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村井 翔 さんのレビュー一覧 登録

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     2017/11/18

    今のラトルに最もふさわしいオペラとして、『ペレアスとメリザンド』を挙げる人は少なくないだろう。もっともラトルのドビュッシー演奏のスタンスは昔から変わっておらず、印象派風の曖昧な雰囲気を排して、響きそのものをきっちりと磨き上げて行こうというやり方だ。ただ、その精緻な音の積み重ねが官能的な湿りけを帯び、雄弁にドラマを語り始めるあたりが(『トリスタンとイゾルデ』でも大いに驚かされたが)近年のラトルの素晴らしさ。基本テンポはやや遅めだが、緩急の起伏は大きく、弱音の扱いはすこぶるデリケートだ。ラトルは全く同じ歌手陣でこの録音の直前、2015年暮れにベルリンでセミ・ステージ形式の演奏をやっている。ソリストのうまさと自発性、尖鋭さではBPOの方が上だが、シンフォニックで腰の重いBPOの響きに対して、LSOの「軽み」もまた悪くない。
    フランス人の誰もいない歌手陣もなかなか強力。コジェナーのメリザンドはやや作り物めいた印象だが、人工的であることが特にマイナスになっていない。彼女の歌で聴くと、メリザンドは無垢な少女ではなく、最初から悪意をもって男をたらしこみ、破滅させる魔女のようにも聴こえるが、それも悪くない解釈。ともかく、これで彼女はカルメンとメリザンドを両方録音するという珍しい記録を作ったわけだ(ユーイングやフォン・オッターも両方をレパートリーにしていたけれど)。ゲルハーエルのペレアスはフランス語もうまく、模範的な出来。ただ一人、疑問を感じるのはフィンリーのゴローの役作り。熱演ではあるし、ラトルの音作りの方向とも一致しているのではあるが、いささか生々し過ぎ、いわばヴェリズモであり過ぎるように感じられる。特に第5幕での過剰な「泣き落とし」は終幕の静謐な雰囲気を損なっているように思うのだが。

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     2017/11/15

    オペラとバレエの融合はヨーロッパの歌劇場で今や一つの流行だが、パリ・オペラ座はケースマイケルに振付&演出を依頼。六人の登場人物のそれぞれにダンサーの「分身」がつくことになった。このオペラ、二人の士官たちが出征することになったと言って嘘の芝居を始めるあたりから、「理性をもって対すれば・・・」という最後のドン・アルフォンソの啓蒙主義的教説に至るまで、本音と建前の乖離が至る所で顕著だが、歌手が建前の歌詞を歌うのに対し、ダンサーは常に本音を表現するので、「愛の親和力」を表象する床の幾何学模様以外、具象物のほとんど何もない舞台上では、実に面白い重層的パフォーマンスが展開。たとえば、婚約者との別れを悲しむドラベッラの建前の背後で、彼女の本音は早くも少しウキウキといった具合。欲を言えばこの演出、仕掛けが遅く、途中まではやや退屈だが、第1幕フィナーレ、少なくとも第2幕から先は文句なしに面白い。特に新しいカップルによる二つの二重唱がダンサー達のパフォーマンスを伴うと、幸せそうな歌詞とは裏腹に恐るべき空虚さをあらわにするのは衝撃的。このオペラ、二組の恋人たちが試練の末に「真実の愛」を見出すなどという、おめでたい話ではないことを改めて思い知らせてくれる。
    突出したスーパースターはいないが歌手陣は適材適所。プリマドンナらしい大柄な歌を歌うフィオルディリージ、いかにも利発そうなデスピーナ、危険な恋愛実験の仕掛け人たるドン・アルフォンソ、いずれも見事だ。ピリオド・スタイルを十分に踏まえつつ、演出の求める細やかなニュアンスを実現したフィリップ・ジョルダンの指揮も素晴らしい。近年の『コジ』ではヴェルザー=メスト指揮(チューリッヒ)と双璧と言ってよい。余談ながら、指揮者がリーフレットに寄せた「空虚を受け入れること」という文章が大変見事なのに感心(正確にはインタビューを基にインタビュアーが構成したものらしいが)。インテリのケースマイケルがこれぐらいのことを喋れるのは当然だが、演奏は素晴らしくても喋らせるとまるでダメな音楽家が少なくないなかで、これは秀逸。彼なら低迷の極みにあるウィーン国立歌劇場を建て直してくれるかもしれない。

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     2017/11/13

    この「ピッツバーグ・ライヴ」シリーズは毎シーズンの演奏の中から、最も自信のあるものをCD化するというのが趣旨だったはず。前作の『エレクトラ』『ばらの騎士』組曲は2016年5月の録音だった。それが2013年の録音に戻ってしまったのは、なぜだろうか。ひょっとしてグラミー賞連続受賞の某オケに対する対抗心かとも思うが、出てきた演奏は大変素晴らしいので(5番だけなら間違いなくこちらが上)、理由の詮索などはやめておこう。指揮者自身によるライナーノートは今回も詳細だが、音楽内部の解釈の話にとどめていて、「これは強制された歓喜の表現」とか「これはスターリンくたばれ!の意味なのだ」といった音楽が表現しようとするものについて一切語らないのは興味深い。第4交響曲については盛んに言われるが、この曲についてはやや珍しいマーラーからの影響をあれこれ指摘しているのは、オーストリア人のホーネックらしいが、ともかく聴衆には音楽そのものから感じてほしいということだろう。
    さて、そこで肝心の演奏。第1楽章はまず気合十分の開始、中間部分はそれなりに盛り上がるが(ただし対位声部をよく響かせて抑制気味)、両端部分はすこぶる静謐な、デリカシーを重んじた演奏。第2楽章は存分にテンポ・ルバートを効かせた遅めのテンポ。アイロニカルかつ確かにマーラー的だ。指揮者自身「この曲の白眉」と言っている第3楽章は緻密かつ痛切。特に盛り上がる所は「慟哭」より「憤怒」を感じさせるほど激烈な表情で、もともと感動的な音楽だが、近年にないほど心打たれた。終楽章前半は残念ながら常識的(冒頭を四分音符=88という譜面通りのテンポでやろうという指揮者はなかなか現れないな)、しかし後半は終わりに近づくほどテンポが遅くなり、執拗に続く弦楽器の「ラ」音(ロシア語では私、俺の意味になるという話は既にご存じだろう)を強調。これなら指揮者が言葉で語らなくても、音楽の意味するところは明らかだろう。拍手はカット。その後にバーバーの「アダージョ」が続くというカップリングも絶妙だ。もともと録音優秀なこのシリーズだが、今作はとりわけめざましい解像度。

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     2017/11/13

    ワシリー・ペトレンコとオスロ・フィルによるスクリャービン録音の第二弾。最初の交響曲第3番/第4番はこの指揮者としては普通の出来だと思ったが、今回の第2番は特筆すべき名演。第2番はけっこう稚拙なところもある若書きの曲だけど、作曲家生誕百周年の1972年に最初のLPが入手可能になった時から、不思議に気に入っている。その時聴いたスヴェトラーノフの旧録音は終楽章で鳴り渡る金管のファンファーレ音型があまりにド派手かつ下品で、いま聴くと笑ってしまうけど。マーラーの5番と同じく5楽章だが3部から成る曲で、第1楽章冒頭の主題(ハ短調)がそのまま「変容」して終楽章第1主題(ハ長調)になるという、ロマン派音楽を席巻した主題変容技法の見本のような作品。さて、ペトレンコのこの演奏、直近の競合盤であるゲルギエフ/LSOと比べると全体で10分も演奏時間が違うのに驚くが、これはゲルギエフの方がやりすぎ。退屈なところもある曲だから、速いテンポで締めようと思ったのだろうが、事務的で無味乾燥な演奏になってしまった。演奏時間の大きな違いをもたらしているのは真ん中の楽章(マーラーと違って緩徐楽章)であるアンダンテだが(ゲルギエフ11:55/ペトレンコ18:01)、メシアンを先取りするように鳥の声も響くこの美しい楽章はペトレンコのこの演奏がこれまでで最美と断言してはばからない。「光が欲しいと思ったのだが、軍隊行進になってしまった」と作曲家自身もボヤいている終楽章も、この楽章の陳腐さをうまく抑えたセンシティヴな演奏。全くヴィルトゥオーゾ的でなく、ショパン以上に「触ると壊れてしまいそうな」ピアノ協奏曲も非常にデリケートな出来ばえ。

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     2017/11/06

    2013年12月30日のライヴ、最後は拍手入りで会場ノイズもそれなりにある。物理特性自体はそんなに悪くないが、マルチマイク的な録音でもない。推測するに、放送録音として一発ライヴで録ったものだが、演奏がとても良かったのでCD発売の運びになったのではないか。実際、ユロフスキーのチャイコフスキーとしてはLPOとの最初の録音だった『マンフレッド交響曲』と双璧をなす出来ばえだ。
    チャイコフスキーのバレエ音楽はいずれも劇的あるいは抒情的な、交響曲のような音楽と踊りのためのいわば実用的な音楽のハイブリッドで出来ているが、付属のリーフレット所収のインタビューで指揮者自身が述べている通り、『眠りの森の美女』はその二つがはっきり分かれているのが特色。おとぎ話としてのストーリーは第2幕までで完結しており、第3幕はディヴェルティスマンだけだから。ユロフスキーの演奏はこの二種類の音楽をはっきり描き分けようとするもの。まず前半のシンフォニックな音楽では、序奏冒頭や第1幕終盤など、カラボスの主題が出てくる部分の迫力が半端じゃない。フレーズの終わりを畳みかけるように鋭角的に切り上げるユロフスキー・スタイルが絶大な威力を発揮している。一方、指揮者自身の言う「ドライ」な踊りのための舞曲は、ちょうどストラヴィンスキーがチャイコフスキーの主題に基づいて作った『妖精の口づけ』のような感覚。リズムの切れと、響きをまろやかに溶け合わせるよりはむしろ異質な声部の衝突を面白がるような響きのバランスがとても斬新だ。主旋律をしっかり確保して、しっとり描き上げようという演奏(たとえばプレヴィン)とは対極的なアプローチ。今では「エフゲニー・スヴェトラーノフ記念」と名乗っているロシア国立交響楽団は相変わらずパワフルだ。

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     2017/11/06

    近年の読み替え演出の様々な問題点を集約したような舞台。まず第一に舞台を現代の中東(第1幕間奏曲の間に投影されるグーグルアース風映像によれば、シリアとイラクの国境あたり、当時のIS支配地域とのこと)に移したこと。これについて私は、説得力があれば何でも認めようという立場。キリストに擬せられたアムフォルタスを使って血糊たっぷりの血なまぐさい聖餐式が演じられる第1幕終わりまでは、おおむね肯定的に見た。しかし第2幕、クリングゾールのアラブ風の館になると、そこには(本来いないはずの)アムフォルタスが囚われている。歌のパートがない人物を登場させるのも昨今の演出ではおなじみの手法だが、このアムフォルタス、「アムフォルタス!」と自分の名前が絶叫されているにも関わらず、ただ見ているだけで何も反応しないのだ。この黙役の扱いがいかにもまずい。第3幕、聖金曜日の奇蹟の場面では舞台奥にオアシスが出現し、そこで女性の全裸を見せたりするが、ここで最も肝心なパルジファルとクンドリーの心の交流についてはさっぱり描かれない。最大の問題はエンディング。この演出では第2幕終わりでパルジファルが聖槍を折ってしまっているのだが、彼がその折れた槍(ドイツの批評家の解説によれば、槍にはイスラエルとシリアの国旗をはじめ、様々なものが巻き付けられているとのこと)をティトゥレルの棺桶に投げ入れると、まわりの人々も七枝の燭台(ユダヤ教のシンポル)や十字架、数珠(仏教?)などの宗教的象徴をそこに投げ入れてしまう。素直に理解すれば、宗教を捨てよということらしいが、そんなことで二千年来のパレスチナ問題が解決するわけないでしょうが。最終場面にクンドリーは現れないので、ワーグナーのト書き通り、彼女が死んだのかどうかも分からない。オペラ演出に政治的メッセージを持ち込むなとは言わない。しかし一番いけないのは、作品そのものの解釈とちゃんと向き合わずに(シリア難民の大量流入に苦悩していた2016年のドイツでは特に受けたであろう)口当たりのいい政治的メッセージにオペラの結末を丸投げしてしまったことだ。
    ヘンヒェンの指揮は中庸かやや速めのテンポで手堅いが、ただそれだけ。近年、バイロイトで『パルジファル』を振ったガッティやフィリップ・ジョルダンですら聴かせてくれた「形而上的な」次元に欠ける。歌手陣の中で文句なしなのはツェッペンフェルトのグルネマンツだけ。フォークトはいつも通りの輝かしい声だが、全曲の真ん中での主役の「覚醒」が的確に描かれないので(もちろん演出の責任だが)説得力に乏しい。パンクラトーヴァも声は立派だが、演技の方は全く生彩なく(これも演出の責任)、存在感が薄い。マッキニーは(この演出ではキリストそっくりに見える必要があるので)見た目重視の起用と言えるが、歌の方はイマイチ。

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     2017/11/02

    2016年9月18日、つまり一連の首席指揮者就任披露演奏会のライヴ。近年のガッティは遅いテンポによる細部拡大趣味という「巨匠的」なスタイルを見せることがある。それはこの半年ほど前、すなわち首席指揮者就任前に収録された『幻想交響曲』のように「面白いけど、こねくり回しすぎ」という印象を招くこともあったが、ここでは彼の解釈が見事にツボにはまっている。終楽章の行進曲風な展開部における、まるでクレンペラーのような遅いテンポ、明確なフレージングはガッティの面目躍如。ただし、続く第2主題の展開において、(先のヤンソンス指揮の録画ほど露骨ではないが)舞台裏で演奏するバンダの姿を見せてしまうのは映像演出として好みを分けるかもしれない。また特筆すべきはオランダ放送合唱団の好演。この曲の合唱パートに数百名の大合唱は不要。それよりもピアニッシモかつ正しい音程で歌える確かな技術が必要だが、至難な無伴奏・最弱音による歌い出し部分は「まさにこうでなくては」という理想的な出来。この演奏では合唱は座ったまま歌い始める。それ自体は決して珍しいことではないが、立ち上がるタイミングが実に心憎い。これまた極度に遅いテンポをとった曲尾の極大スケールも圧巻だ。

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     2017/10/08

    チャルニャコフ演出は半年後に同じペーターゼン主演でメトで収録されたケントリッジ演出とは対照的な舞台。プロジェクション・マッピングを全く用いず(第2幕の間奏曲もパントマイムのみ)、具象物のほとんどない舞台上で人物達の絡みを的確に見せる。普段は見られない自殺した画家の遺体を見せるほか、舞台上でのルルの失神、シェーン博士の婚約者、第2幕ではシェーンがアルヴァを殴りつけるなど、舞台裏の出来事をはっきり見せるのはなかなかの工夫。最後のルル刺殺シーンも舞台前面で演じられるが、ちょっと違った味付けになっている(見てのお楽しみ)。主役ペーターゼンはメト版よりも遥かに生彩ある演唱。ただし、彼女もこの役はこれで歌い納めとあって、アップになると老けて見えるのは残念だが。シンドラムのゲシュヴィッツがやや魅力薄なのを除けば、スコウフスの素晴らしいシェーン博士以下、テノール三人(クリンク/トロスト/アプリンガー=シュペルハッケ)も申し分ない。
    さて、これが初映像ディスクとなる話題のキリル・ペトレンコ。私の聴いた限りでは、緩急の幅を広くとり、ここがクライマックスと見定めれば(たとえば『タンホイザー』第2幕終わりのコンチェルタート)、多少粗いところがあっても一気呵成に行く天性のオペラ指揮者。現役指揮者中ではやはりティーレマンに似ていると思うが、当然ながらティーレマンより世代が若い。3月のベルリン・フィル定期ではモーツァルト『ハフナー』交響曲で、ピリオド・スタイルを自家薬籠中のものとしていることを実証してみせたし、レパートリーも広い(『ルル』から『兵士たち』まで振る)。交響曲レパートリーではマーラー、ショスタコーヴィチを問題なく振れるあたりが、ベルリン・フィルのシェフ選びで、ティーレマン派を取り込みつつ、反ティーレマン派をも黙らせた要因だろう。

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     2017/09/21

    近年、ピリオド系アンサンブルを中心にメンデルスゾーンの交響曲が盛んに演奏・録音されているのは、ナチス時代の遅れがようやく取り戻され、新しい校訂による楽譜がたてつづけに出版されているからだ。特に『宗教改革』は2017年が宗教改革五百周年ということもあって、(私の知る限りで)早くも今年登場する三つ目の録音だ。これはブライトコップ&ヘルテルの新校訂版譜面による初録音という触れ込みだが、ネゼ=セガンが録音していたホグウッド校訂、ベーレンライター版に含まれていた終楽章冒頭のフルートのカデンツァ風導入部は含まれていない。初稿に由来するあれはとても美しい部分で、慣れてしまうと従来版での第3楽章から第4楽章への接合は不自然に感じるほどなのだが。とはいえ、今年出た三つの録音の中ではこのエラス=カサド指揮が最も攻撃的で、トーマス・ファイの録音と双璧をなす出来だ。前の『スコットランド』『イタリア』では意外におとなしいなと思ったエラス=カサドだが、今回はすこぶるアグレッシヴ。特に終楽章のリズムの弾みはめざましい。『フィンガルの洞窟』も非常に敏感、鋭利な切れ味満点な演奏。ただし、ヴァイオリン協奏曲だけは御免なさい。ファウストはまことに現代らしい、知的なヴァイオリニストだと思うが、私はこの人の乾いた(私にはとても美しいと思えない)音色と、私にとっては「神経を逆撫でされるような」フレージングがほとんど生理的に苦手。イブラギモヴァ/ユロフスキは実に素敵な、清楚で美しい演奏だと思うし、過激なコパチンスカヤ/クルレンツィス(録音はまだないが、2015年ブレーメンでの録画がある)も大好きだが、このディスクでの演奏は最後まで聴き通すのに忍耐を要した。出と引っ込みのタイミングを心得つつも独奏者に必要以上に遠慮しないエラス=カサドの指揮は、HIPスタイルによるこの曲の伴奏指揮でベストだと思うのだが。というわけで、『宗教改革』『フィンガルの洞窟』は星5つ、ヴァイオリン協奏曲はあくまで相性の問題なので、評価放棄。

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     2017/09/14

    完璧主義のあまり、録音嫌いの変人ピアニストの烙印を押されてしまったツィマーマンだが、彼の音楽作りに奇矯なところは何もなく、玲瓏たる美音と端正で堅固な造型は今も健在だ。ただ、細部の細かな味付けが年々、濃くなっていることは確かで、イ長調冒頭の晴れやかな第1主題とかすかに悲しみをたたえた第2主題のコントラストから早くも味の濃さを聞き取れる。第2楽章中間部の壮絶な修羅場の表現力も申し分ない。変ロ長調ソナタ冒頭の美しい歌と展開部の大きな盛り上がりとの対比も見事だし、提示部リピート経過句ほかでの左手トリルの凄みも期待通り。足を引きずるような第2楽章主部と中間部の明るさのコントラスト、楽章終盤でのごく自然なリタルダンドも近年の彼ならではの解釈だろう。ためらいがちな終楽章序盤から喜びの爆発する終結まで、私の大好きなこの名曲の新たな名盤の誕生を喜びたい。82分に及ぶ長時間収録ながら録音はきわめて優秀。雪深い1月の柏崎(ライナー所収のピアニスト自身のインタビューによれば積雪3メートルであったという)に参集した録音チームの皆さん、本当にグッジョブ! シューベルト最後のソナタと対にしてツィマーマンが近年、好んで弾いているもう一つの変ロ長調ソナタ、ベートーヴェン『ハンマークラヴィーア』の録音もぜひまたここで。

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     2017/08/25

    これもまたナマで聴いて震撼させられたが、恐るべき集中力と苛烈さを感じさせる演奏。8番は演奏時間60数分の曲で、たとえばネルソンス/ボストン響は約66分と、余裕のあるテンポをとって細部まで細密に描く演奏が近年は増えてきているのだが、このディスクの演奏は58分を切っている。もちろんムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの荒涼たる風景をここに求めるわけにはいかず、あれに比べたら都会的な、洗練された演奏なのではあるが、それでもこの緊迫感とオケのヴィルトゥオジティは凄まじい。長大な第1楽章も全く弛緩することなく、強い表出力をもって奏でられているが、第2楽章アレグレットが5:29で片付けられると、ちょっと皮肉っぽい舞曲楽章という従来のイメージは一変。早くもきわめて緊張した音楽になる。そして都響の全楽員がまなじりを決して突進する第3楽章は5:35。ムラヴィンスキーのどの録音よりも速いし、ウィーン交響楽団とのインバル自身の前回録音6:52より遥かに速い。この速いテンポにもかかわらず、細部まできわめて克明に作り込まれており、中間部での高橋 敦以下、トランペット群の妙技もお見事。80歳を超えて、見た目はかなりお腹が出てきたインバルだが、苛烈な音楽作りに弛みは全く感じられない。来年の第7番「レニングラード」、「幻想交響曲」、「悲愴」も楽しみだ。

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     2017/08/21

    初役挑戦の二人のうち、まずベチャワは文句なし。声もかなり重くなってきたし、クールかつ流麗な歌は女心など分かろうともしない、この「人でなし男」にぴったり。ネトレプコも決して悪くない。大変高名な歌手でもドイツ語がおかしい人は少なくなかったので(実名を挙げて恐縮だが、幾多のアメリカ人歌手はもとより、たとえばグルベローヴァなど)、それに比べれば上出来の部類。ただ、キャラクター的にエルザかと言われれば、合っていないのは確か。この古色蒼然の演出では、演技力を発揮する余地もないし。今回、意外にも不満を感じたのはティーレマンの指揮。きれいな歌を歌う歌手たちばかりだからかもしれないが、流麗に進みすぎていて、どろどろした「どす黒い」感じに乏しい。カラヤンのかつての録音のように、徹底したレガート趣味で、流麗さを磨き上げるというわけでもないし。『ローエングリン』はまぎれもない悲劇だし、相当に「どす黒い」オペラだと私は感じているのだが、第2幕のようにヘルリツィウス、コニェチュニの両悪役が前面に出てくると指揮はとたんに生彩を帯びるものの、清澄な美しさの影に隠れた「どす黒さ」が出せていない。それは結局、演出が無策だからとも言えるのだが。

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     2017/08/04

    たまたまヤンソンス/バイエルン放送響とほぼ同時の発売となったが、私の考えではこちらの方が断然上。シベリウスとマーラーは音楽の志向するヴェクトルが正反対なので、良いシベリウス指揮者が良いマーラー指揮者になれるとは限らないが、ヴァンスカの場合は幸いどちらも素晴らしい。彼のシベリウスは弦の編成を少し刈り込み、もちろん管楽器は倍管なしで、金管やティンパニをよく響かせるバランス、ピリオド・スタイル風にやや速めのテンポで、アグレッシヴに行くところが特徴だったが、マーラーでは百八十度逆のスタイルに変えている。テンポ上げの指示がある第3、第5楽章末尾は申し分なく速くなるが、全体としては余裕のあるテンポで大編成のオケをたっぷり鳴らした演奏。特に第4楽章は12:36と近年では最も遅い部類の演奏になっている。この楽章のタイトル「アダージェット」は「小規模なアダージョ楽章」という意味で、テンポについての指示ではない。その後「引きずらないで」というテンポ上げの指示があるまでの冒頭部のテンポはSehr langsam(非常に遅く)というのが作曲者の意図だというのが私の考えだから、最近流行の8分台、9分台の演奏は間違いだと思うが、ヴァンスカの細密でたっぷりした指揮は私にとって理想的。その他の楽章でもパートの隅々まで血が通い、指揮者の意図が徹底されているのが感じられる。特に第3楽章スケルツォの細かなテンポの切り換え、グリッサンドの克明な処理などは見事と言うほかない。これが近年とみにオケに対する統率力がユルくなったと感じられる(だから昨年の来日公演の9番もさっぱり感心しなかった)ヤンソンスとの大きな違い。

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     2017/06/25

    1995年ライヴのラフマニノフ第3番が驚愕の名演。音・絵ともに貧弱だがネット上には1978年モスクワ音楽院大ホールでの全曲ライヴ映像があり、このCDに付属するDVDには同じ場所での1984年のものとされる映像(全曲のほんの一部)も含まれているから、ラフ3が協奏曲も弾いていた時代のソコロフの中心レパートリーであったことが分かる。ちなみに前者、1978年の演奏について言えば、28歳のソコロフは早くも堂々たる風格だが、解釈としては超個性的な1995年と常識的な線の中間ぐらい。つまり1990年代は彼にとって解釈の深まりと技術的精度が最高のバランスで手を携えることのできる時期だったのだろう。ネット上には1998年ストックホルムでのライヴ(音だけ)もあって、これも圧巻だがテンションの高さではこのプロムス版が一枚上手だ。さて、この演奏、どこが凄いかと言うと、まず彼の大きな体躯から繰り出される、まるでロシア正教会の鐘の音のような「深い音」。第1楽章、大カデンツァの和音がすべて鳴り切っているのには驚嘆させられる。それに加えて千変万化のタッチ。絶妙なテンポ・ルバート。さらにもっと大きなスパンでの緩急自在なテンポ設計の見事さ。たとえば第1楽章冒頭はやや遅めのテンポで始まるが、主旋律が弦に移る主題確保部ではぐんぐん加速し、第2主題でまたガクッと遅くなる。こういうことが全く恣意性を感じさせぬ自然な呼吸でできているのだ。終楽章の短いカデンツァ前の加速から曲尾までなど、仮にインテンポのまま演奏するとしたら、何とも間抜けなことになりかねないが、激烈なテンポの切り換えを伴うこの演奏で聴くと、ああ作曲者の意図したのはこういうことだったかと初めて了解できる。指揮者とオケはあまりの爆演に振り落とされそうになりながら、必死にくらいついてゆく。もちろん一発ナマ演奏ゆえ、ミスタッチ皆無とは言えないが、この曲の求める濃厚なロマンティシズムとグランドマナーな巨匠芸をこれほどの水準で両立させた演奏がかつてあっただろうか。少なくとも私には他に思い浮かばない。
    一方のモーツァルト第23番は「ピアノを弾く哲人」みたいな近年のソコロフのスタイルにかなり近づいた演奏。けれども、終楽章の敏捷な運動性は今の彼にはもう望めないかもしれない。そう言えば、晩年のホロヴィッツがちょうどこの2曲の協奏曲を録音していたのを思い出したが、彼の場合、何を弾いてもいつものホロヴィッツのまんまだったのに対し、世代が違うとはいえ、ソコロフは第1楽章冒頭から通奏低音を担当してオケ・パートに加わるなど、ピノック指揮マーラー室内管のピリオド・スタイルにぴったり合わせている。それでも第2楽章は決して速くなく、味わい深いが。予想通り、ソコロフ本人のインタビューなどは一秒も含まれないが、おまけのドキュメンタリーDVDもなかなか面白い。1966年のチャイコフスキー・コンクールで16歳のソコロフを優勝させたギレリス審査委員長が袋叩きにあったという話はここで初めて知った。クライバーン事件の再来を狙ってミッシャ・ディヒターを優勝させようとした共産党幹部および世論の意向を無視したせいらしい。

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     2017/06/24

    ティーレマンの指揮はすこぶる好調。強弱、緩急の幅を広くとり、ここぞという所ではタメと瞬発力にものを言わせる、いかにもオペラティックな指揮だが、後期ヴェルディとの相性は極めて良い。近年、ワーグナーではちょっと手の内が見え過ぎる感があるので、むしろ新鮮だ。久しぶりに見たクーラはなかなか渋い感じの中年になっていて、クリスチャン・ラクロワの衣装も良く似合い、見た目に関してはとても好ましいオテロ。しかし、残念ながら声のコンディションはあまり良くないようだ。一段とヴィブラートが増えて、かつての輝かしい声は影をひそめてしまったし、音程が一発で決まらず、しばしば「ずり上げ」気味になるという悪癖も相変わらず。若い男との不貞を疑われるというシチュエーションからすれば、デズデーモナはもっと若く見えた方が説得力は増すだろうけど、レッシュマンの周到な役作りはやはり得難い。いかにもはかなげな従来のイメージよりはもっと芯の強いヒロインになっている。カルロス・アルバレスは2008年(夏の)ザルツブルクの時から、現時点で望みうる最良のイヤーゴだと思っていた。今回は一段と素晴らしい。
    演出はまあまあ。終始一貫暗めの舞台の中で下からの照明を効果的に使うし、個々の場面の作り方に関しては、随所にセンスの良さが認められる。祝祭大劇場の広い空間を持て余しがちな第1幕終わりの二重唱では大きな鏡を有効に使う、第4幕は舞台を区切って中央の一角だけを使うなど。特に終幕は非常にユニークで、そもそもベッドがなく、デズデーモナが死んだかどうかも明らかでない(舞台上に彼女の遺体はなく、飾られたドレスだけが身代わりのように残っている)。最終局面ではオテロ以外の全員が舞台から去ってしまう。ストレートプレイに比べて遥かにアンチリアルな、高度に様式化された劇形式であるオペラならではの演出だ。前年のシュテルツル演出のような奇矯な舞台ではないのでザルツブルク復活祭の観客にとっても問題なく受け入れ可能だろうが、これまでにない『オテロ』の一局面を見せてくれたかと問われれば、口ごもらざるをえないところが苦しいか。その典型が開幕冒頭から舞台に登場している黒い翼の天使(黙役)。主要な場面のほとんどに姿を見せ、第3幕では翼が燃え上がり、最終幕では舞台上に倒れてしまうのだが。この天使はオテロの運命の象徴、あるいはイヤーゴに否定された旧世代の信仰の象徴なのか。たとえば、グート演出『フィガロの結婚』における天使ケルビムの役割は明らかだが、こちらの天使の場合、その存在意義がいまいち曖昧なのが歯がゆい。

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