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norry さんのレビュー一覧 

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     2015/12/20

    とうとう待望のワンポイントヴァージョンが出た。2014年7月20日、このチクルスの10番の演奏会場であったサントリーホールで、7番のワンポイントヴァージョンが発売されており、そのときにプロデューサーの江崎氏がおられたので、是非6番のワンポイントヴァージョンを、と要望したのだが、とうとうその願いが叶った。6番のワンポイントヴァージョンが欲しかった理由は何よりもその曲の特性にある。6番は、多種多様な楽器や弦楽器の特殊奏法に基づき、新ウィーン楽派に連なる前衛的で革新的な響きが曲を支配していることが何より重要だが、このような響きはあくまでトータルな音場の中で捉えられなければならない。ところが、レコーディングにおいては、このような響きの細部を捉えようとして、個別マイクを多様した録音がむしろ他のシンフォニーに増して磨きをかけて行われることになる。それはそれで、マーラーがスコアに書き込んだ音や、何より個々の奏者の妙技が手に取るように分かってよいのだが、曲全体の理解という点では、本質に遠くなる弊がないではない。この6番の通常盤も、素晴らしいミキシングで、改めてマーラーのスコアの豊かさと、都響の奏者の見事な演奏(特に木管の音色の豊かさ!)を味わうことができ、よかったのだが、他方で、インバルがFRSOと録音した6番の、あの前衛的にして革新的な響きが少し失われた感があったのは正直残念なところもあった。しかし実演自体は見事なものであったから、おそらくワンポイントで聴けばあの響きが蘇っているであろうと思っていたのだ。そして予想は当たっていた。本当に、破天荒としか言い様がないこの曲をトータルな空間の中に一つの一環した響きとして纏め上げ、しかも、スケールや音楽としての新しさと美しさを全く失わせないインバルの手腕は改めて驚異的だと思う。他のどのマーラーの曲の演奏にも増して、この曲のときほど、インバルがいかに超人的な耳を持っているか、感じることはない。凄い曲の、凄い演奏、ここに極まれりである。

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     2015/01/17

    この演奏の実演には2014年7月20日、21日の両日とも行くことができた。前回の9番同様、いやそれ以上に、この10番は、インバル・都響のマーラーが世界最高峰であることを如何なく示したと思う。バーンスタインは、マーラーを、19世紀と20世紀の境界線を跨いで立つ巨人という趣旨の言葉で表現し、それは全く正鵠を射ているが、このことはマーラーの演奏に、19世紀からのアプローチと、20世紀からのアプローチとの双方が可能だということを示している。そしてこの観点からすれば、インバルのマーラーは、完全に20世紀(いや今回の10番の成果を踏まえるなら21世紀からというべきか)から見たものだ。このことは、前回の9番の演奏が、完全に19世紀末、あるいは20世紀初頭のベル・エポックの耽美的な美学を脱し、絵画で言えば抽象的、幾何学的な表現主義の時代に達したカンディンスキーを思わせる、極めて精緻にして厳しい精神性に到達したものであったことからも明らかだ(このような印象は、もともと9番自体が、非常に自己完結性と内容的な客観性の高い作品であることが大きな要因となっている)。そしてこのように20世紀、あるいは21世紀からマーラーにアプローチする姿勢を一貫させた場合、むしろ10番こそが真の頂点(もちろん開かれたという意味での)を形成するという結論は自然なものだろう。しかし現実には、10番が「未完」であったという理由で、アプローチの如何にかかわらず、9番がマーラーの到達点と長い間見做されてきた。小生は、クック版はじめ、数ある10番の補筆完成版のうち、どれが真に優れているか、詳細に論じる能力は持ち合わせていないが、今回のインバル・都響の10番の、本当に瞠目すべき成果を前にすると、やはり「未完」とは言ってもマーラーが、(一応完成したと言われている1楽章、3楽章以外についても)その内容の本質的なところは十分に略式総譜(パルティチェル)に残し得たのだということ、そしてそれに、インバルの、まさに生涯を通じて一貫していると言っていい、マーラーのポリフォニックな音楽言語に徹底して忠実な解釈(むしろ民族性とか本能とかそういうレベルのものというべきなのだろう)が相俟って、ようやく、20世紀(そして21世紀)から見たマーラーの真の到達点が示されたのだということを強く感じる。確かに、クック版以外の版も含め、10版の補筆完成版の録音は既に相当数に達しているが、インバル自身の2種(FRSOとコンセルトヘボウ)も含め、これまでの録音はいずれも、今回のインバル・都響が到達した高みには達していない。それを如実に示しているのは、小生が実演でも感じたところからすると、似ていない双子のような2つのスケルツォ(2楽章と4楽章)である。インバル・FRSOの92年の録音では、いずれの楽章も非常に切れ味鋭く、鮮やかな名演であるが、よく指摘される、クック版の「響きの薄さ」が感じられ、聴後の感想としては、やはり草稿の補筆なのだな、という印象は拭えなかった。ところが、今回の都響版では、特にテンポの微妙な揺らし方と、都響の各楽器の変幻自在な音色の配合と変化が相俟って、極めて豊かな音楽になっていることが特筆される。2楽章は、FRSO版を含め他の演奏と比較して遅めの訥々としたテンポで始まるのだが、主部に入ると俄かに量感と鋭さを増して突進し、ところがレントラーのようなトリオの部分ではぐっとまたテンポを落としてルバートを多様し、5番の3楽章のような本当に変幻自在の舞曲となる(4番の2楽章のヴァイオリンソロの部分が引用されるのは周知だろう)。全体に躁的な諧謔味の強い2楽章に対して4楽章は絶望的な皮肉の音楽であり、強くショスタコーヴィチを予感させる(終結部など15番の世界と変わらない)が、やはり舞曲性は濃厚である。このような両スケルツォの本当に豊かな音楽性は今までどの録音でも感じたことがなく、実に素晴らしい。おそらくインバルが細かく指示しているのだと思うが、(全曲を通じてだが)弦にしても管にしてもアーティキュレーションが恰も細かく絵筆を使い分けているかのように繊細で表情付けが豊かなのが要因なのだと思う。BPOやVPOのようなスーパー・オケだと、特に何も指示しなくても各楽員の突出した技量の合成で自然にある種の響きが生まれてくるのだが、だからと言ってそれがマーラーの音楽言語に忠実であるかというと全くそうではない。1番から徹底的かつ意識的にマーラーの音楽言語を突き詰めてきたインバル・都響の共同作業の最終的な成果が今回の10番の響きなのだ。10番については、楽章構成が5楽章で、中間の3楽章が短いという点を含め7番に類似していること、内容的にアルマとのエピソードが強い影響を及ぼしている点で5番や6番に近いこと、3楽章が「角笛」の「この世の暮し」を元にしている点で、4番以前の角笛時代との関連もあること、さらには1楽章と5楽章で強烈な不協和音を用いたカタストロフの部分があり、20世紀音楽の技法の一つであるクラスターを先取りしていると言われていることなど、論ずるべき興味深い点は尽きず、また、この演奏と録音はこれらの論点についても様々な思索を呼ぶものであるが、そこまで書いている余裕はない。しかし、なぜこの演奏と録音が(これまでのインバル・都響のマーラーチクルスの演奏と録音にもさらに増して)胸を打つのかと考えたとき、やはり、現代の我々が、震災にしろ、テロにしろ、財政危機にしろ、様々なカタストロフやその予感の中で、慰めと希望を求めて生きていかざるを得ないというナマの感覚に、最もアクチュアルに応える演奏であったということなのではないだろうか。マーラーに関するこういった言い方自体、ある意味紋切型で、小生自身これまで好きではなかったが、この演奏を聞いて以後、日々このような実感を否定しようのない自分を感じている。その意味ではマーラーの10番は我々の生きる21世紀を予言していたとさえ言ってよいのだろう。インバル・都響はそのことをもっともアクチュアルに感じさせてくれたのだ。実演でもそうであったし、録音でもそうだが、5楽章のカタストロフが収束した後の連綿と続く、楽章の最初に登場するフルートソロの旋律をもとにした音楽は、涙なしには到底聞くことはできない。最後のグリッサンドの跳躍と下降、そこにおける(9番の4楽章でも登場した)フリーボウイングの効果は、言語を絶するものだ。このような演奏を実現した都響の方々の技術面、精神面両面における水準の高さも、いくら賞賛しても賞賛仕切れるものではないだろう。鈴木氏のヴィオラ、四方氏のヴァイオリン、古川氏のチェロ、それぞれのソロはいうまでもなく、寺本氏のフルート、岡崎氏のトランペット(カタストロフの部分はもちろんだが、個人的には2楽章の始まって間もない部分など絶妙である)、西条氏のホルン、佐藤氏のテューバ等々、やはりプロの頂点の仕事である。マーラーの使徒インバルと、都響との共同作業が、今後も長く続くことを祈念したい(もちろん新音楽監督である大野氏との発展も含め)。

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     2014/11/02

    この演奏はみなとみらいとサントリーとの2回聞くことができた。本当に、いわゆるクラシック音楽ないしオーケストラ音楽の極限を聞いたという感じがした。この曲については、ハイドンに始まる交響曲の終着点にして到達点という評価が少なくない識者によってされているが、この演奏くらいそのことをいかんなく知らしめるものはない。思えば、(我ながら驚いているのだが)この曲をプロのオーケストラで実演で聞くのは、1985年のバーンスタイン・イスラエルフィルの来日公演以来であった。そのころの自分はまだマーラーもほとんど聞いたことがなく、この9番という曲自体バーンスタインの実演が初めてだったように思う。そんな自分でも、未だに伝説となっているあの演奏の印象は凄まじいものがあったが、それでも、バーンスタインに感動したという印象はあっても、不思議と、マーラーに感動したという感じでもなく、マーラーをもっと聞きたいとは思わなかった。実際にその後もいろいろとマーラーの録音を聞いたが、結局インバルとFRSOのチクルスを聞くようになるまで、マーラーは分からなかった。インバルこそ、マーラーの音楽の本質が、カオスでもハーモニーでもない、伝統的な音楽の世界を超えたポリフォニーであることを教えてくれたのだ。9番は死を予感したマーラーのこの世への別れであるというような標題的な解釈がされる(1楽章冒頭の動機がマーラーが患っていた心臓の不整脈を表すとか)。それがある意味事実のように思われるとしても、だからといって演奏がカオティックであってよいわけではないし、また、あえて特定のパートを強調させて聞きやすく、あるいは耳に馴染み易い音響に加工すればよいというものではない。9番は、伝統的な音楽の世界を超え、従来の音楽にはなかった異質なものを対立、共存させるという意味でのポリフォニーとしての交響曲の姿をもっとも純粋に突き詰めたものであるとともに、技法的には新ウィーン学派、交響曲のスタイルとしてはショスタコーヴィチという20世紀音楽を切り開いた点にこそ、その本質がある。その意味で、(いままでインバルのマーラーの特徴として何度も述べてきたことではあるが)この曲の演奏では、他の曲にも増して、演奏のタテの線における楽器間の音量や音色のバランス、そして徹底的な独立性が決定的に重要である。標題的な解釈では重要になる思い入れタップリのカンタービレや、管の無理な強奏が禁物なのはそのためである。だからと言って、スコアが巧緻な織物のように有機的に構成されているから、四角四面な演奏も厳禁であり、自然な呼吸とテンポの伸縮が必要である。この両極を満たすことがもっとも重要なのであって、マーラーの死への想念を込めるとか標題的な操作はその基本ができた上でのことである。6番もそうであるが、なぜかこの曲の場合、後者ばかりが重視される傾向にあるのは本当に不思議なことである。今まで、インバルとFRSOとの録音はこういった条件を満たす最高の演奏であった。しかし、第4楽章については、若干の物足りなさがあった(今まで誰も触れたことがないように思うが、FRSOとの録音の4楽章では、始まって間もないところでのヴィオラソロが拍を間違えるミスをしていてインバルが歌って間違いに気付かせている部分がある。これも残念な部分)。それは、この楽章が3楽章の中間部で出現するあのターン音型を、弦楽を中心に技巧的に織り上げていく、ある意味表現主義的な要素を持っているから(トリスタンとの関係を指摘した金子建志氏は誠に慧眼である)、この楽章の演奏は、冷静なままではどうしても不満が残ってしまうのである。そして、バーンスタインやテンシュテット等、ポリフォニーの処理においては問題のある演奏でも、この楽章では成功するのはそのせいである。しかし、今回のインバルは違っている。実演でももちろんそうだったが、この演奏・録音においてインバルと都響が到達した世界は前人未到であり、空前絶後である。特に4楽章ではそうである。それこそ、この世への別れの思いを、あの限りないターン音型の繰り返しの中に込めるときにこそ、それまでの楽章で貫いてきた、極限までの厳しさが、これまで誰も到達し得なかった世界への扉を開いたのだ。頂点におけるヴァイオリンパートの激しいフリーボウイングは、インバルの猛烈な指示も含めて視覚的効果もものすごいものがあったが、それ以上に文字通り胸が引き裂かれる音響であった。あれは、音を超えて想念が伝わってきたと言ったほうがよかったかもしれない。まさに、この楽章が持つ表現主義的要素をインバルが奇跡のような解釈で実現した瞬間だったといえるだろう。その後のまさに死に絶えるまでの音の減衰が、本当に克明に、残酷なほど正確に再現され、そして記録されている。本当に、空前絶後の演奏であり、録音であるとしか言い様がない。しかし、この楽章を聴き終えたとき、それが終わりであるとは感じない。明らかに聞こえてくるのは、あの10番の第1楽章のヴィオラのモノローグである。インバルが、10番を本当のマーラーの到達点として考え、クック番の演奏に積極的なことに自然と納得してしまう。そして実際に、あの10番の実演は9番を上回るといってよい感動をもたらしてくれた。改めてレビューに戻ると、この機会にありとあらゆる9番の録音を聞いてみたが、それぞれ良さはあっても、ポリフォニーの精確な再現においてこの演奏を上回るものはない。特に、都響の弦の精確さと厳しく凛冽な響きは例えばセル・クリーヴランドに勝るとも劣らない。むしろみずみずしさと柔軟さという点では超えている。また、頻出する鈴木学氏のヴィオラソロはいずれも本当に見事で、マーラーの肉声のようにさえ聞こえた。臨時でコンマスを務めた山本氏のリーダーシップとソロも素晴らしかった。管も、岡崎氏のトランペット、小田桐氏率いるトロンボーン、佐藤氏のテューバ、寺本氏のフルート、鷹栖氏のオーボエ、有馬氏のホルン等々、いずれもプロの頂点の仕事である。そしてこれら奏者を統率するインバルは、まさにマーラーの使徒であり、化身であると言ってよい。この奇跡のような演奏の実演に2度も触れることができた上に、これほどまでに優秀な録音で残されたというのは、本当に僥倖であると思う。

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     2014/11/02

    この実演はみなとみらいの方で聞くことができた。忘れ得ぬ体験である。マーラーは5から7番の中期を経て、8番から後期に入ると考えるが、それは中期の段階における、音楽(作品としての交響曲)そのものの中にマーラー個人の主観と対象としての音楽が分裂して存在している、いわば超越論的主観の時代を経て、そのような分裂のない、その意味で作曲家=芸術家としての完成期に入ったと言えるだろう(こういった作曲家の精神的発展史は、もちろん曲それぞれの芸術的価値についての議論とは別の問題だが、いずれにしてもマーラーの場合非常に重要だと私は考えている)。その後期の最初に来る8番は規模からしてマーラーの全作品中最大のものだが、第1部が聖霊降臨節に歌われる賛歌、第2部がゲーテのファウスト第2部の終景をそれぞれテクストとしており、宗教(キリスト教)が大きなテーマとなっているから、このようなテクスト面も交えた考察はキリスト教ないしドイツ文学への相当の造詣がなければ不可能である。ただ一つ確かに言えるのは、マーラーがそこで描こうとした宗教観が、バッハやブラームスが描いたプロテスタントとも、一方でミサ・ソレムニスにおけるベートーヴェンとも違う、マーラー独特のものだということだろう。いずれにしても、後期に入り、より高次の精神的次元に達したマーラーが最初に手がけた世界が宗教であったということだ。音楽的にも極めて成熟した管弦楽法が用いられており、合唱を交えた大管弦楽という点では2番の5楽章と共通するが、内容的には遥かに充実している。形式的にも余りに独自で、到底素人の分析には手に余る曲だが、今回のインバル・都響のあまりに目覚ましい実演を体験して感じたのは、第1部は第2部への巨大な前奏曲ということだ。さて演奏論だが、小生は2008年のインバルがプリンシパルに就任した際の実演を残念ながら聞くことができなかったので、録音を通じての比較ということになってしまうのだが、端的に言って、今回の新録は、描写の彫りが深いということである。特に、第2部の冒頭から、法悦の教父が語り出すまでの長い前奏の部分におけるインバルの微に入り細をを穿つ彫琢は、手に汗を握る迫力である。第1分を含め、他の部分も、全般的に旧録に比べてテンポは相対的にゆっくり、かつ動きがあり、やはり彫琢が念入りである(そのためであろう、わずかであるが若干声楽を含めアンサンブルに乱れがある箇所がいくつかある)。そして、非常に分離のよい録音の効果もあって、この曲におけるマーラー独特の、(こういう表現が適切かどうかわからないが)異教的な、あるいはどことなく東洋的な香りが強く立ち込める。このチクルスの録音全体を通じて言えることではあるが、これくらい8番の管弦楽法の独特の味わいを感じさせてくれる録音はこれまでなかったのではないだろうか。独唱陣は旧録と重なっている人も多いが、コンディション的には必ずしもベストではなかったように思う。3月という、まだ寒さの残る時期であったことも影響しているだろう。とはいえ、都響の技倆を含め、やはり最高峰のマーラーと言ってよい。

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     2014/04/21

    マーラーの第7におけるインバルの声望は、すでに以前から周知のとおりである。1986年のFRSOとの録音は、レコードアカデミー賞を受賞した名盤であり、それまで異端児のような扱いを受けていたこの曲の真価を世に知らしめた超名演であった。第5、第6、第7という、中期の3作が、マーラーの主観と音楽との関係性それ自体を対象とした、いわゆるメタ交響曲(よく「音楽についての音楽」ということが言われるが、正確にはこう理解すべきではないか。ドイツ観念論風に、「超越論的主観の音楽」とか、「自己言及的音楽」という言葉を使ってもいいかも知れない)であることは、夙に識者の指摘するところだが、中期のマーラーのそういった特色を、明確に自覚的に演奏に反映したのはインバルが初めてであったし、インバルは未だにそのような体系的なマーラー理解にとって最上かつ最良の導き手であり続けている。そのような体系的理解を前提とした上で、中期の3作はさまざまな理解が可能だが、例えば音楽史との関係性を主眼に据えた場合(かなり無理があるのを承知で言えば)、第5は対位法の父としてのバッハとの、第6はソナタ形式の枠組みと徹底した主題労作を基に、倫理的な人格概念を交響曲の本質としたベートーヴェンとの関係(そのような英雄はもういない、という「悲劇」)が透けて見える。そして第7はといえば、ワーグナーを中心とするドイツ・ロマン派との関係性が強いのではないだろうか。いうまでもなく、「夜」はロマン派文学の主題の一つであるし、「トリスタン」がひたすら昼を呪い夜を賛美したことは周知のとおりである。しかし、マーラーがここで描く「夜」はやはりワーグナーのような英雄芸術家の描く夜と異なり、近代小市民が暮らす都会である世紀末から今世紀初頭のウィーンの「夜」である。最初に「夜の音楽」としての2,4楽章ができ、その後交響曲としての枠をはめるように1,3,5楽章が出来上がったというこの曲の成立過程も示唆的である。1楽章は夜に露わになるさまざまな欲望や夢のうごめきや噴出であり、テノール・ホルンの奇妙な音色はそれを象徴する。実際に、この楽章のコーダで呼び起される、脳髄の奥から何か非合理なものが噴出するかのような興奮はいわく言い難いものがある。その意味では、この曲は、夜に開放される本能的な欲望や夢そのもの(1楽章)、あるいはそれにまつわるいろいろな表象(2〜4楽章)を音化したものだといえるのかもしれない。いずれにしても5楽章をどう理解するかが問題になるのだが、ここはやはり、「トリスタン」で夜を賛美したワーグナーが、次作の「マイスタージンガー」においてドイツの芸術家を賛美したことを想起すべきだろう。5楽章の冒頭において見事にパロディ化されるマイスタージンガー前奏曲は、あたかも、ドイツのエリートたる芸術家の権化であったはずのワーグナーの音楽が、20世紀においてハリウッド映画音楽等に消費され、大衆化されることを予言しているかのようである。いささか強引にまとめれば、マーラーの第7は、夜に開放される無意識的欲望や夢が、最終的には画一的な消費音楽の世界に統合されてしまう、現代の文化の状況を描いたものといえないだろうか(もちろんマーラーが意識的にそうしたわけではないであろうが)。そこでようやく演奏論であるが、前述のとおりFRSOとの録音は、到底今後これを凌駕する演奏は出現しないであろうと思わせる高レベルの演奏であったし、2011年に出たインバル自身のチェコ・フィルとの録音も、オーケストラの独特の響きや、非常にコッテリとしてまさにロマンティックな解釈は、それはそれとして強い魅力があったが、演奏としての完璧さや徹底度からいうと、FRSOの演奏には及ばなかった。しかし今回登場した都響とのバージョンによって、ようやく記録が塗り替えられたという思いがする。これまで何度も指摘してきたが、インバルのマーラー解釈の本質は、スコアのあらゆる瞬間において各楽器に要求されている音色を可能な限り明確に、かつ、他のすべての楽器との音量の正確なバランスを維持しつつ再現することにある。第7は、例えば、後のシェーンベルクの「浄夜」や「グレの歌」のような超ロマン主義の音楽と共通する、繊細な音色が要求される場面が多く、それぞれの場において各楽器に指定されている奏法が具体的にどのような音響を要求するものであるかについて、正確に理解し、積み上げることが必要となる。いわゆる「優秀」な指揮者ほど、そのような積み上げをせず、ある種の「解釈」に基づく全体的な音響にすり替えてしまう誘惑にかられるものであろうし、実際にそのような演奏は枚挙に暇ないが、インバルの原理主義者的な徹底したアプローチは、そのようなあいまいな解釈を決して許容せず、いわば、「神は細部に宿る」とばかりに、細かな音色の徹底した積み上げによって全体の音響を形づくる。そして、これこそが驚異的なところであるが、そのような微視的なアプローチをとりつつも、全体の構えは極めてスケールが大きく、そしてこれは特に今回の都響との演奏についていえることであるが、テンポの動かし方が極めて大胆であるとともに、緩急や強弱のコントラストが極めて大きい。これによって、今回の演奏は類例のない響きの立体性を獲得している。今回改めて、クレンペラー、バーンスタイン、ショルティ、シノーポリ、ベルティーニ、ブーレーズ、ティルソン・トーマスといった主だった演奏を聴いてみたが、それぞれ他にない個性はもちろんあるものの、今回のインバル・都響のレベルの高さはやはり一頭地を抜いている(クレンペラーはちょっと番外という感じもするが)。今回の演奏について、評論家諸氏の意見を見ると、概ね大絶賛でありながらも、あまりに上手くまとめられすぎていて、この曲が持つ訳が分からなさの魅力が減じているという意見もあるようである。しかし、そもそもインバルのマーラーの肝は、マーラーがなぜ交響曲を連作しなければならなかったのか、あるいは(インバル自身が頻繁に述べているとおり)マーラーの交響曲は一つ一つ独立したものでなく、一つの長編小説の各章のような位置づけであることを理解させることにある。各曲の(必ずしも本質的でないものも含めて)個性を掘り下げる「解釈」ももちろんあってよいが、インバルでマーラーを聞く意味はそのような刹那的なものではないというべきであろう。最後になったが、都響の演奏は本当にめざましい。特に、音色の生々しさはただ事ではない。有機性と機能性を完全に統合して昇華させた今の都響のサウンドは、メタリックな印象の強さをぬぐえなかったFRSOのサウンドを凌駕している。グローバルな音楽としてのマーラーに求められる最高の音響と言ってよいだろう。残りの第8、第9はいずれも超絶的な名演であった。7月の10番の実演ももちろん、これらの録音の発売が本当に楽しみである。

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     2014/03/08

    今までもそうであったが、インバルのブルックナーを聞くたびに、音楽とか、演奏についてよく語られる「宗教性」とは何か、ということを考えさせられる。「宗教性」は当然神に関わることだろう。今回そこで思いついたのは、「宗教性」を音楽やその演奏について感じるというとき、音楽や演奏は、神の「肉体」ないし「家」なのか、それとも神の「言葉」なのか、ということである。インバルのブルックナー演奏が「宗教的」であるとしたら、それは間違いなく後者の意味においてである。一方で、ブルックナーの音楽は以前から、カトリック聖堂に例えられてきた。いうまでもなく、聖堂(教会)は神の家である。つまり、神の家にふさわしい荘厳さと神秘性こそが、これまで論じられていたブルックナーの宗教性である。その観点から今回のインバル・都響のブルックナーを聴いてみると、そのような荘厳さと神秘性は、例えば、そのような側面を最大限かつ圧倒的に発揮しているジュリーニ/VPOの演奏などと比べると、かなり抑制的である。これが聖堂であるとすれば、(このことは同じコンビの第5のレビューでも指摘したが)絢爛たるゴシック建築のものではなく、コンクリート打ちっぱなしのモダニズム建築の聖堂であろう。あるいは、(実演を含めて聴いた感覚としてはこちらが近い)白木で新たに創建されたばかりの神社建築のような、極めて清浄な印象を与える。そしてその分、1楽章、2楽章では、ブルックナーが最晩年に到達した、作曲技法上のモダニズム性がクローズアップされる。都響の全く隙のない完璧な演奏によって、ブルックナーが到達した未曾有の音楽的境地が、何ら装飾的要素なく、明らかにされていると言えるだろう。この演奏が空前絶後なのは、3楽章である。この演奏を聴くと、1,2楽章で神殿が構築され、3楽章でようやく神の言葉が開示されるとでもいうような感じがする。冒頭の有名なG線上の短9度の跳躍を含む主題は、私のこれまで愛聴してきた、フルトヴェングラー・BPOでも、ジュリーニ・VPOでも、スクロヴァチェフスキ・ミネソタ管でも、極めて感動的に奏され、これからいよいよ(死を経ての)天上への上昇の過程が始まるとでもいうような感覚を味わうし、その後頻出する複付点音符の主題も、あたかも星辰のきらめきのようなイメージを呼び起こすが、このインバル・都響の演奏では、いずれの主題も非常に正確かつ美しく奏されるものの、それ自体が何か個々のイメージを喚起するようなものとして提示されるのではなく(それを否定するものではないが)、あくまで全体の中の一部を構成することにより、(それが他のものではないということによって)何らかの意味を伝えるようなものとして提示されている。なかなかそれ以上にその意味が何か、を書くことができない(もともとそういうものだと思うが)のがもどかしいし、だから結局神の「言葉」という言い方をしたくなってしまうのだが、3楽章が「伝えようとしているもの」をこの演奏は今までのどの演奏よりもはっきりと伝えていると思う。本当に特に変わったことをやっているわけではなく、すべてのパートを、正確に、完璧なバランスを持って音にしているだけなのだが。しかしそれこそがインバルの奥義であり、それに完璧に都響が応えたということだろう(1回だけのライブであることを考えるといつもながら驚異的である)。

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     2014/03/08

    マーラーのシンフォニーの中から、代表作をどれか一つ選べと言われたら、第6を選ぶという人は、少なくないのではないか。私もその一人である。第8、大地の歌、第9、第10という後期の傑作群がより高次の精神的次元に達した曲であることはもちろんであるが、そもそもマーラーが、ヨーロッパの音楽、特に交響曲の存在と概念を根本的に新しくして、20世紀につなげた存在と考えたとき、第6こそそのような地位を確立させた作品だということができる。第6を自らも指揮したウェーベルンは、「これこそ僕らの第6だ」と言ったというし、ベルクの傑作「3つの管弦楽曲」にハンマーが登場するのは周知のとおりだ。端的に言って、新ウィーン楽派の本質の一つをなし、20世紀の管弦楽にあっては不可欠の技法となった音色旋律という発想は、この曲(と同じくマーラーの第9)の強い影響下にある。さらには、クラスター的な大音響、ムチやハンマー、カウベル、チェレスタ等の伝統的なオーケストラにない楽器の多用による新奇な響きの創造、よく語られるイ長調→イ短調の連結和音のモットーによる曖昧な調性感といった特徴も、20世紀の音楽のあり方の基礎を作ったと思う。この曲がなければ、ショスタコーヴィチの交響曲、特に第4以降からのいわゆる「戦争交響曲」は生まれなかっただろう。
    このような20世紀音楽を準備したという意味での前衛性に加えて忘れてはならないこの曲の特徴は、マーラーの全シンフォニーの中でも、唯一、ソナタ形式の4楽章制の交響曲という点である。この強い形式性は、私見では、マーラーが、(あたかもベートーヴェンのエロイカのように)ソナタ形式を一つの人格の展開としてとらえる試みとしたことに起因すると考えている。ただしそこで展開する人格は、ベートーヴェンのような「世界精神」としての英雄ではなくて、国家や社会の巨大な不合理に翻弄されつつも愛する女性への憧憬を抱きつつ決して闘争を止めることのできない孤独で「悲劇的」な英雄(芸術家)である。大げさに言えば20世紀における人格(芸術)の「疎外」もここに予見されているのであって、この曲が20世紀を予見しているというのは、音楽的技法面のみならず、そこに盛り込まれる文学的・叙事的な内容においてもそうなのである。この曲がショスタコーヴィチの戦争交響曲を準備したと言ったのはそのような意味でもある。
    余りに作品論が長くなってしまったが、特にこの曲に関しては、これだけのことを念頭に置かなければ、適切に演奏を論ずることは不可能である。要するに、これだけ、存在する次元の異なる多様な要素を、どれか一つに偏ることなく、だからといって散漫になることなく、そして形式感を失わないように緊張感を持って表現しきることが求められることになる。一般に、この曲の演奏では、「悲劇的」というタイトルに表面的に引きずられる形で、八方破れで悲憤慷慨調の演奏がもてはやされる(というか期待されう)傾向にあるが、そういった演奏では、この曲の前衛性が含む多様な音色や響きが犠牲になってしまう。かといってそちらばかりに凝っていては、本質的な悲劇性の方が犠牲となり、醒めた味わいだけが残ってしまう。
    もう28年前の1986年にインバルがFRSOと録音した演奏は、初めてこの曲が持つすべての要素を極めて高度な次元で精確に再現した演奏で、未だにこの曲の演奏の規範の地位は揺るがないと思うが、この度ここに登場した都響との録音は、さらにこの曲の持つすべての要素の表現を深化させ、高度なものにしたと言ってよいだろう。とにかく、インバルと都響のマーラー演奏のこれまでのすべてに言えることだが、テンポの設定が絶妙であるとともに、あらゆる瞬間における各楽器の音量、音色のバランスがさながら黄金比のように完璧であり、だからといって全く萎縮せず精気に満ち、瑞々しい。複雑な高次の連立方程式の解を見出したかのような演奏である。実演でも感じたが、この本当に瑞々しい音色の氾濫は、あたかもラヴェルを聞いているかのように感じる瞬間もある。この曲でこういったことまで感じたのも初めてである。それと併せて強調したいのは、特に1楽章のアルマの主題他の歌謡的な主題の歌わせ方が極めて情熱的であり、感動的であることだ。いずれ英雄は闘争の中で破れ、死んで行くにしても、最後まで愛は忘れない。こういうと口はばったいが、ハードボイルドに徹していたFRSOの演奏にはなかった今のインバルのこういった解釈が、この演奏に一種の明るさももたらしている。インバルの演奏は常にそうであるが、この都響との新録音も、これまでの誰のどのような演奏とも似ておらず、というよりも、他になかった新たな発見に満ちた演奏である。
    最後に、エクストンの録音のことについて一言言っておきたい。このシリーズが、異なる演奏会場での演奏をつなぎ合わせているために、ライブ感というか、演奏としての一貫性が失われているという趣旨の意見を聞いたことがある。おっしゃりたいことは分かるような気もするが、そもそも、インバルの演奏の本質は、テクストとしての音楽の本質を完璧に再現することにあるのであって、実はそこには、必ずしも演奏行為としての一回性に拘る必要性のない側面があるということである。もちろん、インバルのライブのものすごさは私が指摘するまでもなく、誰もが御存知のことであって、だからこそ、上記のような意見も出てくるのだと思うが、私が言いたいのは、インバルの音楽性の凄さは、ライブの一回性のみに尽きるものではない、ということだ。インバルのマーラー解釈という極めて高度な芸術的営為は、一回のライブのみで味わいつくせる、ないし理解しつくせるものではなく、だからこそインバル自身が録音に積極的であり、デノン(昔はデンオン)のころから録音にもうるさいのである。エクストンの録音が、ライブだけでは足らないインバルのマーラー解釈の理解に大いに貢献していることは明らかである。CDにライブ感を求めるのももちろんありだし大事だが、「レコード芸術」の楽しみというか意義はそれに尽きるものではないということは強調しておきたい(とはいえエクストンには第5のときと同様、ワンポイント版の発売を期待したい)。

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     2013/11/04

    実に驚くべき演奏であり、録音である。これは芸劇とサントリーホールでの2つの実演も聴くことができたが、ソロ・トランペットの冒頭から輝かしいコラール・フーガのフィナーレまで、全く息をつかせる間のないまさに「凄演」であった。インバルのこの曲の実演は、名高い87年のFRSOの来日公演、これも名演の誉れ高い95年の都響、2005年(だったか?)のベルリン響来日公演についで4回目であったが、今回の演奏は87年FRSOと並ぶ激しさであった。マーラーの第5は、「抽象的な主題の展開による音響のドラマ」、「絶対音楽」としての交響曲にマーラーが取り組んだ中期の冒頭を飾る傑作であり、「暗黒から光明へ」、「苦難から勝利へ」というベートーヴェンの第5のテーマを踏襲しつつも、楽章構成としては、3楽章のスケルツォを中心とした、1・2楽章、4・5楽章との3部構成というユニークな構成をとっている。1・2楽章がニヒリズムが支配する虚無の嵐(「地獄」)、4・5楽章がアルマへの愛に導かれた人生の成功の賛歌(「天国」)とするならば、3楽章は(意識して)機嫌よく職務に精励しつつも絶えず憂鬱や皮肉や怒りが交錯するマーラーの日常生活(現実という「煉獄」)というように、ダンテの神曲の構成になぞらえた理解も可能だろう。そしてインバルのこの曲の実演は、87年当時から、このようなプログラムを自らが生き直し、追体験するような迫真的なものであった。その意味では、むしろ内容的にはより主観的であるはずの、前期の4曲に増して主観的なアプローチであるといってよい(特に今回の演奏など、私にはフルトヴェングラーの47年のBPO復帰演奏会でのベートーヴェン第5を想起させる迫真性である)。ただしだからといって特定の主題やフレーズに淫することはなく、マーラー特有の分裂症的なポリフォニーは他のどんな指揮者の演奏に比較しても激しく明確に伝わってくる。マーラーの中期の3曲の指揮は、それぞれがどれも極めて個性的な主題を伴うポリフォニーの明確な処理と、交響曲としての体系性を維持する極めて強固な構成力の両方の面が最高度に要求されるが、この両方をインバル以上に高度のレベルで満たす指揮者は、歴史的に見てもなかった。こういう観点からいうと、(一般のマーラーファンは顔をしかめるであろうが)インバル以外ではショルティが最も高レベルである。しかし、インバルにはショルティに匹敵する構成力がある上に、ショルティをはるかに上回る繊細さ、鋭敏な音色への感覚を持っている。インバルのマーラー、特に中期のそれが余人の追随を許さない所以である。いずれにしても、このような曲であれば、オーケストラにも掛け値なしの高レベルが要求されるが、今の都響はそれを完全に満たしている。BPO、VPOなど独墺系のオーケストラは、特に5楽章の複雑な対位法を弾きこなすうちに(普段のアンサンブルの性質からか)弦の各パートの分離がゆるくなり音色的にも融合して聴こえてきてしまうのだが、実はマーラーにはそれは不向きで、音色面も含め徹底して独立し、分離して聴こえなければならない。インバルはそれを徹底的に要求するわけだが、今回の都響の演奏はそれを至難ともいうべき高速のテンポで最高度に実現している(個人的には店村氏率いるヴィオラ・セクションの凄さを特筆したい)。この点は録音の点も含め論じなければならないのだが、こういった弦の細かいアンサンブルの妙技を深く味わうにはやはりマルチマイクを最大限に利用した通常版がよい。しかし、今回ありがたくも発売されているワンポイント版を聴くと、こういった妙技が、金管、木管、打楽器(これらももちろん超絶技巧をいかんなく発揮している)の交錯する音響の中で、完璧なバランスで織り込まれていることが分かる。それはもちろん実演でも感じたとおりであるのだが、長年のインバル・ファンとしては、今回のワンポイント録音(しかもB&Kマイク!)を聴くと、全体の音響像はおどろくほどデンオンの86年のFRSO録音に似ていて、懐かしささえ覚えるとともに、いかにインバルのマーラー理解というものが深く一貫したものであるかに瞠目させられる。真に才能のある指揮者を語る上で、老境を迎えた円熟というものが、それ自体は真実であるとしても、あくまでその一端でしかないかということを如実に物語るものであると思う。今回の演奏は、チェコ・フィルとの演奏の1年後の演奏であるが、あたかも、フルトヴェングラーが同じ曲をVPOとBPOで振るときの違いにも似て、チェコ・フィルの際はオーケストラ特有の優美さに若干譲歩を示していたインバルが、都響においては本気でやりたいことを徹底的にやり尽したと言ってよいだろう。文字通り究極のマーラー演奏である。

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     2013/10/05

    2010年6月のサントリーホールでのライブ録音からわずか2年後、新マーラーチクルスにおける「復活」である。しかし、一聴した趣は、2010年の演奏とはだいぶ異なっている。そもそも、1985年のFRSOとの録音は、とにかく刃のような鋭さに満ち、「寄らば切るぞ」とでも言うような気迫と、それだけに深刻な孤独の影を帯びた、その意味では過激な青春というこの曲のイメージを最も忠実に反映した演奏であった。2010年の演奏では、インバル自身の「円熟」を反映し、演奏のコンセプト自体は維持しつつも、表現により余裕と絶対的な自信が感じられるもので、逆に孤独の影は後退していた。それでも、インバルが特にこの曲のポイントとしていた(と私が感じている)、強弱の強烈なコントラストは、やはり維持されていた。そこで今回の演奏であるが、まず一番に気付くのは、全体のテンポ構成は2010年の演奏までとほぼ同様ながらも、強弱のコントラストが若干和らいでいる点である。それが、インバルのそのときの体調のせいによるのか、あるいは曲に対するイメージないし考え方の変化によるものなのか、あるいはそもそも会場や録音の仕方の影響によるものなのか、実演に行けなかったこともあって判然としない。いずれにしても、最初聞いたときは、いわゆる「インバルらしさ」が後退したように感じたのは事実である。しかし、聞き込んでいくうちに、逆にこれまでの強烈な強弱のコントラストが主導的なために、映像に例えていえばモノクローム的であった感覚に代わって、このころのマーラーの、後年の曲に比べればまだ未熟な管弦楽法の中に紛れ込んでいる、微妙な色彩感が、極めて分離のよい録音の手伝いもあって非常によく表れているように感じた。特に2楽章と3楽章にそれが著しい。その意味では、繰り返し聞く楽しみはむしろこの演奏の方が多く提供してくれるように感じる。録音の点についていえば、全体にオンマイクになった感じで、これまでの演奏が客席で聴いている感じだったとすれば、今回のはある意味指揮台のインバルに聞こえている響きのイメージかも知れないと思う。都響の演奏はもう本当に練達の域に達しているといってよいだろう。この機会にいろいろと他の指揮者、オケの演奏も聴き比べてみたが、ここまで細部の微細な表現を自然にサラリとやってのけている演奏はない。指揮者、オケ、録音すべてにおいて現代のマーラー演奏の到達点を示すものだ。

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     2013/07/20

    とうとうインバル・都響マーラーチクルスの録音リリースが開始された。番号順で、毎月発売されるようだ。おそらく今年のうちに前半(今年1月まで)の5番までが発売されるのであろう。ファンとしては、デンオンでの85年からのあの記念碑的な全集発売を思い起こさせる幸福な期間の始まりである。しかも、あのときと同じく番号順である。インバルのマーラーに関しては、これまで発売された、2008年にインバルがシェフに就任してからの都響での演奏(2,3,4,8番)の評として、晩年になって一気に円熟したとか、深化したとかいうものが多く、特にそういった路線を代表する宇野功芳氏の近年のレコ芸等におけるレビューはこの指揮者の声望を高からしめるのに大いに貢献していただいており、長年のファンとしてありがたい次第である。近年インバルが円熟、深化した巨匠になったこと自体、全くそのとおりである。しかしながら、それにも増して重要なのは、マーラーを含め、インバルの音楽の本質は、全く変わっていないということである。それは、徹底して、音楽を「言葉」として、テクストとして把握しようとする態度であり、精神である、という点である。インバルの音楽、ことにマーラーに対するこのような態度は、本当に徹頭徹尾一貫していて、以前のFRSOとのチクルスのころから今回の都響にいたるまで全くブレがない。今回の第1も、円熟と深化は、特にこの曲に顕著な歌謡的な主題の展開に、本当に神経の行き届いた、ルバートの多用を含めたテンポの急な変化とか表情付けや、超弱音の極めて効果的な使い方をもたらしているのだが、重要なのはこのような非常に豊かな音楽的効果が、単に後期ロマン派的な感覚性・官能性のみに訴求するのではなくて、個々の音価の差異の認識、つまりは「言葉の世界」に還元されていくことだ。要するに、インバルの演奏は、どんなに音楽的感興に没入していようとも(あるいはそうであればあるほど)、同時にその音響の世界全体を差異の体系としてみようとする覚醒した意識が常に随伴していて、一つの瞬間に没入と覚醒・反省を繰り返すような精神活動であるといってよい。そしてそれは、交響曲というクラシックの最も正統的なジャンルを内から解体、ないし再構成したマーラーのような作曲家を解釈するに最も相応しいものである。例えばブーレーズも、同じ分析的傾向の高い演奏をするが、彼の演奏は静的な分析結果の提示にとどまっており、インバルのような、あえていえば動的な構造は持たない。第1は、その後のマーラーの音楽のすべての萌芽があるという指摘(インバル自身もそう語っている)はそのとおりであると思うが、やはりこれは青春の曲であって、後年の大曲のような精神的・構造的な複雑性はない。それでも、ここに聴くインバル・都響の新たな演奏は、世界的に見ても追随するところのない高度で精妙なアンサンブルにより、深く楽想に没入・沈潜しつつも常に全体の音響を差異の体系として認識することを忘れない高度なアプローチによって、第1の世界を徹底的に描ききった名演と言えるだろう。ここには、この曲によくある(そしてマーラーの曲では例外的にそのようなアプローチでも成功することがある)、後期ロマン派的な厚ぼったい音響を追求するアプローチは全くない。あらゆる瞬間の音楽が充実し、マーラーの言葉を語っている。やはり、今の都響は、インバルとマーラーの音楽を最も忠実に伝える、最高の楽器であるといってよいだろう。

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     2012/12/16

    今年(2012年)の3月から4月にかけてのインバル・都響の4つの定期演奏会(ショスタコ4、大地の歌、ブルックナー7、ショスタコ10)は、我が国の交響曲演奏史上でもそのレベルの高さと成果の大きさで特筆されるイベントだったといえるだろう。これはその3番目、4月12日のサントリーホールでのライブ録音である。実演での演奏の印象は、極めて筋肉質で引き締まり、しかも激しさに満ちたもので、その意味でブルックナーの曲中最も静謐な浄福感に満ちた曲のイメージを完全に一新させるものであった。P席から、インバルのこれでもかといわんばかりの気迫を正面から浴びて圧倒され、曲の開始から最後まで手に汗を握るような緊張感で聴きとおした。とにかく、この曲がこんなに短く感じたのは初めてであった。それは物理的な時間の短さ(つまりは基本的なテンポが速めであること)もさることながら、響き自体の凝縮された厳しさによるところが大きい。方向性としては、同じ会場で既にCD化されているあの6番の名演と同じであるが、7番も全く同様のアプローチになるとは思っても見なかった。その意味でも驚きであった。しかし、振り返ってみれば、このコンビによるブルックナーのこれまでの成果は、いずれも曲ごとのブルックナーのイメージを一新するものであったし、その意味でこの演奏もしっかりとその方向性を踏襲しているものということができよう。ただ実演では、自分が余りに曲の旧来のイメージ(自分としてはカラヤン・VPOが最も気に入っている)に引きずられていたせいか、あるいは(その影響が大きいように思えるが)P席で響きが若干いびつに聞こえるせいか、衝撃は受けたものの演奏の全体をきちんと理解できたとまではいかなかったように思える。終演後は大絶賛で一般参賀もあったが、他方で一声「ブー」があったのも間違いなく聞こえた。しかし、この録音を聞いてみて、インバルがやろうとしたことがよく理解できたし、本当に、空前絶後のブル7だ、という感を強くした。とにかく、ブルックナーの中で、最もカトリシズム的、教会的な美しさに満ちたこの曲の響きを、極限まで磨き上げることで、通常期待されている響きの美しさの範疇を超えたものに到達しようとした演奏だということだ。それは、インバルが、音楽の本質に関して、単なる美を超えた真に到達すべきものする考え方をこの演奏についてもいかんなく発揮したということなのだ。そういった考え方は、演奏方法に関する哲学は全く異なるものの、彼の師であるチェリビダッケ、更に言えばその師であるフルトヴェングラーに連なるものである。つまり、インバルはフルトヴェングラーの孫弟子だし、音楽の演奏に対する哲学的な態度という点では、アバドとか、バレンボイム等、フルトヴェングラーからの影響を標榜する指揮者より、(出来上がりの演奏は全く違うにしても)よっぼど正統的に引き継いでいるように思う(バレンボイムはチェリビダッケの薫陶も相当受けているハズなのだが)。そして、このブルックナーの7番のように、(複雑さ、晦渋さが薄く)美しさを全面に出した曲だと、余計にインバルの音楽哲学がその苛烈さを発揮してしまうのだろう。ブルックナーの響きの特徴として、よく「素朴さ」が言われるが、その理由の一つは、いままでブルックナーの演奏で評価を受けてきた指揮者が(ヴァントは例外として)あまり各楽器間の音量のバランスに神経質でなかったことが大きい。しかしこの演奏は全く違う。スコアの指示との関係を検証したわけではないが、この演奏では、木管の独奏に弦が一部重なるような繊細な場面のみならず、金管のコラールの場面であっても、トゥッティの場面であっても、楽器間の音量のバランスが極めて厳密に計算されていて、しかも、力感や緊張感は一切失われることがない。それは、あたかも高度な職人芸で作られた隙間の一切ない複雑な寄木細工を見るようである。その一方で、ヴァイオリンはじめ、弦楽器が非常によく歌うし(もちろん一切の弛緩はない)、このコンビの他のブルックナー同様、早めのテンポの中でも緩急が大きくかつ絶妙なため、セカセカした感じは一切与えない。こういったブルックナーを今まで創造し得た指揮者とオーケストラがいたであろうか。宇野功芳氏はライナーで「ひとつの至高といいたいほど美しい純音楽」と言っているが、彼がその言葉で何を語りたいかはよく分かる。よく「星雲」とか、「惑星の運行」とか、広大な宇宙のイメージで語られるブルックナーであるが、この演奏は余りに響きが磨き上げられているために、それが宇宙という超マクロの世界のことなのか、それとも素粒子レベルの超ミクロの世界のことなのか、判別ができないような抽象性の域に達しているように思う。そういった抽象性がインバルの民族であるユダヤの精神性に繋がっているのかどうか、という思考にも誘われるところだ。さて、12月28日はショスタコ10番がリリースされる。これも凄まじい演奏であった。インバル・都響。世界のどこに行っても、これだけのレベルの演奏を恒常的に聞かせるコンビはないだろう。

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     2012/10/27

    「最高峰」のマーラーという看板に偽りなし、である。実演でもそうであったが、録音を聞いて、改めて、この演奏の比類のないレベルの高さを再確認した。「大地の歌」や第9は、中期の第5〜7に比べて、必ずしも「マーラー指揮者」ではない巨匠も名演を残している曲である。その典型としては、カラヤンとジュリーニ(いずれもBPO)が挙げられるが、その理由は、これら最後期のマーラーの作品が、中期の第5〜第7のような、マーラーの個人的に複雑かつ重層的な精神構造を音化したものでなく、より普遍的な世界観、思想を内容としていることによるといえるだろう。そのため、特にこの「大地の歌」は、東洋趣味に彩られた泰西名画のような位置づけとして、80年代に「マーラー・ブーム」が起こる遥か以前から、(第1、第2、第4と並んで)日本のクラシック音楽愛好家に受け入れられ、愛されてきた。しかし、インバルの生み出す「大地の歌」は、当然ながら、全くそのような東洋趣味の泰西名画的な位置づけとはかけ離れたものである。マーラーは、中期の3曲で、その独特のポリフォニーを作曲書法としても徹底的に突き詰めたと言ってよいが、インバルは、「大地の歌」においても、そのマーラー独特のポリフォニーに対する、他の指揮者の追随を許さない鋭敏な感覚をフルに駆使し、耽美的な旋律美は存分に発揮しつつもそれにいささかも淫することなく、あらゆるパートの音色の対比を際立たせ、極めて立体的な響きを作り出している。とにかく、この演奏は、どの部分を切り取っても、声楽を含むすべてのパートが絶妙なバランスで鳴っていて、我々に、世紀末的耽美性の流れは汲みつつもそれを超越した音楽自体の純粋な喜びを最初から最後まで感じさせてくれる。それとともに、この最後期のマーラーの先に、シェーンベルクらの音楽が控えていることをこれ以上なく実感させてくれる。まさに、「最高峰」のマーラーたる所以である。比較的新世代のマーラー指揮者(と言われている指揮者)と比較すると、例えばシノーポリ/SKDなど、非常に美しい名演(アルトは同じフェルミリオン)なのだが、アプローチとしては、若干ポリフォニーを犠牲にしても嫋嫋と旋律を歌わせ、ゴージャスな響きを作り上げるカラヤンやジュリーニにむしろ近いといってよい(私は実はシノーポリは余りポリフォニックではなくてマーラーには向いていないように感じている)。いずれにしても、このインバルの解釈のレベルの高さは、容易に他の追随を許さない。88年のFRSOとの録音は、この曲の素晴らしさを私に教えてくれた名演であるが、アプローチ自体はそう変わっていないし、ノイネッカー女史のホルンなどやはり凄いとしか言い様がないが、各楽器のバランスに対する高度な感覚、つまりは音楽的なレベルの高さは、こちらの都響との盤が一日の長があると感じる。声楽の話が後回しになってしまったが、フェルミリオンの素晴らしさはいまさらいうまでもないが、録音を聞いて感じたのは、ギャンビルもそれに劣らず素晴らしいということである。実は、実演の際は、P席に座っていたこともあって、1楽章の出だしでテノールの声が全く聞こえなかったことに面食らってしまった。その後もテノールは非常に聞こえにくく、これはこの演奏に限らず、そもそもこの曲のテノール楽章は実演上はそういう問題を抱えているらしいが、録音だとそういう問題がなく、ギャンビルの、ヘルデンテノールの美声を発揮しながらもこの曲の東洋的な情趣も十分含んだ、誠実かつ知的な歌いぶりは非常に好感が持てる。クレンペラー盤のヴンダーリヒやカラヤン盤のコロのような凄さはなくても、むしろインバルの純音楽的アプローチには非常に相性がよいと感じる。都響の話題が最後になってしまったが、この音源の演奏会(2日)は、数名のベテラン楽員の「卒業」演奏会で、今名前が出てくるのはオーボエの本間氏(「ジェモー」はじめ、一連の武満作品の録音での独奏は本当に素晴らしい)だが、そういったメモリアルな要素も加わって、演奏後の聴衆と楽員、そして指揮者も一体になった熱狂は凄いものがあった。まさに、日本のマーラー演奏史に残る名演である。

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     2012/10/20

    村井先生の評に大賛成。とうとうこの恐るべき演奏の録音が商品化されたか、というのが第一の感慨である。私も実演で聴いたが、あまりの凄さに呆然として終演後しばらく席を立てなかった。それは、演奏の凄さもさることながら、この曲が示す、ショスタコーヴィチの精神及びおそらくそれと相互作用的に存在していたソビエト社会、というより権力と国家というものの底知れない不気味さを、本当に、地獄の深淵のふちの手すりに手をかけてを覗くように垣間見てしまったという衝撃によるものだったと言ってよいだろう。この曲を「傑作」というようなな表現で呼ぶことが果たして妥当かどうか分からないが、とにかく、ショスタコーヴィチの恐るべき才能が最大限に発揮された曲であることは疑いを容れない。そこで演奏であるが、ある意味、オーケストラという音楽表現組織が持つ力と機能を文字通り限界まで発揮させた演奏であったといえるだろう。とにかく、最初の一音から最後の一音にいたるまで、極限的な緊張感に支配されつつも、表現の振幅や豊かさには一切妥協のない厳しい演奏である。村井先生のいうとおり、もともとインバルにはそういうところがあって、ショスタコーヴィチでは特にそれが顕著だ。どうしても、92年のVSO盤との比較が話題になるが、インバルのそのような厳しいアプローチ自体は全く変わっていないのであるが、なにぶん、VSOの技量が指揮者についていけなかったために、「緩い」印象を与えるものになってしまった。それでも、VSOの演奏も内容的には立派なものであり、特にあのオケ特有の若干鄙びた音色は独特の味わいをかもしだしていて、私はそれなりに評価している。そのころのインバルが自己抑制的なアプローチをしていて物足りないという評をしている人がいるが、全く的外れで話にならない。本当にCDを聴いて評価しているのだろうかと思ってしまう。昔も今も、インバルのアプローチ自体は何ら変わっていない。要するに、本盤は、インバルの極限的に厳しい要求に、都響が十二分に応えた成果なのだ。1楽章のプレストは、会場で竜巻が舞っているようだったと評した人がいたが、まさにそうだと思う。昨今何かと元気のない日本であるが、この都響のパフォーマンスこそは掛け値なしに世界最高水準である。もうすぐ3月末の大地の歌、再来月には4月のブルックナー7番のリリースが予告されており、おそらくその翌月(つまり12月)にはショスタコ10番がリリースされるだろう。交響曲演奏の限界に果敢に挑み続けるインバルと都響の前人未踏の成果にこのように接し続けることができる喜びは、何物にも代え難い。

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     2012/07/22

    発売以来かなり時間が経ってしまったが、実に素晴らしい演奏である。チェコ・フィルとのチクルスは、既に5番、7番が発売されているが、今回の1番は中でも最もオーケストラの特性を活かした演奏になっていると言ってよいだろう。それは、この若書きの1番が、マーラーの交響曲中、最も出身地であるボヘミアの自然を感じさせる曲であるからでもあろう。もともとインバルのアプローチは、そのようなローカル性を超越したところにあるマーラー自身の語る「言葉」に一気に肉迫しようとするものであり、それ故にある種の過激な抽象性を帯びるものであったが、ここでのインバルは、チェコ・フィルの多彩な音色を得て、彼の本来の音楽性である過激な抽象性と、オーケストラのローカル性を全く対立させることなく音楽の中にブレンドし、これまでに例のないマーラー像を打ち立てている。おそらく、秋から始まる都響とのチクルスでは、マーラーの「言葉」にもっと直接に迫ろうとする過激さに満ちたものになるであろう。例えが適切かどうか分からないが、インバルと、都響及びチェコ・フィルとの関係は、フルトヴェングラーとベルリン・フィル及びウィーン・フィルとの関係に似ているような気がする。つまり前者のパートナーとは徹底的に自分のやりたい音楽を追求し、後者はオーケストラの特性をある程度尊重して、ある意味余裕をもって遊んでいるという感じだ。こういった使い分けが無理なくできて、どちらも素晴らしいところは、インバルが真の巨匠の域に達したことを示すものだろう。

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     2012/07/22

    この演奏を含む全集がいかに大きな価値を持つものであるかは別に全集の項でレビューを書いたが、最近Blue-specを偶々視聴し、その音質の改善に驚愕した。ヴェールが一枚丸まる取れたような趣で、この時代のインバル/FRSOの凄さが初発売以来25年を経てさらに増幅して伝わってきた。やはりこれは一つの「超えられない」演奏と言ってよい。現在進行中の東京都交響楽団とのチクルスももちろん凄いのだが、やはりこのFRSOとの全集はマーラー演奏の一つの究極の到達点だと強く感じた。

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