CD 輸入盤

マリヤ・グリンベルクの芸術(34CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC814
組み枚数
:
34
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


マリヤ・グリンベルク・ボックス(34CD)

ロシア帝国末期にオデッサに生まれたマリヤ・グリンベルクは、激動のロシア革命を生き抜き、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ時代のソ連で過ごしたロシアン・ピアニズムの大御所。スターリン時代の大粛清のときには、いわれのない嫌疑で夫と父親を処刑され、自身も危うく収容所送りになりかけたものの、乳児がいたことで九死に一生を得たという壮絶な経験の持ち主。
  家族が処刑されたことで「人民の敵の家族」となり、政府とは距離を置いていたグリンベルクでしたが、次第に高まる名声に政府もその音楽家としての影響力は認めざるを得なくなり、1952年にモスクワのコテリニチェスカヤ堤防に高さ176メートルの豪華で巨大な超高層アパートが完成した際には、関係者の推薦もあっていち早くグリンベルクを入居させてもいました。グリンベルクの家族の名誉回復はまだでしたが、秘密警察による「大粛清」の時の「人民の敵」には信憑性が無いという認識は政府にも浸透しつつあったようです。
  ちなみに、同じくユダヤ系女性ピアニストで9歳年長のマリヤ・ユージナは、グネーシン研究所勤務時代にモスクワ郊外の古いあばら家に住んでおり、グリンベルクに対して住居のことを「宮殿での戦い、小屋での安息」と、皮肉っていましたが、宗教関係者への弾圧が収まってきたフルシチョフ時代末期の1963年には、ユージナ自身もロストフ堤防の豪華なアパートに転居しています。


今回、イギリスのスクリベンダム・レーベルから登場するボックスは、グリンベルクの重要な録音を集めたもので、ロシア物に強い同レーベルならではの凝った内容。得意のベートーヴェン全集録音と別録音のほか、バッハ、スカルラッティからバルトークやルトスワフスキ、ヒンデミット、カバレフスキー、ロクシーン、ワインベルクなどの近現代作品に至る様々な時代の作品を収録。
  スクリベンダム・ボックスのデザインは、グリンベルクの故郷オデッサをモチーフに美麗に仕上げたもので、ポチョムキン階段から船と鉄道を臨む視点は、オデッサの歴史を考えると意味深でもあり、外に向かって開かれたオデッサのイメージに、ポチョムキンの「赤い旗」、そして「グリンベルクの顔」の織り成す不思議な感覚が面白いです。
  交通の要衝オデッサで育ったグリンベルクは、ツアーが好きだったようで、東側に関しては、ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアと広範囲に回っており、さらにソ連邦内でもエストニア、ラトヴィア、グルジア、アゼルバイジャンなど北から南まで数多くの場所で公演をおこなっていました。しかし家族が2人処刑されたことで共産党員になれなかったため西側へのアクセスは制限され、加えてイスラエルとソ連の関係悪化による非党員ユダヤ人の出国禁止令も出されるなどして、西側公演はソ連に対して友好的だったオランダだけに限定されていました(ちなみにゴルバチョフ時代のソ連で経済悪化と共に勃興したユダヤ人迫害の際にもオランダ大使館が窓口になって、膨大な数のユダヤ人がイスラエルなどに出国)。


【グリンベルクのベートーヴェン】
ソ連随一と言われていたグリンベルクのベートーヴェン演奏は、ゲンリフ・ネイガウス[1888-1964]が絶賛していたほか、かのラザール・ベルマン[1930-2005]も教えを請いに来るほど見事なものであり、LPで全集セットを贈られたショスタコーヴィチも感激していました。
  グリンベルクはもともとベートーヴェン演奏に適性があったようで、イグムノフに師事していた学生の頃にも『熱情ソナタ』第1楽章展開部の第2主題の扱いをめぐって師と激論を戦わせ、最終的にはイグムノフがグリンベルクの方法を認めることになるなど、そこにはすでに大きな説得力も備わっていたようです。
  そのグリンベルクが一気にベートーヴェンに開眼するきっかけになったのが、それから少し経った1935年、27歳の時に接したアルトゥール・シュナーベルのモスクワ公演でした。シュナーベルのベートーヴェンに接して「私のなかのすべてがまたたく間に燃え上がったのてす。」と語るグリンベルクは、それまでに習ったロマンティックなベートーヴェン演奏をリセットし、構築的で論理的なスタイルを強い集中力で実現するようになります。


【最初の結婚】
グリンベルクの最初の結婚相手は、6歳年長のロシア人バス・バリトン歌手、ピョートル・ティホノヴィチ・キリチェク[1902-1968]。モスクワ音楽院を優秀な成績で卒業し、ボリショイ劇場とソリスト契約したキリチェクは、すぐに評判となり、テレビやラジオにも出演。独唱リサイタル・ツアーには、ピアノ伴奏者として学生だったグリンベルクが同行し、ほどなく結婚に至っていますが、短期間で離婚していました。
  キリチェクはきわめて愛国的な人物で、グリンベルクとの離婚後は、『ソ連戦車兵たちの行進』などの戦争系の歌に加え、大粛清の際には、中心人物であるエジョフ長官を称える秘密警察の歌『チェキストの歌』までレコーディング。政府によるプロパガンダ映画にも出演して人気を博し、第2次大戦中には、工場や軍の野営地などで約1,500回の慰問コンサートを開催するという活躍ぶりでした。


【2度目の結婚】
グリンベルクの2度目の結婚相手は、独立ポーランドから逃れてきた11歳年長の詩人スタニスワフ・リシャルト・スタンデ[1897-1937]。ワルシャワ生まれのスタンデは、プロレタリアート文学や前衛詩のほか、翻訳、編集も手掛ける人物で、ポーランド共産党にも所属。スタンデの母親は、ポーランドがロシア帝国領だった時代に「血の日曜日事件(ロシア第1革命)」で、コサックとデモ隊の争いに巻きこまれて殺され、一緒にいたスタンデも馬に踏みつけられて、後遺症で顔が歪むほどの重傷を負い、さらに、妻の悲報に接した父親が心臓発作で亡くなるという地獄を経験。
  1人になった7歳のスタンデはクラクフのイグナツィ・カウフマンに引き取られ、クラクフの大学で哲学とポーランド文学を専攻。在学中から労働運動に関わり、やがてポーランド共産主義労働者党(1925年にポーランド共産党に改名)に入党、クビナという名前で活動し、党のメッセンジャーとしてベルリンやグダニスクを訪問。その後は左翼系出版物の編集者として過ごすうち、ポーランドのピウスツキ政権から睨まれるようになったため、1931年からは党の同意を得てソ連に亡命、モスクワでプロレタリアート文芸誌の編集にあたっていました。
  グリンベルクはメイエルホリド劇場に通う一方で、マヤーコフスキーの詩作などにも心酔する文芸好きで、スタンデと知り合って意気投合、1936年に結婚に至っています。


1937年5月にはグリンベルクとスタンデの間に娘のニカが誕生。プロレタリアート文学畑の夫スタンデと、プロレタリアート音楽にも理解を示していたグリンベルクと、その子供という、ソ連にとって「愛国的」な夫婦の幸せな生活が続くように見えましたが、新任の秘密警察長官の登場で、事態は一気に暗転してしまいます。
  1936年9月に内務人民委員に就任したエジョフ長官の方針は、ソ連で政敵の排除に多用されてきた「スパイ嫌疑」を最大限利用するものでした(ある人物がスパイではないことを証明するのは不可能に近いため)。
  エジョフ長官は、スパイを捕えるためには無実の人間をいくら犠牲にしても構わないというようなことを実際に発言していましたし、「自白」に追い込む「拷問」も、前長官のゲンリフ・ヤゴーダ[1891-1938]の時代をはるかに上回る残虐さで徹底、多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、数百万人とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります。自分にとって都合の悪い人物を、魔法使いや魔女だとして密告する「魔女狩り」の20世紀版です。
  中でも酷いのは、ソ連在住のポーランド人約63万6千人をゼロにするという「ポーランド作戦」で、作戦開始間もなく約14万4千人が逮捕、すぐにそのうちの約11万1千人が処刑され、数十万人がポーランドに強制送還、その後、逮捕の効率が下がったため、電話帳を見てポーランド風な名前の者を逮捕・処刑するというデタラメな作戦も展開、計約31万人が殺害されています。当時、電話のある家には財産もあることが多かったので、金品を盗むことができるという秘密警察側の大きなメリットも被害の拡大に繋がったものと考えられます(ちなみにこの年はロシア正教会の聖職者85,300人も処刑)。   9月になるとグリンベルクの夫スタンデがポーランド人ということで粛清対象となり、「ドイツのスパイ」という広く安易に使われた嫌疑により逮捕。
  夫が「人民の敵」として逮捕されたことで、グリンベルク自身も「人民の敵の家族」として何度も召喚されて取り調べを受け、周囲の人々にも通知。当時は「人民の敵の家族」は、強制収容所か刑務所に送られ、子供の場合も特殊な孤児院に収容されていましたが、グリンベルクの場合、子供が生まれたばかりだったことで収容対象から除外されていました(演奏活動は禁止)。
  2か月後の11月には、夫スタンデが、「自白」を拷問で強要された末に有罪判決。
  1938年1月には、グリンベルクの父親がオデッサで逮捕され処刑、10月には夫スタンデが銃殺刑となり匿名で火葬。
  秋には、グリンベルクと娘は転居し、演奏活動を再開。グリンベルクはその後再婚せず40年間独身で過ごしています。
  ちなみに殺戮の限りを尽くしたエジョフとその部下は、新任のベリヤによってほどなく拷問の末に処刑。そのベリヤもフルシチョフに処刑されています。


【舌禍】
構築的で集中力の強いベートーヴェン演奏を聴かせ、「論理」という言葉が好きだったグリンベルクにはシリアスな印象もありますが、実際にはけっこうブラックなユーモア感覚も持ち合わせた人物だったようです。ソ連とイスラエルとの関係が悪化した時は、自分のミドル・ネーム(父称)がイズライレヴナ(イスラエルの娘)という名前であることに掛けて、アグレッソロヴナ(侵略者の娘)と自己紹介することもありました。これは、ソ連(ロシア)では、会話の際に「姓」で呼ぶのは親しくない人の場合であり、知人に対しては、「名(ファースト・ネーム)」+「父称(ミドル・ネーム)」が一般的で、さらに親しい人の場合は、なぜか「父称」のみ、つまり父親の「名」とその子供であることを示す「ヴィチ」や「ヴナ」などの接続語で出来た「父称」で呼び合ったりするという文化に由来するものです(アイスランドではこれが進化して「姓」が殆ど無くなりました)。
  ソ連国民にとって重要な名前である「父称」を茶化すあたりに、グリンベルクのブラック・ユーモア感覚も窺えますが、何よりも「表面上のモラル」が求められたソ連では、数々の「インモラル」な発言や態度はふさわしくなかったようで、多くの敵をつくることにも繋がっていたようですし、晩年には宗教系の合唱指揮者であるミーニン所長からいやがらせを受けて、グネーシン研究所から追い出されるという事態を招いてもいます。
  また、同じく夫を処刑されていた5歳年長のユダヤ系演出家ナターリヤ・サーツ[1903-1993]にも、彼女が連れていた若い男たちをめぐるジョークで怒らせるなどしていました。ちなみにサーツは、クレンペラーに認められてクロール・オペラで『ファルスタッフ』、テアトロ・コロンで『ニーベルングの指環』、『マイスタージンガー』、『フィガロの結婚』を演出。夫が逮捕されたときには自身も強制労働収容所送りとなり5年間を耐えた人物です。
  グリンベルクのブラック・ユーモアは音楽家にも向けられ、同郷で同じユダヤ系の後輩であるヤーコフ・ザークとエミール・ギレリスに対しては、2人が共産党員ということもあってか、度を越した演奏批判ジョークでヒンシュクを買うなどしていました。
  リヒテルについては、共に父親が処刑されたたため、共産党に入党できない身分ということもあり、ギレリスやザーク相手のときほどにはひどいことは言っていません。また、リヒテルもグリンベルクに敬意を表し、ショスタコーヴイチの前奏曲とフーガについては、「ショスタコーヴイチ本人よりも、ユージナよりも、そして私よりもうまい」と称えており、さらにグリンベルクが亡くなった時には、モスクワ・フィルハーモニー協会からの花輪に名前を署名してもいました。
  ちなみにソ連の共産党員数は、多い時で2千万人近いという規模。職業上でも生活上でもさまざまな優遇措置が受けられることから、多くの人が入党を希望、民族主義が勃興しがちな中で不安もあったユダヤ系にも人気があったようで、オイストラフやコーガン、コンドラシン、ハイキンなど多くの音楽家も入党していました。一方で、貴族や富農の子孫(ムラヴィンスキー等)、ドイツ移民の子孫(ネイガウス、ガウク等)、「人民の敵」の親族(グリンベルク、リヒテル等)、宗教関係者(ゴロワノフ、ユージナ等)などは入党が許されていませんでした。


【マリヤ vs マリヤ】
同じユダヤ系女性ピアニストながら、マリヤ・ユージナとマリヤ・グリンベルクの間には9歳という年齢差以上の違いがありました。
  ユージナは17歳でロシア革命を経験し、19歳ですでに迫害の始まっていたロシア正教に改宗。「現代音楽協会」とも交流。
  グリンベルクは8歳でロシア革命を経験し、10代後半に「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」のメンバーと親しく交流。「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」は、「現代音楽協会」を激しく攻撃し、やがて「ソ連作曲家同盟」へと姿を変えていきます。つまり若い頃のグリンベルクは、まだ政府に不満が無かったため、革命の成功を受け入れ、「無宗教」で、プロレタリアート芸術に傾倒していたということになります。
  一方、ユージナの方は、ロシア革命の最初から宗教弾圧が顕在化していたにも関わらず、ユダヤ教からロシア正教に改宗するという無茶なことをおこない、挙句に現代音楽協会を擁護して睨まれるという反骨ぶりを披露していました。
  こうした正反対の立場は、ユージナにとっては不快だったのか、感情的になってグリンベルクのことを「家政婦」などと批判したこともあったほど(ちなみに新米教師だったころの若きコルトーが、少女ハスキルを侮辱するために使っていた言葉も「家政婦」だったのは興味深い一致です)。
  しかしグリンベルクが、家族2人の処刑に加え、自身も収容所送りになりかけるという悲劇に見舞われ、さらに現代音楽を弾くようになり、フレンニコフを批判したりすると、ユージナのグリンベルクへの態度も軟化。コンサートに花束や祝電を送ったりするようになります。




 収録情報

CD1
◆ J.S.バッハ:サラバンドとパルティータ BWV 990
録音:1960年

◆ J.S.バッハ(ブゾーニ編):前奏曲とフーガ ニ長調 BWV 532
録音:1961年

◆ J.S.バッハ:ピアノ協奏曲第5番 ヘ短調 BWV 1056
◆ J.S.バッハ(リスト編):前奏曲とフーガ イ短調 BWV 543
◆ J.S.バッハ(フェインベルク編):ソナタ第5番 ハ長調〜ラルゴ BWV 529
◆ J.S.バッハ(ブゾーニ編):前奏曲とフーガ ニ長調 BWV 532
録音:1976年2月5日 (ライヴ)

◆ テレマン:ファンタジア第3番〜ラルゴ TWV33
録音:不明

◆ コレッリ(ゴドフスキー編):合奏協奏曲 ト短調 Op.6 No.8 『クリスマス協奏曲』〜パストラーレ
録音:1951年

CD2
◆ スカルラッティ:ソナタ ハ長調 L.104
◆ スカルラッティ:ソナタ ニ短調 L.413
◆ スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 L.382
◆ スカルラッティ:ソナタ イ長調 L.345
◆ スカルラッティ:ソナタ ハ短調 L.352
◆ スカルラッティ:ソナタ ハ短調 L.360
録音:1968年5月19日(ライヴ)

◆ セイシャス:メヌエット へ短調
◆ セイシャス:トッカータ ヘ短調
録音:1967/68年

◆ A.ソレール:ソナタ第12番 嬰へ長調〜アレグロ
◆ A.ソレール:ソナタ第2番嬰 ハ短調〜アレグロ
◆ A.ソレール:ソナタ第11番 ト短調〜アレグロ
録音:1967 or 1959年(ステレオ)

◆ モーツァルト:アレグレットによる12の変奏曲 変ロ長調 K500
録音:1960年

◆ モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K.396(シュタットラーによる補筆完成版)
録音:1963年

◆ モーツァルト:幻想曲 ハ短調 KV.475
録音:1973年1月30日(ライヴ)

CD3
◆ グラウン:ジーグ 変ロ短調
録音:1959年

◆ モーツァルト:ピアノ・ソナタ第12番 ヘ長調 K332
録音:1967年

◆ モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17番 ニ長調 K.576
録音:1961年

◆ モーツァルト:ピアノ・ソナタ第18番 ヘ長調 K.533
録音:1970年

◆ モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ短調 KV.457
録音:1973年1月30日(ライヴ)

CD4
◆ ベートーヴェン:パイジェッロの歌劇『水車屋の娘』の二重唱『わが心もはやうつろになりて』による6つの変奏曲 WoO.70
録音:1961年

◆ ベートーヴェン:メヌエット 変ホ長調 WoO.82
◆ ベートーヴェン:メヌエット 変ホ長調 WoO.10 No.3
◆ ベートーヴェン:メヌエット ト長調 WoO.10 No.2
◆ ベートーヴェン:メヌエット ニ長調 WoO.10 No.5
録音:1951年

◆ ベートーヴェン:ロンド・ア・カプリッチョト長調 Op.129『なくした小銭への怒り』
録音:1952年

◆ ベートーヴェン:創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80
◆ ベートーヴェン:ロンドト長調 Op.51 No.2
◆ ベートーヴェン:6つのエコセーズ 変ホ長調 WoO.83
録音:1965年(モノラル)

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 Op.2 No.1
録音:1959年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第6番 ヘ長調 Op.10 No.2
録音:1950年

CD5
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 Op.13『悲愴』
録音:1951年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 Op.27 No.2『月光』
録音:1961or1959年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 Op.53『ワルトシュタイン』
録音:1958年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 Op.57『熱情』
録音:1960or1961年

CD6
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 Op.2 No.1
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第2番 イ長調 Op.2 No.2
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第3番 ハ長調 Op.2 no.3
録音:1968年10月29日(ライヴ)

CD7
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 Op.7
録音:1968年10月29日(ライヴ)

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第7番 ニ長調 Op.10 No.3
録音:1974年1月20日(ライヴ)

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12番 変イ長調 Op.26『葬送行進曲』
録音:1973年1月30日(ライヴ)

CD8
◆ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 Op.15
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
ドミトリー・キタエンコ(指揮)
録音:1970年(ライヴ,モノラル)

◆ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.19
モスクワ放送交響楽団
キリル・コンドラシン(指揮)
録音:1947年

CD9
◆ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 Op.37
モスクワ放送交響楽団
クルト・ザンデルリング(指揮)
録音:1952or1965年

◆ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58
ロシア国立交響楽団
ネーメ・ヤルヴィ(指揮)
録音:1965年(ステレオ)

CD10
◆ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 Op.37 (Cadenza by Reinecke)
ロシア国立交響楽団
カール・エリアスベルク(指揮)
録音:1958年1月25日(ライヴ)

◆ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73『皇帝』
モスクワ放送交響楽団
アレクサンンドル・ガウク(指揮)
録音:1957年1月23日



CD11
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調Op.2 No.1
録音:1966年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第2番 イ長調Op.2 No.2
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第3番 ハ長調Op.2 No.3
録音:1965年

CD12
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 Op7
録音:1965年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第5番 ハ短調 Op.10 No.1
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第6番 へ長調Op.10 No.2
録音:1964年

CD13
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第7番 ニ短調 Op.10 No.3
録音:1965年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 Op.13『悲愴』
録音:1966年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第9番 ホ長調 Op.14 No.1
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第10番 ト長調Op.14 No.2
録音:1965年

CD14
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第11番 変ロ長調 Op.22
録音:1964年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12番変 イ長調Op.26『葬送行進曲』
録音:1965年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第13番 変ホ長調Op.27 No.1
録音:1964年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 Op.27 No.2『月光』
録音:1966年

CD15
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第15番 ニ長調 Op.28『田園』
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第16番 ト長調 Op.31 No.1
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31 No.2『テンペスト』
録音:1964年

CD16
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 No.3『狩り』
録音:1966年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第19番 ト短調Op.49 No.1
録音:1964年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第20番 ト短調 Op.49 No.2
録音:1965年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 Op.53『ワルトシュタイン』
録音:1966年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第22番 へ長調 Op.54
録音:1965年

CD17
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 Op.57『熱情』
録音:1966年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第24番 嬰へ長調 Op.78 『テレーゼ』
録音:1965年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第25番 ト長調 Op.79
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第26番 変ホ長調 Op.81a 『告別』
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 Op.90
録音:1966年

CD18
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番 イ長調 Op.101
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調Op.106『ハンマークラヴィーア』
録音:1966年

CD19
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 Op.109
録音:1967年

◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調Op.110
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調Op.111
録音:1966年

CD20
◆ シューマン(リスト編):春の夜
◆ シューマン(リスト編):献呈
録音:1950年

◆ グリーグ:組曲『ホルベアの時代から』
録音:不明

◆ シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
ロシア国立交響楽団
カール・エリアスベルク(指揮)
録音:1958年1月25日(ライヴ)

◆ シューマン:ピアノ・ソナタ第1番 嬰へ短調 Op.11 (断片)
Un poco Adagio;Allegro vivace
Aria
録音:1948年

CD21
◆ シューマン:子供の情景 Op.15
録音:1951年

◆ シューマン:色とりどりの小品 Op.99
録音:1947年

◆ シューマン:交響的練習曲 Op.13
録音:1961年

◆ シューマン:3つの幻想小品集 Op.111
録音:1970年

CD22
◆ シューベルト:4つの即興曲 D 899 (Op.90)
◆ シューベルト(グリンベルク編):ワルツ、レントラー&ドイツ舞曲集
◆ シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番 イ長調 Op.120 D.664
録音:1974年10月14日(ライヴ,ステレオ)

CD23
◆ シューベルト(リスト編):さすらい人 D.489
◆ シューベルト(リスト編):白鳥の歌 D.957 I
◆ シューベルト(リスト編):アトラス D.957 VIII
◆ シューベルト(リスト編):別れ D.957 VII
◆ シューベルト(リスト編):街 D.957 XI
◆ シューベルト(リスト編):冬の旅 D911 IV
◆ シューベルト(リスト編):水の上で歌うD.774
録音:1976年2月5日(ライヴ,モノラル)

◆ シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番 イ長調 Op.120 D.664
録音: 1973年1月30日(ライヴ,モノラル)

◆ フランク:交響的変奏曲
モスクワ放送交響楽団
ロマン・マツォフ(指揮)
録音:1961年(ステレオ)

CD24
◆ メンデルスゾーン:無言歌 ホ長調 Op30 No.3
◆ メンデルスゾーン:無言歌 イ短調 Op.38 No.5
◆ メンデルスゾーン:無言歌 イ短調 Op.53 No.5『民謡』
録音:1967年

◆ メンデルスゾーン:無言歌 嬰へ短調 Op.67 No.2
◆ メンデルスゾーン:無言歌 変ロ長調 Op.67 No.3
◆ メンデルスゾーン:無言歌 ト長調 Op.62 No.4
◆ メンデルスゾーン:無言歌 ホ短調 Op.62 No.3『葬送行進曲』
◆ メンデルスゾーン:無言歌 ホ短調 Op.102 No.1
◆ メンデルスゾーン:無言歌 ハ短調 Op.38 No.2
◆ メンデルスゾーン:無言歌 変ホ長調Op.53 No.2
◆ メンデルスゾーン:無言歌 ト長調 op.62 No.1
◆ メンデルスゾーン:無言歌 イ短調Op.85 No.2
◆ メンデルスゾーン:無言歌 ロ短調 Op.67 No.5
◆ メンデルスゾーン:無言歌 ト短調 Op.102 No.4
◆ メンデルスゾーン:無言歌 イ長調 Op.62 No.6『春の歌』
◆ メンデルスゾーン:無言歌 イ長調 Op.102 No.5
録音:1968年

◆ メンデルスゾーン:幻想曲 嬰へ短調 Op.28『スコットランド・ソナタ』
録音:1951年

◆ メンデルスゾーン:スケルツォ・カプリッチ 嬰へ短調 WoO 3
録音:1950年

◆ グリンカ:アンダルシア舞曲 ト長調
◆ グリンカ:ワルツ 変ホ長調
◆ グリンカ:子供のポルカ ロ長調
◆ グリンカ:マズルカ ハ短調
録音:1959年

◆ グリンカ:タランテラ イ短調
録音:1966年12月12日

◆ グリンカ:アリャビエフの『夜鳴きうぐいす』の主題による変奏曲
録音:1964年5月18日

◆ グリンカ:マズルカ 変イ長調
◆ グリンカ:別れのワルツ ト長調
録音:1959年6月13日

CD25
◆ ショパン:バラード第1番 ト短調 Op.23
録音:1952年

◆ ショパン:バラード第3番 変イ長調 Op.47
録音:1950年

◆ ショパン:バラード第4番 ヘ短調 Op.52
録音:1961年

◆ ショパン:マズルへカ 嬰ハ短調 Op.6 No.2
◆ ショパン:マズルカ ホ長調 Op.6 No.3
◆ ショパン:マズルカ 変ホ短調 Op.6 No.4
録音:1949年

◆ ショパン:マズルカ 変ニ長調 Op.30 No.3
◆ ショパン:マズルカ 嬰ト長調 Op33 No.1
◆ ショパン:マズルカ ト長調 Op.50 No.1
◆ ショパン:マズルカ ヘ短調Op.63 No.2
録音:1961年

◆ ショパン:マズルカ へ長調 Op.68 No.3
◆ ショパン:マズルカ ト長調 Op.67 No.1
◆ ショパン:マズルカ ト短調 Op.67 No.2
録音:1951年

◆ ショパン:華麗なる変奏曲 変ロ長調 Op.12
録音:1948年

◆ ショパン:タランテラ 変イ長調 Op.43
録音:1950年

◆ クライスラー:愛の悲しみ(編:ラフマニノフ)
録音:1952年

CD26
◆ グリーグ:詩的な音の絵
録音:不明

◆ リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
録音:1952年

◆ リスト:スペイン狂詩曲 (スペインのフォリアとホタ・アラゴネーサ)
録音:1951年

◆ リスト:ハンガリー民謡による幻想曲
モスクワ放送交響楽団
エリック・クラス(指揮)
録音:1971年

◆ リスト:超絶技巧練習曲第9番 変イ長調『回想』
録音:1951年


CD27
◆ ブラームス:バラード ロ長調 Op.10 No.4
◆ ブラームス:バラード ロ短調 Op.10 No.3
録音:1950年

◆ ブラームス:創作主題による変奏曲 ニ長調 Op.21 No.1
録音:1964年(?)

◆ ブラームス:カプリッチョ ロ短調 Op.76 No.2
録音:1971 or 1964年

◆ ブラームス:16のワルツOp.39〜第3番 嬰ト短調
◆ ブラームス:16のワルツOp.39〜第1番 ロ長調
◆ ブラームス:16のワルツOp.39〜第7番 嬰ハ短調
◆ ブラームス:16のワルツOp.39〜第6番 嬰ハ長調
◆ ブラームス:16のワルツOp.39〜第15番 変イ長調
◆ ブラームス:16のワルツOp.39〜第16嬰 ハ長調
録音:1964年(ステレオ)

◆ ブラームス:3つの間奏曲 Op.117
録音:1961年

◆ ブラームス:ハンガリー舞曲第3番 へ長調
◆ ブラームス:ハンガリー舞曲第14番 ニ短調
◆ ブラームス:ハンガリー舞曲第11番 ニ短調
◆ ブラームス:ハンガリー舞曲第7番 へ長調
◆ ブラームス:ハンガリー舞曲第9番 ホ短調
録音:1960年

CD28
◆ ブラームス:シューマンの主題による変奏曲 嬰へ短調 Op.9
録音:1951年(モノラル)

◆ ブラームス:16のワルツ Op.39〜第1番 ロ長調
◆ ブラームス:16のワルツ Op.39〜第3番 嬰ト短調
◆ ブラームス:16のワルツ Op.39〜第7番 嬰ハ短調
◆ ブラームス:16のワルツ Op.39〜第16番 嬰ハ長調
◆ ブラームス:16のワルツ Op.39〜第6番 嬰ハ長調
◆ ブラームス:16のワルツ Op.39〜第15番 変イ長調
録音:1964年(モノラル)

◆ ビゼー:ラインの歌
◆ ビゼー:夜明け
◆ ビゼー:出発
◆ ビゼー:夢
◆ ビゼー:ジプシー女
◆ ビゼー:打ち明け話
◆ ビゼー:帰還
録音:1951年

◆ ボロディン:ピアノ五重奏曲 ハ短調
ボリショイ劇場弦楽四重奏団
録音:1946年5月7日

CD29
◆ ドビュッシー:版画〜グラナダの夕べ
録音:1951年

◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜帆
◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜雪の上の足跡
◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜とだえたセレナード
◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜西風の見たもの
◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜亜麻色の髪の乙女
◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜パックの踊り
◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜ミンストレル
◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜前奏曲集第2集より
◆ ドビュッシー:前奏曲集第1集〜花火
◆ ドビュッシー(グリンべルク編):6つの古代の墓銘碑〜第1曲 夏の風の神パンに祈るために
◆ ドビュッシー(グリンべルク編):6つの古代の墓銘碑〜第2曲 無名の墓のために
◆ ドビュッシー(グリンべルク編):6つの古代の墓銘碑〜第3曲 夜が幸いであるために
◆ ドビュッシー(グリンべルク編):6つの古代の墓銘碑〜第6曲 朝の雨に感謝するために
ニカ・ザバブニコワ(ピアノ)
録音:1961年

◆ アレンスキー:ロシア民謡による幻想曲 Op.48 (1899)
モスクワ放送交響楽団
セルゲイ・ゴルチャコフ(指揮)
録音:1947年12月20日

◆ リャードフ:ポーランドの民謡の主題による変奏曲変イ長調 Op.51
録音:1947年

◆ リャードフ:練習曲 変イ長調 Op.5
◆ リャードフ:練習曲 ホ長調 Op.12
録音:1950年1月14日

◆ リャードフ:練習曲 へ長調 Op.37
録音:1950年1月6日

◆ リャードフ:練習曲 嬰ハ短調 Op.40
録音:1950年1月10日

◆ グラズノフ(ブルーメンフェルト編):演奏会用ワルツ第1番ニ長調Op.47
録音:1948年6月23日

CD30
◆ ラフマニノフ:楽興の時 ロ短調 Op.16 No.3
録音:1953年12月25日

◆ ラフマニノフ:10の前奏曲Op.23〜第2番 ロ長調
◆ ラフマニノフ:10の前奏曲Op.23〜第4番 ニ長調
◆ ラフマニノフ:10の前奏曲Op.23〜第7番 ハ短調
◆ ラフマニノフ:10の前奏曲Op.23〜第9番 変ホ短調
◆ ラフマニノフ:13の前奏曲Op.32〜第1番 ハ長調
◆ ラフマニノフ:13の前奏曲Op.32〜第5番 ト長調
録音:1960年12月3日

◆ ラフマニノフ:13の前奏曲Op.32〜第8番
録音:不明

◆ ラフマニノフ:13の前奏曲Op.32〜第10番 ロ短調
録音:1961年6月13日

◆ ラフマニノフ:13の前奏曲Op.32〜第11番 ロ長調
録音:1960年12月3日

◆ ラフマニノフ:幻想的小品 ト短調
録音:1952年2月18日

◆ メトネル:2つのおとぎ話 Op.20
録音:1953 or 1961年

◆ メトネル:忘れられた調べより〜夕べの歌 Op.38 No.6
◆ メトネル:忘れられた調べより〜森の舞曲 Op.38 No.7
◆ メトネル:忘れられた調べより〜花の舞曲 Op.40 No.3
◆ メトネル:忘れられた調べより〜祝祭の舞曲 Op.38 No.3
◆ メトネル:忘れられた調べより〜春 Op.39 No.3
◆ メトネル:忘れられた調べより〜回想 Op.38 No.8
◆ メトネル:ピアノ・ソナタ ト短調 Op.22
録音:1948年

CD31
◆ プロコフィエフ:スケルツォ Op.12 No.10
◆ プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第2番 ニ短調 Op.14
◆ プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第5番 ハ長調 Op.38
録音:1961年

◆ プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 Op.82
録音:1973年

◆ プロコフィエフ:エジプトの夜 (2台ピアノ版/編:ミャスコフスキー)
ニカ・ザバブニコワ(共演ピアノ)
録音:1964年5月20日(ライヴ)

CD32
◆ ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ Op.87〜第1番 ハ長調
◆ ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ Op.87〜第7番 イ長調
◆ ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ Op.87〜第8番 嬰へ短調
◆ ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ Op.87〜第15番 変ニ長調
録音:1961年

◆ ショスタコーヴィチ:人形の踊り〜第5番 おどけたワルツ
◆ ショスタコーヴィチ:人形の踊り〜第3番 ロマンス
◆ ショスタコーヴィチ:人形の踊り〜第7番 踊り
録音:1960年6月14日

◆ ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲 ハ短調 Op.35
セルゲイ・ポポフ(トランペット)
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(指揮)
録音:1962年

◆ ロクシーン:ピアノのための変奏曲(1953)
録音:1956年

CD33
◆ チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第2番 Op.44 [シロティ改訂版]
モスクワ放送交響楽団
キリル・コンドラシン(指揮)
録音:1946年

◆ ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op.30
ソ連国立交響楽団
カール・エリアスベルク(指揮)
録音:1958年1月25日


CD34
◆ ワインベルク:ピアノ・ソナタ第6番 Op.73
録音:1964年

◆ ワインベルク:組曲『子供のノート第I巻』 Op.16
録音:1964年(?)

◆ カバレフスキー:ピアノ・ソナタ第3番 ヘ長調 Op.46
録音:1958年

◆ ヒンデミット:4手のためのピアノ・ソナタ (1938)
◆ ルトスワフスキ:パガニーニの主題による変奏曲(2台ピアノ版)
ニカ・ザバブニコワ(共演ピアノ)
録音:1964年5月20日(ライヴ)

◆ バルトーク:組曲『戸外にて』
録音:1962年

マリヤ・グリンベルク(ピアノ)




 年表

◆ 印はグリンベルク関連(太字)、● は社会関連。グリンベルクの生涯に大きな影響を与えることになる夫と父親の処刑の背景を少しでも明らかにするため、ポーランドについても記述しています。

1900年
● 1900年、ロシア帝国、ウクライナのオデッサに、マルクス主義政党「ロシア社会民主労働党」の委員会が開設。ロシア帝国により建設された近代都市オデッサは、この頃には人口40万人を超えて、サンクトペテルブルク、モスクワ、ワルシャワに次ぐロシア帝国第4の都市に成長。大きなユダヤ人コミュニティもあり、市内では、ウクライナ語、ロシア語のほか、イディッシュ語話者が多く生活。とはいえロシア帝国による政策はウクライナ人、ユダヤ人に対して抑圧的なものでした。

1903年
● 4月、キシニョフ(キシナウ)で、市民らにより約50人のユダヤ人が虐殺される事件(ポグロム)が発生。キシニョフはオデッサの西約150キロのところにある中規模の都市で、オデッサのユダヤ人出版関係者たちは奮い立ち、事件について記した出版物を各国語に翻訳してオデッサの港と鉄道駅から送りだすことになります。

1904年
● 2月、日露戦争勃発。
● 7月、ポーランド社会党の反ロシア派、ユゼフ・ピウスツキ[1867-1935]が東京を訪れ、ロシア帝国からポーランドが独立するための支援を要請。しかし先に来日していたポーランド国民連盟のロマン・ドモフスキ[1864-1939]の妨害工作により大規模支援の獲得には失敗。ポーランド社会党はピウスツキが1892年に設立。

1905年
● 1月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」発生。ロシア第一革命へ発展。オデッサも革命運動の一大拠点として注目されます。
● 9月、日露戦争終結。
◆ 11月、ロシア第一革命の波はロシア帝国支配下のワルシャワにも到達。劇場広場では市民によるデモ行進がおこなわれ、そこに参加していたスタニスワフ・スタンデ(グリンベルクとのちに結婚)の母親がコサック兵により殺害、当時7歳のスタンデも重傷を負っています。

1906年
● ポーランド社会党が、ロシア第一革命の影響により親ロシア化。ポーランド独立主義を掲げる反ロシア派のピウスツキは孤立。

1907年
● 6月、ロシア第一革命、ロシア帝国政府に鎮圧されて終結。

1908年(0歳)

◆ 9月6日、マリヤ・グリンベルク、オデッサに誕生。父親イスラエル・グリンベルクはヘブライ語の教師。母親はピアノ教師。当時、ヘブライ語はユダヤ教の正典であるトーラー(旧約聖書)の言葉としての使用がメインで、ユダヤ人たちの日常生活ではイディッシュ語が用いられ、ヘブライ語は民族主義者のほかはあまり使わなくなっていました。グリンベルクの父親は、そうした状況に異を唱え、ヘブライ語研究者として、ユダヤ人たちの日常生活にヘブライ語を普及させるべく教育に従事。
  ちなみにイディッシュ語はドイツ語の一種で、ルーマニア人のチェリビダッケがドイツでの生活にすぐ適応できたのも、生まれ育ったヤシにユダヤ人が多く、チェリビダッケが日常的にイディッシュ語に接していたからでした。
● ピウスツキ、ポーランドで私設軍隊を設立。のちにポーランド軍に拡大。

1909年(1歳)


1910年(2歳)


1911年(3歳)


1912年(4歳)


1913年(5歳)


1914年(6歳)

● 8月、第1次世界大戦勃発。ロシア帝国軍は東プロイセンに侵攻するもののすぐに形勢逆転。ドイツ軍の大規模な毒ガス使用などにより膨大な戦死者。国民の不満が蓄積されてやがて3月革命、11月革命、ロシア内戦へと繋がり、1922年にはソ連が成立することになります。
● 10月、ドイツの巡洋戦艦に率いられたオスマン帝国海軍が、オデッサとセバストポリを砲撃。

1915年(7歳)


1916年(8歳)


1917年(9歳)

● 3月、国際婦人デーの女性デモをきっかけとして3月革命(ユリウス暦では2月革命)勃発。ロシア臨時政府樹立。


● 7月、ペトログラードで7月蜂起。50万人のデモがロシア臨時政府により鎮圧。
● 11月、11月革命(ユリウス暦では10月革命)勃発。レーニンが最高指導者を務めるボリシェヴィキ政権樹立。第1次世界大戦と並行して「ロシア内戦(第1期)」が勃発。
● 11月、すべての土地は人民の所有(=政府所有)とする法が発令。教会の土地・財産も没収されます。
● 12月、レーニンによりチェーカー(秘密警察)設立。100人足らずの小組織でスタートするものの、ロシア帝国秘密警察オフラーナのメンバーも含めるなどして急拡大を遂げ、やがて28万人規模にまで成長。 ● 12月、チェーカー初代議長にポーランド人のジェルジンスキーが就任。「組織化された恐怖」をモットーに、聖職者、自由主義者、資産家に関しては、街頭でも手あたり次第に射殺。
● 12月、ロシア国内の全銀行の国有化。
● オデッサ、戦略上の要衝の地ということで、ドイツ・オーストリア軍に占領されたのち、イギリス・フランス軍に占領。続いてデニキン将軍率いる白衛義勇軍にも占領されます。

1918年(10歳)

● 1月、レーニンにより憲法制定議会閉鎖。選挙でボリシェヴィキが第1党になれなかったため、武力による独裁体制に移行。
● 3月、ブレスト=リトフスク条約により、第一次世界大戦の東部戦線での戦闘が終結し、「ロシア内戦(第1期)」も休戦。
● 3月、ボリシェヴィキは共産党に改名。共産党以外の政党活動を禁じて、共産党の一党独裁制に移行。
● 5月、レーニンにより食糧独裁令発令。武装した労働者食糧徴発隊組織により農民たちからの作物の収奪が開始、内戦に繋がって行きます。
● 7月、ロシア・ソヴィエト社会主義共和国憲法制定。
● 7月、ニコライ2世[1868-1917]処刑。一家7人と従僕ら計11人がレーニンの命令によりエカチェリンブルクで殺害。
● 8月、トロツキーによる脱走兵銃殺命令。
● 8月、レーニン暗殺未遂事件発生。社会革命党の女性党員による銃撃。
◆ グリンベルク、オデッサ音楽院に入学。ダヴィド・アイスベルクと、ベルタ・レイングバルドにピアノを師事し、ニコライ・ヴィリンスキーから和声を学んでいます。なお、グリンベルクの自分用のピアノは支援者が用意していました。



● 11月、ポーランド第二共和国建国。初代国家元首はピウスツキで、1922年12月まで在任。
● ロシア臨時政府により、ロシア正教会の財産を政府のものにすることを決定、宗教教育も禁止となります。

1919年(11歳)

● 1月、ピアニストのパデレフスキがポーランド第二共和国首相に就任し、11月までの10か月間在任。
● 2月、「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」勃発。ポーランド・ソヴィエト戦争とも言われますが、当時はソヴィエトがまだ成立していないため、ポーランドでは「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」と呼んでいます。フランスがルノー戦車など支援。


● 3月、「ロシア内戦(第2期)」勃発。
● 5月、紙幣発行の制限廃止。紙幣の種類は1〜1,000ルーブル。
● 11月、「ロシア内戦(第2期)」、ユダヤ系で赤軍創始者でもあるトロツキー率いる赤軍が白軍を撃退。
● 11月、紙幣の種類に、5,000ルーブルと10,000ルーブルが追加。

1920年(12歳)

● 4月、ヴランゲリ将軍が白軍の全権を掌握。翌月にはロシア軍と名を改めてクリミア半島を拠点に赤軍と戦闘。「ロシア内戦(第3期)」勃発。
● 10月、「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」、ボリシェヴィキ側の要請で停戦。ポーランドの勝利で終結し、翌年3月に講和条約締結。
● 11月、ヴランゲリ将軍が敗北、ユーゴスラヴィアに亡命。「ロシア内戦(第3期)」終結。
● 内戦は深刻な飢餓も引き起こし、全死者数は800万人とも言われています。内戦後の耕地面積は内戦前の62パーセント、生産量は37パーセント、金属製農機具生産量は13パーセントに減少。耕作馬の頭数は350万頭から240万頭に減少、牛は580万から370万に減少。さらに輸送手段である機関車の稼働率も半分以下になっていました。
  為替レートも、米ドル「1ドル=2ルーブル」から、「1ドル=1,200ルーブル」となり600分の1の価値に下落、超ルーブル安となり、輸出競争力が急上昇し、国外からの投資も集めやすくなり、そうした金融環境が、翌年のレーニンによる資本主義的な新経済政策(ネップ)策定に繋がったものとも考えらえます。
◆ グリンベルク、オデッサでコンサート・デビュー。


1921年(13歳)

● 3月、「ポーランド・ソヴィエト戦争」、ポーランドの勝利により終結。講和条約が結ばれ、ポーランドはリトアニア中部とウクライナ西部を併合。
● 3月、ソヴィエトで新経済政策(ネップ)施行。余剰作物などの資本主義的運用により、経済が活性化。
● 4月、タンボフの反乱。アントーノフ率いる数万人の農民たちを、レーニンの指示により5万人規模の赤軍とチェーカーが、毒ガスなどを用いて6月までに殲滅。
● 7月、紙幣の種類に、25,000ルーブル、50,000ルーブルと100,000ルーブルが追加。
● 11月、第1回通貨切り下げ実施。旧紙幣10,000ルーブル=1922年度紙幣1ルーブルという基準。
● ヴォルガ流域を中心に全国規模で飢饉発生。翌年にかけて栄養失調などが原因で農村中心にチフスやコレラが流行、数百万規模の犠牲者が出て、モスクワなど都市部にもホームレスや浮浪児が集まるようにもなります。

1922年(14歳)

● 3月、レーニンが「聖職者全員銃殺」を指令。まず翌年にかけて、主教28人、司祭2,691人、修道士1,962人、修道女3,447人のほか、信徒も多数を処刑。財産を没収し、飢饉対策にも使用しました。
● 5月、レーニンによる「知識人追放指令」。秘密警察(GPU)の分類により、反政府的とされた知識人を追放。この場合の「知識人」は、哲学者、文学者、法律家、経済学者、組合活動家などが対象となります。
  レーニンは、音楽、演劇、映画、美術などの「芸術家」は、プロパガンダに結び付くことから積極的に活動を支援し、「科学者」「建築家」なども、人数が不足していたことから優遇していましたが、いわゆる「知識人」については、反共産主義や反政府的活動に繋がりやすいという判断から監視・弾圧をおこなっていました。
● 5月26日、レーニン、最初の脳梗塞発作。5か月間の入院中に回復するものの簡単な計算なども困難な状態に。その間、スターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフとのトロイカ体制を確立、有力幹部トロツキーに対抗します(のちにカーメネフ、ジノヴィエフは粛清、トロツキーは国外追放のうえ暗殺)。
● 6月、レーニンが反政府知識人の大量追放を指令し、数万人を強制収容所などに送致。
● 10月、第2回通貨切り下げ実施。1922年度紙幣100ルーブル=1923年度紙幣1ルーブルという基準。第1回通貨切り下げに当てはめると、100万分の1になった計算。
● 12月、ソビエト社会主義共和国連邦成立宣言。
● 12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。

1923年(15歳)

● 3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握。
● 11月、ドイツでハイパーインフレ対策として臨時通貨レンテンマルク発行開始。1兆分の1という交換比率で、ハイパーインフレを乗り切ります。
● 11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加。

1924年(16歳)

● 1月、レーニン死去、スターリンが最高指導者に。
● 1月、ソ連憲法制定。
● 2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加。

1925年(17歳)

◆ 秋、グリンベルク、モスクワに転居し、モスクワ音楽院に入学。フェリクス・ブルメンフェリト[1863-1931]に師事。


◆ グリンベルク、胃痛などにより2度に渡って計2年間休学し、モスクワ音楽院に8年間、大学院に2年間の計10年間在籍していました。ちなみにマリヤ・ユージナはレニングラード音楽院で、親指の負傷により2年間休学し、計9年間在籍。


1926年(18歳)

● 5月、ポーランドでクーデター発生。これはピウスツキによって引き起こされたもので、鉄道関係者の協力も得て3日間で終結。直接的な要因は、前年に発覚した政治腐敗による内閣危機と、ドイツとの関税戦争で、遠因としては数年間の経済政策の失敗によるハイパーインフレと失業率の増大などがありました。ピウスツキは首相と国防大臣を兼ね、腐敗政治家や反体制派を収監するなどして独裁体制に移行。
● メンジンスキー、OGPU(秘密警察)長官に就任。のちに大規模な粛清を実施。

1927年(19歳)


1928年(20歳)

● ピウスツキ、日露戦争で軍功のあった日本軍将校51名に勲章を授与。

1929年(21歳)

● ソ連政府により憲法の宗教に関する部分が改正。すべての宗教の社会的・教育的・慈善的活動が禁じられ、宗教団体の拠点も当局指定の建物に限定、布教活動も不可能となり、また、教会を国と切り離して民間団体として扱い、聖職者には重税が課せられることとなりました。1918年には教会の土地・財産は没収されていたので、これで財政基盤が極度に弱体化し、さらに学校では無神論を教えるようになります。
● トロツキー、国外追放。
● スターリンによりレーニンの新経済政策(ネップ)否定。市場経済の廃止。
● 戦闘的無神論者同盟発足。

1930年(22歳)

● メンジンスキー統合国家政治局(OGPU)長官による大規模な粛清が実施。

1931年(23歳)

◆ 1月21日、師ブルメンフェリト死去。以後はコンスタンティン・イグムノフ[1873-1948]に師事。


● メンジンスキー統合国家政治局(OGPU)長官による大規模な粛清が実施。
● 12月、スターリンにより、高さ103メートルという世界最大の正教会建造物である「救世主ハリストス大聖堂」が爆破(ハリストス=キリスト)。教会への弾圧はロシア革命初期の1917年から始まっていますが、それでも1930年にはまだ3万の教会がありました。しかし憲法改正後の1931年からは、閉鎖や爆破、収容所への転用などが本格化し、1939年には実際に使用されているソ連の教会は数百ほどにまで減少しています。



1932年(24歳)

● ソ連・ポーランド不可侵条約締結。
● ユダヤ系のカガノーヴィチによる民族主義運動抑圧政策でウクライナ国境封鎖。ソ連の輸出を支えていたウクライナ農作物の過剰な収奪により、人工的な大飢饉(ホロドモール)となり、栄養失調により免疫機能の衰えたウクライナの農民たちは、翌年にかけてチフスなどで約700〜1000万人(国連共同声明数値)が犠牲になります。また、民族主義運動の可能性があるということで、ウクライナ人、ウクライナ・ドイツ人の文化人や知識層も追放などされていましたが、ユダヤ系は除外されており、飢饉下でもオデッサなど都市部では普通の生活が営まれていました。
◆ グリンベルク、モスクワ・フィルハーモニー協会のソリストとして契約。モスクワでのさまざまな公演を取り仕切る協会。



1933年(25歳)

◆ グリンベルク、モスクワ音楽院を卒業。

1934年(26歳)

● 1月、ドイツ・ポーランド不可侵条約締結。
● 9月、ヤゴーダが内務人民委員に就任。任期中の2年間に粛清を進めるものの、スターリンからはあまり好まれず、左遷となります。

1935年(27歳)

◆ グリンベルク、モスクワ音楽院大学院を卒業。
◆ グリンベルク、第2回全ソ連ピアノ・コンクールで第2位。
◆ グリンベルク、モスクワでアルトゥール・シュナーベルのベートーヴェン・コンサートを聴いて衝撃を受けます。
● 11月、ルーブルの為替相場をフランス・フランの基準に設定。1ルーブル=3フランス・フラン。

1936年(28歳)

◆ グリンベルク、レニングラード室内楽協会が主催するソロ・コンサートに出演し、シューマンの交響的練習曲、リスト『ドン・ジョヴァンニの回想』等を演奏。これがプロ・デビューとなります。
● 4月、フランス・フラン切り下げにより、1ルーブル=4.25フランス・フラン。

◆ グリンベルク、2度目の結婚。相手は11歳年上のポーランドの詩人スタニスワフ・リシャルト・スタンデ[1897-1937]。
● 11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化。

1937年(29歳)

● モスクワ放送でテレビ放送開始。
◆ 5月、グリンベルクとスタンデの間に娘ニカが誕生。
● 7月、ルーブルの為替相場を米ドル基準に変更。5.3ルーブル=1米ドル。
● ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。1936年9月に内務人民委員に就任したエジョフ長官の方針は、ソ連で政敵の排除に多用されてきた「スパイ嫌疑」を最大限利用するものでした(ある人物がスパイではないことを証明するのは不可能に近いため)。
  エジョフ長官は、スパイを捕えるためには無実の人間をいくら犠牲にしても構わないというようなことを実際に発言していましたし、「自白」に追い込む「拷問」も、前長官のゲンリフ・ヤゴーダ[1891-1938]の時代をはるかに上回る残虐さで徹底、多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、数百万人とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります。自分にとって都合の悪い人物を、魔法使いや魔女だとして密告する「魔女狩り」の20世紀版です。
● エジョフ率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)のおこなった「ポーランド作戦」により、ソ連在住のポーランド人約63万6千人のうち約14万4千人が逮捕、すぐにそのうちの約11万1千人が処刑され、数十万人がポーランドに強制送還、その後、逮捕の効率が下がったため、電話帳を見てポーランド風な名前の者を逮捕・処刑するというデタラメな作戦も展開、計約31万人が殺害されています。当時、電話のある家には財産もあることが多かったので、金品を盗むことができるというNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)側の大きなメリットも被害の拡大に繋がったものと考えられます。

◆ 9月、夫スタンデ逮捕。グリンベルクと生後4か月の娘ニカと共に幸せな生活を送っていたスタンデが、エジョフの「ポーランド作戦」で粛清対象に。「ドイツのスパイ」という広く安易に使われた嫌疑による逮捕でした。
◆ グリンベルク、夫が「人民の敵」として逮捕されたことで、自身も「人民の敵の家族」として何度も召喚されて取り調べを受け、周囲の人々にも通知。当時は「人民の敵の家族」は、強制収容所か刑務所に送られ、子供の場合も特殊な孤児院に収容されていましたが、グリンベルクの場合、子供が生まれたばかりだったことで収容対象から除外。しかし演奏活動については禁じられてしまいます。
◆ 11月、グリンベルクの夫スタンデ、「自白」を拷問で強要された末に有罪判決。
● ロシア正教会の聖職者、85,300人が処刑。

1938年(30歳)

◆ 1月、グリンベルクの父親、オデッサで逮捕され処刑。
◆ 秋、グリンベルク、娘と共に転居。
◆ 秋、グリンベルク演奏再開。モスクワ・フィルハーモニー協会から演奏活動が許可されます。
● 8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任。スターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身。前任のエジョフとその部下を1940年2月に処刑。
◆ 10月、グリンベルクの夫スタンデが銃殺刑。匿名で火葬。

1939年(31歳)

● ロシア正教会の聖職者、900人が処刑。
● 8月、独ソ不可侵条約締結。
● 9月、ドイツ軍、赤軍、ポーランド侵攻。
● 10月、ポーランド分割。
● 10月、赤軍、フィンランド侵攻。
● 10月、ソ連、国際連盟から除名。

1940年(32歳)

● ロシア正教会の聖職者、1,100人が処刑。

1941年(33歳)

● 「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用します。
● 6月、ドイツ軍が不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
● 6月、イタリア、ルーマニア、ソ連へ宣戦布告。
● 7月、フィンランド、ハンガリー、ソ連へ宣戦布告。
● 7月、ドイツ軍によるモスクワへの空爆開始。
◆ 秋、グリンベルク、ソ連中央部にある人口約40万人の都市スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)に疎開。地元の音楽学校で教職に就き、同じく疎開していた14歳のナウム・シュタルクマン[1927-2006]と出会っています。
● 9月、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦が開始。
◆ 11月4日、ネイガウス、政府による疎開命令に従わず、モスクワに留まったことで、ドイツ軍の到着を待っているという嫌疑をかけられて逮捕。
  疎開命令に従わなかった実際の理由は、ネイガウスの妻ミリツァの78歳の母親が病気で長旅に耐えられない状態だったため、妻ミリツァが疎開を拒否したことでネイガウスも動けなかったというものでした。
  ネイガウスは悪名高いモスクワのルビャンカ刑務所で8.5か月を過ごしています。最初の面会者はマリア・ユージナで、投獄後約6か月後にようやく許可されたものでした。以後、ギレリス、ザーク、リヒテルなどが訪れ、プーシキン全集などの差し入れも提供されました。しかしNKVDによる拷問のような過酷な尋問と劣悪な収監環境は、ネイガウスの健康を蝕み、痩せこけて、複数の歯が抜け落ちてしまうという状態にまで陥っています。


● 11月、赤の広場で軍事パレード実施。これは約410万人のモスクワ市民のうち、疎開できていたのが、主に政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者だったことから、残された市民が近づくドイツ軍への恐怖から暴動などを起こさないよう安心感を与えるためで、同じ理由からロシア正教への弾圧をやめ、ほどなく復活させることを約束してもいました。
● 11月、ドイツ軍、モスクワから8キロの地点まで侵攻。赤軍必死の抵抗。
● 11月29日、ジューコフ将軍による大攻勢が開始。兵力は極東に展開していた赤軍40個師団、約75万人の精鋭部隊で、すでにモスクワへの移動を完了していました。



1942年(34歳)

◆ グリンベルク、スヴェルドロフスクの音楽学校を解雇。校長が親族の就職を優先したためでした。
● 6月、スターリングラード攻防戦開始。翌年2月までに兵士約48万人死亡、約65万人が負傷。役人など政府関係者の疎開しか認めず一般市民の疎開は禁じられたため、民間人死者も約4万人という大きな数になっています。またドイツなど枢軸国側兵士の死傷者は約150万人とソ連側を大きく上回るものとなっており、計約267万人の死傷者が発生したことになります。
◆ 7月4日、ネイガウス、反政府的言動の罪により、5年間、ソ連国内に340か所あった「制限地域」のひとつに住むことを命じられます。ネイガウスは、モスクワから約15,000キロ離れたスヴェルドロフスク州のクラスノトゥリインスクで森林伐採をして5年間過ごすことを選択。スヴェルドロフスク州には、ネイガウスの長男アドリアンが入所していた結核療養所も疎開していました。
◆ 7月19日、ネイガウス、ルビャンカ刑務所から釈放。髪は伸び放題でボサボサ、服もボロボロで著しく衰弱した状態でした。
◆ ネイガウスの刑を軽減してもらうため、音楽家たちが行動をおこします。ネイガウスの送致先であるスヴェルドロフスク州には、当時、「キエフ音楽院」の教師や学生が疎開して、現地のスヴェルドロフスク音楽院(のちのウラル音楽院)などで活動しており、キエフ音楽院の院長でピアノ科教授でもあるアブラム・ルフェル[1905-1948]が、ネイガウスに音楽院で働いてもらいたいと当局に請願。
  さらに1934年にネイガウスがスヴェルドロフスク音楽院の創設準備に当たった際、自分の弟子だったベルタ・マランツ[1907-1998]と、セミョン・ベンディツキー[1908-1993]を、スヴェルドロフスク音楽院の教師として送り出しており、ほどなく結婚していたその2人の協力も得ることができました(下の画像は1934年にスヴェルドロフスク音楽院が開校した時のマランツとベンディツキー、ネイガウスの姿です)。


  こうしてネイガウスは、スヴェルドロフスクに関わる人々のおかげで、疎開中のキエフ音楽院の教授として働き、ウラル、シベリア地域でコンサート・ツアーをおこなうことも許可されています。
  ちなみにスヴェルドロフスクには、オイストラフやストリヤルスキー、ヤンポリスキー、シェバリーン、カバレフスキー、グリエール、グリンベルクなど有名な音楽家も疎開してきて教育活動に従事したほか、ギレリスやタマルキナが、疎開地をめぐるコンサート・ツアーの一環として訪れたりもしており、ネイガウスが、ツアーで滞在中のギレリスと4手演奏をすることもありました。

1943年(35歳)

● 1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。
● ロシア正教会問題評議会が設立。
● 9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表。これにより、総主教制の復活、神学校や神学大学の再開、教会機関誌「モスクワ総主教庁ジャーナル」も復刊されることとなり、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定。

1944年(36歳)

● 1月、赤軍、レニングラードを解放。

1945年(37歳)

● 1月、赤軍、ワルシャワを解放。
◆ グリンベルク、モスクワに戻り演奏活動を再開。
● 12月、NKVDのトップ交替。クルグロフがベリヤの後任として内務人民委員に就任。クルグロフはベリヤの部下として、エジョフ派の大量粛清や、チェチェン、イングーシ人の弾圧、ウクライナ民族主義運動活動家の粛清もおこなっていた人物。

1946年(38歳)

● NKVDの後継としてソ連内務省(MVD)発足。クルグロフが初代内務大臣として1952年11月まで6年間在任するものの、任期なかばから内務省の権限が国家保安省に大幅に移行され収容所管轄省のような状態になったため、1952年にベリヤが国家保安省を内務省に統合、みずから第2代内務大臣となりますが、翌1953年6月にフルシチョフにより逮捕(半年後に処刑)されたため、クルグロフが大臣に復帰。翌1954年には内務省から分離してKGBが発足、1956年1月にはクルグロフがフルシチョフにより解任、以後、左遷ののち1960年に党から除籍されています。
● 2月、第4次5カ年計画(1946-1950)開始。農業が1948年までに戦前の水準となり、工業も1949年までに戦前の規模を回復。

1947年(39歳)

● 9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗します。
● 12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。為替レートはそのままとし、輸出優先体制とします。

1948年(40歳)

● 2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することをコミンフォルム設立者のジダーノフが宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに大きな影響力を持つこととなります。スターリンの死と共に迫害は収まるものの、正式に統制が解除されたのは1958年5月のことでした。ちなみにジダーノフは宣言の半年後、モスクワで52歳で急死しています。
◆ 4月、ソ連作曲家同盟第1回総会開催。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。ちなみにグリンベルクは、フレンニコフのピアノ協奏曲を演奏するよう要請されても拒否していました。


● 5月、イスラエル共和国建国。ソ連はすぐに独立国家として承認する一方、アメリカも承認したため、反共産主義キャンペーンを警戒し、ソ連在住ユダヤ人のイスラエルへの移住は認められませんでした。
◆ 5月24日、グリンベルクの師、コンスタンチン・イグムノフ死去。グリンベルクはイグムノフの生徒のために「イグムノフ記念コンサート部門」を開設。

1949年(41歳)

● ソ連政府、反ユダヤ・キャンペーン開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、1952年に処刑。ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕・処刑。
● イスラエルが国連に加盟。59番目の加盟国でした(日本は1956年、オーストリアは1955年、東西ドイツは1973年に加盟)。

1950年(42歳)

◆ グリンベルク、モスクワとレニングラードでべートーヴェンのソナタ演奏会を8回開催。
● 3月、ソ連、為替をドル基準から金基準に変更。4ルーブル=1米ドルに引き上げ。
◆ 11月、グリンベルク、クルト・ザンデルリング指揮レニングラード・フィルと共演。



1951年(43歳)

◆ グリンベルク、モスクワで東ドイツの指揮者ヘルマン・アーベントロートと共演。




1952年(44歳)

◆ 9月、グリンベルク、クレムリンの小ホールでショスタコーヴィチ作品を演奏。
◆ モスクワに、高さ176メートルの豪華で巨大な超高層アパート、コテリニチェスカヤ堤防沿いビルが完成。すでに名声を得ていたグリンベルクも入居。

1953年(45歳)

● 3月、スターリン死去。
● 3月、ウクライナ人、フルシチョフが最高指導者に。
● 6月、ベルリンで反ソ連暴動発生。ソ連軍が鎮圧するものの、この年だけで東ドイツから西ドイツへの流入は30万人を超えます。
● 7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いてモスクワに入り、国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕。
● 12月、ベリヤ処刑(フルシチョフによる粛清)。

1954年(46歳)

● 3月、ソ連国家保安委員会(KGB)発足。初代議長はセーロフ。
◆ 12月、グリンベルク、ナタン・ラフリン指揮レニングラード・フィルと共演。



1955年(47歳)

◆ 4月、グリンベルクと娘のニカ、アルヴィド・ヤンソンス指揮レニングラード・フィルと共演。


◆ グリンベルク、脳腫瘍の手術。
◆ 11月、最高裁判所から、故スタンデの有罪判決取り消しが通告され名誉回復。

1956年(48歳)

● 2月、フルシチョフによる反スターリン演説。
● 6月、ポーランドのポズナニで反ソ暴動発生。ソ連軍が鎮圧。
● 10月、ハンガリーで反ソ暴動(ハンガリー動乱)。ソ連軍が鎮圧。

1957年(49歳)

● 6月、反党グループ事件発生。反フルシチョフの最高幹部保守派らによるフルシチョフ解任に向けての政治運動。幹部会11人のうち7名が賛成してフルシチョフ解任動議が可決するものの、フルシチョフは中央委員会でなければ解任はできないと時間を稼いで抵抗、ジューコフ国防大臣とセーロフKGB議長の協力を得て、中央委員会を開催し、反対派を抑えることに成功、反対派幹部を政権から追放していました(ジューコフも11月に解任)。
● 6月、ウラル核惨事発生。ウラル山中の原爆用プルトニウム製造工場で、高レベル放射性廃棄物が爆発、周辺住民45万人が被ばく。カラチャイ湖はのちに埋め立て。

1958年(50歳)

◆ 5月、ジダーノフにより1948年2月に宣言された文化統制が解除。
● 6月、フルシチョフ、ブルガーニン首相を解任し、第1書記と首相を兼務。
◆ 9月、グリンベルク50歳記念演奏会開催。バッハ:ピアノ協奏曲第5番、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番を演奏。会場には祝電と手紙が約200通届けられ、マリヤ・ユージナからも祝電。
● 12月、ソ連国家保安委員会(KGB)議長にシェレーピンが就任。前年にマレンコフらによるフルシチョフ解任計画をつぶして彼らを追放。フルシチョフに重用されKGB議長就任するものの、末期には寝返ってフルシチョフ解任に向けて活動していました。

1959年(51歳)


1960年(52歳)

◆ グリンベルク、グネーシン研究所の創設者エレーナ・グネーシナ[1874-1967]からグネーシン研究所で教職に就くよう要請され、演奏家としての活動を並行しておこなう条件で承諾。
◆ 同僚のマリヤ・ユージナ[1899-1970]が、レニングラードの演奏会でパステルナークの死を悼み、パステルナーク[1890-1960]の詩を朗読し、グネーシン研究所を解雇。

1961年(53歳)

● 4月、元軍人で前大統領アイゼンハワーのキューバ対策を手ぬるいと批判していたケネディ大統領が、キューバ爆撃を指示、上陸作戦まで実施するものの失敗。
● 7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。翌月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始。
● ソ連国家保安委員会(KGB)議長にセミチャストヌイが就任。

1962年(54歳)

● 10月、キューバ危機。

1963年(55歳)

◆ 5月、グリンベルク、ベルリンなど東ドイツ・ツアーで成功。オーストリア、スウェーデンからも招聘されますが、政府は却下。
◆ グリンベルク、政府より「功労芸術家」の称号を授与。

1964年(56歳)

◆ グリンベルクの弟子、ナウム・シュタルクマン[1927-2006]が同性愛の嫌疑で逮捕されたため、グリンベルクは弁護士にかけあって嘆願書を作成、知人に署名協力を求めた際、ボロディン四重奏団のヴァイオリン奏者ロスチスラフ・ドゥビンスキー[1923-1997]から断られます。グリンベルクはこれに怒り、以後、ボロディン四重奏団との共演要請はすべて拒否。ボロディン四重奏団はアメリカ・ツアーを控えていたので、厄介ごとに巻き込まれなくなかったという事情もあったようです。ちなみに当時のボロディン四重奏団第1ヴァイオリンのドゥビンスキーはユダヤ人で、第2ヴァイオリンとヴィオラがロシア人。ドゥビンスキーによれば、チェロのベルリンスキーは父方がユダヤ系だったものの、ロシア人としての登録が認められ(身分証の民族欄もロシア人)、カルテットの活動の傍ら、コムソモール(共産党の青年団組織)を経て共産党にも入党し、様々な優遇措置を受けていただけでなく、気に入らないことがあると「党に報告する」と声を荒げるなどし、実に62年間に渡って在籍していました。
● 10月、ウクライナ生まれのロシア人ブレジネフが最高指導者に。
◆ グリンベルク、ポーランド・ツアー。

1965年(57歳)


1966年(58歳)


1967年(59歳)

◆ 1月、グリンベルク、ポーランド・ツアー。
◆ 秋、グリンベルク、オランダ・ツアー。
● ソ連国家保安委員会(KGB)議長にアンドロポフが就任。

1968年(60歳)

◆ 5月、グリンベルク、オランダ・ツアー。公演が大成功し、ソ連大使館も関与せざるを得なくなったため、夕食会を開催し、グリンベルクは少し演奏もおこなう予定でしたが、夕食中に気を失い、ほどなく意識を取り戻したものの、演奏は中止されています。グリンベルクの健康に問題が生じ始めていました。


● 8月、チェコ事件発生。25万人から成るワルシャワ条約機構軍(ソ連、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー)が、戦車2,000輌、軍用機800機の規模でチェコスロヴァキアに侵攻し、すぐに全土を占領。ピーク時の展開人数は約50万人、戦車は6,300輌に達しましたが、チェコ軍は一貫して無抵抗、武装市民による攻撃をやめさせるための展開となり、死者は武装市民側が137人、占領軍側が112名という結果。また、一般市民の国外脱出に特に制限が無かったため、人口の約0.5%にあたる7万人の市民が国をあとにしています。


◆ グリンベルク、全8公演から成るベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲シリーズを開始。

1969年(61歳)

◆ 夏、グリンベルク、激しい狭心症の発作で入院
◆ 秋、グリンベルク、大規模なオランダ・ツアーをキャンセル。
◆ グリンベルク、モスクワ中心部のズボフスキー大通りに転居し、娘のニカとその夫のニコライ・ザバフニコフ[1937-2001]と同居。ザバフニコフはヴァイオリニストでジョルジュ・エネスク国際コンクール第4位。モスクワ音楽院で教えていました。

1970年(62歳)

◆ グリンベルク、グネーシン研究所での立場が教授に昇格。
◆ グリンベルクによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がLP13枚組で発売。ソ連初の快挙でした。
● ソ連政府、西側とのデタント(緊張緩和)が進む中で、西側の影響を懸念し、政府との関係に問題のある人物つについては急遽凍結することとなり、たとえばグリンベルクのオランダ公演とムラヴィンスキーの日本での指揮は「中止」となっています。一方で、オイストラフ、リヒテル、ロストロポーヴィチ、ロジェストヴェンスキーなど政府との関係の良い人物については「許可」という具合に、明暗が分かれています。
◆ 秋、グリンベルクのオランダ・ツアーが中止。
◆ 11月19日、マリヤ・ユージナ、モスクワで死去。71歳。

1971年(63歳)


1972年(64歳)


1973年(65歳)


1974年(66歳)


1975年(67歳)

◆ 1月、グリンベルク、失神しほぼ2日間意識不明に陥るものの回復。

1976年(68歳)

◆ 6月26日、ヤーコフ・ザーク[1913-1976]死去。グリンベルクと同じくオデッサ出身のユダヤ系ピアニストのザークは、1937年、大粛清の時期(ポーランド人も約30万人殺害)に開催されたショパン・コンクールで優勝。大粛清で夫と父を殺害されたグリンベルクは、ザークに対して辛辣なことを言ってもいました。その後、ザークは30歳で共産党に入党し、モスクワ音楽院の教授、学部長を歴任。ザークは同じくオデッサ出身のユダヤ系ピアニストで共産党員のギレリス[1916-1985]と仲が良く、一緒に演奏したりもしていましたが、グリンベルクはギレリスについても辛らつなことを述べており、ギレリスはザークと共にグリンベルクとは距離を置くようになります。ちなみに同じくオデッサ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト、オイストラフ[1908-1974]、同じくウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト、コーガン[1924-1982]も共産党員で、海外渡航の自由など便宜が図られていました。

1977年(69歳)

◆ グリンベルク、グネーシン研究所の教授を辞任。1971年から所長を務める合唱指揮者のヴラディーミル・ミーニン[1929- ]とグリンベルクは折り合いが悪く、そのミーニンによって辞任に追い込まれた格好でした。ミーニンは自分が責任を負う必要が無いように、まずグリンベルクに辞任願を書かせ、そのうえで自発的に研究所を去るように言いますが、グリンベルクはそれを拒否。するとミーニンはグリンベルクに対して学生たちの民族データを提供するよう要求したため、仕方なくグリンベルクは教授を辞任して研究所も去るという道を選択。
  ちなみにミーニンは宗教的な人間で、宗教嫌いのフルシチョフが最高指導者の時代には出世できず、1951年から1965年まで外国や辺境で仕事をしており、ポーランド駐屯ソ連軍の「歌と踊りのアンサンブル」の指揮者のほか、モルドヴィア自治共和国やシベリアの合唱指揮者として活動していました。しかしフルシチョフが失脚した翌年の1965年には中央楽壇に復帰し、生地レニングラードの仕事を経て、首都モスクワでグネーシン研究所に就職、合唱団創設などによって政府との関係を深めて権力を強化、1971年に所長に就任していました。


◆ 12月18日、ヤーコフ・フリエール死去。グリンベルクも葬儀に参列。モスクワ音楽院の現役人気教授で人民芸術家の葬儀ということで、コンドラシン指揮するモスクワ・フィルの演奏が手向けられるなど豪華な葬儀に圧倒されたグリンベルクは、直前にグネーシン研究所教授を院長とのトラブルで辞任に追い込まれていたこともあり、自分は犬のように埋められるだろうと語っています。

1978年(70歳)

◆ 1月、グリンベルク、モスクワ音楽院大ホールでコンサート開催。最後のコンサートとなりました。
◆ 春、グリンベルクにテレビ局からグリンベルクの70歳記念番組の制作について出演依頼。体調が思わしくなかったグリンベルクは、夏のバルト諸国へのツアーの後に番組収録をおこなってくれるように返答。
◆ 7月14日、グリンベルク、エストニアのタリンで死去。
◆ グネーシン研究所で、グリンベルクの業績を記念した葬儀をおこなおうとしたところ、ミーニン所長が拒否。文化省副大臣のクハルスキーが介入してなんとか式を執り行います。
◆ モスクワ・フィルハーモニー協会からの花輪には、フレンニコフ、スヴィリドフ、リヒテルの署名。
◆ グリンベルク、モスクワのクンツェヴォ墓地に埋葬。同墓地には音楽家や作家も多く埋葬されており、近くにはヤーコフ・フリエール、ヤーコフ・ザークの墓もありました。モスクワ中心部からの距離は西南西に約28キロ。ちなみにモスクワの面積は東京23区の約4倍です。



 年表付き商品説明ページ一覧

【バロック作曲家(生年順)】

カッツァーティ [1616-1678]
ルイ・クープラン [1626-1661]

ダンドリュー [1682-1738]スタンリー [1713-1786]
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】

モンジュルー [1764-1836] (ピアノ系)
ベートーヴェン [1770-1827]
ジャダン [1776-1800] (ピアノ系)
リース [1784-1838]

【近現代作曲家(生年順)】

レーバイ [1880-1953] (ギター系)
ショスタコーヴィチ [1906-1975]
ラングレー [1907-1991] (オルガン系)
アンダーソン [1908-1975]
デュアルテ [1919-2004] (ギター系)
ヘンツェ [1926-2012]
坂本龍一 [1952-2023]
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】

アーベントロート (ベートーヴェンシューマンブルックナーブラームスモーツァルトチャイコハイドン)
エッシェンバッハ
カラヤン
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレンペラー (VOX&ライヴザルツブルク・ライヴVENIASボックス
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
フルトヴェングラー
ベーム
メルツェンドルファー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】

ガウク
クーセヴィツキー
ゴロワノフ
ペトレンコ
マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】

クーチャー(クチャル)
スラトキン(父)
ドラゴン
バーンスタイン
フェネル
【指揮者(オランダ)】

オッテルロー
クイケン
ベイヌム
メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】

パレー
モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】

セル
ドラティ
【指揮者(スペイン)】

アルヘンタ
【指揮者(スイス)】

アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】

クレツキ
【指揮者(チェコ)】

ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】

チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】

トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】


バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】

ミトロプーロス
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】

【ピアノ(ロシア・ソ連)】

ヴェデルニコフ
グリンベルク
ソフロニツキー
タマルキナ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
フェインベルク
フリエール
モイセイヴィチ
ユージナ
【ピアノ(フランス)】

カサドシュ
ティッサン=ヴァランタン
ハスキル
ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】

キルシュネライト
シュナーベル
デムス
ナイ
【ピアノ(南米)】

タリアフェロ
ノヴァエス
【チェンバロ】

ヴァレンティ
カークパトリック
ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】

【ヴァイオリン】

オイストラフ
コーガン
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヘムシング
リッチ
レビン
【チェロ】

カサド
シュタルケル
デュ・プレ
ヤニグロ
ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】

【クラリネット】

マンツ

【ファゴット】

デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】

モワネ
【歌手】

ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】

【三重奏団】

パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】

フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】

グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団


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