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マーラー(1860-1911)

SACD 交響曲第7番『夜の歌』 インバル&東京都交響楽団(2013)

交響曲第7番『夜の歌』 インバル&東京都交響楽団(2013)

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    norry  |  東京都  |  不明  |  2014年04月21日

    マーラーの第7におけるインバルの声望は、すでに以前から周知のとおりである。1986年のFRSOとの録音は、レコードアカデミー賞を受賞した名盤であり、それまで異端児のような扱いを受けていたこの曲の真価を世に知らしめた超名演であった。第5、第6、第7という、中期の3作が、マーラーの主観と音楽との関係性それ自体を対象とした、いわゆるメタ交響曲(よく「音楽についての音楽」ということが言われるが、正確にはこう理解すべきではないか。ドイツ観念論風に、「超越論的主観の音楽」とか、「自己言及的音楽」という言葉を使ってもいいかも知れない)であることは、夙に識者の指摘するところだが、中期のマーラーのそういった特色を、明確に自覚的に演奏に反映したのはインバルが初めてであったし、インバルは未だにそのような体系的なマーラー理解にとって最上かつ最良の導き手であり続けている。そのような体系的理解を前提とした上で、中期の3作はさまざまな理解が可能だが、例えば音楽史との関係性を主眼に据えた場合(かなり無理があるのを承知で言えば)、第5は対位法の父としてのバッハとの、第6はソナタ形式の枠組みと徹底した主題労作を基に、倫理的な人格概念を交響曲の本質としたベートーヴェンとの関係(そのような英雄はもういない、という「悲劇」)が透けて見える。そして第7はといえば、ワーグナーを中心とするドイツ・ロマン派との関係性が強いのではないだろうか。いうまでもなく、「夜」はロマン派文学の主題の一つであるし、「トリスタン」がひたすら昼を呪い夜を賛美したことは周知のとおりである。しかし、マーラーがここで描く「夜」はやはりワーグナーのような英雄芸術家の描く夜と異なり、近代小市民が暮らす都会である世紀末から今世紀初頭のウィーンの「夜」である。最初に「夜の音楽」としての2,4楽章ができ、その後交響曲としての枠をはめるように1,3,5楽章が出来上がったというこの曲の成立過程も示唆的である。1楽章は夜に露わになるさまざまな欲望や夢のうごめきや噴出であり、テノール・ホルンの奇妙な音色はそれを象徴する。実際に、この楽章のコーダで呼び起される、脳髄の奥から何か非合理なものが噴出するかのような興奮はいわく言い難いものがある。その意味では、この曲は、夜に開放される本能的な欲望や夢そのもの(1楽章)、あるいはそれにまつわるいろいろな表象(2〜4楽章)を音化したものだといえるのかもしれない。いずれにしても5楽章をどう理解するかが問題になるのだが、ここはやはり、「トリスタン」で夜を賛美したワーグナーが、次作の「マイスタージンガー」においてドイツの芸術家を賛美したことを想起すべきだろう。5楽章の冒頭において見事にパロディ化されるマイスタージンガー前奏曲は、あたかも、ドイツのエリートたる芸術家の権化であったはずのワーグナーの音楽が、20世紀においてハリウッド映画音楽等に消費され、大衆化されることを予言しているかのようである。いささか強引にまとめれば、マーラーの第7は、夜に開放される無意識的欲望や夢が、最終的には画一的な消費音楽の世界に統合されてしまう、現代の文化の状況を描いたものといえないだろうか(もちろんマーラーが意識的にそうしたわけではないであろうが)。そこでようやく演奏論であるが、前述のとおりFRSOとの録音は、到底今後これを凌駕する演奏は出現しないであろうと思わせる高レベルの演奏であったし、2011年に出たインバル自身のチェコ・フィルとの録音も、オーケストラの独特の響きや、非常にコッテリとしてまさにロマンティックな解釈は、それはそれとして強い魅力があったが、演奏としての完璧さや徹底度からいうと、FRSOの演奏には及ばなかった。しかし今回登場した都響とのバージョンによって、ようやく記録が塗り替えられたという思いがする。これまで何度も指摘してきたが、インバルのマーラー解釈の本質は、スコアのあらゆる瞬間において各楽器に要求されている音色を可能な限り明確に、かつ、他のすべての楽器との音量の正確なバランスを維持しつつ再現することにある。第7は、例えば、後のシェーンベルクの「浄夜」や「グレの歌」のような超ロマン主義の音楽と共通する、繊細な音色が要求される場面が多く、それぞれの場において各楽器に指定されている奏法が具体的にどのような音響を要求するものであるかについて、正確に理解し、積み上げることが必要となる。いわゆる「優秀」な指揮者ほど、そのような積み上げをせず、ある種の「解釈」に基づく全体的な音響にすり替えてしまう誘惑にかられるものであろうし、実際にそのような演奏は枚挙に暇ないが、インバルの原理主義者的な徹底したアプローチは、そのようなあいまいな解釈を決して許容せず、いわば、「神は細部に宿る」とばかりに、細かな音色の徹底した積み上げによって全体の音響を形づくる。そして、これこそが驚異的なところであるが、そのような微視的なアプローチをとりつつも、全体の構えは極めてスケールが大きく、そしてこれは特に今回の都響との演奏についていえることであるが、テンポの動かし方が極めて大胆であるとともに、緩急や強弱のコントラストが極めて大きい。これによって、今回の演奏は類例のない響きの立体性を獲得している。今回改めて、クレンペラー、バーンスタイン、ショルティ、シノーポリ、ベルティーニ、ブーレーズ、ティルソン・トーマスといった主だった演奏を聴いてみたが、それぞれ他にない個性はもちろんあるものの、今回のインバル・都響のレベルの高さはやはり一頭地を抜いている(クレンペラーはちょっと番外という感じもするが)。今回の演奏について、評論家諸氏の意見を見ると、概ね大絶賛でありながらも、あまりに上手くまとめられすぎていて、この曲が持つ訳が分からなさの魅力が減じているという意見もあるようである。しかし、そもそもインバルのマーラーの肝は、マーラーがなぜ交響曲を連作しなければならなかったのか、あるいは(インバル自身が頻繁に述べているとおり)マーラーの交響曲は一つ一つ独立したものでなく、一つの長編小説の各章のような位置づけであることを理解させることにある。各曲の(必ずしも本質的でないものも含めて)個性を掘り下げる「解釈」ももちろんあってよいが、インバルでマーラーを聞く意味はそのような刹那的なものではないというべきであろう。最後になったが、都響の演奏は本当にめざましい。特に、音色の生々しさはただ事ではない。有機性と機能性を完全に統合して昇華させた今の都響のサウンドは、メタリックな印象の強さをぬぐえなかったFRSOのサウンドを凌駕している。グローバルな音楽としてのマーラーに求められる最高の音響と言ってよいだろう。残りの第8、第9はいずれも超絶的な名演であった。7月の10番の実演ももちろん、これらの録音の発売が本当に楽しみである。

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    村井 翔  |  愛知県  |  不明  |  2014年03月29日

    指揮者のやりたいことと作品の求めるところがぴったり一致した(ように聴こえる)非常に幸福な演奏。6番ではさほどの冴えを感じなかったインバルだが、やはり7番との相性は抜群だ。私はこの曲を、アドルノの言う通り「苦難を乗り越えて栄光へ」というベートーヴェン以来の交響曲プログラムを内側から堀り崩すような破壊的作品と見るが、インバルはラトルのようにはっきりとパロディ交響曲と聴こえるような見立てはとらない。総譜をとにかくきっちりと音にして、後は聴衆が自由に感じてくださいというスタンスだ。それでもこの演奏の彫りの深さは驚異的。2011年のチェコ・フィルとの録音では、オケのカラーゆえか、普通の意味での「ロマンティック」な路線に流れたインバルだが、都響という高機能オケを得て、再びフランクフルト放送響時代のシャープで精細なアプローチに戻ってきた(全体で4分ほど演奏時間が短い)。緩急、強弱、声部のバランス(主旋律の裏の響きや対位旋律を強めに押し出すのがインバル流だが、これはマゼールなどと同じ流儀と思う)、すべてにわたってコントラストが強く、アンプを「ラウドネス」に設定したような雄弁で(悪く言えば)やかましく、押しつけがましい演奏だが、時間当たりの情報量が途方もなく多い。7番の終楽章はマーラー交響曲中でも技術的な最難関の一つだが(2013年1月、ジンマン指揮N響は悲惨だった)、都響のあざやかな演奏は圧巻。

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