裄野條

本 カラヤン幻論

カラヤン幻論

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    ほんず内閣総理大臣  |  北海道  |  不明  |  2014年02月23日

    「幻論」というなじまない言葉が書名になっていることにも明らかなように、批評や印象を述べたものでもなく、ジャケットをも含めたカラヤンのディスクを見聞きして「思ったこと=感想、妄想、幻想」を書き綴ったものです。初めからそういうスタンスであることは著者は明言されていますし、そこは大変ユニークですね。通常は誰でもが首肯できるようなもっともらしい批評に作ろうとしますからね。カラヤンの立派さに敬服する者としては、大変に興味深く手に取りました。読了感としては、「いささかモヤモヤ」といふところです。演奏の良し悪しに関する当否は、もちろんこの際問題ではありません。仮に個人的意見にしろ、「幻論」にしろ、もうちょっと調べてほしいとか、もうちょっと考えてほしいとか、そういう個所が多い(多すぎ)なのですな。たとえばジャケット写真の件。著者はずいぶんしっかりとジャケット写真についても収集してご覧になっていますが、それならば、彼の年齢進行による傾向とか、EMIとDGとの異同とか、そういう比較検討はしてみてもいいんじゃないですかねぇ。また、「トゥーランドット」について、外題にリッチャレッリを起用したことについて、死を意識したカラヤン主導の姿勢の表れというようなお考えを披露しておられます(86〜91ページ)。トゥーランドット役は通常相当に強力な声の持ち主を使います。ニルソンとかマルトンとかは、ブリュンヒルデ歌いでも著名ですね。ところがこういう歌手が歌うと、声の威力を出すことに意を注いでしまって旋律線が崩れやすく、せっかくのプッチーニの美しいメロディラインが曖昧になってしまいますし、内心の弱さを持った姫の表現の部分が不十分になってしまいます。例えばカラヤンさんは実演では無理な配役を試みています。「ワルキューレ」でヤノヴィッツをジークリンデに当てたのはその典型でしょう。劇場では実現できないリリカルな歌、繊細な表現を実現するために、レコード芸術として特別な配役を試みたというのがやっぱり妥当な線じゃないかなあ。そう、カラヤンこそまさしく《レコード芸術》の申し子でしょう。数多くのレパートリーを高い質で揃えスタンダードを世界の人々に提供しようとした、そして劇場の公演だけでは少人数しか鑑賞できないからディスクという形で世界中に届けた、そういう高い「志」の成果であったと思うのです。以前の巨匠たちの演奏は「すばらしい」にしても「スタンダード」ではなかったと思いますし、また録音技術の拙劣さや現場へのこだわりにより、レコードではそれらは成就されてなかったですやね。偉大なカラヤン、一時期の不当な非難を払拭して再評価する必要を痛感するものです。そういう意味でこの本の不満をもう一つ書いておくと、取り上げたディスクが少なすぎるよ、ということです。カラヤンに対する著者の想い、もっともっとたくさん、披露して欲しかったですな。

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