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林田力 さんの読者レビュー一覧 

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  • 2012年12月28日

    ジョン・グリシャム著、天馬龍行訳『甘い薬害 上下』(アカデミー出版、2008年)は弁護士の経済的成功と転落を描いた法廷小説である。著者のグリシャムは米国法廷小説の第一人者とも称すべきベストセラー作家で、『ペリカン文書』など映画化された作品もある。

    米国の弁護士の拝金主義の醜い実態を赤裸々に描く点がグリシャムの特徴の一つであるが、本書では特に強烈である。自家用ジェット機など同業者の拝金主義と浪費を軽蔑していた主人公のクレイ・カーター弁護士も次第にのめり込んでいく。良心を麻痺させ、人間を変えてしまう金銭の狂気が描かれる。

    私は東急不動産から新築マンションをだまし売りされ、裁判で売買代金を取り戻した経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。この経験があるために醜い金儲けに狂奔する拝金主義を軽蔑する。しかし、弁護士の金儲け主義という問題点を認識した上で、消費者問題の裁判経験者として米国の司法制度に尊敬と憧れを抱いていた。

    米国では集団訴訟や懲罰的損害賠償、民事陪審など悪徳業者に厳しい制度設計がなされている。売ったら売りっぱなし、不正のやり得を許しがちな日本とは雲泥の差である。不正の追求者に私益の面があるとしても、それを米国では社会正義の実現に役立てている。この点はプリウスのブレーキ欠陥などトヨタ自動車の大量リコール問題での日米の差として分析した(林田力「【オムニバス】米連邦大陪審も証取委もトヨタ自動車に召喚状」JANJAN 2010年2月24日)。

    ところが、『甘い薬害』は悪徳弁護士の弊害の大きさを明らかにする。自己の利益のみを追求する悪徳弁護士は相手方当事者や依頼人など関係者全てを不幸にする。日本人にとって恐ろしい点は、これが対岸の火事ではないことである。確かに日本の弁護士は自家用ジェット機を購入できるほどは荒稼ぎしていない。

    しかし、司法試験合格者の拡大や法律事務所の広告規制緩和により、弁護士の拝金主義・質の低下は進行している。これは宇都宮健児氏が当選した日弁連会長選挙の争点の一つのなるほどであった(林田力「【オムニバス】宇都宮健児氏、日弁連会長選挙当選の要因」JANJAN 2010年3月11日)。

    マンガ『クロサギ』原案の夏原武氏は「モンスター弁護士」という言葉を用いて警鐘を鳴らす(林田力「宇都宮健児日弁連新会長の課題はモンスター弁護士の排除」PJニュース2010年3月27日)。NHKのドキュメンタリー番組「追跡!A to Z」でも2010年9月4日に「正義の味方はなぜ堕ちた?〜急増する弁護士トラブル〜」と題して弁護士トラブルを特集した。

    米国と比べるとスケールは小さいものの、社会正義を放棄し、自己の利益のためにデタラメな主張を繰り返すモンスター弁護士は増えている。むしろスケールが小さいからこそ、普通の人々が悪徳弁護士に巻き込まれ、苦しめられる危険が高い。

    日本では2010年6月に恨まれた弁護士が刺殺される事件も起きている。ブラック企業が社会問題になっているが、「弁護士事務所そのものが『ブラック化』している」と指摘される(今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』)。本書の宣伝文句は「日本の明日が見えるアメリカの今」である。まさに本書は日本社会への予言となっている。

    暗澹たる現実を描く本書の救いは悪徳弁護士の不正を糾弾する女性弁護士である。妥協を排し、正義を貫く彼女は清々しく、弁護士の理想的な姿である。本書は主人公の自分探し的な形でまとめようとして結末に御都合主義的な点が感じられないでもない。この点で彼女を主人公としたならば勧善懲悪的な意味で完成度の高いストーリーになったと思われる。勿論、それが娯楽小説として面白いかは別問題である。

    彼女のような弁護士の不正を糾弾する弁護士という存在こそ、仲間内でかばいあう日本の法曹界では徹底的に欠けているものである。問題を抱えているとしても、米国に学ぶことは多い。日本社会の後進性を改めて実感した。

  • 2012年12月24日

    今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』(文春新書、2012年)は社会問題になっているブラック企業を取り上げた書籍である。ブラック企業とは従業員を劣悪な条件で働かせ、うつ病から離職へ追いこみ、平然と「使い捨て」にする企業を指す。

    著者はNPO法人POSSE代表として1500件を越える若者の労働相談に関わってきた人物である。その知見に基づいて「ブラック企業の見分け方」「入ってしまった後の対処法」などを指南する。

    就職先としてブラック企業は絶対に避けなければならないことは言うまでもないが、ブラック企業の存在自体が日本社会に害悪を及ぼしている。ブラック企業の弊害は若者の鬱病、医療費や生活保護の増大、少子化、消費者の安全崩壊、教育・介護サービスの低下など多岐にわたる。ブラック企業が日本の未来を奪う日本劣化の原因といっても過言ではない。

    ブラック企業が蔓延する背景にはブラック弁護士法人(ブラック法律事務所)がある(208頁以下)。利益至上主義の弁護士法人がブラック企業の法務や労務管理を担当する。弁護士としての使命感や倫理観は皆無である。本書では以下のように述べている。

    「私の経験でも、完全に違法な行為に若い弁護士が加担してくるケースは後を絶たない。時には、まったくでたらめな損害賠償の請求書類に何人もの弁護士が名前を連ねて送ってくる。『脅し』のつもりなのだろう。」

    実際、以下のような非常識な法律事務所の話を聞いたことがある。法律相談中に東日本大震災が起きたが、相談者の安全を図らずに法律相談を強行して相談者を帰宅難民にさせた。震災後の鉄道の運休で出勤できなかった従業員全てを欠勤(減給)処分にした。

    ブラック弁護士法人は被用者(新人弁護士や事務職員)に対してブラックであるだけでなく、ブラック企業を指南するために二重の意味でブラックである。ブラック弁護士法人の根絶がブラック企業根絶の道である。

  • 2012年12月01日

    宮部みゆき『火車』は多重債務問題を背景にしたミステリー小説である。負傷して休職中の刑事が遠縁の男性の頼みで失踪した女性を探す。クレジットやキャッシングなどの多重債務問題が債務者個人の自己責任と切り捨てられる問題ではなく、金儲け社会の犠牲者であることが理解できる。真面目な人ほど多重債務で苦しみがちである。

    『火車』に登場する多重債務問題に取り組む弁護士は実在の弁護士をモデルとしている。その弁護士の発言に「多重債務者が原発の掃除などの作業をする労働者になる。過去を隠しているから、危険な仕事に就かざるを得なくなる」というものがある(201頁)。原子力発電の非人間性への批判的視点が福島第一原発事故以前から存在したことを感じさせる台詞である。

    『火車』には東京の街づくりについても考えさせられる記述がある。東京は機能ばかり便利になったが、人の生活する故郷と呼べなくなったとする。「現在の東京は、人間が根をおろして生きることのできる土地ではなくなってしまっている」。大都会としての機能は「とっ替えのきく備品みたいなものである」(236頁)。

    一方で東京の特徴として都心部でもインテリジェント・ビルと背中合わせに二階建て建築が残っている点を好意的に登場人物に語らせている(379頁)。また、伊勢市を訪問した主人公は、伊勢神宮の街としての風情を守るために鉄筋の建物を壊して木造に建て替えている動きを見る(437頁)。

    『火車』は平成初年の出来事である。その後の東京では国際競争力や都市再生のかけ声によって住民が追い出される街づくりが進められている。しかし、木造住宅や商店街を再開発の名目で破壊するのではなく、住み続けられる街にすることが大切である。人口減少時代の街づくりは高過ぎる高層ビルの減築である。東京の街づくりは考え直す時期に来ている。

    『火車』には多重債務問題の底流には住宅ローンがあったとの指摘がある。マイホームを持ちたくて無理をしてローンを組み、毎日の生活がきつくなるからサラ金で借りるというパターンである(260頁)。物語の中でも住宅ローン破産は重要な意味を持っている。

    日本は格差社会になったと言っても、まだまだ中流意識を持つ人々が多い。住宅ローンを借りられる層は貧困問題を対岸の火事のように思いがちであるが、その浅はかさを気付かせてくれる。『火車』でも「マイホームさえ持てば、幸せになれる」という小市民的願望を「錯覚から生じたものではなかったか」と自問する(413頁)。貧困問題と持ち家偏重の歪みは近いところにある。(林田力)

  • 2012年10月07日

    アランナ・ナイト著、法村里絵訳『エジンバラの古い棺』(創元推理文庫)は英国ヴィクトリア朝を舞台とした歴史ミステリーである。エジンバラ市警の警部補ファロを主人公としたシリーズの2作目である。1作目は『修道院の第二の殺人』である。

    エジンバラ城の崖下で発見された男の遺体を調べるうちに警官であった父親が追っていた事件が重なり、英国の歴史を塗り替える秘密も明らかになるサイドストーリーも恋愛や家族との交流があり、盛り沢山である。

    ヴィクトリア朝イギリスは『シャーロック・ホームズ』など数多くの小説の舞台として描かれてきた馴染みの時代である。しかし、本書にはヴィクトリア朝イギリスの既成概念から外れた魅力がある。

    第一にスコットランドを舞台としていることである。日本人はイギリスと単一の国家のように認識しがちである。しかし、イギリスは連合王国United Kingdomであり、イングランドとスコットランドは別の国であった。そのスコットランド人の心情を本書で味わうことができる。また、ブリテン島に出稼ぎに来ざるを得ない貧しいアイルランド人労働者を描き、経済発展の負の面を直視する。

    第二にヴィクトリア女王の不人気を直視する。ヴィクトリア朝は大英帝国にとって栄光の時代と受け止められがちである。そのためにヴィクトリア女王も偉大な国母と祭り上げられる傾向がある。

    これに対して、『エジンバラの古い棺』では臣民のことを考えていないと噂される存在として描かれる。イギリスの兵士は「女王のために命がけで戦っているわけではない。彼らを動かしているのは、女王への愛ではなく命令だ」と説明される(104頁)。ここには愛国心などの言葉で美化され、歪曲された国家権力の真の姿がある。

    過去の王に対しても「下品で不快な男」「だらしがなくて不潔で、指先以外は滅多に洗わないものだから、ひどく臭かった」「物笑いの種になるほどの臆病者」と手厳しい(142頁)。臭いという外部に現れた体質と臆病という内面的な性質を同一人に重ねている点が興味深い。最低の人間に相応しい形容である。

    ヴィクトリア朝はディズレーリとグラッドストンに代表される二大政党政治が促進された時代であった。保守主義と自由主義の路線対立があり、そのような多様性があることがヴィクトリア朝に自由なイメージを与えている。

    ところが、『エジンバラの古い棺』には衝撃のラストが待っている。そこでは国家権力に都合の悪い事実を隠蔽するという点ではリベラル派の政治家であっても保守派と変わらない実態を浮き彫りにする。糾弾色はないものの、大英帝国の欺瞞を雄弁に物語る小説である。(林田力)

  • 2012年09月30日

    岩見良太郎『場のまちづくりの理論 現代都市計画批判』(日本経済評論社、2012年)は都市計画の研究者による研究書である。現代日本の都市計画は人々に豊かな暮らしをもたらしていない。この問題意識から「場」をキーワードとして、豊かな活動、生き甲斐のステージとしてのまちづくりを提起する。

    『場』についての哲学的な文章が続くために表面的には難解であるが、主張は明快である。著者は二子玉川ライズ住民訴訟で証言するなど活動的な研究者である。『場のまちづくりの理論』の場とは単なる場所ではなく、街は単なる建物の集合を意味しない。人々の生活や交流の場である。縁のある場ということに意味がある。

    しかしながら、現代日本の都市計画は開発業者の金儲けのために場を破壊する方向に利用されている。その典型例として東京都世田谷区の二子玉川東地区市街地再開発(二子玉川ライズ)などを取り上げる。二子玉川ライズに対する著者の批判は厳しい。これらは二子玉川ライズの実態を正確に描写するものである(林田力『二子玉川ライズ反対運動』)。

    「土地の高度利用の追究で、緑地・オープンスペースはきわめて貧困なものとなり、また、局地的にそれをおこなったため、周辺地域に機能障害・環境破壊をもたらすものとなっている」(144頁)

    「本事業で設けられた巨大な人工地盤は、周辺地域との連続性を心理的にも、物的にも希薄にし、周辺から隔離した孤立的環境をつくりあげた。これは、再開発地域内の住民と周辺住民が一体となって、新たなコミュニティを創り出すという可能性を奪うものである」(146頁)

    「東急の大商業ビルが、その吸引力によって『地域社会の活性化』をもたらすと強弁するかもしれないが―むしろ、その逆の可能性の方が大きい―自らの利益追求のために建設したにすぎない」(146頁)

    場を破壊する行政や開発業者に対し、場を守り、発展させる活動が開発反対の住民運動である。反対運動に対しては判で押したように「反対のための反対で生産的ではない」とのステレオタイプな批判が出てくる。これに対して『場のまちづくりの理論』は反対運動に積極的な意味を見いだす。住民が主体的に活動する反対運動が地域の縁を強め、場を活性化させる。

    既存の生活を場や縁という価値で理論化する『場のまちづくりの理論』の視点は住民運動に希望を与える。開発推進派は開発による経済発展というドグマを押し付けてくる。このドグマは不動産不況の中でメッキが剥がれてきているが、まだまだ強固である。反対運動にもドグマの前提を無意識的に受け入れてしまい、自然保護という対抗価値に頼る傾向がある。

    開発による経済利益よりも自然に価値があるという思想は正しい。反対運動が守るべき街は世界自然遺産のようなものではなく、多かれ少なかれ自然を破壊しているものである。逆に開発推進派からは木造密集地域を再開発して超高層ビルを建設し、オープンスペースを作ることが緑化になると反転攻勢にも使われる。自然保護は重要なキーワードであるが、自然保護一辺倒では行き詰る。

    「木造密集地域に価値がある」と胸を張って主張できなければならない。その価値を『場のまちづくりの理論』は示すものである。『場のまちづくりの理論』の指摘はバブル経済崩壊後の新たな指針となるべきであったが、東日本大震災後は一層重要になる。(林田力)

  • 2012年07月28日

    早川和男『居住福祉』(岩波新書、1997年)は福祉の観点から住まいを考える新書である。住まいの貧困が日本社会の人心の荒廃の一因であるとし、居住福祉社会を新しい時代の文化として作り上げていくことを訴える(15頁)。
    北欧では「福祉は住居にはじまり住居におわる」と言われるが、日本の住まいに対する意識は低いと「はしがき」で著者は指摘する。著者の嘆きは正しい。住まいは人権という意識の低さがゼロゼロ物件のような貧困ビジネスを横行させている。
    『居住福祉』の優れている点は住まいに関する様々な問題を「居住福祉」という観点で網羅していることである。住宅や街づくりは社会保障に密接に関連する分野である。マンションだまし売りの東急不動産だまし売り裁判も、大型開発による住環境破壊の二子玉川ライズも、東急電鉄による東急大井町線高架下住民追い出しも、貧困ビジネスのゼロゼロ物件も居住福祉の貧困が原因である。それらと闘う運動は居住の権利を守る運動である(170頁)。
    日本の住宅政策の問題点は、住宅の供給と確保を市場原理に委ねていることである(103頁)。総理府社会保障制度審議会は1962年の「社会保障制度の総合調整に関する基本政策についての答申および社会保障制度の推進に関する勧告」で以下の勧告をした。
    「国の住宅政策は比較的収入の多い人の住宅に力を入れているので、自己の負担によって住宅を持つことができず、公営住宅を頼りにするほかない所得階層の者はその利益にあずからない。これでは社会保障にならない。住宅建設は公営住宅を中心とし、負担能力の乏しい所得階層のための低家賃住宅に重点をおくよう改めるべきである。」
    しかし実態は正反対の方向に進んだ。「戦後、企業および公共団体は一貫して土地と住宅を利潤追求の手段にし、それゆえに政府も自治体も、居住の権利をタブー化せざるをえなかった。」(171頁)。だからマンションだまし売りの東急不動産だまし売り裁判や貧困ビジネスのゼロゼロ物件など悪徳不動産業者が横行する。
    『居住福祉』では転居の弊害も指摘する。「一般に高齢になってからの転居は「精神的卒中」といってよいほど深刻な事態を招きがちで、避けるにこしたことはない。」(110頁)。古くから居住している東京都品川区の東急大井町線高架下住民を追い出す東急電鉄は非道である(林田力『二子玉川ライズ反対運動2』151頁)。
    転居の弊害に対する日本人の意識が低い点も住まいが市場原理に委ねられていることが背景である。「日本の不動産業者や仲介業者は買い替え、引っ越しで食っているのだから警告するはずはない。」(113頁)。
    ジョン・メージャー(John Major)英国首相は「ホームレスは目障り。観光客や買い物客を繁華街から遠ざける」と発言して世論の猛反発を浴びた。しかし、日本ではホームレス排除が社会の無関心の上に強行されている。
    「わが国には、市民の生命や環境の破壊、住民の追い出しなど反社会的行動を恥じない企業が多すぎる」(192頁)。東急リバブル・東急不動産・東急電鉄や宅建業法違反のゼロゼロ物件業者は典型である。
    「住宅問題はたいてい、個人の問題として個別にあらわれる。」(197頁)。それ故に『東急不動産だまし売り裁判』という形で公刊されることに意義がある。
    再開発の問題への指摘も重い。「町なかの民間借家などに住む住民が、行政の再開発事業とそれにからむ暴力的地上げなどで追い立てられる事態が再びぶり返し、人々を居住不安に陥れている」(8頁)。これは東京都世田谷区の二子玉川ライズや品川区の東急大井町線高架下に該当する(林田力『二子玉川ライズ反対運動2』)。二子玉川では駅前の中小地権者は追い出され、東急電鉄・東急不動産の商業施設「二子玉川ライズ ショッピングセンター」やオフィスビル「二子玉川ライズ オフィス」になってしまった。東急大井町線高架下住民は東急電鉄から一方的な立ち退き要求を受けている。
    住居で日照が重要であることを明らかにする。阪神大震災で「隣の家が壊れて空き地になって、自分のアパートに日があたるようになった。今までは日があたらず、湿気も多かった。」という住民は「かぜひかなくなった。咳一つでない。」と語る(38頁)。
    別の箇所では「日照・通風・採光の不良は室内を不衛生にし、呼吸系疾患や骨粗鬆症やくる病などの原因となるだけでなく、健康回復への意欲を失わせる。通風の悪さによる夏の暑さは食欲不振などから体力の衰弱をもたらしている。」(66頁)。
    これは東急不動産だまし売り裁判でも共通する。東急リバブル東急不動産は隣地建て替えという不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りした。隣地建て替えにより、日照・眺望がなくなり、通風も悪化した。消費者契約法によって売買契約を取り消し、売買代金を取り戻した(林田力『東急不動産だまし売り裁判こうして勝った』)。東急不動産だまし売り被害者は東急不動産だまし売りマンションから出ていったことで、以前よりも健康になった。
    公園の問題も指摘する。大規模公園を防災公園とする傾向がある。しかし、本書は以下のように批判する。「大規模な公園は、たどり着くまでの距離が遠い、日常的に役立たない、などの欠陥をもっている。日常、市民の居住や生活環境に無関心で、ことさらに防災公園をいうのはまやかしである。」(41頁)。
    反対に「長田区内の小さな公園で火が止まった」と住宅地内の小規模公園を評価する(40頁)。二子玉川東地区再開発でも駅前から離れた場所に巨大な防災公園が作られるが、住民のためになっていない。
    二子玉川ライズのような再開発そのものが世界的には時代錯誤である。街づくりの先進地域である西ヨーロッパでは都市再開発が中止されている。再開発の弊害が大きいためである。再開発はコミュニティーを破壊する。そのために「既存住宅の修復事業が住宅政策、都市政策の中心になっている。」(114頁)。
    開発優先区政からの転換を訴える「新しいせたがやをめざす会」でも、住宅リフォーム助成制度の創設が提言された。新しいせたがやをめざす会の政策案は中小建設業者の振興策として提示されたものであるが、住宅政策からも支持できる。
    また、「再開発にともないがちな高層住宅は高齢者や子どもを孤立させることが明らかになるにつれ、高層住宅の建設を中止する国がふえた。既存の高層住宅はこわして三〜六階建て(むろんエレベーターはある)に建て替える。イギリス、フランスなどの都市を訪れると、どこでも高層住宅を次々と爆破して中低層住宅に変えているのに目を見張る。」(114頁以下)。アメリカでは容積率を減らすダウンゾーニングをしている。二子玉川ライズも減築が将来的な目標になる。

  • 2012年07月28日

    藤本ひとみ『バスティーユの陰謀』はフランス革命の口火を切ったバスティーユ襲撃を題材にした歴史小説である。自らの美貌をたよりに、楽に生きることだけを考える青年ジョフロアという架空の人物を主人公とする。ジョフロアは不器用で無垢なガスパールと出会い、時代の波に巻き込まれていく。

    架空の人物を主人公とすることで革命前夜のパリの庶民生活をリアルに描いている。革命は理論家の頭の中ではなく、庶民の生活から起こるものであることが実感できる。ジョフロアは遊んで暮らそうと考えている人物で、政治意識の高い人物ではなかった。その彼が激動の時代の中でバスティーユ襲撃事件に一定の役割を果たす。

    これは林田力にも実感できる。林田力も社会性が高い訳ではなかった。東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた東急不動産だまし売り裁判を契機として社会性を高め、二子玉川ライズ反対運動や東急大井町線高架下住民追い出し問題などにも取り組むようになった(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。

    『バスティーユの陰謀』では史実の革命家としてカミーユ・デムーランが登場する。デムーランはパレ・ロワイヤルで群衆に向かって「武器を取れ」と演説し、バスティーユ襲撃の口火を切った人物である。物語中でもデムーランは民衆に蜂起を促すが、彼自身はバスティーユには向かわない。「殺されるのは民衆の役目」と高みの見物を決め込んでいる。

    これはあくまで『バスティーユの陰謀』で描かれたデムーランである。史実のデムーランは後年、ロベスピエール独裁に反対し、寛容を主張する良識派として知られている。架空の主人公と対比するための脚色と考えられるが、無責任な扇動家の心理を教えてくれる。

  • 2012年07月23日

    関幸彦『源頼朝―鎌倉殿誕生』は源頼朝の権威の源泉に迫った書籍である。源平争乱から奥州合戦に至る最も濃密な十年を読み解きながら、卓越した政治的手腕を示した頼朝の実像を描く。頼朝が開いた鎌倉幕府は日本の歴史上、画期的な出来事である。手本がない中で先駆者となった頼朝の実像を浮かび上がらせる。

    頼朝は鎌倉殿としての私的権威を拠り所にしていた。源氏の嫡流である頼朝は八幡太郎義家など先祖の権威を利用できる立場にあったが、その過大評価を『鎌倉殿誕生』は戒める。むしろ、先祖の業績を自らの権威付けに利用した頼朝の演出力を評価する。

    日本史には「権力者は何故、天皇家を滅ぼさなかったのか」という大きな疑問がある。平将門の伝統のある東国武士団を率い、反乱軍として出発した頼朝には、その可能性があったと分析する。しかし、王朝の権威を利用する方向に変化し、正統性を付与した。それによって失われたものもあるとまとめている。(林田力)

  • 2012年07月22日

    三上岳彦『都市型集中豪雨はなぜ起こる? 台風でも前線でもない大雨の正体』(技術評論社、1998年)は都市型集中豪雨について解説した書籍である。気象庁の雨の強さと降り方の指針も掲載されている。それによると強い雨は時間雨量20ミリ、激しい雨は30ミリからである(20頁)。
    東京では湾岸沿いの超高層ビルが東京湾からの海風を遮って都内のヒートアイランドを強めている。一方で湾岸地域や荒川沿いの地域は、夏季日中は都内の他の地域よりも低温であるという。海や川から吹く風が気温を下げている(70頁)。これを踏まえるならば東京都世田谷区玉川に超高層ビルを建設する二子玉川ライズが都市環境を悪化させることは明白である。多摩川からの風を遮ることになるからである。
    『都市型集中豪雨はなぜ起こる』では九州の豪雨も紹介する。2012年7月12日未明からの熊本県の大雨は記録的大雨として大きく報道された。市街地を流れる白川が氾濫した。街が水浸しになっており、河川沿いを中心に多数の避難者が出た。しかし、1957年の諫早豪雨でも熊本県は死者行方不明者160人以上を出している(76頁)。
    もともと九州は台風の通り道であり、水害も少なくない。九州は福島第一原発事故の自主避難者も多いが、拙速な自主避難が裏目に出た人もいるだろう。管見は、放射能は微量であっても避けるべきとの立場である(林田力「福島第一原発事故の被曝と医療被曝の比較はナンセンス」PJニュース2011年3月22日)。それ故に自主避難という選択に好意的であったが、放射脳とも呼ばれる九州などでの一部の自主避難者のグループの活動には怒りを覚える。
    彼らは福島に残っている人々を愚か者呼ばわりし、放射能は危険とのデマを撒き散らす。中には惨めな生活から逃げる口実として「自主避難」を持ち出した輩もいる。自主避難者というよりも夜逃げ者である。言わば人生をリセットする感覚での自主避難である。
    当然のことながら自主避難したところで惨めな生活から抜け出せるわけではない。むしろ、もっと惨めになる可能性が高い。土地を追われた農民が鉄鎖の他には失うものは何もないプロレタリア階級になったことは歴史が示している。そのような彼らが自主避難という転落人生に至る要因を正しいと自己正当化するためには福島や東北・関東が人の住めない土地でなければならないのである。
    そのために「福島で鼻血を出す子が続出し、下痢、頭痛が止まらない子が大勢いる」「娘の友達が何人も白血病の初期症状と診断され、甲状腺の異常が見つかった」などのデマを拡散する。
    北九州市での暴力的な被災地の瓦礫受け入れ阻止行動には彼らの異常性が現れている。熊本県宇城市では公共施設「海のピラミッド」が脱原発派に私物化されている(林田力『二子玉川ライズ反対運動2』107頁)。これらは保守派に脱原発の運動はエゴイズムであると格好の攻撃材料を与えることになる。
    たとえば「安心とか不安というこの漠たる気分を赴くままにしているのであれば、日本と言う国土の上で生きていくことは難しい」とガレキ受け入れ阻止を批判する見解がある(渡辺利夫「強靭なる諦観の哲学を提示する知者、出でよ」国家安全保障危機学会『安全保障と危機管理』20号、2012年)
    既に反発は力を得ている。東京電力福島第1原発事故による放射能汚染に関して「根拠のない暴言を繰り返した」などとして群馬県桐生市議会は2012年6月20日、同市議の庭山由紀氏(無所属)の除名を求める懲罰動議を可決した。地方自治法の規定により庭山氏は同日付で議員を失職した。
    動議などによると、庭山氏は2011年12月にTwitterに「毒物作る農家の苦労なんて理解できません」などと書き込み、農業団体から抗議を受けた。2012年5月25日に桐生市を訪れた献血車に対し、「放射能汚染地域に住む人の血って、ほしいですか?」などとTwitterに書き込み、これまでに同市議会に747件の苦情や抗議が寄せられた(「<桐生市議>失職 放射能巡り暴言、ツイッターに書き込み」毎日新聞2012年6月20日)。
    また、脱原発派のエゴイズムを揶揄するジョークも流布されている。以下はファーストフードでの会話である。
    放射脳のデモ参加者「デモ割お願いします」
    店員「すいませんが、そのようなサービスは行っておりません」
    デモ参加者「じゃあ飲み物一杯くらいサービスしなさいよ」
    バイト「すいません」
    デモ参加者「あなた原発推進派ね!店長出しなさい!」
    水害の激化はコンクリート化が原因であり、開発がもたらした環境問題である。脱原発運動が「放射能怖い」と言うだけの放射脳ではないか、水害という身近な災害への対応から運動の姿勢を見極め?い。

  • 2012年07月22日

    著者の吉竹幸則氏は長良川河口堰の問題を精力的に取材したが、記事が掲載されないという「報道弾圧」を受けた。

    三重県の長良川河口堰は治水と利水を目的として計画されたが、生態系や漁業への悪影響から反対運動が起きた。開発と環境の対立、巨額の税金を費やす公共事業の必要性など今日的な問題の先駆けでもある。その意味では東京都世田谷区の二子玉川ライズ問題にも通じる。二子玉川南地区でも住民から不要と批判される多摩川の堤防建設が強行されている(林田力『二子玉川ライズ反対運動』)。

    吉竹氏は河口堰建設を推進する建設省が長良川河口堰の必要性として喧伝する洪水の危険性が嘘であることを暴く。著者は不等流計算を行った結果、計画高水量の出水でも大半の地点で計画高水位を下回り、僅かに上回るところでも最大23センチメートルのオーバーで、河口堰を作る必要はないという事実を突き止めた。

    しかし、紙面への掲載は認められなかった。著者は粘り強く掲載を求め、1993年にようやく掲載されたが、続報は出なかった。しかも吉竹氏は記者を外されて窓際に追いやられてしまう。それでもコンプライアンス委員会に申し立てるなど社内で孤独な闘いを続けた。定年退職後に報道実現権侵害、名誉毀損などを理由に朝日新聞社を提訴した。

    本人訴訟で最高裁まで争ったが、一度も実質審理が行われなかったという。証人申請などを準備していたものの、申し出る暇もなく結審となってしまった。本人訴訟において当事者の手続き保障が無視されている実態が浮かび上がる。

    吉竹氏は記事を止めた朝日新聞社の体質を批判するが、トヨタ自動車など他社の取材経験も踏まえて日本企業がダメになった理由を一般化する(第41回草の実アカデミー「長良川河口堰報道弾圧をめぐる三つの闇 〜朝日新聞の闇・官僚(建設省)の闇・裁判所の闇〜」新宿区大久保地域センター、2012年7月21日)。それは労務総務系の連中が企業の中核に居座り、内向きの派閥を作ったことである。これでは現場はスポイルされ、企業が成長しないことも当然である。

    また、長良川河口堰のような無駄な公共事業を止められなかったことが現代の大増税という形で国民に跳ね返っているとまとめる。この点では無駄な公共事業である二子玉川ライズに反対する運動の責任も重大である。

  • 2012年07月22日

    吉村徳重、谷口安平、竹下守夫『講義 民事訴訟法』(青林書院、2001年)は大学における民事訴訟法の講義用の標準的教科書と位置付けられている。教科書としての位置付けであるために一般的な考え方の紹介が中心になるが、訴訟上の和解について興味深い記述があった。

    和解の勧試の進め方を以下のように記載する。「交互面接方式ではなく、両当事者対席のもとで行われるべきである。当事者に相互の陳述内容と和解案についての情報と理解を共有させ、裁判所の片面的心証形成防止をはかり、手続保障の理念をいかすためである。」(307頁)

    実務では交互面接方式が主流になっている中で貴重な指摘である。東急不動産だまし売り裁判でも最終的に東急不動産の拒否で決裂した和解協議は交互面接方式であった(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』「予定調和の協議決裂」)。

    交互面接方式でも話し合いの前提が明確で、方向性が共有できていれば問題ない。東急不動産だまし売り裁判の和解協議が早期に決裂し、無意味な和解期日を費やさずに済んだ理由も、前提に合意できないことを両当事者が共有していたことが一因である。

    しかし、一般的に交互面接方式の和解協議は評判が悪い。それは正に「手続保障の理念」がいかされていないためである。表向き「和解で終わらせた方が互いにとってプラスになる」と言っても、判決を書きたくないという自らの怠惰から和解が勧められることもある。そのために何が何でも権利主張を諦めさせるような当事者無視の和解手続きも皆無ではない(林田力『二子玉川ライズ反対運動2』93頁)。

    密室の書記官室で裁判官が「この裁判は負けですから、和解に応じなさい」という類の和解の脅迫や強要の話もある。医療過誤訴訟の被害者が裁判官から和解を強要されて焼身自殺した事件もある。まさか裁判官が「終わりよければ全てよし」というナイーブな考えは抱いていないと思うが、和解協議では適正手続きが軽視されがちである。それは当事者にとっては大きな不満の種になる。

    和解協議についても「手続保障の理念」を持ち出す『講義 民事訴訟法』は慧眼である。和解協議は両当事者対席のもとで公正に進めるべきである。

  • 2012年07月21日

    荒川弘『銀の匙 Silver Spoon』は大自然に囲まれた北海道の農業高校を舞台に新入生・八軒勇吾の農業高校生活を描く酪農学園物語である。

    荒川弘はファンタジー漫画『鋼の錬金術師』(ハガレン)で一躍人気漫画家となったが、『銀の匙』はハガレンとは全く異なるジャンルの作品である。『銀の匙』は実在の帯広農業高等学校をモデルとし、農家以外には馴染みが薄い農業高校の生活を描く。酪農を中心とした農業知識も作品には満載である。農家出身で農業高校卒という荒川の実体験を反映している。

    主人公のキャラクターも対照的である。ハガレンの主人公エドワード・エルリックは背が低いというコンプレックスはあるものの、自分の考えと目的を持ち、自分に自信がある存在であった。これに対して八軒勇吾は実家から離れられればいいというだけで全寮制の高校に入学し、将来の目的は持っていない。

    主人公の対照性も加わって『銀の匙』は幾人のキャラクターの絵柄以外には、ハガレンと同一作者であることを感じさせない作品になった。最近では初連載作品が代表作であり、唯一の連載作品という漫画家も増えている中で、荒川の引き出しの豊富さは注目に値する。

    『銀の匙 Silver Spoon 4』は自分が愛情を込めて育てた家畜の肉を食べるという畜産に携わる者にとって避けては通れないテーマの続きである。本人が自らの手で家畜を殺す訳ではないために衝撃は少ない。しかし、通常ならば出荷して終わりのところを、わざわざ問題に向き合う主人公の姿勢には感銘を受ける。新たに育てることになった家畜への主人公の姿勢も微笑ましい。

    中盤は男子エゾノー生が惹かれるモノの謎に迫るギャグ短編である。この話に限らず、この巻ではギャグか冴えている。作者がノリに乗っている印象を受ける。後半は同級生の秘密が登場する。主人公自身は自分の問題を克服していく中で、同級生の抱える問題が話を膨らませる。(林田力)

  • 2012年07月16日

    保坂渉・池谷孝司『ルポ 子どもの貧困連鎖 教育現場のSOSを追って』(光文社)は子どもの貧困問題を取り上げたルポタージュである。現代日本において貧困は大きな問題である。貧困問題の大きな弊害は親の貧困が子どもにも連鎖することである。

    『ルポ 子どもの貧困連鎖』から貧困の要因として日本の福祉の貧困が浮かび上がる。駅前のトイレで寝泊まりする女子高生、車上生活を強いられる保育園児、朝食を求めて保健室に行列する小学生などが紹介されている。未だに中流幻想にしがみつく無関心な市民は見ようとしないだけで、貧困と格差は厳然と存在する。

    日本の福祉は申請主義になっている。つまり困窮者が自動的に助けられる仕組みになっていない。お笑い芸人の母親の生活保護受給がバッシングされたが、「本当に必要な人に生活保護が受給されていない」という本質的批判は乏しい。反対に「生活保護受給は甘え」という類の時代錯誤の特殊日本的精神論からのバッシングが中心である。むしろ、大阪府東大阪市の職員約30人の親族が生活保護を受給していたことの方が恣意的な生活保護受給の問題を物語っている。

    公的福祉の貧困によって生まれるものはゼロゼロ物件などの貧困ビジネスである。貧困ビジネスを野放しにすれば貧困層は搾取され続ける。貧困ビジネスは規制しなければならない。現実に反貧困の市民運動の活動により、ゼロゼロ物件業者を宅建業法違反で業務停止処分に追い込んだ例がある(林田力「住宅政策の貧困を訴える住まいは人権デー市民集会=東京・渋谷」PJニュース2011年6月15日)。

    厄介なことに貧困ビジネスは公的なセーフティネットが機能不全になる中で社会資源の一つとして認知されつつある。そのために目の前の現実論として貧困ビジネスがなくなると貧困層は益々困ることになるという類の議論すら生じる。『ルポ 子どもの貧困連鎖』でも家がない家族が取り上げられるが、そのような家族にとってゼロゼロ物件は必要悪と言う論法である。

    この種の欺瞞的な議論は労働者派遣法でもなされている。「年越し派遣村」に象徴される正規から非正規への置き換えは格差社会の要因であるが、労働者派遣を規制強化すると派遣労働者の働き口が減るとの議論である。ゼロゼロ物件などの住まいの貧困と非正規やワーキング・プアの問題は密接に関係している。

    実際は住宅に困っている人々にゼロゼロ物件を紹介することは、金に困っている人にサラ金を紹介するようなものである。ゼロゼロ物件は悪であって、必要悪では決してない。その意味で教育現場から貧困問題のサポートを志向する『ルポ 子どもの貧困連鎖』は貧困ビジネスの二次被害を防ぐ上でも重要である。

  • 2012年07月15日

    『サマーウォーズ』は男子高校生を主人公とした作品である。昔ながらの大家族とインターネットの仮想空間という対照的な取り合わせが描かれる。リアルとネットは対比的に論じられることが多いが、ネットの背後にも生身の人間がいる。

    実際、住民や消費者への不誠実な対応によって東急グループはリアルでもネットでもバッシングされた(林田力「住民反対運動を招く東急電鉄の不誠実」オーマイニュース2008年6月18日)。リアルでは東急沿線で住民反対運動が頻発している(「「ブランド私鉄」東急沿線で住民反対運動が噴出するワケ」週刊東洋経済2008年6月14日号)。ネットでは東急不動産だまし売り裁判を契機として東急不買運動が拡大した(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号)。

    この意味でリアルの触れ合いと仮想空間の動きを両立させる筋書きは巧みである。また、敵キャラクターの設定も、ネットの背後に生身の人間がいるとの立場からも、誰もが憎める存在になっている。

  • 2012年07月15日

    『バクマン。』は亜城木夢叶のペンネームで活動する真城最高(サイコー)と高木秋人(シュージン)の漫画家生活を描く作品である。一握りの者しか得られない栄光を手にするため、険しい「マンガ道」を歩む決意をした二人。高い画力を持つ最高と、文才に長ける秋人がコンビを組む。

    『バクマン。』の魅力は漫画出版業界の内幕を明らかにするリアリティにある。亜城木夢叶は実在の雑誌『週刊少年ジャンプ』に連載しているという設定であり、登場する編集者も実際の編集者をモデルとした人物ばかりである。『週刊少年ジャンプ』の読者アンケートの仕組みも明らかにされ、亜城木夢叶はアンケート上位を目指して奮闘する。

    亜城木夢叶は毎週のアンケートの順位を気にしており、上位を獲得するために様々な試行錯誤を繰り返す。その勤勉さ・熱心さは漫画家の伝統的なイメージとは対照的である。手塚治虫や藤子不二雄のような巨匠でも、作品中に登場する漫画家の自画像は締め切りに追われるマイペースな存在であった。

    『バクマン。20』は最終巻である。終わるべくして終わるという、予定調和の最終回になった。当初の構想通りに漫画を終わらせたい漫画家の思いと人気のあるうちは引き延ばしたい出版社の営業的な思惑が衝突する。亜城木夢叶の連載作品『RIVERSI』は正義と悪のダブル主人公という点で『バクマン』の作者の前作『DEATH NOTE』に重なる。『DEATH NOTE』がL死後も続いた展開は実は作者にとって不本意であったのではないだろうか、と思わせて興味深い。(林田力)

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