ドヴォルザーク(1841-1904)

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CD 輸入盤

交響曲全集 オトマール・スイトナー&シュターツカペレ・ベルリン(5CD)

ドヴォルザーク(1841-1904)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BC0302054
組み枚数
:
5
レーベル
:
:
Germany
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


 スイトナー/ドヴォルザーク交響曲全集(5CD)

オトマール・スイトナーの遺した録音資産の中でも特に人気の高いドヴォルザーク交響曲全集が新たなマスタリングで登場。
  スイトナーは、ドヴォルザークの交響曲は番号をさかのぼるほど演奏が難しくなると語っており、全集録音に際しては、ヴァーツラフ・ターリヒの弟子でスメタナ劇場(現プラハ国立歌劇場)の指揮者ルドルフ・ヴァシャタ[1911–1982]から、ターリヒの楽譜をもとにしたフレージングのアドヴァイスを受けてもいました。
  速めのテンポで一貫しながらも、劇場的なイディオムともいうべき多彩な表情が随所に浮かび上がるのは、そうしたスイトナーの入念な準備が反映されていたからかもしれません。


  今回は、最良のマスターからの制作ということなので、シュターツカペレ・ベルリンの演奏の魅力がさらに高まるものと思われます。
  ブックレットには、オリジナルLPジャケットの写真のほか、今回使用したBerlin Classicsが所蔵する、ETERNA時代のオリジナル・マスターテープの箱の写真も多数掲載。
  マスタリング・エンジニアは近年評判の良いクリストフ・シュティッケル。

 マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)

ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。
全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づいています。
マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。
アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。
また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。


 スイトナーのドヴォルザーク

ドヴォルザークは20代から交響曲を書きはじめており、24歳で書いた第1番、第2番共に45分前後というかなりの力作で、30代前半には第3番、第4番、第5番を書き上げていました。
  これら5曲はすべてブラームスの交響曲第1番が完成する前に作曲されたもので、ワーグナーからの直接的な影響が認められる曲も多いのが特徴でもあります。
  そして30代後半から40代の終わりにかけては第6番、第7番、第8番を作曲、そして50代で第9番を書いています。
  9曲に共通するのは、はっきりした性格の旋律と克明なリズムの存在です。オペラをたくさん書いた作曲家でもあったドヴォルザークらしく、いくつもの旋律を投入したうえで、素材をドラマティックに展開、絡めあうさまは劇場的でもあり、通常のソナタ形式的なアプローチよりも、オペラ経験の多い指揮者の方が面白くなる可能性があると思います。
  スイトナーはその点で適任と言えますし、オーケストラも、膨大な数のオペラ経験を持つシュターツカペレ・ベルリンということで、まず前提条件として申しぶんないのがこの全集です。
  ドヴォルザークの旋律創造能力は図抜けたものがあったといいますが、それがわかりやすいのが緩徐楽章でもあり、交響曲第4番第2楽章など、ここではオペラの一場面のようにも聴こえます。妙に整理したりせず、それぞれの素材を十分な重みをもって響かせるスイトナーの手法は、もしかしたら劇場的観点からドヴォルザークの諸相に迫るものなのかもしれません。


 録音会場

レコーディングがおこなわれたのは東ベルリンの「キリスト教会」で、西ベルリンの「イエス・キリスト教会」と並んで録音の多いことでも有名な教会。


 収録情報

Disc 1
交響曲第1番ハ短調 op.3『ズロニツェの鐘』

録音時期:1979年8月27〜30日

Disc 2
交響曲第2番変ロ長調 op.4

録音時期:1979年10月23〜25日

交響曲第3番変ホ長調 op.10
録音時期:1978年7月5〜9日

Disc 3
交響曲第4番ニ短調 op.13

録音時期:1980年12月15〜19日

交響曲第5番ヘ長調 op.76
録音時期:1977年11月25〜28日

Disc 4
交響曲第6番ニ長調 op.60

録音時期:1979年7月2日、1980年2月18〜19日

交響曲第7番ニ短調 op.70
録音時期:1981年2月22〜26日

Disc 5
交響曲第8番ト長調 op.88

録音時期:1977年7月11〜15日

交響曲第9番ホ短調 op.95『新世界より』
録音時期:1978年3月29〜31日、4月1日

シュターツカペレ・ベルリン
オトマール・スイトナー(指揮)


録音場所:ベルリン、キリスト教会
録音方式:ステレオ(セッション)




 各種リンク

【トピック】
●インスブルック大管区首都音楽学校
●ザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院
●インスブルック帝国大管区テアター
●招集
●ピアニスト
●レムシャイト市立テアター
●ベルリン交響楽団
●プファルツ管弦楽団
●ドレスデン国立歌劇場
●ベルリン国立歌劇場
●NHK交響楽団

【年表】
19221923192419251926192719281929193019311932193319341935193619371938193919401941194219431944194519461947194819491950195119521953195419551956195719581959196019611962196319641965196619671968196919701971197219731974197519761977197819791980198119821983198419851986198719881989199019911992199319941995199619971998199920002001200220032004200520062007200820092010
【その他】
●商品説明:年表シリーズ一覧


 表記について

歴史の長いドイツやオーストリアの劇場では、政変による上演組織名の変更や、劇場名の変更、破壊による本拠地の変更など、紛らわしいケースが多いため、ここでは上演組織を「オペラ」や「テアター」、建築物を「歌劇場」や「劇場」としておきます。「テアター」は、主にオペラと演劇などを上演する組織で、「劇場」はその本拠地の建築物であることが多いようです。

例:ドレスデン国立オペラの拠点がドレスデン国立劇場
この場合、ドレスデン国立オペラの元々の本拠地であるドレスデン国立歌劇場が爆撃で破壊されてしまったため、演劇用だったドレスデン国立劇場を使用していたことを示しています。

 インスブルック大管区首都音楽学校

1938年、スイトナーはインスブルック大管区首都音楽学校に入学し、1940年に卒業しています。校長のフリッツ・ワイトリヒ[1898-1952]は、1935年に着任した人物。


  ワイトリヒは、スイトナー少年の入学に反対し、入学後はスイトナーが希望しても指揮者には向かないとするなど否定的だったという話が伝えられています。しかしこれは、3月にオーストリアが併合されて以来半年が経ち、インスブルックの帝国大管区指導者には元脱獄囚のホーファーが任命されるなど、着々と行政・経済のナチス・ドイツ化が進められていたことや、自分が北ドイツやズデーテン地方で味わった苦労などを踏まえてのアドバイスだった可能性が高いとも思われます。要は、ナチス・ドイツの一存でいつ潰されるかわからない学校に入学するのは賛同できないし、せっかくピアノがうまいのだから、政治の影響を受けやすい指揮者ではなく、ピアニストになって欲しいという、不安定な世情を考慮すればごく当たり前の教育的判断だったのではないかということです。
  オーストリア併合による影響の波及は急速で、地区名の変更に伴う組織や施設の名称変更に加え、多くの組織が存続の危機に立たされ、ワイトリヒを雇ってくれたインスブルック音楽協会も、翌1939年に活動を停止させられています。また、併合に伴う帝国大管区の設置によるインスブルック大管区首都音楽学校(インスブルック音楽院)とインスブルック帝国大管区テアター(インスブルック市立テアター)の組織変更・人事刷新も時間の問題となっており、実際、1941年にはワイトリヒは解任されてしまいます。以下、ワイトリヒの生涯についてまとめておきます。
  ウィーン生まれのワイトリヒは、ウィーンで音楽を学んでいましたが、第1次大戦によって学業を中断され徴兵、敗戦により軍務を解かれるとウィーンに戻り、1919年にウィーンのオーケストラのヴァイオリン奏者になり、1922年には、北ドイツのリューベック市立テアターに職を得て6年間滞在しています。戦前戦中には若きフルトヴェングラーが音楽総監督を務めたところですが、戦後のインフレ下で経営難に陥っており、ハイパーインフレの際には閉鎖や近隣の劇場との合併も検討されていたという状態でした。ワイトリヒはピアノがうまかったので、当初はコレペティトアとしての契約だったと考えられますが、人員不足の折り、指揮者になるのにさほど時間はかからなかったと思われます。
  1928年、ワイトリヒは、ズデーテン地方のトロッパウ(現チェコ、オパヴァ)の劇場と指揮者として契約し、以後6年間滞在。ハンス・ホッターが1930年にオペラ・デビューしたことでも知られる劇場ですが、当時は民族主義が台頭してチェコのオペラの上演比率が増加しだした頃で、しかも1933年にはナチ政権が成立したため、トロッパウ周辺もきな臭くなっていました。そうした環境だったこともあり、故郷ウィーンのフォルクスオーパーから誘いがあると、ワイトリヒはすぐに帰還し、1934年のシーズンに1年ほど指揮者を務めています。
  そこでの指揮ぶりが評判になったのか、1935年にはインスブルック音楽協会から声がかかり、同協会から誕生したインスブルック市立音楽院の院長に就任し、同じく市立組織のインスブルック市立テアターの指揮者も兼務、オペラとコンサートの両方を指揮することになります。
  しかし1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されてからは状況が変わり、1939年にはインスブルック音楽協会は事実上活動を停止、1941年には正式に解散し、音楽院とテアターの人事も刷新、ワイトリヒは解任されてしまいます。
  そのワイトリヒのもとに舞い込んできたのが、レンベルク(現リヴィウ)のオペラの音楽監督の仕事です。レンベルクは独ソ戦でドイツが占領した都市で、歴史的にユダヤ系が多かったため、そのユダヤ人たちが都市からゲットーに移されたことで(のち収容所)、オペラの音楽監督職にも空きがでていました。ドイツ直轄地ということで、戦時下でありながらオペラ上演にも多くの予算が割かれ、1942年には「アイーダ」も上演しています。このレンベルクには、当時十代のスクロヴァチェフスキも居り、ワイトリヒのリハーサルに潜り込んで勉強していたのだとか。
  同地で2年働いたワイトリヒは、1943年8月、ウィーンに近いプレスブルク(現ブラチスラヴァ)でオペラの音楽監督に就任しています。ここもユダヤ系の多かった街で、1万5千人が去っていたため、音楽関連の要職が空席になっていたところです。ワイトリヒはゲッベルスの劇場閉鎖令の後もプレスブルクに滞在し、1945年2月まで指揮、その後、インスブルックに戻って終戦を迎えています。
  戦後は、占領軍のユダヤ系指揮者ハンス・ウルフ[1912-2005]のおかげでナチ協力の嫌疑をかけられずに済み、しかもインスブルック市立管弦楽団にも戻ることができ、楽団再建に力を尽くしています。また、ウルフによって、レミントン・レーベルのレコーディングの仕事も紹介され、モーツァルテウムとのモーツァルト:ピアノ協奏曲第20番弾き振りや「アイネ・クライネ」、ハイドンの第100番などを精力的に録音し始めた矢先、1952年に54歳で心不全のため急死しています。2度の戦争に翻弄された音楽家人生でした。
  ワイトリヒを支援したハンス・ウルフ(ヴォルフ)はドイツ生まれでウィーンで学び、ユダヤ系だったためアメリカに帰化して、アメリカ軍に従軍した人物。占領政策終了後はアメリカに戻って指揮者として長く活動しています。


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 ザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院

1940年にインスブルック大管区首都音楽学校を卒業したスイトナーは18歳で、兵役対象年齢かつフリーとなったことで、ドイツ国防軍からすぐに接触があり、さらにその前段組織であるドイツの「国家労働奉仕団」に入団させられる可能性もありました。
  スイトナーは指揮とピアノの勉強を望んでいましたが、すでに若手演奏家として知られていたことで、コンサート・エージェントのヘルベルト・ゲシュヴェンターの推薦で、ザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院で学ぶことが決まります。
  指揮コースでの最初の試験では、「フィガロの結婚」序曲で、クレメンス・クラウスから無駄な動きが多いと指摘され、ウィレム・ファン・ホーフストラーテン[1884-1965]のクラスにされてしまいますが、再度の挑戦で「魔弾の射手」序曲をうまく指揮することができ、以後、クラウスの指導を受けることになります。


  ピアノ教授のフランツ・レトヴィンカ[1883-1972]は、カラヤンを4歳から12年間教えたことでも有名な人物。カラヤンはレトヴィンカについて、「音楽の解釈、スタイルや形式感覚に関わるすべての基礎は、実は彼によって築かれたと言っても過言ではありません」と称えてもいました。
  スイトナーは入学時点ですでに指揮者志望だったことで、ピアノはレトヴィンカに就いていますが、エリー・ナイと違って正確な演奏スタイルということで、却って良かったようです。
  レトヴィンカは1883年にウィーンに生まれ、1897年にウィーン楽友協会音楽院に入学、ヨーゼフシュタット劇場で幕間音楽を演奏して学費を稼ぎながら、1901年までピアノ、チェロ、音楽理論を勉強。17歳のとき、エドゥアルド・シュトラウスの息子、ヨハン・シュトラウス3世のヨーロッパ・ツアーにチェリストとピアニストとして参加。以後、イスタンブールからイギリスまでの広範囲で主にピアニストとして活動。
  1907年、レトヴィンカは24歳のときに、モーツァルテウム財団による選考会で80人の中から選ばれ、モーツァルテウム音楽学校のピアノ教師として採用。やがてモーツァルテウム最高の教師として知られるようになり理事にも任名。
  1913年からは指揮活動も始め、ベルンハルト・パウムガルトナー[1887-1971]が院長に任命される1917年までモーツァルテウム財団のオーケストラ・コンサートを指揮していました。また、1920年から1922年にかけては、モーツァルテウムのオペラの第1楽長に任命され、ザルツブルク市立劇場(現ザルツブルク州立劇場)でおこなわれた公演で、パウムガルトナーと交互に指揮しています。
  ピアノも指揮も達者だったレトヴィンカですが、モーツァルテウムでは、ほかに、ピアノ・アンサンブル、和声、理論も教え、同僚たちと室内楽コンサートを開催してもいました。
  多忙なレトヴィンカでしたが、写真家としてもプロ級で、1922年には個展を開催、以後、ことあるごとに個展やスライド上映会を開き、1935年には通算回数200回に到達。
  その間、1925年に教授に昇格していたレトヴィンカは、1931年にはオーストリア共和国への貢献により銀色の名誉勲章を授与されてもいました。
  また、レトヴィンカは作曲にも手を広げ、歌曲を中心にさまざまなジャンルの作品を約200曲以上も書き、中にはザルツブルク大聖堂でクリスマスに歌われていた聖歌もあります。
  しかし、1938年3月にオーストリアが併合されると状況が変わります。20年も院長を務めてきたパウムガルトナーが解任されてしまうのです。理由は、「ナチ党員の教師に対して、何年も厳しい態度をとってきたにも関わらず、併合後は態度を変えたから」というものでした。この解任騒動に不安になったレトヴィンカは、亡き親友の息子の薦めもあり、ナチ党に入党する道を選択。
  結局、院長以外の人事は変わらなかったものの、後任にはザルツブルク大聖堂のオルガニストで党員のフランツ・ザウアーが暫定的に就任し、1年半後の1939年9月まで在職しています。
  その後任はクレメンス・クラウスでした。クラウスは組織を大幅に拡大して、大学相当のホッホシューレ(演奏家養成)、高等専門学校相当のファッハシューレ(教員養成)、音楽学校相当のムジークシューレ(年少者、一般市民)といった形態の3つの部門に分け、学生の能力や年齢、目的などに応じてコース分けし、職員数も大幅に増やしています。
  たとえばピアノ担当では、ホッホシューレは有名演奏家のエリー・ナイが責任者、ファッハシューレはベテラン教育者のレトヴィンカが責任者という具合に適材適所としています。
  5年後の1944年10月にはモーツァルテウム国立音楽院は、科学・教育・文化大臣ルストの命令によって閉鎖されますが、戦後はすぐに活動を再開、レトヴィンカも教えていましたが、ナチ党員だったことで非ナチ化裁判にかけられることになり、カラヤンのような後ろ盾がなかったため裁判が長期化し、1949年12月15日にようやく嫌疑が晴れています。
  その後、1956年のモーツァルト・イヤーには、モーツァルテウム財団のモーツァルト銀メダル、1968年にザルツブルク州都紋章金メダル、1969年にザルツブルク州名誉杯、1972年にザルツブルク州の名誉リングなど、数多くの栄誉に輝き、1972年に88歳でザルツブルクで死去。


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 インスブルック帝国大管区テアター

1942年、ザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院を卒業したスイトナーは、地元に戻ってインスブルック帝国大管区テアター(現チロル州立テアター)のコレペティトアとして契約し、翌1943年に第1楽長(第1カペルマイスター)に昇格しています。
  1944年1月に上演された「リゴレット」は成功で、批評も上々でした。
  この帝国大管区テアターではオーケストラ・コンサートもおこなっており、同年4月には、スイトナーはルートヴィヒ・シュッテ(ルズヴィ・スキューテ)のピアノ協奏曲嬰ハ短調 Op.28を演奏。共演はプルフマッハー指揮インスブルック帝国大管区管弦楽団。スイトナーは44年後に、自身がオーケストレーションしたヴァージョンを使用して小川京子らとこの曲を世界初録音しています(ちなみにシュッテは薬剤師から22歳で音楽家志望に転じた人物で、デンマークでピアノを勉強した後、1884年、36歳で奨学金を得てドイツに行き、リストに教えを受けたりしたのち、1886年から21年間ウィーンに滞在してホラック音楽院(現シューベルト音楽院)などでピアノを教え、1907年にベルリンのシュテルン音楽院でピアノを教えるため転居。2年後の1909年、61歳で同地で死去しており、薬剤師の後はピアノ一筋だったということで、オーケストレーションはうまくなかったようです)。
  1944年5月には、レハール「ヒバリの鳴くところ」を指揮。
  同年7月、スイトナーは、インスブルック宮のリーゼンザールでおこなわれたインスブルック帝国大管区管弦楽団とのセレナーデ・コンサートで、ハイドンのピアノ協奏曲の弾き振り、モーツァルト「フィガロの結婚」序曲と抜粋、交響曲第38番を指揮して高い評価を獲得しています。ちなみに恩師ワイトリヒが、インスブルックでのお披露目コンサートで弾き振りでとりあげたのもハイドンのピアノ協奏曲でした。
  順調だったカペルマイスター生活ですが、9月1日には、ゲッベルス国家総力戦総監によって全ドイツの劇場(歌劇場)の閉鎖が命令され、これにより、スイトナーは失業することになってしまいます。


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 招集

ドイツの敗北が誰の目にも明らかだった1945年4月3日、チロル=フォアアールベルク帝国大管区指導者で、同地区の「国民突撃隊」の指導者でもあるフランツ・ホーファーが、アメリカ軍戦車部隊が迫るロイテ付近に、正規軍(武装親衛隊と国防軍の残党)、及びヒトラーユーゲントの子供たち、国民突撃隊の一般市民などの派遣を要請。ロイテはインスブルックの北西約50km、標高約800メートルのところにある小さな町。
  派遣を要請したチロル=フォアアールベルク帝国大管区庁舎はインスブルックにあり、若く失業中の身で、インスブルック在住だったスイトナーは逃れようがなく、国民突撃隊の兵士として招集され、ロイテ付近に配属。
  しかし国民突撃隊にはまともな兵器や軍服も無く、軍用機と戦車を駆使するアメリカ軍部隊との兵力差が大き過ぎ、ほとんど戦闘にはならなかったようです。
  近くにいた武装親衛隊大隊も敗走してソ連軍に投降し、ロイテへの派兵を要請した当の本人であるホーファー大管区指導者も、アメリカ諜報員の説得に応じてアメリカ軍に投降、逮捕・拘留されています(ホーファーは1948年に脱獄し、ドイツ西部で工場を経営、1975年まで普通に生活して72歳で死去。2度の脱獄で人生を切り開いた珍しいケースです)。

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 ピアニスト

1944年9月の劇場閉鎖令で指揮者として失業したスイトナーは、同月、さっそくピアニストとして活動を開始。インスブルック大管区首都音楽学校のホールでリサイタルを開き、ベートーヴェンのソナタ第30番や、バッハのヴィヴァルディ編曲、モーツァルトで高評価を得ます。
  戦後も1946年夏の第1回ブレゲンツ音楽祭くらいしか指揮の仕事が無かったため、ピアニストとしての活動が本格化。1952年にレムシャイトで音楽監督の職を得るまでの7年間に、ウィーン、ローマ、ミュンヘン、スイスなどでコンサートを実施していました。
  レパートリーにはリスト「死の舞踏」や、ウェーバー「コンツェルトシュテュック」なども含まれ、フリッツ・リーガー指揮ミュンヘン・フィルとはブラームスのピアノ協奏曲第1番を演奏するなど、なかなかのヴィルトゥオーゾ系で、そのピアニスト活動は本格的でした。
  しかし、恩師クレメンス・クラウスから、経済規模がはるかに大きなドイツで指揮者として活動するよう薦められたこともあり、スイトナーはやがて指揮に専念するようになります。
  第1次大戦の敗戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、人口600万人ほどの小さな国になったオーストリアでは、労働者に手厚い社会党系政府が14年間続くものの、世界大恐慌の影響で独裁政治に転じることになり、オーストロファシズムによる独裁が5年間、ナチス・ドイツによる独裁が7年間の計12年間も独裁政治が継続。
  第2次大戦後、オーストリアは再び社会党系政府に戻っており、1949年からドイツ・キリスト教民主同盟(CDU)のアデナウアー首相のもとで強力な復興に向けて舵を切っていた西ドイツとは経済規模で差が開く一方でした。


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 レムシャイト市立テアター

1952年2月、スイトナー、西ドイツのレムシャイト市立テアターと音楽監督として契約。レムシャイトはヴッパータールの南隣の山地にある都市で標高は約365メートル。高さ107メートルの鉄橋でも有名。第2次大戦の爆撃で市街の多くが破壊され、劇場も大破して代替場所で上演がおこなわれていましたが、1952年10月には新たに劇場を建設することが決定、1954年10月に完成しています。
  スイトナーはここで5年間を過ごしていますが、その間、バンベルク交響楽団を指揮してドイツ・グラモフォンへのレコーディングを始めたり、東のベルリン交響楽団に客演したりと活動範囲を広げています。


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 ベルリン交響楽団

1954年、スイトナー、ベルリン交響楽団に客演。以後、何度も指揮することになります。
  ベルリン交響楽団の前身は、1907年にピアノ・メーカーのブリュートナーが設立し、ベルリンのブリュートナー・ザールで演奏していたブリュートナー管弦楽団。マックス・フォン・シリングスやジークムント・フォン・ハウゼッガーらも指揮したオーケストラで、ヘルマン・シェルヘン、イェネー・ブラウ(のちのオーマンディ)なども楽員として在籍。社会民主党のコンサートや、マルクス主義活動家ローザ・ルクセンブルクの葬儀での演奏で物議を醸したりしながらも、第1次大戦後の不況と1923年のハイパーインフレを生き残り、1924年にはマスカーニ指揮の公演を収容人員1万人以上のスポーツ・パレスで実施しますが、翌1925年には解散となり、楽員の多くは新たに設立されたベルリン交響楽団(Berliner Symphonie-Orchester)に入団し、オスカー・フリートのもとで、ベルリン市の助成を受けながら活動を開始しています。
  しかし、設立から7年後の1932年、世界大恐慌の影響でベルリン市がベルリン・フィルとベルリン交響楽団の両方に補助金を出すことが難しくなると、市はベルリン交響楽団の楽員の一部をベルリン・フィルに吸収させ、大衆向けコンサートなどを大幅に増やすことで収益力を高め、さらに国と放送局がベルリン・フィルを財政支援することを立案。残りの楽員は、ベルリン放送交響楽団、ベルリン市立歌劇場(ベルリン・ドイツ・オペラ)に振り分けることで、ベルリン交響楽団を解散することを計画。
  1932年9月のベルリン・フィルへの入団オーディションは非情な雰囲気でおこなわれ、マックス・フォン・シリングスは辞退、フルトヴェングラーが判断して23人を引き取ることにし、10月にベルリン交響楽団は解散。そして、翌1933年1月にはナチ政権が成立し、ベルリン・フィルも国営となり財政が安定、収益向上のための大衆向けコンサートなども不要となり、23人の入団者のうち15人が、政治的活動などの名目でフルトヴェングラーの指示で解雇されています。
  そして、大恐慌によるベルリン交響楽団解散から20年を経た1952年、オペラでは西ベルリンに対して優位に立っていた東ベルリンは、コンサートも強化するため、ベルリン交響楽団を復活させ、今度は市の組織として運営することを決定。その際、以前のままの綴りだと、1949年に西ベルリンで設立されたばかりの「Berliner Symphonische Orchester」と紛らわしいため、「Symphonie」から「Sinfonie」に変更して「Berliner Sinfonie-Orchester」としています(設立後9年間はベルリンの壁が存在しなかったため十分に紛らわしかったと思われます)。
  1978年にはハンブルク州立オペラ300周年記念公演シリーズに招かれ、「魔弾の射手」序曲とマーラー「復活」を演奏しています。
  ちなみに1984年以降、ベルリン交響楽団は、同年に東ベルリンで再建されたシャウシュピールハウス(ドイツ再統一後の1992年にはコンツェルトハウスに改名)を本拠地としており、2006年にはベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(Konzerthausorchester Berlin)と改名。
  なお、西ベルリンのベルリン交響楽団は、1949年に「Berliner Symphonische Orchester」として設立され、1966年に「Deutsche Symphonieorchester(ドイツ交響楽団)」を吸収合併して強化、翌1967年には語順など変えて「Symphonisches Orchester Berlin」と改名、ドイツ再統一後の1992年には、紛らわしさを回避するため「Berliner Symphoniker」と変更し、現在に至っています。
  もっとも日本語では、ドイツ語オリジナルでは5つもある名前が、すべて「ベルリン交響楽団」と訳さざるをえないので、紛らわしさは現地の比ではありません。しかも、どちらのオーケストラも録音・来日公演がけっこうあったりということで、カオス具合もなかなかのものがあります。さらに2006年のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団という抜本的な改名が、かつての東のベルリン交響楽団と別団体と認識されがちという事態も招いたりしています。

【略史】(便宜上、東と西に分けています)
1907 : Bluthner Orchestra 設立
1925 : Bluthner Orchestra 解散
1925 : Berliner Symphonie-Orchester(東)設立
1932 : Berliner Symphonie-Orchester(東)世界大恐慌により解散
1949 : Berliner Symphonische Orchester(西)設立
1952 : Berliner Sinfonie-Orchester(東)改名し、市営組織として再設立
1967 : Symphonisches Orchester Berlin(西)合併により改名
1992 : Berliner Symphoniker(西)改名。現在も同じ
2006 : Konzerthausorchester Berlin(東)改名。現在も同じ

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 プファルツ管弦楽団

1957年9月、スイトナー、プファルツ管弦楽団(現ラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団)の音楽監督に就任。所在地は西ドイツのルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン市。ウィーンやミュンヘン、ハンブルクなど、ドイツ、オーストリア各地のオーケストラへの客演仕事も舞い込むようになります。また、マリア・カラスのリサイタルの伴奏をおこなったことで有名にもなっています。
  オーケストラとの関係は非常にうまくいっていましたが、東ドイツのドレスデン国立オペラから音楽総監督への就任要請があり、スイトナーは1960年8月にプファルツ管弦楽団の音楽監督を3年目で退任しています。

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 ドレスデン国立歌劇場

【選考】
1959年、東ドイツの中央委員会は、マタチッチ以来空席となっていたドレスデン国立オペラの音楽総監督候補者を選定するよう関係部署に要請。現場レベルでは、党幹部の人間まで「非社会主義国」の指揮者についても検討し、すでに東ドイツで実績のあったスイトナーをほぼ全会一致で選んでいました。
  しかし、中央委員会は、外国人の場合、東ドイツ国籍とすることや、1年間の試用期間を設ける必要があるなどと高圧的に対応。文化省トップのクルト・ボーク[1906-1975]までスイトナー採用に反対したと言います(ボークは演劇関係者)。
  ドレスデン地区評議会は諦めず、東ドイツ中央委員会の科学、教育、文化の担当で、イデオロギストのクルト・ハーガー[1912-1998]に宛てて、西側の人間であるスイトナーは、役人と繋がるような音楽家にはなり得ない、とイデオロギー的に説得を試みる手紙を書き、これがきっかけで事態は好転しています。

【マタチッチ解任?】
  名門オケ、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者を兼ねるこのドレスデン国立オペラ音楽総監督という要職の前任者は、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国のロヴロ・フォン・マタチッチ[1899-1985]。マタチッチは、フィルハーモニア管弦楽団での仕事も多かった1955年から、フランツ・コンヴィチュニーのもとでベルリン国立オペラの音楽総監督を務めており、1956年からはドレスデン国立オペラの音楽総監督も兼務という人気ぶりでしたが、1958年に突然姿を消しています。短期間でいなくなった理由は明らかにされていませんが、1958年にドイツ社会主義統一党(SED)中央委員会第一書記のヴァルター・ウルブリヒト[1893-1973]により、反対派の党幹部たちの多くが「派閥構築者」という名目でいっせいに排除されたことと関係があるかもしれません。
  マタチッチは、翌1959年にはバイロイトに出演し、シカゴ・リリック・オペラでもデビュー、フランクフルト歌劇場にも客演し、1961年にはローマ歌劇場で「指環」を指揮、同年にはフランクフルト歌劇場の音楽総監督に就任しています。


【スイトナー就任】
1960年9月、スイトナー、ドレスデン国立オペラの音楽総監督、及びシュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者に就任。
  上司の総監督ハインリヒ・アルメロート[1901-1961]は、経済学博士号を持った元テノール歌手。戦後、自由ドイツ労働総同盟、文化連盟、連邦執行委員会などで働き、文化省の芸術科学諮問委員会に所属し、ドレスデンのSED地区指導者でもありましたが、1961年10月に急死してしまいます。スイトナーにとって快適な状況は長くは続きませんでした。


【歌手問題】
アルメロートの後任の総監督は、俳優で演出家のゲルト・ミヒャエル・ヘンネベルク[1922-2011]。「ベルリンの壁」建設のおかげで音楽家リソースがベルリン最優先とされる時期に着任したヘンネベルクは、音楽の専門家ではないことから、ただでさえ難しい環境の中で歌手の手配などに十分な政治力を発揮できず、そのため、オーケストラは一流なのに、歌手はそれに見合わないという状況が続くようになり、スイトナー辞任の大きな要因ともなっています。また、このアンバランスな状態については、後任のクルト・ザンデルリングも同様の批判をしています。

【施設問題】
  1945年に爆撃で本拠地の歌劇場を失っていたドレスデン国立オペラの1948年から1985年までの活動拠点は、連合国軍の絨毯爆撃によって1945年に破壊されながらも1948年には再建されていた「ドレスデン国立劇場」でした。この劇場はもともと演劇用の劇場として1913年に「王立宮廷劇場(王立新シャウシュピールハウスとも)」として開場、1918年のドイツ革命で「ザクセン州立劇場(ランデステアター)」と改名し、1920年には「ザクセン国立劇場(シュターツテアター)」と改名。ナチ時代もそのままの名前でしたが、1948年には東ドイツ体制で「ドレスデン国立劇場」と改名。1985年に「ゼンパーオーパー」が再建され、「ドレスデン国立劇場」が「ドレスデン・シャウシュピールハウス」と改名して演劇専門の劇場に戻るまで、37年間に渡って「ドレスデン国立劇場」と呼ばれていました。
  このドレスデン国立劇場は、もともと演劇用の施設ということで、オーケストラ・ピットは非常に狭く、残響時間も短すぎたため、オペラにしてもシュターツカペレの演奏にしても本来の能力を発揮できる環境とは言えなかったようです。スイトナーが僅か4年でベルリンに移ってしまった要因のひとつになっていたとも考えられます。
  また、ドレスデン国立劇場は、オペラ、演劇、バレエ、シュターツカペレの4つの用途に使われていたため公演数に制限があり、座席数はドレスデン国立劇場もゼンパーオーパーも約1,300席と同規模ながら、音楽総監督として実績を上げるには、公演数の少なさは致命的という問題もありました。その後、1969年には多目的ホール「クルトゥーアパラスト」が建設され、2,740席のキャパシティを活かしてシュターツカペレ・ドレスデンのコンサートにも使われますが、多目的ホールなので残響は少し短めです。
  そうした事情もあってか、辞任後のスイトナーがドレスデンに戻るのは、音響抜群の「ルカ教会」で1970年代まで継続していたレコーディング・セッションが中心で、最後は、1982年にクルトゥーアパラストでの演奏会の指揮でした。


【上演】
1961年、スイトナーは、「ばらの騎士」初演50周年記念公演で成功を収めます。世界初演は1911年、ザクセン王国の首都ドレスデンで、シュトラウスの親友エルンスト・フォン・シューフ指揮ドレスデン宮廷オペラにより、ゼンパーオーパーで実施。スイトナーは戦時中のインスブルックで人手不足の中、室内オケ編成に編曲して「ばらの騎士」を上演して成功していた実績があり、作品を熟知していましたが、ここでもみずからピアノを弾いて歌手に稽古をつけ、上演を成功に導いています。

【叙勲】
1963年、スイトナー、東ドイツ政府より国家賞(芸術・文学部門第2等)を授与。賞金は、連合国軍に爆撃・破壊されて再建中のドレスデン・カトリック宮廷教会に寄付され、ジルバーマン・オルガンの復元に役立てられています。


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 ベルリン国立歌劇場

【ベルリンの壁】
1961年8月13日、東ドイツ、ホーネッカーの指揮で「ベルリンの壁」の建設を開始。1952年からフェンスと警報装置が備えられ、国境警備もおこなわれていた西ベルリンと東ドイツの境界線に、頑丈なコンクリートの壁と有刺鉄線を設置。幅広い分離帯も設けて障害物を置いたほか、地雷を埋めたりもして、東ドイツから西ベルリンへの越境を阻止するために莫大な国費が投じられます。
  ちなみに東ドイツ建国からこの1961年までの約11年間に、累計約360万人の東ドイツ人が西ドイツに移り、累計約50万人の西ドイツ人が東ドイツに移っています。当時の東ドイツの人口は約1,700万人で、移住者の多くは生産年齢に該当したため、東ドイツ経済を押し下げ、西ドイツ経済を押し上げるのに十分な数でした。また、東ベルリンと西ベルリンの相互移動に問題がなかった時期には、物価や賃金水準の違いによって生じた往来人口は1日あたり約50万人に達しており、東側からの物品流出や、東側通貨弱体化の要因ともなっていました。
  なお、「ベルリンの壁」建設後に脱出に成功した人の数は約18万人で、これに合法的に西ドイツに移住した約72万7千人を加えると、「ベルリンの壁」建設後の流出人口は約90万7千人となります。合法的転出者の多くは高齢者でした。下の画像、ブランデンブルク門のある左側が東ベルリンで、右側が西ベルリンとなります。


【ベルリン国立オペラの危機】
ベルリン国立オペラの出演者や関係者には、西ドイツやオーストリアなど西側諸国から来る人も多く、また、東ドイツ人であっても、住居は西ベルリンというケースも割と一般的だったため、一晩で「ベルリンの壁」が築かれた影響には深刻なものがありました。
  ベルリン国立歌劇場に来ることが難しくなった指揮者、歌手、オーケストラ楽員、合唱団員、バレエ団員、舞台関係者はかなりの数にのぼり、東ドイツ政府は、急遽、他のオペラやテアターの歌手、オーケストラ楽員、合唱団員、東ドイツの4つの音楽学校の卒業生、バレエ学校の卒業生をベルリンに集め、ベルリン国立オペラの上演水準を保つための努力がおこなわれます。
  総監督(インテンダント)のマックス・ブルクハルト[1893-1977]と音楽総監督のフランツ・コンヴィチュニー[1901-1962]、常任指揮者のアルトゥール・アペルト[1907-1993]とロベルト・ハネル[1925-2009]は、東ドイツ人なので問題なかったものの、音楽総監督のホルスト・シュタイン[1928-2008]と、常任指揮者のハンス・レーヴライン[1909-1992]の2名は職務継続が難しくなり、レーヴラインはフランクフルト・オペラの第1指揮者に転身、ホルスト・シュタインも1963年にマンハイム国立テアターの音楽総監督に就任することを決めています。
  ベルリン国立オペラは、「レパートリー・システム」で運営されている為、数多い演目を、不連続で複数回に渡って上演するという運用形態になっており、経験豊富な指揮者の存在は不可欠とあって早急な人材確保が必要とされていました。
  そこで音楽総監督のコンヴィチュニーは、自身のもうひとつの重要拠点であるライプツィヒで活躍していた3人の指揮者、ハインツ・フリッケ[1927-2015](ライプツィヒ市立オペラ)、ヘルムート・ザイデルマン[1901-1962](ライプツィヒ市立オペラ)、ハインツ・レーグナー(ライプツィヒ放送大管弦楽団)を呼ぶことにします。
  フリッケとザイデルマンの職場には指揮者が複数いたためすぐに移ることができ、12月に音楽総監督に任命されましたが、レーグナーは放送オケの首席指揮者だったのでなかなか動けず、最初に指揮できたのが1962年7月の『フィデリオ』で、コンヴィチュニーの死の2週間前のことでした。その間、ザイデルマンが着任から4か月後の1962年1月17日に急死しており、ベルリン国立オペラは、多くの常任、客演指揮者が登場して運営されていたというのが実情でした。
  レーグナーは1962年9月のシーズン開始から移ることができ、12月にはベンツィン文化大臣から音楽総監督に任命。当時のベルリン国立オペラは、1955年の再建オープンから運営規模が大掛かりになっていたことから、音楽総監督を複数置くことを可能としており、下記のメンバーで東ドイツ時代を乗り切っています。

1955-1958 コンヴィチュニー/マタチッチ/シュタイン
1958-1961 コンヴィチュニー/シュタイン
1961-1962 コンヴィチュニー/フリッケ/ザイデルマン
1962-1962 コンヴィチュニー/フリッケ
1962-1964 フリッケ/レーグナー
1964-1971 スイトナー/フリッケ/レーグナー
1971-1974 フリッケ/レーグナー
1974-1990 スイトナー/フリッケ

「ベルリンの壁」直後、1961年秋からのシーズンを支えたのは音楽総監督のほか、常任指揮者と客演指揮者で、1960年シーズンから継続指揮のアペルトとハネルに加え、レーグナーと似た名前のハインツ・レットガー[1909-1977](デッサウ州立テアター)、朝比奈隆[1908-2001](大阪フィルハーモニー交響楽団)、チャールズ・マッケラス[1925-2010](イングリッシュ・ナショナル・オペラ)、ヘルムート・コッホ[1908-1975](ベルリン室内管弦楽団)、ヘルベルト・ケーゲル[1920-1990](ライプツィヒ放送交響楽団)、ハンス・アウエンミュラー[1926-1991](ノルトハルツ市立テアター)のほか、ルドルフ・ノイハウス[1914-1990](ドレスデン国立オペラ)、ゲルハルト・プフリューガー[1907-1991](ワイマール・ドイツ国民テアター)、カール・シューベルト[1906-2006](シュターツカペレ・シュヴェリーン)、ホルスト・フェルスター[1920-1986](ハレ国立フィル)、アーセン・ナイデノフ[1899-1995](ソフィア国立オペラ)、ゲルハルト・アウアー[1925-2002](スロヴァキア国立オペラ)、ルドルフ・ヴァシャタ[1911-1982](スメタナ劇場)、ルスラン・ライチェフ[1919-2006](ソフィア国立オペラ)、ヴィルモス・コモル[1895-1971](ハンガリー国立オペラ)、等々、多くの国の指揮者が実務に携わっています。
  下の画像は1955年に再建されたベルリン国立歌劇場で、爆撃破壊される以前の建物とは屋根の上部などが違っています。また、右隣に見える聖ヘートヴィヒ大聖堂も爆撃で上部構造物が破壊されてシンプルになっています。ちなみに、ベームやクリュイタンス、マルケヴィチ、ケンペ、フリッチャイ、フォルスターなどと大量のレコーディングをおこなっていた聖ヘートヴィヒ大聖堂合唱団の録音が急に少なくなってしまったのも「ベルリンの壁」が原因でした。


【総監督ピシュナーは辣腕政治家】
1963年にはベルリン国立オペラのトップである総監督が交代。演劇畑のマックス・ブルクハルト[1893-1977]が70歳になったため退任し、49歳のチェンバロ奏者ハンス・ピシュナー[1914-2016]が総監督に就任。ピシュナーはドイツ社会主義統一党(SED)のメンバーで、要職も歴任・兼務、西ベルリンと対峙する東ベルリンで、DEFA(国営映画スタジオ)と並んで文化事業の大口予算部門でもあったベルリン国立オペラの強化を図ることになります。
  この1963年から1984年まで21年間に渡って総監督を務めたピシュナーは、1946年にSEDに参加、ワイマールのリスト音楽学校で教鞭をとり、翌1948年には教授に任命。1950年から1954年にかけて、ピシュナーは東ドイツの国家放送委員会の音楽部門の責任者として、国営放送システムの構築に貢献。新設された文化省では、まず1954年から1956年まで主要な音楽部門の責任者を務め、その後1956年から1963年までは文化省の副大臣を務め、1956年からは、ドイツ・シャルプラッテン、芸術研修所、ドイツ・コンサートなどの部門の予算・監査部門の責任者としても活動。1970年から1978年まで東ドイツ芸術アカデミーの副会長を務め、1975年から1990年まで新バッハ協会会長、1977年から1989年まで東ドイツ文化連盟(クルトゥーアブント)の会長として、文化人を指導する役割を担い、1981年から1989年にかけては、ドイツ社会主義統一党(SED)中央委員会のメンバーでもありました。
  ハンス・ピシュナーは、多忙な仕事の傍ら、常にチェンバロのための時間を確保し、公開コンサートや多くの録音を行っていたほか、劇場監督として、晩年のクレンペラー家を何度も訪れて交流を深めるなど意外な面もあった人物です。


【スイトナー第1音楽総監督誕生】
1964年、スイトナーがバイロイト音楽祭事務局から招かれて「タンホイザー」を指揮していますが、これはヴィーラント・ワーグナーがドレスデンの楽団員を欲しており、関係を築きたかったという理由もあったということのようです。
  こうした成功もあってか、スイトナーに対して総監督のピシュナーは好条件を提示、スイトナーは人事や施設面で多くの問題を抱えていたドレスデン国立オペラの音楽総監督を辞して、ベルリン国立オペラの第1音楽総監督に就任することを決めます。同劇場では音楽総監督としてすでにフリッケとレーグナーが働いており、スイトナーはその上の第1音楽総監督という位置づけでした。
  膨大なオペラ・レパートリーを持つハインツ・フリッケに、コンサート物にも強いハインツ・レーグナーという強力な実務能力を持つ2名が多くの総監督仕事をこなす体制だったため、スイトナーには時間的な余裕が生まれることにもなります。


【スイトナーと特権】
爆撃破壊による演奏会場の問題を抱えながらもドレスデン国立オペラを称賛していたスイトナーが、あっさりベルリン国立オペラに移ってしまった理由として、ポジションが高位で待遇も良く、さらに、西ベルリンにも「壁」での税関検査を受けず自由に出入りできるということを挙げており、そうした特権を与えられていたのは、自分と妻マリタのほかに、ヴァルター・フェルゼンシュタイン(演出家)、ヘレーネ・ヴァイゲル(女優)くらいだったと回想しています。
  要するにオーストリア国籍の者は優遇されていたということですが、背景には、オーストリアが戦後70年以上も社会党が与党、もしくは連立与党という政権運営をおこなっていたという事情があります。
  対照的に、1982年以降の西ドイツ政府は、キリスト教民主同盟と、連立相手のキリスト教社会同盟 (CSU)、自由民主党 (FDP)が与党となったため、オーストリア国籍ながら東ドイツの要職に就いて、西ベルリンにも出入り自由だったスイトナーを快く思わず、スイトナーがルートヴィヒスハーフェンのプファルツ管弦楽団音楽監督を務めていた時代に、地元の政治家だった縁で親しかったヘルムート・コール[1930-2017]首相がとりなしても政府は折れず、スイトナーは西ドイツで指揮をすることができませんでした(ちなみにコール首相はプライヴェートでベルリン国立オペラまでオペラを観に何度も出かけいます)。

【スイトナー、3年間の空白】
1971年、スイトナーはウルブリヒト体制からホーネッカー体制に切り替わったのを機に、西ベルリンの愛人が身重だったこともあってか、N響客演などコンサート指揮者としての活動に軸足を移してベルリン国立オペラを退任したため、フリッケとレーグナーの2人が音楽総監督を務めるようになります。そのレーグナーも、2年後の1973年には、病床のロルフ・クライネルトに代わってベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任しますが、ベルリン国立オペラでの音楽総監督としての指揮は翌1974年まで継続。
  なお、スイトナーは1974年にベルリン国立オペラ音楽総監督に返り咲き、以後、1990年にパーキンソン病で引退するまで16年間在任していました。


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 NHK交響楽団

1971年12月、ベルリン国立オペラを退任したスイトナーがNHK交響楽団に初めて客演。シェーベルク「管弦楽のための5つの小品」日本初演。以後、18年間で117公演を指揮。1973年には名誉指揮者の称号を授与されています。

1973年1月
1974年3月
1974年12月
1976年11月
1978年12月〜1979年1月
1980年11月
1982年12月
1984年1月
1986年2月
1986年12月
1988年3月
1989年10〜11月

スイトナー指揮NHK交響楽団を検索

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 年表
 1922年
(0歳)

◆4月16日、ラパッロ条約締結。ドイツとソ連が和解して国交を回復。経済・文化交流などを推進。のちに軍事も。
●5月15日、オトマール・スイトナー、オーストリア西部の山間都市インスブルックに誕生。父親はインスブルック近郊、ペットナウの山村ライブルフィングの農家の出身。同じ地名の自治体がバイエルンにもあるため、父親はドイツ人などと書かれてきましたが、それは間違いでオーストリア人です。母親はイタリア人で、鉄道員の娘。2人が出会ったのはインスブルックの軍病院でした。
  スイトナーの父は、第1次大戦後のインフレの中、職探しに苦労しますが、やがて地域財務局の職員として雇用されることとなります。父は音楽愛好家でもあり、幼いスイトナーを連れてダルベールの弾くリストなども聴きに行っています。
◆8月、オーストリアのハイパーインフレ収束。
◆11月5日、ラパッロ条約の補足条約がベルリンで調印。

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 1923年(0〜1歳)

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 1924年(1〜2歳)

●8月、マリア・リタ(マリタ)・ヴィルケンス誕生。1948年にスイトナーと結婚。2008年に死去。

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 1925年(2〜3歳)

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 1926年(3〜4歳)

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 1927年(4〜5歳)

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 1928年(5〜6歳)

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 1929年(6〜7歳)

◆9月3日、アメリカ、しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株の平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定のための「売り」が集中して1か月に渡って下がり続けて17%下落。その時点で底値と判断した「買い」が入って下落分の半分ほどまで上昇したもののそこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として、各国への投資や預金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。

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 1930年(7〜8歳)

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 1931年(8〜9歳)

◆フランスがオーストリアから資本を引き揚げたこともあって、ロスチャイルド(ロートシルト)家創業のウィーンの大銀行「クレディート・アンシュタルト」が倒産、取引先のドレスデン銀行なども破綻するなど経済が連鎖的に悪化。

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 1932年(9〜10歳)

◆5月、キリスト教社会党党首のエンゲルベルト・ドルフース[1892-1934]がオーストリア首相に選出。教権ファシズム化を進めてウィーンも統治するようになり、オーストリア社会民主党、オーストリア・ナチス(ナチ党オーストリア支部)と対立、政情が不安定になって行きます。

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 1933年(10〜11歳)

◆3月23日、ドイツで全権委任法が成立。
◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な運営を開始。
◆5月26日、ドルフース政権、オーストリア共産党を非合法政党と認定し活動禁止措置。 ◆5月26日、ドイツで共産主義者の財産没収に関する法律が成立。
◆6月19日、ドルフース政権、オーストリア・ナチ党を非合法政党と認定し活動禁止措置。これによりオーストリア・ファシズム政権による独裁体制が確立し、ローマ・カトリックを国教として認定。
◆9月、オーストリア・ファシズム政権の支援団体として「祖国戦線」を組織し、キリスト教社会党と護国団を統合。

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 1934年(11〜12歳)

◆1934年のオーストリアの実質賃金は1929年に較べて44%も減少、失業率も1928年の8.3%に対し、1934年は38.5%と凄まじい景気の悪化ぶりで、政治・社会も大きく混乱。
◆2月、ウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と、オーストリア社会民主党の支援する「防衛同盟」戦闘員が衝突、4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。
◆7月、ドルフース首相が、敵対するオーストリア・ナチスのメンバーにより殺害。オーストリア・ナチスは、クーデターにより政権奪取を果たすべくオーストリア各地で暴動を引き起こすものの、隣国イタリアのムッソリーニ率いるイタリア・ファシズム政権が国境線まで軍隊を進めたためオーストリア・ファシズム政権はなんとか事態を鎮圧。
  以後、1936年に政権がドイツに屈服するまで、オーストリア・ナチスは地下活動を展開。当時のオーストリアは、「オーストリア・ファシズム政権と支持者たち(護国団など)」、「オーストリア社会民主党の支援する全国で8万人規模の活動員とその支持者たち(共和国保護同盟など)」、「オーストリア・ナチスとその支持者たち」という、「ファシスト vs 社会主義者 vs ナチス」というみつどもえ闘争という状態で、国中で小競り合いが多発。
  加えて欧州では、世界恐慌等の影響もあって、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、ルーマニア、ギリシャ、ハンガリー、ポーランドがすでに独裁政権下にあり、かつ大多数がファシズム支配となっていました。こうした社会状況は、税金で運営される組織に勤めるケースの多いクラシックの音楽家にとっては大変なものがありました。

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 1935年(12〜13歳)

◆3月、ドイツ、再軍備宣言と共に徴兵制も復活。

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 1936年(13〜14歳)

◆ドイツ経済が大恐慌前の水準に回復。

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 1937年(14〜15歳)

◆ゲッベルスにより「批評禁止令」布告。

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 1938年(15〜16歳)

◆3月、オーストリア併合。当時のドイツは失業率が劇的に改善し、国民の貯蓄額も急伸、公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方、アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も、国境線拡大に加え、オーストリアの保有していた金資産や外貨、鉱物資源、そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際、ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億マルクに達し、これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万マルクの実に18倍以上という凄いものでした。
  しかし、景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く、約60万人も失業者がおり、自国経済の改善に期待する市民の思いは、併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映、賛成99.75%という数字にも表れていました。
  併合後は、1925年に「クローネ」から変更されたばかりのオーストリア通貨「シリング」を廃止してマルクを導入。ライヒスバンクは当初、オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1マルク」という交換レートを想定していたものの、市民感情にも配慮し、「1.5シリング=1マルク」という交換レートを設定、民間組織の国有化など経済再建を進めます。
◆5月、インスブルックにチロル=フォアアールベルク帝国大管区の庁舎が設置され、指導者に、国家社会主義自動車軍団大将のフランツ・ホーファー[1902-1975]が任命。ホーファーは1933年6月に逮捕され懲役2年を宣告されて刑務所に入れられていましたが、同年8月に4人の突撃隊(SA)メンバーが押し入って脱獄させ、逃走中に銃撃されて負傷し、ニュルンベルクの党大会では担架から演説したという筋金入りの国家社会主義活動家でした。
●スイトナー、インスブルック大管区首都音楽学校に入学。


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 1939年(16〜17歳)

●スイトナー、インスブルック大管区首都音楽学校に在学。


◆2月17日、ユダヤ人に対し貴金属拠出令。
●8月、スイトナー、ザルツブルク音楽祭でR.シュトラウス指揮のコンサートを鑑賞。指揮者志望に。
◆9月、第2次世界大戦開戦。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。

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 1940年(17〜18歳)

●スイトナー、インスブルック大管区首都音楽学校を卒業。


●スイトナー、コンサート・エージェント、ヘルベルト・ゲシュヴェンターの推薦によりザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院で学ぶことが決定。
●スイトナー、ザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院に入学。指揮を院長のクレメンス・クラウス、ピアノをフランツ・レトヴィンカ[1883-1972]に師事。


◆9月2日、連合国軍、インスブルックを初めて爆撃。被害は軽微。

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 1941年(18〜19歳)

●スイトナー、ザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院在学。


◆3月27日、ドイツ国防会議により法令布告。闇取引および買い溜めに関する取り締まりを強化。最高刑は死刑。
◆3月29日、ドイツ財務省が法人税増税について発表。前年度利益が3万マルクを超えた場合、利益の25〜30%を徴税。
◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。
  同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります。エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人。
◆6月、独ソ戦開戦。
●スイトナー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビュー。

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 1942年(19〜20歳)

●スイトナー、ザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院卒業。


●スイトナー、インスブルック帝国大管区テアター(現チロル州立テアター)とコレペティトアとして契約。翌年に第1楽長に昇格。オーストリア併合前はインスブルック市立テアターでした。


◆10月6日、連合国軍、インスブルックを爆撃。被害は軽微。

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 1943年(20〜21歳)

●スイトナー、インスブルック帝国大管区テアター第1楽長として在職。


◆連合国軍、インスブルックを爆撃。
◆11月1日、モスクワ宣言。3回モスクワ会議でのソ連・アメリカ・イギリスの外相らにより取り決められた内容で、オーストリアについては、ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の国であるとされる一方、ドイツへの戦争協力にも言及し、今後、オーストリアそのものがドイツからの解放にどのくらい関与したかで戦争責任の追及が変わってくるなどと指摘。
  以後、オーストリア国内でのレジスタンスは数を増すこととなり、1944年の終わりには、臨時オーストリア国民委員会も結成して抵抗運動を本格化していました。
◆12月15日、連合国軍、インスブルックを大規模爆撃。48機のB17爆撃機と39機のP38戦闘爆撃機により126トンの爆弾を投下し、民間人約800人を死傷させます。空襲警報システムも防空壕もありませんでした。

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 1944年(21〜22歳)

●スイトナー、インスブルック帝国大管区テアター第1楽長として在職。


●1月、スイトナー、インスブルック帝国大管区テアター。「リゴレット」高評価。
◆1月、インスブルック市、防空壕(トンネル)工事を開始。強制収容所の囚人や外国人労働者、ゲシュタポの教育キャンプに収容された人々を働かせて、11,332メートルのトンネル工事を計画し、数か月で8,901メートルを掘削。
●4月、スイトナー、ルートヴィヒ・シュッテ(ルズヴィ・スキューテ)のピアノ協奏曲嬰ハ短調 Op.28を演奏。共演はプルフマッハー指揮インスブルック帝国大管区管弦楽団。
●5月、スイトナー、インスブルック帝国大管区テアター。レハール「ヒバリの鳴くところ」
◆6月、連合国軍、インスブルックを爆撃。
●7月、スイトナー、インスブルック宮のリーゼンザールでセレナーデ・コンサート開催。
●9月1日、ゲッベルス国家総力戦総監の命令により、全ドイツの劇場(歌劇場)が閉鎖。
●スイトナー、ゲッベルスの劇場閉鎖令により失職。
●9月、スイトナー、インスブルック大管区首都音楽学校のホールでピアノ・リサイタル。ベートーヴェン第30番、他。


◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果もほとんどありませんでした。
◆10月18日、連合国軍、ドイツに対する空爆を24時間体制とし、民間人大虐殺体制を本格化。ちなみに第2次大戦中にドイツに投下された爆弾は、のべ70万機の爆撃機が出撃し、作戦期間も長かったことから約160万トンとも言われており、日本に投下されたとされる約17万トンを大幅に上回っています。もっとも、日本の場合は大戦末期におこなわれたため、最初から民間人大虐殺を目的としていたことと、焼夷弾や原爆など新型爆弾が投入されたため、投下トン数に比して死者の数は膨大なものとなっています。また、連合国軍戦闘機による女性や子供を含む民間人への機銃掃射命令はドイツでも日本でも着実に実行されていました。
◆10月20日、科学・教育・文化大臣のベルンハルト・ルストの命令により、すべての美術・音楽大学が閉鎖。
◆12月、連合国軍、インスブルックでの爆撃を再開。ドイツへの爆撃と同じく、軍や交通機関、工場などの戦略目標ではなく、民間人を虐殺することで士気を低下させる作戦に変更。学校や病院、住宅地などを中心にクラスター爆弾を投下しています。

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 1945年(22〜23歳)

◆2月13〜14日、連合国軍、ドレスデン空爆により3万人から15万人を殺害。
◆2月23〜24日、連合国軍、プフォルツハイム空爆により2万人以上を殺害。
◆連合国軍、インスブルックを連日のように爆撃。多くの建物が破壊されています。
◆4月30日、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
●スイトナー、指揮者としての仕事がほとんど無かったため、ピアニストとして活動。


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 1946年(23〜24歳)

●スイトナー、主にピアニストとして活動。
◆4月、「ドイツ社会主義統一党(SED)」が成立。前年に設立された「ドイツ共産党(SPD)」と「ドイツ社会民主党(KPD)」が合体。
◆4月、「自由ドイツ青年同盟(FDJ)」創設。「ドイツ社会主義統一党(SED)」の下部組織で、ソ連の「コムソモール」に相当。
◆ドイツのソ連占領地域で、教育制度改革実施。これにより、8年間の共通教育の後、2年間の職業教育コースと大学進学コースへの準備期間が設定。
◆ドイツのソ連占領地域に、国営映画会社「DEFA」設立。
●8月、スイトナー、第1回ブレゲンツ音楽祭に出演。モーツァルトのオペラ「バスティアンとバスティエンヌ」と、バレエ化した「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の湖上舞台での上演を指揮。オーケストラはフォアアールベルク放送管弦楽団。


●8月、スイトナー、第1回ブレゲンツ音楽祭に出演。スワロフスキー指揮ウィーン交響楽団との共演で、ハイドンのピアノ協奏曲ニ長調を演奏。

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 1947年(24〜25歳)

●スイトナー、主にピアニストとして活動。

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 1948年(25〜26歳)

●スイトナー、主にピアニストとして活動。
●スイトナー、マリア・リタ(マリタ)・ヴィルケンス[1924-2008]と結婚。
◆6月20日、米英仏占領区域で通貨改革。

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 1949年(26〜27歳)

●スイトナー、主にピアニストとして活動。
◆4月、北大西洋条約機構(NATO)発足。
◆9月、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。
◆10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。

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 1950年(27〜28歳)

●スイトナー、主にピアニストとして活動。
◆10月、東ドイツ、第一回人民議会選挙。SEDが70%の議席獲得。

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 1951年(28〜29歳)

●スイトナー、主にピアニストとして活動。
◆東ドイツ、社会主義的教育計画の実施が本格化。

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 1952年(29〜30歳)

◆2月、東ドイツ、国家保安省(シュタージ)設置。
●スイトナー、西ドイツのレムシャイト市立テアターと契約。音楽監督。


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 1953年(30〜31歳)

●スイトナー、レムシャイト市立テアター音楽監督在職。


●スイトナー、バンベルク響。グリーグ「ペール・ギュント」。DGに録音。
◆3月5日、スターリン死去。
◆3月、東ドイツ、経済の悪化により西側への移住が増加。
◆6月、東ベルリン暴動発生。東ベルリンの「スターリン通り」建設に際し、労働者が厳しいノルマに対して反発。これをきっかけに東ドイツ各地で蜂起が発生するものの、ソ連の武力介入により鎮圧。死者は民衆側と政府側を合わせて数百名規模。
◆東ドイツ、食糧配給制実施。

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 1954年(31〜32歳)

●スイトナー、レムシャイト市立テアター音楽監督在職。


●スイトナー、ベルリン交響楽団に客演。以後、何度も客演することになります。

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 1955年(32〜33歳)

●スイトナー、レムシャイト市立テアター音楽監督在職。


◆5月、ワルシャワ条約機構発足。ソ連主導の軍事同盟。
◆9月8日、西ドイツ、アデナウアー首相がモスクワを訪問し、ソ連と国交を樹立。ドイツ人捕虜が帰国できるよう交渉。
◆9月22日、西ドイツ、アデナウアー首相により、「ハルシュタイン・ドクトリン」が宣言。東ドイツを国家として承認する国とは断交することを表明。これは東ドイツを経済面で破綻させ、崩壊させるための作戦で、西ドイツは実際に、ユーゴスラヴィア、キューバと断交していました。もっとも、肝心のソ連が除外されていたので、ただのプロパガンダに過ぎないという見方もあります。
◆11月、西ドイツ、ドイツ連邦軍の正式発足に伴い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟。再軍備の準備は1950年からおこなわれていましたが、長年のフランスの反対で時間がかかりました。

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 1956年(33〜34歳)

●スイトナー、レムシャイト市立テアター音楽監督在職。


◆3月、東ドイツが再軍備を開始。志願制の人民軍を創設。前年11月の西ドイツ再軍備に対応して1月に法制化されたもので、ワルシャワ条約機構にも加盟。
◆10月、ハンガリー動乱。ハンガリーの共産主義政権に対して蜂起した市民たちを制圧すべくソ連が軍事介入。市街戦の様相を呈した「ハンガリー動乱」は、死傷者1万7千人という犠牲を出し、難民の数も20万人とも言われる大惨事。ウィーン郊外の収容施設には、膨大な数の難民が受け入れられ、中には音楽家たちも数多く含まれていました。

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 1957年(34〜35歳)

●スイトナー、レムシャイト市立テアター音楽監督を退任。


●3月、スイトナー、ベルリン交響楽団に客演。
●スイトナー、バンベルク響。リスト「マゼッパ」「オルフェウス」。DGに録音。
●9月、スイトナー、プファルツ管弦楽団(現ラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団)の音楽監督に就任。

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 1958年(35〜36歳)

●スイトナー、プファルツ管弦楽団音楽監督在職。
◆5月、東ドイツの食糧配給制が廃止。食糧事情が安定。

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 1959年(36〜37歳)

●スイトナー、プファルツ管弦楽団音楽監督在職。

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 1960年(37〜38歳)

●8月、スイトナー、プファルツ管弦楽団音楽監督退任。
◆9月、東ドイツ、ヴァルター・ウルブリヒトが、初代の「国家評議会議長」に就任。ウルブリヒトは、党の第一書記は1971年に健康問題を理由に辞任させられるものの、「国家評議会議長」には1973年に亡くなるまで留まっています。
●9月、スイトナー、ドレスデン国立オペラの音楽総監督に就任し、シュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者も兼務。


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 1961年(38〜39歳)

●スイトナー、ドレスデン国立オペラ音楽総監督兼シュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者在職。


●ハンス=ペーター・フランク[1937- ]、ドレスデン国立オペラと契約し、スイトナーの助手に。
●スイトナー、ドレスデン国立オペラ。「ばらの騎士」初演50周年記念公演で成功。
◆春、東ドイツの経済が急速に悪化。ウルブリヒトの農業政策の失敗が原因。
◆5月、東ドイツ、バターと肉が配給制に。
●5月、スイトナー、シュターツカペレ・ドレスデン。プラハの春音楽祭に出演。
◆6月15日、ウルブリヒト議長が議会で壁を建設するつもりはないと発言。
◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。
◆8月13日、東ドイツ、ホーネッカーの指揮で「ベルリンの壁」の建設を開始。


●ベルリン国立オペラ、「ベルリンの壁」の影響で運営の危機。


◆9月15日、東ドイツ「国境警備隊」が人民軍に編入。越境者の監視任務につき、必要な場合は、越境者が分離帯に入った時点で銃撃などで対応。監視塔は約300設置されることになり、200人近くが射殺されています。

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 1962年(39〜40歳)

●スイトナー、ドレスデン国立オペラ音楽総監督兼シュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者在職。


◆1月、東ドイツ、兵役を義務化。
●7月28日、ベルリン国立オペラ音楽総監督、フランツ・コンヴィチュニー[1901-1962]ベオグラードで客死。
●スイトナー、ベルリン国立オペラ音楽総監督就任について打診されます。
◆10月、キューバ危機。

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 1963年(40〜41歳)

●スイトナー、ドレスデン国立オペラ音楽総監督兼シュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者在職。


●1月、ベルリン国立オペラ総監督(インテンダント)で演劇人のマックス・ブルクハルトが退任し、チェンバロ奏者で、ドイツ社会主義統一党(SED)のハンス・ピシュナーが総監督に就任。
●スイトナー、東ドイツ政府より国家賞(芸術・文学部門第2等)を授与。
●スイトナー、シュターツカペレ・ドレスデン。ソ連ツアーを実施し、レニングラード、モスクワ、リガ、ヴィリニュス、ミンスクで演奏。

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 1964年(41〜42歳)

●スイトナー、ドレスデン国立オペラ音楽総監督兼シュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者を辞任。


●夏、スイトナー、バイロイトで「タンホイザー」を指揮。
●9月、スイトナー、ベルリン国立オペラの第1音楽総監督(シュターツカペレ・ベルリンも兼務)に就任。ハインツ・フリッケ[1927-2015]、ハインツ・レーグナー[1929-2001]との音楽総監督三人体制。


●10月、スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。ベルリン・フェストターゲ。シェーンベルク「5つの管弦楽の為の小品」、アイスラー「小交響曲」、「火の鳥」、他。
◆10月、フルシチョフ失脚。
◆10月、ブレジネフが最高指導者に。
◆11月、東ドイツ、退職年齢者(男65歳以上・女60歳以上)のみ西ドイツ訪問を許可。戻らない場合が多かったため、実際には国家の負担軽減が目的とされています。
●スイトナー、イタリアで活動していたソプラノのチェレスティーナ・カサピエトラの実力を高く評価。翌年から1993年までの28年間、ベルリン国立オペラで歌うことになります。


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 1965年(42〜43歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケ、レーグナーとの音楽総監督三人体制。
●スイトナー、東ドイツ政府より国家芸術賞を授与。
●3月、スイトナー、オイストラフ、シュターツカペレ・ベルリン。モーツァルト、E.H.マイヤーVn協(初演)、ブラームス第4番。
●夏、スイトナー、バイロイトで「さまよえるオランダ人」を指揮。
●スイトナー、バイロイトの事務局でインターンとして働いていた西ドイツ人学生のレナーテ・ハイツマン[1941- ]と恋愛関係に。
●チェレスティーナ・カサピエトラ、ベルリン国立オペラと契約。スイトナーの推挙によるものでした。カサピエトラはのちにヘルベルト・ケーゲルと結婚。
●10月、スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。ベルリン・フェストターゲ。デッサウ「モーツァルトによる交響的適応」(初演)、モーツァルト:協奏交響曲 K364、レーガー「モーツァルト変奏曲」。

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 1966年(43〜44歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケ、レーグナーとの音楽総監督三人体制。
●スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。ウィーン・フェストヴォッヘンに出演。
●夏、スイトナー、バイロイトで「ニーベルングの指環」を指揮。
●11月15日、スイトナー、ベルリン国立オペラ。デッサウ「プンティラ」初演。

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 1967年(44〜45歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケ、レーグナーとの音楽総監督三人体制。
●5月、スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。プラハの春音楽祭に出演。
●夏、スイトナー、バイロイトで「ニーベルングの指環」を指揮。
●9月、スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。ベルリン・フェストターゲ。デッサウ「嵐の海」、他。

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 1968年(45〜46歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケ、レーグナーとの音楽総監督三人体制。
◆8月、チェコ民主化運動事件「プラハの春」発生。25万人から成るワルシャワ条約機構軍(ソ連、東ドイツ、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー)が、戦車2,000輌、軍用機800機の規模でチェコスロヴァキアに侵攻し、すぐに全土を占領。ピーク時の展開人数は約50万人、戦車は6,300輌に達しましたが、チェコ軍は一貫して無抵抗、武装市民による攻撃をやめさせるための展開となり、死者は武装市民側が137人、占領軍側が112名という結果。また、一般市民の国外脱出に特に制限が無かったため、人口の約0.5%にあたる7万人の市民が国をあとにしています。

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 1969年(46〜47歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケ、レーグナーとの音楽総監督三人体制。
●10月、スイトナー、サンフランシスコ・オペラに客演。「ニーベルングの指環」を指揮。ニルソンとリザネクのアメリカ・デビュー25周年記念公演でもありました。スイトナーは古風な爆音ではなく透明感のある演奏を聴かせたと絶賛されます。
◆10月、西ドイツ首相にヴィリー・ブラントが就任。ソ連・東欧との友好路線を強化。

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 1970年(47〜48歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケ、レーグナーとの音楽総監督三人体制。
◆8月、「ソ連=西ドイツ武力不行使条約」が締結。「デタント(緊張緩和)」が進められ、政治的不安が大きく減退。

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 1971年(48〜49歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケ、レーグナーとの音楽総監督三人体制。
●5月3日、ヴァルター・ウルブリヒト[1893-1973]、健康上の問題でドイツ社会主義統一党第一書記の座を親ソ連型政治家のエーリヒ・ホーネッカー[1912-1994]に譲り、自身は名誉職の国家評議会議長として療養生活に入ります。
  これはウルブリヒトが1963年から推進してきた自由度の高い経済改革を快く思っていなかったブレジネフにとっても好都合で、親ソ連のホーネッカーは、さっそく改革を否定する経済政策に切り替えています。これは多くの東ドイツ人にとっては衝撃の展開でした。
●スイトナー、ベルリン放送交響楽団(東)を率いて西ベルリンのフィルハーモニーで公演。
●スイトナー、ベルリン国立オペラ。「影の無い女」。大成功。演出はクプファー。
●7月31日、スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督を退任。
●10月、スイトナー、サンフランシスコ・オペラに客演。「マイスタージンガー」を指揮。
●12月、スイトナー、NHK交響楽団に初めて客演。
●12月31日、スイトナーの息子、イゴール・ハイツマン、西ドイツ北部、シュレスヴィヒホルシュタイン州レンツブルクで誕生。

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 1972年(49〜50歳)

◆6月、「ベルリン協定」が発効。前年に連合国4各国の外相らにより同意されていたもので、西ドイツとベルリンの間の交通・通信の十分な確保と、西ベルリンから東ドイツへの入国も認めるというソ連の決定、および米英仏による西ドイツと西ベルリンの連携が決定。四半世紀以上に渡って東西緊張の場となっていたベルリンの状況が改善した「通過交通協定」。
●10月、スイトナー、サンフランシスコ・オペラに客演。「ニーベルングの指環」を指揮。
●12月、スイトナー、ウィーン国立オペラに客演。「さまよえるオランダ人」を指揮。総監督はルドルフ・ガムスイェーガー[1909-1985]。
◆12月、「東西ドイツ基本条約」が東ベルリンで署名されて締結。1973年6月に発効。

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 1973年(50〜51歳)

●スイトナー、ローマ教皇パウロ6世より聖グレゴリー勲章を授与。
●1月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。
●スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。パリ公演。マーラー「巨人」などで大成功。
●スイトナー、NHK交響楽団より名誉指揮者の称号を授与。
◆6月、「東西ドイツ基本条約」発効。緊張の緩和。
●6月、スイトナー、ウィーン国立オペラに客演。「さまよえるオランダ人」を指揮。
●8月1日、ヴァルター・ウルブリヒト国家評議会議長死去。
●10月、スイトナー、サンフランシスコ・オペラに客演。「タンホイザー」と「エレクトラ」を指揮。

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 1974年(51〜52歳)

●2月、スイトナー、ベルリン国立オペラ。デッサウ「アインシュタイン」初演。
●3月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。
●6月、スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督に復職。フリッケとの音楽総監督二人体制。レーグナーはベルリン放送交響楽団音楽監督に専任。
●9〜10月、スイトナー、サンフランシスコ・オペラに客演。「パルジファル」と「サロメ」を指揮。
◆10月7日、東ドイツ、建国25周年を機に憲法を改正。
●12月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。

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 1975年(52〜53歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●夏、児玉宏[1952- ]、ザルツブルク国際夏期講習会で、スイトナーの指導を受けます。
●9月、スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。ベルリン・フェストターゲ。デッサウ「ベルトルト・ブレヒト追悼」、他。

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 1976年(53〜54歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ベルリン・ドイツ・オペラに客演。
●5月、スイトナー、フィレンツェ5月祭。デッサウ「アインシュタイン」
●夏、中島良史[1944- ]、ザルツブルク国際夏期講習会で、スイトナーの指導を受けます。
●9月、スイトナー、サンフランシスコ・オペラに客演。「ワルキューレ」
●11月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。

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 1977年(54〜55歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
◆東ドイツでコーヒー危機。ブラジル産コーヒーの急騰により、東ドイツ政府は外貨節約のため(石油輸入にまわすため)、コーヒーなどの嗜好品輸入を制限。国民は猛反発。これが1980年以降の東ドイツとベトナムの関係強化に直結。東ドイツの支援でベトナムはコーヒー農園の面積を14倍に拡大、コーヒー生産に関わるベトナム人も1万人増やし、病院・学校を含めた集落を建設、水力発電、灌漑システム、建設機器などにも莫大な費用を投じています。これによりベトナムは巨大なコーヒー産地へと成長。もともと東ドイツは共産圏ということでベトナム戦争では北ベトナムを支持、戦時中の1973年には、エテルナ・レーベルから、スイトナーやボンガルツ、マズア、ケーゲル、コッホらクラシックのアーティストの音源を集めた応援LPも発売されたりしていました。
●スイトナー、ベルリン国立オペラ。「パルジファル」。大成功。演出はクプファー。
●スイトナー、ベルリン国立オペラ。日本への引越公演。フリッケ、フライヤーが同行。「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「コジ・ファン・トゥッテ」

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 1978年(55〜56歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●スイトナー、ベルリン交響楽団。ハンブルク州立オペラ300周年記念公演シリーズに参加。マーラー「復活」、他。


●スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。日本ツアー。ベルリン国立オペラでは1か月近くオケ無しの状態が続くこととなりました。
●朝比奈千足[1943- ]、ベルリン国立オペラと契約し、スイトナーの助手に。朝比奈隆の息子。
●12月、スイトナー、NHK交響楽団に客演(翌月まで)。

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 1979年(56〜57歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
◆EMS(欧州通貨制度)設置。EEC(欧州経済共同体)加盟国間での通貨変動を年間±2.5%以内に抑制し、為替相場を安定。これにより西ドイツ・マルクが台頭。イギリスは1990年から1992年の期間のみ参加。
●1月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。
●夏、スイトナー、ワイマールで開催された「国際夏季音楽講習」で指揮を指導。
●11月、スイトナー、ベルリン放送交響楽団(東)を率いて西ベルリンで公演。アルプス交響曲など。
●11月24日、スイトナー、ベルリン国立オペラ。デッサウ「レオンスとレーナ」初演。

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 1980年(57〜58歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●スイトナー、イェーテボリ交響楽団に客演。
●11月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。
●スイトナー、ベルリン国立オペラ。日本への引越公演。「魔笛」「ジュリアス・シーザー」「セヴィリアの理髪師」

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 1981年(58〜59歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●スイトナー、セバスティアン・ヴァイグレ[1961- ]をシュターツカペレ・ベルリンの首席ホルン奏者として採用。オーディションは1時間半に及び、ヴィブラートの無い音を要求されて合格。以後1997年まで在任する一方で、1990年には指揮者としての活動を開始、2019年には読売日本交響楽団常任指揮者に就任しています。
●スイトナー、シュターツカペレ・ベルリンの日本公演に同行。
●11月、スイトナー、サンフランシスコ・オペラに客演。「ワルキューレ」を指揮。

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 1982年(59〜60歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●4月、スイトナー、シュターツカペレ・ドレスデン。クルトゥーアパラスト。R.シュトラウス:Vn協、「ティル」、他。
●スイトナー、東ドイツ政府より国家賞(芸術・文学部門第1等)を授与。賞金は教会に寄付。
●スイトナー、フランクフルト・ムゼウム管弦楽団。ベルク:3つの管弦楽曲、他。


●7月17日、スイトナー、バークシャー・ミュージック・センター管弦楽団で「グレート」を指揮。
●7月、スイトナー、ボストン交響楽団に客演。ブレンデルとのモーツァルト20番ほか。。
●12月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。

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 1983年(60〜61歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。その部下の常任指揮者としてジークフリート・クルツが参加。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●スイトナー、ベルリン国立オペラ。プフィッツナー「パレストリーナ」
●スイトナー、ベルリン国立オペラ。日本への引越公演。クルツが同行。「タンホイザー」「フィデリオ」「さまよえるオランダ人」
●ベルリン国立オペラ、大規模修復工事(1986年まで)。

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 1984年(61〜62歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●1月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。
●10月、ベルリンのシャウシュピールハウス再建記念コンサートが、ザンデルリングらの指揮するベルリン交響楽団によって開催。スイトナーとシュターツカペレ・ベルリンの演奏会も、以後はここでおこなわれるようになります。
●ベルリン国立オペラ、大規模修復工事。
●スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。日本ツアー。

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 1985年(62〜63歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●2月、スイトナー、心臓疾患のため、NHK交響楽団への客演をキャンセル。代役は渡邉暁雄と山田一雄。
◆3月、ゴルバチョフ、ソ連最高指導者に選出。ペレストロイカ(再構築、リストラクチャー)を前面に掲げて改革を推進。
●ベルリン国立オペラ、大規模修復工事。

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 1986年(63〜64歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
◆ゴルバチョフ、グラスノスチ(情報公開)を本格化。
●2月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。
●11月、ベルリン国立オペラ、大規模修復工事完了。
●12月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。

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 1987年(64〜65歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●スイトナー、ベルリン国立オペラ。日本への引越公演。クルツが同行。「マイスタージンガー」「フィガロの結婚」、他

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 1988年(65〜66歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ第1音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
●3月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。
●10月、スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。モーツァルト:クラリネット協奏曲、他。
●10月17〜20日、スイトナー、小川京子、ベルリン放送大交響楽団とルートヴィヒ・シュッテ(ルズヴィ・スキューテ)のピアノ協奏曲嬰ハ短調 Op.28を世界初録音。スイトナーがオーケストレーションしたヴァージョンを使用。スイトナーは44年前の1944年のインスブルックでのコンサートで、この曲のソリストを務めていました。

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 1989年(66〜67歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
◆1月15日、ライプツィヒで、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの追悼行事とデモがおこなわれ約1万4千人が参加。逮捕者80名。
◆5月、民主化推進中のハンガリーのネーメト首相、オーストリアとの約350kmの国境線から鉄条網と警報装置の撤去を決定。
◆9月4日、ライプツィヒ、「月曜デモ」。
◆9月、ハンガリーのネーメト首相、東ドイツとの国境を開放。約20万人の東ドイツからの転出者を受け入れたのち、西ドイツのコール首相から難民受け入れの承諾をとって出国させています。
◆9月10日、東ドイツで反体制団体「ノイエス・フォールム」が結成。ホーネッカー政権に対する反政府運動を開始。
◆9月、ホーネッカー議長、チェコとの国境を閉鎖。
◆9月25日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約8千人規模に拡大。
●10月5日、スイトナー、ベルリン国立オペラ(アポロザール)。モーツァルト「劇場支配人」、サリエリ「まずは音楽、おつぎが言葉」
●10月7,8日、スイトナー、シュターツカペレ・ベルリン。落成したオペラ・バスティーユ(2,703席)のオープニング・シリーズで演奏。
  ちなみに「オペラ・バスティーユ」を新拠点とするパリ国立オペラの音楽監督に就任が決まっていたバレンボイムは、この3か月後の1990年1月、就任直前に解任されています。理由は、バレンボイムを音楽監督に決めたときの保革共存政権のシラク内閣(保守)が、1988年5月に社会党のロカール内閣に置き換えられ、ミッテラン大統領(社会党)との組み合わせによって強力な社会党政権となり、ほどなく緊縮財政へと舵を切ったためです。
  14年間務めたパリ管弦楽団の音楽監督を退任してパリ国立オペラの音楽監督になることを決めたバレンボイムに対し、約束した報酬は払えないし、報酬の高い歌手による舞台も必要ない、座席が満席になる必要もないなどとして解任しています。
  緊縮財政の背景には、当時の社会主義諸国の財政破綻ムードのほか、1989年6月におこなわれたECの欧州議会フランス割り当て分81議席をめぐる選挙で、保守連合が約524万票、社会党系が約428万票と、約100万票の差を付けたフランスの民意(投票率は約49%)に対して、フランスの社会党政治は財政破綻とは無縁だと改めて訴求する意図があったと考えられます。
  ともあれバレンボイムはこれにより、翌1991年からシカゴ交響楽団音楽監督(2006年まで15年間)、1992年からはスイトナーの後任としてベルリン国立オペラ音楽総監督(現在29年目!)という良いポジションを手に入れることになったので、結果的には緊縮財政さまさまだったということになります。


◆10月9日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約7万人規模に拡大。
◆10月16日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約10万人規模に拡大。ホーネッカー議長は軍に武力鎮圧を命じるものの、シュトレーレッツ大将は拒否。
◆10月18日、ホーネッカー議長辞任。
●10〜11月、スイトナー、NHK交響楽団に客演。
◆11月9日、「ベルリンの壁」崩壊。
◆東ドイツから西側への転出者が約34万人。

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 1990年(67〜68歳)

●スイトナー、ベルリン国立オペラ音楽総監督在職。フリッケとの音楽総監督二人体制。
●スイトナー、ウィーン音楽・舞台芸術大学に指揮科教授として在籍。
◆2月、東西ドイツ通貨統合案の策定。実勢レートで4.4倍の差がある西ドイツ・マルクと東ドイツ・マルクを1:1の対等な比率で交換することで、東ドイツ国民の財産が4.4倍になるというプラン。
◆3月1日、東ドイツに「トロイハント信託公社」設立。人民の財産と称する国営企業の資産(400万人以上が働く約8,500社の資産)を、西側に売却する為につくられた組織。


◆3月18日、東ドイツの人民議会選挙で、西ドイツとの経済連携や、1対1の通貨交換を強く訴求したキリスト教民主同盟(CDU)とその同盟勢力が、48%以上の票を獲得。
●夏、スイトナー、ベルリン国立オペラ音楽総監督を辞任。パーキンソン病のため。


◆7月1日、東西ドイツの「通貨同盟」により、東ドイツのマルクを西ドイツのマルクに1対1で交換し、マルクを統合(東ドイツのマルクを廃止)。実質的には通貨価値に4.4倍(10〜20倍という見方も)の格差があったにもかかわらず、6千マルクまでは1対1で交換したため、東ドイツの物価や手数量が3倍から4倍ほどに急上昇。ドイツ・マルクの外国為替相場にも顕著に反映され、統合前に69円前後だったマルク/円は、統合により一時は94円ほどまで上昇(1.36倍!)し、輸出競争力も大幅に低下してしまいます。
◆10月3日、ドイツ統一。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)にドイツ民主共和国(東ドイツ)を編入する形で統一したため、ドイツ連邦共和国はそのままの名前で領土と人口が増え、ドイツ民主共和国が消滅したことになります。また、トロイハント信託公社による東ドイツから西側への国有資産売却のため、急速に人員解雇が進められ、7月の「通貨同盟」(東西マルク対等交換)効果による東ドイツ地域でのインフレも手伝って、東ドイツ経済が崩壊。約1,600万人の人口に対し、失業者は数百万人に達し、多くの東ドイツ人たちに深刻な影響が及びます。


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 1991年(68〜69歳)

◆4月、「トロイハント信託公社」総裁のデトレフ・ローヴェッターがライフル銃で暗殺。ドイツ赤軍が犯行声明を出しているものの、犯人は不明。ローヴェッターはドイツ社会民主党(SPD)のメンバーで、後任のキリスト教民主同盟(CDU)議員ビルギット・ブロイエルは、西ドイツのニーダーザクセン州経済労働大臣でした。

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 1992年(69〜70歳)

◆1月、エリツィン、貿易、価格、通貨の自由化と緊縮財政策を導入し、市場経済への移行を準備。国債も大量に発行。
◆ロシアで前年比2500%を超えるハイパーインフレ状態となり、市民生活の質が大幅に低下。GDP下落率もマイナス14.5%を記録。
◆10月、ロシアの国有資産を民間に移行できるよう株式売買制度を改革。制度を利用して新興財閥が続々と誕生。

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 1993年(70〜71歳)

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 1994年(71〜72歳)

◆5月29日、元社会主義統一党中央委員会書記のエーリッヒ・ホーネッカー、チリのサンティアゴで死去。1989年の失脚後、1991年にソ連に亡命、1992年にドイツに戻され、1993年に訴追免除となったのち、娘の住むチリに渡り、翌年に肝臓がんにより81歳で死去。

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 1995年(72〜73歳)

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 1996年(73〜74歳)

●1月、スイトナー、シュターツカペレ・ベルリンに久しぶりの客演。しかしリハーサルの後半で体調を崩し、代役としてセバスチャン・ヴァイグレが指揮をすることになります。

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 1997年(74〜75歳)

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 1998年(75〜76歳)

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 1999年(76〜77歳)

◆1月1日、ユーロ導入。当面は帳票上の通貨。現物の流通は2002年1月1日から。

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 2000年(77〜78歳)

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 2001年(78〜79歳)

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 2002年(79〜80歳)

●5月25日、スイトナー、ウィーンで80歳の誕生日を、バレンボイムらと祝います。

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 2003年(80〜81歳)

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 2004年(81〜82歳)

●スイトナー、生地のチロル州政府より芸術賞を授与。

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 2005年(82〜83歳)

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 2006年(83〜84歳)

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 2007年(84〜85歳)

●スイトナーの息子、イゴール・ハイツマン、父についてのドキュメンタリー映画「Nach der Musik(音楽の後で)」(105分)を制作。

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 2008年(85〜86歳)

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 2009年(86〜87歳)

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 2010年(87〜88歳)

●1月8日、スイトナー、ベルリンで死去。
●1月、スイトナー、ベルリン、フリードリヒスヴェルダー教区のドロテーンシュタット墓地に埋葬。プロテスタントの墓地でした。


商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィル
クナッパーツブッシュ&国立歌劇場管
クナッパーツブッシュ&レジェンダリー・オーケストラ
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー(ドヴォルザーク)
スイトナー(レジェンダリー)
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
マルケヴィチ
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー(ブルックナー)
レーグナー(マーラー)
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
レビン

室内アンサンブル
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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これはね、素晴らしい演奏ですよ。ドヴォル...

投稿日:2022/01/18 (火)

これはね、素晴らしい演奏ですよ。ドヴォルザークを獨逸浪漫派交響曲作家の系譜で捉え、心を込めて演奏された名盤でございます。価格も安いので、是非お手に取られたし。

MATATABI さん | 神奈川県 | 不明

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スイトナーの演奏はN響とのモーツァルトや...

投稿日:2021/03/10 (水)

スイトナーの演奏はN響とのモーツァルトやブラームスをFMでよく聴いていました。 その後は体調を崩されて耳にする機会も減っていました。先日、父親の持っていたシャルプラッテンのドヴォルジァーク 6番のLPを見つけて聴いてみたら、これが素晴らしいではありませんか。変に力むこともなく自然で美しい音が響いていました。それでこのお値打ちな全集を購入した次第です。全曲とも綺麗な音色で本当に自然なドヴォルジャークです。 録音もかなり優秀だと思います。 シュターツカペレ・ベルリンはバレンボイムの指揮で聴くことが多くなりましたが、スウィトナーの時代の音はバランスが良く綺麗で「すぅー」としていますね。 ノイマンやクーベリックも良いですが、透明感があって美しいスウィトナーのドヴォルジァーク。素晴らしい演奏でした。 皆さんも聴いてみてください。おすすめです。

rela-cla88 さん | 愛知県 | 不明

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録音された年代を見ると、DENONでPCM録音に...

投稿日:2020/08/10 (月)

録音された年代を見ると、DENONでPCM録音によるベートーヴェン交響曲全集を録音していたタイミングと重なります。  指揮者もオケも充実のころの演奏でうまいし渋い。ドイツ・シャルプラッテンが原盤だと思いますが、音も優しく温かい。これがこのオケの音なのだと思います。おまけにブリリアントになってから安いとなったら買っておくという判断になりました。そして想定通り名演です。  ドボルザークの「新世界より」は中学の音楽の時間に習ったのが最初ですが、それ以来、2楽章も4楽章もふと口ずさんでいることがあります。最近、新規での録音はニュースになりませんが、ノイマン、クーベリックとともにそばに置いておきたい名演です。お勧めします。

M1959 さん | 新潟県 | 不明

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