シューマン、ロベルト(1810-1856)

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CD

シューマン:交響曲第2番、R.シュトラウス:ドン・ファン、ブラームス:悲劇的序曲 ジョージ・セル&ベルリン・フィル(1969年ステレオ)(日本語解説付)

シューマン、ロベルト(1810-1856)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
KKC6072
組み枚数
:
1
レーベル
:
:
日本
フォーマット
:
CD

商品説明


ベルリンの街中を沸かせたセル最晩年のBPO客演ライヴ・ステレオ録音
シューマン:交響曲第2番、R.シュトラウス:ドン・ファン、ブラームス:悲劇的序曲
ジョージ・セル&ベルリン・フィル
1969年ステレオ・ライヴ


英テスタメント・レーベルのCDは、解説書に力が入っていることでも定評があり、ヒストリカル・クラシック音楽の持つ歴史の面白さを際立たせることにもなっているので、日本語訳が付された国内盤の価値には大きなものがあります。

シリーズ概要
★歴史的録音の復刻で有名なイギリスの名門レーベル、テスタメント。1990年にスチュアート・ブラウン氏により設立され、正規音源にもとづく、高品質の音質でファンから絶大な支持を集めてきました。ここ数年日本への窓口が途絶えていましたが、このほど国内販売権をキングインターナショナルが獲得。400に近いタイトルのなかから、歴史的名盤はもとより最近話題の新盤までえりすぐって、全20タイトル、国内仕様にして発売します。
★日本語解説=オリジナル・ライナーノーツの和訳+ 曲目解説+ 歌詞対訳(声楽曲のみ)

このアルバムについて
★「私の使命は、アメリカとヨーロッパ音楽各々の要素を融合させることです。アメリカのオーケストラが持つ清々しく華やかなサウンドと各楽団員の妙技に、ヨーロッパ特有の伝統的な感性と、表現の温かみ、そして完成された様式美を加えたいのです。」
1969年6月、ベルリン・フィルとの最後のライヴにはセルにとって最も重要な3要素が含まれています。R.シュトラウス、シューマンの2番、そしてベルリンという街そのもの。事実、1939 年までセルの主なキャリアはヨーロッパで築かれていました。チェコ系ハンガリー人として生まれウィーンで教育を受けたセル。指揮者としてのベルリン・デビューは1914 年、その2年後初めてベルリン・フィルを指揮。R.シュトラウスのサポートを受け、セルはヨーロッパでの活躍の場を確実に拡大していきました。
★セルが生涯愛し続けたシューマンの「第2番」。60 年には手兵クリーヴランド管との全集を完成させますが、後年彼自身のエッセイの中で「最も偉大な純粋にロマンティックな作曲家」と記しています。セルの音楽人生を凝縮するかのように編まれたプログラム。要素そのものが奇跡的なプログラムは、やはり奇跡のような音楽として表出しています。悲劇的序曲では厳格な様式美を保ちながら実に気宇壮大なブラームスを展開。「ドン・ファン」では、クリーヴランド管に聴かれる精緻を極めたスタイリッシュなアプローチに加え、ベルリン・フィルならではの豊麗な音響が相まって、圧倒的な音楽世界が構築されていきます。楽曲途中に現れる鳥肌もののホルンの咆哮。水が滴るように艶やかな美音をふりまくシュヴァルベのソロも絶品です。


【収録情報】
●ブラームス:悲劇的序曲 Op.81
●R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」Op.20*
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 Op.61

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ミシェル・シュヴァルベ(ヴァイオリン)*
ジョージ・セル(指揮)

録音時期:1969年6月26日
録音場所:フィルハーモニー、ベルリン
録音方式:ステレオ(ライヴ/アナログ)

【セル年表(未完)】

1897年(0歳)
●6月7日、セル、オーストリア=ハンガリー帝国のブダペストに誕生。ハンガリー語では姓はセール、名はジェルジ・エンドレ。
 父カールマンは、ハンガリー西部マルツァリ出身のユダヤ系ハンガリー人実業家で、事業で成功してブダペスト旧市街、国会議事堂近くの豊かな地区で生活。パリで暮らした学生時代には、ロンドンのコヴェントガーデンに何度も通うほどのオペラ好きでもありました。
 母マルヴィン(旧姓ヒルシュヴァイン)はスロヴァキアとの国境の町イポイシャーグ(現スロヴァキアのシャヒ)出身のユダヤ系ハンガリー人で、ピアノを演奏しました。セルによると元はスロヴァキアの家系ということです。

1898年(1歳)
●3月、セル、生後9か月で喋れるようになります。

1899年(2歳)

1900年(3歳)
●セル家、父カールマンが新たに警備会社を設立するためウィーンに転居。ユダヤ教からカトリックに改宗してミサにも通い、日常言語のドイツ語化も進められます。家族はドイツ語に改名し、父はカールマンからカールに、母はマルヴィンからマルガレーテに、そしてセルはジェルジ・エンドレからゲオルク・アンドレアスに変更。

1901年(4歳)

1902年(5歳)
●セル、母からピアノや楽譜の読み方など、音楽の初歩教育を受け始めます。

1903年(6歳)
●セル、父に連れられて初めてのオペラ鑑賞。フォルクスオーパーの『カルメン』でしたが、退屈して途中で帰ってしまいます。
●セル、母と共に有名なピアノ教師テオドール・レシェティツキー[1830-1915]のピアノ教室を訪れて演奏を聴かせるものの入門拒否。レシェティツキーは当時すでに73歳で、しかも20年以上前から、妻のアネッテ・エシポフ(アンナ・エシポワ)が多くを教えていたという状況で、そのアネッテも10年前の1893年に離婚してサンクトペテルブルク音楽院のピアノ教授となっていたため、年少者の教育は困難という状況でした。
●セル、リヒャルト・ロベルト[1861-1924]のピアノ教室でピアノの勉強を本格的に開始。ウィーン生まれのロベルト(本名ロベルト・シュピッツァー)はユダヤ系で、生徒の中には、セルより2歳年長で同じくユダヤ系のクララ・ハスキルもいました。また、のちにはユダヤ系のルドルフ・ゼルキンが、新設された新ウィーン音楽院でロベルトの教えを受けています。



1904年(7歳)

1905年(8歳)

1906年(9歳)
●セル、リヒャルト・ロベルトのピアノ教室で、ハンス・ガル[1890-1987]と仲良くなり生涯に渡って交流。

1907年(10歳)
●セル、ウィーンで、オイゼビウス・マンディチェフスキ[1857-1929]に、作曲と理論を師事。マンディチェフスキはブラームスと親しい人物でもありました。

1908年(11歳)
●1月30日、セル、ウィーン・ムジークフェラインザールでの演奏会でモーツァルトのピアノ協奏曲第23番などを弾いて公開演奏会デビュー(カデンツァ自作)。共演はオスカー・ネドヴァル指揮トーンキュンストラー管弦楽団で、彼らがセル作曲の序曲も披露。セルは10歳でした。
●セル、ロンドン、ベルリン、ドレスデン、ケルン、ハンブルク、ライプツィヒをまわるツアーを実施。

1909年(12歳)





1910年(13歳)

●セル、ライプツィヒ音楽院でマックス・レーガーに作曲を師事。作曲の授業の下品さには辟易したものの、ブルックナーの交響曲第8番のアナリーゼの授業や、レーガーの弾くピアノは好きだったと言います。



1911年(14歳)
●セル、『ピアノ五重奏曲』Op.2を作曲。

1912年(15歳)
●4月22日、セル、ウィーンの楽譜出版社ウニフェアザール社と10年間の独占出版契約に同意。

1913年(16歳)
●セル、初めての指揮体験。セルの作品を聴けるよう父がオーケストラを雇って本人に指揮させたもので、セルは指揮棒を持つのは初めてだったものの、その手と耳の正確さを示すことになりました。

1914年(17歳)
◆6月28日、サラエヴォ事件発生。フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、ボスニア系セルビア人プリンツィプらにより殺害。
◆7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦開戦。
◆8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告。
◆8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告。
◆8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告。
●セル、ベルリンのブリュートナー管弦楽団を相手に、指揮者・ピアニスト・作曲家として演奏会を実施。ベートーヴェンの『皇帝』や自作などを披露。

1915年(18歳)
●セル、ドイツ帝国のベルリン宮廷歌劇場(ベルリン国立歌劇場)とコレペティトア(助手)として契約。劇場の総監督はゲオルク・フォン・ヒュルゼン=ヘーゼラー[1858-1922]で、その下で、リヒャルト・シュトラウスとレオ・ブレッヒが2人で音楽総監督を拝命(音楽総監督の呼称は1918年迄で以後は音楽監督)。ヒュルゼン=ヘーゼラーは、保守的な皇帝からシュトラウスを庇い、好きにさせていました。
 若きセルはこの環境で、歌手の練習をサポートし、オーケストラ・ピットでピアノやチェレスタを演奏したほか、舞台裏のバンダでも演奏、ときにはリヒャルト・シュトラウスの指揮の際の下稽古をしたりして実力を認められるようになります。
 歌劇場のコレペティトアからキャリアをスタートした指揮者は、作品の微細な部分から出演者と密接に関わったり、上演に際しての大小さまざまなトラブルに直面した経験から、問題解決力に秀でた人物が多いのが特徴。また、練習に際してはオペラの総譜をピアノに移すことから読み替え能力も高まり、さらに、数多い出演者の歌唱スタイルをコーチして調整する過程で様式感も備わっていきます。要するに、常に作品と演奏者の問題に常に具体的に踏み込んでおり、そうして蓄積された能力は、交響曲など声部の多い器楽作品でも十分に生かされることになると考えられます。
 当時のベルリン宮廷歌劇場の実質的な音楽総監督はユダヤ系のレオ・ブレッヒ[1871-1958]で、セルは、ブレッヒの実務能力の高さと該博な知識に感嘆していました。
 もっとも、指揮者としてセルが影響を受けたのは指揮回数の少ないもうひとりの音楽総監督のシュトラウスの方だということですが、その頃のシュトラウスは、第1次大戦のためイギリス政府によってほぼ全財産を盗まれてしまうという特殊な状況にありました。
 ガルミッシュの別荘以外の財産を失ってしまったシュトラウスは、生活費獲得目的で、気のない指揮をすることも多くなり、良い時との差が大きかったので、セルは「指揮者として2人のシュトラウスがいた」とも語っています。



1916年(19歳)
●セル、『管弦楽のための創作主題による変奏曲』Op.4を作曲。16分ほどのほぼ2管編成の作品。
◆2月、ヴェルダンの戦い。北フランスのヴェルダンで展開されたドイツとフランスの戦闘。フランス軍死傷者377,000〜542,000人、ドイツ軍死傷者336,000〜434,000人と推測される凄惨な戦いで、フランスでは徴兵が厳しかったため多くの音楽家も参戦していました。ちなみにセルは徴兵が緩かったオーストリア=ハンガリー国籍だったため、対象年齢でも戦争に行かずに済みました。
◆6〜9月、第1次世界大戦最大規模の戦いとなったガリツィアでの戦闘で、ドイツ&オーストリア軍が、ブルシロフ将軍率いるロシア帝国軍に惨敗。ロシア帝国軍死傷者約50万人、オーストリア=ハンガリー帝国軍死傷者約108万人、ドイツ帝国軍死傷者約35万人。
◆8月、イタリア、ドイツに宣戦布告。ドイツに膨大な死傷者が出ていたのを好機と捉えての参戦。
●11月、セル、シュトラウスの指示で、ポリドール制作の『ドン・ファン』アコースティック録音セッションのための下稽古を実施。しかし、シュトラウスがセッション本番時刻になっても現れなかったため、代理で指揮をすることになり、SP盤4面のうち2面が終わったところで遅刻してきたシュトラウスと交代するというハプニングがありました。SP盤はシュトラウスの名前で翌年無事に発売。これがセルの最初の録音ということになるのかもしれません。
●12月、セル、ベルリン・フィルに客演。

1917年(20歳)
●1月、セル、リヒャルト・シュトラウスの助手としてチューリヒ歌劇場での『ナクソス島のアリアドネ』上演でピアノ・パートを演奏。聴衆の中にはクレンペラーがおり、クレンペラーは1909年にセル少年が11歳でショパンのピアノ協奏曲第2番を弾いたコンサートも聴いていました。
●セル、シュトラースブルク市立劇場の指揮者として契約。前音楽監督のクレンペラーがケルン市と契約して退任を発表した際、リヒャルト・シュトラウスがクレンペラーに対してセルを推薦したため、クレンペラーはセルの客演を許可。セルは『カルメン』で信頼を得ますが、まだ19歳だったので、劇場側には23歳と偽って指揮者契約を獲得。ちなみに『カルメン』は2年前にクレンペラーが同劇場でとりあげ、戦時下にもかかわらずフランスのオペラを取り上げたことで賛否両論で話題になった作品。前年には膨大な死者の出た「ヴェルダンの戦い」もあったので、反仏・反独感情ともにさらに増している中での上演でした。


◆4月、アメリカがドイツに対して宣戦布告。アメリカは第1次大戦中、敵対する両陣営と巧みに取引して莫大な利益をあげており、参戦が遅れたのもドイツに投下した資金の回収スケジュールが影響していました。宣戦布告すると、今度はアメリカ各地の港に停泊していたドイツ船すべてをアメリカ政府が略奪。巨大客船8隻を含む54隻を盗んでアメリカ軍で使用(1800人の船員は強制収容所に収監)。膨大な数の兵士や物資をヨーロッパに輸送するのに役立てられたほか、結果的に「スペインかぜ(実際にはアメリカ発の超強力インフルエンザ)」をヨーロッパに運び、未曽有の大量死をもたらすことにもなっています。戦後はアメリカやイギリスの船会社に売却されて巨額の利益を計上。

1918年(21歳)
◆3月、アメリカで超強力なインフルエンザが発生。6月にはボストンで5,000人近い死者が出るなど大流行が始まり、折からのアメリカ外征軍のヨーロッパへの膨大な数の兵士派遣と共に感染が拡大、5月から6月にかけてヨーロッパ各地で多くの犠牲を出し、第1次世界大戦終結を早める要因ともなります。
 なお、このインフルエンザは世界大戦下で感染爆発したため、報道統制の無かった中立国スペインでの被害報道が目立ってしまい、結果として「スペインかぜ」と名付けられてしまいますが、実際に感染拡大に大きな役割を果たしたのはスペインではなく、発生元のアメリカでした。


◆秋、スペインかぜ(アメリカ発の超強力インフルエンザ)、第2波。
◆10月28日、チェコスロヴァキア共和国独立宣言。
◆10月31日、ブダペストで暴動発生。オーストリア=ハンガリー帝国崩壊により、350年以上に及んだハプスブルク家によるハンガリー統治も終わりをつげ、「アスター革命」へ発展。きっかけはチェコスロヴァキア共和国の成立でした。
◆11月3日、オーストリアはイタリアに降伏、パドヴァ近くのヴィラ・ジュスティで休戦協定締結。
◆11月3日、ドイツで「ドイツ革命」勃発。兵士と労働者による評議会組織「レーテ(ソヴィエト)」に扇動されたキール軍港での水兵の反乱に端を発し、ハンブルク、ブレーメン、ミュンヘンなど北から南までドイツ各地で反乱が広まる中、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、47年間に及んだ「帝政」(通称:ドイツ帝国)が崩壊、「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)に移行することとなります。


 臨時政府は議会第一党だったドイツ社会民主党と、そこから派生したドイツ独立社会民主党による「人民代表委員会」であり、初代首相はドイツ社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。もっともエーベルトは実際には君主制支持者だったということですが、議会第一党のドイツ社会民主党党首ということで首相になっています。


◆11月11日、ドイツ降伏。コンピエーニュの森の列車で連合国との休戦協定を締結。
◆11月11日、アルザス・ロレーヌ共和国成立。「ドイツ革命」の波に乗って共産主義者がアルザス・ロレーヌに押し寄せて建国宣言。
◆11月16日、「ハンガリー人民共和国」誕生。大統領はミハーイ・カーロイ[1875-1955]。約3カ月の短命国家。
◆11月17日、フランス軍がアルザス・ロレーヌに到着。アルザス・ロレーヌ共和国政府は1週間で崩壊。21日にはストラスブールにも到達。
●11月、セル、ドイツ敗戦によるシュトラースブルク歌劇場閉鎖のため失職。シュトラースブルクはフランス領ストラスブールとなります。

1919年(22歳)
◆1月、共産主義者グループ「スパルタクス団」がベルリンで蜂起するものの、ドイツ社会民主党党首のエーベルト首相が「ドイツ義勇軍(Freikorps)」などを動員して鎮圧、元ドイツ社会民主党員でもあった共産主義者ローザ・ルクセンブルクらを虐殺しています。収監されていたローザ・ルクセンブルクは、前年のヴィルヘルム皇帝廃位と同じタイミングで釈放され、この蜂起に加わっていました。


◆2月、「ハンガリー人民共和国」に不満を持つ共産主義者ベーラ・クン[1886-1939]率いるハンガリー共産党や、労働者、ユダヤ人などの共産主義者による暴動が発生、ロシア革命に呼応した「ハンガリー革命」へ発展。
◆春〜秋、スペンかぜ(アメリカ発の超強力インフルエンザ)、第3波。
◆3月21日、「ハンガリー評議会共和国」が誕生。約4.5カ月の共産主義体制国家。
◆4月6日、バイエルン州政府が共産主義者たちに倒され、「バイエルン・レーテ共和国」が成立。「レーテ」はドイツ語でソヴィエトの意味。


◆4月16日、ハンガリー・ルーマニア戦争勃発。ハンガリーの共産化を警戒したルーマニアが、共産主義政権打倒を大義名分として、第1次大戦中に略奪されたことへの報復も兼ねてハンガリーに侵攻。
◆5月、「バイエルン・レーテ共和国」崩壊。ヴァイマル共和国軍やドイツ義勇軍によってミュンヘンが陥落。短期間のうちに共産主義者たちによるミュンヘン市民の虐殺もおこなわれていたため、以後、ミュンヘンの右傾化が進むことになります。


◆6月、ハンガリーのホルティ将軍が「国民軍」の創立を宣言。といっても実際には戦わず、すでに共産主義政権の「人民軍」を圧倒し、ほぼ勝利を収めていたルーマニアに対しての、終戦後に向けたアピールでした。
◆8月、ルーマニア軍がブダペストを占領。共産主義政権を排除し、「ハンガリー共和国臨時政府」を誕生させます。
◆8月、ホルティ将軍はフランスの軍事支援を受けることになったとルーマニアに伝え、さらにブダペスト市内の「人民軍」の兵器や金融資産、工場設備などをルーマニアに引き渡す条件で、ブダペストからの撤退を提案。3か月後に撤退が始まります。
◆8月、ドイツでヴァイマル憲法公布。
◆9月、オーストリア=ハンガリー帝国、正式に崩壊。サンジェルマン条約による決定。
●リヒャルト・シュトラウス、ウィーン国立歌劇場総監督に就任。すでにフランツ・シャルク[1863-1931]が総監督を務めていたので2人体制ということになり、シュトラウスはセルを自分の助手として呼ぼうとしたものの、シャルクの強固な反対で断念。シャルクは地元ウィーンの政治的な理由だと述べており、実際に当時は、ヒトラーも崇拝した熱烈な反ユダヤ主義者のルエーガー市長[1897-1910在任]が喚起した反ユダヤ的な風潮や、就任したばかりのロイマン市長がさっそく取り組んだユダヤ人難民排除プロジェクトなどの問題もありました。しかしおそらくは、人気作曲家・指揮者という立場を利用して、なかば強引に総監督に就任したシュトラウスの好き勝手にはさせたくなかったということでしょう。
 中途半端な状態が長く続いたため、セルみずからシャルクに連絡をとったりもしましたが、シャルクは頑固で譲らず、結局、セルは諦めて、独立間もない隣国チェコスロヴァキアにチャンスを求めることにします。セルの母親がスロヴァキア系ということで親近感もあったようですし、生国である隣国ハンガリーは、まだルーマニアと戦争中でした。


●セル、チェコスロヴァキア国籍を取得。
●セル、プラハ・ドイツ劇場の指揮者兼助手として契約。翌年まで在職。


◆11月、ルーマニア軍が「人民軍」資産を獲得の上、ブダペストからの撤退を開始。ホルティ将軍率いる「国民軍」は無血入場を果たします。

1920年(23歳)
◆1月、ハンガリーで議会選挙。
◆2月、ハンガリーで国民投票。共和制から立憲王制への移行が決定。
●2月、セル、ブダペスト歌劇場の指揮者オーディションに応募し、『カルメン』と『タンホイザー』を指揮。


●2月、セル、ブダペスト・フィルに客演し、自作の『管弦楽のための創作主題による変奏曲』ほかを演奏。
◆3月1日、「ハンガリー王国」誕生。王位は空位。国家元首として、前年6月に蜂起してルーマニア軍に勝利したミクローシュ・ホルティ将軍[1868-1957]が選出、以後、24年に及ぶゆるやかな独裁政権を維持(1944年3月にはナチ政権に支配され短期間にユダヤ人40万人を強制収容所に移送。以後、ドイツ敗戦の1945年5月まで、「矢十字党」が中心になってブダペスト市内でも手当たり次第にユダヤ人を虐殺)。


●3月、セル、エルンスト・フォン・ドホナーニと4手ピアノ・リサイタルを開催。
●セル、ブダペスト歌劇場の指揮者オーディションで不合格。新政府のもとで、劇場上層部は、長年ハンガリーで活動していたベテランのイシュトヴァン・ケルネル[1867-1929]を選択。四半世紀後のハンガリーのナチへの協力もあり、やがてセルはハンガリー語をほとんど使用しなくなります。
●セル、オルガ・バント[1898-1984]と結婚。オルガはリヒャルト・ロベルトのピアノ教室でセルと一緒だったウィーン生まれのユダヤ系の女性。数年間は彼女とピアノ・デュオのコンサートをおこなったりして仲睦まじい状態が続きます。
◆3月、カップ一揆勃発。国防軍35万人を11万5千人に縮小し、義勇軍25万人を3月31日までに解散するというヴェルサイユ条約に従った政府決定に反発したヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍が、義勇軍であるエアハルト海兵旅団をベルリンに向けて進軍させ、エーベルト大統領は軍に鎮圧するよう命じるものの軍は動かず、政府はシュトゥットガルトに緊急避難し、ベルリンの官庁街はエアハルト海兵旅団らによって占拠、ドイツ祖国党ヴォルフガング・カップらは、ヴァイマル共和政議会及びプロイセン州政府の解散を宣言し、新政府樹立を宣言します。しかし左派の扇動による大規模なゼネストが本格化して一揆はあえなく終了することとなります。
 なお、このとき海兵旅団を率いるヘルマン・エアハルトは、ベルリンでユダヤ人虐殺をおこなおうとしますが、ヴォルフガング・カップによって制止されています。


◆3月、ルール赤軍蜂起。カップ一揆をつぶした大規模なゼネストに刺激され、ドイツの工業地帯ルール地方で、左派の労働者兵士5万人ほどで組織された「ルール赤軍」が蜂起、「ヴァイマル共和国軍」と戦闘状態になり、1か月ほどで鎮圧されています。ルール地方は3年後、フランス・ベルギー軍によって占領。



1921年(24歳)
●セル、『叙情的序曲』Op.5を作曲。20分ほどのほぼ4管編成の作品。同じ年に『3つの小さなピアノ小品』Op.6を出版。
●セル、ダルムシュタット州立劇場の指揮者として契約。1924年まで在職。



1922年(25歳)
●9月、セル、デュッセルドルフ市立劇場の指揮者として契約。デュッセルドルフの南東約200kmのダルムシュタットの指揮者と兼務で、1924年まで在職。



1923年(26歳)
●4月、セル、デュッセルドルフ市立劇場。友人のハンス・ガルのオペラ『神聖なアヒル』を初演。
◆ドイツのルール工業地帯をフランス・ベルギー軍が占領。
◆ハイパーインフレ発生。インフレには債務軽減効果(デフレには債務増大効果)があるため、ドイツ政府は莫大な国内債務を一気に解消することに成功しています。

1924年(27歳)
●1月、セル、ベルリン国立歌劇場と第1指揮者として契約。劇場の総監督は1925年夏までが反ユダヤ主義者のマックス・フォン・シリングス[1868-1933]で、続いてモロッコ出身のハインツ・ティーティエン[1881-1967]が着任。音楽監督はエーリヒ・クライバー[1890-1956]。
 シリングスは実害はありませんでしたが、ティーティエンは策士として知られているだけに有害で、クレンペラーやクレメンス・クラウス、フルトヴェングラーも苦しめられていました。セルもリハーサル無しで『マイスタージンガー』や『ニーベルングの指環』を指揮させられるなど酷い目に遭わされますが、そうした環境下でもなんとか踏みとどまり、在職中に371公演(34演目)を指揮。年間平均70公演を上回るペースでしたが、それでもセルには余裕だったので、放送オケと教職を兼務しながら1929年まで5年間在職。


●セル、設立間もないベルリン放送交響楽団の指揮者として契約。首席指揮者はヴィルヘルム・ブッシュケッター[1887-1967]。黎明期の放送局で、セルはマイクロフォンを前にした放送演奏の仕事も習得します。

1925年(28歳)

1926年(29歳)
●セル、オルガと離婚。原因は、ベルリン国立歌劇場コンサートマスターでベルリン音楽大学で教職にも就いていたヨーゼフ・ヴォルフシュタール[1899-1931]とオルガの恋愛関係、およびセルと女性歌手の親しい関係でした。オルガはほどなくヴォルフシュタールと再婚し、娘ももうけていますが、ヴォルフシュタールは1931年に31歳の若さで肺炎で死去。やがてオルガは、コーリッシュ四重奏団やNBC交響楽団首席奏者としての活躍で知られたチェロ奏者のベナー・ハイフェッツ[1899-1974]と再婚しています。

1927年(30歳)
●4月1日、セル、ベルリン音楽大学で教職に就きます。作曲と理論を担当。1929年まで在職。セルはここでオーケストラスコアを見ながらピアノで演奏する方法も教えていましたが、その腕前が凄いので、メンデルスゾーン銀行経営者の宮殿のような邸宅で、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』をピアノ演奏で披露したほどでした。
 ちなみに作曲家メンデルスゾーンの父とその兄が始めたメンデルスゾーン銀行は、ロシア皇室のメインバンクとして、ロシア国債、鉄道などに巨額の出資をおこない。やがてドイツ最大の民間銀行に成長、世界大恐慌もうまく乗り切りますが、1939年、ナチによって閉鎖され、同じく民営のドイツ銀行に資産が引き渡されてしまいます。ドイツ銀行はほかに、オーストリア銀行など占領地の銀行を多数併合するなどしてどんどん巨大化。ナチ党や行政機関、強制労働工場や強制収容所にも融資したほか、膨大な数のユダヤ系企業の事業押収でも活躍し、さらにゲシュタポにも便宜を図るなどしていました。戦後、1948年には占領軍政府によって分離解体されますが、9年後には復活しています。



1928年(31歳)
●7月、セル、坐骨神経痛のため8か月間療養。

1929年(32歳)
●3月、セル、ベルリン国立歌劇場に復帰。
●6月、セル、クレンペラー指揮するストラヴィンスキー『結婚』の4人のピアニストのうちの1人として出演。
●7月、セル、ベルリン国立歌劇場指揮者を退職。
◆9月3日、アメリカ、しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株の平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定のための「売り」が集中して1か月に渡って下がり続けて17%下落。その時点で底値と判断した「買い」が入って下落分の半分ほどまで上昇したもののそこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
●秋、セル、プラハ・ドイツ劇場の音楽監督に就任。クレンペラーの助手だったユダヤ系のヴィルヘルム・シュタインベルク(のちのウィリアム・スタインバーグ)[1899-1978]の後任で、セルにとって初めての役職でした。劇場にはヴァルター・ジュスキント[1913-1980]、イエジー・シク(のちのジョージ・シック)[1908-1985]、クルト・アドラー[1907-1977]、ラースロー・ハラス[1905-2001]といった指揮者たちがいましたが、セルは第1指揮者を自分で探すことにし、ダルムシュタットの『タンホイザー』で気に入ったマックス・ルドルフ[1902-1995]を採用。
 セルは彼らと共に、年間300公演近いオペラとオペレッタに加え、劇場の楽団員によるフィルハーモニー・オーケストラ・コンサートも年に6回ほど開催。オーケストラ・コンサートにはゼルキンやシゲティ、ヒンデミットも登場するなど本格的なものでした。
 現代作品からオペレッタまでこなす忙しい日常の中で、セルはフレンチホルンの練習を始めます。これはオーケストラの楽器の中でも特に演奏事故が目立ちやすいホルンを、実際に自分でも体験しておくことで事故を少しでも減らせる指揮の仕方に繋げるという、実用的な目的もあったのではないかと考えられます。
 全員ユダヤ系のため、やがてナチの接近と共に劇場を後にすることになります。セルは1937年まで在任。


◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として、各国への投資や預金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
◆ドイツの失業者数約200万人。

1930年(33歳)
●1〜2月、セル、セントルイス交響楽団に初客演。チャイコフスキー交響曲第5番、ヒンデミットの管弦楽のための協奏曲などを指揮。
 セントルイス響は1927年に音楽監督ルドルフ・ガンツ[1877-1972]が辞任したことで、以後、さまざまな指揮者の客演状況を見ながら、次期音楽監督を探すという方法で公演を維持。1929年の大恐慌の影響で、一時は存続も危ぶまれましたが、なんとか楽団運営継続が決定し、客演シーズン3年目となる1930年の新年早々に呼ばれたのがセルということになります。セルの客演は、ベルリン国立歌劇場で『ボリス・ゴドゥノフ』と『フィガロの結婚』の上演を見て感激した楽団マネージャーのウィリアム・ウォルターが1927年に決めていたものの紆余曲折あって、実際の客演までに時間がかかってしまったというものです。ウィリアム・ウォルターは後任探しのためにヨーロッパで非常に多くの公演に接しており、結論として、セルの実力が、エーリヒ・クライバー、クレメンス・クラウス、オットー・クレンペラー、レオ・ブレッヒを除外すれば最高のものであると述べていました。
 セルはベートーヴェン、チャイコフスキーなどのメインの他に、ヒンデミットやラヴェル、ガーシュウィンもとりあげたほか、自作の変奏曲も指揮、さらにモーツァルトでは弾き振りも披露していましたし、ホロヴィッツとブラームスのピアノ協奏曲第2番も演奏するなどかなりの量の演奏会をこなし、手ごたえも感じていました。
 しかし運営陣は、次のシーズンに客演するユダヤ系でロシア生まれのエミール・クーパー[1877-1960]に注目しており、さらにイギリスのユージン・グーセンス[1893-1962]と音楽監督就任について交渉中という事実も伝わったのか、セルは次のシーズンの客演はできない旨を楽団側に連絡します。
 しかしグーセンスはセントルイス響の申し出を拒否。グーセンスが音楽監督を務めるロチェスター・フィルは、コダック創業者ジョージ・イーストマンが設立して間もないオーケストラで、契約もイーストマン音楽学校での教職とセットになっていることから簡単に辞めることはできないという事情があったようです。
 結局、セルは翌年の客演を引き受けることにします。


◆ドイツの失業者数約400万人。

1931年(34歳)
●2〜3月、セル、セントルイス交響楽団に客演。同じシーズンに当初指揮をする予定だったエミール・クーパーの出演がキャンセルとなり、代わりにユダヤ系ロシア移民の両親のもと、パリで生まれたヴラディミール・ゴルシュマン[1893-1972]が登場。ゴルシュマンは当時スコティッシュ管弦楽団の首席指揮者を退任したばかりで、なんとしてもセントルイス交響楽団の音楽監督になりたかったようです。当時イギリスは世界恐慌の影響で経済が低迷、スコティッシュ管弦楽団の運営実態も、年間公演期間が6か月間で、楽員との契約もその都度の出演契約という悲惨な状態になっていました。
 ゴルシュマンはライバルのセルを研究し、本来であればセルが取り上げてしかるべきだったリヒャルト・シュトラウス作品までプログラムに載せ、聴衆の大喝采を獲得。
 その後のセルの演奏を聴いて、運営陣も、見栄えが良く、演奏も受けやすいゴルシュマンを選ぶことを決定。セルを推していたマネージャーのウィリアム・ウォルターは辞任し、新しいマネージャーが着任するという締めくくりでした。。
 運営陣が指揮者の見た目にこだわったのには理由もありました。新しく落成したセントルイスのコンサートホールのキャパシティが3,535席とかなり巨大で、それまでのほぼ倍の量のチケットを売らなければならなくなり、そのためには音楽的な要素だけでなく、客層拡大のために見た目も重視されるべきという女性委員会の進言も無視するわけにはいかなかったからです。
 ゴルシュマンとの契約は、セルがまだ演奏会のためにセントルイスに滞在しているときに発表。セルにとっては残酷な話でしたが、その後、ゴルシュマンはセントルイス響で実績を上げ、契約延長に次ぐ延長で、27年間も在任するという立派な記録を打ち立てています。


●4月、セル、プラハに帰還。
◆「世界大恐慌」の影響で経済が疲弊していたドイツとオーストリアが2国間の関税同盟を結んで、少しでも経済を活性化しようとしたことに対し、フランス政府は反発、国際連盟や国際司法裁判所に提訴、両国の関税同盟成立を阻止。結果的にドイツによるオーストリア併合への期待をオーストリア国民にもたせることになります。

1932年(35歳)
●元セントルイス交響楽団マネージャーのウィリアム・ウォルターが、クリーヴランド管弦楽団音楽監督のニコライ・ソコロフが翌年に退任するという話を聞き、楽団創設にも関わった友人にセルの話をして推薦。しかし楽団はすでにロサンジェルス・フィル音楽監督の実績を持っていたアルトゥール・ロジンスキー[1892-1958]を1933年からの後任として契約。ロジンスキーは同年にアメリカ国籍を得ていました。このとき、アーサー・ジャドソンがロジンスキーとの契約を阻もうとしますが失敗しています。

1933年(36歳)
◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
◆2月20日、 ヒトラーとゲーリングがドイツ経済界首脳陣と会合、大恐慌で経済の悪化する中、300万ライヒスマルクの政治献金を獲得。
◆2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。これを受けて、「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」が発令され、犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党も活動禁止措置。
◆3月5日、ドイツ総選挙でナチ党が43.9%を獲得。
◆3月、ドイツの国民啓蒙・宣伝省大臣にヨーゼフ・ゲッベルスが就任。プロパガンダのほか、新聞・雑誌・放送・音楽・映画・演劇・文学・絵画・観光・旅行などの「管理・検閲」を実施。当初の予算は1,400万ライヒスマルクでしたが、1944年には13倍以上の1億8700万ライヒスマルクにまで規模を拡大、下部組織に「帝国文化院」も設置して各分野への統制をおこなっていました。
◆3月23日、ドイツで全権委任法が成立。
◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な運営を開始。
◆4月7日、世界恐慌の影響で約600万人に急増していた失業者の就業対策の目玉として「職業官吏再建法」が施行。公務員から非アーリア人を追放する法律で、ドイツの全公務員、および新政権により新たに「国有化」された膨大な数の企業・団体の職員が対象。同時に国外に出るユダヤ人の財産を奪って国庫に収める政策も実施され、公共事業財源などに利用されます。
◆4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。
◆5月10日、ドイツ学生協会の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までに大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。ドイツの34の大学都市で、学生たちによって実施された「非ドイツ的精神への抵抗」は成功し、新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。なお、ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。
◆5月26日、ドイツで共産主義者の財産没収に関する法律が成立。
◆5月26日、ドルフース政権、オーストリア共産党を非合法政党と認定し活動禁止措置。
◆6月19日、ドルフース政権、オーストリア・ナチ党を非合法政党と認定し活動禁止措置。これによりオーストリア・ファシズム政権による独裁体制が確立し、ローマ・カトリックを国教として認定。
◆6〜7月、ドイツで社会民主党活動禁止措置。続いてドイツ国家人民党・ドイツ国家党・中央党・バイエルン人民党・ドイツ人民党が自主解散。
◆7月14日、ドイツで政党新設禁止法が成立。
◆11月、ドイツ国会選挙。ナチ党への反対票(と無効票)が3,398,249票(7.89%)で、賛成票が39,655,224票(92.11%)と賛成が圧倒的多数でした。投票率も非常に高く95.3%の有権者が選挙に参加。
●セル、25年ぶりのイギリス・ツアー。セルを気に入っていたシュナーベル[1882-1951]の推薦で「コートールド=サージェント・コンサート」に招待されて出演。「コートールド=サージェント・コンサート」は、エリザベス・コートールド夫人(夫はビーチャムにも支援していた大資産家のサミュエル・コートールド)の資金提供を受け、指揮者マルコム・サージェント[1895-1967]がシリーズでおこなっていたコンサートで、クレンペラーやワルターといった指揮者の客演もありました。セルはこのコンサートで成功し、ロンドンのほかのオーケストラや、リヴァプール、ハレにも客演。シュナーベルはクレンペラーやフルトヴェングラーにも仕事の世話をしていた面倒見の良い人物でした。
●12月25日、セル、ハーグ・レジデンティ管弦楽団に初客演。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番と『英雄』を演奏。共演はルービンシュタイン。セルはリハーサルで、冒頭をシュナーベルのように遅く弾くよう要求し、休憩時間にもシュナーベルのように演奏するためのレクチャーを展開。ルービンシュタインは非常に怒るものの冷静に対処して本番は無事に演奏。しかし後半を聴くことなく帰ってしまいます。後年、同じハーグで同じベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番をシュナーベルとクレンペラーが共演した際には、リハーサルでダンパーペダルを駆使していたシュナーベルの足元を、クレンペラーが何度も何度ものぞき込み、あげくに「ペダルはありませんか?」と強烈な嫌味を言ったためにシュナーベルが激怒し公演が中止になりかけたこともありました。対照的な偶然のできごとです。

1934年(37歳)
◆隣国オーストリアの実質賃金は1929年に較べて44%も減少、失業率も1928年の8.3%に対し、1934年は38.5%と凄まじい景気の悪化ぶりで、政治・社会も大きく混乱。
◆2月、ウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と、オーストリア社会民主党の支援する「防衛同盟」戦闘員が衝突、4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。

1935年(38歳)
◆3月、ドイツ、再軍備宣言と共に徴兵制も復活。
◆5月、仏ソ相互援助条約を締結。
●セル、ウィーン交響楽団とイタリア・ツアー。
●セル、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、フランクフル・ムゼウム管弦楽団、デンマーク放送交響楽団、ストックホルム・フィルに客演。
●セル、レニングラード・フィルに客演。プログラムに含まれていたブルックナー交響曲第9番が、神に捧げられたものかどうかということが当局から問題になり、楽譜にはそうした献辞は一切書かれていないことをセルが説明してなんとか演奏許可が下りています。

1936年(39歳)
◆ドイツ経済が大恐慌前の水準に回復。
●2月6日、セル、コンセルトヘボウ管弦楽団に初客演。
◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐。
●11月、セル、スコティッシュ管弦楽団に客演。翌年1月まで。

1937年(40歳)
●1月、セル、スコティッシュ管弦楽団のシーズンを締めくくる演奏会を指揮。
●1月、セル、ユダヤ系ポーランド系スコットランド人ヴァイオリン奏者のアンリ・テミアンカ[1906-1992]とロンドンで会い、試演で感銘を受け、スコティッシュ管弦楽団のコンサートマスターに任命することを決定。リヒャルト・シュトラウスと親しいユダヤ系オーストリア人作家シュテファン・ツヴァイク[1881-1942]からの紹介でした。なお、家系や居住地にフランスの要素は無いので本来はヘンリーになると思いますが、ここではアンリとしておきます。
●2月、セル、ハーグ・レジデンティ管弦楽団に客演。公演は成功を収め、同楽団が当時首席指揮者不在だったことから、セルに首席指揮者就任が要請されますが、すでにスコティッシュ管弦楽団音楽監督就任が決まっていたことと、オランダがドイツと地続きの隣国という地理的要因のため、辞退しています。セルは戦争はじきに始まると確信していました。
●セル、プラハ・ドイツ劇場の音楽監督を退任。
●セル、プラハで知り合った若い女性、ヘレネ・シュルツ・テルチと再婚することを決め、共にイギリスに渡ります。ヘレネはトマシュ(トーマス)とヤン(ジョン)という2人の息子を持つ既婚女性でしたが、国を出るということでカトリックでも離婚できる運びとなりました。
●6月、セルとテミアンカ、シーズン開始前に楽員オーディションを実施。
●7月中旬から8月中旬、セル夫妻とテミアンカ、コモ湖畔のトレメッツォで夏休み。トレメッツォではシュナーベルが4年目となるサマーコースを開催していました。セル夫妻とテミアンカのは、シュナーベル家の滞在先の隣のホテルに宿泊。セルとテミアンカは、シーズン前のコンサートの準備をおこないます。
●セルとテミアンカ、モアズ・ホテルに隣り合った部屋をとって滞在。ヘレネはプラハに一時帰宅。
●9月末、セル、ブダペストとウィーンに5日間旅行し、プラハで最後の公演を実施。
●10月、セル、パリとロンドンに旅行。
●11月、セル、スコティッシュ管弦楽団首席指揮者としてのシーズン開始。本拠地グラスゴーはモスクワとほぼ同じ緯度にあるスコットランド最大の都市で、造船や鉄鋼業などで栄えていた当時は、ロンドン、パリ、ベルリンに次ぐヨーロッパ第4位の人口規模(約109万人)の都市でした。
 世界大恐慌真っ只中で退任したゴルシュマンのあとは、経済が多少なりとも回復するまで3年ほどはあまり活動せず、1933年にようやくバルビローリが首席指揮者に就任。当時バルビローリはまだ34歳でしたが、すでに経験は豊富で、オペラや演奏会、放送局での仕事、レコーディングも数多くこなし、また、有力者たちから資金を引き出すパーティーも開催するなど、フル編成オーケストラの運営に携わる能力を十分に備えていました。バルビローリは最初からエネルギッシュに活動して安定的な財源も確保、レパートリーも拡大し、レコーディング人脈も活用してビッグネームのソリストたちに出演を依頼、将来の顧客となる子供たちのための教育的演奏会も積極的に実施、さらにBBCとの繋がりを活かして、演奏会にまだ来ていない人々に向けてオーケストラを聴かせることで顧客層を開拓し、楽団員も放送出演料を手にするなどして、やがてシーズンを4か月間まで回復させることに成功。
 しかしニューヨーク・フィル理事会といざこざを起こした常任指揮者トスカニーニが辞任したことで、後任としてアーサー・ジャドソンの知己を得ていたバルビローリが指名され、その後任として同じくジャドソンと関係のあったセルがスコティッシュ管弦楽団を引き継ぐことになります。
 セルはマーラー交響曲第4番や、ショスタコーヴィチ交響曲第1番、ヤナーチェクのシンフォニエッタなど新しい作品を紹介し、ときに冷酷なリハーサルで楽員から恐れられたりしながらも高い水準の演奏を実現。

1938年(41歳)
●1月25日、セル、ヘレネ・シュルツ・テルチと再婚。グラスゴー市の式典の一部で、地元紙の1面に掲載。
●2月、セル&スコティッシュ管弦楽団の1927/1938シーズン終了。
●3月、セル、ハーグ・レジデンティ管弦楽団に客演。
●セル、オーストラリア放送協会オーケストラ
◆3月、オーストリア併合。当時のドイツは失業率が劇的に改善し、国民の貯蓄額も急伸、公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方、アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も、国境線拡大に加え、オーストリアの保有していた金資産や外貨、鉱物資源、そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際、ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億ライヒスマルクに達し、これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万ライヒスマルクの実に18倍以上という凄いものでした。
 しかし、景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く、約60万人も失業者がおり、自国経済の改善に期待する市民の思いは、併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映、賛成99.75%という数字にも表れていました。
 併合後は、1925年に「クローネ」から変更されたばかりのオーストリア通貨「シリング」を廃止してライヒスマルクを導入。ライヒスバンクは当初、オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを想定していたものの、市民感情にも配慮し、「1.5シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを設定、民間組織の国有化など経済再建を進めます。


●5〜8月、セル、オーストラリア放送委員会(ABC)から招かれて、オーストラリアの5つのオーケストラ(メルボルン、シドニー、ブリスベン、アデレード、パース)に客演。3月に就航したばかりの約203メートルの客船「ストラタレン」に16個の大きなトランクを積み込んでの豪華な旅でした。ちなみにこの船は4年後にUボート(U-562)の魚雷攻撃で沈められています。


●10月、セル、ハーグ・レジデンティ管弦楽団に客演。
●11月、セル、スコティッシュ管弦楽団との1938/1939シーズンを開始。
◆11月7日、パリでユダヤ人によるドイツ外交官暗殺事件発生。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。
●セル、ブラームスのピアノ協奏曲第1番をシュナーベルと録音。オケは大資産家コートールドが資金を出してビーチャムがつくったロンドン・フィルでした。

1939年(42歳)
●1月、セル、ハーグ・レジデンティ管弦楽団に客演。
●2月、セル、スコティッシュ管弦楽団との1938/1939シーズンを終了。
◆3月15日、ドイツによりチェコスロヴァキア解体、「ベーメン・メーレン保護領」に。
●3月、セル、ハーグ・レジデンティ管弦楽団に客演。ブリュッセルも訪問。
●4月、セル、BBCでのコンサートのためロンドン滞在。
●4〜8月、セル、オーストラリア放送委員会(ABC)から招かれて再び長期ツアー。今回は行きはドイツ帝国のツェッペリン飛行船での高速な渡航でしたが、帰りはヨーロッパはすでに緊迫した状態になっているということで、船でアメリカに向かいます。
●8月25日、セル、カナダの東海岸ヴァンクーヴァーに到着。オーストラリアから乗船した全長183メートルの客船「アオランギ」での旅でした。到着後、すぐにニューヨークに向かいます。
●9月、セル夫妻、パークアベニュー7番地のアパートに居住。プラハでの仲間たちもそこにいました。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。

1940年(43歳)
●4月、セル、カリフォルニア在住のテミアンカに手紙。渡米後、一時うつ病気味だったものの回復したと伝えています。
●8月、セル、ハリウッド・ボウルに出演。13か月ぶりのコンサート。
●9月、セル夫妻、アメリカ国籍を取得するため、カリフォルニア州カレキシコから国境を越えてメキシカリに入り、翌日カレキシコに戻っています。これは移民法により合法移民としてアメリカに再入国することが義務付けられたからで、セル夫妻もこれによりアメリカ滞在が許可され、6年後に帰化しています。
●セル、ニューヨークのマネス音楽学校で、作曲と理論を担当。

1941年(44歳)
●1月、セル、デトロイト交響楽団に客演。ホロヴィッツ、フランチェスカッティと共演。
●3月、セル、NBC交響楽団に客演して成功。しかしリハーサルの際、いつものように同じ個所を数十回も繰り返させるような、細かく執拗な練習を何度もおこなっていたところ、自分のオーケストラが侮辱されたと感じたトスカニーニが激怒。セルは謝罪の手紙を書きますが、反応はありませんでした。


●セル、ニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで、「現在の音楽の問題に関するシンポジウム」を、カウエル、アイスラー、コーリッシュ、ホーレンシュタインらと担当。
●セル、ニューヨークのマネス音楽学校で、作曲と理論を担当。


1942年(45歳)
●1月、セル、NBC交響楽団に客演。トスカニーニがNBC交響楽団経営陣と衝突し、1941/1942シーズンの指揮をキャンセルし、代わりにストコフスキーが音楽監督を務めていたおかげで、事務局からの招致が拒否されずに実現した公演。1942/1943シーズンにトスカニーニが復帰してからは、セルへの客演要請はありませんでした。
●3月、セル、「ニュー・フレンズ・オブ・ミュージック」の開催する演奏会に客演。シュナーベルの友人たちが集まって創設した移民の団体で、シュティードリーが創設した「ニュー・フレンズ・オブ・ミュージック管弦楽団」という室内オーケストラも運営。客演が好評だったセルは、フリッツ・シュティードリー[1883-1968]の後任として指揮するよう依頼されますが、それを聞いたシュティードリーは困惑、セルのキャリアを邪魔しないようその友人に注意しています。
 ユダヤ系オーストリア人のシュティードリーは、マーラーの紹介によりドレスデンでエルンスト・フォン・シューフ[1846-1914]の助手を務め、リヒャルト・シュトラウス作品の多くの初演などの上演に関わり、その後、ベルリンでオペラ指揮者として活躍、ナチ政権により解雇されてからはソ連に行き、レニングラード・フィルの音楽監督を務めていた人物で、在任中、ベルリン時代にその能力に注目していたセルを客演させたりしていました。
 「ニュー・フレンズ・オブ・ミュージック管弦楽団」は移民してきた音楽家が、当面の生活のために音楽活動をおこなう室内オーケストラというような位置づけで、脳腫瘍手術後の躁状態トラブルで仕事が無くなったクレンペラーも客演。
●3〜4月、セル、ロサンジェルス・フィルに客演。
●夏、セル、シカゴ・ラヴィニア・フェスティバルに客演。
●夏、セル、フィラデルフィアでロビンフッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管)に客演。
●12月9日、セル、メトロポリタン歌劇場デビュー。演目は『サロメ』。すでに何十回も指揮していた作品で大成功。続く19日の『タンホイザー』はさらなる大絶賛で、オペラ指揮者としてのセルの実力を知らしめることになりました。


●12月30日、セル、メトロポリタン歌劇場で『ボリス・ゴドゥノフ』を指揮。タイトルロールのエツィオ・ピンツァは、ブルーノ・ワルターの娘グレーテルと不倫関係にあった人物で、1939年8月、離婚を切り出したグレーテルが、夫で建築家・映画プロデューサーのロベルト・ネパッハにピストルで殺され、続いて夫ロベルトもその後を追うという衝撃的な事件の当事者でした。ちなみにその夫ロベルトの最初の妻は有名なテニス選手で、グレーテルと交際する半年前に自殺しています。
●セル、ニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで、「現在の音楽の問題に関するシンポジウム」を、カウエル、アイスラー、コーリッシュ、ホーレンシュタインらと担当。
●セル、メトロポリタン歌劇場と指揮者契約。
●セル、フィラデルフィア管弦楽団、シカゴ交響楽団、ボストン交響楽団、ニューヨーク・フィルに客演。
●セル、ニューヨークのマネス音楽学校で、作曲と理論を担当。

1943年(46歳)
●1月、セル、ボストン交響楽団に客演。

●セル、ニューヨークのマネス音楽学校で、作曲と理論を担当。

1944年(47歳)
●セル、クリーヴランド管弦楽団に初めて客演。
●セル、ニューヨークのマネス音楽学校で、作曲と理論を担当。

1945年(48歳)
●セル、ボストン交響楽団に客演。
●セル、ニューヨークのマネス音楽学校で、作曲と理論を担当。

1946年(49歳)
●セル、アメリカに帰化。

1947年(50歳)

1948年(51歳)

1949年(52歳)

1950年(53歳)

1951年(54歳)

1952年(55歳)

1953年(56歳)

1954年(57歳)

1955年(58歳)

1956年(59歳)

1957年(60歳)

1958年(61歳)

1959年(62歳)

1960年(63歳)

1961年(64歳)

1962年(65歳)

1963年(66歳)

1964年(67歳)

1965年(68歳)

1966年(69歳)

1967年(70歳)

1968年(71歳)

1969年(72歳)

1970年(73歳)

内容詳細

セルが死の1年前にベルリン・フィルに客演したときのライヴ。繊細な演奏が生み出す緊迫感と起伏の大きな感情が一体となって、会場が熱気に包まれたと言われる伝説の公演だ。国内初出。(CDジャーナル データベースより)

収録曲   

  • 01. 悲劇的序曲 Op.81
  • 02. 交響詩「ドン・ファン」Op.20
  • 03. 交響曲第2番 ハ長調 Op.61

総合評価

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5.0

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久しぶりに取り出して聴いてみました。バル...

投稿日:2021/07/06 (火)

久しぶりに取り出して聴いてみました。バルビローリboxを聴いていて、そう言えば大阪万博の年、悲報が続いたことを思い出して(といっても当時クラシックを聴き出して2年ほどのやんちゃ坊主でしたが)、セルを聴きたくなった次第。セルのあの重いboxではなく、BPOとのシューマンが聴きたくなっのは、やはりバルビローリ絡み。当時は出回っているレコードの情報しかなく、BPOと言えばカラヤンしか浮かばない時代。後になって客演の常連に私の好きな両氏がいたことを知り、ベルリンっ子が無性に羨ましかった覚えがあります。精密機械と評されたセルですが、この演奏を聴けば如何にその批評が一面的で誤りだったかが明らかになります。まだ何処かに眠っている放送音源があると信じながら、第3楽章をリピート。

白文鳥 さん | 愛知県 | 不明

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発売前なので気が引けますが、期待大にして...

投稿日:2019/09/29 (日)

発売前なので気が引けますが、期待大にしてもちろん注文します。 最近、私の敬愛するセル博士の評価が再び高まってきていることをうれしく思います。 某レコード店(会社)では、SA-CDハイブリッドでリマスター発売されたのが好評で、私も頑張って買い漁っています。 ところで、こちらの年表を作成された方の熱意には感動を覚え、知らなかった事実も数多く載せて戴き、当時の歴史的社会情勢についても非常に勉強になります。 未完とのことですが、今後のさらなる加筆に期待を寄せ、ブックマークしてちょくちょく覗かせて戴きたいと思います。

OM さん | AUSTRIA | 不明

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みなさん、スゴイ高評価。そしてそれはごも...

投稿日:2013/05/17 (金)

みなさん、スゴイ高評価。そしてそれはごもっとも、と思います。ブラームスはきっちりした枠の中にパトスを込めた名演。続く「ドン・ファン」はやや不調。推進力と抒情いずれもちょっと乗り切れず。そしてメインのシューマン。セルおじさん得意の曲目にて、さすがの立派さ。各楽章の性格分けをきっちりとつけて、堂々たる再現を成し遂げました。ですがねえ、客演のせいなのか、あるいはこの日この時の調子なのか、曲(演奏)に完全に没入しきれていない印象ですねぇ。クリーヴランドとの演奏で聴かれた、あのロマン性や切れ味がここには薄い気がします。ま、ぜいたくな不満ですが。録音は良好という程度。年代相応です。私としては「最高」とはなりませんが、貴重な記録であることは疑いありません。

ほんず内閣総理大臣 さん | 北海道 | 不明

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人物・団体紹介

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シューマン、ロベルト(1810-1856)

ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で、出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。  ロベルト16才の年にその父親が亡くなり、安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが、音

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