CD 輸入盤

アナトリー・ヴェデルニコフの芸術(17CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC821
組み枚数
:
17
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


アナトリー・ヴェデルニコフの芸術(17CD)

ソ連ものに強いイギリスのスクリベンダム・レーベルから、アナトリー・ヴェデルニコフの17枚組セットが登場。諸事情あってオモテ舞台にはあまり出なかったヴェデルニコフですが、その演奏の独特な魅力によって、マニアの間ではカルト的なピアニストとして有名な存在。
 ヴェデルニコフはハルビンの生まれで、満洲や中国、日本で初期のキャリアを築き、東京に8か月間滞在してレオ・シロタのもとで腕をあげるなど、日本とも縁の深い人物。
 その演奏は、揺るぎのない高度な技巧により、感情におもねることなく作品の姿を明確に示すのが特徴で、背景にはヴェデルニコフが非常に研究熱心で、たとえばバッハのパルティータを録音するために、カンタータ全曲を勉強するなど、その方法は時間と手間をかけた徹底的なものだったと言います。
 実際、ヴェデルニコフのバッハ録音は峻厳な素晴らしい演奏ですし、自身のヴァージョンによる尖鋭な『ペトルーシュカ』(ペトルーシュカの死と亡霊も含む)や、独特の抒情が際立つ『月光ソナタ』、凄まじい迫力のプロコフィエフ『悪魔的暗示』など、作品に応じて突き詰められたスタイルは、バロックから現代にいたる幅広い作品を見事な説得力で聴かせます。特に20世紀音楽については、政府受けが悪い作品でも熱心にとりあげ、それが原因で長きに渡って文化省の不興を買い、活動範囲が限定される要因にもなっていましたが、ヴェデルニコフは方針を改めたりはしませんでした。
 そうした政府による制限もあって、自分の不運をぼやきがちだったヴェデルニコフですが、同じく父親を処刑されていた妻のオリガとは、半世紀に渡って結婚生活を維持し、息子ユーリも立派な画家に育つなど、私生活にはとても恵まれていたようです。
 ヴェデルニコフが半世紀に渡って住み続けた別荘(ダーチャ、下の画像)は、オリガの父、哲学者のゲッケルがモスクワ近郊のクリャーズマに建てた古い物件で、冬はとても寒かったものの、ヴェデルニコフはそこで音楽の研究に加えて、哲学や文学に親しみ、英語やフランス語も習得、アメリカやイギリスのラジオを聞き、健康維持も兼ねてヨガに興じてもいました(このページ最後の画像)。


略年表

1920
■ハルビンで誕生。両親はモスクワから来たロシア人。当時のハルビンはロシア人が半数を占める街。

1926
■ハルビンでピアノのレッスンを開始。教師はヴェラ・ディロン。

1933
■ハルビン高等音楽院を13歳で首席で卒業。満洲、中国などで演奏活動を開始。天才少年ピアニストとして人気。

1935
■東京でレオ・シロタに師事。演奏会、放送にも多数出演。

1936
■モスクワに転居。すぐには住居が見つからず、夏だったこともあり、家族はしばらく馬車で生活。
■モスクワ音楽院でネイガウスに師事。

1937
■初のレコーディング。
■新入生で5歳年長のリヒテルと親交。4手ピアノ・コンサートも開催。
■両親が逮捕、父親は銃殺、母親は強制収容所行き。

1938
■オリガの父親が逮捕、銃殺。

1941
■親友リヒテルの父親逮捕、銃殺。
■オリガの母親と姉妹3人が逮捕され強制収容所行き。
■ネイガウス逮捕。

1942
■音楽マネジメント組織「モスコンツェルト」にピアニストとして登録。
■オリガと結婚。

1943
■長男ユーリ誕生。

1944
■ネイガウス、モスクワに復帰。

1945
■全ソ連音楽家コンクールで予選落ち。ネイガウスによる低評価が原因。優勝はメルジャーノフとリヒテル。

1959
■グネーシン研究所に配属。グートマンの尽力。

1963
■グネーシン研究所で准教授に昇進。
■ソ連生活27年目で初の海外ツアー(東側)実施。

1980
■モスクワ音楽院に配属。メルジャーノフの尽力。
■初の西側ツアー実施。

1983
■ソ連政府より「ロシア共和国功労芸術家」の称号を叙勲。

1990
■文化省の公式代表団の一員として、デュースブルクのプロコフィエフ音楽祭に参加。開幕スピーチも担当。

1993
■胃癌により死去。来日公演直前。


ハルビン

ヴェデルニコフの父親は、ロシア帝国時代のモスクワで貿易商を営んでいたロシア人で、ロシア革命の内戦の激化により、旧中華民国のハルビンに居を移し、文房具店などで働いていました。
 ロシア人によって多くが建設され、「東洋のパリ」「東のモスクワ」などとも呼ばれたハルビンは、極東ロシアのウラジオストク(ヴラヂヴォストーク)の北西約500キロに位置し、モスクワからの距離は約6,000km、東京からは約1,600kmという内陸の街。
 1920年5月3日にハルビンに生まれたヴェデルニコフは、両親が偶然手に入れたピアノに幼い時から夢中になり、その後、地元ハルビンでヴェラ・ディロンに師事し、やがて1933年、ハルビン高等音楽院を13歳で首席で卒業。天才少年ピアニストとして満洲国や中国で活躍するようになります。
 なお、リヒテルはヴェデルニコフの実の親がオペラ歌手だったと述べていますが、ソ連のオペラ界にアレクサンドル・ヴェデルニコフという歌手がいたので、混同したものと思われます。ヴェデルニコフ本人によると両親の家系ではヴェデルニコフだけが音楽家ということでした。


東京

1935年11月、ヴェデルニコフ家、来日。一家は翌1936年7月まで8か月間に渡って日本に滞在。ヴェデルニコフは東京で演奏会を6回開催したほか、ラジオでも多数演奏。当時、すでに東京は上海租界と並ぶアジア最大規模の西洋音楽の市場で、ヴェデルニコフは「極東アジアの天才少年ピアニスト」と称えられるようになります。


 成功はしてもまだ満足していなかったヴェデルニコフは、東京、赤坂のレオ・シロタ[1885-1965]の自宅に通い、シロタの教えを受けます。シロタは1928年のソ連ツアーのあとにハルビンを訪れて8回の演奏会を実施、感激した山田耕作がシロタに日本ツアーを要請したことで日本を訪れ、翌1929年には再び来日。今度は家族と一緒で、以後、第2次大戦終結までの16年間、日本に滞在。当時の日本には、ロシア革命を逃れてやってきた白系ロシア人など外国人が多く暮らしており、シロタもピアニスト、教師として活動していました。シロタはヴェデルニコフに対し、引き続きピアノを学んだほうが良いと語り、モスクワのゲンリフ・ネイガウスか、アメリカのヨゼフ・ホフマンに師事することを勧めています。


モスクワ

1936年2月に「二・二六事件」が勃発したことで、東京市では戒厳令が発令され、7月までの5か月近くに渡って市民生活は少し不自由になり、その間、ナチス・ドイツはラインラントに進駐、ムッソリーニは第2次エチオピア戦争で勝利を収め、スペイン内戦も始まるなど、世界情勢はきな臭いものとなりつつありました。
 一方で祖国は「ロシア帝国」から「ソ連」へと姿を変え、華々しい文化や芸術、工業技術や先進的な生活様式に関する盛んなプロパガンダによって、「ソ連」での暮らしぶりは、内戦を避けて国外に居住していた者にはとても良いものと映るようになっていました。
 ヴェデルニコフの両親も、祖国が「ソ連」という華やかな国に生まれ変わったと受け止め、もともと反革命・反赤軍で「亡命」した「白系ロシア人」ではなかったこともあり、帰国を決意して1936年7月にモスクワに戻っています。
 しかし多くの人がモスクワを目指したことで、ヴェデルニコフ家の住居はなかなか見つからず、夏だったこともあり、しばらくは馬車で生活することを余儀なくされていました。
 ほどなくヴェデルニコフはモスクワ音楽院に入学し、レオ・シロタの助言に従いゲンリフ・ネイガウスに師事。ネイガウスはヴェデルニコフの実力を高く評価し、後年、自分の教えた生徒たちの中で、リヒテル、ギレリス、ザークと共に、傑出した存在だったと述べています。
 ヴェデルニコフの実力はネイガウス以外にもすぐに認められ、翌1937年には、初のレコーディングもおこなっています。また、この年には、1年遅れて入学してきた5歳年長のリヒテルと親交を結ぶようにもなっています。


ヴェデルニコフの両親、オリガの両親と姉妹が逮捕

馬車生活から抜け出し、モスクワにも慣れた頃、ヴェデルニコフの父親がNKVD(秘密警察)により逮捕。当時、ハルビンなど「満洲国」からの帰国者の多くは日本のスパイという嫌疑がかけられ、さらにヴェデルニコフ家の場合、日本に長期滞在していたことで、嫌疑が重くなり、「人民の敵」として銃殺。母親も「人民の敵」の妻ということで逮捕され、懲役8年の刑で強制収容所に送致、刑期満了後もモスクワへの帰還は許されませんでした。ヴェデルニコフ本人はまだ少年だったことで逮捕の対象とはならず、難を逃れることができましたが、衝撃は大きかったようです。
 なお、翌1938年には、哲学者ユーリ・フョードロヴィチ・ゲッケル[1881-1938]が、宗教教育活動の嫌疑により「人民の敵」として銃殺。1928年の最初の逮捕から10年を経ての再逮捕でした。
 3年後の1941年、独ソ戦が始まると、ゲッケルがドイツ系だったことで、未亡人と5人の娘たちにも逮捕状が出されますが、たまたま不在だったオリガと、乳飲み子がいたマルチェラは逮捕を免れています。また、強制収容所送りになった未亡人と3人の娘も、その後、全員生還しています。
 これは「大粛清」をあまりにも過剰なものとしてしまったエジョフ長官がスターリンに解任され、ベリヤがNKVDの長官となったことで緩和されたことによるものでした。
 ヴェデルニコフは、ゲッケル家4女でヴァイオリニストのオリガ・ソフィア[1918-2004]と戦時中に結婚。以後、ヴェデルニコフが亡くなるまで半世紀以上に渡って、演奏ツアーに健康を蝕まれることなく幸せに暮らしたようです。


舌禍

ヴェデルニコフは、自身が非常に高度な技術の持ち主で、主情的な傾向の演奏には批判的なスタンスだったことから、過度に情緒的な演奏や音楽には容赦がなく、舌禍ともいうべきトラブルも引き起こしてもいました。
 たとえば師のネイガウスが、あるバッハの作品をヒノキに譬えるなど、描写的、情緒的な指導をおこなうときには、正面からそうした手法に異を唱え、時にはネイガウスが怒りで赤面するほど追求したと言いますし、リヒテルがロマン趣味に傾倒していった時や、さまざまなレコードを紹介した時にも批判することが多かったようで、彼らから距離を置かれることも幾度もあったほどです。
 それでもネイガウスは、ヴェデルニコフの高度な実力を高く評価し、リヒテル、ギレリス、ザークらと並ぶ優れた才能であると称えていましたが、自分のスタイルとは大きく異なるヴェデルニコフの演奏が、自分の教育方針とは合わないという判断からか、モスクワ音楽院で助手を募る際、ヴェデルニコフを起用することはありませんでした。メルジャーノフなどクラスの多くの学生は、間違いなくヴェデルニコフが選ばれると思っていたにも関わらず(リヒテルは教育には興味がありませんでした)。
 リヒテルとの関係も、1960年代以降、彼のロマン趣味が次第に強まっていくことで、ヴェデルニコフの様式との違いが拡大、若い頃のように、2人で「鼻」でモーツァルトを弾いて遊ぶといったような親密さはなくなり、4手ピアノ作品で共演する機会も失われて行きます。
 また、スターリンの時代、周囲の演奏家仲間が、待遇向上のため、次々に共産党に入党していくことを嘆き、ピアニストにとって大切なのは演奏であって、会議で座って話してばかりいたら誰が演奏するんだといったようなことを語ってもいました。

全ソ連音楽家コンクール

1945年5月、ドイツとの戦争(大祖国戦争)に勝利したソ連は、12月にモスクワで第3回「全ソ連音楽家コンクール」を開催。ピアノ部門では、ヴィクトル・メルジャーノフ[1919-2012]とスヴャトスラフ・リヒテル[1915-1997]が最優秀賞で、ヴェデルニコフは第3次選考にも進めませんでした。
 この不自然な結果の背景には、1941年に逮捕され、前年にモスクワ復帰していた恩師でコンクール審査員のネイガウスが、ヴェデルニコフの演奏スタイルを好ましく思っていなかったことのほかに、当時の社会状況も大きく影響していると思われます。
 ドイツは5月に降伏調印したものの、日本は9月まで連合国軍と戦闘状態にあり、ソ連は8月9日、「日ソ中立条約」を破棄して日本に宣戦布告、8月15日の日本の休戦宣言後も戦闘を継続、9月2日の降伏調印日を過ぎても攻撃を続け、9月5日までの約1か月で千島列島など多くの領土を占領、最終的に約57万人の俘虜を炭鉱などの労働力としてシベリアほかの強制収容所に続々と送り込んで働かせています。
 また、コンクールの開催された12月には、収容日本人俘虜のうち、健康診断不合格の病弱な者、約4万7千人を、マイナス30〜40度という酷寒の原野を通らせて満洲・北朝鮮方面に移送、ほぼ全員を凍死・病死・衰弱死させるという残虐な作戦も、スターリンの命令で実行されていました。ちなみにコンクールのおこなわれた1945年の冬に寒さや衰弱などによって落命した日本人俘虜の総数は約27万人とも言われています。
 そうした日本人大殺戮という状況下では、ヴェデルニコフの父親が「日本のスパイ」として銃殺され、母親が強制収容所に送られていたという事実は、ヴェデルニコフへの正当な評価の大きな妨げになったと思われます。「○○のスパイ」という罪状そのものは、NKVDの便宜上の常套句でしたが、ヴェデルニコフ家が長く暮らしていたハルビンが、日本の傀儡国である満洲国の都市になっていたことや、一家が東京に長期滞在していたことも悪い方向に作用しかねない状況でした。
 また、ネイガウスも、1941年10月に戦時疎開をしなかったウクライナ・ドイツ人ということで逮捕され、モスクワ、ルビャンカのNKVD内刑務所に投獄。共産党員だったギレリスらの努力でなんとか8か月半で釈放されたものの、その後、1944年7月までスヴェルドロフスクに送られ、ウラル音楽院で教職に従事させられていました。
 全ソ連音楽家コンクールでの審査は、モスクワに復帰して間もないネイガウスにとって最初の大役ということで、かつての弟子であるヴェデルニコフに正当な採点をしにくい事情があったものとも考えられます。
 ちなみにリヒテルの父親もドイツのスパイという名目で、1941年に処刑されていましたが、コンクール開催時にはドイツ東部はすでにソ連の占領下にあり、共産化を進めてもいたところなので、影響はありませんでした。
 なお、審査員たちが選んだ最優秀賞はメルジャーノフで、審査過程の議事録によれば、リヒテルはチャイコフスキーのピアノ協奏曲で失敗して選ばれなかったということです。しかし、それを惜しんだショスタコーヴィチが、モロトフに電話をしてもう一人の最優秀賞ということに決めたのが真相のようです。リヒテル本人は、メルジャーノフがロシア人だから選ばれたと述べていますが、メルジャーノフは実際にはアルメニア人でした。


グネーシン研究所

全ソ連音楽家コンクールでのヴェデルニコフは、モスクワ音楽院で抜きんでた実力だったにも関わらず予選落ちとなり、それが原因で、一時は歌手の伴奏で地方をまわる仕事を斡旋されるなど、少年時代の東洋での華やかなキャリアとはかけ離れた状態に転落。
 国内での限られた演奏だけで糊口を凌いでいたヴェデルニコフに、教職を紹介してくれたのは、テオドール・ダヴィドヴィチ・グートマン[1905-1995]でした。ヴェデルニコフと同じくネイガウスの門下だったグートマンは、当初モスクワ音楽院で教えていましたが、第2次大戦中は疎開先でラーザリ・ベルマンなどを教えており、ペンザからモスクワに戻るとなぜかモスクワ音楽院に復帰できず困っていたところを、エレーナ・ファビアノヴナ・グネーシナ[1874-1967]に誘われグネーシン研究所でピアノを教えていたという人物。
 このグートマンがグネーシナの後任でピアノ部門の責任者となり、規模の拡大を目指して人材を探し、そこで注目したのがヴェデルニコフでした。


 1959年、ヴェデルニコフはグネーシン研究所の教職に就き、4年後には准教授に昇進、それがきっかけでソ連生活27年目にして初めての海外ツアー(東側)をおこなうことができるようになります。
 ちなみにグネーシン研究所にはマリヤ・ユージナ[1899-1970]もいましたが、1960年に反体制作家パステルナーク[1890-1960]の詩を朗読して解雇されたので、ヴェデルニコフとの接点はあまり無かったようです。


モスクワ音楽院

グネーシン研究所で長く教えていたヴェデルニコフですが、1980年には転機が訪れます。1945年の全ソ連音楽家コンクールの優勝者で、モスクワ音楽院で教えていたヴィクトル・メルジャーノフに権限が与えられるようになり、メルジャーノフはさっそくヴェデルニコフをモスクワ音楽院に引き入れ、共に教壇に立ったりもするようになります。
 メルジャーノフは、ヴェデルニコフは知的でピアノ演奏の実力も非常に高度、20世紀音楽含めてレパートリーも巨大だったと高く評価していました。
 すでにヴェデルニコフは60歳でしたが、この職務のおかげで、西側へのツアーも許されるようになり、手始めにイタリアとイギリスへのツアーを実施し、その後はドイツやフィンランドも訪れるようになります。


 こうした状況の変化により、ヴェデルニコフの20世紀音楽への取り組みを苦々しく思っていた政府も態度を軟化。1983年には、「ロシア共和国功労芸術家」を叙勲、7年後の1990年、70歳の時には文化省の公式代表団の一員として、ドイツ、デュースブルクのプロコフィエフ音楽祭に参加し、開幕スピーチも担当するなど、ヴェデルニコフの名声も高まり、1993年には来日公演も予定されていましたが、直前に胃癌で亡くなってしまいます。実現していれば57年ぶりの来日ということでした。
 ちなみに「名演奏家事典(音楽之友社1982年発行の3巻本)」のヴェデルニコフの項目には、NHK-FMディレクターの成澤玲子氏が、「1970年、万国博のときに来日。」と記述されているので、それが事実であれば23年ぶりの来日予定だったということになります。1970年といえば、ソ連と西側とのデタント(緊張緩和)が進む中で、西側の影響を懸念したソ連政府が、問題のある人物については急遽渡航を凍結することとなった年で、たとえばグリンベルクのオランダ公演とムラヴィンスキーの日本での指揮は「中止」となり、一方で、オイストラフ、リヒテル、ロストロポーヴィチ、ロジェストヴェンスキーなど政府との関係が良好な人物については「許可」という具合に、明暗が分かれていたので、もしかするとヴェデルニコフについても急遽「中止」になっていたのかもしれません。



【年表】
●印はヴェデルニコフ関連(太字)、◆は社会関連。

1895年
◆4月、清国、日清戦争に敗北。日本への巨額の賠償金や、遼東半島などの領土割譲を含む下関講和条約を締結。


◆4月、弱体化した清国で利益を得るため、租借地として分割領有を主張するロシア、ドイツ、フランスの三国が、日本に対し、清国に領土を返還するよう強要(三国交渉)、日本は清国に遼東半島を返還。巨大なインドを植民地に持つイギリスは、ロシアの南下を警戒していたため、日本を威嚇するグループには入らず。

1896年
◆ロシア帝国、露清条約により東清鉄道(シベリア鉄道の支線)の敷設権を清国から獲得。

1898年
◆清国は、日本のほか、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアによって、多くの土地が租借地などとして分割され、各国の権益の対象に。
◆ロシア帝国、日本が清国に返還した遼東半島を租借。これにより東清鉄道の計画は、旅順、大連まで延伸。

1899年
◆ロシア帝国、植民都市としてハルビンの都市計画を策定。東清鉄道の工事も開始。以後、辺境の寒村だったハルビンは、ロシア人などが増えて経済的に発展し、近代的な都市へと変貌を遂げることになります。

1900年
◆6月、義和団の乱(1901年9月まで)発生。8か国連合軍側死傷者757人、義和団側死傷者数万人。このほか、義和団により宣教師約200人と中国人クリスチャン約3万2千人が虐殺。
◆7〜8月、アムール川(黒竜江)事件発生。ロシア帝国軍の軍艦と2千名の上陸兵士により清国人約2万5千人が虐殺。ロシア帝国が満洲進出策を開始。
◆ロシア帝国、ハルビン駅近くに、ロシア正教会の聖ニコライ会堂を建設。

1903年
◆東清鉄道全線開通。ハルビン駅舎はアール・ヌーボー様式で完成。

1904年
◆ハルビンなどから日本人引き揚げ。
◆2月、日露戦争勃発。

1905年
◆1月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」発生。ロシア第一革命へ発展。


◆4月、ハルビン会戦終結。ロシア軍死傷者俘虜約32万人に対し、日本軍死傷者約10万8千人。
◆5月、日本海海戦。ロシア軍死傷者俘虜約1万1千人、沈没21隻に対し、日本軍死傷者約700人、沈没3隻(小型艇のみ)。
◆9月、ロシア帝国、日露戦争に敗北。アメリカ合衆国が間に入り、ポーツマス条約によって講和。日本に対し朝鮮半島権益が認められ、樺太の南半分も割譲、大連と旅順など南満洲のロシア租借権も移譲され、東清鉄道と南部鉄道も譲渡という内容。



1907年
◆6月、ロシア第一革命、ロシア帝国政府に鎮圧されて終結。

1911年
◆10月、辛亥革命勃発。旧中華民国軍政府が成立を宣言。

1912年
◆2月、皇帝、溥儀が退位。共和制国家、旧中華民国が誕生。ハルビン在住日本人1,086人。

1913年
◆ハルビンのロシア人が約4万人に達し、総人口約6万9千人の6割近くを占めるに至っています。

1914年
◆8月、第1次世界大戦勃発。ロシア帝国軍は東プロイセンに侵攻するもののすぐに形勢逆転。ドイツ軍の大規模な毒ガス使用などにより膨大な戦死者。国民の不満が蓄積され、やがて3月革命、11月革命、ロシア内戦へと繋がります。

1917年
◆3月、国際婦人デーの女性デモをきっかけとして3月革命(ユリウス暦では2月革命)勃発。ロシア臨時政府樹立。


◆7月、ペトログラードで7月蜂起。50万人のデモがロシア臨時政府により鎮圧。
◆11月、11月革命(ユリウス暦では10月革命)勃発。レーニンが最高指導者を務めるボリシェヴィキ政権樹立。第1次世界大戦と並行して、ロシア内戦(第1期)が勃発。


◆11月、すべての土地は人民の所有(=政府所有)とする法が発令。教会の土地・財産も没収。
◆12月、レーニンによりチェーカー(秘密警察)設立。100人足らずの小組織でスタートするものの、ロシア帝国秘密警察オフラーナのメンバーも含めるなどして急拡大を遂げ、やがて28万人規模にまで成長。
◆12月、チェーカー初代議長にポーランド人のジェルジンスキーが就任。「組織化された恐怖」をモットーに、聖職者、自由主義者、資産家に関しては、街頭でも手あたり次第に射殺。
◆12月、ロシア国内の全銀行の国有化。

1918年
◆1月、レーニンにより憲法制定議会閉鎖。選挙でボリシェヴィキが第1党になれなかったため、武力による独裁体制に移行。
◆3月、ブレスト=リトフスク条約により、第一次世界大戦の東部戦線での戦闘が終結し、ロシア内戦(第1期)も休戦。
◆3月、ボリシェヴィキは共産党に改名。共産党以外の政党活動を禁じて、共産党の一党独裁制に移行。
◆5月、レーニンにより食糧独裁令発令。武装した労働者食糧徴発隊組織により農民たちからの作物の収奪が開始、内戦再発に繋がって行きます。
◆7月、ロシア・ソヴィエト社会主義共和国憲法制定。
◆7月、ニコライ2世[1868-1917]処刑。一家7人と従僕ら計11人がレーニンの命令によりエカチェリンブルクで殺害。
◆夏、シベリア出兵。ソ連軍約60万人に対し、日本軍約7万人、チェコ軍約5万人、アメリカ軍約8千人、カナダ軍約4千人、イタリア軍約2千4百人、イギリス軍約千5百人、フランス軍約千4百人


◆8月、レーニン暗殺未遂事件発生。社会革命党の女性党員による銃撃。
◆ロシア臨時政府により、ロシア正教会の財産を政府のものにすることを決定、宗教教育も禁止となります。

1919年
◆3月、ロシア内戦(第2期)勃発。
◆5月、紙幣発行の制限廃止。紙幣の種類は1〜1,000ルーブル。
◆11月、ユダヤ系で赤軍創始者でもあるトロツキー率いる赤軍が白軍を撃退。ロシア内戦(第2期)休戦。
◆11月、紙幣の種類に、5,000ルーブルと10,000ルーブルが追加。

1920年(0歳)
◆4月、ヴランゲリ将軍が白軍の全権を掌握。翌月にはロシア軍と名を改めてクリミア半島を拠点に赤軍と戦闘。ロシア内戦(第3期)勃発。
●5月3日、アナトリー・イヴァノヴィチ・ヴェデルニコフ、旧中華民国のハルビンに誕生。両親はモスクワで貿易商を営んでいましたが、ロシア革命の内戦の激化により、安全なハルビンに移り住んだロシア人で、ハルビンでは文房具店などで働いていました。当時、「東洋のパリ」「東のモスクワ」などと呼ばれたハルビンは、極東ロシアのウラジオストク(ヴラヂヴォストーク)の近くで、モスクワからの距離は約6,000km、東京からは約1,600kmという位置にありました。


◆11月、白軍(ロシア軍)ヴランゲリ将軍が、赤軍に敗北、ユーゴスラヴィアに亡命。ロシア内戦(第3期)終結。
◆ロシア内戦は深刻な飢餓も引き起こし、全死者数は800万人とも言われています。内戦後の耕地面積は内戦前の62パーセント、生産量は37パーセント、金属製農機具生産量は13パーセントに減少。耕作馬の頭数は350万頭から240万頭に減少、牛は580万から370万に減少。さらに輸送手段である機関車の稼働率も半分以下になっていました。
為替レートも、米ドル「1ドル=2ルーブル」から、「1ドル=1,200ルーブル」となり600分の1の価値に下落、超ルーブル安となり、輸出競争力が急上昇し、国外からの投資も集めやすくなり、そうした金融環境が、翌年のレーニンによる資本主義的な新経済政策(ネップ)策定に繋がったものとも考えらえます。

1921年(0〜1歳)
◆3月、ソヴィエトで新経済政策(ネップ)施行。余剰作物などの資本主義的運用により、経済が活性化。
◆4月、タンボフの反乱。アントーノフ率いる数万人の農民たちを、レーニンの指示により5万人規模の赤軍とチェーカーが、毒ガスなどを用いて6月までに殲滅。
◆7月、紙幣の種類に、25,000ルーブル、50,000ルーブルと100,000ルーブルが追加。
◆11月、第1回通貨切り下げ実施。旧紙幣10,000ルーブル=1922年度紙幣1ルーブルという基準。
◆ヴォルガ流域を中心に全国規模で飢饉発生。翌年にかけて栄養失調などが原因で農村中心にチフスやコレラが流行、数百万規模の犠牲者が出て、モスクワなど都市部にもホームレスや浮浪児が集まるようにもなります。

1922年(1〜2歳)
◆3月、レーニンが「聖職者全員銃殺」を指令。まず翌年にかけて、主教28人、司祭2,691人、修道士1,962人、修道女3,447人のほか、信徒も多数を処刑。財産を没収し、飢饉対策にも使用しました。


◆5月、レーニンによる「知識人追放指令」。秘密警察(GPU)の分類により、反政府的とされた知識人を追放。この場合の「知識人」は、哲学者、文学者、法律家、経済学者、組合活動家などが対象となります。レーニンは、音楽、演劇、映画、美術などの「芸術家」は、プロパガンダに結び付くことから積極的に活動を支援し、「科学者」「建築家」なども、人数が不足していたことから優遇していましたが、いわゆる「知識人」については、反共産主義や反政府的活動に繋がりやすいという判断から監視・弾圧をおこなっていました。
◆5月26日、レーニン、最初の脳梗塞発作。5か月間の入院中に回復するものの簡単な計算なども困難な状態に。その間、スターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフとのトロイカ体制を確立、有力幹部トロツキーに対抗します(のちにカーメネフ、ジノヴィエフは粛清、トロツキーは国外追放のうえ暗殺)。
◆6月、レーニンが反政府知識人の大量追放を指令し、数万人を強制収容所などに送致。
◆10月、第2回通貨切り下げ実施。1922年度紙幣100ルーブル=1923年度紙幣1ルーブルという基準。第1回通貨切り下げに当てはめると、100万分の1になった計算。
◆6月、日本、シベリアからの撤兵を閣議決定。10月までに撤兵。白軍、日本、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、イタリア、中華民国側の死傷者は約20万人、赤軍、極東共和国側の死傷者は約40万人
◆12月、ソビエト社会主義共和国連邦成立宣言。
◆12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。

1923年(2〜3歳)
◆3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握。
◆11月、ドイツでハイパーインフレ対策として臨時通貨レンテンマルク発行開始。1兆分の1という交換比率で、ハイパーインフレを乗り切ります。
◆11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加。

1924年(3〜4歳)
◆1月、レーニン死去、スターリンが最高指導者に。
◆1月、ソ連憲法制定。
◆2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加。

1925年(4〜5歳)
●ヴェデルニコフ、両親がたまたま手に入れたピアノに夢中になります。



1926年(5〜6歳)


●ヴェデルニコフ、ハルビンでピアノのレッスンを開始。教師はヴェラ・ディロン。ディロンは夫のウリエル・ゴルドシテインらとモスクワ・トリオとして活動していましたが、内戦を避けてハルビンに滞在。同地で演奏活動のほか、ピアノ教師もおこない、1927年には娘のエラを出産しています。
 ちなみにエラ・ゴルドシテインは7歳でモーツァルトの協奏曲を演奏し、9歳でリサイタル・デビュー。天才少女として中国、および日本ツアーをおこない、11歳の時にパレスチナ公演で大成功、その後、アムステルダム音楽院で勉強を継続、第2次大戦が始まるとオランダ語圏の南アフリカで長期ツアーを実施し、戦後は渡米、クーセヴィツキー、ロジンスキー、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルと共演するなどして活躍しています。
 エラはヴェデルニコフと同じく幼少期から楽才を発揮し、中国と日本でツアーをする天才ぶりですが、要するにヴェラ・ディロンの教え方がうまかったということでしょうか。


◆メンジンスキー、OGPU(秘密警察)長官に就任。のちに大規模な粛清を実施。

1927年(6〜7歳)
◆8月、第一次国共内戦勃発。蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党が、1937年までの10年間に渡って戦闘。累計犠牲者数は70万人。

1928年(7〜8歳)
●哲学者ユーリ・フョードロヴィチ・ゲッケル、再逮捕、すぐに釈放。

1929年(8〜9歳)
◆ソ連政府により憲法の宗教に関する部分が改正。すべての宗教の社会的・教育的・慈善的活動が禁じられ、宗教団体の拠点も当局指定の建物に限定、布教活動も不可能となり、また、教会を国と切り離して民間団体として扱い、聖職者には重税が課せられることとなりました。1918年には教会の土地・財産は没収されていたので、これで財政基盤が極度に弱体化し、さらに学校では無神論を教えるようになります。
●哲学者ユーリ・フョードロヴィチ・ゲッケル[1881-1938]、宗教教育に関する活動により逮捕。このときの逮捕では、ゲッケルがアインシュタインやバーナード・ショウの知人でもあったことから、外務人民委員(外務大臣)のチチェーリンにより釈放されています(10年後の1938年に再び逮捕された際には銃殺)。
 ゲッケルはドイツ移民の子孫としてサンクトペテルブルクに誕生し、労働運動に参加したのち逮捕を避けて渡米。アメリカで教育を受けて市民権を取り、スイスやドイツ、イギリスでも活躍した哲学者、社会学者、神学者、宗教社会学者、宗教哲学者で、1921年にルナチャルスキー教育人民委員(文部大臣)の招きで一時帰国して活動し、翌年、ソ連に帰還し市民権も取得。ルナチャルスキーの手配でモスクワのスタロコニュシェニー通りの大きなアパートが斡旋され、妻と5人の娘たちの7人で入居。その後、モスクワ郊外のクリャーズマに2階建ての別荘(ダーチャ)を建て、そちらで暮らすようになります。
 ヴェデルニコフは、彼の4番目の娘オリガと第2次大戦中に結婚し、クリャーズマの家に転居。2人とも「人民の敵」の子という共通点がありました。
◆トロツキー、国外追放。
◆スターリンによりレーニンの新経済政策(ネップ)否定。市場経済の廃止。
◆戦闘的無神論者同盟発足。

1930年(9〜10歳)
●ヴェデルニコフ、ハルビンで演奏会デビュー。神童として評判となります。

1931年(10〜11歳)
◆9月、満洲事変。
◆メンジンスキー統合国家政治局(OGPU)長官による大規模な粛清が実施。
◆12月、スターリンにより、高さ103メートルという世界最大の正教会建造物である「救世主ハリストス大聖堂」が爆破(ハリストス=キリスト)。教会への弾圧はロシア革命初期の1917年から始まっていますが、それでも1930年にはまだ3万の教会がありました。しかし憲法改正後の1931年からは、閉鎖や爆破、強制収容所への転用などが本格化し、1939年には実際に使用されているソ連の教会は数百ほどにまで減少しています。



1932年(11〜12歳)
◆3月、世界恐慌のさなか、多民族国家「満洲国」建国。旧中華民国より独立し第2次大戦終結まで13年間存続。皇帝は愛新覚羅溥儀[1906-1967]。面積は110万平方キロメートルを超え(日本の約3倍)、人口は約3400万人という規模。小澤征爾の親族など日本からの満洲開拓移民の総数は約27万人。
 満州国最大の都市は奉天で人口約53万人、ハルビンは第2の都市で人口約46万人、首都の新京は人口約30万人。
 白系ロシア人はハルビンに集中しており、全体の8割以上にあたる約2万8千人が居住。
 また、満洲国のソ連国籍ロシア人(赤系ロシア人)は、1935年までは鉄道関係者中心に約2万人で、鉄道売却後は約7,300人に急減、うちハルビン在住は約6,600人。
 なお、ソ連から亡命してきた白系ロシア人(白軍支持者や元白軍将兵など)は賃金が安く、満洲国在住日本人が得ていた類似職務賃金の3分の1から4分の1ほどで、満洲国政府への補助金申請件数も多数。そのことが白系ロシア人の人口動向が流動的な要因であったとも考えられますし、日本やアメリカに渡る人の数を多くしてもいました。欧州に移住した白系ロシア人は、世界恐慌の影響がより直接的でさらに条件が悪かったようです。



1933年(12〜13歳)
●ヴェデルニコフ、ハルビン高等音楽院を首席で卒業。
●ヴェデルニコフ、ピアニストとしての活動を開始。以後、旧中華民国の上海や、満洲国各地で演奏。「ハルビンの天才少年ピアニスト」と呼ばれるようになります。
●8月、ヴェデルニコフ、満洲国、大連の大和ホテルでリサイタル開催。大連にはロシア人も多く住んでいました。



1934年(13〜14歳)
◆豪華特急列車「あじあ」運航開始。満洲国を象徴するかのような豪華列車で、日本の鉄道技術が昔から高水準であることを示してもいました。


◆9月、ヤゴーダが内務人民委員に就任。任期中の2年間に粛清を進めるものの、スターリンからはあまり好まれず、左遷となります。

1935年(14〜15歳)
●11月、ヴェデルニコフ家、来日。一家は翌年まで8か月間に渡って日本に滞在。ヴェデルニコフは東京で演奏会を6回開催したほか、ラジオでも多数演奏。当時、東京は上海と並ぶアジア最大規模のクラシック音楽の市場で、ヴェデルニコフは「極東アジアの天才少年ピアニスト」と称えられるようになります。下の写真は当時の日本橋界隈です。


●ヴェデルニコフ、東京、赤坂のレオ・シロタ[1885-1965]の自宅に通い、シロタの教えを受けます。シロタは1928年にツアーで日本を訪れ、翌1929年から終戦までの16年間、日本に滞在。当時の日本には、ロシア革命を逃れてやってきたロシア人など外国人が多く暮らしており、シロタもピアニスト、教師として活動していました。シロタはヴェデルニコフに対し、モスクワのゲンリフ・ネイガウスか、アメリカのヨゼフ・ホフマンに学ぶことを勧めています。


◆11月、ソ連、ルーブルの為替相場をフランス・フランの基準に設定。1ルーブル=3フランス・フラン。

1936年(15〜16歳)
◆4月、フランス・フラン切り下げにより、1ルーブル=4.25フランス・フラン。
●7月、ヴェデルニコフ家、モスクワに帰還。すぐには住むところも見つからず、夏だったこともあり、馬車で生活する羽目になります。


●ヴェデルニコフ、モスクワ音楽院に入学。シロタの助言に従いゲンリフ・ネイガウスに師事。ネイガウスはヴェデルニコフの実力を高く評価し、後年、自分の教えた生徒たちの中で、リヒテル、ギレリス、ザークと共に、傑出した存在だったと述べています。


◆11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化。

1937年(16〜17歳)
◆モスクワ放送でテレビ放送開始。
◆7月、ルーブルの為替相場を米ドル基準に変更。5.3ルーブル=1米ドル。
◆ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。1936年9月に内務人民委員に就任したエジョフ長官の方針は、ソ連で政敵の排除に多用されてきた「スパイ嫌疑」を最大限利用するものでした(ある人物がスパイではないことを証明するのは不可能に近いため)。
エジョフ長官は、スパイを捕えるためには無実の人間をいくら犠牲にしても構わないというようなことを実際に発言していましたし、「自白」に追い込む「拷問」も、前長官のゲンリフ・ヤゴーダ[1891-1938]の時代をはるかに上回る残虐さで徹底、多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、数百万人とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります。自分にとって都合の悪い人物を、魔法使いや魔女だとして密告する「魔女狩り」の20世紀版です。
◆エジョフ率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)のおこなった「ポーランド作戦」により、ソ連在住のポーランド人約63万6千人のうち約14万4千人が逮捕、すぐにそのうちの約11万1千人が処刑され、数十万人がポーランドに強制送還、その後、逮捕の効率が下がったため、電話帳を見てポーランド風な名前の者を逮捕・処刑するというデタラメな作戦も展開、計約31万人が殺害されています。当時、電話のある家には財産もあることが多かったので、金品を盗むことができるというNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)側の大きなメリットも被害の拡大に繋がったものと考えられます。


●ヴェデルニコフ、初のレコーディング。ショパンのマズルカなど。
●ヴェデルニコフの父親、NKVDにより逮捕。当時、ハルビンなど満洲国からの帰国者の多くは日本のスパイという嫌疑がかけられ、さらにヴェデルニコフ家の場合、日本に長期滞在していたことで、嫌疑が重くなり、「人民の敵」として銃殺。母親も「人民の敵」の妻ということで逮捕され、懲役8年の刑で強制収容所に送致、刑期終了後もモスクワへの帰還は許されませんでした。ヴェデルニコフ本人はまだ少年だったことで、難を逃れることができましたが、ますネイガウスの尽力で逮捕を免れます。
◆ロシア正教会の聖職者、85,300人が処刑。

1938年(17〜18歳)
●ヴェデルニコフ、リヒテルと合同コンサートをおこなうようになります。
●哲学者ユーリ・フョードロヴィチ・ゲッケル[1881-1938]、宗教教育活動の嫌疑により「人民の敵」として銃殺刑。1928年の最初の逮捕から10年を経ての再逮捕でした。なお、翌1938年には、哲学者ユーリ・フョードロヴィチ・ゲッケル[1881-1938]が、宗教教育活動の嫌疑により「人民の敵」として銃殺刑。1928年の最初の逮捕から10年を経ての再逮捕でした。3年後の1941年には、ゲッケル未亡人と5人の娘たちにも逮捕状が出されますが、たまたま家に居なかったオリガとマルチェラは逮捕を免れています。強制収容所送りになった未亡人と3人の娘も全員生還。
 ヴェデルニコフは、ゲッケル家4女のオリガと戦時中に結婚。2人とも「人民の敵」の子という共通点がありました。


◆8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任。スターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身。前任のエジョフとその部下を1940年2月に処刑。

1939年(18〜19歳)
◆ロシア正教会の聖職者、900人が処刑。
◆8月、独ソ不可侵条約締結。
◆9月、ドイツ軍、赤軍、ポーランド侵攻。
◆10月、ポーランド分割。
◆10月、赤軍、フィンランド侵攻。
◆10月、ソ連、国際連盟から除名。

1940年(19〜20歳)
◆ロシア正教会の聖職者、1,100人が処刑。

1941年(20〜21歳)
●4月、ヴェデルニコフ、リヒテルとの共演でバッハの2台のピアノのための協奏曲などを演奏したコンサートに出演。リヒテルはほかにシューマンのピアノ協奏曲、ヴェデルニコフはラヴェルのピアノ協奏曲を演奏。
◆「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用します。
◆6月、ドイツ軍が不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
◆6月、イタリアとルーマニアがソ連へ宣戦布告。
◆7月、フィンランドとハンガリーがソ連へ宣戦布告。
◆7月、ドイツ軍によるモスクワへの空爆開始。
●9月10日、クリャーズマのゲッケル家で、母親と5人姉妹のうち3人がNKVDにより逮捕され強制収容所に送致。のちにヴェデルニコフと結婚するオリガと、姉のマルチェラはたまたま不在だったため難を逃れています。また、強制収容所行きとなった4人もその後無事に生還。
◆9月、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦が開始。
◆10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ユージナなどは疎開せずに活動。
●11月4日、ネイガウス、政府による疎開命令に従わず、モスクワに留まったことで、ドイツ軍の到着を待っているという嫌疑をかけられて逮捕。
 疎開命令に従わなかった実際の理由は、ネイガウスの妻ミリツァの78歳の母親が病気で長旅に耐えられない状態だったため、妻ミリツァが疎開を拒否したことでネイガウスも動けなかったというものでした。
 ネイガウスは悪名高いモスクワのルビャンカ刑務所で8.5か月を過ごしています。最初の面会者はマリア・ユージナで、投獄後約6か月後にようやく許可されたものでした。以後、ギレリス、ザーク、リヒテルなどが訪れ、プーシキン全集などの差し入れも提供されました。しかしNKVDによる拷問のような過酷な尋問と劣悪な収監環境は、ネイガウスの健康を蝕み、痩せこけて、複数の歯が抜け落ちてしまうという状態にまで陥っています。



◆「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用します。
◆11月、赤の広場で軍事パレード実施。これは約410万人のモスクワ市民のうち、疎開できていたのが、主に政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者だったことから、残された市民が近づくドイツ軍への恐怖から暴動などを起こさないよう安心感を与えるためで、同じ理由からロシア正教への弾圧をやめ、ほどなく復活させることを約束してもいました。


◆11月、ドイツ軍、モスクワから8キロの地点まで侵攻。赤軍必死の抵抗。
◆11月29日、ジューコフ将軍による大攻勢が開始。兵力は極東に展開していた赤軍40個師団、約75万人の精鋭部隊で、すでにモスクワへの移動を完了していました。

1942年(21〜22歳)
◆夏、スターリングラード攻防戦開始。翌年2月までに兵士約48万人死亡、約65万人が負傷。役人など政府関係者の疎開しか認めず一般市民の疎開は禁じられたため、民間人死者も約4万人という大きな数になっています。またドイツなど枢軸国側兵士の死傷者は約150万人とソ連側を大きく上回るものとなっており、計約267万人の死傷者が発生したことになります。
●7月4日、ネイガウス、反政府的言動の罪により、5年間、ソ連国内に340か所あった「制限地域」のひとつに住むことを命じられます。ネイガウスは、モスクワから約15,000キロ離れたスヴェルドロフスク州のクラスノトゥリインスクで森林伐採をして5年間過ごすことを選択。スヴェルドロフスク州には、ネイガウスの長男アドリアンが入所していた結核療養所も疎開していました。
●7月19日、ネイガウス、ルビャンカ刑務所から釈放。髪は伸び放題でボサボサ、服もボロボロで著しく衰弱した状態でした。
●ネイガウスの刑を軽減してもらうため、音楽家たちが行動をおこします。ネイガウスの送致先であるスヴェルドロフスク州には、当時、「キエフ音楽院」の教師や学生が疎開して、現地のスヴェルドロフスク音楽院(のちのウラル音楽院)などで活動しており、キエフ音楽院の院長でピアノ科教授でもあるアブラム・ルフェル[1905-1948]が、ネイガウスに音楽院で働いてもらいたいと当局に請願。
 さらに1934年にネイガウスがスヴェルドロフスク音楽院の創設準備に当たった際、自分の弟子だったベルタ・マランツ[1907-1998]と、セミョン・ベンディツキー[1908-1993]を、スヴェルドロフスク音楽院の教師として送り出しており、ほどなく結婚していたその2人の協力も得ることができました(下の画像は1934年にスヴェルドロフスク音楽院が開校した時のマランツとベンディツキー、ネイガウスの姿です)。


 こうしてネイガウスは、スヴェルドロフスクに関わる人々のおかげで、疎開中のキエフ音楽院の教授として働き、ウラル、シベリア地域でコンサート・ツアーをおこなうことも許可されています。
 ちなみにスヴェルドロフスクには、オイストラフやストリヤルスキー、ヤンポリスキー、シェバリーン、カバレフスキー、グリエール、グリンベルクなど有名な音楽家も疎開してきて教育活動に従事したほか、ギレリスやタマルキナが、疎開地をめぐるコンサート・ツアーの一環として訪れたりもしており、ネイガウスが、ツアーで滞在中のギレリスと4手演奏をすることもありました。

●ヴェデルニコフ、モスクワの音楽マネジメント「モスコンツェルト」にソリストとして所属。
●ヴェデルニコフ、オリガ・ゲッケルと結婚。ほどなくモスクワ郊外のクリャーズマにあるゲッケルの家に転居。以後、亡くなるまでの半世紀に渡って拠点としていました。

1943年(22〜23歳)
◆1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。


●ヴェデルニコフ、モスクワ音楽院を卒業。


●ヴェデルニコフの長男ユーリ、誕生。
◆ロシア正教会問題評議会が設立。
◆9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表。これにより、総主教制の復活、神学校や神学大学の再開、教会機関誌「モスクワ総主教庁ジャーナル」も復刊されることとなり、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定。

1944年(23〜24歳)
◆1月、赤軍、レニングラードを解放。

1945年(24〜25歳)
◆8月、ソ連、日本に対して宣戦布告。「日ソ中立条約」は破棄。9月5日まで戦闘を継続。
●12月、ヴェデルニコフ、全ソ連音楽家コンクールに出場するものの予選落ちという結果。
◆12月、NKVDのトップ交替。クルグロフがベリヤの後任として内務人民委員に就任。クルグロフはベリヤの部下として、エジョフ派の大量粛清や、チェチェン、イングーシ人の弾圧、ウクライナ民族主義運動活動家の粛清もおこなっていた人物。

1946年(25〜26歳)
◆NKVDの後継としてソ連内務省(MVD)発足。クルグロフが初代内務大臣として1952年11月まで6年間在任するものの、任期なかばから内務省の権限が国家保安省に大幅に移行され強制収容所管轄省のような状態になったため、1952年にベリヤが国家保安省を内務省に統合、みずから第2代内務大臣となりますが、翌1953年6月にフルシチョフにより逮捕(半年後に処刑)されたため、クルグロフが大臣に復帰。翌1954年には内務省から分離してKGBが発足、1956年1月にはクルグロフがフルシチョフにより解任、以後、左遷ののち1960年に党から除籍されています。
◆2月、第4次5カ年計画(1946-1950)開始。農業が1948年までに戦前の水準となり、工業も1949年までに戦前の規模を回復。

1947年(26〜27歳)
◆9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗します。
◆12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。為替レートはそのままとし、輸出優先体制とします。

1948年(27〜28歳)
◆2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することをコミンフォルム設立者のジダーノフが宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに大きな影響力を持つこととなります。スターリンの死と共に迫害は収まるものの、正式に統制が解除されたのは1958年5月のことでした。ちなみにジダーノフは宣言の半年後、モスクワで52歳で急死しています。
◆4月、ソ連作曲家同盟第1回総会開催。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。

1949年(28〜29歳)
◆ソ連政府、反ユダヤ・キャンペーン開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、1952年に処刑。ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕・処刑。
◆イスラエルが国連に加盟。59番目の加盟国でした(日本は1956年、オーストリアは1955年、東西ドイツは1973年に加盟)。

1950年(29〜30歳)
◆3月、ソ連、為替をドル基準から金基準に変更。4ルーブル=1米ドルに引き上げ。

1951年(30〜31歳)

1952年(31〜32歳)
●ヴェデルニコフ、ロストロポーヴィチとの4手ピアノで、プロコフィエフの交響曲第7番を放送委員会の作曲家と音楽学者の前で演奏。作品は好評で再度演奏され、プロコフィエフにオーケストラ版の作曲が正式に依頼されます。

1953年(32〜33歳)
◆3月、スターリン死去。


◆3月、ウクライナ人、フルシチョフが最高指導者に。
◆6月、ベルリンで反ソ連暴動発生。ソ連軍が鎮圧するものの、この年だけで東ドイツから西ドイツへの流入は30万人を超えます。
◆7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いてモスクワに入り、国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕。
◆12月、ベリヤ処刑(フルシチョフによる粛清)。

1954年(33〜34歳)
◆3月、ソ連国家保安委員会(KGB)発足。初代議長はセーロフ。

1955年(34〜35歳)

1956年(35〜36歳)
◆2月、フルシチョフによる反スターリン演説。
◆6月、ポーランドのポズナニで反ソ暴動発生。ソ連軍が鎮圧。
◆10月、ハンガリーで反ソ暴動(ハンガリー動乱)。ソ連軍が鎮圧。

1957年(36〜37歳)
◆6月、反党グループ事件発生。反フルシチョフの最高幹部保守派らによるフルシチョフ解任に向けての政治運動。幹部会11人のうち7名が賛成してフルシチョフ解任動議が可決するものの、フルシチョフは中央委員会でなければ解任はできないと時間を稼いで抵抗、ジューコフ国防大臣とセーロフKGB議長の協力を得て、中央委員会を開催し、反対派を抑えることに成功、反対派幹部を政権から追放していました(ジューコフも11月に解任)。
◆6月、ウラル核惨事発生。ウラル山中の原爆用プルトニウム製造工場で、高レベル放射性廃棄物が爆発、周辺住民45万人が被ばく。カラチャイ湖はのちに埋め立て。

1958年(37〜38歳)
◆6月、フルシチョフ、ブルガーニン首相を解任し、第1書記と首相を兼務。
◆12月、ソ連国家保安委員会(KGB)議長にシェレーピンが就任。前年にマレンコフらによるフルシチョフ解任計画をつぶして彼らを追放。フルシチョフに重用されKGB議長就任するものの、末期には寝返ってフルシチョフ解任に向けて活動していました。

1959年(38〜39歳)
●ヴェデルニコフ、グネーシン研究所(現グネーシン音楽大学)に配属。講師として学生を指導。

1960年(39〜40歳)

1961年(40〜41歳)
◆4月、元軍人で前大統領アイゼンハワーのキューバ対策を手ぬるいと批判していたケネディ大統領が、キューバ爆撃を指示、上陸作戦まで実施するものの失敗。
◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。翌月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始。


◆ソ連国家保安委員会(KGB)議長にセミチャストヌイが就任。

1962年(41〜42歳)
◆10月、キューバ危機。

1963年(42〜43歳)
●ヴェデルニコフ、グネーシン研究所(現グネーシン音楽大学)の准教授に任命。
●ヴェデルニコフ、海外ツアー開始。社会主義国が対象。

1964年(43〜44歳)
◆10月、ウクライナ生まれのロシア人ブレジネフが最高指導者に。

1965年(44〜45歳)

1966年(45〜46歳)

1967年(46〜47歳)
◆ソ連国家保安委員会(KGB)議長にアンドロポフが就任。

1968年(47〜48歳)
◆8月、チェコ事件発生。25万人から成るワルシャワ条約機構軍(ソ連、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー)が、戦車2,000輌、軍用機800機の規模でチェコスロヴァキアに侵攻し、すぐに全土を占領。ピーク時の展開人数は約50万人、戦車は6,300輌に達しましたが、チェコ軍は一貫して無抵抗、武装市民による攻撃をやめさせるための展開となり、死者は武装市民側が137人、占領軍側が112名という結果。また、一般市民の国外脱出に特に制限が無かったため、人口の約0.5%にあたる7万人の市民が国をあとにしています。



1969年(48〜49歳)

1970年(49〜50歳)
◆ソ連政府、西側とのデタント(緊張緩和)が進む中で、西側の影響を懸念し、政府との関係に問題のある人物つについては急遽凍結することとなり、たとえばグリンベルクのオランダ公演とムラヴィンスキーの日本での指揮は「中止」となっています。一方で、オイストラフ、リヒテル、ロストロポーヴィチ、ロジェストヴェンスキーなど政府との関係の良い人物については「許可」という具合に、明暗が分かれています。

1971年(50〜51歳)

1972年(51〜52歳)

1973年(52〜53歳)

1974年(53〜54歳)

1975年(54〜55歳)

1976年(55〜56歳)

1977年(56〜57歳)

1978年(57〜58歳)

1979年(58〜59歳)

1980年(59〜60歳)
●ヴェデルニコフ、モスクワ音楽院に配属。メルジャーノフの尽力によるものでした。


●ヴェデルニコフ、初めての西欧楽旅となるイタリア&イギリス・ツアー実施。

1981年(60〜61歳)

1982年(61〜62歳)

1983年(62〜63歳)
●ヴェデルニコフ、ソ連政府よりロシア共和国功労芸術家の称号を授与。

1984年(63〜64歳)

1985年(64〜65歳)
◆3月、ゴルバチョフ、最高指導者に選出。ペレストロイカ(再構築、リストラクチャー)を前面に掲げて改革を推進。
●ヴェデルニコフ、モスクワ音楽院の教授に任命。

1986年(65〜66歳)
◆4月、チェルノブイリ原発、低出力運転実験中に事故。地元ウクライナを中心に、隣接するベラルーシ、ロシアの約10万?を汚染。
◆ゴルバチョフ、グラスノスチ(情報公開)を本格化。

1987年(66〜67歳)

1988年(67〜68歳)

1989年(68〜69歳)

1990年(69〜70歳)
◆5月、エリツィン、ロシア共和国最高会議議長に就任。
●ヴェデルニコフ、ドイツのデュースブルクで開催されたプロコフィエフ・フェスティヴァルに、プロコフィエフの2人の息子、およびプロコフィエフ作品に欠かせなかった往年の名バレリーナ、ガリーナ・ウラノワと共に、参加。ソ連文化省の公式代表団の一員で、フェスティヴァルのオープニングのスピーチも任されていました。

1991年(70〜71歳)
◆8月、エリツィン、ロシア共和国大統領に就任。
◆8月、ソ連保守派によるクーデター発生。エリツィンの主導により鎮圧。
◆11月、エリツィン、首相を兼任。
◆12月、ソ連崩壊。ゴルバチョフ辞任&ソ連共産党解散。

1992年(71〜72歳)
◆1月、エリツィン、貿易、価格、通貨の自由化と緊縮財政策を導入し、市場経済への移行を準備。国債も大量に発行。
◆前年比2500%を超えるハイパーインフレ状態となり、市民生活の質が大幅に低下。GDP下落率もマイナス14.5%を記録。
◆10月、国有資産を民間に移行できるよう株式売買制度を改革。制度を利用して新興財閥が続々と誕生。

1993年(72〜73歳)
●3月10日、ヴェデルニコフ、北ドイツのピンネベルクでリサイタル開催。これが最後の公演となりました。


●7月29日、ヴェデルニコフ、胃癌のためモスクワ郊外クリャーズマの自宅で死去。同年秋には来日公演が予定されていました。



1994年
●5月、リヒテル、ヴェデルニコフゆかりの北ドイツのピンネベルクで、ヴェデルニコフ追悼リサイタルを開催。
【収録情報】

CD1
J.S.バッハ
7つのコラール前奏曲
1.ベツレヘムに生まれし幼子, BWV 603 1:52
2.いまぞ喜べ (愛するキリストの仲間たち), BWV 734 1:46
3.人みな死すべきもの, BWV643 2:25
4.甘き喜びのうちに, BWV 608 2:07
5.我ら悩みの極みにありて, BWV 641 2:36
6.目覚めよ、と呼ぶ声あり, BWV 645 6:29
7.いざ来たれ、異教徒の救い主よ, BWV 659 6:41
録音:1970年、モスクワ(モノラル)

イタリア協奏曲 ヘ長調, BWV 971
8.I (no time indication) 3:03
9.II Andante 5:47
10.III Presto 4:06
録音:1963年、モスクワ(モノラル)

15のシンフォニア
11.BWV 787 1:15
12.BWV 788 1:45
13.BWV 789 1:10
14.BWV 790 2:18
15.BWV 791 1:27
16.BWV 792 1:33
17.BWV 793 2:13
18.BWV 794 1:02
19.BWV 795 5:53
20.BWV 796 0:57
21.BWV 797 2:54
22.BWV 798 1:15
23.BWV 799 3:12
24.BWV 800 1:10
25.BWV 801 1:13
録音:1965年(モノラル)

ヘンデル:組曲第9番 ト短調
26.Allemande 4:50
27.Courante 3:11
28.Gigue 3:46
録音:1971年(ステレオ)

CD2
J.S.バッハ
イギリス組曲第1番 イ長調, BWV 806
1.Prelude 1:56
2.Allemande 4:40
3.Courante I 1:21
4.Courante II 1:59
5.Double I 2:02
6.Double II 1:59
7.Sarabande 4:13
8.Bourree I 1:53
9.Bourree II 2:26
10.Gigue 2:15

イギリス組曲第2番 イ短調, BWV 807
11.Prelude 4:11
12.Allemande 3:35
13.Courante 1:31
14.Sarabande 7:40
15.Bourree I 1:59
16.Bourree II 2:00
17.Gigue 1:55

イギリス組曲第3番 ト短調, BWV 808
18.Prelude 2:51
19.Allemande 3:22
20.Courante 2:03
21.Sarabande 7:51
22.Gavotte I 1:25
23.Gavotte II 1:28
24.Gigue 2:19
録音:1978年(ステレオ)

CD3
J.S.バッハ
イギリス組曲第4番 ヘ長調, BWV 809
1.Prelude 4:04
2.Allemande 3:01
3.Courante 1:20
4.Sarabande 3:26
5.Menuet I 1:09
6.Menuet II 2:02
7.Gigue 2:51

イギリス組曲第5番 ホ短調, BWV 810
8.Prelude 4:26
9.Allemande 3:40
10.Courante 1:55
11.Sarabande 3:31
12.Passepied I 1:14
13.Passepied II 2:07
14.Gigue 2:27
録音:1978年(ステレオ)

イギリス組曲第6番 ニ短調, BWV 811
15.Prelude 7:02
16.Allemande 3:51
17.Courante 2:03
18.Sarabande 4:49
19.Double 4:27
20.Gavotte I 1:23
21.Gavotte II 1:47
22.Gigue 3:00
録音:1962年(モノラル)

CD4
スクリャービン
1.ピアノ・ソナタ第9番, Op.68 「黒ミサ」  8:23
2.ピアノ・ソナタ第10番, Op.69 12:09
録音:1969年(モノラル)

3つの練習曲, Op.65
3.Allegro fantastico 4:29
4.Allegretto 2:14
5.Molto vivace 1:44

24の前奏曲, Op.11
6.No.1 in C major 0:46
7.No.2 in A minor 2:36
8.No.3 in G major 0:48
9.No.4 in E minor 2:39
10.No.5 in D major 2:19
11.No.6 in B minor 0:50
12.No.7 in A major 0:55
13.No.8 in F sharp minor 1:31
14.No.9 in E major 1:53
15.No.10 in C sharp minor 1:27
16.No.11 in B major 2:00
17.No.12 in G sharp minor 2:24
18.No.13 in G flat major 2:08
19.No.14 in E flat minor 0:55
20.No.15 in D flat major 2:56
21.No.16 in B flat minor 1:19
22.No.17 in A flat major 0:59
23.No.18 in F minor 0:52
24.No.19 in E flat major 1:12
25.No.20 in C minor 1:00
26.No.21 in B flat major 2:17
27.No.22 in G minor 1:34
28.No.23 in F major 0:39
29.No.24 in D minor 0:49
録音:1975年

CD5
ドビュッシー
前奏曲集第2巻より6曲
1.第4曲 妖精たちはあでやかな踊 3:16
録音:1963年(モノラル)

2.第5曲 ヒースの荒地 2:55
録音:1962年(モノラル)
3.第7曲 月光のふりそそぐテラス 5:57
4.第8曲 水の精 3:15
5.第11曲 交代する3度 2:37
6.第12曲 花火 4:16
録音:1963年(モノラル)

映像 第1集
7.水の反映 5:45
録音:1967年(モノラル)

8.ラモーを讃えて 9:42
9.動き 3:22
録音:1962年(モノラル)

映像第 2集
10.葉ずえを渡る鐘の音 5:58
11.荒れた寺にかかる月 6:35
録音:1967年(モノラル)
12.金魚 4:16

13.雨の庭 (版画 第3曲) 3:32
録音:1962年(モノラル)

CD6
ドビュッシー
12の練習曲
1.第1番 本の指のための (シェルニー氏にならって) 2:40
2.第2番 3度のための 3:11
3.第3番 4度のための 5:43
4.第4番 6度のための 4:52
5.第5番 オクターブのための 2:38
6.第6 番 8本の指のための 1:31
7.第7 番 半音階のための     2:05
8.第8 番 装飾音のための 5:02
9.第9 番 反復音のための 3:10
10.第10番 対比的な響きのための 6:51
11.第11 番 組み合わされたアルペジオのための 4:07
12.第12 番 和音のための 4:05
録音:1957年(モノラル)

ベルガマスク組曲
13.前奏曲 4:24
14.メヌエット 4:20
15.月の光 6:57
16.パスピエ 3:54
録音:1962年(モノラル)

CD7
ドビュッシー
ピアノのために
1.前奏曲 3:29
2.サラバンド 5:30
3.トッカータ 3:26
録音: 1967年(ステレオ)

前奏曲集第1巻
4.デルフィの舞姫たち 3:51
5.帆 (ヴェール) 4:50
6.野を渡る風 2:24
7.音と香りは夕暮れの大気に漂う 4:07
8.アナカプリの丘 3:24
9.雪の上の足跡 4:25
10.西風の見たもの 3:21
11.亜麻色の髪の乙女 2:44
12.とだえたセレナード 2:42
13.沈める寺 7:33
14.パックの踊り 2:48
15.ミンストレル 2:24
録音: 1989年(ステレオ)

CD8
シューマン
1.トッカータ, Op.7 6:59

幻想曲 ハ長調, Op.17
2.Durchaus fantastisch und leidenschaftlich vorzutragen 13:00
3.Masig. Durchaus energisch 7:57
4.Langsam getragen. Durchweg leise zu halten 12:19
録音: 1970年(ステレオ)

ラヴェル
組曲「クープランの墓」
5.Prelude 2:41
6.Fugue 4:19
7.Forlane 8:43
8.Rigaudon 3:21
9.Menuet 4:05
10.Toccata 4:15
録音: 1976年(ステレオ)

11.水の戯れ 5:11
録音: 1953年(モノラル)

CD9
ショパン
ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調, Op.35
1.Grave - Doppio movimento 6:09
2.Scherzo 7:21
3.Marche funebre: Lento 9:58
4.Finale: Presto 1:31
録音: 1973年(ステレオ)

5.スケルツォ第2番 変ロ短調, Op.31 9:39
6.スケルツォ第3番 嬰ハ短調, Op.39 7:08
7.バラード第1番 ト短調, Op.23 9:59
8.バラード第2番 ヘ長調, Op.38 8:01
録音: 1977年(ステレオ)

9.マズルカ第2番 イ短調, Op.68 2:29
録音: 1953年(モノラル)

ウェーバー
10.華麗なるロンド「ざれごと」変ホ長調, Op.62 4:45
録音: 1953年(モノラル)

CD10
リスト
1.ローレライ ト長調    8:27
2.メフィスト・ワルツ第1番   10:54
録音: 1969年(モノラル)

3.エステ荘の噴水    6:16
録音: 1953年(モノラル)

シューマン
ピアノ・ソナタ第2番 ト短調, Op.22
4.So rasch wie moglich 4:47
5.Andantino 5:18
6.Scherzo: Sehr rasch und markiert 1:44
7.Presto 4:58
録音: 1966年(モノラル)

8.プレスト ト短調 5:45
録音: 1953年(モノラル)

ウェーバー:ピアノ・ソナタ第1番 ハ長調, Op.24
9.Allegro 8:16
10.Adagio 8:26
11.Menuetto: Allegro 8:18
12.Rondo: Presto 3:48
録音: 1959年(モノラル)

CD11
ヒンデミット
ピアノと管弦楽のための主題と変奏「4つの気質」
1.Theme 5:44
2.Melancholisch 6:41
3.Sanguinisch 5:48
4.Phlegmatisch 5:16
5.Cholerisch 6:22
録音: 1967年
レングラード室内管弦楽団
Lazar Gozman(指揮)

ピアノ・ソナタ第1番「マイン川」イ長調
6.I. Ruhig bewegte Viertel 1:49
7.II. Im Zeitmas eines sehr langsamen Marsches; 6:56
Etwas lebhafter; Im Anfangszeitmas
8.III. Lebhaft; Lebhafter 5:53
9.IV. Ruhig bewegte Viertel, wie im ersten Teil 1:59
10.V. Lebhaft; Energisch; Lebhaft, wie fruher 6:57
録音: 1965年

チェロとピアノのためのソナタ第2番 (1948)
11.Pastorale 7:33
12.Moderately fast 6:36
13.Passacaglia 10:33
録音: 1964年 - ナターリヤ・グートマン(チェロ)

CD12
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調, Op.27「月光」
2.Adagio sostenuto 7:21
3.Allegretto 2:48
4.Presto Agitato 7:03

ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調, Op.31「テンペスト」
5.Largo 9:00
6.Adagio 8:22
7.Allegretto 6:59
録音: 1974年

1.創作主題による32の変奏曲 ハ短調, WoO.80 10:32
録音: 1973年

CD13
ハイドン:ピアノ・ソナタ ホ短調 HOB.XVI:34
1.Presto 5:38
2.Adagio 7:10
3.Vivace molto 3:28

モーツァルト:ピアノ・ソナタ イ長調, K.331
4.Tema con Variazioni 12:53
5.Menuetto 7:27
6.Alla turca 3:43
録音: 1969年

ヨハン・ルートヴィヒ・クレープス (1713-1780)
パルティータ第2番 変ロ長調
7.Preludio 3:06
8.Fuga 3:28
9.Allemande 2:23
10.Corranta 2:17
11.Sarabande 5:16
12.Bourlesca 4:22
13.Menuet 1, 2 & 3 6:01
14.Gigue 1:44
録音: 1963年(モノラル)

CD14
ブラームス :ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調, Op.5
1.Allegro maestoso 10:10
2.Andante 13:06
3.Scherzo: Allegro energico 4:47
4.Intermezzo: Andante molto 4:04
5.Allegro moderato, ma rubato 7:42
録音: 1969年(モノラル)

6.フランク:前奏曲,フーガと変奏 ロ短調, Op.18 (編曲.ヴェデルニコフ) 11:46
録音:1967年(モノラル)

J.S.バッハ:2台のピアノのための協奏曲 ハ長調, BWV1061
7.Allegro 7:00
8.Adagio, ovvero Largo 5:28
9.Fuga 5:02
録音:1959年12月21日
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
モスクワ室内管弦楽団,
ルドルフ・バルシャイ(指揮)

CD15
プロコフィエフ
ディヴェルティメント Op.43bis
1.Divertissement: Moderato, molto ritmato 3:33
2.Nocturne: Larghetto 5:14
3.Dance: Allegro energico 2:58
4.Epilogue: Allegro non troppo e pesante 3:47
録音: 1962年(モノラル)

ピアノ・ソナタ第5番 ハ長調, Op.135 (Op.38 [1923] revision 1952-53)
5.Allegro tranquillo 6:04
6.Andantino 3:53
7.Un poco allegretto 4:52
録音: 1959年

ストラヴィンスキー:ペトルーシュカ組曲 (編曲.ヴェデルニコフ)
8.Russian Dance 2:29
9.Petrushka's Room 4:02
10.The Shrovetide Fair 12:39
録音: 1963年

バルトーク:2台のピアノと打楽器のためのソナタ
11.Assai lento; Allegro molto 14:42
12.Lento, ma non troppo 7:17
13.Allegro non troppo 6:37
録音:1956年2月2日 or 1956年10月2日 (ライブ)
モスクワ音楽院小ホール
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
ルスラン・ニクリン、ヴァレンタイン・スネギレフ、アンドレイ・ヴォルコンスキー(打楽器)

CD16
プロコフィエフ
ピアノのための4つの小品, Op.3
1.おとぎ話 3:52
2.冗談 0:47
3.行進曲 0:42
4.幻影 0:40

ピアノのための4つの小品, Op.4
5.思い出 2:53
6.衝動 1:01
7.絶望 4:46
8.悪魔的暗示 2:38

ピアノのための10の小品, Op.12
9.Marche 1:27
10.Gavotte 2:46
11.Rigaudon 1:18
12.Mazurka 1:38
13.Caprice 3:47
14.Legende 3:40
15.Prelude 2:08
16.Allemande 2:48
17.Scherzo Humoristique 2:33
18.Scherzo 2:27

19.ガヴォット第4番, Op.77 bis 〜ピアノのための「ハムレット」より 2:55
録音: 1965年

ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調「左手のための」, Op.53
20.Vivace 4:13
21.Andante 10:09
22.Moderato 7:47
23.Vivace 1:27
録音: 1960年 -モスクワ放送交響楽,レオ・ギンズブルク(指揮)

CD17
プロコフィエフ
思考 (3つの小品) Op.62
1.Andante 5:00
2.Lento 3:08
3.Andante 7:11
録音: 1962年(モノラル)

ストラヴィンスキー
4手のための3つのやさしい小品
4.March (to Alfredo Casella) 1:12
5.Waltz (to Erik Satie) 1:38
6.Polka (to Sergei Diaghilev) 0:59

4手のための5つのやさしい小品
7.Andante 1:25
8.Espanola 0:56
9.Balalaika 0:47
10.Napolitana 1:11
11.Galop 1:54
録音:1986年 -タティアーナ・クラソーヴァ(ピアノ)

ゲルマン・ガリーニン(1922-1966)
ソナタ・トライアッド (三幅対のソナタ)
12.Sonata in B minor 4:59
13.Sonata in E minor 8:05
14.Sonata in B major 4:31
録音:1971年

ガリーナ・ウストヴォーリスカヤ (1919-2006)
15.ピアノ・ソナタ第2番 (1949年ヴェデルニコフへ献呈) 10:10
録音:1992年6月16日, Pinneberg (ライブ)

アナトリー・ヴェデルニコフ(ピアノ)




商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ

弦楽四重奏団
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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大分以前に「ヴェデルニコフの芸術」として...

投稿日:2020/06/18 (木)

大分以前に「ヴェデルニコフの芸術」としてデノンから大量に発売されましたね。私はそのときはあまり関心がなかったので、ショパン、バッハ、ベートーヴェンを数枚買っただけだったのですが、その後、聴き込むほどに魅力にはまりました。特にバッハの求道者のような厳しさはとても惹きつけられました。 しかし、そのときにはすでに多くが廃盤になっていて、中古盤も、ものによってはかなり高値が付いていて、あのとき大人買いしておけば良かったなと後悔したことを覚えています。 下の方も指摘されているように、ベートーヴェンの最後の3曲のソナタ、ハンマークラヴィーア、ハイドンのソナタ、モーツァルトのソナタ、ブラームスの小品、バッハ「パルティータ全曲」、ロジェストヴェンスキーとのモーツァルトのピアノ協奏曲15、23番などがあったように記憶していますが、今回のスクリベンダムには入っていませんね。今回の編集をみていると、先に挙げた録音が含まれないなど、独墺系よりはロシア、フランスの作品に重点を置いているように感じました。 ヴェデルにコフは技巧派というよりは(技巧は十分にありますが)、作品の神髄に迫っていくような迫力が魅力でしょうか。音自体はそれほどきれいというわけではないですが、木質系の素朴な温かい音です。それだけにバッハ、ベートーヴェンが素晴らしいのは言うまでもなく、まだ全部聴いていませんがロシア物やフランス物でも、なかなか切れのあるテクニックで鮮やかに弾いているのが素晴らしかったです。 たぶんこれだけの規模で再発されることはもうないかと思いますので、興味のある方は早めに買っておいた方がいいかと思います。

kadoshin さん | 東京都 | 不明

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スクリャービン「24の前奏曲Op.11」は、作...

投稿日:2020/06/15 (月)

スクリャービン「24の前奏曲Op.11」は、作曲者がショパンの影響下にあった時期の作品である特徴が、極めて明確に示される演奏である。スクリャービンの作品演奏において何か独自性を出そうという姿勢とは異なる。それは、練習曲op.65、ソナタ第10番を聴けば明確になる。 Scribendumからこれまでに発売された、ソフロニツキー、ユーディナ、ニコラーエワ、グリンベルクのセットは全集といえる内容だが、ヴェデルニコフのこのセットは枚数が17枚と他と比べてやや少なく、わかる限りではベートーヴェンのピアノソナタ第1,29,30,31,32番が収められていない。

bonbon さん | 千葉県 | 不明

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