バルビローリ、ジョン(1899-1970)

バルビローリ、ジョン(1899-1970) プロフィール

バルビローリ、ジョン(1899-1970) | プロフィール | CD、DVD、ブルーレイ(BD)、ゲーム、グッズなどを取り扱う【HMV&BOOKS online】では、コンビニ受け取り送料無料!国内最大級のECサイトです!いずれも、Pontaポイント利用可能!お得なキャンペーンや限定特典アイテムも多数!支払い方法、配送方法もいろいろ選べ、非常に便利です!


【年表】
1899年(0歳)
●9月18日、バルビローリの最初の妻でオペラ歌手のマージョリー・ベリル[1899-1993]誕生。
●12月2日、ジョヴァンニ・バッティスタ・バルビローリ誕生。生家はロンドン中心部のホルボーンにある高級菓子店の上の階で、コヴェントガーデンや大英博物館のすぐ近くという立地。6つの部屋に、姉ローザ、弟ピエトロ、父ロレンツォ、母ロジーナ、父の妹エリザ、祖父アントニオ、祖母ロジーナと暮らす3世代家族で、父と父の妹と祖父母はイタリア人、母はフランス人という民族構成から、家庭内での第1言語はイタリア語(ヴェネツィア語)、第2言語はフランス語(ガスコーニュ語)、第3言語が英語(コックニー)となっていました。ほどなくイギリス人のメイドも加わりますが、彼女も職務上ヴェネツィア語を学ぶ必要があったほど、家の中ではヴェネツィア語が飛び交っていました。
ちなみに一家はローマ・カトリックで、フランス語にも親しんでいたため、日曜日のミサは、レスター・スクウェアのノートルダム・ド・フランス教会に通っており、そうした背景もあってバルビローリと姉のローザは、同教会の付属幼稚園に通うことになります。

祖父アントニオ[1840-1907]
祖母ロジーナ[1841-1928]
父ロレンツォ[1864-1929]
母ルイーズ・マリー[1870-1962]
叔母エリザ[1869-?]
姉ローザ[1897-?]
弟ピエトロ[1911-1993]

19世紀から音楽家を輩出してきたヴェネツィアのバルビローリ・ファミリーの系譜に連なる祖父アントニオと父ロレンツォは共にヴァイオリニスト。ヴェネツィア近郊の生地ロヴィーゴの劇場のオーケストラで、父がコンサートマスター、ロレンツォが第2ヴァイオリン奏者として演奏したりしていました。
1884年、ロレンツォは若きトスカニーニ[1867-1957]のピアノ伴奏でヴァイオリン演奏をした経験があり、トスカニーニは後年、バルビローリに対してその思い出を語ってもいます(ちなみにトスカニーニはパルマ音楽院でチェロもピアノも最高点の成績でした)。
父ロレンツォと祖父アントニオは、その後、ミラノ・スカラ座管弦楽団に所属し、1887年2月5日には、トスカニーニもチェロを弾いていたヴェルディの『オテロ』の初演に揃って出演するなどしています。
ほどなく、トスカニーニが1886年にリオ・デ・ジャネイロで『アイーダ』代役指揮で成功を収めてもいたイタリア巡業歌劇団に参加、フランス・ツアーに同行してパリを訪れ、公演終了後もバルビローリ親子はしばらく同地に滞在することになります。
ロレンツォはハンガリー・スタイルのバンドに職を得て活動し、フランス語も習得、やがてパリ中心部にあるサントノーレ通りのレストランでルイーズと出会って親しくなり、ルイーズはヴェネツィア語を学ぶようになります。
ルイーズは1870年10月3日にピレネー山脈近くの美しい海岸の町アルカションに生まれた女性で、叔父の経営するパリのレストランを時折手伝っていました。2人が交際し始めて間もない1892年5月から、ロレンツォはハンガリー・バンドのサヴォイ・ホテル公演のためにロンドンに滞在しますが、バンドはトラブルにより解散したため、同地で仕事を探すもののなかなか見つからず、ルイーズに連絡もできませんでした。
業を煮やしたルイーズは、貯えをロンシャン競馬場で増やそうとしますがうまくゆかず、それでも何とかしてロンドンに渡って、ニュー・ボンド・ストリートでドレスメーカーとして働き、ロレンツォもレスター・スクエアのオーケストラに入団、2人でロンドンのイタリア人居住地区に移り住み、1897年1月2日、クラーケンウェル・ロードにあるローマ・カトリックの聖ピエトロ教会で挙式。ルイーズは、同年中に長女ローザ、1899年12月2日に長男ジョヴァンニ、1911年1月17日に次男ピエトロを出産しています。


1903年(4歳) ノートルダム・ド・フランス教会付属幼稚園
●バルビローリのヴァイオリン・レッスンが開始。
●バルビローリがレスター・スクウェアのノートルダム・ド・フランス教会付属幼稚園に通い始めます。


●父ロレンツォが大のファッション好きだったことから、幼いバルビローリはそのマニアックなターゲットになり、自分と同じタイプのネクタイ、ワイシャツ、スーツ、山高帽、コート、ステッキ(!)を、小さな体のためににあつらえて着せ、教会や散歩などによく連れまわすようになります。母は強く反対していましたが無駄でした。


1904年(5歳) ノートルダム・ド・フランス教会付属幼稚園
●バルビローリがワインを飲み始めます。


1905年(6歳) 聖クレメント・デーンズ・ホルボーン・エステート・グラマースクール予備クラス
●バルビローリは聖クレメント・デーンズ・ホルボーン・エステート・グラマースクールの予備クラスに通い始めます。


1906年(7歳) 聖クレメント・デーンズ・ホルボーン・エステート・グラマースクール予備クラス
●バルビローリは7歳でチェロに転向。これはバルビローリがヴァイオリンを演奏する際にウロウロ歩き回ることを嫌った祖父アントニオが、子供用のチェロを買い与えたことがきっかけでした。チェロの教師はドイツ人。


1907年(8歳) 聖クレメント・デーンズ・ホルボーン・エステート・グラマースクール
●バルビローリが聖クレメント・デーンズ・ホルボーン・エステート・グラマースクールに入学。
●7月、祖父アントニオ死去。


1908年(9歳) 聖クレメント・デーンズ・ホルボーン・エステート・グラマースクール


1909年(10歳) 聖クレメント・デーンズ・ホルボーン・エステート・グラマースクール
●バルビローリはバッハの無伴奏チェロ組曲に取り組み始めたほか、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のチェロ・パートの勉強も開始。また、ハイドンやストラヴィンスキー、プッチーニといった作品にもはまっていきます。


1910年(11歳) 聖クレメント・デーンズ・ホルボーン・エステート・グラマースクール、トリニティ・カレッジ・オブ・ミュージック
●バルビローリはトリニティ・カレッジ・オブ・ミュージックに入学。


1911年(12歳) トリニティ・カレッジ・オブ・ミュージック
●1月17日、弟ピエトロ誕生。
●録音、バルビローリは11歳で初のレコーディング・セッションを経験。エディソン・ベル・レコードにチェロの独奏曲を録音するという企画で、シリンダー方式での録音でした。曲目は、当時の人気曲であるビーネの『ブロークン・メロディ』、ワーグナーの『タンホイザー』のアリア「夕星の歌」、当時はペルゴレージの作曲とされていた歌曲『ニーナの死』(実際にはチャンピの作曲)、トメの歌曲『飾らぬ告白』の4曲で、ピアノ伴奏は姉のローザ・バルビローリが担当。レコーディング報酬は2ギニー(2.2ポンド)。演奏スタイルは、ヴィブラートが普及する前の時代ということで、当時の流行でもあったポルタメントを多用したものとなっていました。
●12月16日、ゴルターマンの技巧的なチェロ協奏曲を弾いてデビュー。このコンサートは、トリニティ・カレッジが毎年、優秀な学生を対象にクイーンズ・ホール開催しているものですが、バルビローリは前年に入学したばかりながら、11歳でレコード制作をおこなったこともあって注目度も高く、チェロのソリストに選ばれることに。
そしてこのコンサートでの演奏ぶりが、王立音楽アカデミーのチェロ科教授、ハーバート・ウォレン[1870-1953]の目に留まり、翌年、奨学金を得て王立音楽アカデミーに入学することが決まります。
●バルビローリはベートーヴェンのすべての弦楽四重奏曲のチェロ・パートを習得。続いてドビュッシーとラヴェルの音楽にのめりこみます。


1912年(13歳) トリニティ・カレッジ・オブ・ミュージック、王立音楽アカデミー
●9月、バルビローリは王立音楽アカデミーに入学。チェロ、和声、対位法、理論を勉強。演奏時の登録名は本名と同じくジョヴァンニ・バルビローリ。家庭ではティータと呼ばれていました。


1913年(14歳) 王立音楽アカデミー
●6月13日、バルビローリは奨学金を獲得。
●バルビローリ、レスター・スクウェアの劇場のオーケストラでチェロ奏者として演奏するようになります。
●バルビローリはムソルグスキーの『禿山の一夜』や『ボリス・ゴドゥノフ』に衝撃を受けます。


1914年(15歳) 王立音楽アカデミー
●バルビローリ、チェロ演奏の成果により、「チャールズ・ルーブ賞」、「ボナミ・ドブレ賞」を受賞。
◆5月、ドイツが宣戦布告、フランスとベルギーに対して。
◆8月、オーストリア=ハンガリーが宣戦布告、セルビアとロシアに対して。
◆8月、ドイツが宣戦布告、ロシアに対して。
◆8月、イギリスが宣戦布告、ドイツとオーストリア=ハンガリーに対して。
◆8月、フランスが宣戦布告、オーストリア=ハンガリーに対して。
◆11月、イギリス、フランス、ロシアが宣戦布告、オスマン帝国に対して。
◆11月、イギリス海軍、「ドイツ封鎖」を開始。海軍艦艇と機雷敷設により、北海などドイツへの接続海域を1919年7月まで5年間に渡って海上封鎖。この封鎖が原因でドイツ国内で飢餓や疫病が深刻化、約42万4千名が犠牲になっています(ドイツ側発表では約76万3千名)。
◆第1次大戦参戦により、イギリスはそれまで海外投資で得ていた多額の収益を喪失。


1915年(16歳) 王立音楽アカデミー、
◆1月、ドイツ軍、ツェッペリン飛行船によるイギリス空爆を開始。キングズ・リン、シェリンガムなどを爆撃。キングズ・リンはのちにバルビローリが深く関わる音楽祭の開催地でもあります。
◆5〜10月、ドイツ軍、ツェッペリン飛行船により複数回のロンドン空爆を実施。戦果は乏しかったものの、一般市民を無差別に攻撃したということで、心理的な影響は大きかったようです。また、新聞が詳細な場所や被害を報じるなど、結果的にドイツ側を利するものとなっていたため、イギリス政府は報道管制を導入。
◆5月、イギリスの豪華客船ルシタニア号がドイツ軍のUボートにより撃沈。乗員・乗客1,959名のうち、61%にあたる1,198名が死去。また、アメリカ人乗客に関しては139名中128名、死亡率92%という状況でした。これは海難事故の場合、船内の下層からの脱出が困難なことが原因と考えられます。船内スペースの使用が限定され、上層とは生活・居住スペースが隔離されていた格安チケットの三等旅客ブロック(1,186名収容可能)の乗客は、魚雷攻撃など爆発による急速な沈没(このケースでは18分)では助かる見込みが極端に少なくなるのに対し、乗組員の多くと、上層の1等旅客&2等旅客ブロック(計1,012名収容可能)は生存確率が高くなる傾向があり、実際に船長も助かっています。仮に犠牲者のほとんどが三等旅客だったとすると死亡率は89%となり、アメリカ人乗客の死亡率と近いものとなります。なお、この魚雷攻撃は、イギリス海軍による「海上封鎖」に対抗するためドイツ海軍が策定した「無制限潜水艦作戦」の一環としておこなわれたもので、在米ドイツ大使館によってアメリカの新聞で予告されていたほか、事件の後にはミュンヘンで攻撃成功を祝う記念メダルが発行され、さらにイギリスでは、そのコピー品が25万枚以上も販売されていました。


◆10月、イギリス、フランス、イタリア、ロシアがブルガリアに対して宣戦布告。
●バルビローリ、チェロ演奏の成果により、「ピアッティ賞(1等)」受賞。


1916年(17歳) 王立音楽アカデミー、ニュー・クイーンズ・ホール管弦楽団員
◆1月、ドイツ軍、新型のツェッペリン飛行船を導入してロンドンを空爆。以後、年内に22回のツェッペリン飛行船による空爆をおこなって、計125トンの爆弾を投下、死者293人、負傷者691人という被害を与えますが、悪天候に弱く、迎撃された場合にほぼ無防備、さらに爆撃命中精度も低いということもあって、翌年5月以降は主役はゴータ重爆撃機に引き継がれていきます。
●バルビローリはボクシングに熱中。YMCAのフライ級の試合などに出場し、鼻が少し変形するほどの負傷を負ってもいました。
●バルビローリは学生仲間と弦楽四重奏団を結成。学長で作曲家のマッケンジーに禁じられていたラヴェルの弦楽四重奏曲をひそかに練習。
●5月23日、仲間との弦楽四重奏コンサートで、ラヴェル:弦楽四重奏曲、フランク・ブリッジ:「3つの牧歌」、ジョン・ブラックウッド・マキュアン:「3つの小品」、ヒュー・プリーストリー=スミス:「エレジー」を演奏。ブリッジの「牧歌」は21年後にブリテンが変奏曲にその主題を用いて有名になった作品。「エレジー」は前年にドイツ軍との戦いで戦死した学生を悼んだ作品。
●バルビローリは王立音楽アカデミーを卒業。
●バルビローリはニュー・クイーンズ・ホール管弦楽団にチェロ奏者として参加。当時16歳で、楽団で最も若いメンバーでした。ドイツ軍ツェッペリン飛行船の爆撃の続く中、プロムスも実施します。
●バルビローリはカール・ローザ・オペラ・カンパニーの楽団でもときおりチェロを演奏。
●「ビーチャム・オペラ・カンパニー」、父の遺産を相続したビーチャムにより創設。ビーチャムの父でビーチャムズ・ピルの2代目社長でもあったジョセフは10月23日に死去していました。


1917年(18歳) ニュー・クイーンズ・ホール管弦楽団員、ビーチャム・オペラ・カンパニー楽団員
◆2月、ドイツ海軍、無制限潜水艦作戦を再開。民間船も含めて無差別に多数の船舶を撃沈。
◆5〜6月、ドイツ空軍、翼長約24メートルのゴータ重爆撃機による昼間爆撃開始。飛行船に較べて命中精度が大幅に向上、小学校でも多くの犠牲者を出すなどした結果、ドイツでは爆撃クルーに勲章を授与。
◆6月、ドイツ軍、ツェッペリン飛行船6機を爆撃に向かわせ、火薬庫などの爆撃に成功するものの、悪天候とイギリス空軍の反撃により大きな被害を受けます。


●6月13日、ロンドンのエオリアン・ホールでチェロ・リサイタル開催。
◆7〜8月、イギリス軍の防空体制が強化され、ゴータ重爆撃機編隊への被害が増大。
●夏、ビーチャム・オペラ・カンパニーのオーケストラにチェロ奏者として参加。ツェッペリン飛行船とゴータ爆撃機による爆撃の続く中、オペラ上演がおこなわれます。ビーチャム・オペラ・カンパニーは、指揮者トーマス・ビーチャム[1879-1961]が1915年、父の遺産により設立したオペラ・カンパニー。
◆9月、ドイツ空軍、ゴータ重爆撃機による夜間爆撃を開始。
◆9月28日、ドイツ空軍、翼長約42メートルの巨大爆撃機「ツェッペリン・シュターケンR.VI」を夜間爆撃に投入。以降、計11回の爆撃で28トンの爆弾を投下。バルビローリもコヴェントガーデン近くにいた時に爆撃に遭遇したものの無事でした。


●11月29日、ロンドンのエオリアン・ホールで再びチェロ・リサイタル開催。
●12月12日、バルビローリは18歳の誕生日の10日後に陸軍に志願の手続き。配属は約2か月後でした。
◆12月、アメリカがオーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告。
◆12月、ロシア、ドイツと休戦協定を締結。


1918年(19歳) ビーチャム・オペラ・カンパニー楽団員
●2月2日、バルビローリの兵役開始。まずロンドンのハウンズロー・バラックス騎兵駐屯所に入営。続いてロンドン中心部から30キロほど東南東に位置するグレーヴセンドのサフォーク連隊第一予備守備隊大隊の所属となります。
◆3月、ドイツ空軍、ゴータ重爆撃機による最後の爆撃。38機で出撃し13機の損失。約9か月間の爆撃で、61機を失い、約93トンの爆弾を投下しています。
◆3月、アメリカで超強力なインフルエンザが発生。6月にはボストンで5,000人近い死者が出るなど大流行が始まり、折からのアメリカ外征軍のヨーロッパへの膨大な数の兵士派遣と共に感染が世界的に拡大、多くの犠牲を出し、第1次世界大戦終結を早める要因ともなります。
なお、このインフルエンザは世界大戦下で感染爆発したため、報道管制の無かった中立国スペインでの被害報道が目立ってしまい、結果として「スペインかぜ」と名付けられてしまいますが、実際に世界的な感染拡大に大きな役割を果たしたのは、スペインではなく、インフルエンザの発生元で、膨大な数の兵士をヨーロッパなど世界各国に派遣していたアメリカでした。
ちなみにバルビローリが指揮をするようになったのも、指揮者の将校がスペイン風邪に倒れたことがきっかけです。
●5月、バルビローリの所属する部隊は、グレーヴセンドの東約25キロのところにあるアイル・オブ・グレインで駐屯開始。

対毒ガス兵器訓練教官、ライフル射撃一級、初の指揮体験
1918年5月、バルビローリの所属する部隊は、グレーヴセンドの東約25キロのところにあるアイル・オブ・グレインで駐屯開始。同地はテムズ川河口近くの湿地帯という過酷な環境で、日々の訓練も大変でしたが、バルビローリは?み込みの速さと持ち前の指導力で、各種ガスマスクなど対毒ガス兵器訓練のインストラクターとなり、さらにライフルの方も腕を上げて射撃一級と認定され、給与に報奨金が追加されるほどでした。
隊には音楽家も多く所属し、空き時間に演奏も可能だったため、バルビローリは休暇で帰宅した際にチェロを持参、やがてアマチュア・ヴァイオリニストでもあるグランサム大佐の許可を得て室内楽団を結成、ボーナム中尉の指揮のもと、部隊の兵士を相手に演奏することとなります。しかしほどなくボーナム中尉がスペイン風邪(アメリカ発インフルエンザ)に倒れたため、バルビローリが指揮をするようになり、『軽騎兵』序曲やコルリッジ=テイラーの小組曲などを演奏することとなります。
その他、バルビローリはオフを利用してグレーヴセンド教区教会オルガニストの家で開かれる室内楽リサイタルにも頻繁に参加したほか、教会の礼拝でチェロを弾いたりもしていました。
ちなみに隊では、「ジョヴァンニ」という名前が発音しにくい者もいたことから「ジョン」という呼称を選択、以後、ジョン・バルビローリという名前を使用するようになります。また、「バルビローリ」という名前の発音も苦手だったアル中気味の年配のアイルランド人オーボエ奏者は、「ボブ・オライリー」と勝手に命名して呼んでいました。


◆イギリス政府、30歳以上の女性に参政権付与。男女完全平等での選挙は10年後の1928年に実施。


1919年(20歳) ビーチャム・オペラ・カンパニー楽団員
●4月28日、バルビローリは動員解除休暇を取得し、陸軍を除隊。
●春、ディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のオーケストラに参加。エルネスト・アンセルメ[1883-1969]の指揮で『火の鳥』『ペトルーシュカ』など演奏。また、指揮が苦手なファリャがいやいや引き受けた『三角帽子』の自演では、自分で書いたリズムを指揮することができないという場面にも遭遇しています。
◆6月、ドイツ、ヴェルサイユ条約批准。
●10月、エルガー[1857-1934]のチェロ協奏曲初演に、オーケストラのチェロ奏者として参加。しかし同日に別公演のリハーサルをおこなっていたアルバート・コーツ[1882-1953]のわがままのために、肝心のエルガー本人の指揮によるリハーサルの時間がほとんど取れず、エルガー指揮、サモンド独奏でおこなわれた初演はいまいちの結果に。ちなみにコーツはロシア生まれのロシア育ちですが、ロシア革命を嫌って、この公演の半年前に父親の国イギリスに移住してきたばかりでした。


1920年(21歳) ビーチャム・オペラ・カンパニー楽団員
●1月、ダブリンでソロ・リサイタル開催。
●3月25日、ホルスト『イエスの賛歌』初演にオーケストラのメンバーとして参加。
●4月、イースター休暇にイギリス南西部の景勝地サマセットのマインヘッド・ホテルに滞在、ピアノ四重奏のメンバーとして1日2回の演奏を週7ポンドで請け負います。ヴァイオリンはのちにEMIのプロデューサーになるヴィクター・オロフ[1898-1974]、ピアノは王立音楽アカデミーでの友人だったレイ・ロバートソンが担当。
●4月、アンナ・パブロワのロンドンへの復帰公演にチェロ奏者として参加。有名な『瀕死の白鳥』でのチェロ演奏のすばらしさによりパブロワから絶賛されます。
●5〜7月、ビーチャム・オペラ・カンパニー3年目のシーズンに、プッチーニ『三部作』イギリス初演に参加、指揮はガエターノ・バヴァニョーリ。プッチーニ本人も立ち会います。
●ビーチャム・オペラ・カンパニー解散。


1921年(22歳)
●1月27日、チェロ奏者として、エルガーの『チェロ協奏曲』を演奏。共演はダン・ゴドフリー指揮ボーンマス交響楽団。
●12月、「ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー」創設。「ビーチャム・オペラ・カンパニー」の資産を受け継ぐ形でスタートし、1929年に改組・再編され「コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー」に。


1922年(23歳)
●12月、キングズウェイ・ホールでチェロ・アンサンブルを指揮。恩師ハーバート・ウォレンの運営するチェロ・スクールの学生たちによるアンサンブルで、フェリックス・ホワイト[1884-1945]の12人のチェロのための『夜明け』初演などおこないます。


1923年(24歳) インターナショナル弦楽四重奏団員
●この年の終わりから1926年にかけて、フランス生まれのアンドレ・マンジョー[1883-1970]がロンドンで結成したインターナショナル弦楽四重奏団で、ときおりチェロを演奏。。


1924年(25歳) インターナショナル弦楽四重奏団員、カッチャー弦楽四重奏団員
●バルビローリの発案によりカッチャー弦楽四重奏団を結成、チェロ奏者となります(1925年まで)。第1ヴァイオリン奏者のサミュエル・カッチャーは、バルビローリが11歳だったトリニティ・カレッジ・オブ・ミュージック時代からの仲間で、亡くなるまで交流の続いた人物。
●3月、カッチャー弦楽四重奏団、パイロット・コンサート。モーツァルト17番、シューマンとドヴォルザークのピアノ五重奏曲を演奏。
●6月、カッチャー弦楽四重奏団、エオリアン・ホールでデビュー公演。フランク、ディーリアス、モーツァルト17番を演奏。
●10月、バルビローリが自費で12人の演奏者を雇って室内弦楽オーケストラを結成。ヴァイオリン7人、ヴィオラ2人、チェロ2人、コントラバス1人の12名から成り、コンサートマスターはサミュエル・カッチャーでした。最初のコンサートは10月30日におこなわれています。
●11月、バルビローリが在籍するカッチャー弦楽四重奏団の演奏がBBCで放送されるようになり、イギリス現代音楽も数多く初演、グループの知名度も向上。


1925年(26歳) カッチャー弦楽四重奏団員、インターナショナル弦楽四重奏団員、シェニール室内管弦楽団指揮者
◆イギリス、金本位制に復帰。チャーチル財務大臣は、戦前平価での復帰を決定しますが、イギリス経済が第1次大戦で大きく悪化していたため、かえって国民の大きな負担となり、6年後には金本位制から離脱することとなる失策でした。
●1月25日、室内弦楽オーケストラの定期公演を、演奏会組織「ギルド・オブ・シンガーズ&プレイヤーズ」で実施。「ギルド」は、歌手でバルビローリとも関わりの深いジョン・ゴス[1891-1953]によって第1次大戦後につくられた組織です。
●6月、バルビローリはカッチャー弦楽四重奏団を退団。カルテット自体はメンバーを変えて第2次大戦開戦の翌年まで活動しています。
●録音、6月、ミュージック・ソサエティ弦楽四重奏団のメンバーとして、ナショナル・グラモフォニック・ソサエティにレコーディング。
●秋、ロンドン、チェルシーのシェニール美術館は、新築を機に、250人収容の多目的ホールも設置したため、自前の楽団用に予算も編成。バルビローリのつくった室内弦楽オーケストラ」のメンバーにより「シェニール室内管弦楽団」を創設。バルビローリがそのまま指揮者に就任し、コンサートマスターは同じくサミュエル・カッチャーが担当。


●10〜12月、シェニール室内管弦楽団を指揮して本拠地シェニール美術館で4回のコンサートを実施。ヴィヴァルディ、モーツァルト、パーセル、ヘンデル、エルガーに、ウォーロックの新作セレナーデなどを披露。その後、木管楽器、金管楽器、打楽器の楽員も加えてレパートリーを拡大。
●12月14日、ウィグモア・ホールでおこなわれたディーレンのコンサートに参加。ベルナルト・ファン(バーナード・ヴァン)・ディーレン[1887-1936]はオランダ出身でイギリスで活動した作曲家。一般的知名度は低いものの、複雑な技法と多彩なアイデアにより玄人には受けており、ウォーロックやセシル・グレイといった著名な友人も数多くいました。このコンサートは、弦楽四重奏曲、ピアノ曲に続いて、コンサートの後半にオペラ抜粋も紹介するというものでしたが、そのオペラ『仕立て屋』が面白かったこともあって、若きバルビローリも客席から注目されるところとなります。
ちなみにバルビローリのもとに作曲家から総譜が届けられたのが本番前日の午前3時で、数時間後の午前のリハーサルではコピーの誤りを修正することに追われたにも関わらず、演奏会当日の午前におこなわれた2回目のリハーサルではすでに演奏を仕上げていたという驚異的な指揮ぶりでした。
バルビローリの指揮に感銘を受けたブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー芸術監督のフレデリック・オースティンは、自分のカンパニーで指揮をしないか早速打診、バルビローリは快諾し、1926年秋のシーズンから指揮者陣に加わることになります。


1926年(27歳) インターナショナル弦楽四重奏団員、シェニール室内管弦楽団指揮者
●9〜10月、ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー。『パルジファル』、『蝶々夫人』、『アイーダ』、グノー『ロメオとジュリエット』など。


1927年(28歳) ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー指揮者
●録音、1月、NGS室内管弦楽団(National Gramophonic Society)。コレッリ『クリスマス協奏曲』。ドビュッシー『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』、ディーリアス『川面の夏の夜』。
●9月、ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー。『マイスタージンガー』『セビリアの理髪師』を指揮して成功を収め、以後、継続的にオペラの指揮にあたり、この年にはほかに『アイーダ』『蝶々夫人』『ボエーム』『ファルスタッフ』などを上演。
●録音、10月、NGS室内管弦楽団(National Gramophonic Society)。エルガー『序奏とアレグロ』、マルチェッロ『アレグレット』、パーセル『弦楽のための組曲』。
●録音、11月、NGS室内管弦楽団(National Gramophonic Society)。ハイドン104番、モーツァルト『カッサシオン』〜「アンダンテ」。
●録音、12月、NGS室内管弦楽団(National Gramophonic Society)。ウォーロック『ディーリアスの60歳の誕生日のためのセレナーデ』
●録音、12月、管弦楽団(Edison Bell)。ワーグナー『さまよえるオランダ人』序曲、『マイスタージンガー』第3幕前奏曲、フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』序曲、オペラ・アリア。
●12月、ビーチャムの代役として急遽ロンドン響を指揮。この成功によりHMVと契約。
●12月、シェニール美術館が売却されたことにより、シェニール室内管弦楽団も存続の危機に瀕しますが、バルビローリの尽力により当面は活動可能となり、ウィグモア・ホールの「ジェラルド・クーパー・チェンバー・コンサーツ」シリーズと、「ギルド・オブ・シンガーズ&プレイヤーズ」主催公演に出演するほか、「ジョン・バルビローリ室内管弦楽団」の名前でHMVへのレコーディングなどもおこなっています。
●ビーチャム、オペラ団体「インペリアル・リーグ・オブ・オペラ」を設立。年間売上予算6万ポンド、コストが5万ポンド、利益が1万ポンドという触れ込みで個人の定期会員を募集しますが、計画ではのべ25万人の購入者に対し、実際には4万4千人にしかなりませんでした。それでも4万ポンドは資金調達できたため、ある程度の公演はおこない、会員向けの雑誌も刊行するなどしましたが、顧客にはそれでは十分では無かったようで裁判沙汰にもなっています。ちなみにビーチャムは、1924年に投資銀行家に280万ポンドでビーチャム家の全事業を売却して巨額の財を成していましたが、基本的には自身は出費しない方針で、以後も徹底していました。


ビーチャムの代役として成功しHMVと契約
1927年12月12日、バルビローリは急遽ビーチャムの代役としてロンドン響を指揮。これは、秋に足を怪我していたビーチャムが、公演の4日前になって出演をキャンセルしてきたため、代役として出演したもので、ハイドンの交響曲第104番とチェロ協奏曲、エルガーの交響曲第2番を指揮して、共演のカザルスにも絶賛されるほどの成功を収めています。
ビーチャムの急なキャンセルで有名指揮者の都合がつかず困っていた楽団秘書でヴァイオリン奏者のバートラム・ジョーンズが、副首席チェロ奏者としてたびたびロンドン響で演奏していたバルビローリが、現在はオペラ指揮者として活躍していることを思い出して急遽依頼して実現した公演です。
演奏終了後、HMVのアーティスト・ディレクターであるフレッド・ガイズバーグ[1873-1951]がバルビローリのもとを訪れ、ほどなくHMVと契約することになります。ガイズバーグはドイツ系アメリカ人で、バルビローリとはその後親しい関係となりますが、名前を正確に発音することができず、長年に渡ってバブリオーリと呼んでいました。
バルビローリは11歳の時からエディソン・ベルやNGS(National Gramophonic Society)にレコーディングをおこなってきましたが、アコースティック録音や初期の電気録音は音質がかなり悪かったので、当時の最新技術を駆使できるHMVへのレコーディングは条件の良い契約でした。
フリーダ・ライダーやラウリッツ・メルヒオール、シャリャピン、ショルといった有名歌手や、ハイフェッツ、ルービンシュタインといった有名奏者との共演を中心に録音をおこないます。
なお、HMVと英Columbiaは1931年に合併してEMI(Electric and Musical Industries Ltdと)となっていますので、1931年以降の録音については、ここではEMIと記しますが、実際にはバルビローリのディスクはほとんどがHMVブランドで発売されていました。

 


1928年(29歳) ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー指揮者
●1月、バルビローリ、HMVとの契約発効。
●録音、1〜4月、ジョン・バルビローリ室内管弦楽団(HMV)。ハイドン104番、モーツァルト『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』、パーセル『ホーンパイプ』。
●、ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー。『アイーダ』『セビリアの理髪師』など。オペラ指揮者としての名声を確立。
●録音、2〜3月、管弦楽団、オファーズ(HMV)『ドン・カルロ』、『トロヴァトーレ』から。
●録音、3月、ロンドン・スクール・オブ・チェロズ(HMV)。『魔笛』から、カザルス『サルダナ』。
●4月、バルビローリ、Gramophone誌とNational Gramophonic Societyレーベルの創設者である小説家コンプトン・マッケンジー[1883-1972]からの依頼で、エルガー『序奏とアレグロ』についての熱烈な紹介文をGramophone誌に執筆。エルガー本人からも注目され、その演奏が称えられます。

バルビローリ・サウンド
20世紀初頭に活動を始めたチェロ奏者だったバルビローリは、19世紀前半、ロマン派の台頭とともに一般的になっていたポルタメントが、やがてヴィブラートにとって代わられていくという弦楽器演奏の潮流を身をもって体験しています。
たとえば少年時代のチェロ録音ではポルタメントを駆使していましたが、自身で室内オーケストラを編成・指揮するようになると音量もとりやすいヴィブラートを採用するようになり、加えてボウイングに関する詳細なプランを立てて楽員に伝達することで、振幅の大きな表現を実現、ときにはポルタメントも効果的に用いながら、情感たっぷりなサウンドを聴かせるようになり、それが「バルビローリ・サウンド」として称えられるようにもなります。
もっとも、バルビローリ本人は、自身がバーガンディ・ワイン(ヴァン・ド・ブルゴーニュ)好きということもあってか「バーガンディ・サウンド」だと語っていました。このあたりは、フィラデルフィア管弦楽団の音について、「フィラデルフィア・サウンド」ではなく「オーマンディ・サウンド」だと力説したユージン・オーマンディとは正反対なのが面白いところです。バルビローリにとっては、どうでも良いことだったのかもしれません。


●録音、5月、管弦楽団、ライダー、オルチェフスカ、ザネッリ(HMV)。『フィデリオ』、『オルフェオとエウリディーチェ』、『アルミード』、『ドン・ジョヴァンニ』、『オテロ』、『ヴェーゼンドンク歌曲集』から。
●録音、6月、管弦楽団、シャリアピン、ザネッリ、オルチェフスカ(HMV)。『アンドレア・シェニエ』、『セルセ』、『ドン・ジョヴァンニ』から。
●録音、8月、コヴェントガーデン管&合唱団、オーストラル、ウォーカー(HMV)。『さまよえるオランダ人』、『オベロン』、『ドイツ・レクィエム』、ロッシーニ『スターバト・マーテル』、サリヴァン:カンタータ『黄金伝説』から。
●録音、9月、管弦楽団、ドーソン(HMV)。『カラクタクス』から、『蚤の歌』。
●10月、ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー。『ファルスタッフ』をレパートリーに追加。
●10月24日、祖母ロジーナ死去。
●10月25日、バルビローリが王立音楽アカデミーのフェローに選出。
●11月、ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー。『マイスタージンガー』。
●11月、ウィグモア・ホールで再びファン・ディーレンの作品でまとめたコンサートを指揮。
●録音、12月、管弦楽団&合唱団、ヒスロップ、ジャンニーニ(HMV)。『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『ボエーム』、『運命の力』から。
●バルビローリはアーサー・ジャドソン[1881-1975]の知己を得ます。ジャドソンはニューヨーク・フィルとフィラデルフィア管弦楽団のマネージャー。


1929年(30歳) ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー指揮者、コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー音楽監督
●1月、ロイヤル・フィルハーモニック協会が1919年に設立した「ロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団」に客演。ロンドンでは10年ぶりとなるドビュッシー『海』ほかを演奏。リハーサル時間が足りなかったため、バルビローリが自費で手当てを支払って公演に漕ぎつけます。なお、ロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団は、1931年に解散し、資産家の金でビーチャムが創ったロンドン・フィルの中心メンバーとなります。
●1月、ロンドン交響楽団に客演。
●録音、1月、ジョン・バルビローリ室内管弦楽団(HMV)。エルガー『序奏とアレグロ』。
●録音、1月、管弦楽団、ウィドップ(HMV)。『マカベウスのユダ』、『メサイア』から。
●3月31日、父ロレンツォ、脳梗塞により64歳で死去。バルビローリがツアーから戻ってロンドンで家族とイースター休暇を過ごしている日に倒れ、イタリアン・ホスピタルに搬送されましたが亡くなってしまいます。以後、バルビローリにとってイースターは悲しみの日となってしまいます。
●録音、4月、管弦楽団、オファーズ(HMV)。『マタイ受難曲』、『海の絵』から。
◆5月、イギリス総選挙。女性の選挙資格が男性と同等になった初の選挙(日本はアメリカ占領下の1945年12月に実現)。
●5月、コヴェントガーデン。『ドン・ジョヴァンニ』。
●録音、6月、新交響楽団(HMV)。ディーリアス:『夜明け前の歌』。
●録音、6月、ジョン・バルビローリ室内管弦楽団(HMV)。ロッセ『ヴェニスの商人』組曲。 
●録音、6月、管弦楽団、ミンギーニ=カッタネオ(HMV)。『カルメン』から。
●録音、7月、管弦楽団、ヒスロップ(HMV)。『カルメン』から。
●録音、7月、バルビローリ(National Gramophonic Society)。バッハ:チェロ・ソナタBWV1029。
●コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー音楽監督就任。

コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー音楽監督就任
1929年にバルビローリが音楽監督に就任することとなった新組織「コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー」の前身は、バルビローリが指揮者チームに所属していた「ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー」[1922-1929]で、最終シーズンの娯楽税として、国に17,000ポンドを支払い、それが原因で負債が5,000ポンドに達したため解散していました。
さらにその前身となる組織が、バルビローリがオーケストラのチェロ奏者として参加していた「ビーチャム・オペラ・カンパニー」[1915-1920]です。「ビーチャム・オペラ・カンパニー」は、1913年に解散した約200名から成る「デンホフ・オペラ・カンパニー」のメンバーを中心に組織されたもので、運営資金はビーチャムの父ジョセフが用意。
バルビローリは、「ブリティッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー」と「ビーチャム・オペラ・カンパニー」の両団体で、指揮者、チェロ奏者として多くのオペラに関わっており、28歳で「コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー」音楽監督に就任した時のレパートリーは、『マイスタージンガー』『パルジファル』『トリスタンとイゾルデ』『ローエングリン』『ワルキューレ』『ばらの騎士』『こうもり』『ドン・ジョヴァンニ』『売られた花嫁』『ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』『トゥーランドット』『リゴレット』『トロヴァトーレ』『アイーダ』『ファルスタッフ』『セビリアの理髪師』『カヴァレリア・ルスティカーナ』『道化師』『ファウスト』『ロメオとジュリエット』などすでに幅広いものとなっています。
ちなみに「ビーチャム・オペラ・カンパニー」が活動を停止した理由は、運営者のビーチャムが、父ジョセフ絡みの巨額の不動産取引トラブルに巻き込まれ、新たに起こした「コヴェントガーデン・エステート・カンパニー」の取締役として約3年間、表向きは出勤する必要があったからです(実際には愛人のキュナード夫人と海外にいることが多かったとか)。同社の取締役には、弟のヘンリー[1888-1947]も名を連ねていましたが、ヘンリーは1915年にアメリカ事業を父から引き継いでいたのと、さらに1921年に2度目の自動車死亡事故(歩行中の8歳の女の子と6歳と3歳の男の子に規制速度超過状態で衝突し6歳の男の子が死亡、ほか2名重傷)を起こし、すぐに賠償金を支払うものの殺人罪で起訴され、12カ月の懲役刑が確定したため、ビーチャムが表向き出勤ということにしなければならない状況でした。ちなみに1910年の最初の死亡事故も、規制速度超過状態での衝突致死でしたが相手が老人で、証拠もなぜか不十分ということになり、1か月間の免許停止と危険運転などの罰金支払いという軽い内容で決着。以後もヘンリーの運転態度は変わらず、危険運転で起訴されたりしており、その挙句の2度目の死亡事故ということで懲役刑は免れなかったようです。
当時、ロンドンで歴史上最大の不動産取引として報じられてもいた総額200万ポンドというコヴェントガーデン地区の不動産をめぐるビーチャムの父、ジョセフ・ビーチャム卿[1848-1916]とベッドフォード公爵[1858-1940]等の1914年7月の売買話は、翌月開戦の第1次大戦のために生じた資金移動制限によって頓挫。2年後の1916年には父ジョセフが亡くなり、遺産150万ポンドは親族が相続、イギリス事業は事実上トーマスが受け継ぎ、アメリカ事業はヘンリーが継承、第1次大戦終了の目途がついた1918年、父の遺言執行人が不動産取引を再開できるよう訴訟を起こし、「コヴェントガーデン・エステート・カンパニー」が不動産を取得。
弟の不祥事もあり、ビーチャムは責任者として、売買・整理を実務担当に依頼し、1924年には、投資銀行家のフィリップ・ヒル[1873-1944]に全事業を280万ポンドで売却。ヒルは不動産会社と元々のビーチャム家の製薬会社を統合、名目資本185万ポンドの新会社「ビーチャム・エステート&ピルズ」を設立し、同社はその後もコヴェントガーデン地区の不動産を所有し続けていましたが、1928年になると「コヴェントガーデン・プロパティーズ」に売却、会社の名前も「ビーチャムズ・ピルズ」に戻し、株式を上場しています。その後、フィリップ・ヒルズは1933年には不動産売却先の「コヴェントガーデン・プロパティーズ」の会長に就任し、1936年には「ビーチャムズ・ピルズ」の会長に就任。
こうして莫大な財産を相続したビーチャムは、少し前まで破産裁判漬けだった自身の財政状態から大きく脱却します。しかし、自分の財産を得たことで、かつてのように音楽に大盤振る舞いをすることは無くなってしまいます。これは以前の資金が、父親に無心したもの、あるいは当時の愛人のキュナード海運会社社長夫人のモード・キュナード[1872-1948]が社交仲間に呼びかけて集めたものだったため、事業計画や集客見込みなどがずさんでも問題が少なかったのに対し、自分の資金ということになると、利益の見込みにくい案件には投資できないという、ごく一般的な判断が働いたものと考えられます。つまりビーチャムは、「自分の金」を音楽に大盤振る舞いしたことはそれまで無かったということになりますが、「窓口」には違いなかったので、立場を生かした絶大な発言権を行使し、ライバルに成長しつつあったバルビローリを結果的に追い出してしまうなど、策士としての能力をフルに発揮してもいました。ビーチャムおそるべしです。


◆9月3日、アメリカ、しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株の平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定のための「売り」が集中して1か月に渡って下がり続けて17%下落。その時点で底値と判断した「買い」が入って下落分の半分ほどまで上昇したもののそこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
◆9月26日、イングランド銀行が5.5%から6.5%に金利の引き上げを実施。それにより、先の利益確定後に投資先を探していたアメリカの巨額の投資資金がイギリスに流れ込むことになります(FRB金利は6.0%)。
●9月27日、コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニーで『トゥーランドット』を指揮。以後、この年には『マイスタージンガー』『セビリアの理髪師』『ボエーム』『ファルスタッフ』『道化師』などを指揮。
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として、各国への投資や預金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
●11月、コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニーで、日替わりで異なるオペラを上演する「ディフェレント・オペラ」シリーズを開催、月曜日『ファルスタッフ』、火曜日『セビリアの理髪師』、水曜日『トスカ』、木曜日『マイスタージンガー』、金曜日『トゥーランドット』、土曜日『ボエーム』。
●録音、12月、コヴェントガーデン管(HMV)。グリーグ『交響的舞曲』から。


1930年(31歳) コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー音楽監督
◆イギリスでの世界恐慌の影響継続。
●冬、バルビローリはミラノ・スカラ座を訪れ、トスカニーニが去った後の状況を視察。サバタはまだ着任しておらず、アントニオ・グァルニエリらが指揮していた状況ですが、オーケストラとコーラスの精度は高く、舞台装置にも感銘を受けたものの、肝心の歌手陣と指揮が冴えず、聴衆の反応も良くなかったという印象を受けていました。
●3月、ワインガルトナーと交流。
●3月、ロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団。カザルスとのシューマン:チェロ協奏曲、バックス、ドビュッシーなどを指揮。
●4月27日、コヴェントガーデン・オペラに助成金を出してもらうために続けられてきた交渉の仕上げとして、政治家と関係者向けのミニ・コンサートを開催。ナッシュやフィアーといった歌手たちの歌に加え、バルビローリ自身がチェロを弾くなどして、最終的に、年内に17,500ポンドの助成金が支払われることが決定。これはイギリスで最初のオペラへの助成金となり、ビーチャムを激怒させることになりました。


●6月、バルビローリはトスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルのロンドン公演を聴き、感銘を受けます。
●秋、バーミンガム公演の『リゴレット』で大成功。2週間の公演期間のうち、前半はバルビローリが他への客演で不在でしたが、そのことが地元紙で非難されるほどの人気指揮者になっていました。この年にはほかに『トゥーランドット』『こうもり』『トスカ』『アイーダ』『蝶々夫人』『ロメオとジュリエット』などを指揮。
●11月、スコティッシュ管弦楽団のシーズン・オープニング・コンサートで指揮。
●『こうもり』を集中的にとりあげ成功。以後、ウィンナ・ワルツはバルビローリの重要なレパートリーに組み込まれます。
●BBCが本格的な自前オーケストラ「BBC交響楽団」を設立し、首席指揮者にボールトを任命。世界恐慌のもたらした「不況」と、トーキーの普及で人気の上がってきた「映画」の影響もあって、オーケストラ・コンサートの聴衆が減少している中、「放送」に本格的なオーケストラ番組が登場することはさらなる収益悪化を招く要因ともなり得るため、ハレ管弦楽団の指揮者ハミルトン・ハーティ[1879-1941]は強く批判。
●アーサー・ジャドソン、米コロンビア・コンサーツ・コーポレーション(現コロンビア・アーティスツ・マネジメント)の社長に就任。


1931年(32歳) コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー音楽監督
●1月、ブライアンの交響曲第2番、マーラー『亡き子を偲ぶ歌』、ブゾーニ『ファウスト博士』抜粋を指揮。
●7月、バルビローリはタウバーの出演したレハールの『微笑みの国』を鑑賞。オーケストラにはヴァイオリン奏者として弟のピーター(ピエトロ)が参加しており、ピーターはオーボエを吹いていた学生のイヴリン・ロスウェルの演奏に感銘を受けて兄に紹介。バルビローリは早速コヴェントガーデン・オペラの第2オーボエ奏者のオーディションを受けるように手配し採用が決定。
◆8月、イギリスでの世界恐慌の影響継続。失業者数が270万人に増大。内閣総理大臣で労働党党首のマクドナルドは、国家財政の危機ということで、失業手当の10%削減を謳うものの、労働組合が労働党の支持基盤であることから党内の猛反発を受け、党首の労働党除名という事態を招き、内閣は事実上崩壊。
◆9月、イギリス国王ジョージ5世の支援により、マクドナルド挙国一致連立内閣成立。労働党を除名されたマクドナルドは、内閣を解散せずに保守党、自由党の議員と共に内閣を立ち上げ、すぐに解散総選挙を実行。保守党圧勝、労働党惨敗という結果となり、事実上の保守党内閣としての運用が始まります。
◆9月、イギリス、世界恐慌対策の一環として金本位制離脱。解散総選挙の公約では金本位制死守を掲げていたものの、ポンド危機により即座に離脱。ポンドも切り下げ、管理通貨制度に移行。
●コヴェントガーデン・オペラ。『ローエングリン』『パルジファル』『ばらの騎士』『売られた花嫁』『ボエーム』『リゴレット』『こうもり』『ジャンニ・スキッキ』『トスカ』『蝶々夫人』エセル・スマイス『難船掠奪民』など。
●バルビローリの『こうもり』で、ソプラノ歌手のマージョリー・パリーがロザリンデ役を歌ってコヴェントガーデン・デビュー。この成功により、マージョリー・パリーの契約は増え、エヴァ(マイスタージンガー)、エルザ(ローエングリン)、オクタヴィアン(ばらの騎士)、リュー(トゥーランドット)、レオノーラ(トロヴァトーレ)、マルガレーテ(ファウスト)、ネッダ(道化師)、ムゼッタ(ボエーム)、フォード夫人(ファルスタッフ)といった役を準備するように言われています。
●ロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団。
●11月、ロンドン響。若手女性作曲家ヴィヴィアン・ランベレット[1903-1963]の作品ほか。


1932年(33歳) コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー音楽監督
◆2月、イギリス、世界恐慌対策の一環として自由貿易を否定し、保護関税法を制定。国内産業の保護と輸出増加を狙い、すべての輸入に関して10%の関税を適用。さらに政策金利も2%に引き下げて資金調達条件を緩和し、国内経済の刺激に注力。すでに多くの赤字を出していたイギリスのオペラにとってもチャンスの到来となります。
●5月、ビーチャムがコヴェントガーデン・オペラに12年ぶりに復帰して、『マイスタージンガー』3公演のうち2回を指揮。1回はバルビローリが受け持って出演者のロッテ・レーマンから信頼を勝ち得ていますが、なぜかオーケストラ・リハーサルの許可が下りず、ビーチャムの公演では別のオーケストラが演奏していることをバルビローリ自身が確認。
●6月、バルビローリ、ソプラノ歌手のマージョリー・パリーと結婚。ベルギーに短期間の新婚旅行。
◆8月、大英帝国内のアイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカなどの国々とは税制優遇取引をおこなうことを決定。
●10月、ビーチャム、大資産家のサミュエル・コートールド[1876-1947]から資金提供を受け、さらにコートールドが後援する指揮者サージェント[1895-1967]の協力を得て、ロンドン・フィルを創設。楽員は、メンゲルベルク退任で揺れていたロンドン響から優秀な奏者17人を引き抜いたほか、前年に解散していたロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団の楽員を中心に、固定給契約という支払い条件で、計106人の楽員を短期間で集めることに成功。これは世界恐慌のもたらした景気低迷により、場合によっては「リハーサル無し」など、契約期間が短縮し報酬低下傾向にあった当時のイギリスのオーケストラ奏者の流動的な個別契約環境が背景にあったからと考えられます。
ビーチャムはさらに、オケの演奏機会を増やして収益力を向上させるため、オペラの仕事もロンドン・フィルに任せるよう、コヴェントガーデン・オペラの首脳陣に交渉。それまでコヴェントガーデン・オペラで演奏していた音楽家たちとの契約を打ち切らせ、ロンドン・フィルと契約させています。実際にはおそらく5月の『マイスタージンガー』から新規契約楽員がビーチャムの公演時に演奏し、バルビローリの公演時にはそれまでに契約のあった楽員たちがリハーサル無しという低ギャラ条件で演奏させられていたものと考えられます。ビーチャムの策士ぶり、バルビローリのお人好しぶりがうかがわれる話ではあります。
●コヴェントガーデン・オペラ。『ばらの騎士』『トリスタンとイゾルデ』などを指揮。ちなみにロンドン・フィルのヴィオラ首席奏者はかつての弦楽四重奏仲間のフランク・ハワードでした。
●バルビローリ、ハレ管弦楽団に客演。


1933年(34歳) コヴェントガーデン・イングリッシュ・オペラ・カンパニー音楽監督、スコティッシュ管首席指揮者
●1月、ハレ管。フランク:交響曲、モーツァルト40番、ディーリアス『夏の庭で』、パーセル(バルビローリ編):弦楽のための組曲。
●4月、トリニティ・カレッジ・オブ・ミュージックの学生オーケストラを指揮。
●5月、バルビローリはブラームスの親しい友人だった指揮者・歌手・作曲家・ピアニストのジョージ・ヘンシェル[1850-1934]にブラームスについて教えを受けます。
●5月、コヴェントガーデン・オペラ総監督で、バルビローリの支持者だったユースタス・ブロワ[1877-1933]が死去。
●録音、7月、ロンドン・フィル(EMI)。チャイコフスキー『白鳥の湖』(抜粋)。
●ブロワの後任として芸術監督に就任したビーチャムによるコヴェントガーデン・オペラへの支配が強化され、上演時のカットや、技術不足、練習不足によるアンサンブルの崩壊などが頻発。バルビローリにとって迷惑な状況が続き「彼の傲慢さは私にとって最も不快なものです」などと述べるようにもなり、やがて音楽監督を辞任。
●、コヴェントガーデン・オペラ。『アイーダ』『ボエーム』を指揮。


●バルビローリ、スコティッシュ管弦楽団の首席指揮者に就任

スコティッシュ管弦楽団
1933年、バルビローリはスコティッシュ管弦楽団の首席指揮者に就任します。スコティッシュ管弦楽団の本拠地グラスゴーは、スコットランド最大の都市で、造船や鉄鋼業などで栄えていた当時は、ロンドン、パリ、ベルリンに次ぐヨーロッパ第4位の人口規模(約109万人)の都市でした。
しかし前首席指揮者のゴルシュマン[1893-1972]が1930年に退任した後は、世界恐慌の影響もあって、運営実態も年間公演期間が6か月間で、楽員との契約も、当時一般的だったその都度の出演契約という形態で、バルビローリも1930年に客演していたものの、本業のオペラが多忙だったこともありすぐには首席指揮者契約という話にならず、経済が多少なりとも回復するまで3年ほど首席指揮者ポジションが空席となっていました。
バルビローリはまだ34歳でしたが、すでにさまざまなことを経験しており、メインのオペラ上演に加えて、放送局での仕事や、レコーディングも数多くこなし、また、有力者たちから資金を引き出すパーティーも開催するなど、フル編成オーケストラの運営に携わる能力を十分に備えていました。
また、当時のバルビローリは、ビーチャムとはあまりうまくいっていなかったこともあり、スコティッシュ管からの首席指揮者就任要請が有難い申し出であったことは確かなようで、地方オケとはいえ、フル編成オーケストラの運営に深く携わることから、バルビローリは最初からエネルギッシュに仕事をおこなっていきます。
まず取り組んだのが、オーケストラ運営に不可欠となる安定的な財源の確保で、バルビローリは、地方自治体と国の関係部署に向けて財政支援の必要性をスピーチで直訴。
続いて、自身のレパートリーの拡大のために猛勉強し、バッハからガーシュウィンに至る広範なレパートリーを身につけてどんどん披露していきます。
そして具体的に演奏会での収益アップを狙うためにバルビローリが取り組んだのが、HMVでのレコーディングで得られた人脈を活用し、ビッグネームのソリストたちと出演契約を結ぶというもので、ホロヴィッツ、シュナーベル、フィッシャー、ソロモン、ペトリ、ギーゼキング、ゴドフスキー、ブッシュ、サモンズ、フレッシュ、フーベルマン、ティボー、フォイアマン、ハイフェッツ等々、世界的なアーティストの名前がコンサート告知に並ぶこととなり、チケット売上の増額を果たすことができました。
また、バルビローリは顧客(聴衆)の嗜好拡大にも熱心で、ストラヴィンスキー、シベリウス、バックス、コダーイ、グレインジャー、エルガー、クィルターといった同時代作品の紹介にも力を入れたほか、将来の顧客となる子供たちのための教育的なコンサートも積極的に実施し、さらにBBCとの繋がりを活かして、コンサートにまだ来ていない人々に向けてオーケストラの演奏を聴かせることで顧客層を開拓し、加えて楽団は放送出演料も手にするなどして、やがてシーズンの延長を15週間というレベルにまで引き上げることに成功。その行動内容はベテランのコンサート指揮者を凌ぐ立派なものとなっていました。
これらはすべて、バルビローリが少年時代から、実演だけでなく、録音・放送にも関わっていたことや、オペラの運営を通じて、資金の確保と利益の創出というビジネス的なセンスも十分に備えていたことがプラスに反映したものと考えられます。


●バルビローリ、ロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団。
●10月、エルガー邸を訪問。最後の会合となりました。
●録音、10月、管弦楽団(EMI)。グリーグ『ペール・ギュント』第1組曲、バルフ:『ボヘミアの少女』序曲。


1934年(35歳) スコティッシュ管首席指揮者
●1月、ハレ管。チャイコフスキー5番、モーツァルト34番、エルガー『序奏とアレグロ』、ベルリオーズ『ローマの謝肉祭』。
●2月、ハレ管。エルガー『エニグマ変奏曲』、序曲『コケイン』、シューベルト『未完成』、ディーリアス『フロワサン』序曲、ほか。
●10月、ハレ管。ベートーヴェン『皇帝』、エルガー『序奏とアレグロ』、ほか。


1935年(36歳) スコティッシュ管首席指揮者
●コヴェントガーデン・オペラ。『セビリアの理髪師』『ロメオとジュリエット』など。
●6月、トスカニーニがBBC交響楽団に客演。ベートーヴェン7番、ブラームス4番、ドビュッシー『海』、モーツァルト35番、ワーグナー管弦楽曲集、エルガー『エニグマ変奏曲』などで空前の成功。終演後、バルビローリはトスカニーニのもとを訪れて交流。
●夏、ニューヨーク・フィルの業績低迷により、楽員数を110名から95名まで削減するよう理事会が運営部門に要求。
●8月、バルビローリはザルツブルク音楽祭に出かけ、トスカニーニと交流。
●秋、ニューヨーク・フィル運営部門企画担当者は、ビーチャムを客演させることをトスカニーニに連絡。ビーチャム嫌いのトスカニーニは激怒し、ニューヨーク・フィルへの関心が弱まっていきます。


1936年(37歳) スコティッシュ管首席指揮者
●2月、トスカニーニ、ニューヨーク・フィルを4月いっぱいで辞めると発表。
●2月、ハレ管。エルガー2番、ベルリオーズ『ローマの謝肉祭』、他。
●コヴェントガーデン・オペラ。『ボエーム』などを指揮。
●バルビローリ、2年前から別居状態にあったソプラノ歌手のマージョリー・パリーに離婚を申し入れますが、マージョリーは離婚理由を不服として提訴。
●11月、ニューヨーク・フィル。モーツァルト33番、ほか。11月5日から翌年1月10日まで、トスカニーニの後任候補として、バルビローリがニューヨーク・フィルに初めて客演。一方、もうひとりの後任候補であるオーストリア=ハンガリー帝国生まれの指揮者ロジンスキー[1892-1958]は、2月25日から4月18日まで客演。最終的にバルビローリがニューヨーク・フィルと契約しています。


ニューヨーク・フィル
1937年、バルビローリはニューヨーク・フィルの常任指揮者としてアーサー・ジャドソンと契約します。
ニューヨーク・フィルは、ニューヨークの複数のオーケストラを統廃合し、メンゲルベルクみずからオーディデョンなどもおこなってつくられたオーケストラですが、当のメンゲルベルクが、株価大暴落から3か月でヨーロッパに帰ってしまったとはいえ、1921年から1930年までの9年間で約440回も指揮した実績には揺るぎないものがあります。そのうち1926年からの4年間はトスカニーニとの双頭体制でしたが、1930年1月までの期間で指揮回数を比較すると、トスカニーニ約160回に対してメンゲルベルク約200回とだいぶ多くなっており、いわゆる「黄金時代」が株価大暴落以前の空前の好景気と結びついていた事実を勘案すると、ニューヨーク・フィルの黄金時代はメンゲルベルクが築き上げ、トスカニーニがあとから参加して盛り上げた形になると考えられます。
トスカニーニ単独体制は大恐慌下で始まりますが、ニューヨーク・フィルの本拠地が、ウォール街から数キロという場所だったため、最初から影響も直撃でした。窮余の策として、株価大暴落の半年後には、恐慌の影響があまり波及していなかったヨーロッパ各地に1か月間に渡る長期引っ越し公演をおこなって利益を上げることに成功しますが、それでも焼け石に水の状態でした。
1933年の終わりにはチケット売上の低迷、寄付や支援の枯渇による経営悪化も深刻化し、ニューヨーク・フィルの理事会は、同じく苦境にあったメトロポリタン歌劇場の理事会と協議を開始。ニューヨーク・フィルとメトを合併させて両者の公演数を減らし、メトのオケ・ピットにニューヨーク・フィルが入ることでメトの楽団員を解雇するなどして不況を乗り切ることを計画しますが、トスカニーニの猛反対でこの計画は中止に追い込まれます。
その後も、トスカニーニのもとでニューヨーク・フィルの業績は低迷を続けていましたが、やがてニューディール政策の一環として、労働者を解雇することが難しくなる「ワグナー法」が施行されることが決まると、直前の1935年夏、楽員数を110名から95名まで削減するよう、ニューヨーク・フィル理事会が運営部門に通告したため、大音量が好きなトスカニーニは、人数を減らすなら辞めると理事会を恫喝。
こうした一連の騒動に加え、運営部門が客演指揮者として、トスカニーニの嫌いなビーチャムを招いたことが逆鱗に触れ、トスカニーニはニューヨーク・フィルへの怒りを抑えきれなくなって辞めることを決意。1936年2月には、翌々月のシーズン終了を以って辞任することを発表。
ニューヨーク・フィル側は、秋のシーズン開始までに、すでに客演契約のあったロジンスキー[1892-1958]のほかに、多くの演奏会をこなせる指揮者を探す必要に迫られ、マネージャーのアーサー・ジャドソン[1881-1975]は、1928年にイギリスで知り合っていたバルビローリに連絡し、客演指揮者としてニューヨーク・フィルに来演するよう要請。
当時バルビローリは、大恐慌下で危機に瀕していたスコティッシュ管弦楽団に対してさまざまな手段を講じて成功、建て直しが一段落したところだったので、ジャドソンの申し出を快諾します。
こうして実現した客演コンサートでの聴衆の反応は上々で、ジャドソンはバルビローリを常任指揮者として契約。背景には、もうひとりの有力候補、ロジンスキーが、ニューヨーク・フィルのライバルとなるNBC交響楽団の人材手配やトレーニングをおこなっていたというとんでもない事情もあったようです。奇人ロジンスキーとしては、反ニューヨーク・フィルの立場となったトスカニーニ陣営の人間としての振る舞いが、ニューヨーク・フィルにとって不利益だということは思いもつかなかったようで(?)、自分がニューヨーク・フィルの常任指揮者に選ばれなかったことに感情を爆発させて周囲に怒りをぶちまけ、ロジンスキー擁護派の批評家たちもこぞってバルビローリ叩きをおこなう展開となります(しかしロジンスキーは4年後の1941年の終わりからニューヨーク・フィルでの指揮活動を本格的に再開)。
さらにNBC交響楽団が演奏活動を開始すると、トスカニーニ肖り派の批評家たちも、下品で見苦しい評によってバルビローリを叩くようになり、バルビローリは睡眠障害に悩まされたりもしますが、実際にお金を払う聴衆への影響は少なかったようで、チケット売上も上向き、日曜コンサートなどは完売が多くなっていきます。
こうした業績向上の要因を、大恐慌の影響が収まりつつあったからと見ることもできますが、実際にはトスカニーニ&NBC交響楽団という非常に強力なライバルが出現した状況での好成績なので、バルビローリの音楽が、バイアスのかかっていない聴衆には十分にお金を払う価値のあるものだったことが窺われます。
なお、ニューヨーク・フィルのレコーディング契約は、当初はRCA Victorでしたが、ライバルのNBC交響楽団がRCAの傘下団体ということで競合関係となったため契約が打ち切られ、新たにニューヨーク・フィルはCBSと契約を締結、以後、40年ほども続く密接な関係が構築されることになります。
ちなみにこのCBSとの関係には放送も含まれており、黎明期から放送を重視してきたバルビローリの関心も高く、番組出演に加えて、年間2万5千通にも及んだというCBS宛のリクエストの手紙を、大切な情報源として、コンサートのプログラム構成に活用したということでした。バルビローリのマーケティング・センスと実務運用の手腕がここでもフルに発揮されていた形です。
参考までに、当時のニューヨーク・フィルの主力指揮者たちが集中的に出演した時期の指揮回数を記しておきます(並び順=年平均回数) 。

バルビローリ
約470回(年平均約67回。1936〜43年の7年間の数字。戦後を含めた合計数は約500回)
ロジンスキー
約300回(年平均約60回。1941〜46年の5年間の数字。復帰前を含めた合計数は約330回)
メンゲルベルク
約440回(年平均約49回。1921〜30年の9年間の数字)
トスカニーニ
約450回(年平均約45回。1926〜36年の10年間の数字。辞任後を含めた合計数は約470回)


●12月、ニューヨーク・フィル。ベートーヴェン4番、メンデルスゾーン:八重奏曲〜スケルツォ、レフラー:幼年時代の思い出『ロシアの村の日常』、ほか。


1937年(38歳) ニューヨーク・フィル常任指揮者
●1月、ニューヨーク・フィル。
●2月、ハレ管弦楽団んび初めて客演。エルガーの交響曲第2番ほかを指揮。。
●5月、王立歌劇場。『トゥーランドット』。
●ニューヨーク・フィルと契約。
●10月、ニューヨーク・フィル。バラキレフ『タマーラ』、パーセル:弦楽のための組曲、ワーグナー『マイスタージンガー』第1幕前奏曲。
●11月、ニューヨーク・フィル。ドビュッシー『イベリア』、シューマン4番。
●12月、ニューヨーク・フィル。ベートーヴェン『コリオラン』、ほか。


1938年(39歳) ニューヨーク・フィル常任指揮者
●1月、ニューヨーク・フィル。
●2月、ニューヨーク・フィル。
●録音、2月、ニューヨーク・フィル(RCA Victor)。ドビュッシー『イベリア』、レスピーギ「宮廷のアリア」、パーセル:弦楽のための組曲、チャイコフスキー『フランチェスカ・ダ・リミニ』。
●3月、ニューヨーク・フィル。
●4月、ニューヨーク・フィル。
●5月、ニューヨーク・フィル。
●10月、ニューヨーク・フィル。ベルリオーズ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』序曲、グリフィス『白孔雀』。
●11月、ニューヨーク・フィル。ワーグナー・コンサート、ワルキューレの騎行。
●12月、ニューヨーク・フィル。
●ニューヨーク・フィル。モーツァルト34番〜フィナーレ。
●12月、係争中だったマージョリーとの離婚について、裁判所は彼女の不服申し立てを認めず、離婚が成立。


1939年(40歳) ニューヨーク・フィル常任指揮者
●1月、ニューヨーク・フィル。
●録音、1月、ニューヨーク・フィル(CBS)。レスピーギ『ローマの噴水』、シューベルト『5つのドイツ舞曲と7つのトリオ』。
●2月、ニューヨーク・フィル。
●録音、2月、ニューヨーク・フィル(RCA Victor)。シューベルト4番、レスピーギ『ローマの噴水』、シューベルト『5つのドイツ舞曲と7つのトリオ』。
●3月、ニューヨーク・フィル。
●4月、ニューヨーク・フィル。
●10月、ニューヨーク・フィル。フランク:交響曲。
●11月、ニューヨーク・フィル。チャイコフスキー5番
●12月、ニューヨーク・フィル。ワインベルガー:『クリスマス』、マーラー5番〜アダージェット(抜粋)。
●バルビローリ、オーボエ奏者のイヴリン・ロスウェル[1911-2008]と結婚。イヴリンはロンドン郊外出身の大柄で穏やかな女性で、バルビローリとは1931年に仕事で知り合っていました。イヴリンとバルビローリの関係は幸福そのものだったようで、31年間に渡って四六時中音楽という環境がつくられ、猟色や趣味に多くの時間を割いていたマエストロたちとは一線を画す、音楽尽くしの人生が築き上げられることになります。


1940年(41歳) ニューヨーク・フィル常任指揮者
●1月、ニューヨーク・フィル。
●録音、1月、ニューヨーク・フィル(CBS)。シベリウス2番、R=コルサコフ『スペイン奇想曲』。
●2月、ニューヨーク・フィル。
●3月、ニューヨーク・フィル。
●録音、3月、ニューヨーク・フィル(CBS)。ブラームス2番。
●4月、ニューヨーク・フィル。
●録音、4月、ニューヨーク・フィル(CBS)。ブラームス:交響曲第2番。
●5月、ニューヨーク・フィル。
●録音、8月、ニューヨーク・フィル(CBS)。スメタナ『売られた花嫁』序曲。
●10月、ニューヨーク・フィル。
●11月、ニューヨーク・フィル。
●録音、11月、ニューヨーク・フィル(CBS)。ベルリオーズ『ローマの謝肉祭』、ラヴェル『ラ・ヴァルス』、モーツァルト25番、R=コルサコフ『スペイン奇想曲』、ブラームス『大学祝典序曲』。
●12月、ニューヨーク・フィル。
●録音、12月、ニューヨーク・フィル(CBS)。ドビュッシー:小組曲。


1941年(42歳) ニューヨーク・フィル常任指揮者
●2月、ニューヨーク・フィル。
●3月、ニューヨーク・フィル。
●4月、ニューヨーク・フィル。ベンジャミン『イタリア風喜劇のための序曲』
●10月、ニューヨーク・フィル。
●11月、ニューヨーク・フィル。


1942年(43歳) ニューヨーク・フィル常任指揮者
●3月、ニューヨーク・フィル。コリンズ『サー・アンドルーとサー・トビ−』、カステルヌオーヴォ=テデスコ『キング・ジョン』序曲。
●録音、4月、ニューヨーク・フィル(CBS)。シベリウス1番、チャイコフスキー「主題と変奏」、バルビローリ『エリザベス朝組曲』。
●4月、ニューヨーク・フィル。
●ニューヨーク・フィル。クレストン『悲歌』、メノッティ『老婆と泥棒』序曲。
●9月、バルビローリ、ハリウッドで愛国的なスピーチ。
●秋、バルビローリ、アレグザンダー海軍大臣の助力により、ノルウェーの貨物船に乗ってイギリスに渡航。当時ノルウェーはドイツに占領されており、抵抗運動もまだほとんど起きていなかったので、Uボートによる攻撃の可能性がきわめて低く、バルビローリは積み荷と共に無事に帰国し、親族にベーコンを届けるなどしています。
●秋〜冬、バルビローリは、ロンドン・フィル、ロンドン交響楽団、BBC交響楽団を指揮して、計17回のコンサートを実施。ロンドン・フィル創設者ビーチャムは、イギリス本土の空襲が激化した1940年5月、オーケストラの運営を放棄して海外に逃れ、ドイツの敗戦が決定的になる1944年までアメリカやオーストラリアで過ごしていました。


1943年(44歳) ニューヨーク・フィル常任指揮者、ハレ管首席指揮者
●2月、バルビローリ、イギリスでの公演を終え、任期最後の公演を指揮すべく渡米。利用したのは、頻繁にイギリスとアメリカを往復し、Uボートに撃沈されることも多かった「フィフス・ライン」に所属する貨客船「バナナ・ボート」の船種でした。
●2月、ニューヨーク・フィル。コレッリ合奏協奏曲、モーツァルト40番、ブラームス2番、ほか。


●2月25日、バルビローリ、ハレ管弦楽団からの電報を受け取ります。首席指揮者就任についての内容でした。当日と翌日は久々のイギリス物の大曲であるヴォーン=ウィリアムズの『田園交響曲』を指揮する日だったので、バルビローリの心は一気にイギリス・モードになっていたかもしれません。
●3月、ニューヨーク・フィル。最後のコンサートは、ルシアン・ケリエの『おおスザンナによる幻想曲とフーガ』とリストのピアノ協奏曲第1番、そしてチャイコフスキー交響曲第5番というものでした。ちなみにリスト作品での独奏者は、アメリカ生まれのエドワード・キレニー[1910-2000]という人物で、彼は戦後、アメリカ占領軍政府の音楽担当将校としてドイツで仕事をしており、その際にリスト音楽院時代の友人であるショルティに頼まれ、バイエルン国立歌劇場で仕事ができるよう尽力したショルティの大恩人でもあります(ライトナーにとっては逆)


ニューヨーク・フィルとの契約更新をめぐる障害
バルビローリのニューヨーク・フィルとの契約は3年間で、1937・1938・1939年の最初の3シーズンを無事に終えて1939年に更新、引き続き1940・1941・1942年の3年契約が結ばれて履行され、1942年には楽団側が更新を求めていますが、1941年12月にアメリカが参戦したことで状況が一変してしまいます。
楽団側からの契約更新要請に対し、音楽家連盟から、メンバー以外は契約することができなくなったと通告され、さらに外国人は音楽家連盟のメンバーになれないため、契約を更新するためには帰化する必要があるという戦時の運用論理でした。
音楽家連盟は大恐慌下でメンバーが増えて力をつけたものの、兵役によるメンバー数の激減が収益の大幅な低下を招いており、戦時ということもあって、アメリカ人音楽家のための国粋的かつ過激な保護団体として活動するようになっていました。
なお、更新の見込みが無くなったバルビローリは、1942年の秋から1943年のはじめにかけてイギリスに戻り、ビーチャムが逃げて投げ出したロンドン・フィルと、ロンドン交響楽団、BBC交響楽団を指揮して、計17回のコンサートを実施。
その間、ニューヨーク・フィルの方の指揮は、楽団との関係を修復していたトスカニーニのほか、ロジンスキー、ミトロプーロス、ワルター、ライナーなどが受け持っていました。トスカニーニは10月にイタリアから戻った際に「亡命者」と認定されており、ほかの指揮者たちは「帰化アメリカ人」ということで、音楽家連盟的にも問題の無い人選となっています。
その音楽家連盟は、外国籍音楽家へのさまざまな攻撃のほか、1942年にはメンバー音楽家へのロイヤリティ支払いを巡ってレコード会社と争い、そのためにメンバー音楽家のレコーディング活動を禁じ、解決まで27か月間を要してしまうという無茶な事態を引き起こしてもいます。外国籍音楽家への攻撃といえば、シカゴのクラウディア・キャシディ[1899-1996]の音楽批評も有名ですが、彼女の批評の異常さが激化し注目され始めたのも戦時中のことでした(もっとも、そのキャシディでさえ1960年にバルビローリがシカゴ響に客演した際の批評は好意的でしたが)。
ということで、大の愛国者でもあったバルビローリが、戦時中に、仕事だけのために国籍を変えるはずもなく、ニューヨーク・フィルに残るという選択肢は消え去り、さらに、クレンペラーが脳腫瘍に倒れてから低迷していたロサンジェルス・フィルからの音楽監督就任要請もあったものの、音楽家連盟の戦時運用がある限り無理な状況でした。


●6月、バルビローリ、ハレ管弦楽団首席指揮者に就任。3週間に渡る大規模なオーディションをおこない、戦時にも関わらずなんとか60人規模にまで楽員を増やし、7月上旬に予定されていた6回の演奏会に向け、1日9時間というハードな練習をおこなってオーケストラを鍛え上げています。

ハレ管弦楽団
1943年、バルビローリはハレ管弦楽団首席指揮者に就任。1858年にドイツ人カール・ハレ[1819-1895]によって創設されたマンチェスターのオーケストラ、ハレ管弦楽団は、その後、ハミルトン・ハーティ[1879-1941]のもとで第1次黄金時代とも言われる繁栄をみせていましたが、大恐慌の荒波には勝てず、ハーティは1932年のシーズンに退任。翌1933年度の赤字は611ポンド、1934年度は383ポンドで、以後は景気の回復局面を迎えるものの首席指揮者も置けない状況が継続。客演のみで公演を続けることになり、ビーチャム、ボールト、サージェント、ヘーガー、モントゥー、コーツ、マルコ、ウッド、シューリヒト、アンセルメ、バルビローリといった面々を招き、リハーサルは1回という条件でコストをカットし、1937年度には利益523ポンドと黒字転換。
戦争が始まった1939年度は、サージェントが首席指揮者に着任したものの兵役による楽員減少もあって演奏回数が確保できず705ポンドの赤字、翌1940年度はさらに悪化して870ポンドの赤字となったため、1941年度はBBCノーザン交響楽団との合同コンサートを増やすことにし、演奏回数も93回まで増加。結果、戦時の音楽需要の高まりもあって1,500ポンド以上の利益が上がることになり、1942年度も224ポンドの利益が出ていました。
しかしここで、新たな問題が発生します。マンチェスターから約50キロのところにあるリヴァプールで、それまでパートタイム・オケだったリヴァプール・フィルが常設オケに格上げ、新しいコンサートホールを専用ホールとして使えるようになり、さらに首席指揮者にサージェントが任命、レコーディング契約も獲得することになったのです。
サージェントはハレ管弦楽団を離れてしまい、そこで選ばれたのがバルビローリで、1943年2月25日の電報送信に至ったということなのですが、兵役による楽員減少に加え、BBCノーザン交響楽団とのフルタイム契約を選ぶ楽員も多かったことから、バルビローリが6月に着任した時のハレ管弦楽団の規模は楽員39名にまで縮小していました。
着任早々、3週間に渡る大規模なオーディションをおこなったバルビローリは、戦時にも関わらずなんとか60人規模にまで楽員を増やし、7月上旬に予定されていた6回の演奏会に向け、1日9時間というハードな練習をおこなってオーケストラを鍛え上げ、3回目の公演では完売になるほどの評判となります。
楽団運営や資金調達方法にも精通していたバルビローリは、楽団トレーニングと並行して、財務管理にも意を払うようになり、担当者の職務遂行能力が不十分であるとして交代させることにも成功。
1943年度におこなった演奏会は、逆境にも関わらず194回でそのほとんどをバルビローリが指揮し、利益は2,679ポンドに達していました。
1946年夏にはロンドン交響楽団から音楽監督就任要請があり、1948年12月にはBBC交響楽団首席指揮者就任要請がありましたが、バルビローリはハレ管弦楽団との仕事に集中したいと、申し出を辞退しています。
以後、バルビローリとハレ管弦楽団の関係は密接なものとなり、1968年まで25年間に渡って良好な関係が継続します。


●7月、ハレ管。6回の公演で3回目の公演では完売になるほどの評判となります。
●10月、ロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団。
●10月、ハレ管。ブラームス4番、ベートーヴェン7番、モーツァルト40番、シベリウス2番、ドヴォルザーク8番、ストラヴィンスキー『火の鳥』、他。
●11月、ハレ管。ベートーヴェン5番、チャイコフスキー6番、ダンディ『フランスの山人の歌による交響曲』、メンデルスゾーン4番、他。
●12月、ハレ管。チャイコフスキー4番、ウォルトン『ファサード』、他。
●録音、12月、ハレ管(EMI)。バックス3番。


1944年(45歳) ハレ管首席指揮者
●録音、1月、ハレ管(EMI)。バックス3番。
●1月、ハレ管。ベートーヴェン1番、ベルリオーズ『幻想交響曲』、フォーレ『ペレアスとメリザンド』、バックス3番、他。
●録音、2月、ハレ管(EMI)。ヴォーン・ウィリアムズ5番。
●2月、ハレ管。ブラームス2番、ビゼー交響曲、レスピーギ『ローマの噴水』、ドビュッシー『海』、シューベルト4番、他。
●2月、BBC響。
●3月、ハレ管。モーツァルト36番、シベリウス1番、ダイソン交響曲、他。
●4月、ハレ管。ベートーヴェン3,8番、ブラームス1番、フランク交響曲、チャイコフスキー4番、『1812年』、他。
●5月、ハレ管。エルガー『コケイン』、ワーグナー・コンサート、他。
◆4月、ブレトン・ウッズ協定締結。翌年発効。米ドル基軸固定為替相場制樹立(1973年まで)。
●録音、9月、ハレ管(EMI)。ワーグナー『マイスタージンガー』第3幕組曲。
●10月、ハレ管。ベートーヴェン5番、ブラームス1,3番、モーツァルト41番、シベリウス1番、R=コルサコフ『シェエラザード』、チャイコフスキー4番、他。
●11月、ハレ管。シベリウス2,3番、ドヴォルザーク9番、ムソルグスキー『展覧会の絵』、他。
●12月、ハレ管。ベートーヴェン3番、『皇帝』、『コリオラン』。
●12月、ハレ管。ベルギーに展開中のイギリス軍部隊に慰問公演。


1945年(46歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。ハイドン104番、R.シュトラウス『死と変容』、『町人貴族』、他。
●2月、ハレ管。シベリウス4番、チャイコフスキー6番、エルガー2番、他。
●録音、2月、ハレ管(EMI)。メンデルスゾーン『真夏の夜の夢』スケルツォ。
●録音、3月、ハレ管(EMI)。ヘミング『殺された兵士のための哀歌』。
●3月、ハレ管。R.シュトラウス『ドン・キホーテ』、シベリウス5番、ボロディン2番、ドビュッシー『夜想曲』、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、他。
●4月、ハレ管。ヴェルディ:レクィエム(ルーズヴェルト大統領追悼)、チャイコフスキー5番、シベリウス6,7番、シューベルト『グレート』、他。
●9月、ハレ管。ベートーヴェン5番、『エグモント』序曲、他。
●10月、ハレ管。ベートーヴェン1,2番、マルチヌー1番、モーツァルト38番、ラロ『スペイン交響曲』、ブラームス2番、エルガー1番、ベルリオーズ『幻想交響曲』、他。
●11月、ハレ管。ベートーヴェン3,4番、ハイドン92番、ブラームス3番、ファリャ『スペインの庭の夜』、ドビュッシー『海』、他。
●12月、ハレ管。チャイコフスキー4番、『ロメオとジュリエット』、シューベルト『グレート』、他。


1946年(47歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。バーバー:アダージョ、ブラームス4番、ラヴェル『ラ・ヴァルス』、モーツァルト39番、ワーグナー・コンサート、他。
●2月、ハレ管。『アイーダ』(演奏会形式上演)、ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』、ラヴェル『ダフニスとクロエ』組曲第2番、他。
●3月、ハレ管。ヴェルディ:レクィエム、ベートーヴェン6番、『皇帝』、ヴォーン=ウィリアムズ『タリス幻想曲』、他。
●4月、ハレ管。マーラー『大地の歌』、ハイドン101番、シューベルト『未完成』、R.シュトラウス『ばらの騎士』組曲、ブラームス1番、他。
●5月、ハレ管。ベートーヴェン8,9番。
●録音、6月、ハレ管(EMI)。R.シュトラウス『ばらの騎士』組曲、ウェーバー:『オイリアンテ』序曲、ワーグナー『ローエングリン』第1幕前奏曲、愛3幕前奏曲、ヴォーン・ウィリアムズ『タリスの主題による幻想曲』。
●8月、ウィーン・フィル。ブラームス1番、モーツァルト39番、エルガー『序奏とアレグロ』、ロッシーニ『セミラーミデ』序曲。ザルツブルク音楽祭。
●夏、バルビローリ、ロンドン交響楽団からの音楽監督就任要請を辞退。ハレ管弦楽団との仕事に集中したいという理由でした。
●10月、ハレ管。シベリウス2番、ブラームス1,4番、ベートーヴェン7番、モーツァルト36番、エルガー2番、プロコフィエフ1番、他。
●11月、ハレ管。ベートーヴェン5番、ベルリオーズ『イタリアのハロルド』、フランク交響曲、ベートーヴェン5番、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲、他。
●12月、ハレ管。チャイコフスキー5番、シベリウス1番、モーツァルト29番、チャイコフスキー『フランチェスカ・ダ・リミニ』、他。


1947年(48歳) ハレ管首席指揮者
●録音、1月、ハレ管(EMI)。ベルリオーズ『幻想交響曲』、エルガー『エレジー』
●1月、ハレ管。ベートーヴェン2,3番、ドビュッシー『イベリア』、シャブリエ『エスパーニャ』、他。
●2月、ハレ管。ドビュッシー『海』、ディーリアス『春、初めてのカッコウを聴いて』、『川面の夏の夜』、他。
●3月、ハレ管。ブルックナー7番、エルガー『ゲロンティアスの夢』、ドヴォルザーク9番、シューベルト『グレート』、J.シュトラウス・コンサート、他。
●4月、ウィーン・フィル。ヴェルディ:レクィエム。
●4月、ウィーン国立歌劇場。『アイーダ』。
●4月、ハレ管。ブラームス2番、ピットフィールド:シンフォニエッタ、他。
●録音、5月、ハレ管(EMI)。ベートーヴェン5番、エルガー『エニグマ変奏曲』、『子守歌』。
●8月、ウィーン・フィル。ヴェーバー『オイリアンテ』序曲、ディーリアス『楽園への道』、『村のロミオとジュリエット』間奏曲、ブラームス4番、ハイドン92番。ザルツブルク音楽祭。
●録音、9月、ハレ管(EMI)。エルガー『序奏とアレグロ』。
●10月、ハレ管。ブルックナー4番、ドヴォルザーク8番、シベリウス1番、モーツァルト39番、フィンジ 『ディエス・ナタリス』、ベートーヴェン7番、他。
●11月、ハレ管。ファリャ『三角帽子』、ドヴォルザーク『新世界より』、シベリウス2番、ベートーヴェン4番、他。
●12月、ハレ管。ドビュッシー『海』、R.シュトラウス『ティル・オイレンシュピーゲル』、ワーグナー『ジークフリート牧歌』、他。


1948年(49歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。ルーセル『バッカスとアリアーヌ』組曲第2番、フランク『アイオリスの人々』、ブラームス1番、他。
●2月、ハレ管。ベートーヴェン3番、ヴォーン・ウィリアムズ5番、メンデルスゾーン4番、R=コルサコフ『金鶏』組曲、ブラームス4番、ベルリオーズ『イタリアのハロルド』、他。
●録音、2月、ハレ管(EMI)。ヴォーン・ウィリアムズ『グリーンスリーヴスによる幻想曲』、メンデルスゾーン4番、ドリーブ『シルヴィア』組曲、グレインジャー『ロンドンデリーの歌』。
●録音、3月、ハレ管(EMI)。ストラヴィンスキー:協奏曲ニ調。
●3月、ハレ管。エルガー2番、ハイドン83番、ドヴォルザーク『スラヴ舞曲集』、ビゼー『アルルの女』、エルガー『ゲロンティアスの夢』、他。
●4月、ハレ管。シューベルト4番、『グレート』、エルガー『エニグマ変奏曲』、フランク:交響曲、チャイコフスキー4番、他。
●録音、4月、ハレ管(EMI)。メンデルスゾーン『フィンガルの洞窟』。
●録音、5月、ハレ管(EMI)。ディーリアス:『2つの水彩画』、アイアランド『これらのこと』。
●10月、ハレ管。ベートーヴェン5・6番、ブラームス2番、ウォルトン『ファサード』組曲、ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』、他。
●11月、ハレ管。シューベルト『未完成』、ラヴェル『ボレロ』、『マ・メール・ロワ』、ブラームス3番、ガーシュウィン『ポーギーとベス』組曲、フランク:交響曲、他。
●12月、ハレ管。ベートーヴェン3番、エルガー『エニグマ変奏曲』、ギリス:交響曲第5?番」、他。
●録音、12月、ハレ管(EMI)。グリーグ『ペール・ギュント』組曲第1番。
●12月、バルビローリ、BBC交響楽団からの首席指揮者就任要請を辞退。


1949年(50歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。ヒンデミット交響曲『画家マティス』、シェーンベルク『浄夜』、シューマン4番、他。
●2月、ハレ管。ラフマニノフ2番、チャイコフスキー4番、シベリウス7番、他。
●録音、3月、ハレ管(EMI)。モーツァルト『フィガロの結婚』序曲、シベリウス7番。
●3月、ハレ管。ドヴォルザーク9番、ヴォーン・ウィリアムズ6番、チャイコフスキー6番、『ロメジュリ』、ほか。
●録音、4月、ハレ管(EMI)。ベートーヴェン『エグモント』序曲、メンデルスゾーン:八重奏曲〜スケルツォ、エルガー『弦楽セレナーデ』。
●録音、5月、ハレ管(EMI)。アイアランド『忘れ去られた儀式』前奏曲、『メイ=ダン』。
●5月、ハレ管。チャイコフスキー5番、ストラヴィンスキー『火の鳥』、シベリウス2番、ハイドン98番、ほか。
●エディンバラ音楽祭でベルリン・フィルを初めて指揮。バルビローリとベルリン・フィルの関係は親密なもので、1949年から1969年の約20年のあいだに70回以上指揮していました。
◆9月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約30%切り下げ。アメリカの原料輸入の大幅削減で生じた過度のポンド売りにより、外国為替市場が閉鎖に追い込まれたことが原因。これにより多くの国が自国通貨の平価切り下げに踏み切ります。
・約60%:アイスランド
・約53%:オーストリア
・約47%:アルゼンチン
・約36%:南アフリカ
・約30%:デンマーク、ノルウェー、アイルランド、オランダ、スウェーデン、フィンランド、イラク、エジプト、ヨルダン、ローデシア、インド、ビルマ、セイロン、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド
・約27%:香港
・約22%:フランス
・約21%:西ドイツ
・約20%:タイ
・約13%:ポルトガル、ルクセンブルク、ベルギー
・約9%:カナダ
・約8%:イタリア
・約7%:イスラエル
このような経済状況がクラシック界に与えた影響は大きく。約53%切り下げとなったオーストリアのウィーンでは、平価格差による利益を出しやすくなり、ヨーロッパのレコード会社との契約に縛られないアメリカの新興レコード会社が大量に現地録音を実施するようになります。また、アメリカほどではないもののイギリスから見てもウィーンの平価格差は魅力的だったため、EMIは終戦直後から、DECCAはこのタイミングでウィーンでの録音を活発化していました。
ちなみに1945年12月26日には、フランス・フランが60%切り下げられて、アメリカの新興レコード会社などがフランスでの録音を活発化しており、クレンペラーの戦後欧州復帰を助けてもいました。
また、1948年6月21日にはドイツ・マルクが約90%も切り下げられていますが、これは戦時6年間の価格統制下ドイツでマルク流通量が約6倍に膨れ上がっていたことに起因する戦後のハイパーインフレに対応したもので、この極端なインフレ効果でドイツの負債は大きく解消。しかしこの9月には、西ドイツはまだ効果が十分ではないとして、さらに25%の平価切り下げを要求するものの、連合国側は認めず、21%で妥結。
イギリスはこの平価切下げにより国内景気が改善され、1956年10月の第二次中東戦争までは良い状態が続きます。


●9月、EMIがテープ録音を本格的に開始。78回転盤時代のラッカー・ディスクへの5分ほどのダイレクト・カッティング方式に較べて、テープでは長時間の録音ができるようになり、さらに編集も可能という根本的な違いがありました。
●英国政府がバルビローリに「ナイト爵位」授与。サー・ジョン・バルビローリとなり、「サー・ジョン」と呼ばれることも多くなります。


●10月、ハレ管。シベリウス1番、モーツァルト29番、ドビュッシー『海』、R.シュトラウス『メタモルフォーゼン』、ほか。
●10月12〜14日、ハレ管。ジネット・ヌヴーと共演。マンチェスターとシェフィールドでシベリウスのヴァイオリン協奏曲で共演。
●11月、ハレ管。10月28日に事故死したジネット・ヌヴーを追悼し、マンチェスターとシェフィールドでヴェルディのレクィエムを演奏。
●11月、ハレ管。レーガー『モーツァルト変奏曲』、R=コルサコフ『シェエラザード』、ストラヴィンスキー『火の鳥』、ほか。
●12月、ハレ管。シベリウス2番、エルガー1番、ほか。
●録音、12月、ハレ管(EMI)。ハイドン83番、エルガー『コケイン』。


1950年(51歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。シベリウス3番、4番、バルトーク:管弦楽のための協奏曲、ベートーヴェン5番、ほか。
●録音、2月、ハレ管(EMI)。モーツァルト:K.63〜アンダンテ、エルガー『夢の子どもたち』、ディーリアス『夏の歌』、エルガー『コケイン』。
●2月、ハレ管。ハイドン88番、J.シュトラウス・コンサート、ほか。
●3月、ハレ管。シベリウス6番、ヴォーン・ウィリアムズ6番、シューベルト『グレート』、ほか。
●4月、ハレ管。ベルリオーズ『幻想交響曲』、ドヴォルザーク8番、チェロ協奏曲、ラッブラ5番、ほか。
●5月、ハレ管。シベリウス7番、ブラームス1番、ベートーヴェン9番、モーツァルト40番、ほか。
●10月、ハレ管。シベリウス3番、ルーセル3番、ベートーヴェン3番、8番、ほか。
●録音、10月、ハレ管(EMI)。チャイコフスキー『白鳥の湖』抜粋、ビゼー『アルルの女』抜粋。
●11月、ハレ管。ヴォーン・ウィリアムズ4番、ルーセル『バッカスとアリアーヌ』、ストラヴィンスキー『火の鳥』、チャイコフスキー『眠れる森の美女』、ほか。
●12月、ハレ管。ベートーヴェン7番、シベリウス2番、ほか。
●録音、12月、ハレ管(EMI)。ラッブラ5番、『いやいやながらの出発』。
●12月、バルビローリ、ロイヤル・フィルハーモニック協会よりゴールド・メダル授与。


1951年(52歳) ハレ管首席指揮者
●2月、ハレ管。シューベルト『グレート』、ショーソン『愛と海の詩』、ベートーヴェン1番、ほか。
●3月、オーストラリアに客演。
●3月、バルビローリ、虫垂炎の手術。完全復活には7週間を要しました。
●3月、ハレ管。フランク交響曲、ショーソン『愛と海の詩』、ほか。
●5月、ハレ管。チャイコフスキー5番、ブラームス2番、ハイドン88番、R.シュトラウス『火の欠乏』終景、R=コルサコフ『金鶏』組曲、ほか。
●10月、ハレ管。ベートーヴェン7番、2番、チャイコフスキー『くるみ割り人形』、ラヴェル『ラ・ヴァルス』、ほか。
●10月、王立歌劇場。『トゥーランドット』、『アイーダ』
●11月、ハレ管。ブラームス1番、ヴォーン・ウィリアムズ2番、ほか。
●11月、王立歌劇場。『トゥーランドット』、『アイーダ』
●12月、ハレ管。ベルリオーズ『イタリアのハロルド』、シベリウス5番、ヴォーン・ウィリアムズ3番、ほか。
●録音、12月、ハレ管(EMI)。ウェーバー『魔弾の射手』序曲、トゥリーナ『幻想舞曲集』。


1952年(53歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。モーツァルト34番、35番、36番、ベートーヴェン4番、ブラームス4番、シューベルト4番、2番、ほか。
●1月、王立歌劇場。『トゥーランドット』、『アイーダ』
●2月、ハレ管。モーツァルト39番、40番、41番、ベートーヴェン8番、シューベルト8番、メンデルスゾーン4番、ヴォーン・ウィリアムズ4番、R.シュトラウス『死と変容』、ワーグナー・コンサート、ほか。
●2月、王立歌劇場。『アイーダ』
●3月、コヴェントガーデン・オペラ。『アイーダ』を指揮。
●3月、ハレ管。ブルックナー7番、ハイドン22・95・96番、ラヴェル『ダフニスとクロエ』組曲、ドヴォルザーク7・9番、ストラヴィンスキー『火の鳥』組曲、ベートーヴェン5・6番、ビゼー『アルルの女』、他。
●録音、4月、ハレ管(EMI)。ハイドン96番、モーツァルト:K.251〜メヌエット、レハール『金と銀』。
●4月、ハレ管。マーラー『大地の歌』、R=コルサコフ『シェエラザード』、ハイドン94・104番、ドヴォルザーク8番、ヴォーン・ウィリアムズ5番、シューベルト『グレート』、エルガー『ゲロンティアスの夢』、他。
●4月、王立歌劇場。『アイーダ』
●5月、ハレ管。シベリウス2番、ヴォーン・ウィリアムズ6番、ブラームス3番、ドヴォルザーク5番、他。
●5月、王立歌劇場。『トゥーランドット』、『アイーダ』
●録音、5月、ハレ管(EMI)。ブラームス3番。
●6月、王立歌劇場。『アイーダ』
●6月、BBC響。オルウィン1番。
●11月、王立歌劇場。『ボエーム』、『トゥーランドット』、『アイーダ』。
●録音、12月、ハレ管(EMI)。シベリウス2番。
●12月、バルビローリ、ニューヨーク・フィルから急病のミトロプーロスの代役として3週間指揮して欲しいと打診されるものの都合がつかず辞退。
●12月、王立歌劇場。『ボエーム』、『トゥーランドット』


1953年(54歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。ヴォーン・ウィリアムズ『南極交響曲』初演。
●1月、王立歌劇場。『トリスタンとイゾルデ』、『ボエーム』、『アイーダ』
●2月、王立歌劇場。『オルフェオとエウリディーチェ』、『ボエーム』、『アイーダ』
●4月、王立歌劇場。『トリスタンとイゾルデ』、『トゥーランドット』
●5月、王立歌劇場。『トリスタンとイゾルデ』、『トゥーランドット』
●6月、王立歌劇場。『アイーダ』
●録音、6月、ハレ管(EMI)。ヴォーン・ウィリアムズ『南極交響曲』、ヴォーン・ウィリアムズ『すずめばち』。
●6月、ハレ管。オルウィン『マジック・アイランド』。
●8月、ハレ管。ヘンリー・ウッド・プロムナード・コンサートに出演。
●録音、8月、ハレ管(EMI)。ハイドン88番、グリーグ「秘密」。
●録音、9月、ハレ管(EMI)。エルガー『序奏とアレグロ』、ヴォーン・ウィリアムズ『南極交響曲』。
●10月、ハレ管。オルウィン2番。
●11月、王立歌劇場。『ボエーム』
●12月、王立歌劇場。『蝶々夫人』、『アイーダ』
●録音、12月、ハレ管(EMI)。R=コルサコフ『スペイン奇想曲』、リャードフ『魔法にかけられた湖』、ヴォーン・ウィリアムズ:『富める人とラザロの5つのヴァリアント』、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、シューベルト9番。

 


1954年(55歳) ハレ管首席指揮者
●録音、1月、ハレ管(EMI)。ヴェルディ:『椿姫』第1幕前奏曲、第2幕前奏曲、フォーレ『ペレアスとメリザンド』組曲、イベール:ディヴェルティスマン、バルビローリ『エリザベス朝組曲』、シャブリエ『スペイン』。
●録音、2月、ハレ管(EMI)。サン・サーンス『動物の謝肉祭』、『シュトラウス・ファンタジー』、スッペ『美しきガラテア』序曲。
●2月、ハレ管。マーラー9番。
●録音、6月、ハレ管(EMI)。エルガー2番、ヴォーン・ウィリアムズ:『グリンスリーヴスによる幻想曲』。
●6月、ロンドン響、ヴォーン・ウィリアムズ:チューバ協奏曲初演。ロンドン響創立50周年記念委嘱作。
●8月、ハレ管。ブラームス1番。


1955年(56歳)
●1月、BBC響。オルウィン『リラ・アンジェリカ』。
●録音、1月、ハレ管(EMI)。R.シュトラウス『ダナエの愛』交響的断章、J.シュトラウスII『皇帝円舞曲』、シベリウス『トゥオネラの白鳥』、ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ第4番。
●5月、ハレ管。ヴォーン・ウィリアムズ交響曲第8番初演。5人の打楽器奏者を要する二管編成オケにより、主題のない変奏や、行進曲風スケルツォ、カヴァティーナ、トッカータなどがあらわれる作品。献呈も受けています。
●録音、6月、ハレ管(Pye)。エルガー『エニグマ変奏曲』、ヴォーン・ウィリアムズ8番。
●夏、ハレ管。ヘンリー・ウッド・プロムナード・コンサートに出演。
●9月、ハレ管。オルウィン:『秋の伝説』。


1956年(57歳) ハレ管首席指揮者
●録音、6月、ハレ管(Pye)。ディーリアス『楽園への道』、『イルメリン』前奏曲、『春初めてのカッコウを聞いて』、『フェニモアとジェルダ』〜間奏曲、J.シュトラウス作品集、バターワース『シュロプシャーの若者』、バックス『ファンドの園』、パーセル:弦楽のための組曲。
●録音、7月、ハレ管(EMI)。ラッブラ6番。
●8月、バルビローリ、深刻な症状で腹部の手術を受け、9月まで入院、年内は完全な静養をとるよう指示されイタリアに滞在。静養中は鬱病の症状が現れやすいため、マタイ受難曲とブルックナー7番、マーラー2番のスコア研究に没頭して鬱を退けています。

手術、心臓病、鬱病
1956年8月、バルビローリは腹部の深刻な症状で手術を受け、9月まで入院することとなり、さらに1956年いっぱいはなるべく静養をとるよう指示されてイタリアに滞在。しかし元来活発な性格のバルビローリには安静状態はかえってつらいもので、慢性化しつつあった軽度の鬱の症状も現れやすいことから、バルビローリは病床でマタイ受難曲とブルックナー7番、マーラー2番の演奏会準備のためにスコア研究に没頭し、鬱をなんとか退けています。
なお、このときの手術の影響は大きかったようで、治ることのない心臓病とうまく付き合うために心雑音に配慮する必要が生じ、それが過剰労働気味の生活の改善にも繋がって、2年後の1958年にはハレ管弦楽団との契約内容を大幅に見直し、多すぎる年間演奏回数を約70回に制限することで(それでもかなり多いですが)、ほかのオーケストラからの出演要請にも応えられる体制を整えます。


◆10月、ハンガリー動乱勃発(11月10日まで)。
◆10月、第2次中東戦争勃発(翌年3月まで)。
●録音、12月、ハレ管(Pye)。モーツァルト29番、41番、ディーリアス:牧歌『私はかつて人の多い都市を通った』、エルガー1番、『序奏とアレグロ』、『エレジー』。
●11月、ハレ管弦楽団100周年記念のシーズンのための資金が不足しているため、静養を切り上げてマンチェスター市議会の非公開会合で演説。5,298ポンドの追加支援を獲得しています。
●12月、ハレ管。ヘンデル『メサイア』。


1957年(58歳) ハレ管首席指揮者
◆3月、第2次中東戦争終結。
●録音、5月、ハレ管(Pye)。ベルリオーズ『ファウストの劫罰』から、チャイコフスキー4番、メンデルスゾーン『フィンガルの洞窟』、フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』序曲、ロッシ―ニ 『ウィリアム・テル』序曲、ラヴェル『マ・メール・ロワ』、ジャーマン『ネル・グウィン』抜粋、グレインジャー小品集、レハール『金と銀』、ワルトトイフェル『スケーターズ・ワルツ』、ファリャ:セギディーリャ・ムルシアーナ。
●録音、6月、ハレ管(Pye)、ドヴォルザーク8番、スケルツォ・カプリチオーソ、チャイコフスキー『ロメオとジュリエット』、ヴェルディ『運命の力』序曲、スッペ『ウィーンの朝・昼・晩』、『スペードの女王』、『怪盗団』、『詩人と農夫』、『軽騎兵』、『美しきガラテア』序曲、マーラー1番、シベリウス『悲しきワルツ』。
●録音、8月、ハレ管(Pye)。ドヴォルザーク7番、管セレ、チャイコフスキー『アンダンテ・カンタービレ』、ニコライ『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲、ポンキエルリ「時の踊り」、マスネ「菩提樹の下で」、グリーグ:交響的舞曲、クラーク『トランペット・ヴォランタリー』、スーザ『星条旗よ永遠なれ』、グリーグ『2つの悲しき旋律』、『ペール・ギュント』組曲第1番。
●録音、9月、ハレ管(Pye)。ドヴォルザーク9番。
●録音、12月、ハレ管(Pye)。ヴォーン・ウィリアムズ2番、シベリウス1番。
●ハレ管。イタリア、ポーランド、チェコ、ドイツ、オーストリア・ツアー。


1958年(59歳) ハレ管首席指揮者
●録音、1月、ハレ管(Pye)。ベートーヴェン1番、8番。
●1月、ハレ管。エルガー1番、ウェーバー『魔弾の射手』序曲。
●録音、5月、ハレ管(Pye)。シベリウス5番。
●録音、8月、ハレ管(Pye)。チャイコフスキー6番。
●8月、ハレ管。アーサー・バターワース交響曲第1番。アーサー・バターワース[1923-2014]は元ハレ管トランペット奏者の作曲家で、ジョージ・バターワース[1885-1916]との血縁関係はありません。
●録音、9月、ハレ管(Pye)。ドニゼッティ『ドン・パスクワーレ』序曲、ロッシ―ニ『セミラーミデ』序曲、マスカーニ:『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲、ロッシ―ニ『ウィリアム・テル』〜バレエ音楽、プッチーニ『マノン・レスコー』第3幕間奏曲、ニールセン4番。
●バルビローリ、ハレ管弦楽団との契約内容を見直し、多すぎる年間演奏回数を約70回に制限することで、ほかのオーケストラからの出演要請に応える体制を整えます(結局出演回数はその基準を大きく上回ったままでしたが)。


●12月、バルビローリ、1959年3月まで北米客演ツアーを敢行。12月はウィニペグ交響楽団、デトロイト交響楽団、ワシントン・ナショナル交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団に客演。
●ブカレスト・ジョルジュ・エネスコ・フィル。ドビュッシー『海』。
●録音、ハレ管(Pye)。グノー管楽器のための小交響曲。


1959年(60歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ニューヨーク・フィル。マーラー1番。
●エルガー『序奏とアレグロ』、ヴォーン・ウィリアムズ8番、バルビローリ『エリザベス朝組曲』、ディーリアス『楽園への道』、ウォルトン『パルティータ』、ホルスト『惑星』(5曲抜粋版)、ハイドン88番、バルビローリ『エリザベス朝組曲』。『惑星』はアメリカでまだ無名だったため、静かな「木星」と「海王星」をカットし、曲順も「木星」を最後にして演奏。
●1月、ボストン響。ブラームス2番。
●ボストン響。バルビローリ『エリザベス朝組曲』、ディーリアス『楽園への道』、ウォルトン『管弦楽のためのパルティータ』、ブラームス2番。
●2〜3月、バルビローリ、北米客演ツアー。ボストン交響楽団、シンシナティ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ヴァンクーヴァー交響楽団に客演。
●録音、4月、ハレ管(Pye)。ベートーヴェン『レオノーレ』3番、チャイコフスキー5番、『スラヴ行進曲』、モーツァルト『魔笛』序曲、ワーグナー『タンホイザー』序曲、ウェーバー『オベロン』序曲。
●録音、9月、ハレ管(Pye)。ベルリオーズ『幻想交響曲』、ワーグナー管弦楽『マイスタージンガー』『トリスタンとイゾルデ』『さまよえるオランダ人』『ローエングリン』から、ドビュッシー『海』、ラヴェル『ダフニスとクロエ』第2組曲、『ラ・ヴァルス』。


●米ブルックナー協会がバルビローリに「ブルックナー・メダル」授与。バルビローリは1947年からブルックナーを積極的にとりあげていました(生涯公演数は72回)。
●9月、ボストン響。ブラームス4番


1960年(61歳) ハレ管首席指揮者
●3月、シカゴ響。マーラー9番、モーツァルト34番、ヴォーン=ウィリアムズ8番、ブラームス4番、バルビローリ『エリザベス朝組曲』。
●5月、チェコ・フィル。マーラー1番、バルビローリ『エリザベス朝組曲』。
●10月、ハレ管&BBCノーザン響。マーラー7番、ニールセン5番。
●10月、バルビローリ、ヒューストン交響楽団からの首席指揮者就任要請を受諾したことを発表。


ヒューストン交響楽団
1960年10月に首席指揮者就任についてヒューストン交響楽団から連絡があり、バルビローリは申し出を受諾。ストコフスキーの後任として1961年10月から1967年まで首席指揮者を務めあげ、その後は名誉指揮者として厚遇されていました。バルビローリとヒューストン交響楽団の演奏は人気を博し、1964年、1965年、1966年、1967年にツアーもおこなっています。また、有力者や資産家からの人気もあり、在任中に、専用ホールの「ジョーンズ・ホール」が建設されています。


●11月、トリノRAI交響楽団。マーラー9番
●バルビローリ、ローマの聖チェチーリア国立アカデミー名誉会員に選出。


1961年(62歳) ハレ管首席指揮者、ヒューストン響音楽監督
●1月、ベルリン・フィル。
●4月、ハレ管。スイスのルガーノ公演。ヴォーン・ウィリアムズ8番、バルビローリ『エリザベス朝組曲』、R=コルサコフ『スペイン奇想曲』、シャブリエ『スペイン』。
●録音、4月、ハレ管(Concert Hall Society)。メンデルスゾーン4番、R=コルサコフ『スペイン奇想曲』。スイスのベルンでの録音。
●9月、ブカレスト・ジョルジュ・エネスコ・フィル。シューベルト5番、ほか
●10月、バルビローリ、ヒューストン交響楽団の音楽監督に就任(1967年まで)。レオポルド・ストコフスキー[1882-1977]の後任。
●11月、ハレ管&BBCノーザン響。ブルックナー9番。


1962年(63歳) ハレ管首席指揮者、ヒューストン響音楽監督
●3月、ヒューストン響。マーラー2番。
●録音、3月、フィルハーモニア管(EMI)。ヴォーン・ウィリアムズ5番。
●録音、3月、チェコ・フィル(Supraphon)。フランク交響曲(C29)。
●録音、5月、シンフォニア・オブ・ロンドン(Pye)。エルガー『序奏とアレグロ』、『弦楽セレナーデ』、ヴォーン・ウィリアムズ:『トマス・タリスの主題による幻想曲』、『グリンスリーヴスによる幻想曲』。


●6月、ベルリン・フィル。
●録音、8月、フィルハーモニア管(EMI)。エルガー1番、『コケイン』、『エニグマ変奏曲』、『威風堂々』第1番、4番。
●9月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。モーツァルト40番、ショスタコーヴィチ5番、ブラームス4番、チャイコフスキー6番、R=コルサコフ『シェエエラザード』、ヴォーン・ウィリアムズ『タリス幻想曲』、他。
●10月2日、母ルイーズ死去。
●10月、ハレ管。本拠地周辺公演。ヘンデル『メサイア』、ベートーヴェン3・7・8番、ヒンデミット『ヴェーバーの主題による交響的変容』、メンデルスゾーン4番、他。
●録音、10月、ロイヤル・フィル(Reader's Digest)。シベリウス2番。
●10月、ハレ管。ロンドンで王立フィルハーモニック協会創立150周年記念演奏会に出演。
●10〜11月、ヒューストン響。首席指揮者として活動。
●10〜11月、ニューヨーク・フィル。
●12月、ヴァンクーヴァー響。
●12月、トロント響。
●12月、ニューヨーク・フィル。マーラー9番。
●12月、ハレ管。本拠地周辺公演。ヴォーン・ウィリアムズ6番、ヘンデル『メサイア』、ラヴェル『マ・メール・ロワ』、他。


1963年(64歳) ハレ管首席指揮者、ヒューストン響音楽監督
●1月、ベルリン・フィル。マーラー9番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(カーゾン)、ほか。マーラー経験が少なかった楽員たちは感激し、バルビローリにレコーディングをしてくれるよう嘆願。
●1月、ハレ管。本拠地周辺公演。ブルックナー8番、ショスタコーヴィチ5番、シューベルト『グレート』、チャイコフスキー5番、モーツァルト39番、ドビュッシー『海』、他。
●1月、ハレ管。
●2月、ハレ管。ショスタコーヴィチ5番。
●3月、ハレ管。本拠地周辺公演。リスト『ファウスト交響曲』、チャイコフスキー5番、ハイドン98番、ドビュッシー『海』、他。
●4月、ハレ管。イギリス空軍設立45周年記念コンサートをロイヤル・フェスティヴァル・ホールで開催。アレクサンドラ王女臨席。
●4月、ハレ管。本拠地周辺公演。バッハ『マタイ受難曲』、ストラヴィンスキー『火の鳥』、R.シュトラウス『4つの最後の歌』、ハイドン103,104番、シェーンベルク『浄夜』、他。
●4月、フィルハーモニア管。シベリウス2番。
●5月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。ヴェルディ:レクィエム、マーラー4番、ブラームス1,4番、ベートーヴェン9番、ニールセン4番、シベリウス2番、他。
●6月、ハレ管。北欧、英国ツアー。シベリウス2番、5番、マーラー4番、ブラームス2番、4番、ベートーヴェン6番、7番、8番、ニールセン4番、チャイコフスキー4番、他。
●7月、ハレ管。本拠地周辺公演。シベリウス2番、マーラー4番、ブラームス2番、4番、ベートーヴェン1番、7番、モーツァルト39番、他。
●7月、ハレ管&BBCノーザン響。ブルックナー8番。
●8月、ハレ管。本拠地周辺公演、「キングズ・リン・フェスティヴァル」出演。フォーレ:レクィエム、フランク:交響曲ニ短調、ブラームス2番、他。


●10月、ハレ管。エルガー2番、ヴォーン=ウィリアムズ『タリス幻想曲』、ドビュッシー『海』、ほか。
●11月、ヒューストン響。
●フィンランド政府がバルビローリに「フィンランド白薔薇勲章ファーストクラス・コマンダー」授与。シベリウス演奏の貢献により。


1964年(65歳) ハレ管首席指揮者、ヒューストン響音楽監督
●録音、1月、ベルリン・フィル(EMI)。マーラー9番。イエス・キリスト教会での4日間に渡るセッションで完成。
●1月、ベルリン・フィル。前年10月に落成したフィルハーモニーでの公演で、マーラー4番、ハイドン92番、ウェーバー『オイリアンテ』序曲、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、ブラームス4番、バルビローリ『エリザベス組曲』、ヴォーン・ウィリアムズ8番ほかのプログラムで、ベルリオーズ『幻想交響曲』のあとに感激した聴衆が35分間も拍手を続け、ステージ近くまで押し寄せるなど大成功でした。
●1月、ハレ管。
●2〜3月、ヒューストン響。国内ツアーも実施。
●録音、4月、ハレ管(EMI)。エルガー2番。3時間のセッションで完成。
●5月、ハレ管。シューベルト9番、ほか。
●録音、6月、ハレ管(EMI)。シューベルト9番。
●録音、9月、ハレ管(EMI)。チャイコフスキー『弦楽セレナーデ』、アレンスキー:チャイコフスキーの主題による変奏曲。
●10月、ハレ管。
●10〜11月、ボストン響。ヴォーン・ウィリアムズ6番、ディーリアス『楽園への道』、エルガー2番、パーセル組曲第2番。
●11月、ヒューストン響。
●11月、王立音楽院管弦楽団。
●12月、ハレ管。ブルックナー3番、マーラー6番、ブラームス4番、ピアノ協奏曲第1番(オグドン)、大学祝典序曲、ヘンデル『メサイア』、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(カンポーリ)、ビゼー交響曲、ほか。
●録音、12月、ハレ管(EMI)。エルガー『ゲロンティアスの夢』。
●ヘルシンキ・フィル。
●イタリア政府がバルビローリに「メリット勲章」授与。


1965年(66歳) ハレ管首席指揮者、ヒューストン響音楽監督
●1〜3月、ヒューストン響。国内ツアーも実施。
●4月、ハレ管。スイス、イタリア・ツアー。マーラー6番、シベリウス2番、ほか。
●5月、ベルゲン、ヘルシンキに客演。
●6月、ベルリン・フィル。マーラー2番。
●7月、ヒューストン響。ブラームス3番、ラヴェル『ラ・ヴァルス』。
●7月、ハレ管。ニールセン4番。
●8月、ニュー・フィルハーモニア管。南米&カリブ海ツアー。
●録音、8月、ロンドン響(EMI)。ディーリアス『楽園への道』、エルガー『海の絵』、チェロ協奏曲(デュ・プレ)。
●録音、8月、イギリス室内管(EMI)。パーセル『ディドーとエネアス』。
●録音、8月、ロンドン響(EMI)。エルガー『海の絵』。
●9〜10月、ヘルシンキ・フィル。シベリウス7番、ほか。ロンドン、アムステルダム、ウィーン、ミュンヘン・ツアー。
●10月、ハレ管。スコットランド・ツアー、大聖堂ツアー開催。
●10〜11月、ヒューストン響。
●12月、ハレ管。シューベルト8番、エルガー『ゲロンティアスの夢』、ほか。
●録音、12月、ロンドン響(EMI)。バックス『ティンタジェル』、アイアランド『ロンドン序曲』。
●米マーラー=ブルックナー協会がバルビローリに「マーラー・メダル」授与。バルビローリは1931年からマーラー作品を取り上げており生涯公演数は200回を超えていました。

 


1966年(67歳) ハレ管首席指揮者、ヒューストン響音楽監督
●1月、ベルリン・フィル。マーラー6番、ほか。
●1月、ハレ管。本拠地周辺公演とロンドン公演。ブルックナー9番、R.シュトラウス『ドン・ファン』、ドヴォルザーク『新世界より』、ドビュッシー『海』、シベリウス5番、他。
●録音、1月、ハレ管(EMI)。シベリウス『フィンランディア』、『カレリア組曲』、『ポホヨラの娘』、『悲しきワルツ』、『トゥオネラの白鳥』、『レンミンカイネンの帰郷』。
●2月、ハレ管。本拠地周辺公演。ベートーヴェン3番、シベリウス5番、バルトーク:ピアノ協奏曲第2番、ドビュッシー『海』、他。
●3月、ヒューストン響。マーラー5番。国内ツアーも開催。


●4月、ハレ管。本拠地周辺公演。ワーグナー『ジークフリート牧歌』、マーラー5番、モーツァルト34番、ニールセン5番、ワーグナー・コンサート、他。
●5月、ハレ管。本拠地周辺公演。ホルスト『惑星』、ベートーヴェン1,9番、プッチーニ『蝶々夫人』(演奏会形式上演)、チャイコフスキー4番、他。
●6月、ハレ管。本拠地周辺公演。マーラー5番、モーツァルト36番、ヤナーチェク『タラス・ブーリバ』、シベリウス2番、ラヴェル『ダフニスとクロエ』組曲第2番、他。
●6月、チューリヒ、ジェノヴァに客演。
●7月、ハレ管。本拠地周辺公演、「キングズ・リン・フェスティヴァル」、「プロムス」。ブルックナー9番、ドヴォルザーク7番、ブラームス1,4番、ハイドン104番、ベートーヴェン『皇帝』、他。
●録音、7月、ロンドン響(EMI)。ディーリアス『イルメリン』前奏曲、『夏の歌』。
●録音、7月、ニュー・フィルハーモニア管(EMI)。エルガー『エレジー』、『溜め息』。『威風堂々』2、3、5番、『フロワサール』
●録音、7月、ハレ管(EMI)。シベリウス2番、5番、7番。
●8月、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団。
●8月、フィレンツェに客演。
●録音、8月、ローマ国立歌劇場(EMI)。プッチーニ『蝶々夫人』。
●8月、ローマ聖チェチーリア管弦楽団。
●9月、ベルリン・フィル。ブルックナー9番。ブルーノ・ワルター生誕90周年記念演奏会。
●9月、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団。エジンバラ音楽祭。
●9月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。シューマン4番、チャイコフスキー4番、ドヴォルザーク7番、ドビュッシー『海』、他。
●10〜11月、ヒューストン響。10月2日にヒューストンの「ジェシー・H・ジョーンズ・ホール」落成。建設費は当時破格の700万ドル超えでした。
●11月、ハレ管。本拠地周辺公演、ドイツ・ツアー。シューベルト『グレート』、チャイコフスキー4番、ベートーヴェン5番、『エグモント』序曲、ベルリオーズ『幻想交響曲』、他。
●12月、ハレ管。本拠地周辺公演。ヘンデル『メサイア』、ベートーヴェン5番、エルガー1番、ヤナーチェク『タラス・ブーリバ』、他。
●録音、12月、ウィーン・フィル(EMI)。ブラームス2番。11月の終わりにはショルティがブルックナーの8番をウィーン・フィルとセッション録音していました。
●録音、12月、ハレ管(EMI)。ベルリオーズ『ローマの謝肉祭』、シベリウス1番、J.シュトラウス II『美しく青きドナウ』、『雷鳴と稲妻』、『ジプシー男爵』序曲、『常動曲』、J.シュトラウス I『ラデツキー行進曲』、R.シュトラウス『ばらの騎士』ワルツ、レハール『金と銀』。
●フランス政府がバルビローリに「芸術文化勲章」授与。


1967年(68歳) ハレ管首席指揮者、ヒューストン響音楽監督
●1月、BBC響。マーラー4番、ベルリオーズ『海賊』。プラハ、ワルシャワ、モスクワ、レニングラード・ツアー。
●1月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。バルトーク:管弦楽のための協奏曲、ベートーヴェン7番、シベリウス2番、エルガー1番、他。
●録音、1月、ハレ管(EMI)。シベリウス『ペレアスとメリザンド』。
●録音、2月、ハレ管(EMI)。J.シュトラウス II『シャンパン・ポルカ』。
●3〜4月、ヒューストン響。
●4月、ハレ管。本拠地周辺公演。ブルックナー7番、ドヴォルザーク7番、シューベルト5番、ベートーヴェン3,4番、他。
●5月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国。フランス・ツアー。ブリテン『青少年のための管弦楽入門』、エルガー『ゲロンティアスの夢』、ベルリオーズ『幻想交響曲』、ドヴォルザーク7番、他。
●録音、5月、BBC響(EMI)。ベートーヴェン3番、バルビローリ『エリザベス朝組曲』。
●5〜6月、ベルリン・フィル。ベートーヴェン9番、ほか。


●6月、イスラエル・フィル。ベートーヴェン9番、ほか。
●7月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー、「キングズ・リン・フェスティヴァル」出演。エルガー2番、ベートーヴェン2,3番、チャイコフスキー4番、他。
●録音、7月、ハレ管(EMI)。ヴェルディ『運命の力』序曲
●録音、7月、ニュー・フィルハーモニア管(EMI)。シェーンベルク『ペレアスとメリザンド』祭』。
●8月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー、「プロムス」、「キングズ・リン・フェスティヴァル」。ヴォーン・ウィリアムズ8番、ベートーヴェン『プロメテウスの創造物』序曲、ブリテン『シンフォニア・ダ・レクィエム』、モーツァルト35番、マーラー6番、ドヴォルザーク7番、ハイドン88番、J.シュトラウス・コンサート、他。
●録音、8月、ニュー・フィルハーモニア管(EMI)。R.シュトラウス:『メタモルフォーゼン』、ベルリオーズ『ローマの謝肉祭』、マーラー6番。
●バルビローリ、ヒューストン交響楽団首席指揮者の契約を終え、名誉指揮者に。
●9月、ハレ管。本拠地周辺公演。R.シュトラウス『英雄の生涯』、シューベルト『グレート』、モーツァルト40番、シューベルト5番、ベートーヴェン3,4番、他。
●10月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。R.シュトラウス『英雄の生涯』、ベートーヴェン3番、
●10月、ベルリン・フィル。
●11月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。チャイコフスキー5番、ベルリオーズ『イタリアのハロルド』、ベートーヴェン3番、J.シュトラウス・コンサート、他。
◆11月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約14%切り下げ。
●11〜12月、ジェノヴァ、パドヴァに客演。
●録音、12月、ウィーン・フィル(EMI)。ブラームス1〜4番、ハイドン変奏曲、悲劇的序曲、『大学祝典序曲』。
●12月、ウィーン・フィル。モーツァルト35番、ドビュッシー『海』 


1968年(69歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。ブルックナー8番、シベリウス5番、ヴォーン・ウィリアムズ5番、シューベルト5番、ブラームス2番、他。
●2月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。ニールセン『不滅』、ヴォーン・ウィリアムズ5番、『タリス幻想曲r』、シェーンベルク『ペレアスとメリザンド』、シューベルト『未完成』、他。
●2月、ヒューストン響。
●4月、ニューヨーク・フィル。
●4月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー。ベートーヴェン7番、シェーンベルク『ペレアスとメリザンド』、ロースソーン:『街角』序曲、マーラー1番、『大地の歌』、モーツァルト41番、バッハ『マタイ受難曲』、他。
●5月、ハレ管。本拠地周辺公演。ヴェルディ:レクィエム、『オテロ』、ブリテン:シンフォニア・ダ・レクィエム、シューベルト『グレート』、他。
●6〜7月、ハレ管。チャーター便で3万7千キロをまわる中南米8か国のツアーを開催。メキシコ・シティ(メキシコ)、プエブラ(メキシコ)、カラカス(ヴェネズエラ)、キングストン(ジャマイカ)、ポート・オブ・スペイン(トリニダード・トバゴ)、リマ(ペルー)、サンチャゴ(チリ)、ブエノス・アイレス(アルゼンチン)、サン・パウロ(ブラジル)、ポルト・アレグレ(ブラジル)で公演。7月下旬にはイギリスに戻り、25日と26日にはハロゲートで公演。メキシコ・オリンピックということで訪れたメキシコ・シティは、標高標高2,250メートルで酸素濃度が平地の76%しかないため、心雑音を伴う心臓病のバルビローリの体には悪影響があったかもしれません。


●8月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー、「キングズ・リン・フェスティヴァル」。シベリウス5番、チャイコフスキー4番、J.シュトラウス・コンサート、ストラヴィンスキー『火の鳥』、他。
●録音、8月、ハレ管(EMI)。ディーリアス『夏の庭園にて』、「ラ・カリンダ」、『ハッサン』間奏曲、『去りゆくつばめ』
◆8月20日、「チェコ事件」。25万人から成るワルシャワ条約機構軍(ソ連、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー)が、戦車2,000輌、軍用機800機の規模でチェコスロヴァキアに侵攻し、すぐに全土を占領。ピーク時の展開人数は約50万人、戦車は6,300輌に達しましたが、チェコ軍は一貫して無抵抗、武装市民による攻撃をやめさせるための展開となり、死者は武装市民側が137人、占領軍側が112名という結果。また、一般市民の国外脱出に特に制限が無かったため、人口の約0.5%にあたる7万人の市民が国をあとにしています。
ちなみに第2次大戦中にドイツ政府が殺害したチェコの市民(ユダヤ系)は約8万人、戦後、チェコ政府により国外追放されたドイツ系市民は約291万人。追放の過程でそのうちの2割近いとも言われる膨大な数の命が失われています。チェコとの和解宣言は、ドイツについては1997年におこなわれています。
●バルビローリ、『マイスタージンガー』の録音をキャンセル。これはクーベリックの嘆願書に賛同したものでした。

マイスタージンガー・キャンセル
1968年8月の「チェコ事件」を受け、チェコ・フィルの首席指揮者、カレル・アンチェル[1908-1973]がカナダに亡命。早くから西側で活動していたチェコ人指揮者、ラファエル・クーベリック[1914-1996]は、西側のクラシック音楽マネジメントに、ソ連への抗議の意味で、東側で演奏しないよう嘆願書を送付。ストラヴィンスキーやルービンシュタイン、スターン、メニューインといった音楽家が賛同し、バルビローリも同意。EMIで予定されていたドレスデンでの『マイスタージンガー』のレコーディングをキャンセル。バルビローリは1929年に『マイスタージンガー』の全曲上演を指揮して以来、キャリアの初期には数多くの上演に携わっていましたが、コンサート指揮者として名が売れてからは遠ざかっていたものの、抜粋曲などはコンサートでもとりあげていました。
ちなみに当時のバルビローリは心臓病が悪化していましたが、2月から4月に北米ツアー、チェコ事件直前の6月から7月には、中南米ツアーと、2度に渡る長期の遠距離ツアーを実施しており、心臓に負担のかかる高地メキシコシティ公演もおこなっていたことからかなり疲れていたようです。
EMIは代わりの指揮をカラヤンに打診しますが、カラヤンは返答を保留、結局、翌1969年1月に「チェコスロヴァキア社会主義連邦共和国」が成立して事態が収拾し、5月から6月にかけてベルリン・フィルとチェコやソ連を周る「プラハ、モスクワ、レニングラード、ロンドン、パリ・ツアー」を成功裏に終えた段階で、引き受けるという返答をしています。
その5か月後の1969年11月には、第1回カラヤン国際指揮者コンクールがベルリンで開催され、バルビローリが審査員として参加してもいます。
実際にレコーディングが開始されたのは、それからさらに1年が経過した1970年11月のことで、チェコ事件からは2年3か月が経過、4か月前にはバルビローリが心臓発作で亡くなっていたというタイミングです。
レコーディング直前の8月と10月には、カラヤンはベルリンで『フィデリオ』を録音し、13年ぶりとなるEMIでのオペラ録音の再開は、ドレスデンではなくベルリンでおこなうということでベルリン・フィルに配慮。その後、ウィーンの『ボリス・ゴドゥノフ』でデッカに8年ぶりのオペラ録音をおこなってウィーン・フィルにも配慮し、巨額の経費のかかるオペラ録音プロジェクトの多角化(リスク分散)と、その成功(収益確保)に向けて万全の姿勢で臨んでいます。
その間、西ドイツ首相にはヴィリー・ブラントが就任し、ソ連・東欧との友好路線を強化、1970年8月には「ソ連=西ドイツ武力不行使条約」が締結され「デタント(緊張緩和)」が進められるなど、政治的不安が大きく減退していたという重要な社会的要因もあって実現した東ドイツでのレコーディングであることがわかります。
ちなみにカラヤンはこの録音が縁となったのか、2年後にはベルリン・フィルの「オーケストラ・アカデミー」を設立する際に、ドレスデン銀行の大きな支援を受けられることとなり、ザルツブルク音楽祭では、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮してもいました。カラヤンの辣腕ぶり、おそるべしです。


●9月、ハレ管。本拠地周辺公演。ヘンデル『王宮の花火の音楽』、シベリウス3番、チャイコフスキー4番、ハイドン92番、他。
●10月、ハレ管。スイス、オーストリア、ドイツ・ツアー、本拠地周辺公演。チャイコフスキー5番、メンデルスゾーン4番、ブラームス3番、R.シュトラウス『ドン・キホーテ』、フィンランディア、他。
●11月、ハレ管。本拠地周辺公演。ショスタコーヴィチ5番、1812年、シベリウス4番、ブラームス4番、ドヴォルザーク『新世界より』、ヴェルディ:レクィエム、他。
●録音、12月、パリ管(EMI)。ドビュッシー『海』、『夜想曲』
●バルビローリ、フランス政府より「国家功労勲章」授与。


1969年(70歳) ハレ管首席指揮者
●1月、ハレ管。マンチェスターとロンドン。マーラー3番。
●2月、南西ドイツ放送響。
●4月、ハレ管。ロンドン。ベルリオーズ:幻想交響曲、他。
●5月、ハレ管。本拠地周辺公演。チャイコフスキー『悲愴』、ベルリオーズ:幻想交響曲、ニールセン5番、シベリウス5番、ワーグナー・コンサート、他。
●7月、ハレ管。ハロゲート。ベルリオーズ:幻想交響曲、ウォルトン:パルティータ、シベリウス3番、ドヴォルザーク『新世界より』、マーラー2番、ブラームス2番、他。
●8月、ハレ管。本拠地周辺公演、英国ツアー、「キングズ・リン・フェスティヴァル」、「プロムス」出演。ベルリオーズ:幻想交響曲、ブラームス2番、シベリウス3番、ハイドン83番、『ばらの騎士』組曲、他。
●9月、ロンドン響。
●11月、ロサンジェルス室内管。エルガー『序奏とアレグロ』、ディーリアス『2つの水彩画』、ほか。
●11月、バルビローリ、第1回カラヤン国際指揮者コンクールに審査員として参加。
●バルビローリ、英国政府より「名誉勲位」授与。
●バルビローリ、ローマ歌劇場、『アイーダ』新演出で6回
●12月、ヒューストン響。ベルリオーズ『幻想交響曲』、『イタリアのハロルド』。


1970年(71歳) ハレ管首席指揮者
●バルビローリ、ケルン放送響。
●2月、ベルリン・フィル。マーラー1番。バルビローリとインテンダントのシュトレーゼマンが翌シーズンのプログラムについて打ち合わせした際、マーラーの7番の研究に打ち込んでいるので取り上げたいという要望がバルビローリ側から出されています。
●4月、バイエルン放送響。ブラームス2番、ほか。
●5月、ハレ管。ロンドン公演。ブルックナー8番。
●4〜6月、心臓の不調に悩まされます。
●7月24日、ハレ管弦楽団と、ロンドンの北約150kmのキングズ・リンでおこなわれる「キングズ・リン・フェスティヴァル」に出演。ニコラス教会で、エルガー交響曲第1番、『海の絵』、『序奏とアレグロ』を指揮。
●7月25日、ハレ管弦楽団と「キングズ・リン・フェスティヴァル」に出演。ニコラス教会で、ベートーヴェン交響曲第7番ほかを指揮。生前の最後の演奏会となりました。
●7月27日、ニュー・フィルハーモニア管、ジャネット・ベイカーとマーラーのリハーサル。日本ツアー準備の一環でした。
●7月28日、ニュー・フィルハーモニア管。ブリテンの『シンフォニア・ダ・レクィエム』とベートーヴェン交響曲第3番『英雄』のリハーサル。日本ツアー準備の一環でした。リハーサルを終えてロンドンの自宅に戻ったジョンは、夜中に心臓発作に見舞われ病院に搬送。
●7月29日、バルビローリ、救急搬送の甲斐なく未明に病院で死去。
●両親の眠るロンドンのケンサル・グリーン墓地に埋葬。


●8月、バルビローリの指揮で予定されていた、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の日本ツアーは、サー・ジョン・プリッチャード[1921-1989]、エドワード・ダウンズ[1924-2009]の指揮で実施。
●バルビローリの指揮で予定されていたEMIのオペラ録音、プッチーニ『マノン・レスコー』はブルーノ・バルトレッティ[1926-2013]の指揮で翌1971年7月と12月に制作。ヴェルディ『ファルスタッフ』の方は中止されています。


1971年
●2月11,12日、カーゾン、バレンボイム指揮ベルリン・フィルによる追悼演奏会。

 

%%message%%