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村井 翔 さんのレビュー一覧 登録

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     2018/08/13

    ちょっと『ルサルカ』を思わせる妖精と人間男性の悲恋物語。魔女(アルト)、水の精(バス)、三人の妖精たち、など声の配置も似ているが、実は1901年初演の『ルサルカ』はフケーの『ウンディーネ』、アンデルセン『人魚姫』などと共に1897年初演のハウプトマンの原作戯曲も下敷きにしているからなのだ。ただし、大きく違うところもあって、『沈鐘』の男主役は芸術家(鐘作り)で妻子持ち、遊び人タイプでは全くない。つまり、異教の神とキリスト教の間で引き裂かれる『タンホイザー』の主役みたいな芸術家オペラでもあるわけだ。まずハンブルクでドイツ語版が初演され、それからイタリア語台本が作られてスカラ座に持ち込まれたわけだから、ストーリーが細部を除いて原作戯曲通りなのは仕方がないところだが、オペラ化にあたってもう少し大胆な脚色がなされていたら、と惜しまれる。たとえば、オーケストレーションは期待通り色彩的で聴き応え十分だし、主役男女(テノール/ソプラノ)の聴かせ所もクライマックスの第3幕を中心に不足しないが、かなり長い第1幕はストーリー的にも散漫で、『ルサルカ』の「月に寄せる歌」のような「つかみ」の名旋律を欠くのが、初演後まもなく忘れられてしまった原因ではないかな。
    珍しいオペラの発掘と映像ソフト化で知られるカリアリ歌劇場だが、2000年代収録の『アルフォンソとエストレッラ』『オイリアンテ』『ハンス・ハイリング』などではオケがかなり頼りなかった。しかし、今回は遥かに厚いオーケストレーションの作品であるにも関わらず、飛躍的にクオリティが上がっている。悩める主人公のエンリーコ(原作戯曲のハインリヒ)にはかなりスピントな声が求められるし、妖精ラウテンデラインは高い音域のソプラノで、軽やかな妖精的な歌と人間的なしっとりした情感の切り替えが求められるが、どちらも及第点以上。演出は具象的で分かりやすく、要所要所でのプロジェクション・マッピングの投入も的確だ。初めての映像化としては申し分ないソフトと言える。

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     2018/08/11

    確かに力作だとは思うが、主役の男女が共に死んでしまうという悲劇的なストーリーもあって、あまり好んで観るオペラではなかったのだが......またしてもヘアハイム・マジックが炸裂。作曲者チャイコフスキー自身を登場人物の一人、エレツキー公爵と重ねているが、エレツキーはリーザの婚約者ではあるものの、同性愛者の彼が本当に愛しているのは、実はゲルマン(肉体関係もあり)というのが今回の「裏設定」。全く歌のパートのない演技だけの部分ではスタンドインを起用しているが、エレツキー/チャイコフスキーはほんらい出番のない箇所も含めて全場面に登場し、狂言回しとしてオペラ全体を仕切ってゆく。たとえば第1幕幕切れのラブシーンは彼が居ることで微妙な三角関係の場面に変容するし、第3幕でのリーザのアリアも彼が居ると二人共通の苦悩を歌っていることになるなど、何とも面白い。若き日の伯爵夫人=フォン・メック夫人の肖像画とエカテリーナ女帝の肖像の切り換えから始まって、チャイコフスキーの自己表象である「籠の鳥」(ジャケ写真)と第2幕の牧歌劇、さらに第3幕のトムスキーの歌との関連付け、伯爵夫人、リーザ、そしてチャイコフスキーの命を奪うことになる小道具「グラス一杯の水」に至るまで、細かい部分が実に良く出来ているのには毎度ながら感心させられるが、第2幕に登場してくる女帝自身がゲルマンの女装なのは傑作。
    ゲルマン役のディディクは前の録画(2010年リセウ)に比べるとかなりお腹が出てきたが、輝かしい声は健在。スラヴ系テノールにありがちな発声上の癖がなく、美しいベルカントなのもありがたい。リーザのアクショーノワはこの役にしては細身な声だが、歌・演技ともに素晴らしい。伯爵夫人(ディアドコワ)はドスを効かせ過ぎない音楽的な歌唱。普通の上演に比べて遥かに出番の多いエレツキー役のストヤノフももちろん非常に達者だ。ヤンソンスは作品の重苦しさ、暗さを強調せず、端正にまとめているが、演出がきわめて雄弁なので、これもまた賢明か。

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     2018/08/09

    第6番、第7番の収録は済んでいるはずだが、指揮者としては意に満たぬところがあるのだろう。次の第4番、第11番が先に出てきた。第11番は昨年の来日公演の圧倒的印象が忘れがたいが、来日時のインタヴューでもネルソンスは標題交響曲として一段低く見られがちな第11番がいかに重要な作品かについて熱弁をふるっていた。「1905年」という表題は建前に過ぎず、1956年のハンガリー動乱を契機に「圧制者」(この時代ではまさにソ連軍)に対する怒りをショスタコーヴィチが改めて表明した作品というのが近年の解釈だが、この演奏もそういう解釈に従っていると見て良いだろう。第2楽章末尾の「一斉射撃」に向かってひたすらクレッシェンドしてゆく前半も見事だが、後半の出来はさらにそれ以上。第3楽章の嘆き節は心に沁みるし(この指揮者、こういう緩徐楽章が本当にうまい)、終楽章冒頭、革命歌の引用である第1主題を思い切って遅いテンポ、強いアクセントで始めているのは、第5交響曲終楽章を作曲者指定のテンポで始めた時のようなパロディ効果が歴然。ショスタコ先生の怒りがふつふつと沸き上がる終楽章後半もまた壮絶。
    第4番はコンセルトヘボウのサイトで2014年のライヴ録画を無料で見ることができるが、最新、2018年の収録であるこの演奏は一段と彫りが深い。他にネゼ=セガン/ロッテルダム・フィル、プレトニョフ/ロシア・ナショナル管と同時期に計三種類の新録音が現われたが、これが断然、他を引き離している。第1楽章は冒頭から緊張感みなぎる出だしだが、プレストで始まるフーガの前の部分がかなり速いのが特徴。つまり「唐突」感を演出するのではなく、このとんでもない部分が楽章全体の構図にうまく収まるように配慮している。第3楽章は冒頭の葬送行進曲と終結部が遅いのに対し、アレグロ部、特に軽音楽的な展開になってからは速い。しかも対位旋律を抜かりなく聴かせて、不穏な感じを演出している。クライマックスでのティンパニの強打、金管の咆哮は凄まじいが、最後の部分では清澄なチェレスタを響かせつつも、低弦を強めに押し出して、重苦しい余韻を強調しているのは目新しい解釈。この大傑作の最右翼と言うべきディスクであるのは間違いない。

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     2018/08/09

    フレミングの元帥夫人「引退」公演の録画。陰影を付けようと力むあまり歌の美観を欠く箇所もなくはないが(たとえば終幕三重唱の冒頭など)、全体としてはさすがの貫祿。声の衰えをさほど気にする必要のない役なのも彼女に幸いしている。役柄の作り方は古風なものだが、ショヴァルツコップ・コピーもここまで堂に入ればご立派だ。同じく、これでこの役は「卒業」だというガランチャのオクタヴィアンは大変素晴らしい。男装姿もりりしいし、女装してオックス男爵を翻弄する第3幕も鮮やかな出来ばえ。グロイスベックのオックスは相変わらず見事。類型的な三枚目ではなく貴族的かつスタイリッシュな演唱だが、すこぶる魅力的。エーデルマン以下、私の知る限りでは最高のオックス男爵と言って差し支えない。モーリーのゾフィーはそもそも若い娘に見えないし、気の強さはうかがえるが、新鮮さがないのが残念。欲を言えば「もう一皮」むけてほしいヴァイグレの指揮はいつも通り手堅い。
    カーセンの演出は基本的には2004年ザルツブルク版通りだが、第3幕の舞台は同じく娼館の一室ながら、全裸の男女の登場は無く、保守的なメトの観客に配慮したようだ。幕切れに登場してくる「元帥」率いる兵士の一団は元のままだが、カメラが「引き」気味であることも手伝って、かつてほどのインパクトはない。カーセン演出のなかではもともとそんなに過激なものではないと思っていたが、今や立派に「クラシック」の枠組みにおさまった。それでもヴェルニケ、クプファーと並んで時代を20世紀初頭に移したものでは代表的な名演出だと思うけど。

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     2018/03/16

    ハイブリッドSACD1枚ディスクで、SACDサラウンド層も含まれているが、総演奏時間は何と86:48。特に歪んだ感じもないし、録音は優秀だ。CDってこれだけの容量があるメディアだったんですね。演奏もこの時間から察せられる通り、おおむね遅いテンポによる慎重・緻密なもの。スケルツォ主部のみ、例外的にやや速いと感じるだけだ(この部分の楽想は第1楽章第1主題を三拍子に変形したものだが、第1楽章より遥かに速い)。しかし、周到なのは良いが、マーラーとしては異例な「アレグロ・エネルジーコ」という表記が両端楽章にあるこの曲、あまりエネルギッシュな推進力が感じられない。第1楽章(24:41)などは「アレグロ・エネルジーコ」よりも続く「マ・ノン・トロッポ」を重んじている感じだ。アルマの主題は譜面の指定通り「勢い良く」始まるが、行進曲リズムが入ってくると、みるみるテンポが落ちてゆく。中間楽章がアンダンテ/スケルツォの順なのも、古典的な均整感を強めている。終楽章も定番通りハンマーは2回で、もともと非常に劇的な音楽だが、必要以上に劇性を強調することなく、いわば粛々と進む。ギリシア悲劇のような「避けようのないカタストローフ」なのだから、これでいいという声もあるかもしれないが、私としては主人公にもう少し「あがいて」欲しかった。

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     2018/03/06

    DGデビューのショスタコーヴィチ以来、バッハ・アルバムを除けば、久しぶりに理想的な共演者にめぐり合いましたね。第1番は若き日のプロコフィエフの良さ満載の佳曲だが、ここでのバティアシュヴィリの瑞々しい美音には本当に惚れ惚れする。ちょっと斜に構えたヴィルトゥオーゾ協奏曲の第2番も素敵。毎度ながら、今回も付け合わせ3曲のセンスの良さに感心させられる。コストの点でフィラデルフィアとの録音がなかなか難しいせいだろうが、目下の共演相手では最も相性が良さそうなネゼ=セガンとヨーロッパ室内管の俊敏な伴奏も素晴らしい。ヴァイオリン協奏曲の場合、よほど指揮者が配慮しないと大編成のオケと合わせるのは難しいと感じることが多いので、ロマン派や20世紀のレパートリーでも、これからはこのような室内オケ伴奏が標準になってゆくのではないかな。

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     2018/03/06

    オペラの上演史には、たとえばクプファー演出『さまよえるオランダ人』のように、そのオペラに対する考え方を百八十度変えてしまうような画期的なプロダクションが存在しうる。『ルチア』においてこれは50年代のカラス主演の舞台(残念ながら映像として見ることはできない)と並ぶ革命的、歴史的な上演と言えるだろう。そもそもこのオペラには舞台上で描かれない出来事が多い。ルチアはアルトゥーロをどうやって殺したのか(武装していない寝室内の出来事とはいえ、女一人では難しかろう)。ルチアはどのようにして死んだのか(発狂が直ちに死に結びつくわけではない)。これらは『トロヴァトーレ』のように台本自体が破綻しているわけではなく、すべてを見せてしまうのははしたないという19世紀的な慎みの産物なのだろうが、現代の観客はもうそれでは満足するまい。というわけで、あまりに露骨すぎて正視できないという批判もあろうが、分割舞台を用いてすべてをありのままに見せてしまおうというのがこの演出。ルチアとエドガルドのセックス・シーン(二重唱の場面)、それに続く妊娠の示唆だけでも相当に衝撃的だが、男たちの決闘の二重唱の間に隣の舞台ではルチアとアリーサがアルトゥーロを殺す様子を克明に見せる。ルチアは夫を殺しても平然としており、むしろ誇らしげだが(フェミニストの女性演出家ならでは)、その直後に流産に襲われ、エドガルドとの絆を失って、かの「狂乱の場」(グラスハーモニカ使用)につながる。ルチアは最終場面にも登場しており、浴室で自死した彼女の後を追って、エドガルドも息絶える。
    オーレンの練達の指揮に乗って展開する主役三人、ダムラウ、カストロノーヴォ、テジエの演唱は圧倒的。特にダムラウは歌だけでも驚異的な高水準だが、演技の迫真力たるや凄まじい。いつも通りふっくらめの見た目だが、かなり年齢も高め、かつ妊娠中という演出の設定にぴったり。ちなみに、時代自体も19世紀、ヴィクトリア朝に移されている。

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     2018/03/06

    ヒンメルマン演出の『トスカ』と言えば、『007/慰めの報酬』の一場面にも使われた、ちょうど10年前、2007年のブレゲンツ湖上ステージにおける「目玉のトスカ」が印象深いが、今回の演出は前回と同じネタが半分、新ネタが半分といったところ。前回が、監視カメラが至る所にある「監視社会時代のトスカ」だったとすれば、今回はいわば「you tube時代のトスカ」。「歌に生き、愛に生き」が終わった直後からスカルピアはトスカの姿をテレビカメラで撮り始め、撮られた映像は全面スクリーンになっている後ろの壁に投影される。第2幕の終わり、ト書き通りならトスカは倒れたスカルピアの頭上に燭台を置いて部屋を出て行くのだが、この演出では例のテレビカメラを鏡代わりに使って、自分の姿を確認してから退場。第3幕のカヴァラドッシ処刑シーン(この演出では銃殺ではない)も撮影されて、背後の壁に映される。頭に袋をかぶせられて殺される彼はISの人質殺害映像そのまんま。最後のヒロインの自殺も飛び降りではなく、インパクト満点。『トスカ』の現代化演出も色々あったが、最も成功した舞台と言えるだろう。
    ラトルのアプローチはコブシ山盛りの演歌として歌われてきた『トスカ』をもう少し格調高く、かつシンフォニックな音楽に戻そうというもの。何と言ってもピットにいるのがベルリン・フィルだから威力満点だ。この演出では第3幕でトスカとカヴァラドッシは一瞬だけしか身体的接触をしない。二人の間に亀裂が入ったのはこの間のカヴァラドッシの振る舞いのせいでもあるが、スカルピアの存在も大きいはず。トスカが彼を刺殺したのも、自分を惹きつけるこの男が許せなかったからとも解釈できる。オポライスはこういう複雑な、演技性人格の女性を演じさせたら圧巻。一方のM・アルバレスは能天気なイタリア・オペラ的ヒーローで、それなりに役にはまっている。スカルピアはヴラトーニャも悪くはないが、この映像収録回以外はニキーチンが演じていて(私は2回、ナマで観た)こちらの方がさらに凄味があった。ヴラトーニャを売り出したい事務所の意向が働いただけで、かつてのバイロイト事件の後遺症はもうないと信じたいが、個人的にはちょっと残念。

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     2018/01/27

    あらゆる読み替えが試みられた感のある『フィガロ』だが、そうかまだこんなことができるんだと感心させられる粋な新演出。序曲が始まると裸の舞台にフィガロ一人が出てきて、困惑の表情。でも、彼がストレーラー演出版のアームチェアを運んでくると、美女揃いの裏方さん達が現われて第1幕の書き割りを組み立ててゆく。この美女軍団・黙役たちは伯爵の秘書という役回りでオペラ本編にも登場してくるが、バルトロ、バジーリオなどはかなり戯画化されているとはいえ、人物達はおおむね18世紀の服装で、その意味では読み替えではない。しかし、舞台装置はベニヤ板に色を塗っただけのペラペラの書き割りであることが故意に分かるように作られているし、舞台袖に控えるプロンプターが台詞を忘れた伯爵に教えるなど、これはお芝居ですよというメタ・メッセージを観客に発し続ける一方、舞台上では笑いのツボを逃さぬ細やかな演技が展開。とても清新な舞台だ。
    主役級五人の歌手はすべて一級品だが、特に目覚ましいのはまずマルクス・ヴェルバのフィガロ。元気溌剌の演唱で見事に主役を張っている。ついでディアナ・ダムラウの伯爵夫人(ひと頃よりもスリムになった)。近年流行の若作りな伯爵夫人で、彼女にかなり三の線の演技を要求しているのは演出の仕様だが、細かい演技指導に嬉々として応えているし、歌ももちろん万全。相当ヌケたところのある伯爵のカルロス・アルバレスもなかなかいい味だ。白塗りに髭が書かれたクレバッサも愛嬌あるケルビーノだし、シュルツはもう少し弾けても良かったかもしれないが、十分に水準以上のスザンナと言える。チューリッヒでの録画に比べてややおとなしい感はあるが、端正ながら生きの良いヴェルザー=メストの指揮の素晴らしさは相変わらず。こんなに有能なオペラ指揮者を世界の歌劇場がほっておくわけがない。レチタティーヴォを伴奏するフォルテピアノもかなり奔放に動く。第4幕はマルツェリーナのアリアのみ省略。日本語字幕が間違いだらけのベヒトルフ演出、ザルツブルク版のまんまなのが唯一の欠点。

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     2018/01/26

    昨年9月のマーラー5番の超絶的名演(直後に同じ曲をやったキリル・ペトレンコ/バイエルン国立管が完全に霞んでしまった)以下、音楽監督二期目に入ってプログラミング、演奏ともますます面白くトリフォニーホール通いがやめられない上岡/新日フィルだが、これは一期目最後のリクエスト・コンサートのライヴ。一聴して上岡と分かる個性的な演奏だ。まず第1楽章序奏の繊細な弦の響きからして典型的な上岡トーン。ハーディング/スウェーデン放送響のようにモダン・オケでピリオド・スタイルを実現した演奏とは違うが、やはりHIPの影響を受けていると思う。主部はクレッシェンドとアッチェレランドが連動しがちなこの指揮者らしく盛大に盛り上がるが、音楽が減衰してゆく部分も弾き飛ばさず、丁寧に作られている(なお第1、第4楽章ともにリピートなし)。第2楽章は故意に引っかかるようなフレージングとリアルなポルタメントでこの舞踏会の非現実性を演出。最後の部分でのフルートの強調も面白い。第3楽章は例のコーラングレと舞台外のオーボエの呼び交わし以外にも、随所で遠近感の強調があるのが印象的。第4楽章ではトランペットの行進曲主題をテヌートで吹かせ、裏のトロンボーンを強奏させるので、すこぶるグロテスク。最後のファンファーレも遠くから聞こえてくるように(いわば、夢の中に現実の音が侵入してくるように)演出されている。終楽章でも奔放な魔女のロンドとテヌート気味のディエス・イレ主題のコントラストが鮮烈。両者の同時奏楽に向けて盛り上がってゆく部分の極端なピアニッシモ(とスル・ポンティチェロ)にホルンのゲシュトップト奏法を加えたケレン味も上岡らしい。首都圏4強(N響/読響/都響/東響)に比べるとマッスとしての威力ではイマイチの新日フィルだが、最後の猛烈な加速にトロンボーンがついてゆけないのを除けば、大健闘。

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     2018/01/26

    誰にでも分かるような大芝居を仕掛けてくる演奏ではないので、地味に聞こえるかもしれないが、この指揮者の楽譜読解能力の高さ(業界用語では「耳の良さ」と言うようだが)と堅固な形式と耽美な耽溺の間に最適値を見つけるバランス感覚の良さを見せつける快演。第1、第2楽章では過度に深刻ぶって大立ち回りを演ずるのを避けているが、構造的にも複雑な第2楽章をすっきりと、しかし極めてポリフォニックに分からせてくれるのはなかなかの手腕。でも、ここまでで終わってしまったら、ちょっと物足りないかもしれない。この演奏の見せ場は、むしろこの先。長大なスケルツォではテンポの伸縮と「しなをつくる」ような優雅さが堂に入っている。ヴィブラート控えめ、対向配置の弦楽群によって奏でられるアダージェットの美しさはこの盤の白眉だが、意外にもテンポは速くなく(10:46)、作曲者の書き込んだ細かいテンポ変化の指示に忠実に従っている。終楽章では前楽章中間部の旋律が三回にわたって引用されるのだが、三回ともオーケストレーションが違っている。その違いをこんなに面白く聴かせてくれた演奏は、かつてなかったのではないか。この演奏では終楽章全体が(その中にさらにテンポの伸縮を含みつつも)ひとつながりの大きなアッチェレランドとして構想されており、最後は見事なプレストに達する。

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     2017/12/26

    CDの時代になってから、歌手たちはいわゆる『白鳥の歌』14曲に何を加えて一枚のCDを作るかに頭を悩ませてきた。通常、行われてきたのは、ザイドルとレルシュタープの詩による歌曲を増補することだったが、この盤はユニークな方法をとっている。もはや定番とも言えるレルシュタープ歌曲「秋」D.945は入れているが、それ以外の増補はなし。ただ一つのザイドル歌曲である「鳩の便り」は「別れ」で終わるレルシュタープ歌曲群の後ろに、いわばアンコールのように置かれ、その代わりゼンの詩による「白鳥の歌」D.744以下、『白鳥の歌』冒頭に置かれたハイネ歌曲群につながるような水と死に関わる歌曲5曲を冒頭にセレクトしている。「海の静寂」D.216からハイネ歌曲の一曲目「漁師の娘」へのつながりはお見事。その後のハイネ歌曲の並びは「海辺にて/都会/影法師/彼女の肖像/アトラス」だが、これも実に良くできた配列で、もちろんそれぞれは別個の詩だが、ひとつながりのストーリーになっている。「苦痛の全世界を背負わねばならない」とアトラスの歌う「苦痛」には失恋の痛みも含まれているわけだ。特に「影法師(ドッペルゲンガー)」において、従来の恐怖・戦慄よりは自嘲のニュアンスをはっきりと打ち出しているのは、詩の解釈としてはまさしく正解。レルシュタープ歌曲の冒頭にある「愛の便り」をやや遅いテンポで、すこぶるソフトに歌っているのも、「アトラス」の次という曲順を考えた結果だろう。ほんの少し前に出たスコウフスの再録音では、声も重くなって、やりすぎと言えるほど(F=ディースカウ以上)朗誦に近づいているのが衝撃的だったが、トレーケルも歳をとって枯れてはきたが、まだ端正な柔らかい歌い口を保っている。ピアノ伴奏はスコウフス盤でのヴラダーの積極的な切り込みが忘れがたいが。

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     2017/12/26

    修正版CDが届きました。なるほどコントラバス伴奏の入りが0.5秒ほど欠けていましたね。しかし、ファゴットの主旋律が欠けているわけではないので、このミスに気づくのはなかなか至難かと。さて、肝心の演奏だが、やはり大した業師との印象を再確認した。HIP(ピリオド)様式による『悲愴』の録音は既にあったが、これはもはやHIPでは全くないでしょう。弦はノン・ヴィブラートからヴィブラートたっぷりまで自由自在、編成も16/14/12/14/9と非常に大きい(低弦が厚いのはロシアの伝統でもあるようだ)。対向配置も、終楽章第1楽章など両ヴァイオリンが合わさって一つの旋律を作るという作曲者の凝った書法を生かすために(常にではないが)既に行われてきている。管楽器も「増管」して3管編成。第1楽章展開部直前のppppppもバス・クラリネットだし、モーツァルトでも必要とあらば譜面に手を入れていたクルレンツィス、オーセンティックでなければならぬというこだわりは皆無だ。
    しかし極端な強弱の対比を軸にした細部への徹底的なこだわり、第1楽章展開部などでのめざましい弦楽器群の表出力は、いつもながらお見事。オケをベルリンまで連れてきて、この一曲のために一週間、スタジオに缶詰めにするなんて、毎週の定期演奏会演目を2〜3日のリハーサルで仕上げねばならぬメジャー・オーケストラには出来るはずもない芸当だ。第3楽章では金管を抑え、すなわち華やかさを抑えて(録音の方でもそのようにバランス調整しているようだが)、終楽章とのコントラストよりは同質性を狙うなど、方法論が徹底している。終楽章最後の第2主題再現、普通は「鎮静・浄化」を感じさせるところで、こんなに痛烈な表現を持ち込むなんて、やはり聴かせどころを外さないな。

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     2017/12/17

    実はエラス=カサドの指揮に最も期待していたのだが、『椿姫』のようにピリオド楽器オケではなく、一般の歌劇場オケだったのが災いしたか。悪くはないが、ごく普通の『オランダ人』だった。ゲルネとの『ワーグナー・プロジェクト』でスウェーデン放送響を振っているハーディングの方が遥かにピリオド・スタイルらしさを出している(序曲とオランダ人のアリアだけだけど)。ティーレマン指揮のバイロイト版に続いて主役を張るサミュエル・ユンは堂々たる演唱。ドイツ語も彼が一番しっかりしている。クワンチュル・ユンのダーラントは小物、好々爺というイメージだが、役作りとしてはこれも悪くない。ヒロインのブリンベルイは歌はちゃんと歌えているが、映像ソフトでこの老け顔はつらい。
    演出は残念ながら凡庸。三幕とも海辺の砂地が舞台になっていて、第2幕冒頭の娘たちは糸紡ぎではなく修理中の船の部品磨きをしている。演出家はチッタゴン港(バングラデシュ)のイメージだと語っているが、舞台機構の制約からそうなっただけで、積極的に読み替えをやろうという意図も意欲もなさそうに見える。序曲や幽霊船の船員たちの合唱、第3幕終盤では盛大にプロジェクション・マッピングを投入するが、こういう舞台はもう見慣れてしまったので、さほどの驚きもない。それどころか、海や水のイメージは映像でしか表現されないので、『スターウォーズ』でおなじみの砂漠の惑星みたいに見えてくる。特にエンディングが意味不明なのには参った。ゼンタの献身によってオランダ人は呪われた運命から解き放たれたようだが、彼女の方はどうなったのか? 死んだわけでもなく、昇天もしない。ひょっとして彼女の方がゾンビ化して死ねない体になったのか? 何度見てもよく分からない。

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     2017/11/18

    今のラトルに最もふさわしいオペラとして、『ペレアスとメリザンド』を挙げる人は少なくないだろう。もっともラトルのドビュッシー演奏のスタンスは昔から変わっておらず、印象派風の曖昧な雰囲気を排して、響きそのものをきっちりと磨き上げて行こうというやり方だ。ただ、その精緻な音の積み重ねが官能的な湿りけを帯び、雄弁にドラマを語り始めるあたりが(『トリスタンとイゾルデ』でも大いに驚かされたが)近年のラトルの素晴らしさ。基本テンポはやや遅めだが、緩急の起伏は大きく、弱音の扱いはすこぶるデリケートだ。ラトルは全く同じ歌手陣でこの録音の直前、2015年暮れにベルリンでセミ・ステージ形式の演奏をやっている。ソリストのうまさと自発性、尖鋭さではBPOの方が上だが、シンフォニックで腰の重いBPOの響きに対して、LSOの「軽み」もまた悪くない。
    フランス人の誰もいない歌手陣もなかなか強力。コジェナーのメリザンドはやや作り物めいた印象だが、人工的であることが特にマイナスになっていない。彼女の歌で聴くと、メリザンドは無垢な少女ではなく、最初から悪意をもって男をたらしこみ、破滅させる魔女のようにも聴こえるが、それも悪くない解釈。ともかく、これで彼女はカルメンとメリザンドを両方録音するという珍しい記録を作ったわけだ(ユーイングやフォン・オッターも両方をレパートリーにしていたけれど)。ゲルハーエルのペレアスはフランス語もうまく、模範的な出来。ただ一人、疑問を感じるのはフィンリーのゴローの役作り。熱演ではあるし、ラトルの音作りの方向とも一致しているのではあるが、いささか生々し過ぎ、いわばヴェリズモであり過ぎるように感じられる。特に第5幕での過剰な「泣き落とし」は終幕の静謐な雰囲気を損なっているように思うのだが。

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