各舞曲の反復を完全実行して192分続く至福のとき
バッハ:パルティータ全集(3CD)
タチアーナ・ニコラーエワ(ピアノ)
昨年発売されたイギリスのスクリベンダム・レーベルの
40枚組ボックスに含まれていたパルティータ全集の単独発売。音源には状態の良いLPを使用しているということです。
バッハのパルティータ
バッハの6つのパルティータにはイタリア趣味が色濃く反映されており、組み合わせの「フランス様式による序曲」は文字通りのフランス風。7曲とも舞曲を中心とした組曲形式ですが、バッハのアイデアはとても豊かで、単なる独奏曲ではなく、室内アンサンブルや協奏曲の対話的な語法にも通じる要素が盛り込まれてもいます。
ニコラーエワのパルティータ演奏
ニコラーエワの演奏では、室内アンサンブルや協奏曲のパート間の対話を思わせるような部分が実に表情豊かなのが印象的です。ノン・レガートとレガートの使い分け、テンポの緩急、音の強弱への濃やかな配慮が、各パートの独立性の高さを伴って無類の説得力を生み出してもいます。かつて海外でニコラーエワが
「フーガの女王」と称えられたのは、そうした各パートの独立性の高い表現が非常に巧みだったことも大きな要因であったと考えられます。

バッハのパルティータ
最初の本格的な出版
バッハの初出版はミュールハウゼン市時代[1707-1709]のことでした。まだ22歳だった1708年2月に、市参事会員交代式のために作曲した教会カンタータ(BWV71)を市が出版したもので、翌1709年2月にも同様に作曲して市が出版(逸失)しています。
しかし、以後はヴァイマール宮廷[1709-1717]でもケーテン宮廷[1717-1723]でも出版機会に恵まれず、ライプツィヒ市に移って3年目の1726年に、実に17年ぶりに出版の機会が訪れます。
レオポルト公つながり
ケーテン時代のバッハは音楽好きで人柄も良かったレオポルト公(下の画像)のおかげで数多くの傑作を作曲しています。しかし、ケーテンは「カルヴァン派」の町で、カルヴァン派は聖書に忠実なプロテスタントのため、教会ではなく聖書を重視し、教会への寄進も求めず、また、聖書には楽器や聖歌隊が登場しないことから、教会の礼拝では会衆による詩篇斉唱のみ認められ、教会音楽家を必要としないなど、カトリックやルター派プロテスタントとは大きく異なっていました。
これは主に教会音楽家として活動してきたバッハにとっては、ケーテン(人口約4千人)では得意分野を生かせないということでもあり、1720年にはルター派のハンブルク市(人口約8万人)にあるヤコブ教会のオルガニスト試験を受けたりもしています(合格でしたが寄付金が高いため辞退。テレマンがハンブルクに来る前年の話)。
そのレオポルト公に世継ぎのエマヌエル・ルートヴィヒが生まれたのが1726年9月のことで、ルター派のライプツィヒ市(人口約3万人)に1723年に移ってからも夫婦で演奏に出向くなどケーテン宮廷と関わっていたバッハは、パルティータ第1番をエマヌエル・ルートヴィヒに献呈することにします。
広告掲出により連続出版を予告
1726年11月にはライプツィヒの新聞にパルティータの広告を「クラヴィーア練習曲(クラヴィーアユーブング)順次刊行の予告」として掲載。以後、1730年までに順に全6曲を自費出版し、1731年にはそれらをまとめた合本の体裁で「クラヴィーア練習曲第1巻」として再度出版。その後も1741年のゴルトベルク変奏曲の第4巻まで継続する大型の自費出版企画の端緒となるものでした。
「練習曲」という名前
当時の世俗音楽業界は富裕層によって成立しており、彼らは音楽家に演奏させるほか、自分で楽器を練習する際の教師役も務めさせていました。多くの作曲家が演奏家と教師を兼ねていたのはそのためで、出版物が高価だった時代に楽譜を売るには「練習曲」として富裕層向けにアピールするのが手っ取り早かった事情がうかがえます。「練習曲」であれば、容易には弾けないような難しい曲でも問題になりにくいですし、難しければレッスン回数が増やせて増収に繋がるというメリットもあります。
「練習曲」だらけだった時代
バッハの前任者クーナウ[1660-1722]が「新練習曲集第1巻」を出版したのは1689年ですが、すでに他の練習曲集が存在していたのか「新」と付けられており、1692年に出版された「新練習曲集第2巻」も同様でした。
クリーガー[1651-1735]が1698年に出版した「優雅な練習曲集」も同じく見分けやすい名前がつけられており、グラウプナー[1683-1760]が1730年頃に出版した「軽やかな練習曲集」も同様です。
一方で、リューベック[1654-1740]がバッハと同じ頃に出版したものは単に「練習曲集」なのでバッハと同名であり、ゾルゲ[1703-1788]や、バッハの弟子のクレープス[1713-1780]もバッハと同名の曲集をいくつか出版しています。
また、バッハを信奉していたキルンベルガー[1721-1783]はちょっと語尾を変えて「クラヴィーアユーブンゲン」としてバッハに基づく曲まで追加して出版していました。
つまり当時は「練習曲」だらけだったことになりますが、それでもバッハが、第1巻(1731年。パルティータ第1〜6番)に続いて、第2巻(1735年。パルティータ第7番、イタリア協奏曲)、第3巻(1739年。オルガン曲集)、第4巻(1742年。通称:ゴルトベルク変奏曲)と続けられたのは、やはり需要があったからと考えられます。
報酬事情
こうした富裕層購入目当ての自費出版が続いていた背景には、自治体での雇用と宮廷での雇用の報酬格差が存在していました。
バッハはケーテン宮廷では楽長として年に約400ターラー(約300万円相当)を得ており、アンナ・マクダレーナも宮廷歌手として約200ターラー(約150万円相当)受けとっていたことから、家政婦を1人雇うほどの余裕がありましたが、ライプツィヒ市では事情は大きく変わってしまいます(現在価値換算については諸説ありますが、庶民は年収数十万円で暮らせた時代であることは確かです)。
多才なバッハならではの稼ぎ方
まずバッハの固定給にあたるトーマスカントル(教師と聖歌隊指導)の市参事会の定めた年俸は約100ターラー(約75万円相当)で、ケーテンの4分の1でしたが、バッハは多才な人物だったためそれ以外にも多くの報酬を得ています。
トーマス教会の後援者から年間約50ターラー(約37.5万円相当)、トーマス教会とニコライ教会でおこなわれる葬儀と結婚式での報酬が年間400〜500ターラー(約300〜375万円相当)、両教会の保有するさまざまな楽器の維持管理費や指導の報酬などが年間50〜100ターラー(約37.5〜75万円相当)、オルガンの検査や鑑定、チェンバロの貸し出し、楽器転売や仲介、アンナ・マクダレーナが写譜した楽譜の高額での販売、コレギウム・ムジクムでの演奏、そして1回6ターラー(約4.5万円相当)という富裕層向けの高額なレッスン(ライプツィヒ時代に70人を指導)や、同じく富裕層向けの高額な楽譜「練習曲」の自費出版販売などにより、年に約700ターラー(約525万円相当)前後は稼いでいたと推測されています。ちなみにバッハの遺品目録に鍵盤楽器だけで8台掲載されていたことも、こうした副業を裏付けるものです。
別格だった富裕層
ちなみに同時代のベルリン(人口約9万人)の宮廷では、フリードリヒ大王のフルート教師クヴァンツ[1697-1773]が、楽長グラウン[174-1759]と同じ2,000ターラー(約1,500万円相当)を得ていることから、富裕層の「練習」や共演の需要が強力だったのは確かです。なお、同じ宮廷で働いていた若いC.P.E.バッハ[1714-1788]は300ターラー(約225万円相当)の年俸でした。
当時、楽譜の表紙に、富裕層つながりの献呈情報や称号を書いたり、曲名に「練習曲」が多用されたのは、当時の音楽業界の事情を反映したものと考えたほうが良さそうです。
収録内容
Disc1 68:06
◆ バッハ:パルティータ第1番変ロ長調 BWV825 19:36
01. プラエルディウム 1:56
02. アルマンド 2:36
03. クーラント 3:19
04. サラバンド 6:22
05. メヌエット 3:10
06. ジーグ 2:13
◆ バッハ:パルティータ第2番ハ短調 BWV826 23:21
07. シンフォニア 4:50
08. アルマンド 4:58
09. クーラント 2:29
10. サラバンド 5:16
11. ロンドー 1:34
12. カプリッチョ 4:14
◆ バッハ:パルティータ第3番イ短調 BWV827 25:09
13. ファンタジア 1:28
14. アルマンド 4:04
15. クーラント 4:21
16. サラバンド 6:14
17. ブルレスカ 3:41
18. スケルツォ 1:32
19. ジーグ 3:49
Disc2 56:45
◆ バッハ:パルティータ第4番ニ長調 BWV828 33:14
01. 序曲 6:57
02. アルマンド 8:42
03. クーラント 4:03
04. アリア 3:00
05. サラバンド 5:17
06. メヌエット 1:33
07. ジーグ 3:42
◆ バッハ:パルティータ第5番ト長調 BWV829 23:31
08. プレアンブルム 2:06
09. アルマンド 6:13
10. クーラント 1:58
11. サラバンド 6:10
12. テンポ・ディ・ミヌエット 2:36
13. パスピエ 2:05
14. ジーグ 4:23
Disc3 67:55
◆ バッハ:パルティータ第6番ホ短調 BWV830 36:18
01. トッカータ 8:43
02. アルマンド 4:02
03. クーラント 4:37
04. エアー 1:43
05. サラバンド 8:18
06. テンポ・ディ・ガヴォッタ 2:30
07. ジーグ 6:25
◆ バッハ:フランス風序曲(パルティータ第7番)ロ短調 BWV831 31:37
08. 序曲 8:21
09. クーラント 2:18
10. ガヴォット 3:47
11. パスピエ 3:06
12. サラバンド 5:09
13. ブーレ 2:55
14. ジーグ 2:59
15. エコー 3:02
タチアーナ・ニコラーエワ(ピアノ)
録音:1980年6月、モスクワ

Track list
Disc 1
Johann Sebastian Bach (1685-1750)
Partita No.1 in B-flat major, BWV 825
01. Praeludium 1:56
02. Allemande 2:36
03. Courante 3:19
04. Sarabande 6:22
05. Menuett I & II 3:10
06. Gigue 2:13
Partita No.2 in C minor, BWV 826
07. Sinfonia 4:50
08. Allemande 4:58
09. Courante 2:29
10. Sarabande 5:16
11. Rondeau 1:34
12. Capriccio 4:14
Partita No.3 in A minor, BWV 827
13. Fantasia 1:28
14. Allemande 4:04
15. Courante 4:21
16. Sarabande 6:14
17. Burlesca 3:41
18. Scherzo 1:32
19. Gigue 3:49
Recording: 1980 - Sound engineer: Mikhail Pakhter
Disc 2
Johann Sebastian Bach (1685-1750)
Partita No.4 in D major, BWV 828
01. Ouverture 6:57
02. Allemande 8:42
03. Courante 4:03
04. Aria 3:00
05. Sarabande 5:17
06. Menuett 1:33
07. Gigue 3:42
Partita No.5 in G major, BWV 829
08. Preambulum 2:06
09. Allemande 6:13
10. Courante 1:58
11. Sarabande 6:10
12. Tempo di Minuetto 2:36
13. Passepied 2:05
14. Gigue 4:23
Recording: 1980 - Sound engineer: Mikhail Pakhter
Disc 3
Johann Sebastian Bach (1685-1750)
Partita No.6 in E minor, BWV 830
01. Toccata 8:43
02. Allemande 4:02
03. Courante 4:37
04. Air 1:43
05. Sarabande 8:18
06. Tempo di Gavotta 2:30
07. Gigue 6:25
Ouvertüre nach französischer Art
(Partita No.7) in B minor, BWV 831
08. Ouverture 8:21
09. Courante 2:18
10. Gavotte I & II 3:47
11. Passepied I & II 3:06
12. Sarabande 5:09
13. Bourrée I & II 2:55
14. Gigue 2:59
15. Echo 3:02
Recording: 1980 - Sound engineer: Mikhail Pakhter
Tatiana Nikolayeva, piano
ニコラーエワ情報
生家
1924年5月4日、タチアーナ・ペトロヴナ・ニコラーエワ(ニコラエワ、ニコライエワ、ニコラーエヴァ、ニコラエヴァ、ニコライエヴァなどとも)は、ソ連西部、モスクワの南西約350km、レニングラードの北北東約800kmに位置する町ベジツァ(現ブリャンスクの一部)に誕生。
母ゾーヤ・アポロノヴナ・ニコラーエワ(旧姓:エロプキナ)はモスクワ音楽院でアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル[1875-1961]に師事したピアニストで、1919年からベジツァで活動し、やがて生徒数約200人のベジツァ音楽学校を設立して校長兼ピアノ教師として活動。母ゾーヤの実家はロシア貴族の末裔で、母の父(ニコラーエワの祖父)、アポロン・ヴァシリエヴィチ・エロプキンはロシア帝国リャザン州の議員を務め、北部保険会社の取締役としてレナ金鉱にも関わってたほか、モスクワ南東部のリャザンに約150万uの土地を所有していましたが、革命後、1920年にユーゴスラヴィア(当時は「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」)に移住しています。
父ピョートル・ニコラーエヴィチ・ニコラーエフは薬剤師で、ヴァイオリンとチェロを弾く音楽愛好家。毎日夕食前にヴァイオリンやチェロを演奏し、週末には自宅に医師会の仲間を集めて室内楽演奏などに興じていました。
初期教育
1927年、3歳から自宅でピアノのレッスンを受け、5歳からはベジツァ音楽学校で学んで6歳でショパンの幻想即興曲を巧みに演奏。父からはチェロの演奏を教わり、12歳のときに西部地域のアマチュア・コンクールで、ニコラーエワがチェロで参加したベジツァの子供弦楽アンサンブルが優勝しています。チェロの腕前もなかなかのものだったようです。
モスクワ音楽院付属中央音楽学校
1937年、13歳でモスクワ音楽院付属中央音楽学校に入学。同校芸術監督でモスクワ音楽院ピアノ科教授・ピアノ科長のゴリデンヴェイゼルにピアノを師事。母の師でもあったゴリデンヴェイゼルは著名なピアニストで、門下には、ギンズブルク、フェインベルク、バシキーロフ、ペトロフ、ドレンスキー、ベルマンなど有名どころも多数。ニコラーエワは、ピアノだけでなく人生の多くのことをゴリデンヴェイゼルから学んだと述懐。
戦争
1941年の6月30日、17歳だったニコラーエワは、夏休みでベジツァに帰省していたときにドイツ軍の空襲を経験し、家族とともにベジツァを離れます。ベジツァはソ連西部だったため10月8日にはドイツ軍に占領されて酷いことになっていたので疎開は賢明でした。
モスクワ音楽院
1942年、ニコラーエワはサラトフに疎開していたモスクワ音楽院に入学するため、サラトフに疎開して入学。ピアノ科教授・ピアノ科長のゴリデンヴェイゼルのもとで勉強を開始。翌年にはヴィサリオン・ヤコブレヴィッチ・シェバリン[1902-1963]のもとで作曲も学ぶようになり、12歳から始めていた作曲の腕に磨きをかけます。
1947年にはピアノの学位を取得して卒業し、そのまま大学院に進んで作曲を学びますが、1948年に担当教授のシェバリンがジダーノフ批判で失脚(3年後に復職)するという事件にも遭遇。作曲科の講義はエフゲニー・キリロヴィチ・ゴルベフ[1910-1988]に引き継がれ、ニコラーエワもそのまま学び、1950年に卒業。卒業制作はピアノ協奏曲第1番でした。

第1回バッハ国際コンクールで優勝
1950年、モスクワ音楽院を卒業したニコラーエワは、東ドイツのライプツィヒで開催された「第1回バッハ国際コンクール」に出場して優勝しています。このコンクールへの出場は、ニコラーエワに名声をもたらしただけでなく、ショスタコーヴィチと親しくなるきっかけにもなったことで、非常に重要な出来事となりました。

褒賞
●1951年、スターリン賞(第1席、賞金10万ルーブル)を受賞。演奏活動部門での受賞でしたが、前年に作曲したモスクワ音楽院卒業制作「ピアノ協奏曲第1番」の評価も含まれています。第2席(賞金5万ルーブル)にはロストロポーヴィチの名もありました。
●1955年、ロシア共和国政府から「名誉芸術家」の称号授与。
●1971年、シューマンの生地、ツヴィッカウのロベルト・シューマン協会よりロベルト・シューマン賞授与。
●1977年、ロシア共和国政府から「人民芸術家」の称号授与。
●1988年、ソ連政府から「人民芸術家」の称号が授与。
●1988年、スウェーデン王立音楽アカデミーの会員に選出。

教職
1959年からモスクワ音楽院特別ピアノ科で教鞭をとり、1965年に教授に就任、1985年に
学科長に就任。ルガンスキー、バタゴフ、エフセーエワ、レヴィティナ、ペトゥホフ、ピカイゼン、センコフ、シリンスカヤ、ヤブロンスカヤなどを指導。
コンサート
ニコラーエワのプロとしてのコンサート期間は1943年から1993年にかけての半世紀に及び、その間、約3,000回のコンサートをおこなっています。ニコラーエワはレパートリーの広大さでも有名で、74人の作曲家による約1,000の作品を演奏しています。

ニコラーエワ年表
1924
1925
1926
1927
1928
1929
1930
1931
1932
1933
1934
1935
1936
1937
1938
1939
1940
1941
1942
1943
1944
1945
1946
1947
1948
1949
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1956
1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1924年/大正13年 (0歳)
◆ 5月4日、ソ連西部、モスクワの南西約350km、レニングラードの北北東約800kmに位置する町ベジツァ(現ブリャンスク)に誕生。
母ゾーヤ・アポロノヴナ・ニコラーエワ(旧姓:エロプキナ)はモスクワ音楽院でアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル[1875-1961]に師事したピアニストで、1919年からベジツァで活動し、やがて生徒数約200人のベジツァ音楽学校を設立して校長兼ピアノ教師として活動。母ゾーヤの実家はロシア貴族の末裔で、祖父アポロン・ヴァシリエヴィチ・エロプキン(母ゾーヤの父)はロシア帝国リャザン州の議員を務め、北部保険会社の取締役としてレナ金鉱にも関わってたほか、モスクワ南東部のリャザンに約150万uの土地を所有していましたが、革命後、1920年にユーゴスラヴィア(当時はセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国)に移住しています。
父ピョートル・ニコラーエヴィチ・ニコラーエフは薬剤師で、ヴァイオリンとチェロを弾く音楽愛好家。毎日夕食前にヴァイオリンやチェロを演奏し、週末には自宅に医師会の仲間を集めて室内楽演奏などに興じており、ニコラーエワにもチェロの指導などおこなっていましたい。
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1925年/大正14年 (0〜1歳)
◆
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1926年/大正15年/昭和元年 (1〜2歳)
◆
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1927年/昭和2年 (2〜3歳)
◆ ピアノのレッスン開始。母に師事。
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1928年/昭和3年 (3〜4歳)
◆ ピアノのレッスン継続。母に師事。
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1929年/昭和4年 (4〜5歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。
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1930年/昭和5年 (5〜6歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。ショパンの幻想即興曲を演奏。
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1931年/昭和6年 (6〜7歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。
◆ ベジツァでリサイタル開催。
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1932年/昭和7年 (7〜8歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。
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1933年/昭和8年 (8〜9歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。
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1934年/昭和9年 (9〜10歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。
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1935年/昭和10年 (10〜11歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。
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1936年/昭和11年 (11〜12歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。
◆ 作曲を開始。
◆ 西部地域のアマチュア・コンクールで、ニコラーエワがチェロで参加したベジツァの子供弦楽アンサンブルが優勝。
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1937年/昭和12年 (12〜13歳)
◆ ベジツァ音楽学校在学。母に師事。
◆ モスクワ音楽院付属中央音楽学校を受験。25人の枠に約600人が集まる難関で、ニコラーエワは実技試験で自作も演奏。
◆ モスクワ音楽院付属中央音楽学校に入学。同校芸術監督でモスクワ音楽院ピアノ科教授・ピアノ科長のゴリデンヴェイゼルにピアノを師事。母の師でもあったゴリデンヴェイゼルは著名なピアニストで、門下には、ギンズブルク、フェインベルク、バシキーロフ、ペトロフ、ドレンスキー、ベルマンなど有名どころも多数。少女だったニコラーエワは、ピアノだけでなく人生の多くのことをゴリデンヴェイゼルから学んだと述懐。
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1938年/昭和13年 (13〜14歳)
◆ モスクワ音楽院付属中央音楽学校在学。同校芸術監督でモスクワ音楽院ピアノ科教授・ピアノ科長のゴリデンヴェイゼルに師事。
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1939年/昭和14年 (14〜15歳)
◆ モスクワ音楽院付属中央音楽学校在学。同校芸術監督でモスクワ音楽院院長・ピアノ科教授・ピアノ科長のゴリデンヴェイゼルに師事。
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1940年/昭和15年 (15〜16歳)
◆ モスクワ音楽院付属中央音楽学校在学。同校芸術監督でモスクワ音楽院院長・ピアノ科教授・ピアノ科長のゴリデンヴェイゼルに師事。
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1941年/昭和16年 (16〜17歳)
◆ モスクワ音楽院付属中央音楽学校在学。同校芸術監督でモスクワ音楽院院長・ピアノ科教授・ピアノ科長のゴリデンヴェイゼルに師事。
◆ モスクワ音楽院は戦火を避け、モスクワの南東約700キロのサラトフに疎開。
◆ 6月22日、ドイツ政府がソ連との不可侵条約を破り、ソ連領土への軍事侵攻を開始。前年12月に侵攻計画(および占領地からの食料調達&移住計画)を立て始めていたドイツは、すでにソ連国境付近に約550万の兵と戦車3,712両、軍用機4,950機、野砲等4万7,260門などから成る大部隊を配備済みで、以後、3年10か月で約2,660万人のソ連国民を殺害することになります。
◆ 6月30日、ニコラーエワは夏休みでベジツァに帰郷していた際にドイツ軍の空襲を経験。
◆ ニコラーエワ、家族とベジツァから疎開。
◆ 10月8日、故郷ベジツァがドイツ軍により占領。
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1942年/昭和17年 (17〜18歳)
◆ ニコラーエワ、サラトフに疎開。
◆ 疎開中のモスクワ音楽院に入学。ピアノ科教授・ピアノ科長のゴリデンヴェイゼルに師事。
戻る
1943年/昭和18年 (18〜19歳)
◆ 疎開中のモスクワ音楽院で、モスクワ音楽院院長で作曲科教授のヴィサリオン・ヤコブレヴィッチ・シェバリン[1902-1963]に作曲を師事。ピアノは引き続きゴリデンヴェイゼルに師事。
◆ 軍楽隊長高等学校でピアノ伴奏の仕事に従事。
◆ ソロ・リサイタル開催。
戻る
1944年/昭和19年 (19〜20歳)
◆ 軍楽隊長高等学校でピアノ伴奏の仕事に従事。
◆ モスクワ音楽院の疎開が終わりモスクワに帰還。引き続き、作曲を院長で作曲科教授のシェバリン、ピアノをゴリデンヴェイゼルに師事。
戻る
1945年/昭和20年 (20〜21歳)
◆ 軍楽隊長高等学校でピアノ伴奏の仕事に従事。
◆ モスクワ音楽院在学。引き続き、作曲を院長で作曲科教授のシェバリン、ピアノをゴリデンヴェイゼルに師事。
◆ モスクワ音楽院付属中央音楽学校でピアノ伴奏の仕事に従事。
◆ モスクワのコンサート組織、フィルハーモニー協会(フィルハーモニヤ)の主催するスクリャービン没後30周年記念コンクールで優勝。
◆ フィルハーモニー協会(フィルハーモニヤ)にピアニストとして所属。
◆ ソロ・リサイタル開催。
戻る
1946年/昭和21年 (21〜22歳)
◆ モスクワ音楽院在学。引き続き、作曲を院長で作曲科教授のシェバリン、ピアノをゴリデンヴェイゼルに師事。
◆ モスクワ音楽院付属中央音楽学校でピアノ伴奏の仕事に従事。
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1947年/昭和22年 (22〜23歳)
◆ モスクワ音楽院在学。引き続き、作曲を院長で作曲科教授のシェバリンに師事。ピアノをゴリデンヴェイゼルに師事。
◆ モスクワ音楽を卒業。ピアノの学位を取得して修了。
◆ モスクワ音楽院大学院に入学。引き続き、作曲を院長のシェバリンに師事。
◆ 作曲。ピアノ五重奏曲
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1948年/昭和23年 (23〜24歳)
◆ モスクワ音楽院大学院在学。作曲を院長で作曲科教授のシェバリンに師事。シェバリンがジダーノフ批判で失脚(1951年に作曲科教授に復職)すると、作曲科教授のエフゲニー・キリロヴィチ・ゴルベフ[1910-1988]に師事。
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1949年/昭和24年 (24〜25歳)
◆ モスクワ音楽院大学院在学。作曲科教授のゴルベフに師事。
◆ 作曲。ピアノ・ソナタ第1番。
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1950年/昭和25年 (25〜26歳)
◆ 作曲。ピアノ協奏曲第1番。モスクワ音楽院の卒業制作。
◆ モスクワ音楽院大学院を卒業。
◆ ライプツィヒでおこなわれた第1回バッハ国際コンクールで優勝。
◆ 国外での演奏活動も本格化し、50年代初めから順次、ヨーロッパ、アジア、ラテン・アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドで大きなツアーを実施。
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1951年/昭和26年 (26〜27歳)
◆ プラハで演奏会&レコーディング。
◆ 作曲。ミャスコフスキーの思い出のための変奏曲。
◆ ピアノ協奏曲第1番初演。ニコラーエワ独奏、キリル・コンドラシン指揮。
◆ スターリン賞受賞(第1席、賞金10万ルーブル)。演奏活動部門での受賞ですが、前年に作曲したモスクワ音楽院卒業制作「ピアノ協奏曲第1番」の評価も含まれています。第2席(賞金5万ルーブル)にはロストロポーヴィチもいました。
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1952年/昭和27年 (27〜28歳)
◆ ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」をレニングラードで初演。
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1953年/昭和28年 (28〜29歳)
◆ 24の演奏会用練習曲、アイスランド歌曲集作曲。
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1954年/昭和29年 (29〜30歳)
◆ プラハで演奏会&レコーディング。
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1955年/昭和30年 (30〜31歳)
◆ ロシア共和国政府から「名誉芸術家」の称号授与。
◆ 作曲。交響曲、ヴァイオリン・ソナタ。
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1956年/昭和31年 (31〜32歳)
◆
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1957年/昭和32年 (32〜33歳)
◆
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1958年/昭和33年 (33〜34歳)
◆ 作曲。ピアノ、フルート、ヴィオラのための三重奏曲、子供のアルバム。
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1959年/昭和34年 (34〜35歳)
◆ モスクワ音楽院で指導開始。
◆ 作曲。5つの練習曲。
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1960年/昭和35年 (35〜36歳)
◆ モスクワ音楽院講師。
◆ 作曲。チェロ・ソナタ第1番、チェロと管弦楽のための詩曲、弦楽四重奏曲、ヴァイオリンと管弦楽のためのワルツ=カプリス。
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1961年/昭和36年 (36〜37歳)
◆ モスクワ音楽院講師。
◆ 結婚。相手のキリル・ルヴォヴィチ・タラセヴィチ[1901-1968]は23歳年長。
◆ 11月26日、恩師ゴリデンヴェイゼル死去。86歳。
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1962年/昭和37年 (37〜38歳)
◆ モスクワ音楽院講師。
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1963年/昭和38年 (38〜39歳)
◆ モスクワ音楽院講師。
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1964年/昭和39年 (39〜40歳)
◆ モスクワ音楽院講師。
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1965年/昭和40年 (40〜41歳)
◆ モスクワ音楽院教授に就任。
◆ モントリオール国際コンクールの審査員に選出。
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1966年/昭和41年 (41〜42歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 東ドイツ公演。
◆ ピアノ協奏曲第2番作曲。
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1967年/昭和42年 (42〜43歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
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1968年/昭和43年 (43〜44歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 夫のキリル・ルヴォヴィチ・タラセヴィチ[1901-1968]死去。67歳。
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1969年/昭和44年 (44〜45歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
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1970年/昭和45年 (45〜46歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ ケルン音楽大学で指導。
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1971年/昭和46年 (46〜47歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ シューマンの生地、ツヴィッカウのロベルト・シューマン協会よりロベルト・シューマン賞授与。
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1972年/昭和47年 (47〜48歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 作曲。ヴァイオリン協奏曲。
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1973年/昭和48年 (48〜49歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 作曲。チェロ・ソナタ第2番。
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1974年/昭和49年 (49〜50歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
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1975年/昭和50年 (50〜51歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
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1976年/昭和51年 (51〜52歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
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1977年/昭和52年 (52〜53歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ ロシア共和国政府から「人民芸術家」の称号授与。
◆ 日本公演。
◆ チェロとピアノのための詩曲、ピアノ・ソナタ第2番作曲。
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1978年/昭和53年 (53〜54歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
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1979年/昭和54年 (54〜55歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
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1980年/昭和55年 (55〜56歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 1月、日本公演。
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1981年/昭和56年 (56〜57歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
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1982年/昭和57年 (57〜58歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 4月、日本公演。
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1983年/昭和58年 (58〜59歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ ソ連人民芸術家の称号を授与。
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1984年/昭和59年 (59〜60歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ リーズ国際コンクールの審査員に選出。
◆ 5〜6月、日本公演。
◆ モスクワ音楽院大ホールでベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全曲演奏会。
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1985年/昭和60年 (60〜61歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 11月、日本公演。
◆ モスクワ音楽院でルガンスキーを指導。以後、共演も多数。
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1986年/昭和61年 (61〜62歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 11月10日、ロンドン、セント・ジョンズ・スミス・スクエア。バッハ:ゴルトベルク変奏曲。
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1987年/昭和62年 (62〜63歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 8月、ザルツブルク音楽祭。バッハ、ベートーヴェン。
◆ 9月、ストックホルム、ベルワルド・ホール。バッハ:ゴルトベルク変奏曲。、
◆ リーズ国際コンクールの審査員に選出。
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1988年/昭和63年 (63〜64歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 4月、日本公演。
◆ ソ連政府から「人民芸術家」の称号授与。
◆ スウェーデン王立音楽アカデミー会員に選出。
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1989年/昭和64年/平成元年 (64〜65歳)
◆ 4月、ギリシャ公演。
◆ 8月、ザルツブルク音楽祭。モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番。
◆ 9〜10月、日本公演。
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1990年/平成2年 (65〜66歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 9月24〜27日、レコーディング(hyperion)。ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ。ロンドン、ハムステッド、ロスリン・ヒル・ユニテリアン・チャペル。
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1991年/平成3年 (66〜67歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 10月、日本公演。
◆ 5月7〜8日、レコーディング(RELIEF)。スイス、ブルーメンシュタイン教会。シューマン:子供の情景、他。
◆ ドイツ公演。
◆ CD制作(hyperion)。ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ。録音:1990年9月24〜27日、ロンドン、ハムステッド、ロスリン・ヒル・ユニテリアン・チャペル。
◆ 8月、ザルツブルク音楽祭。ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番。
◆ 11月、グラモフォン賞受賞。ロンドン、ドーチェスター・ホテルで開催された授賞式に出席。
◆ 12月9日、放送用収録。シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番、即興曲第3番。グラスゴー、BBCスタジオ。
◆ 12月26日、ソ連の共和国会議により連邦の解散を決定。
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1992年/平成4年 (67〜68歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 1月、レコーディング(hyperion)。バッハ:ゴルトベルク変奏曲、フーガの技法。会場:ロンドン、ロスリン・ヒル・ユニテリアン・チャペル。
◆ CD制作(RELIEF)。ボロディン:小組曲、リャードフ:ポーランドの民謡の主題による変奏曲、舟歌、他。録音:1991年5月10〜11日、スイス、ブルーメンシュタイン教会。
◆ CD制作(RELIEF)。シューマン:子供の情景、他。録音:1991年5月7〜8日、スイス、ブルーメンシュタイン教会。
◆ CD制作(hyperion)。バッハ:ゴルトベルク変奏曲。録音:1992年1月22〜23日。
◆ CD制作(hyperion)。ショスタコーヴィチ:24の前奏曲、3つの幻想曲、ピアノ・ソナタ第2番。録音:1992年4月17〜19日。
◆ CD発売(Vogue)。ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第13、14、15番。録音:1984年1月25日(ライヴ)。
◆ CD発売(Vogue)。リスト:ロ短調ソナタ、シューベルト(リスト編):粉職人と小川、デュティユー:ピアノ・ソナタ。録音:1967年1月21日(リスト、シューベルト/ライヴ)。1978年11月20日(デュティユー/ライヴ)
◆ CD発売(Bluebell)。バッハ:ゴルトベルク変奏曲。録音:1987年9月9日(ライヴ)、ストックホルム、ベルワルド・ホール。
◆ 9月、アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団。プロムス。ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番。
◆ 10月、シカゴなどアメリカ公演。
◆ 12月21〜30日、放送用映像収録(BBC)。ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ。
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1993年/平成5年 (68〜69歳)
◆ モスクワ音楽院教授。
◆ 1月18日、放送用収録。ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第15番「田園」。ロンドン、BBCスタジオ。
◆ 4月、フィンランド公演。
◆ 7月、日本公演。
◆ 11月13日、サンフランシスコのハープスト劇場でショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」の第16番のフーガを演奏中に気分が悪くなり、リサイタルを中断。病院に連れていかれますが、くも膜下出血を発症していて昏睡状態となり、9日後に同地で死去。
◆ ロシアから駆け付けた息子によって遺体はモスクワに移送され、葬儀の後、チャイコフスキーやチェーホフの墓もあるノヴォデヴィチ女子修道院の墓地に埋葬。

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年表付き商品説明ページ一覧
【バロック作曲家(生年順)】
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バード [c.1540-1623]
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モンテヴェルディ [1567-1643]
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カッツァーティ [1616-1678]
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ルイ・クープラン [1626-1661]
◆
クープラン一族
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グリューネヴァルト [1673-1739]
◆
ダンドリュー [1682-1738]
◆
スタンリー [1713-1786]◆
ヨハン・エルンスト・バッハ [1722-1777]
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】
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ハイドン [1732-1809]
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ミスリヴェチェク [1737-1781] (モーツァルトへの影響大)
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ボッケリーニ [1743-1805]
◆
モンジュルー [1764-1836] (ピアノ系)
◆
ベートーヴェン [1770-1827]
◆
ジャダン [1776-1800] (ピアノ系)
◆
リース [1784-1838]
◆
ブルックナー [1824-1896]
◆
マルトゥッチ [1856-1909]
◆
トゥルヌミール [1870-1939]
◆
ルクー [1870-1894]
◆
レーガー [1873-1916]
◆
ラフマニノフ [1873-1943]
【近現代作曲家(生年順)】
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レーバイ [1880-1953] (ギター系)
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マルティヌー [1890-1959]
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ミゴ [1891-1976] (ギター系も)
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サントルソラ [1904-1994] (ギター系も)
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ショスタコーヴィチ [1906-1975]
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ラングレー [1907-1991] (オルガン系)
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アンダーソン [1908-1975]
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デュアルテ [1919-2004] (ギター系)
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プレスティ [1924-1967] (ギター系)
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ヘンツェ [1926-2012]
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坂本龍一 [1952-2023]
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】
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アーベントロート
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エッシェンバッハ
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カラヤン
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クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィル、
ベルリン・フィル、
ミュンヘン・フィル、
国立歌劇場管、
レジェンダリー)
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クラウス
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クリップス
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クレンペラー (VOX&ライヴ、
ザルツブルク・ライヴ、
VENIASボックス
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サヴァリッシュ
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シューリヒト
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スイトナー (ドヴォルザーク、
レジェンダリー)
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フリート
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フルトヴェングラー
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ヘルビヒ (ショスタコーヴィチ、
マーラー、
ブラームス)
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ベーム
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メルツェンドルファー
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ヤノフスキー
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ライトナー
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ラインスドルフ
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レーグナー (ブルックナー、
マーラー、
ヨーロッパ、
ドイツ)
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ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】
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アーロノヴィチ
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ガウク
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クーセヴィツキー
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ゴロワノフ
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ペトレンコ
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マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】
◆
クーチャー(クチャル)
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スラトキン(父)
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ドラゴン
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バーンスタイン
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フェネル
【指揮者(オランダ)】
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オッテルロー
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クイケン
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ベイヌム
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メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】
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パレー
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モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】
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セル
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ドラティ
【指揮者(スペイン)】
◆
アルヘンタ
【指揮者(スイス)】
◆
アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】
◆
クレツキ
【指揮者(チェコ)】
◆
ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】
◆
チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】
◆
トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】
◆
バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】
◆
ミトロプーロス
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】
【ピアノ(ロシア・ソ連)】
◆
ヴェデルニコフ
◆
グリンベルク
◆
ソフロニツキー
◆
タマルキナ
◆
ニコラーエワ
◆
ネイガウス父子
◆
フェインベルク
◆
フリエール
◆
モイセイヴィチ
◆
ユージナ
【ピアノ(フランス)】
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ウーセ
◆
カサドシュ
◆
ティッサン=ヴァランタン◆
ハスキル
◆
ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】
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キルシュネライト
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シュナーベル
◆
デムス
◆
ナイ
◆
レーゼル (ブラームス、
ベートーヴェン)
【ピアノ(ハンガリー)】
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ファルナディ
【ピアノ(南米)】
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タリアフェロ
◆
ノヴァエス
【チェンバロ】
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ヴァレンティ
◆
カークパトリック
◆
ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】
【ヴァイオリン】
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オイストラフ
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コーガン
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スポールディング
◆
バルヒェット
◆
フランチェスカッティ
◆
ヘムシング
◆
リッチ
◆
レビン
【チェロ】
◆
カサド
◆
シュタルケル
◆
デュ・プレ
◆
トルトゥリエ
◆
ヤニグロ
◆
ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】
【クラリネット】
◆
マンツ
【ファゴット】
◆
デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】
◆
モワネ
【歌手】
◆
ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】
【三重奏団】
◆
パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】
◆
フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】
◆
グリラー弦楽四重奏団
◆
シェッファー四重奏団
◆
シュナイダー四重奏団
◆
ズスケ四重奏団
◆
パスカル弦楽四重奏団
◆
ハリウッド弦楽四重奏団
◆
バルヒェット四重奏団
◆
ブダペスト弦楽四重奏団
◆
フランスの伝説の弦楽四重奏団
◆
レナー弦楽四重奏団