈放)。
◆7月2日、フランス政府のヴィシーへの移転が完了。
◆7月3日、イギリス海軍、チャーチルの命令により、フランス海軍戦艦1隻を撃沈、2隻を破壊。フランス兵約1,300名を殺害。
◆7月5日、フランス政府、英国との国交を断絶。
●タリアフェロ、アメリカからブラジルに渡ります。
●タリアフェロ、リオデジャネイロで、マグダ・タリアフェロ・ピアノ・アカデミーを設立。
1941年(48歳)
◆3月11日、ルーズヴェルト大統領の提案による「レンドリース法(武器貸与法)」が議会により承認。これは枢軸国と戦う国を支援するという名目こそあったものの、実際には世界大恐慌でダメージを受けたアメリカ経済を復興させるための「経済政策」でした。
あまり成果の出なかったルーズヴェルトの「ニュー・ディール政策」に較べて、「利益率がきわめて高い」という特徴を持った「武器」を経済政策に利用したことで劇的な効果をあげることができ、アメリカの軍需産業を巨大化させ、800万人を超えていた失業者問題も解決、さらに戦後には、イギリスに314億ドル、ソ連に113億ドル、フランスに32億ドル、中国に16億ドルという巨額の「リース料」も発生(現在換算では十数倍の規模)。武器のコストは実際には安いので、「リース料」の一部減免も可能となり、たとえばイギリスに対して200億ドル免除するなどして大きな「貸し」をつくることもできたというウルトラCの法案でした。
これにより、戦後のアメリカは、「武器」を各国政府に販売する方向に大きく舵を切り、世界の軍隊にアメリカ製の武器が使われるようになっていきます。
●タリアフェロ、サンパウロで、ピアノ講座開設。カパネマ大臣の要請によるもので、教育保健省によって推進。
◆12月、アメリカ、第2次大戦に参戦。
1942年(49歳)
◆5月21日、アメリカ政府、ド・ゴールの「自由フランス」をフランスの抵抗を代表する機関として承認。レンドリース法(武器貸与法)の対象に認定。
◆7月21日、「自由フランス」が「戦うフランス」と改称。
●タリアフェロ、カーネギー・ホールでリサイタル開催。
1943年(50歳)
1944年(51歳)
◆6月3日、ド・ゴールを主席とする「フランス共和国臨時政府」が、北アフリカのフランス植民地アルジェで発足。しかし承認する国はありませんでした。ド・ゴールの2人のライヴァルのうち1人が暗殺され、もう1人も暗殺を懸念して警戒していたという状況(後に暗殺未遂)がアメリカに知られていたためで、ルーズヴェルト大統領が、ド・ゴールをファシスト的だとして、実際には信用していなかったからでもあります。なお、ド・ゴールのフランス復帰はパリ解放後、安全が確保されてからのことでした。
●8月、タリアフェロの自宅(パリ郊外のブロン=マルロット)、ルクレール将軍率いる「自由フランス軍」の兵士によって略奪。同所には少し前まで、タリアフェロの元恋人ブシュリらによってユダヤ人音楽家が匿われていました。
1945年(52歳)
1946年(53歳)
◆10月、フランス共和国第四共和政発足。
◆12月19日、第1次インドシナ戦争勃発。フランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)で、1954年8月まで継続。フランス側死者約7万6千人、インドシナ側死者30万人以上。
1947年(54歳)
◆7月、アメリカ国務長官ジョージ・マーシャルが、ヨーロッパ経済の復興のための援助計画「マーシャル・プラン」を発表。翌年から1951年6月まで運用され、金額は総額100億ドル以上。ただし使途は限定され、主にアメリカ企業の機械や食料の購入が対象となるということで、アメリカ企業の国際化を支援するための経済政策と見ることもできます。また、これに対抗する経済政策としてソ連が「モロトフ・プラン」を立ち上げ、冷戦状態が大幅に進行。チェコスロヴァキアの政変も招くなどしていました。
1948年(55歳)
1949年(56歳)
◆9月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約30%切り下げ。アメリカの原料輸入の大幅削減で生じた過度のポンド売りにより、外国為替市場が閉鎖に追い込まれたことが原因。これにより多くの国が自国通貨の切り下げに踏み切ります。
・約60%:アイスランド
・約53%:オーストリア
・約47%:アルゼンチン
・約36%:南アフリカ
・約30%:デンマーク、ノルウェー、アイルランド、オランダ、スウェーデン、フィンランド、イラク、エジプト、ヨルダン、ローデシア、インド、ビルマ、セイロン、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、
・約27%:香港
・約22%:フランス
・約21%:西ドイツ
・約20%:タイ
・約13%:ポルトガル、ルクセンブルク、ベルギー
・約9%:カナダ
・約8%:イタリア
・約7%:イスラエル
●タリアフェロ、パリ。シャンゼリゼ劇場でフランスで10年ぶりの演奏会。
●タリアフェロ、パリ、マグダ・タリアフェロ国際ピアノ・アカデミーを設立。
1950年(57歳)
1951年(58歳)
◆1月、ブラジル、初の民主的選挙により、ヴァルガスが大統領に就任。3年目に拳銃自殺。
●タリアフェロ、録音。シューマン:ピアノ・ソナタ第1番(CD3)、ショパン:ワルツ第5番、アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ、ドビュッシー:月の光、モンポウ:庭のおとめたち(CD4)
1952年(59歳)
●タリアフェロ、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章」(3等)授与。
●タリアフェロ、エリザベート王妃国際音楽コンクールの審査員に選出。
●タリアフェロ、サンパウロで、コルトーと2台ピアノ・コンサート実施。
1953年(60歳)
●3月、タリアフェロ、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会をパドルー管弦楽団と2日間で実施。初日は第2・3・4番でジョルジュ・ツィピーヌの指揮、2日目は第1・5番でガストン・プーレの指揮。大成功を収めます。
●タリアフェロ、録音。シューマン:謝肉祭、サン・サーンス:ピアノ協奏曲第5番「エジプト風」(CD5)、ブラームス:間奏曲 op.118-2、奇想曲 op.116-3、間奏曲 op.117-2、奇想曲 op.76-2、間奏曲 op.76-4、ラプソディ op.79-1、ピアノ・ソナタ op.5(CD8)
1954年(61歳)
●タリアフェロ、録音。ヴィラ・ロボス:ブラジル風バッハ第8番、ブラジルの子供の謝肉祭による幻想曲(CD6)
◆5月、フランス軍、インドシナ戦争のディエンビエンフーの戦いでベトナム民主共和国人民軍に敗北。
◆5月、フランス、1887年から植民地としていたインドシナから撤退。インドシナの面積は約74万㎢とフランスより約10万㎢も広く、天然資源や農産物の交易から得られた収入は巨額。フランス国民の関心も高く、1900年のパリ万博でも植民地ブースがつくられていましたし、フランチェスカッティの故郷マルセイユでも1906年と1922年の2度に渡って、大規模な植民地博覧会を開催して成功してもいました。
◆8月、ブラジル、ヴァルガス大統領、拳銃で自殺。
◆11月、アルジェリア独立戦争勃発。1962年まで長期化した戦争で、殺されたアルジェリア独立側の兵士は約14万人、殺されたフランス側のフランス人兵士は約2万5千人、殺されたフランス側アルジェリア人兵士は約5万人、そしてアルジェリアに暮らすフランス民間人約6千人と、アルジェリア民間人70万人以上が虐殺されたと言われています。アフリカ最大級の面積を持つアルジェリアは資源も豊富でした。
1955年(62歳)
◆5月、パリ協定により、西ドイツ主権回復&再軍備開始。
◆5月、ソ連主導によりワルシャワ条約機構発足。
◆フランス領モロッコで暴動発生。
◆フランス領チュニジアで暴動発生。
●タリアフェロ、ショパン国際ピアノ・コンクールの審査員に選出。
●タリアフェロ、録音。サン=サーンス:ワルツ形式の練習曲(CD4)、ショパン:ポロネーズ第1番、第2番、第7番(CD6)、モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」(CD7)、グラナドス:「ゴイェスカス」〜燈し火のファンダンゴ、嘆きまたはマハと夜鳴きうぐいす、ヴィラ・ロボス:ブラジルの詩〜吟遊詩人の印象、奥地の祭り(CD9)、シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番(CD10)
1956年(63歳)
◆1月、選挙によりジュセリーノ・クビチェック(ミナスジェライス州知事)が大統領に就任。莫大な予算を組んで計画都市ブラジリアを建設して遷都。ブラジル経済に深刻な打撃を与え、汚職も多発、1964年の軍事クーデターの際には10年間の公民権剥奪処分となっています。
◆西ドイツで一般兵役義務法制定。
◆フランスで緊急事態法成立。予備役も動員し、25万人の軍勢でアルジェリアに越境して大殺戮を実施。
◆10月29日、スエズ戦争勃発。フランス、イギリス、イスラエルが、エジプト国内にあるスエズ運河のエジプト国有化に反対し、空母5隻と戦艦1隻からなる英仏艦隊によるエジプト領内空爆と艦砲射撃、上陸作戦を展開。フランスとイギリスから攻撃を依頼されたイスラエルも17万5千人という大規模な軍勢でエジプト領内に侵攻し、多くのエジプト人を殺害。エジプト側のイスラエル領への攻撃はハイファへの艦砲射撃くらいで、その軍艦もすぐに破壊・曳航されています。
しかし開戦から11日目には、アメリカのアイゼンハワー大統領が、侵略3国に対して撤退を要請したことで停戦が決定。
エジプト軍は兵器をチェコスロヴァキアから購入しており(下の画像はチェコスロヴァキアが生産したソ連自走砲SU-100)、チェコスロヴァキアの背後にはソ連が存在し、すでに強硬派のブルガーニン首相は、侵略3国に対してミサイル攻撃をおこなうと主張していたため、それを抑えるために、アイゼンハワーがエジプトへの支援にまわった結果でもあります。
エジプト政府は国内にあった英仏の銀行を国有化し、ヨーロッパ利権を排除することにも成功。一方、イギリスはイーデン首相が辞職し、5億ポンドの損失が原因でポンドも下落という悲惨な事態に陥りますが、フランスはイスラエルへの武器販売という強力な経済プランが軌道に乗ったという面もあり、以後、ウーラガン、ミステールに続いてミラージュ戦闘機・戦闘爆撃機が、中東での多くの人命と引き換えにフランスに多額の利益をもたらすことにも繋がっていきます。
なお、イスラエルがエジプトの制圧地域から撤退を始めたのは、なぜか翌年の3月中旬と4カ月も先のことで、スエズ運河の再開はその直後の4月ということになり、半年近く欧州関連の海上輸送に支障のある状態が続いていたことになります。その間、アメリカが国防予備船隊から、223隻の貨物船と29隻のタンカーを各方面にリースし、そこでも大きな利益を上げていました。
1957年(64歳)
●タリアフェロ、ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院でピアノ講座の担当を開始。
●タリアフェロ、パリで「マグダ・タリアフェロ国際ピアノ・コンクール」を開設。
1958年(65歳)
◆10月、フランス共和国第五共和政成立。ド・ゴールが大統領に就任。
1959年(66歳)
1960年(67歳)
◆ブラジル、新首都ブラジリアに遷都。
◆2月、フランス政府、フランス領アルジェリアで核実験を開始。以後、アルジェリア独立までに計17回の原爆実験が実施されます。また、フランス領ポリネシアでは、1996年までに原爆、強化型原爆に加え、超強力な水爆も含めて計193回の核実験を実施。アメリカ・ソ連に次ぐ核兵器大国として、周囲に睨みを利かせます。
●タリアフェロ、録音。ヴィラ・ロボス:ブラジルの詩〜奥地の祭り、吟遊詩人の印象、赤ちゃんの一族第1組曲「お人形たち」より道化人形(CD6)、ファリャ:「はかなき人生」〜スペン舞曲、「三角帽子」〜粉屋の踊り、グラナドス:「ゴイェスカス」〜嘆きまたはマハと夜鳴きうぐいす、スペイン舞曲集〜アンダルーサ、東洋風、アルベニス:「スペインの歌」〜セギディーリャ、コルドバ、スペイン組曲〜セビーリャ、「イベリア」〜エヴォカシオン、トゥリアーナ(CD9)、ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」、第5番「春」(CD10)
1961年(68歳)
◆1月、選挙によりジャニオ・クアドロス(国民民主同盟)が大統領に就任。アルゼンチンの共産主義ゲリラ、チェ・ゲバラへの叙勲を発表し、左派をアピールして約7カ月で失脚。
◆4月、フランス、退役将軍たちによるアルジェ一揆をド・ゴールが鎮圧。ド・ゴールの民族自決政策に反対する退役将軍たちが軍事政権樹立にために起こした反乱でした。ド・ゴールは長引く戦争や核兵器開発で膨らむ財政赤字対策として民族自決政策を打ち出し、世界的な植民地独立の流れに沿う道を選びます。
◆10月17日、パリ虐殺。パリ在住のアルジェリア人を対象に発令された外出禁止令に抗議する3万人のアルジェリア人による非武装デモを、1万人の警官隊が攻撃。銃撃や撲殺などにより約200人を殺害したといわれており、セーヌ川に浮かぶ多くの遺体が目撃されています。発砲を許可したモーリス・パポン警視総監は、第2次大戦中にはドイツ政府に協力してユダヤ人1,690人を引き渡したり、レジスタンス活動家や共産主義の情報をドイツに提供したとされていますが、戦後1948年にはシュヴァリエ勲章を授与、1954年にはオフィシエ勲章を授与されたのちパリ警視総監に就任し、その7年後には国民議会議員となり、1978年には予算担当大臣も務めた人物。2007年に96歳で死去。
コルトーのように占領中に音楽家として活動しただけで厳罰に処せられる者もいれば、膨大な数の人間を死に追いやってもお咎めなしで、叙勲までされ、さらに大臣にもなれる人もいるという不公平さがよく示された事件でもありました。
●タリアフェロ、録音。シャブリエ:絵画的小曲集〜スケルツォ=ワルツ、牧歌、セヴラック:ラバ引きたちの帰り、アーン:エグランティーヌの王子の夢、サン=サーンス:ワルツ形式の練習曲、ドビュッシー:ピアノのために、アラベスク第1番、アラベスク第2番、喜びの島(CD11)
●タリアフェロ、フランス政府より「芸術文化勲章」(2等)授与。
1962年(69歳)
◆8月22日、ド・ゴール暗殺未遂。パリ郊外で乗車中に機関銃で撃たれるものの頑丈なシトロエンDSのおかげで大統領夫妻らはみな無傷。暗殺を指揮したフランス空軍中佐で技術者のバスティアン=ティリーは翌年3月に処刑。
1963年(70歳)
●タリアフェロ、録音。モーツァルト:ピアノ・ソナタ第18番(CD2)、プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第3番(CD11)
1964年(71歳)
◆3月、ブラジル、軍事クーデターによりグラール政権崩壊。グラール大統領の極左化を懸念したブランコ将軍によるクーデター。
◆4月、ブラジル、カステーロ・ブランコ将軍が大統領に就任。左派勢力を抑えて親米路線をとり、市場経済への復帰を推進。
1965年(72歳)
1966年(73歳)
1967年(74歳)
◆ブラジル、アルトゥール・コスタ・エ・シウヴァ将軍が大統領に就任。同年来日。
◆ブラジル、カステーロ・ブランコ前大統領の用意した新憲法を公布。憲法により国名を「ブラジル合衆国」から「ブラジル連邦共和国」に変更。
◆ブラジル、軍事政権の強権的な政策により急激な経済成長を開始。1973年までの6年間に、GDPが毎年ふた桁の成長率を記録、輸出が19億ドルから62億ドルまで約3.3倍に急伸。外貨準備高も、2.5億ドルから64億ドルまで約26倍に急増する一方、対外債務も38億ドルから125億ドルまで約3.3倍に増加。
●タリアフェロ、サンパウロで財団を設立。後進の指導に役立てます。
◆ブラジル、軍事政権に対する左派の不満から、学生のデモや労働者の抗議集会、ストライキが各地で発生。
◆ブラジル、軍事政権反対勢力の左派過激派がゲリラ化し、サンパウロのテレビ塔も爆破。元共産党の議員、カルロス・マリゲーラ率いる「民族解放行動(ALN)」による銀行強盗やアメリカ大使誘拐事件など左派による事件やテロが多発。マリゲーラは2年後に警察が射殺。
1968年(75歳)
1969年(76歳)
◆8月31日、ブラジル、陸・海・空軍の3人の司令官による大統領職就任。重病のシウヴァ大統領に代わる10月31日までの臨時的措置。
◆10月、ブラジル、エミリオ・ガハスタズ・メジシ将軍が大統領に就任。軍事政権第3期。経済成長加速。
●タリアフェロ、来日。
1970年(77歳)
1971年(78歳)
◆12月、スミソニアン体制によりドルの切り下げ実施(対円で約14%)。1973年2月までドル固定相場制が継続し、以後は変動相場制に移行、現在に至っています。
1972年(79歳)
1973年(80歳)
◆石油危機。
●タリアフェロ、ブラジル政府より「リオ・ブランコ勲章」授与。
1974年(81歳)
◆3月、ブラジル、エルネスト・ガイゼウ将軍が大統領に就任。軍事政権第4期。ガイゼウは1964年のクーデターの中心的人物。ブラジルの石油企業ペトロブラスの社長だったことから、前年に発生した石油危機に対応すべく大統領に就任。段階的民主化プロセスも開始。
●タリアフェロ、フランス政府より「国家功労勲章」(2等)授与。
1975年(82歳)
1976年(83歳)
1977年(84歳)
1978年(85歳)
1979年(86歳)
◆3月、ブラジル、ジョアン・フィゲイレド将軍が大統領に就任。段階的民主化プロセスを継続。デフォルトを実施。
●タリアフェロ、37年ぶりにカーネギー・ホールでリサイタル開催。
●タリアフェロ、フランス政府より「国家功労勲章」(1等)授与。
1980年(87歳)
1981年(88歳)
●タリアフェロ、ダニエル・ヴァルサーノとフォーレの2台ピアノ作品を録音。
1982年(89歳)
◆アルゼンチン、メキシコ、エクアドル、ナイジェリア、トルコ、対外債務不履行(デフォルト)を宣言。
1983年(90歳)
◆ブラジル、チリ、パナマ、フィリピン、モロッコ、ザンビア、ウルグアイ、ベネズエラ、コートジボアール、対外債務不履行(デフォルト)を宣言。
1984年(91歳)
1985年(92歳)
◆3月、ブラジル、タンクレード・ネーヴェス議員(民主運動党)が間接選挙により大統領に就任。直後に病に倒れ翌月死去。
◆4月、ブラジル、ジョゼ・サルネイ副大統領(民主社会党)が代行を経てそのまま大統領に就任。累積債務対策と、1983年デフォルト後の対外信用回復に努めるものの1987年2月には中長期債務の利払い中止という状況に追い込まれ、再び国際的な信用が下落。
●8月、タリアフェロ、ポルトアレグレで最後のリサイタル。
1986年(93歳)
●9月9日、タリアフェロ、死去。リオデジャネイロのイパネマに住むマネージャーで友人のミリアム・ダウエルスベルクの自宅に滞在中、具合が悪くなり、病院に運ばれる途中の車内で午後9時、心臓発作により息を引き取ります。
●9月10日、タリアフェロの葬儀、リオ市立劇場でフォーレのレクィエム演奏と共におこなわれ、その後、サンジョアン・バチスタ墓地に埋葬。
【収録情報】
CD1
フォーレ
1.バラード op.19*
2.即興曲第3番 変イ長調, op.34
3.即興曲第2番 ヘ短調, op.31
ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調, op.13**
4.T Allegro molto
5.U Andante
6.V Allegro vivo
7.W Allegro quasi presto
ドビュッシー
ピアノのために
8.前奏曲
9.サラバンド
10.トッカータ
11.版画〜第3曲「雨の庭」
モンポウ
12.庭のおとめたち
13.ギター奏者と老馬の情景
録音:1928年11月13日(1-2),1932年7月(3&10-11),1934年(4-7),1930年3月(8-9&12-13),
Orchestre du Gramophone(*)
ピエロ・コッポラ(指揮)(*)
ドゥニーズ・ソリアーノ(ヴァイオリン)(**)
CD2
モーツァルト
ヴァイオリン・ソナタ第39番 変ロ長調,K.454*
1.T Largo.Largo
2.U Andante
3.V Allegretto
4.ピアノ協奏曲第26番 ニ長調, K.537**
T Allegro moderato
U Larghetto
V Allegretto
5.ピアノ・ソナタ第11番 イ長調, K.331〜トルコ行進曲
ピアノ・ソナタ第18番 ニ長調, K. 576
6. I. Allegro
7.U Adagio
8.V Allegretto
録音:1937年(1-3),1930年(4),1932年7月(5),1963年(6-8)
ドゥニーズ・ソリアーノ(ヴァイオリン)(*)
パドルー管弦楽団(**)
レイナルド・アーン(指揮)(**)
CD3
シューマン
ウィーンの謝肉祭の道化 op.26
1.T Allegro
2.U Romance
3.V Scherzino
4.W Intermezzo
5.X Final
6.3つロマンス〜第2曲 嬰へ長調, op.28-2
ピアノ・ソナタ第1番 嬰へ短調, op.11
7. I. Introduction:un poco adagio.Allegro vivace
8.U Aria
9.V Shcerzo e intermezzo
10 W Finale:Allegr un poco maestoso
ウェーバー
11.華麗なロンド 変ホ長調「ざれごと」 op.62
メンデルスゾーン
12.6つの子供の小品〜第4番 ニ長調 op.72-4
13.練習曲 ヘ長調 op.104b-2
アルベニス
14.セビリア
15.セギディーリャ
グラナドス
16.スペイン舞曲集〜第6番 ニ長調, op.37
録音:1934年(1-6),1951年(7-10),1936年5月(11-13),1934年7月19日(14),1932年7月(15-16)
CD4
ショパン
1.幻想即興曲 op.66
2.即興曲第1番 op.29
3.ワルツ 変イ長調, op.42
4.ワルツ 変イ長調, op.42
5.アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調, op.22
ドビュッシー
6.月の光
モンポウ
7.庭のおとめたち
レイナルド・アーン(1874-1947)
ソナチネ ハ長調
8.T Allegro non troppo
9.U Andante rubato
10.V Final en forme de tambourin
ピアノ協奏曲 ホ長調*
11.T Improvisation
12.U Danse
13.V Rêverie,Toccata e Finale
録音:1934年7月19日(1),1933年(2-3),1951年(4-7),1936年(8-10),1937年(11-13)
レイナルド・アーン(指揮) 管弦楽団(*)
CD5
サン・サーンス
ピアノ協奏曲第5番 ヘ長調,op.103「エジプト風」*
1.T Allegro animato
2.U Andante
3.V Molto allegro
4.6つの練習曲op.52-6〜「ワルツ形式の練習曲」
シューマン
謝肉祭,op.9
5.Préambule
6.Pierrot
7.Arlequin
8.Valse noble
9.Eusebius
10.Florestan
11.Coquette
12.Réplique
13.Sphinx
14.Papillons
15.A.S.C.H.-S.C.H.A.(Lettres dansantes)
16.Chiarina
17.Chopin
18.Estrella
19.Reconnaissance
20.Pantalon et Colombine
21.Valse allemande-Intermezzao:Pganini
22.Aveu
23.Promenade
24.Pause
25.Marche des”Davidsbündler”contre les Philistins
録音:1953年4月(1-3),1955年(4),1953年3月(5-25)
ラムルー管弦楽団(*)
ジャン・フルネ(指揮) (*)
CD6
ヴィラ・ロボス
ブラジル風バッハ第8番
1.前奏曲
2.アリア
3.トッカータ
4.フーガ
5.ブラジルの子供の謝肉祭による幻想曲
6.ブラジルの詩〜第3番:奥地の祭り
7.ブラジルの詩〜第2番:吟遊詩人の印象
8.赤ちゃんの一族第1組曲「お人形たち」より道化人形
録音:1954年(1-5),1960年(6-8)
CD7
ショパン
1.ポロネーズ第1番 嬰ハ短調,op.26-1
2.ポロネーズ第2番 変ホ短調,op.26-2
3.ポロネーズ第7番 変イ長調,op.61「幻想ポロネーズ」
ウェーバー
4.華麗なロンド 変ホ長調「ざれごと」 op.62
リスト
5.愛の夢第3番 変イ長調
6.3つの演奏会用練習曲〜第2曲「軽やかさ」
モーツァルト
ピアノ協奏曲第26番 ニ長調,K.537「戴冠式」*
7.T Allegro
8.U Larghetto
9.V Allegretto
録音:1955年(1-6),1955年3月27日(7-9)
パリ室内コンセール協会管弦楽団(*)
フェルナン・ウーブラドゥ(指揮) (*)
CD8
ブラームス
1.間奏曲 イ長調,op.118-2
2.奇想曲 ト短調, op.116-3
3.間奏曲 変ロ短調,op.117-2
4.奇想曲 ロ短調, op.76-2
5.間奏曲 変ロ長調, op.76-4
6.ラプソディ ロ短調,op.79-1
ピアノ・ソナタ ヘ短調,op.5
7.T Allegro maestoso
8.U Andante espressivo
9.V Scherzo.Allegro energico
10.W Intermezzo.Andante molto
11.X Finale.Allegro moderato ma rubato
録音:1953年
CD9
グラナドス
「ゴイェスカス」第1部
1.第3曲: 燈し火のファンダンゴ
2.第4曲: 嘆き、またはマハと夜鳴きうぐいす
ヴィラ・ロボス
3.ブラジルの詩〜第2番:吟遊詩人の印象
4.ブラジルの詩〜第3番:奥地の祭り
ファリャ
5.歌劇「はかなき人生」〜スペン舞曲
6.バレエ音楽「三角帽子」〜粉屋の舞踏
グラナドス
7.組曲「ゴイェスカス」〜 第4曲: 嘆き、またはマハと夜鳴きうぐいす
8.スペイン舞曲集 op.37〜第5曲「アンダルーサ」
9.スペイン舞曲集 op.37〜第2曲「東洋風」
アルベニス
10.組曲「スペインの歌」 op.232〜第5曲「セギディーリャ」
11.組曲「スペインの歌」 op.232〜第4曲「コルドバ」
12.スペイン組曲Op.47〜第3曲「セビーリャ」
13.組曲「イベリア」〜第1曲「エヴォカシオン」
14.組曲「イベリア」〜第6曲「トゥリアーナ」
録音:1955年5月(1-4),1960年(5-14)
CD10
ベートーヴェン
ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調,op.47「クロイツェル」*
1.T Adagio sostenuto.Presto
2.U Andante con variazioni
3.V Finale:Presto
ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調,op.24「春」*
4.T Allegro
5.U Adagio molto espressivo
6.V Scherzo:Allegro molto
7.W Rondo:Allegro ma non troppo
シューベルト
ピアノ・ソナタ第13番イ長調 D664 op.120
8.T Allegro moderato
9.U Andante
10.V Allegro
録音:1960年(1-7),1955年(8-10)
マヌーグ・パリキアン(ヴァイオリン)(*)
マグダ・タリアフェロ(ピアノ)(*)
CD11
シャブリエ
1.絵画的小曲集〜第10曲「スケルツォ=ワルツ」
2.絵画的小曲集〜第6曲「牧歌」
デオダ・ド・セヴラック(1872-1921)
3.セルダーニャ−5つの絵画的練習曲〜ラバ引きたちの帰り
レイナルド・アーン(1874-1947)
4.当惑したナイチンゲール〜第16曲「エグランティーヌの王子の夢」
サン・サーンス
5.6つの練習曲op.52-6〜「ワルツ形式の練習曲」
ドビュッシ
ピアノのために
6.前奏曲
7.サラバンド
8.トッカータ
9.アラベスク第1番
10.アラベスク第2番
11.喜びの島
プロコフィエフ
12.ピアノ・ソナタ第3番イ短調 op.28
録音:1961年(1-11),1963年(12)
【商品説明:年表シリーズ】
指揮
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アルヘンタ
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オッテルロー
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ガウク
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カラヤン
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クイケン
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クーセヴィツキー
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クチャル
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クラウス
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クレツキ
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クレンペラー
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ゴロワノフ
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サヴァリッシュ
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シューリヒト
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ターリヒ
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チェリビダッケ
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ドラティ
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バーンスタイン
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パレー
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フェネル
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フルトヴェングラー
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メルツェンドルファー
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モントゥー
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ライトナー
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ラインスドルフ
●
ロスバウト
鍵盤楽器
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カークパトリック
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カサドシュ
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グリンベルク
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シュナーベル
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タマルキナ
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デムス
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ナイ
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ニコラーエワ
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ハスキル
●
ユージナ
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ランドフスカ
弦楽器
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カサド
●
シュナイダー四重奏団
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パスカル弦楽四重奏団
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ハリウッド弦楽四重奏団
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ブダペスト弦楽四重奏団
●
フランチェスカッティ
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ヤニグロ
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リッチ
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伝説のフランス弦楽四重奏団
作曲家
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アンダーソン
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ヘンツェ