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センメル さんのレビュー一覧 

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     2017/11/29

    この日のヨッフムはいつもと違っていた。NHKホールの広いステージに登場する姿からして緊迫の気配があり、楽章間の間合いには異常といえるほどの長い時間をとった。5分以上はかけたと思うが、ひたすら精神統一に努めるヨッフム、こんな姿を見るのは後にも先にもこの時だけで、おそらくこの曲に対する畏敬の念と祈りに似た心情がそうさせたのだろう。その間かたずを飲んで開始を待つ私も、期待と緊張をはらんだ無上の快さをホール全体に感じたものだ。
    はじめて聴くバンベルク交響楽団の音は暖かく美しい。しかし一方で、私は長年心酔してきた朝比奈隆の演奏との違いに戸惑い、前半2つの楽章はあまりに勝手が違うので、まごつくことが多かった。朝比奈流の演奏様式ではインテンポが基本で、弱音の多くはmp、強音といえば全開のffであり、どこかに安心感があったのだが、ヨッフムが描き出すこまやかなテンポ操作と強弱は、どうも落ち着かない。音色のバランスがあまりにも違い、唐突なクレッシェンドに驚き、逆に素通りして肩透かしをくらうこともあった。
    しかしアダージョの冒頭でヨッフムの凄さが分かった。この打ち震えるテーマにかけられたビブラートの、まるで心のヒダに触れるようなデリケートさ、これはただ者ではない。これを機にすっかり魂を奪われてしまった。音楽が進行するにしたがいヨッフムの棒はますます自信に満ちドライブが効き、フレーズの要所ではアクセントがつけられ、テンポ変化もピシッと決まっている。朝比奈隆の良くいえば自然体、悪くいえばいささかのっぺりした音作りとはあきらかに違っていた。一流の指揮者とはこういうものなのだろう。ホルンの内声を容赦なく強調して曲想を掘り下げるなど、いかにも雄弁である一方、オーケストラの響は沈み込むように深く、随所に寂寥感が漂う。やがてクライマックスを迎えるとシンバルの一撃によってfffは断ち切られ、ハープの断片とともに強烈な和音が私たちを震撼させる。そして曲は天上のコーダへと入っていくのだが、その直前のクラリネットの、ためらいがちにコーダへ橋渡しするテヌート、これはまた何という優しくデリケートな表現だろう。思わずヨッフムのいやブルックナーの琴線に触れるようで、胸が熱くなった。絶美のコーダについてはもはや選ぶ言葉もない。
    第4楽章に入ってもヨッフムの好調さは変わらない。彼は全体にトランペットを強めに奏させるが、同時に威圧的になることをつとめて避けている。第3主題が終わったところで、待ってましたとばかりにティンパニを伴い進軍する金管楽器群、多くの指揮者が力のかぎりのフォルティシモを駆使する部分だが、ヨッフムはトランペットの音色が汚くなる寸前に抑えつつ充分な迫力を得ている。その一方、第4楽章冒頭主題が再現される部分でヨッフムは乾坤一擲、すさまじいティンパニのひと打ちをみせる。こういう《踏みはずし》は、抑制してきた部分があるからこそ効果があるのだ。これには腰が抜ける程びっくりした。
    最終コーダは悠然としたテンポで厳かに開始し、トロンボーンの主題を生かしつつ見通しよく各々の主題がきこえるように楽器間のバランスを選び、楽器がわめくことを極力避けながら輝かしく盛り上げると、ついに最終和音3つを迎える。ここでヨッフムは従来のストレートな表現をガラリと変え、初めてリタルダンドを施し最終音をずっしりとテヌートして終結したのだった。
    ヨッフムは数か月前、日本公演に先立ちリンツ郊外のブルックナーの聖地ザンクトフローリアン修道院で同じオーケストラとこの曲を演奏したという。その際に試みた新解釈を当公演で完成したかったのだろう。私にとっても、この一期一会ともいうべき演奏に出会えたことは終生忘れることはできない。
    さて当CDにはひとつ苦言を呈しなければならない。上記トランペットが強めと書いたが、その音色はひたすら透明で、心に浸透するほどに澄み切ったものだったのだ。しかしこのCDでは硬く機械的なうるさい音色に変貌してしまっている。弦楽器もツヤに欠け豊かさにも不足するので、この驚くべき名演奏がいささか不当に評価されているのは、このCDの音質に原因があると私は思っている。手元にあるNHK-FM(生中継)からの留守録テープはとても素晴らしい音質であることを考慮すると、おそらくマスタリングに問題があるのだろう。新バージョンの登場を心から期待したい。

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     2017/11/22

    ベイヌムというと、ロマン主義の大家メンゲルベルクへの反動で、個性の主張が少ない謙虚なタイプの指揮者といわれているようだが、彼のファンとしては不十分な評価にきこえる。たしかに彼に誇張じみた表現は一切みられないが、逆に当時の風潮からすれば著しく革新的な芸風だったはずだ。特にデッカ時代(1950年代前半)にみられるキビキビ弾むリズムと引き締まった造形は、誰も真似することができなかっただろう。その頃の録音であるビゼーのアルルの女組曲の冒頭など、先鋭かつ前衛的とされるケーゲル盤を上回る切れの良さを示し、一方エグモント序曲のコーダ直前のリズムを倍の遅さで強調するなどは実に大胆で、彼の内面に表現主義の魂が赤々と生きていることが分かる。そしていかなる場合でも気品を失わず、細やかなルバートや強弱によって音楽が無味乾燥になるのを防いでいるのは、彼の気高い音楽性がなすことなのだろう。
    このCDでは「水の上の音楽」(1950年録音)がもっとも出来がよく、しかも彼のステレオ盤とは違うハーティ版による組曲なので存在価値が高い。緻密な弦楽器やコクのあるホルンの音など、ロンドンフィルがコンセルトヘボウとみまがう《ペイヌムの音》を演じきっており、リズムの鋭い部分と品の良いデリカシーがすっきりした造形の中に封じ込められている。
    もうひとつの聴きものは、JCバッハのシンフォニア作品18−2の第2楽章だろう。ここではコンセルトヘボウの首席オーボエ奏者ハーコン・スタトイン氏の絶美なソロを堪能できるからで、ベイヌムは氏のオーボエをこよなく愛し「それ以上美しくしたら死んでしまうよ」と語ったというが、この演奏で私たちも合点がいく。繊細かつメランコリーなオーボエが綿々と歌い上げるカンティレーナに、ベイヌムならずもうっとり魅了されるに違いない。

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     2017/10/20

     ことによるとミュンヒンガーが遺した録音の中の最高傑作がこのドヴォルザークかもしれない。私たちが抱いているセレナードのBGM的な曲想、特にマリナーやクーベリックらがもたらす平穏な語り口を真っ向からくつがえす驚くべき名演奏である。ミュンヒンガーのこの曲への共感は尋常でなく、時には優しく語りかけ、時にはほとばしる情熱が緩急をともなう濃厚な表情となって訴えかけ、同時に音楽の流れはきわめて自然で格調高く、聴く者はこの曲がいかに機智に富んだ起伏の大きい佳曲であることを思い知らされるのである。しかも演奏者の個性をセレナードのワク内にピタリと収めているのは、いかにもミュンヒンガーらしい。第2楽章の羽根のように優美な歌とリタルダンドの妙、第3楽章の激しい追い込みと一転むせかえるような歌、第4楽章のいじらしいまでの愛情を示しつつ造形を立て直す天才的なテンポ設定のうまさなど、まさにフルトヴェングラーに迫る表現力といってよい。彼に比べると、同様に曲への愛情を一途に表出しようとしたケンペの演奏は繊細さを欠いていかにも鈍重であり、積極的に変化をもとめたチョン・ミョンフンは表情が硬く時に暴力的に響く。
     ミュンヒンガーはバロック啓蒙家として一世を風靡し、縦横をキッチリ緻密に描くのを信条とし、一方ウィーンフィルとのフルートとハープ協奏曲やハフナーセレナード(モーツァルト)では、彼のクリアな音楽性がもたらす典雅な響きで私たちを魅了してきたものだが、晩年は厳格な合奏力と引き換えにロマンティックといってよいほど内容にこだわり、味わいが濃くなった。
     私は1982年の来日公演に接したが、楽員たちに直立しての演奏をもとめ、自ら台に乗ることなく中央で大振りに指揮する小男の姿はいささか珍妙にみえたものだ(彼は意外に背が低い)。頑固そうな顔立ちからはリハーサルの厳しさもかくやと思われたが、プログラム中の当曲においては、すでに往年の統率力も覇気も失っており少々失望した。一方当CDの録音は1975年、晩年期の少し前の緻密さと後年の表現力がひとつになったピーク時期にあったのだろう。混入したシュッという掛け声にみられるごとく気力が充実し稀有の名演となった。この曲を愛する方、いやむしろセレナードとして軽い曲と認識されている方に、ぜひともこの演奏をお薦めしたいと思う。

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