デビュー作からのバンドの音作りの急変化にはグループのメンバー・チェンジに少々関係しているようだ。レコーディング前に第4のメンバーとして加わったキャータンによって、シガー・ロスのサウンドに初めて、キーボードとセカンド・ギターが導入された。ヨンシーを筆頭にバンドがそれまで模索していたサウンドに、彼の加入によってより近づいたのは明かではないだろうか。レコーディングはレキャヴィークのスタジオ、Sasylandでシュガー・キューブスを手掛けたケン・トーマス(Ken Thomas)のプロデュースで行われた。そして同年98年に、Smekkleysaレーベルより発売。アイスランドでは未だロング・ラン・ヒットのセールスを保持するこのアルバムは静かに静かに話題となり、その話題の蓄積の末、ゴールド・ディスクを獲得し、ナショナル・チャートのトップ10内に50週間(1年以上!)もマークしていたという快挙。その年の暮れの、アイスランディック・ミュージック・アウォードでは、ベスト・バンド・オブ・ザ・イヤーと、ジョンジーにベスト・ヴォーカリスト/ギタリスト・オブ・ザ・イヤー各賞が与えられた。今や国民的なバンドと言っても過言ではないだろう。実際、このアルバムでのこういったハプニングが起きる前、既に国内で彼らに脚光はあたっていた。アイスランドがデンマーク領から独立共和国になってから50周年を迎えた94年、アイスランド政府はそれを記念するコンピレーション・アルバムを制作した。ビョークを始め、多くのアイスランディック・アーティストの曲が綴られたもので、シガー・ロスも選ばれていたという。自国から生まれた才能あるアーティストに国としてこういう文化的恩恵を与えられるあたり、アイスランディックのアイデンティティーが彼らの音楽やその佇まいに顕著に表れているようにも感じられる。また、これは余談ではあるが、アイスランドのナショナル・ラジオ(日本で言うNHK)で毎日、逝去した人々(著名人だけではなく一般市民も)の名を告げ葬儀のインフォメーションをし、冥福を祈るという番組が放送されているらしいが、ここで、彼らの書き下ろしの“Death Announce ment & Funerals”という、そのまんまの意味のタイトルがテーマ曲として今も使われているらしい。ちなみにこの曲はFat Catからの2枚目の12インチ“Ny Barreri”に収録されているとにかくこのアゲイティス・ビリュンのレコーディングが終わった頃、ドラマーがアガーストからオーリーへと変わりってしまったが(父親になったことからアガースト自身が生きる道を変えたということだか)、セカンド・アルバムの誕生でサウンド同様、シガー・ロスのバンドとしての輝かしいでは言い足りないほどの素晴らしい第2幕がスタートした。
そしてこの快挙はアイスランドの島を越えて実現し始める。翌年1999年彼らがテクノ系レーベルとして知られるイギリスのインディーズ・レーベル、Fat Catからアゲイティス・ビリュンのUKリリースを実現。レーベルのオーナーであるアレックス(Alex)とデイヴ(Dave)が前年の初春にレイキャヴィークを訪れた際、バンドとレーベルの出会いが運命的に待っていた。本国ではモチロン、Gus GusのライブでDJとして招かれていた2人が、その前座としてプレイしていたシガー・ロスのサウンドに一撃されるのに時間は掛からなかった。それから、すぐさまUKでのパートナーシップをバンドと結ぶことを希望した2人は、アルバム前に、2枚の12インチをリリースするに至る。その後、すぐに、シガー・ロスの真髄、幻想とエモーションが交錯するあのライブ・パフォーマンスをUKツアーで披露するチャンスを得るゴッド・スピード・ユー・ブラック・エンペラー!のサポートとしてイギリス国内各地、そしてロンドンではユニオン・チャペルやアストリアといった会場で大絶讃を博した。ほとんどのオーディエンスがこれまで見たこともないであろう、特別な彼らのライブ評は一気に過熱、そして、アルバムのリリース後に、それまでのバンドにとって最大のオファーがやってくる。世界中の音楽界の予想を覆したKID Aを完成させたレディオヘッドがアルバム発売前に行った今や伝説的なセットのヨーロッパ・ツアーのサポートとして指名。世界中が注目するこのビッグ・ネームとのツアーで、堂々と観客を魅了したシガー・ロスの存在は瞬く間にヨーロッパ中で話題に上り、ワールド・ワイドなライセンサー体勢を取るべく、Fat Catのバック・アップとして、世界で最大規模のインディペンデントな組織レーベル、PLAY IT AGAIN SAM(PIAS)がサポートすることになり、ヨーロッパ各地でのリリースが次々と決まっていった。そして、モグワイの成功に続くように、アメリカでのシガー・ロスに対する評価は異常なまでに高く、今年2001年にはカレッジ・ラジオから派生した話題が、ローリングストーン誌やSPIN.などのメジャー誌などで、アメリカでのアルバム発売おろか、輸入盤さえもPIASの流通が始まる前に2000年のベスト・アルバムとしてマドンナやU2、他大御所アーティストの作品と並列されてフィータスが大きく、そしてはかなげにレイアウトされたアゲイティス・ビリュンのジャケットが載った。“NEXT BIG THING“と表題された記事でビルボード誌の大絶讃振りは希に見る内容であったり、CMJのチャートのTOP20に初登場し、同誌の表紙まで飾ってしまった。これほど強い個性を放つサウンドに魅了されるミュージシャンも多く、レディオヘッドを始め、ジャンルを越えた多くのアーティストが彼らのアルバムへの感銘を各所でコメントしたりもしているようだ。5月にはアルバム発売に合わせ、初のUSツアーを敢行し、話題先行で足を運んだオーディエンスも含め、各公演ほぼ完売、そして、熱い声によって、再び2001年9月東西海岸の大都市、そしてその直前6月にリリースされたカナダはトロントでの1公演と2度目のアメリカ・ツアーを実現。