ストラヴィンスキー(1882-1971)

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CD 輸入盤

『ペトルーシュカ』『プルチネッラ』 クレンペラー

ストラヴィンスキー(1882-1971)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SBT1156
組み枚数
:
1
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD

商品説明


これほど破天荒な「ペトルーシュカ」があった?
広大な広がりに満ちた優秀録音!悠揚迫らぬ大迫力、クレンペラーの緊迫至芸!
ストラヴィンスキー:ペトルーシュカ&プルチネルラ


なんとクレンペラーの『ペトルーシュカ』の登場です。クレンペラーのストラヴィンスキーは、併録の『プルチネッラ』のほか、録音では『3楽章の交響曲』が知られていますが、どちらも前衛の旗手として、ストラヴィンスキーの信任篤かった若き日の活動を思わせるようなドライなアプローチと、晩年のスローなテンポ設定が結びついて、ユニークきわまりない演奏に仕上がっていたのを思い出します。
 今回、初登場となるこの有名なバレエ音楽で、クレンペラーが果たしてどのようなアプローチをおこなっているのか大いに楽しみなところですが、使われているヴァージョンが“1947年版”であることがまず注目されます。
 よく知られているように、この作品には四管編成の“1911年版”と、36年後に改訂された三管編成の“1947年版”があり、昔の指揮者は多くの場合、前者で演奏していたからであり、色々な意味でテクニカルに進歩した“1947年版”は、若手や中堅どころが用いるのが通例になっていたからです。自ら作曲もしていたクレンペラーの場合、その“1947年版”で示された語法の発達ぶりに注目しないわけにはゆかなかったはずで、実際、ここでもユニークきわまりない演奏を聴かせてくれているのです。
 では、この作品にキーワード的に用いられている民謡の旋律や、猥雑なまでの賑々しい雰囲気や不気味さを、厳格居士クレンペラーがいかなる手法で料理しているのか、以下、簡単にご紹介しておきます。
 快速かつ大音量な部分での生理的・本能的な快感への関心の欠落ぶりはいつもながらで、その意味で第1場謝肉祭の場の前半では、そうした点に不満を抱かせたりするものの、音楽が冷静になるにつれ、次第にクレンペラー解釈の面白味が顔をもたげてきます。
 『ペトルーシュカ』が、実際にはきわめて室内楽的書法による作品であり、特にこの1947年版が、多彩で研ぎ澄まされた手法によって、グロテスクな寓意に富む三角関係を描き出していることを、あらためて聴き手に想起させてくれるのです。
 例えば第3場<ムーア人の部屋>におけるワルツ(TRACK 5/00:49−)では、並存する異種(異拍子)の音楽が、完全に均等に扱われた結果、不気味な分裂的性格さえ匂わせて先の悲劇を巧みに暗示します。実はこの場面、1911年版と1947年版で大きく異なるところでもあり、こうした点からもクレンペラーがなぜ1947年版を選んだのかがよく判ります。
 また、47年版で工夫されたブリッジ部分でのドラム・ロールにも徹底した気配りがなされており、少ない人数ゆえに際立つソロ、例えばほとんど古楽器のような音色で聴き手を驚かせるオーボエなどの扱いもきわめて雄弁。鋭利なリズム、強靭な拍節感によって、3体の人形が織り成す寓意に満ちたドラマが縦横無尽に表現し尽くされます。
 どんな場面でもその立体的・複合的な音楽の表情の多彩さ、つまり膨大さには圧倒されるばかりで、そうした方法論が、この『ペトルーシュカ』のような、実は非常に複雑な性格を持った作品においていかに有効に機能するか、このディスクを聴けば即座にご納得していただけるはずです。
 併録された『プルチネッラ』(以前、EMIでCD発売済み)での異様なまでに細部拡大されたグロテスクで刺激的な演奏とあわせ、マニアな方には、たいへんな聴きものとなるアルバムだといえるでしょう。

【収録情報】
ストラヴィンスキー:
1. バレエ音楽『ペトルーシュカ』(1947年版)
2. バレエ音楽『プルチネッラ』組曲

 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1)
 フィルハーモニア管弦楽団(2)
 オットー・クレンペラー(指揮)

 録音時期:1967年3月28,30,31日(1)、1963年2月18日&5月14,18日(2)
 録音場所:ロンドン、アビー・ロード・スタジオ(1) キングズウェイ・ホール(2)
 録音方式:ステレオ(アナログ/セッション)


【年表】

【活動時期を区分】
クレンペラーの双極性障害の「躁」の多くは「軽躁」でしたが、それでも通常時よりは各種問題を引き起こしやすいことに変わりは無く、それがきっかけで生涯に4度の重大な身体的トラブルにも遭遇しています。4度ともダメージは大きく、クレンペラーの指揮者人生に与えた影響も深刻なので、その4度のダメージをもとに5つの時期に分けて捉えることも可能です。以下、指揮棒の有無、指揮台の椅子の有無、宗教と共にまとめてみます。

●第1期 (高速傾向) [1906年5月〜1939年9月]
健康体の33年4か月間。指揮棒:あり(欧州)→無し(米国)/椅子:無し/ユダヤ教徒→無宗教→カトリック教徒
●第2期 (高速傾向) [1940年10月〜1951年8月]
脳腫瘍摘出手術から復帰後の10年10か月間。指揮棒:無し/椅子:無し/カトリック教徒
●第3期 (中速傾向) [1952年4月〜1958年9月]
モントリオール骨折から復帰後の6年5か月間。指揮棒:無し/椅子:あり/カトリック教徒
◆第4期 (低速傾向) [1959年9月〜1966年7月]
チューリヒ大火傷から復帰後の6年10か月間。指揮棒:無し/椅子:あり/カトリック教徒
◆第5期 (超低速傾向) [1967年2月〜1971年9月]
サンモリッツ骨折から復帰後の4年7か月間:指揮棒:あり/椅子:あり/ユダヤ教徒

クレンペラーの65年間のキャリアのうち、ほぼ7割にあたる44年間は実演でのテンポは概して速く、その演奏は戦前には「精力的で正確な燃焼」とも称えられていました。しかし椅子に座って指揮するようになったクレンペラーは、客観的な基本姿勢は戦前と同じながらも、楽曲が細部まで息づくような演奏を志向するようになっていきます。これはクレンペラー自身が、指揮者の役割の本質が、音楽を呼吸させるように楽員を導くことであると語っていたこととも一致する変化です。


第1期 頑健な体と双極性障害発症[1906-1939]
所属組織等
◆フリーランス [1906-1907]
◆プラハ・ドイツ劇場 [1907-1910]
◆ハンブルク歌劇場 [1910-1913]
◆バルメン歌劇場 [1913-1914]
◆シュトラースブルク歌劇場 [1914-1917]
◆ケルン歌劇場 [1917-1924]
◆ヴィースバーデン歌劇場 [1924-1927]
◆クロル歌劇場 [1927-1933]
◆ロサンジェルス・フィル[1933-1939]

1906年からプロとして指揮を始めたクレンペラーは、1939年までの33年間、体そのものは丈夫だったものの、1910年に双極性障害と診断されてからは、ときにメンタル面でのトラブルを抱えるようになり、施設療養することもたびたびありました(上のアート画像の右側はクレンペラーがサナトリウムにいたときに知り合った画家エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー[1880-1938]による作品で、左側はクロル・オペラ時代のクレンペラーを彫った友人エーヴァルト・デュルベルク[1888-1933]の作品)。
マーラーの紹介状のおかげで22歳から歌劇場で揉まれることになったクレンペラーの生活は、26年間で8つの歌劇場を渡り歩く一方で、オーケストラ・コンサートも指揮するという多忙なもので、ときおりサナトリウムを訪れてメンタルな問題を解決していました。
1933年のアメリカへ移住後は、ロサンジェルス・フィルの音楽監督に就任、コンサートをメインに活動するようになり、加えて、ニューヨーク、モスクワ、プラハ、ブダペスト、ウィーン、シュトラースブルクに演奏旅行。さまざまな作品をとりあげるようになります。

ブレスラウ [1885−1889]

1885年
●5月14日、父ナータン、母イーダの子としてドイツ帝国のブレスラウに誕生。ほかの兄弟は姉と妹。

ハンブルク [1889-1901]
1889年
●クレンペラー家、ハンブルクに転居。

1891年
●ピアノのレッスン開始。

1895年
●ヨハネーウム・ギムナジウムに入学。

フランクフルト [1901-1903]

1901年
●フランクフルト・ホーホ音楽院に入学。ヤーメス・クヴァストにピアノ、イヴァン・クノアに作曲と理論を師事し、ほかにヴァイオリンも学習。

1902年
●フランクフルトでピアニストとしてシューマンのピアノ協奏曲を演奏。

ベルリン [1903-1907]

1903年
●師クヴァストの転職に伴い、ベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院に転学、クヴァストにピアノを、フィリップ・シャルヴェンカに理論を師事。

1905年
●再び師クヴァストの転職に伴い、ベルリンのシュテルン音楽院に転学。引き続きクヴァストにピアノを師事したほか、指揮と作曲をハンス・プフィッツナーに師事。 ●オスカー・フリート指揮するマーラー交響曲第2番『復活』の舞台裏アンサンブルを指揮、リハーサルでマーラーと会話。

1906年
●有名な演出家、マックス・ラインハルト[1873-1943]によるオッフェンバック『天国と地獄』のプロダクションをフリートの代役で指揮して成功、計50回も指揮することとなります。同じ頃、クレンペラーはマーラーに気に入られようと交響曲第2番『復活』をピアノ用に編曲する作業を続けており、『天国と地獄』と『復活』尽くしの日々を送ることとなります。


プラハ・ドイツ劇場 [1907-1910]

1907年
●『復活』のピアノ編曲や、舞台裏アンサンブルの指揮でマーラーに気に入られたクレンペラーは、マーラーから推薦文を入手。 ●プラハ・ドイツ劇場の指揮者兼合唱指揮者としての契約を獲得。着任後3週間でウェーバーの『魔弾の射手』を指揮してデビュー。

1908年
●マーラーがプラハを訪れ、チェコ・フィルと交響曲第7番を初演。滞在期間中、クレンペラーは、ワルター、ボダンツキーらと共にリハーサルやホテルでマーラーと過ごします。

1909年
●ボダンツキーの退任により第2楽長に昇格。
●6月、『ローエングリン』を上演。
●8月、バイロイトに行きカール・ムックの『ローエングリン』を見て古色蒼然とした上演に愕然。

1910年
●プラハ・ドイツ劇場の支配人アンジェロ・ノイマンと衝突して解雇。

ハンブルク歌劇場 [1910-1913]
●再びマーラーに推薦状を依頼し、ハンブルク歌劇場の指揮者として契約。『ローエングリン』でデビューし、『カルメン』、『リゴレット』なども指揮、大スターのエンリコ・カルーソーや、新進スターのロッテ・レーマンと交流。
●双極性障害の診断。

1911年
●鬱症状によりケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。
●シェーンベルクとの出会い、アルマ・マーラーからの資金援助のほか、リヒャルト・シュトラウスと交流し、自作歌曲を認めてもらいます。

1912年
●アルマ・マーラーの資金援助によりハンブルク・フィルと自主公演を開催。
●歌劇場では『ニーベルングの指環』、『ローエングリン』、『ばらの騎士』、『フィガロの結婚』、『フィデリオ』などを上演。
●ソプラノのエリーザベト・シューマンとスキャンダル。ハンブルク歌劇場を追われ、ドイツ中西部のバルメンの歌劇場の指揮者の職を得ます。

バルメン歌劇場 [1913-1914]

1913年
●エルバーフェルトの隣町、バルメン歌劇場の第1指揮者に任命され、ワーグナーの『タンホイザー』でデビュー。

1914年
●第1次世界大戦開戦直前のドイツ国粋主義風潮とバイロイトでの独占上演権の失効により『パルジファル』ブーム到来。クレンペラーもバルメン歌劇場で23回指揮。隣町のエルバーフェルト歌劇場では第2指揮者のクナッパーツブッシュが数回指揮。

シュトラースブルク歌劇場 [1914-1917]
●ハンス・プフィッツナーの後任としてシュトラースブルク歌劇場の音楽監督就任、『エレクトラ』のリハーサルを開始するものの第1次世界大戦開始にともなう総動員令により中止。

1915年
●1月、シュトラースブルク歌劇場で臨時のアンサンブルを編成して『フィデリオ』を上演して成功。
●2月、戦時下にもかかわらず『カルメン』を上演して賛否両論に。
●夏、躁状態になったクレンペラーは、ケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在し、劇音楽『ファウスト』など作曲。
●秋から翌年にかけてのシーズンでは、戦時ながら『アイーダ』、『トリスタンとイゾルデ』、『こうもり』、『フィガロの結婚』、『預言者』などを上演。

1916年
●プフィッツナーとの衝突が原因で再びサナトリウムに滞在。院長の19歳の息子ルドルフの戦死を悼み『宗教的闘争歌』を作曲。


ケルン歌劇場 [1917-1924]

1917年
●ハンブルク歌劇場時代の上司グスタフ・ブレッヒャー[1879-1940]後任としてケルン歌劇場の音楽監督に就任。『フィガロの結婚』でデビュー。ケルン歌劇場のオーケストラは、ギュルツェニヒ管弦楽団としてコンサート活動もおこなっており、そこでは市立音楽院院長でもあるヘルマン・アーベントロート[1883-1956]が実権を掌握、徴兵で半分近くの人数になってしまったオーケストラをめぐってクレンペラーと対立していました。

1918年
●この頃、プフィッツナーの新著『未来主義者の脅威』が、ブゾーニの著書『新音楽美学構想』を批判目的に書かれたことを機に巻き起こった論争で、クレンペラーはブゾーニの反論に賛同。
●11月、交戦国でもあるチェコの作品、ヤナーチェクの『イェヌーファ』をドイツ初演。

1919年
●2月、ブゾーニ『トゥーランドット』と『アルレッキーノ』上演。 ●3月、アヴァンギャルド画家らが開催する「諸芸術協会」第1回演奏会で、フリードリヒ・ショルのバリトン独唱、クレンペラーのピアノ伴奏でマーラーの『亡き子を偲ぶ歌』を演奏。
●4月、カトリックの地、ケルンのザンクト・パウル教会で洗礼。
●自作「ミサ曲」完成。
●ワーグナー『パルジファル』上演。
ケルン歌劇場でシンフォニー・コンサートを開催。マーラーの交響曲第2番『復活』を指揮。
●プフィッツナーの友人でアーベントロートの部下でもある反ユダヤ主義音楽学者ヘルマン・ウンガーが新聞記事でクレンペラーを攻撃。
●6月、ソプラノ歌手、ヨハンナ・ガイスラーと結婚。
●自作「ミサ曲」試演。

1920年
●1月、プフィッツナー『パレストリーナ』リハーサル開始。
ライン川氾濫によりケルン市旧市街が広範囲に渡って浸水。歌劇場は無事。
●3月、長男ヴェルナー誕生。
●5月、プフィッツナー演出、クレンペラー指揮による『パレストリーナ』上演。成功に終わるものの、ほどなく発表されたプフィッツナーのユダヤ人攻撃論『音楽的不能の新美学。腐敗の徴候』により、クレンペラーの立場は微妙なものに。
●9月、ケルン歌劇場のコンサートでシェーンベルクの『ペレアスとメリザンド』を演奏。
●12月、ヨハンナのマリエッタ役でコルンゴルト『死の都』上演。
●12月、バルセロナ、ウィーン、ベルリンなどに客演。
●クレンペラーの客演の増加と、シュレーカー、ツェムリンスキー、バルトーク、ヤナーチェクといった作曲家たちとの交渉に時間がかけられるよう、パウル・デッサウ、ヴィルヘルム・シュタインベルク(スタインバーグ)ら3人の指揮者が雇われます。

1921年
●4月、ベルリン・フィルとシェーンベルク・コンサート(浄夜、ペレアスとメリザンド)を開催。
●5月、ベルリン・フィルとマーラーの交響曲第2番『復活』を演奏。
●9月、シュレーカー『宝探し』上演。
●11月、ブラウンフェルス『鳥』上演。

1922年
●5月、シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』上演。ツェムリンスキー『こびと』、ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』。
●12月、アーベントロートとの確執に劇場側が配慮し、クレンペラーは音楽総監督に昇格。
●ケルン歌劇場でヤナーチェク『カーチャ・カバノヴァー』上演。
●イタリアに客演、ファシスト賛歌演奏。

1923年
●1月、フランス・ベルギーがドイツの工業地帯ルール地方を占領したことでハイパー・インフレ開始。
●2月、母イーダが死去。
●3月、ケルンで自作「ミサ曲」を上演。
●10月、レンテンマルク導入によりハイパーインフレ停止。
●11月、ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』上演。娘ロッテ誕生。

1924年
●2月、ケルン歌劇場との契約解消を発表。
●3月、ケルン歌劇場でシュレーカー『イレローエ』上演。
●4月、ベルリン・フィルハーモニーに客演。ハイドン交響曲第95番、モーツァルト『ジュピター』、ベートーヴェン交響曲第7番。

ヴィースバーデン歌劇場 [1924-1927]
●5月、国際的保養都市ヴィースバーデンの州立歌劇場と契約。
●6月、シュナーベルを独奏者に招いてケルンで告別演奏会を実施。
●7月、ブゾーニ死去。
●9月、『フィデリオ』でヴィースバーデン歌劇場デビュー。舞台装置はデュルベルク。
●11月、レニングラードとモスクワに客演。トロツキーと会話。
●11月、クレンペラー初のレコーディング。ベートーヴェン交響曲第1番とシューベルトの『未完成』、ブルックナー交響曲第8番のアダージョをベルリン国立歌劇場管弦楽団とアコ―スティック録音。アコースティック方式なので音はかなり貧弱。

1925年
●11月、ストラヴィンスキー本人の独奏でピアノ協奏曲を演奏。クーセヴィツキーの委嘱作。

1926年
●1〜3月、ニューヨーク・フィルに10週間に渡って客演。
●夏、ドイツ文化省音楽部長ケステンベルクからクロル歌劇場の総監督就任について打診。
●11月、ヴィースバーデンでベルク『ヴォツェック』3章を演奏。
●12月、チェコ・フィルを指揮してドビュッシー&ラヴェル・プログラムを演奏。


ベルリン、クロル歌劇場ほか [1927-1933]

1927年
●1月、2度目のアメリカ・ツアー。
●9月、クロル歌劇場での最初のシンフォニー・コンサート。バッハの管弦楽組曲第3番にモーツァルトのピアノ協奏曲第20番(シュナーベル独奏)、ヤナーチェクのシンフォニエッタというもので、ヤナーチェク本人もリハーサルから臨席。
●11月、『フィデリオ』でオペラ上演をスタート。舞台装置と共同演出はデュルベルク。
●12月、翌月にかけてベルリン国立歌劇場管弦楽団とブラームスの交響曲第1番を録音。

1928年
●1月、『ドン・ジョヴァンニ』上演。クロル歌劇場の属する組織はウンター・デン・リンデン歌劇場との二重組織になっており、そのことに起因する煩雑な運営などからクレンペラーの健康状態が悪化、総監督辞職を願い出るものの却下され、代わりに、カッセルの州立劇場で総監督をしていた実務経験豊富なエルンスト・レーガルがクレンペラーの補佐役として着任。その結果、クレンペラーには十分な時間が出来、現代作品のスペシャリストとして、ウニヴェルザール社やショット社から新作の上演依頼が数多く舞い込み、クレンペラーは十分に楽譜を検討したうえで、作曲家と打ち合わせをすることが可能になりました。特にシェーンベルクよりも先に音列作曲に挑んでいたハウアーとの打ち合わせは、具体的な演奏に際してのアイデアをもとに改訂を要求して上演を成功に導いており、クレンペラーの業績が単なる紹介者ではないことを窺わせます。
●6月、ヒンデミットのオペラ『カルディヤック』を上演。
●10月、ストラヴィンスキー『兵士の物語』を上演。
●11月、クレネクの小交響曲、ストラヴィンスキー『ミューズをつかさどるアポロ』。
●12月、ハウアーのシンフォニエッタ、クレネクの『独裁者』、『秘密の王国』、『国家の名誉』。

1929年
●1月、『さまよえるオランダ人』を初期稿&モダン演出で上演。ワーグナーの息子ジークフリート・ワーグナーは当惑、そのイギリス生まれの妻でヒトラー崇拝者であるヴィニフレート・ワーグナーは激怒するものの、ワーグナーの孫のフランツ・ヴィルヘルム・バイドラー[1901-1981]は絶賛。後年のヴィーラント・ワーグナーの演出にも影響を与えることになりますが、新聞は批判的な記事を書き立て世間も騒然となり、これに怒ったクレンペラー自身が新聞社編集部に怒鳴り込んでさらに事態が悪化、劇場存続が危ぶまれる事態に陥ります。
●1月、コンセルトヘボウ管弦楽団と最初のコンサート。
●2月、クルト・ヴァイルに依頼した『小さな三文音楽』を演奏。オッフェンバック『ホフマン物語』を上演。
●3月、レニングラードでワーグナー『パルジファル』抜粋コンサート。
●4月、ヒンデミットの管弦楽のための協奏曲を演奏。
●4月、コンセルトヘボウ管弦楽団とマーラーの交響曲第2番『復活』、『大地の歌』を演奏。
●6月、ヒンデミット『今日のニュース』、ストラヴィンスキー『結婚』、『ミューズをつかさどるアポロ』、ピアノ協奏曲(ストラヴィンスキー本人独奏)を演奏。『結婚』の4人のピアニストのうちの一人はジョージ・セル。
●10月、世界大恐慌。
●11月、ロンドン交響楽団とブルックナーの交響曲第8番を演奏(ロンドン・デビュー)。
●11月、『魔的』上演。シェーンベルク『映画の一場面への伴奏音楽』演奏会初演(放送初演はロスバウト)。
●12月、バッハのヨハネ受難曲上演。

1930年
●1月、ドイツ国家人民党と国家社会主義ドイツ労働者党がクロル歌劇場閉鎖要求動議を議会に提出。
●1月、ストラヴィンスキーの『カプリッチョ』(ストラヴィンスキー本人独奏)、『妖精の口づけ』。3月、クレネクの『オレストの生涯』。
●6月、シェーンベルク『幸福な手』、ハウアー『変化』、マーラー交響曲第2番『復活』。
●11月、議会によりクロル歌劇場閉鎖決定。ストラヴィンスキー『兵士の物語』。ヒンデミットのヴィオラ協奏曲。12月、ヒンデミット『行きと帰り』



1931年
●1月、『フィガロの結婚』。
●2月、『蝶々夫人』。
●4月、ハウアー『サランボ』からの2場面、ヴェーベルン交響曲、トッホ:チェロと小管弦楽のための協奏曲(フォイアマン独奏)。
●4月、『ファルスタッフ』。ヒンデミット:ピアノ、金管と2台のハープのための協奏音楽(ギーゼキング独奏)、ベートーヴェン『合唱付き』など。
●5月、クレンペラーはクロル歌劇場最終公演となるヤナーチェク『死者の家』の指揮を拒否。
●5月、アルゼンチンのブエノスアイレスにあるテアトロ・コロンに向けて出発。『指環』、『マイスタージンガー』などナターリア・サーツの演出で指揮して10月に帰還。その間にクロル歌劇場は閉鎖。
●12月、ベルリンのウンター・デン・リンデン歌劇場の指揮者となりモーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮。

1932年
●ウンター・デン・リンデン歌劇場で『フィガロの結婚』。
●3月、バッハ:マタイ受難曲。
●4月、ベートーヴェン『合唱付き』。『ファルスタッフ』。
●10月、ベートーヴェン:大フーガ、ブルックナー:交響曲第5番。
●12月、R.シュトラウス:『英雄の生涯』、ヒンデミット:協奏音楽、モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番(ギーゼキング独奏)。
●ベルリン・フィルハーモニー合唱団とバッハ:ロ短調ミサを演奏。
●ドイツ政府よりゲーテ・メダル授与。フルトヴェングラーやトーマス・マンと一緒でした。

1933年
●1月、ブゾーニ:ヴァイオリン協奏曲、ブゾーニ:母の棺に寄せる男の子守歌、ヤナーチェク:シンフォニエッタ。
●1月30日、ヒトラー内閣発足。
●2月、ワーグナー『タンホイザー』上演、大きな騒ぎとなります。
●2月、オランダ共産党員が国会議事堂に放火。ヒトラーはこれを政治利用し、共産主義者、社会民主主義者、無政府主義者を弾圧。
●2月、クレンペラーはライプツィヒでゲヴァントハウス管弦楽団とのリハーサル中に指揮台から転落、強い脳震盪と左半身打撲。
●3月、国会議事堂の正面に位置するクロル歌劇場はドイツ国会の暫定議会場となり、ヒトラーの演説会なども開催。
●3月、ベルリン・フィルハーモニー合唱団とベートーヴェン:ミサソレムニスを演奏。
●3月、ローマとミラノに客演旅行。
●4月、政情不安からチューリッヒに向けてドイツを出国。
●5月、ウィーンに客演。バルトークのピアノ協奏曲第2番を作曲者本人の独奏で演奏。
●6月、ブダペストに客演。バルトークのピアノ協奏曲第2番をルイス・ケントナーの独奏で演奏。

ロサンジェルス・フィル[1933-1939]

1933年
●10月、ロサンジェルス・フィル音楽監督に着任。

1934年
●10月、ニューヨーク・フィルとブルックナー交響曲第9番を演奏。

1935年
●6月、ロサンジェルスに家族到着。
●11月、ニューヨーク・フィルとベルク『ルル』組曲とマーラー交響曲第2番『復活』。エージェントのジャドソンの忠告を無視して強引に上演して赤字を出し、ジャドソンとの関係がこじれます。

1936年
●5月、プラハ、ブダペスト、モスクワに演奏旅行。モスクワではショスタコーヴィチがクレンペラーに交響曲第4番をピアノで弾いて披露。
●9月、再びヨーロッパ・ツアー開始。ウィーンとシュトラースブルク、モスクワを訪問。ウィーンではベルクの死を悼み、クラスナーの独奏でヴァイオリン協奏曲を演奏。

1937年
●シベリウス:交響曲第4番、マーラー:『大地の歌』、バッハ:ヨハネ受難曲など演奏。

1938年
●5月、ブラームス:ピアノ四重奏曲のシェーンベルクによる管弦楽編曲ヴァージョンの初演。

1939年
●夏、ハリウッドボウルで指揮した後、メキシコに演奏旅行、ベートーヴェン、シェーンベルク、ブラームスを指揮。現地で体調に異変。平衡障害に陥り歩行困難、重度の頭痛を発症。帰国後に診察を受けると脳腫瘍の診断。
●9月、ボストンで専門医による4時間半の手術を受け、小さなオレンジほどの腫瘍を摘出。クレンペラー本人は6年前にライプツィヒでおこした脳震盪が原因と推測。
●12月、ベッドから起き上がれるようになったものの髄膜炎もあって右半身に麻痺が残る状態で、さらに手術の影響で長期の「躁状態」となり、不適切な発言と、モラル上、問題の多い行動によるトラブルも多発。ロサンジェルス・フィルを解雇されるなど危機に追い込まれます。


第2期 脳腫瘍手術と極度の躁状態による5年のブランクと復帰[1940-1951]
所属組織等
◆フリーランス[1940-1946]
◆ブダペスト歌劇場[1947-1950]
◆フリーランス[1950-1951]


1940年
●アメリカに帰化。
●5月、リハビリに励み、言語障害や麻痺はあるもののなんとか歩けるようになったニューヨーク在住のクレンペラーのもとを、指揮者モーリス・アブラヴァネルの35歳の妻で歌手のマリア・シャコーが訪問。歌を聴いてもらったのが縁で、看護師のようにクレンペラーの世話をするようになって行動を共にし、アルマ・マーラー、フランツ・ヴェルフェル、エルンスト・ブロッホ、トーマス・マン、パウル・デッサウ、ホーレンシュタイン、スタインバーグ、シェーンベルク、そしてかつての恋人エリーザベト・シューマンらのもとを訪れたりしています。

1941年
●2月、サナトリウムで医師と衝突、怒った医師が危険な精神病患者脱走などと8つの州の警察に虚偽通報し、捕えられたクレンペラーは、ニュージャージー州の警察に26時間に渡って収監され、そのことが、鉄格子の中の写真付きで新聞にも書きたてられるなど、狂騒の時期を過ごします。
●4月、不適切な報道により社会的信用を失いかけていたクレンペラーは、指揮者としての復活を示すために、家族の資金でオーケストラを編成、カーネギー・ホールを借りて自主公演を開催、興行手配は有名なアーサ・ジャドソン[1881-1975]でしたが、クレンペラーは彼と6年前にニューヨーク・フィルでマーラー『復活』の公演をめぐり衝突してもいました。

1942年
●移民オーケストラを指揮したりして過ごすうちに、「躁状態」も9月には沈静化。

1943年
●娘ロッテが同行して東海岸ツアー。
●4月、ロサンジェルスの家に帰還。

1944年
●ニューヨーク、ハリウッドボウル、ロサンジェルスで指揮。ロサンジェルス・フィルとの仕事も増え、シェーンベルク70歳記念連続公演も指揮。

1945年
●ストラヴィンスキーと共同で指揮したロシア音楽祭で名声も回復。「躁状態」が引き起こした一連の騒動も収束に向かいますが、アメリカで定職を得ることはやはり難しく、翌年にはヨーロッパに活路を見出そうと渡欧します。なお、双極障害の症状は亡くなるまで繰り返し現れますが、このときほどひどい状態になることはありませんでした。

1946年
●ストックホルム、ローマ、フィレンツェ、トリノ、バーデン・バーデン、パリに客演したほか、スイスでアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮。ストックホルムでは、ピアニストのアニー・フィッシャーの夫でもある音楽学者のアラダール・トートに出会い、これが翌年のブダペスト歌劇場音楽監督への就任へと繋がります。

1947年
●ロサンジェルス・フィルに客演、その後、黒人2人組の強盗に襲われ、意識を失って朝がたに警察に保護。
●5月にパリ・オペラ座では得意の『ローエングリン』に取り組みますが、リハーサルで監督と衝突して劇場を提訴。
●8月、ウィーン・フィルとザルツブルク音楽祭に出演。マーラーの4番とロイ・ハリスの3番ほかのオーケストラ・コンサートと、『フィガロの結婚』を指揮。
●ウィーン国立歌劇場で『ドン・ジョヴァンニ』を指揮。
●秋、ブダペスト国立歌劇場音楽監督に就任。
●12月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。

1948年
●3月にフィルハーモニア管弦楽団を初めて指揮。ストラヴィンスキー『3楽章の交響曲』とバッハの管弦楽組曲第3番、ベートーヴェン『英雄』というプログラム。
●5月、ベルリン・フィルを指揮してマーラー4番ほかを指揮。
●ゲヴァントハウス管弦楽団、コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮。
●ストラスブールで、バッハ・フェスティヴァルに出演。

1949年
●1月、フェルゼンシュタインと組んでベルリンで『カルメン』を上演。
●8月、冬のオーストラリア・ツアーで成功。
●11月、再びフィルハーモニア管弦楽団と演奏会。

1950年
●スカラ座で『魔笛』を上演。
●7月、ブダペスト歌劇場音楽監督を辞任。前年に一党独裁国家となったハンガリー政府のたび重なる干渉に嫌気がさしての辞任でした。
●8月、冬のオーストラリア・ツアーを3か月間に渡って実施。
●10〜11月、ロサンジェルス・フィルとモントリオール交響楽団を指揮。
●11月、パリでラムルー管弦楽団を指揮。
●12月、ベルリンでRIAS交響楽団を指揮。

1951年
●1月、コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮。
●2月、ローマで『フィデリオ』をトラブルでキャンセル。
●2月、イスラエルに行き、エルサレムとテル・アヴィヴで指揮。
●3月、ウィーン交響楽団とVOXに録音。
●3〜4月、コンセルトヘボウ管弦楽団とメンゲルベルク・メモリアル公演。
●4〜6月、ウィーン交響楽団とVOXに録音&ギリシャ・ツアー。
●7月、コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮。
●8月、南米を訪れ、アルゼンチンとヴェネズエラに客演。
●10月、クレンペラーはモントリオール交響楽団を指揮するためにカナダに到着しますが、その際、モントリオール空港でタラップから転落して左大腿骨頸部ほか数か所を複雑骨折。回復には時間がかかるため入院。


第3期 左大腿骨骨折と共産主義活動疑惑による2年半のブランクと復帰[1952-1958]
所属組織等
◆フリーランス[1952-1958]


1952年
●4月、退院。
●5月、ウォルター・レッグとディスカッションしてEMIと契約。
●クレンペラー、出国不能。アメリカ政府が新たに制定したマッカラン=ウォルター法による帰化外国人の海外滞在制限。当時のアメリカではケネディも支持した「赤狩り」旋風が吹き荒れており、クレンペラーの職場がハンガリーだったことから共産主義活動の嫌疑をかけられ、また、なぜかナチ疑惑までかけられて、パスポートの更新拒否という処分となり、出国できなくなってしまったのです。
●12月、クレンペラー家はニューヨークに転居。

1953年
●シカゴ、ピッツバーグ、ロサンジェルス、モントリオールと北米限定の少数の公演で指揮。
●12月、弁護士を雇っての交渉が実を結び、6か月間のみ有効なパスポートを獲得、再び出国できることとなります。

1954年
●1月、デンマーク王立管。
●2月、ベルリンのRIAS響。
●2〜4月、ケルン放送響を指揮。
●5月、クレンペラーは西ドイツ国籍を取得しますが、住居に選んだのはスイスのチューリヒでした。これは妻のヨハンナが、ドイツ、オーストリア以外のドイツ語の通じる場所を希望したためです。
●6〜7月、コンセルトヘボウ管。
●7月、同じオランダでスヘーフェニンヘンのレジデンティ管を指揮。
●10月、ロンドンでフィルハーモニア管とEMIに初録音。
●10月、再びケルン放送響を指揮。
●11月、再びフィルハーモニア管とEMIに録音。

1955年
●5〜6月、ケルン放送響。
●6月、ウィーン響。
●7月、コンセルトヘボウ管。
●9月、北西ドイツ放送響を指揮。
●10月、フィルハーモニア管とEMIに録音。
●10月、再びケルン放送響。
●11月、再びコンセルトヘボウ管。
●12月、BBC響を指揮。

1956年
●2月、ベルリンのRIAS響、同月、ケルン放送響。
●3月、ウィーン響を指揮。
●3月、フィルハーモニア管とEMIに録音。
●5〜7月、コンセルトヘボウ管とベートーヴェン・チクルス。
●7月、フィルハーモニア管とEMIに録音。
●9月、スイスのモントルーでケルン・ギュルツェニヒ管。
●10月、バイエルン放送響を指揮。
●10〜11月、フィルハーモニア管とEMIに録音。
●11月3日、妻ヨハンナがミュンヘンの病院で死去。
●12月、トリノRAI響を指揮。

1957年
●1月、ベルリン放送響
●2月、コンセルトヘボウ管。
●3月、スイス・ロマンド管を指揮。
●3月、フィルハーモニア管とEMIに録音。
●4月、デンマーク王立歌劇場管。
●5月、コンセルトヘボウ管。
●6月、ケルン放送響。
●9月、バイエルン放送響を指揮。
●10〜11月月、フィルハーモニア管を指揮&EMIに録音。

1958年
●1月、ケルン放送響。
●2月、ウィーン響。
●3月、ベルリン放送響。
●4月、フィルハーモニア管。
●6月、ウィーン・フィル。
●8月、エディンバラでフィルハーモニア管。
●9月、ルツェルンでベルリン・フィルを指揮。
●10月、チューリヒの自宅で、寝タバコが原因でシーツが燃え、全身の15パーセントに及ぶ大やけどを負って重体に陥ってしまいます。その後、皮膚移植手術を何度か繰り返して回復に向かいます。

第4期 全身大やけどによる1年間のブランクと復帰[1959-1966]
所属組織等
◆フィルハーモニア管弦楽団[1959-1964]
◆ニュー・フィルハーモニア管弦楽団[1964-1966]


1959年
●7月、なんとか回復。その間、バイロイトでの『マイスタージンガー』や、オランダ音楽祭での『トリスタンとイゾルデ』という重要な演目がキャンセル。
●9月、ルツェルン音楽祭でフィルハーモニア管とハスキルとの共演で指揮に復帰。
●10月、急性良性心膜炎と診断され、メトロポリタン歌劇場で予定されていた『トリスタンとイゾルデ』をキャンセル。フィルハーモニア管との『ドン・ジョヴァンニ』のEMI録音も中止となります。
●10月下旬、フィルハーモニア管と『運命』『英雄』などをEMI録音。
●11月には終身首席指揮者となったフィルハーモニア管弦楽団とベートーヴェン・チクルスをおこなっています。

1960年
●1〜3月、フィルハーモニア管とEMI録音。
●4月、ベロミュンスター放送管弦楽団。
●5月、フィルハーモニア管とEMI録音。
●5〜6月、フィルハーモニア管とウィーン芸術週間出演してベートーヴェン・チクルス。
●6月、フランス国立放送管弦楽団とEMI録音。
●9〜11月、フィルハーモニア管とEMI録音。

1961年
●1〜5月、フィルハーモニア管とEMI録音。
●6月、コンセルトヘボウ管を指揮。
●10〜12月、フィルハーモニア管とEMI録音。

1962年
●1月、コヴェントガーデンで『魔笛』。
●2〜3月、フィルハーモニア管とEMI録音。
●10〜11月、フィラデルフィア管を指揮。

1963年
●1〜5月、フィルハーモニア管とEMI録音。
●6月、ウィーン・フィルを指揮。
●9〜12月、フィルハーモニア管を指揮&EMI録音。

1964年
●2〜3月、フィルハーモニア管とEMI録音。
●3月8日、ウォルター・レッグによりフィルハーモニア管弦楽団解散。
●3月18日、クレンペラーはニュー・フィルハーモニア管弦楽団首席指揮者兼名誉総裁に就任。
●5月、ベルリン・フィル。
●7月、コンセルトヘボウ管を指揮。
●10〜11月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。
●12月、ケルン放送響を指揮。

1965年
●1月、バイエルン放送響。
●5月、ストックホルム・フィルを指揮。
●9月、ニュー・フィルハーモニア管を指揮&EMI録音。

1966年
●1〜2月、ニュー・フィルハーモニア管を指揮&EMI録音。
●3月、ケルン放送響。
●4月、バイエルン放送響。
●5月、北ドイツ放送響。
●5月、ベルリン・フィルを指揮。
●6月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。


第5期 腰部骨折による半年のブランクと復帰[1967-1971]
所属組織等
◆ニュー・フィルハーモニア管弦楽団[1967-1971]


1967年
●2〜3月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。
●5月、イスラエル放送管弦楽団。
●5月、ニュー・フィルハーモニア管を指揮。
●10〜11月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。

1968年
●1〜4月、ニュー・フィルハーモニア管を指揮&EMI録音。
●5〜6月、ウィーン・フィルを指揮。
●8月、エディンバラでニュー・フィルハーモニア管を指揮。
●9〜10月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。

1969年
●1〜3月、ニュー・フィルハーモニア管を指揮&EMI録音。
●5月、バイエルン放送響を指揮。
●9〜11月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。

1970年
●1〜2月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。
●5〜6月、ニュー・フィルハーモニア管とベートーヴェン・チクルス。
●8月、イスラエル放送管弦楽団を指揮。
●9月、ボンのベートーヴェン・フェスティヴァルでニュー・フィルハーモニア管を指揮。
●10月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。
●11月、ニュー・フィルハーモニア管を指揮。

1971年
●1月、ニュー・フィルハーモニア管とEMI録音。
●5月、ニュー・フィルハーモニア管。
●6月、イスラエル放送管弦楽団を指揮。
●9月、ニュー・フィルハーモニア管を指揮&EMI録音。
●9月28日、ロイヤル・アカデミーの名誉会員に選出。

1972年
●1月、ニュー・フィルハーモニア管とのブルックナーの第7番をキャンセル。EMIは肺炎などによるクレンペラーの健康状態の悪化に伴い、録音計画を取り消します。
●10月、小康状態となり、カテーテル付きで歩けるようにもなりますが、仕事は無理な状況。
●12月、娘ロッテがクレンペラーの名前を削除するようニュー・フィルハーモニア管に連絡。

1973年
●4月24日、マゼールがニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮してクレンペラーの交響曲第2番を演奏。クレンペラーもロンドンまで赴いて臨席。
●6月28日、昏睡状態に。
●7月6日、午後6時15分、チューリッヒの自宅で睡眠中に逝去。
●7月10日、フリーゼンベルクの墓地に埋葬。



【商品説明:年表シリーズ】
指揮
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラティ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
タマルキナ
タリアフェロ
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ

弦楽器
カサド
グリラー弦楽四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
伝説のフランス弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ヘンツェ
坂本龍一

収録曲   

クラシック曲目

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  • Igor Stravinsky (1882 - 1971)
    Petrouchka
    演奏者 :

    指揮者 :
    Klemperer, Otto
    楽団  :
    New Philharmonia Orchestra
    • 時代 : 20th Century
    • 形式 : Ballet
    • 作曲/編集場所 : , Switzerland
    • 言語 :
    • 時間 : 38:7
    • 録音場所 : 03/1967, EMI Abbey Road Studio No. 1, London [Studio]
  • Igor Stravinsky (1882 - 1971)
    Pulcinella Suite
    演奏者 :

    指揮者 :

    楽団  :

    • 時代 : 20th Century
    • 形式 : Ballet / Suite
    • 作曲/編集場所 : 1922/1947, France
    • 言語 :
    • 時間 : 25:49
    • 録音場所 : 1963, Kingsway Hall, London, England [Studio]

総合評価

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ペトルーシュカには4管編成で書かれた 191...

投稿日:2012/04/16 (月)

ペトルーシュカには4管編成で書かれた 1911 年版と,3管編成に縮小された 1947 年版があり,多くの指揮者が 1911 年版で録音している中で,Klemperer は 1947 年版での演奏しか残していないのが惜しまれるが,ディジタル処理された録音はとても 50 年前のものとは思えないほどクリアなもので,作曲者の Stravinsky とも交流を持ち,信頼が厚かったと伝えられる Klemperer の実力を非常に良く伝えており,納得させられる演奏である。ただ,惜しむらくは縮小版の編成での演奏であるため,冒頭の謝肉祭の雑踏の喧噪などが音響的に物足りなさを感じさせる。また,他の指揮者ならば軽快なテンポで演奏されるはずの部分で驚くほどのスローテンポを設定していたりして,かなりユニークな演奏である。しかし,Stravinsky がこの曲に込めた痛烈な寓意を読取って,それを音として聴かせることにおいて,他の指揮者より上を行っているように思わせられる。オケの上手さもあって,室内楽的なアンサンブルの緻密さはこの曲の名演の一つとして挙げるべきであると思う。一方ウのプルチネッラはバロック音楽から現代曲に至る広範囲なレパートリーを持っていた Klemperer は,この曲でその素養を遺憾なく発揮し,Pergolesi のテイストと Stravinsky のテイストの両方を醸し出すことに成功している。これはこの曲の代表的な名演ということができるが,この録音が演奏から 36 年もの間世に出なかったというのが不思議でならない。

演奏家歴40年 さん | 山形県 | 不明

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 マーラー世代以降の作曲家をクレンペラー...

投稿日:2010/07/21 (水)

 マーラー世代以降の作曲家をクレンペラーで聴くのは本盤が初めてです。ペトルーシュカを聴いて感じたのは、やっぱりどんな素材であれ、クレンペラー節健在というか、他の指揮者では決して真似することのできない、強烈かつ圧倒的な説得力です。旋律の歌わせ方(いつも思っていたんですが当時のPOのフルート奏者って抜群ですね)、ハーモニーの豊かさ、特異なリズム感、どれをとっても素晴らしい、、、のですが、、、非常に残念なのは、なぜか第3幕(第4幕?)の市場の喧騒風景を鮮やかに描かず、客観的・平面的に扱っているように感じられる点です。訴求力の乏しさを感じさせるのは、何もこの曲に限った訳ではありませんが、この曲の他の部分については表現豊かに描ききっているだけになおさら目立つ上、市場の情景は、この曲の管弦楽技法の見せ所とも言える箇所なので、この部分は熱を込めて欲しかったと思いました。

浪江権太左右衛門 さん | 宮城県 | 不明

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何がなんだかわからないが魅力的なアルバム...

投稿日:2009/09/09 (水)

何がなんだかわからないが魅力的なアルバム。 クレンペラーのベストとは言わないがかなり上位に食い込むアルバム。 ストラヴィンスキーのマニアでなくても十分楽しめるのではないか。 たくさんのCDを手放してしまったが、再び買いなおししたい1枚。

黒い帳面 さん | 神奈川県 | 不明

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