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交響曲第1番、第2番、第4番、ハイドン変奏曲、ドイツ・レクィエム フェルディナント・ライトナー&NHK交響楽団(1979-88年ステレオ)(3CD)

ブラームス(1833-1897)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
KKC2141
組み枚数
:
3
レーベル
:
:
International
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ブラームス:交響曲第1・2・4番、ドイツ・レクィエム、他
ライトナー&NHK交響楽団


フェルディナント・ライトナー[1912-1996]は、オペラもコンサートも得意としたドイツの指揮者。ベルリン高等音楽学校時代に、ブラームスと親しかった人物や、戦前のワーグナー家の信頼篤かった指揮者に教えを受けたという背景もあってか、ブラームスとワーグナーの演奏には定評がありました。
 今回登場する3枚組のブラームス・セットには、NHK交響楽団と共演した以下の作品が収録されています。

●交響曲第1番/1988年12月18日、サントリーホール
●交響曲第2番/1983年6月22日、NHKホール
●交響曲第4番/1983年7月14日、名古屋市民会館
●ハイドン変奏曲/1983年7月8日、NHKホール
●ドイツ・レクィエム/1979年2月21日、NHKホール

ベルリン高等音楽学校時代の師の中の二人、ユリウス・プリュヴァーとロベルト・カーンはブラームス本人と親しかったということで、ブラームスとは縁のあるライトナーだけに、こうしてブラームスの作品がまとまった形で登場するのは朗報です。
 ライトナーは34歳から72歳までの長きに渡ってオペラハウスの要職に就いて多忙だったこともあってか、レコーディングにはあまり恵まれておらず、ブラームスの録音もシュトゥットガルト歌劇場管弦楽団とのハイドン変奏曲と、NHK交響楽団のハイドン変奏曲、および歌曲のピアノ伴奏をしたものがあったくらいでした。
 なので、交響曲3曲とハイドン変奏曲、ドイツ・レクィエムという傑作ぞろいの内容は嬉しい限り(ハイドン変奏曲については、2001年に発売されていたものと同じですが新たにマスタリングしています)。
 ちなみにライトナーの初来日は1964年で、カペラ・コロニエンシスを率いての公演でした。以後、1990年のNHK交響楽団への客演までの四半世紀以上、折にふれて日本を訪れて日本の聴衆を楽しませてくれたライトナーの貴重な遺産です。


【交響曲第4番 第2楽章 練習番号B】
交響曲第4番の演奏の傾向を知るのに便利な判定箇所といえるのが、第2楽章の練習番号Bの部分[30〜40小節]。この楽章の形式をソナタ形式の一種と見做した場合は、提示部第1主題部の中の経過部にあたるところで、演奏によるテンポ、ダイナミクス、バランス、リズム、フレージングなどの違いが出やすくなっており、指揮者の解釈の基本方針が反映されるケースも多いようです。
 この部分、音楽の流れとしては、練習番号Bの直前の、管楽器群(クラリネット、ファゴット、ホルン)のダイナミクスが「p」→ ディミヌエンド指定で音量低下、練習番号Bから「p」指定&トランペット追加で音量増大、そして弦楽器群が練習番号Bの直前に「pp」指定で、練習番号Bからは「p」指定ということでどちらも音量増大、テンポ変更は指定無しとなっていますが、実際の演奏では、テンポを落として、ダイナミクスも「pp」くらいに弱めてつなぎ目を滑らかにした後期ロマン派風(?)な仕上げが多くなっています。
 しかしライトナーとN響の演奏[Disc2 Track5 02:35-03:31]は楽譜通りで音楽の切り替わり感も明確。テンポも動かさず、ダイナミクスも指定通りに「p」で開始、なおかつ3連符のピツィカートを克明に響かせて推進力を意識させながらクレッシェンドして指定のダイナミクス「f」に達するため、力強く官能的なまでの高揚感が聴きものとなっています。作曲当時のブラームスは52歳。まだまだ枯れる年齢ではなく、実際に24歳年下の歌手ヘルミーネ・シュピース[1857-1893]と交際もしていたので、こうした甘美で生々しい演奏には説得力があります。
 この部分は演奏による違いがはっきりと出るところで、テンポを遅くして音量も下げる一般的なタイプに対し、たとえばクナッパーツブッシュ盤は練習番号Bからテンポを煽りまくって驚くほど煽情的な音楽にしていますし(練習不足のせいかオケはかなり乱れますが…)、チェリビダッケ盤は耽美的な陶酔感を非常に強く打ち出してもいました。
 ライトナー盤と同じく、この部分を楽譜通りに自然に盛り上げるタイプとしては、クレンペラー盤や、トスカニーニ盤、ジュリーニ盤、ケンペ盤、シューリヒト盤、ヤンソンス旧盤、マリナー盤、サヴァリッシュ旧盤、バーンスタイン&スタジアム響盤、クリップス盤などがありますが、そうした中でもピツィカートの扱いが立体的で巧みなライトナー盤のフォルムは格別です。この交響曲第4番はピツィカートとスタッカートがたいへん重要な役割を果たす作品でもあるため、こうしたリズム面での配慮が行き届いた演奏は歓迎されるところです。
 ちなみにブラームスが交響曲第4番を書いたのは1884年の夏と1885年の夏。近い時期には、ワーグナーの『パルジファル』、ヴェルディの『オテロ』、ブルックナーの交響曲第8番、マーラーの交響曲第1番、チャイコフスキーの交響曲第5番、ドヴォルザークの交響曲第7番、フランクの交響曲、サン=サーンスの『オルガン付き』、R=コルサコフの『シェエラザード』などといった作品が書かれており、さまざまな音楽のアイデアが作曲技法や楽器の性能の制約をあまり受けずに記譜されるようになった時期とみることもできます。
 ブラームスの場合も、必要なことは楽譜上に十分な精度で記載されているものと考えられるので、ライトナーのアプローチには好感が持てます。
 なお、この交響曲第4番の演奏は、1983年7月14日(木)、名古屋市民会館フォレストホール(2,291席)でおこなわれたもので、ライトナーのこの年の日本公演を締めくくるコンサートでした。N響も当時のライヴゆえ瑕疵はあるものの気合の入った演奏をおこなっており、目の詰んだ楽譜情報がしっかりと示されています。


【コレペティトア出身指揮者】
オペラハウスのコレペティトア(コレペティートア)からキャリアをスタートした指揮者は、作品の微細な部分から出演者と密接に関わったり、上演に際しての大小さまざまな問題に直面した経験から、人心掌握術と問題解決力に秀でた人物が多く、また、オペラの総譜をピアノに移す読み替え能力や、数多い出演者の歌唱スタイルをコーチして調整することで、大規模な作品でも常に隅々まで具体的に踏み込んでおり、そうした能力は、交響曲など声部の多い器楽作品でも十分に生かされることになると考えられます。
 たとえば木管楽器でもソロだけを目立たせるのではなく、2番手にも光を当てることで楽譜本来の立体感(陰影)が生み出されますし、また、さまざまな声部に目配りし続ける結果、感情過多に陥ることが少なくなり、結果としてフレーズやリズムも正確に維持されることで、作品の構成感(様式感)のよくでた仕上がりになるケースも多いようです。
 ライトナーはまさにそういったタイプの指揮者で、長年にわたる20世紀作品への取り組みと、そのことへの高評価も、そうした楽譜に対する誠実な対応が土台にあればこそ。
 20世紀のクラシック作品は、歌劇場やオーケストラなどの団体、音楽祭、あるいはソリストなどが、「作曲委嘱」した結果生み出されたものが大半で、運営状態によっては「作曲報酬=税金」になっているということで、適切な扱いが求められる中、繰り返し20世紀作品を上演して成功させる指揮者の実力にはかなり高度なものがあるといえます。
 ライトナーは、シュトゥットガルトとチューリヒの歌劇場で、通算40年近くに渡り、折にふれて20世紀作品を取り上げていますが、これは20世紀作品に積極的に取り組んだことで有名な戦前のクレンペラーよりもはるかに長い期間ということになります。


【ライトナー・プロフィール】
幼少期
1912年3月4日、ドイツ人の母と、ハンガリー人(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)の父とのあいだにベルリンに誕生。幼少期は家庭の都合で、ベルリンの南南東約280キロのプラハ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領)で暮らしており、第1次世界大戦の時代でありながら、3歳頃からドイツ・オペラに連れていかれるような恵まれた生活の中、ある日の演奏会で目撃したアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー[1871-1942]のユニークな指揮姿に衝撃を受け、指揮者になりたいという思いに駆られるようになります。

最初のピアノ・リサイタル
プラハで暮らしていた6歳のときにピアノのレッスンを受け始めたライトナーは、ベルリンに戻ってからも勉強を継続して上達し、1923年、11歳の時にはベヒシュタイン=ザールで初のピアノ・リサイタルを開催。

アインシュタインと共演
リサイタルで名を知られるようになったライトナーは、すでにノーベル物理学賞を受賞していた理論物理学者のアルベルト・アインシュタイン[1879-1955]と、14歳の時に室内楽で共演。生涯ヴァイオリン演奏を嗜んだアインシュタインは、ライトナー少年の演奏を大いに褒めてくれたということでした。
 その後、ライトナーはギムナジウムに通いながら職業音楽家を目指すようになり、さらにピアノの腕を磨きます。

ベルリン高等音楽学校
入学最低年齢16歳のベルリン高等音楽学校(ベルリン音楽アカデミーとも。現ベルリン芸術大学音楽学部)に、15歳で特別に試験を受けて入学。
 ベルリン高等音楽学校では、指揮をブルーノ・ワルター[1876-1962]、ピアノをアルトゥール・シュナーベル[1882-1951]、理論をパウル・ヒンデミット[1895-1963]、作曲を校長のフランツ・シュレーカー[1878-1934]らに師事。

ブラームスの孫弟子
同校ではほかに、ブラームスと親交があったユリウス・プリュヴァー[1874-1943]からカペルマイスター(楽長)としての教育を受けており、さらに、ブラームスの友人でもあったロベルト・カーン[1865-1951]に作曲を師事してもいました。これはブラームスの孫弟子といえる立場かもしれません。


戦前のワグネリアンの教え
一方で、ライトナーは、『パルジファル』の一大権威で、有名なワグネリアンでもあったカール・ムック[1859-1940]の助手として、1929年、17歳でバイロイト入りを果たしてもいました。
 ムックは、戦前のワーグナー家と親しく、コジマ[1837-1930]とジークフリート[1869-1930]が1930年に相次いで死去し、バイロイト音楽祭が、ジークフリートの未亡人でヒトラー礼賛のヴィニフレート・ワーグナー[1897-1980]に引き継がれるまではバイロイトを支え続けたという、いわば戦前のワーグナー家お墨付きの指揮者でもありました。
 ちなみにムックはアメリカが第1次世界大戦で宣戦布告した翌年、ボストン交響楽団の音楽監督としてアメリカに住んでいましたが、『星条旗』の演奏を拒否したことが原因で当局から睨まれ、さらに「ラジオ」が自宅にあったことをこじつけられてスパイとして逮捕された経験があります。アメリカ楽壇が、それまで長く続いた「親ドイツ」から、「反ドイツ」へと一気に転じた時代でした。

指揮者デビュー
バイロイト体験と同じ1929年、ライトナーは、ブラームス『ハイドンの主題による変奏曲』、リヒャルト・シュトラウス『ドン・ファン』、『町人貴族』組曲、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』前奏曲により指揮者デビュー。

クロール・オペラ
翌1930年にはワルターの推薦で、オットー・クレンペラー[1885-1973]率いるクロール・オペラの助手となり、第1指揮者のツェムリンスキーのもとで『サロメ』を手伝った際には、幼少期のツェムリンスキー体験を本人に伝えたといいます。

多方面にわたる指揮勉強
学生時代のライトナーは、すでに国際的な大物指揮者だったワルターの薫陶を受けたほか、ブラームスに通じたプリュヴァーとカーン、ナチ化前のワーグナー家と親しかったムックという面々と交流、以後、生涯に渡ってブラームスとワーグナーを得意とし、ドイツ=オーストリア系の音楽をレパートリーの中心として活躍することになります。
 ちなみにライトナーは生涯に、『ニーベルングの指環』を70回以上、『ローエングリン』を100回以上指揮していました。

ベルリン国立劇場 1931-1933
1931年、ベルリン高等音楽学校を卒業したライトナーは、ベルリンの国立劇場で演劇作品の伴奏音楽を作曲し指揮もする仕事に就きます。そこでの2年間の最後の時期、オスカー・ココシュカ[1886-1980]が舞台装置を受け持ったナチ批判演劇『おい戸を閉めろ、風が入る』の音楽を担当した際、誕生間もないナチ政権から睨まれることとなり、演出家は収容所に送られて殺害、音楽担当のライトナーにも、10年間指揮活動禁止という重い処分が下されます。
 ちなみに当時のライトナーは、労働者たちの合唱団の指揮もおこなっており、それが政治的活動とみなされて、処分が重くなったという面もありました。

伴奏ピアニスト
得票率92%超えの人気政党だったナチ党からの禁止処分により、ライトナーは苦境に立たされますが、ナチ受けの良いアーティストから指名があった場合には、ピアノ演奏をおこなうことができたため、母校の教授でもあったヴァイオリニストのゲオルク・クーレンカンプ[1898-1948]や、チェリストのルートヴィヒ・ヘルシャー[1907-1996]、歌手のエルナ・ベルガー[1900-1990]、マルガレーテ・クローゼ[1902-1968]、ワルター・ルートヴィヒ[1902-1981]、ハンス・ホッター[1909-2003]などの伴奏者、もしくは室内楽共演者として活動。ときには彼らの国外演奏旅行にも随行し、1933年にイタリアを訪れた際には、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の広大な空間に鳴り響くパレストリーナ作品を聴いて衝撃を受けたりもしています。
 こうして指揮活動禁止が解ける1943年までは、ピアノ演奏とピアノ教師、あるいは映画音楽に携わるなどして生計を立てていました。

グラインドボーン
その間、1935年には、ナチ政権を嫌って1933年に国を出ていたドイツ人指揮者フリッツ・ブッシュ[1890-1951]が、ライトナーを知ることとなり、自身、音楽監督を務める「グラインドボーン音楽祭」に彼を助手として雇い入れます。モーツァルトのオペラの優れた上演で知られたこの音楽祭で、ライトナー青年はモーツァルトのオペラ上演に関するノウハウも身につけていきます。
 こうした経験も役立ってか、ライトナーは生涯に、『魔笛』を250回以上、『フィガロの結婚』を200回以上指揮していました。

兵役とピアニスト復帰
ライトナーは1938年頃に兵役でドイツ国防軍の兵士となっていますが、無事に帰還することができ、除隊後にはピアニストとしての生活を再開、1940年11月には、カール・シュミット=ヴァルター[1900-1985]とシューベルトの『冬の旅』を録音しているほか、1943年にはルートヴィヒ・ヘルシャーとチェロ小品を録音してもいました。

ノレンドルフプラッツ劇場 1943-1945
ほどなくライトナーは、禁止期間も終えて指揮活動を再開。ベルリンのノレンドルフプラッツ劇場で終戦までオペレッタなどを指揮し、ドイツ・ポリドールにレコーディングもおこなっています。
 ライトナーはこの時期、1943年にカール・オルフ[1895-1982]と知り合って親しくなっており、オルフはその最晩年にも頻繁にライトナーに電話をかけてくるなど、2人の交流は約40年間も続きました。


終戦による社会環境の変化
戦争が終わると10万人以上のドイツ人が戦争犯罪裁判にかけられ、音楽界でもナチ関連疑惑のあった人物が続々と法廷に送られていたため、33歳のライトナー含め、潔白が明らかだった音楽家たちには大きなチャンスが訪れることになります。


ハンブルク国立歌劇場 第1楽長 1945-1946
ライトナーの戦後最初の職場となったのは、ベルリンの北西約260キロ、1943年8月に連合軍の爆撃によって破壊されたハンブルク国立歌劇場でした。
 同歌劇場は1946年のシーズン(1945-46)中に、管轄していたイギリスの軍政府によって仮設舞台での上演が許可されていますが、音楽監督のオイゲン・ヨッフム[1902-1987]にナチ協力の嫌疑がかけられ裁判となったため、軍政府はライトナーと契約、公演の指揮をまかせるようになり、その後、ヨッフムの助言で第1楽長にも就任しています。
 このときライトナーは、劇場の責任者だった監督で演出家のギュンター・レンネルト[1911-1978]と親しくなり、生涯に36のオペラ上演で共同作業をおこなうことになります。ライトナーは歌劇場オーケストラによるオーケストラ・コンサート(その際の名称はハンブルク国立フィル)も指揮していました。
 また、このときにピアノ伴奏を通じて知り合ったハンス・ホッター[1909-2003]にその実力を高く評価され、バイエルン国立歌劇場の指揮者になれるよう手配してもらったほか、「オペラ監督」に推挙されてもいました。


バイエルン国立歌劇場 オペラ監督 1946-1948
ベルリンに続いて北ドイツのハンブルクでオペラの実績を積んだライトナーは、次のシーズンにはホッターの手配によってアメリカの軍政府から招かれ、ハンブルクの南約600キロ、南ドイツのミュンヘンで、バイエルン国立歌劇場の「オペラ監督」という職を得ることになり転居。
 バイエルン国立歌劇場も、大劇場のナツィオナルテアターが連合軍の爆撃で破壊されていましたが、座席数1,000ほどのプリンツレゲンテン劇場が無事だったため、オペラがなんとか上演できる状態でした。
 バイロイトを模したこの豪華な劇場でオペラ上演が可能なことから、1945年8月には、早くも同歌劇場の戦前の音楽監督ハンス・クナッパーツブッシュ[1888-1965]が復帰宣言までおこなっていましたが、直後にナチ疑惑で裁判にかけられることとなり、また同歌劇場の戦前から戦時中の音楽監督クレメンス・クラウス[1893-1954]も同じく裁判にかけられ、さらにナチの聖地ということもあってか、バイエルン国立歌劇場管弦楽団の楽員の約40%がナチ関連疑惑でいったん解雇されるという状況になっていました。
 こういった背景から、バイエルン国立歌劇場の新しい音楽監督には、ナチ関連疑惑のまったく無い人物、たとえばユダヤ人などが求められることとなります(歌劇場の責任者である演出の監督には、ナチと不仲だったバイエルン人、ゲオルク・ハルトマン[1891-1972]が1945年に着任済み)。


 当時、アメリカの軍政府では占領区域の文化再建を進めており、その情報を知った亡命ユダヤ人のゲオルク・ショルティ[1912-1997]は、アメリカの軍政府の音楽士官の一人でかつて学友でもあった陸軍のエドワード・キレニー大尉[1910-2000]に手紙を書いて頼み込み、ミュンヘンのプリンツレゲンテン劇場とシュトゥットガルト歌劇場で『フィデリオ』を指揮する機会を獲得、軍政府の手配により、2年契約でバイエルン国立歌劇場「音楽監督」の地位を手にしています。
 当時のショルティは指揮者としての経験がほとんどなかったこともあってか、同年齢ながらオペラの経験も豊富だったライトナーが、同じく1946年にバイエルン国立歌劇場の「オペラ監督」として契約されていますが、ショルティはあくまでも自己流スタイルを貫いたため、ドイツの劇場での手法を重視したライトナーと深刻に対立することとなります。
 しかしライトナーは軍政府に何の後ろ盾もなく、しかもバイエルン州文化大臣のフランツ・フェント[1892-1982 ドイツ社会民主党]からは、ライトナーがベルリン生まれでバイエルン生まれではないことを理由に音楽監督就任に反対されていたという事情があり、さらに後任の文化大臣であるアロイス・フントハマー[1900-1974 キリスト教社会同盟]は同じカトリックのヨッフムを推したということで、1948年の初夏、ライトナーはミュンヘンの北西約190キロ、同じくアメリカの軍政府が統治するシュトゥットガルトに移って行きます。
 ちなみにショルティは、クナッパーツブッシュ派の抗議行動など、劇場内外のアンチな雰囲気、嫌がらせなどをものともせず、2年の契約を無事に更新しますが、ライトナーの穴を埋めるために「オペラ監督」に就任したオイゲン・ヨッフムは、バイエルン人のカトリック教徒で、なおかつすでに有名な指揮者だったこともあり、一公演当たりのショルティとの報酬格差は実に4倍もありました。
 しかしショルティは精力的に働いて40曲ものオペラを指揮しており、1951年には、バイエルン人のオルフが作曲した『アンティゴネー』も取り上げています。
 上演にあたっては、軍政府の音楽士官がストラヴィンスキー推しだったこともあってか、ショルティはリハーサルでオルフ本人を直接攻撃、作品もこきおろすなど、自己の信条に忠実かつ血気盛んなところを見せてもいました。ショルティおそるべしです。
 このことが原因かどうかは不明ですが、それからほどなく、ショルティはフランクフルト歌劇場に移ることになります(後年、サヴァリッシュがバイエルン国立歌劇場で執拗に『アンティゴネー』を上演し続けたのは意趣返しのようなものかもしれません。サヴァリッシュも実はシュトックハウゼンの演奏会で大声で「ダス・イスト・ニヒト・ムジーク!」と何度も大声で怒鳴り床を叩いて騒ぎ立てるほどの熱血漢でした)。
 ショルティはフランクフルト歌劇場で、アメリカの軍政府統治時代から高等弁務官統治時代とその終了時期以降の10年間音楽監督を務め、その間、クナッパーツブッシュのわがままが要因で、英デッカにレコーディングできることになった『指環』第1弾の『ラインの黄金』で世界的知名度を獲得。1959年にはバイエルン国立歌劇場で身につけた『ばらの騎士』の優れた解釈によってコヴェントガーデン王立歌劇場で成功し、2年後には同歌劇場の音楽監督に就任、10年間務めあげて帰化し「ナイト」の称号も獲得、以後はシカゴ響音楽監督として大きな名声を築き上げています。
 バイエルン国立歌劇場の音楽監督は、ショルティの後、ケンペ、フリッチャイ、カイルベルトと続き、カイルベルト急死の3年後の1971年にはサヴァリッシュ[1923-2013]が着任しています。
 ライトナーはその1971年の7月に久々にバイエルン国立歌劇場に客演、R.シュトラウスの『サロメ』をリザネク、ヴァルナイ、フィッシャー=ディースカウ、シュトルツェ、オフマンのキャストで指揮しています。ちなみに理由は不明ですが、サヴァリッシュはなぜか『サロメ』を指揮することがありませんでした。
 その3年後の1974年、ライトナーはバイエルン国立歌劇場の日本への引っ越し公演に同行、仲の良かったサヴァリッシュ、カルロス・クライバー[1930-2004]と共に来日し、ワーグナーとモーツァルトのオペラの指揮のほか、ワーグナー作品のオーケストラ・コンサートも任されています。
 それから15年を経た1989年10月、ライトナーは再びバイエルン国立歌劇場でR.シュトラウスの『サロメ』を指揮。ベーレンス、ルートヴィヒ、ハース、ウール、ネッカーらによる演奏でした。


アンスバッハ・バッハ週間 音楽監督 1947-1951
現在も続くバッハの音楽祭「アンスバッハ・バッハ週間」は、1947年にアメリカの軍政府の統治するバイエルン州バンベルク近郊ポンマースフェルデンのヴァイセンシュタイン城でスタートしています。
 音楽祭の発案者がチェロのルートヴィヒ・ヘルシャーとピアノのカール・ゼーマン、指揮のライトナーらに話を持ち掛けて始まったこの音楽祭は、荒廃したドイツに住む人々の心を捉えて評判となり、すぐに会場が手狭となったため、翌年にはポンマースフェルデンの南南西55キロのところにある山間の避暑地、アンスバッハに拠点を移して現在に至っています。
 ヘルムート・ヴァルヒャやアウグスト・ヴェンツィンガー、エディト・ピヒト=アクセンフェルト、フリッツ・ノイマイヤー、クルト・トーマス、ギュンター・ラミンといったアーティストが当初から集まったこの音楽祭でライトナーは音楽監督を任され、多くの古楽の才能と交流。
 1948年には、アメリカで印刷した新しいドイツマルク紙幣によって、ドイツの西側占領地区でライヒスマルクからの通貨改革が実施、音楽祭は大きな打撃を受けますが、ライトナーは財政支援目的も兼ねて1949年にバッハのマニフィカトをレコーディングしてもいました。


シュトゥットガルト歌劇場 音楽監督 1949-1969
連合軍による空爆は、日本と同じくドイツにも死者約60万人という膨大な被害をもたらしました。劇場も多くが破壊されますが、シュトゥットガルト歌劇場は珍しく無事で、ライトナーは1949年にこの劇場に職を得て、ミュンヘンからシュトゥットガルトに転居しています。
 シュトゥットガルト歌劇場は、19世紀初頭、ヴュルテンベルク王国の宮廷劇場がそのルーツという伝統ある劇場のオペラ部門であり、本格的な運営体制を持つこの劇場の戦後の音楽監督は、オーストリア出身の指揮者で20世紀作品に強かったベルティル・ヴェッツェルスベルガー[1892-1967]でした。
 ヴェッツェルスベルガーは、『カルミナ・ブラーナ』をフランクフルトで1937年に世界初演した人物で、オルフと交流があり、1947年6月にもシュトゥットガルト歌劇場で『ベルナウアーの女』を世界初演しています。
 このバイエルン方言の古語を駆使して書かれた『ベルナウアーの女』の初演に際しては、ドイツ人にも言葉がよくわからないという問題がありましたが、題材そのものはよく知られた史実に基づくものなので、オルフの愛娘、ゴデラ・オルフ[1921-2013]を主役とした初演は新聞トップに掲載されるなど話題となりました。
 ストーリーは「商人の娘アグネス・ベルナウアーと、バイエルン公エルンストの息子アルブレヒトの身分違いの恋愛を粉砕するため、父エルンストが、当時人々の間で人気を博していた告発・処刑制度「魔女裁判」によってアグネスをドナウ川に沈めて殺害、当のアルブレヒトもすぐにほかの女と結婚する」という史実の、父エルンストの部分などを多少穏やかにしたもので、自己中心的な為政者の実話に基づくストーリーと原始的な力に満ちた音楽が相性の良さを示した作品となっています。
 シュトゥットガルト歌劇場での成功を受けて、翌月にはライトナーがバイエルン国立歌劇場で『ベルナウアーの女』を上演し、さらにライトナーは翌1948年4月にはオルフの『賢い女』もバイエルン国立歌劇場で上演していました。
 そして翌1949年、シュトゥットガルト歌劇場音楽監督となったライトナーは、ヴェッツェルスベルガーの築き上げた20世紀作品に積極的に取り組む方針も継続、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、モーツァルトなどの人気演目から、オルフの『プロメテウス』『オイディプス王』『アンティゴネー』、ワイル『マハゴニー市の興亡』、シェック『ペンテジレア』、ベルク『ルル』といった作品まで幅広く取り上げ、特に、ワーグナーに関しては、ヴィントガッセンら優れた歌手陣とヴィーラント・ワーグナーの活躍もあって、「冬のバイロイト」と呼ばれるほどの充実した上演で評判となり、レコーディングも数多くおこなっていました。
 この時期のレコーディングはドイツ・グラモフォンが中心で、シュトゥットガルト歌劇場のオーケストラとは、ワーグナーの管弦楽曲のほか、ビゼー『カルメン』、『真珠とり』、ベートーヴェン『フィデリオ』、ボイエルデュー『白衣の婦人』、フロトウ『マルタ』、ドニゼッティ『愛の妙薬』、ロルツィング『ウンディーネ』『密猟者』、ドヴォルザーク『ジャコバン党員』などのオペラ抜粋録音や、ロルツィング『皇帝と船大工』全曲、ペルゴレージ『奥様女中』、ヨハン・シュトラウス作品集、ベートーヴェン劇音楽『エグモント』、ブラームス:ハイドン変奏曲などを録音していました。
 1954年3月には、パリ・オペラ座にシュトゥットガルト国立歌劇場の声楽陣を引き連れて引っ越し公演をおこない、パリ・オペラ座管弦楽団との共演で『パルジファル』を上演。ヴィントガッセン、メードル、ナイトリンガーら専属歌手陣による、戦後9年を経ての独仏共演でした。
 1959年、長年のオペラやコンサートでの功績を称えられ、西ドイツ政府より大連邦功労十字章が授与されています。
 通算20年間に渡って同歌劇場で活躍したライトナーは、1969年になると、シュトゥットガルトの南南西約160キロ、音楽監督が急死して困っていたスイスのチューリヒ歌劇場に移ることとなります。
 なお、在職中の1961年には、「シラー・シュテーク」という名の長さ約100メートル、幅5.5メートルの大型歩道橋がシュトゥットガルト中央駅前のシラー通りに建設。歌劇場のある公園と駅を結ぶ役割も担っていましたが、1996年にライトナーが亡くなると、翌年には歩道橋の名を「フェルディナント・ライトナー・シュテーク」と改めており、当時のシュトゥットガルト市民にとって、ライトナーが重要な存在であったことをうかがわせます(ちなみに建設はティーガー戦車の砲塔などでおなじみのクルップ社が担当)。


カペラ・コロニエンシス
戦後西ドイツで発足した最大の放送局である北西ドイツ放送(NWDR)によって、1954年に設立されたカペラ・コロニエンシスは、当時は珍しかった小編成の古楽器アンサンブルでした。
 結成当初は、ケルン音楽大学の教授たちによって構成されており、アウグスト・ヴェンツィンガーなどが指揮、ほどなくライトナーも指揮者陣に加わり、バロック・オペラから古典派交響曲までをターゲットに取り上げるようになります。
 オペラ指揮者として20世紀作品も含め着々と実績を積み重ねていたライトナーは、オーケストラ作品や合唱曲、歌曲、室内楽、ピアノ曲など様々な音楽に通じており、もともと柔軟なスタイルの音楽家でした。
 1947年から1951年にかけて音楽監督を務めた「アンスバッハ・バッハ週間」での経験は、ライトナーにとって大きな刺激となったようで、チェンバロ演奏も始めたりしていましたが、今度は古楽器オーケストラの指揮者も務めるようになり、やがてバロック・オペラにも取り組むこととなります。
 1959年にはカペラ・コロニエンシスとヘンデルのオペラ『アルチーナ』を録音し、1964年にはグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』、1964年にはモーツァルトのセレーデ第4番、1968年にはハイドンの『アルミーダ』という具合で、1980年代に入るとハイドンの交響曲第5・54・92・98番、モーツァルトの交響曲第29番、バッハのカンタータ第209番『悲しみを知らぬ者』もレコーディングしていました。
 ちなみに北西ドイツ放送は、1956年に北ドイツ放送(NDR)と西部ドイツ放送(WDR)に分かれています。


テアトロ・コロン 首席指揮者 1956-1972
1956年、急逝したエーリヒ・クライバーの後任として、南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの豪華な劇場「テアトロ・コロン」の首席指揮者に就任。ドイツ・オペラ・シーズンを担当し、ワーグナーの『ニーベルングの指環』や『タンホイザー』、『トリスタンとイゾルデ』、ベートーヴェンの『フィデリオ』などを、ドイツの有名歌手陣と上演していました。


チューリヒ歌劇場 音楽監督 1969-1984
前任の指揮者クリスティアン・フェヒティング[1928-1967]の急死により、1969年にライトナーが音楽監督に就任。フェヒティングはスイスの有名作曲家フランク・マルタン[1890-1974]の息子で、20世紀作品に造詣が深く、1962年から音楽監督を務めていたチューリヒ歌劇場でも積極的に現代作品をとりあげていましたが、39歳の若さで亡くなってしまいます。
 後任のライトナーも、シュトゥットガルト歌劇場時代から20世紀作品に前向きに取り組んでいたこともあって、チューリヒでも前任者の方針を継承してさらに発展、クレーベ:『真の英雄』、ケルターボルン:『天使がバビロンに来る』、ベルク:『ルル』[チェルハ完成版]『ヴォツェック』、ブゾーニ:『ファウスト博士』、アイネム:『老婦人の訪問』、フォルトナー『エリザベス・チューダー』、ヒナステラ:『ボマルツォ』、ヒンデミット:『カルディヤック』[オリジナル版]、クレーベ:『フィガロの離婚』、クレネク:『カール5世』、ライマン:『メルジーネ』、ベルク:シェック:『マッシミリア・ドーニ』、オネゲル:『ジャンヌ・ダルク』、オルフ:『ベルナウアーの女』『賢い女』『アンティゴネー』など、数々の世界初演やスイス初演を手掛けてもいました。
 また、同じ頃にライトナーは、チューリヒ音楽院で指揮科教授としても活躍、多くの学生を育成しています。


シカゴ・リリック・オペラ 客演指揮者 1969-1988
チューリヒ歌劇場の音楽監督に就任した年から、ライトナーはシカゴのリリック・オペラにも客演するようになります。最初は1969年の『ドン・ジョヴァンニ』で、以後、1971年から1974年にかけての『ニーベルングの指環』、1973年の『ばらの騎士』、1977年の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、1982年の『トリスタンとイゾルデ』、1984年の『後宮からの誘拐』、1988年の『タンホイザー』まで約20年に渡ってドイツ・オペラを披露していました。


ハーグ・レジデンティ管弦楽団 首席指揮者 1976-1980
着任間もなく急逝したジャン・マルティノン[1910-1976]の後任として、1976年にライトナーが首席指揮者に就任。ウィレム・ファン・オッテルロー[1907-1978]のもとで実力を伸ばしたこのオーケストラで、ライトナーは得意のブルックナーやワーグナーのほか、オランダの現代作品も多数とりあげていました。
 CDでも1978年10月のブルックナーの交響曲第7番や、1985年9月のブルックナーの交響曲第9番を聴くことができますが、どちらも素晴らしい演奏です。

トリノ・イタリア放送交響楽団 首席客演指揮者 1988-1990
ライトナーは若い頃からよくイタリアを訪れており、オペラハウスのほか、各地の放送交響楽団や、シチリア交響楽団への客演などもおこなっていました。
 1988年には、首席指揮者不在だったトリノ・イタリア放送交響楽団の首席客演指揮者に就任しています。トリノは自宅のあるチューリヒの南南東約260キロのところにあり、76歳になっていたライトナーにとっても負担の少ない距離でした。
 1990年2月にはR.シュトラウスの『家庭交響曲』を指揮して映像収録もしていました。


NHK交響楽団 客演指揮者 1976-1990
バイエルン国立歌劇場の1974年来日公演で日本でも注目されることとなったライトナーは、1976・1979・1981・1983・1986・1988・1990年の7度に渡ってNHK交響楽団に客演しています。とりあげた曲目は以下の通りです。

1976年12月
ハイドン:交響曲第104番『ロンドン』
ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』前奏曲と愛の死
R.シュトラウス:『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』
バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番
ヴェーバー:『魔弾の射手』序曲
マーラー:『亡き子をしのぶ歌』
シューベルト:交響曲第9番『グレート』
シュポーア:フルート協奏曲
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第7番
ワーグナー:『タンホイザー』序曲
ベートーヴェン:交響曲第9番『合唱』

1979年2〜3月
シューマン:交響曲第3番『ライン』
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番
モーツァルト:『魔笛』序曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
ドヴォルザーク:交響曲第9番『新世界から』
ハイドン:交響曲第102番
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
ブラームス:ドイツ・レクィエム
シューマン:ヴァイオリン協奏曲
ブルックナー:交響曲第4番『ロマンティック』

1981年2〜3月
メンデルスゾーン:夏の夜の夢序曲
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第7番
ハイドン:オラトリオ『四季』
R.シュトラウス:組曲『町人貴族』
ハルトマン:交響曲 第6番
ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第2番
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番
R.シュトラウス:『ツァラトゥストラはこう語った』

1983年6〜7月
ヴィニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番
R.シュトラウス:アルプス交響曲
ブラームス:交響曲第2番
R.シュトラウス:13管楽器のためのセレナード
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第22番
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
R.シュトラウス:家庭交響曲
ハイドン:交響曲第85番『女王』
ストラヴィンスキー:バレエ音楽『カルタ遊び』
ヒンデミット:室内音楽
ドヴォルザーク:交響曲第7番
ハイドン:交響曲第7番『昼』
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
ベートーヴェン:交響曲第5番
モーツァルト:歌劇『魔笛』序曲
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番
ブラームス:交響曲第4番

1986年5月
ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』
ブラームス:交響曲第2番
ウェーバー:歌劇『オベロン』序曲
ウェーバー:クラリネット協奏曲第1番
ラヴェル:ボレロ
ワーグナー:『神々のたそがれ』〜ジークフリートのラインの旅 / 葬送行進曲
R.シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュ ピーゲルの愉快ないたずら』
ハイドン:チェロ協奏曲第1番
ブルックナー:交響曲第9番

1988年12月
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
ブラームス:交響曲第1番
ベートーヴェン:交響曲第9番『合唱』

1990年10〜11月
モーツァルト:セレナード『セレナータ・ノットゥルナ』
モーツァルト:2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ
モーツァルト:セレナード『ポス トホルン』
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 作品10
R.シュトラウス:家庭交響曲 作品53
ベートーヴェン:歌劇『フィデリオ』全曲
ハイドン:交響曲第98番
ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲
モーツァルト:交響曲第40番
モーツァルト:交響曲第28番
モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲
モーツァルト:歌劇『劇場支配人』全曲


シュトゥットガルト放送交響楽団
シュトゥットガルト放送交響楽団は1945年にアメリカの軍政府によって創設されたオーケストラで、1976年までの名称は南ドイツ放送交響楽団でした。現在はバーデン=バーデン・フライブルクのオーケストラと統廃合して、南西ドイツ放送交響楽団という名前になってシュトゥットガルトを拠点に活動中。
 1952年、シュトゥットガルト在住のライトナーがシュトゥットガルト放送交響楽団に客演。カール・オルフが編曲したドイツ語ヴァージョンのモンテヴェルディ『オルフェオ(オルフォイス)』を指揮しているほか、『カルミナ・ブラーナ』の冒頭になんとなく似ている編曲の『アリアンナの嘆き』をチェンバロで弾いて伴奏しています。CD化済み。
 1982年10月、ライトナーは、かつて長年住んでいたシュトゥットガルトに客演して、得意のブルックナー交響曲第6番と、当時ご執心だったカール・アマデウス・ハルトマンの交響曲第6番を指揮。
 また、翌1983年の11月にも客演し、ブルックナーの交響曲第9番を指揮していますが、こちらもライトナーとブルックナーの相性の良さを示す見事な演奏です。
 なお、上記2つの録音はどちらもCD化されていますが、6番の方は、録音当時の名称「シュトゥットガルト放送交響楽団」ではなく、なぜか「バーデン=バーデン&フライブルク南西ドイツ放送交響楽団」と印刷されています。

ハルトマンの交響曲
独墺圏の交響曲の伝統を20世紀に復活させたカール・アマデウス・ハルトマン[1905-1963]は、ヘルマン・シェルヘンに強い影響を受け、後にヴェーベルンにも師事、さらに、ブルックナー、マーラー、レーガー、ストラヴィンスキー、ベルク、バルトークといった作曲家の手法から影響を受けながらも、自らの様式の中にそれらの影響要素を収斂させていった手腕が高く評価される作曲家。特定の楽派に属さず独自の道を追求した孤高の人物とも言われていました。
 戦前のハルトマンは、ナチに抗議するため、ナチが禁じたメロディ(ユダヤの人々が救済を求めた預言者エリヤにまつわる歌)を自作に使用するなどしたため、戦時中は思うように活動が出来ず、戦後は親ナチだったオルフやエックを糾弾したりもしますがやがて和解、戦前に書いた自作からも政治的意味を取り除く改訂をおこなうようになります。
 そのため、交響曲第3番、第4番、第5番、第6番の4曲は、元の素材が戦時中の作品ではありますが、大幅に改訂されて戦後に完成しています。
 つまり第1番から第6番の6曲は、戦前から戦後間もない時期にかけて作曲・改訂されたもので、第7番と第8番が戦後十数年を経ての作品ということになります。
 ライトナーは交響曲第3番と交響曲第6番の録音をおこなっており、NHK交響楽団とも第6番をとりあげていました。


レイクス・プログレス初演
1951年12月、ヴェネツィア・ビエンナーレの一環として、ストラヴィンスキーのオペラ『レイクス・プログレス(放蕩者のなりゆき)』がフェニーチェ劇場で世界初演されることとなり、ライトナーはストラヴィンスキーから準備一切をまかされています。初演そのものは作曲者が指揮、2回目以降の本番はライトナーが指揮していました。
 また、ヴェネツィアに続いて、ミラノ・スカラ座、シュトゥットガルト歌劇場、ハンブルク国立歌劇場でもこの作品を指揮しています。

ベルリン・フィル
1952年、ブラームス『アルトラプソディ』を録音。CD化済み。
1952年、アースとモーツァルトのピアノ協奏曲第23番を録音。
1953年、シューマン交響曲第3番『ライン』を録音。CD化済み。
1953年、メンデルスゾーン『ルイ・ブラス』序曲を録音。CD化済み。
1957年、アースとモーツァルト:ピアノ協奏曲第14番を録音。
1957年、ゼーマンとモーツァルト:ピアノ協奏曲第24番を録音。
1953年、エリーザベト・ヘンゲンとブラームス『アルトラプソディ』を録音。
1958年、プフィッツナーの交響曲を録音。
1958年、アンドール・フォルデシュとベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番とモーツァルトの25番を録音。CD化済み。
1961年、ケンプとベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音。CD化済み。
1962年、ケンプとモーツァルトのピアノ協奏曲第8・23・24・27番を録音。CD化済み。

バンベルク交響楽団
1951年、モーツァルト『ハフナー・セレナーデ』を録音。
1952年、ビゼー『アルルの女』組曲を録音。
1952年、ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番をシュナイダーハンと録音。
1952年、リスト:交響詩『ハンガリア』を録音。
1953年、序曲・間奏曲集を録音。
1954年、メンデルスゾーン:交響曲第3番を録音。
1955年、ドヴォルザーク:交響曲第7番を録音。
1957年、ハイドン:交響曲第100&102番を録音。
1960年、アンドール・フォルデシュとベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を録音。CD化済み。
1960年、ケンプとモーツァルトのピアノ協奏曲第23&24番を録音。CD化済み。

ケルン放送交響楽団
1971年、オルフ『プロメテウス』をセッション録音。グラインドル、エンゲン、モーザー、ほか。CD化済み。
1974年、コルネリウス『バグダッドの理髪師』をセッション録音。ゾーティン、ドナート、ほか。CD化済み。

バイエルン放送交響楽団
1951〜53年、ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』抜粋録音。
1953年、ベートーヴェン:ロマンスをケッケルトと録音。CD化済み。
1954年、ドニゼッティ『連隊の娘』序曲を録音。
1956年、ニコライ『ウィンザーの陽気な女房たち』抜粋録音。
1954年、モーツァルト『ポストホルン・セレナーデ』を録音。
1957年、オルフ『ベルナウアーの女』抜粋録音。
1959年、モーツァルト:交響曲第31番&第36番を録音。
1961年、オルフ『アンティゴネー』を録音。CD化済み。
1969年、ブゾーニ『ファウスト博士』を録音。CD化済み。
1972年、ハイドン『朝』『昼』『晩』を録音。CD化済み。
1972〜76年、R.シュトラウス『ツァラトゥストラ』『ティル・オイレンシュピーゲル』ほかを録音。CD化済み。
1989年、モーツァルト『ハフナー』『劇場支配人』ほかを録音。CD化済み。

ミュンヘン・フィル
1950年、ベートーヴェン:ロマンスをレーンと録音。CD化済み。
1954年、マスネ『マノン』抜粋を録音。
1955年、アリア集をクローゼと録音。
1955〜57年、グノー『ファウスト』抜粋を録音。
1965年、ワーグナー『タンホイザー』『ジークフリート』から。
1966年、ヘンデル『ジューリオ・チェーザレ』。ベリー、ポップ、ルートヴィヒ、ヴンダーリヒ、ほか。CD化済み。

ウィーン交響楽団
1952年、シュナイダーハンとモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番を録音。CD化済み。 1952年、モーツァルト:アリア集をゼーフリートと録音。
1960年、ブレゲンツ音楽祭でベートーヴェンの『レオノーレ』を上演。ツァデク、デルモータ、シェフラーらが出演。CD化済み。
1963年、ウィーン芸術週間でアイネムの『ダントンの死』を上演。演出はオットー・シェンク。
1970年、ベートーヴェン:『静かな海と楽しい航海』を録音。
1970年、ベートーヴェン:合唱幻想曲をデムスと録音。
1970年、ベートーヴェン:『ああ、裏切り者よ』をニルソンと録音。

オランダ音楽祭
1959年6月、コンセルトヘボウ管弦楽団と『トリスタンとイゾルデ』を上演。ヴィナイ、メードル、グラインドルほか。CD化済み。

ミラノ・イタリア放送交響楽団
1959年9月、『ローエングリン』をイタリア語で放送録音。コーンヤほか。CD化。

バイロイト音楽祭
1960年8月、『ローエングリン』を指揮。演出はヴィーラント・ワーグナー。

シュターツカペレ・ドレスデン
1990年、クリスマス・コンサートを指揮。

バーゼル交響楽団
1992年にブルックナーの交響曲第6番を演奏。ライトナー80歳。1962年にも客演してブルックナーの交響曲第9番を演奏しています。


1996年6月3日、チューリッヒ近郊の山村フォアホの自宅で死去。スイスに暮らして27年目の初夏、84歳でした。フォアホ鉄道でも知られる同地は、風光明媚な高級住宅地としても有名。ちなみにスイスではフォアホと呼ばれていますが、日本ではフォルヒという表記をあてるケースも多いようです。


【販売元情報】
N響にたびたび客演しておなじみのドイツの巨匠フェルディナント・ライトナー。彼のブラームスは世界的に評価が高く、N響ともブラームスの交響曲第1、2、4 番を演奏しています。そのすべてをCD化。さらに『ハイドンの主題による変奏曲』と『ドイツ・レクィエム』も収録しました。
 悠然とした流れのなかに人間的な温かみあふれる名演。N響のドイツ音楽の代表的名盤と申せましょう。ことに曽我栄子と芳野靖夫の名唱光る『ドイツ・レクィエム』はもう一度聴きたかったという声の大きかった演奏です。ことに曽我女史は、「なんども歌った『ドイツ・レクィエム』の中でも最高の演奏でした」とのお墨付き。ご期待ください。
 *古い音源を使用しているため、テープ劣化によるお聴き苦しい点もございます。予めご了承下さい。

【収録情報】
Disc1-2
ブラームス:
1. 交響曲第1番ハ短調 Op.68
2. 交響曲第2番ニ長調 Op.73
3. ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a
4. 交響曲第4番ホ短調 Op.98


Disc3
5. ドイツ・レクィエム Op.45


 曽我栄子(ソプラノ:5)
 芳野靖夫(バリトン:5)
 国立音楽大学合唱団(5)
 NHK交響楽団
 フェルディナント・ライトナー(指揮)

 録音時期:1988年12月18日(1)、1983年6月22日(2)、1983年7月8日(3)、1983年7月14日(4)、1979年2月21日(5)
 録音場所:東京、サントリーホール(1) NHKホール(2,3,5) 愛知県、名古屋市民会館(4)
 録音方式:ステレオ(ライヴ)

内容詳細

ドイツの名指揮者フェルディナント・ライトナーとN響によるブラームス。音楽ファンの間では地味な印象があるかもしれないが、N響は76〜90年の15年間にわたりドイツ音楽の正統的な語法を徹底的に叩き込まれた。その貴重な記録ともいうべきアルバム。味わい深い音楽が流れている。(長)(CDジャーナル データベースより)

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人物・団体紹介

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ブラームス(1833-1897)

1833年:北ドイツのハンブルクでヨハネス・ブラームス誕生。 1843年:演奏会にピアニストとして出演。作曲家、ピアニストのマルクスゼンに師事。 1852年:ピアノ・ソナタ第2番が完成。 1853年:ピアノ・ソナタ第1番、ピアノ・ソナタ第3番が完成。 1854年:ピアノ三重奏曲第1番、シューマンの主題による変奏曲が完成。

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