CD

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番、第2番、モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ集 シモン・ゴールドベルク、山根美代子(1992)(2CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
TBRCD0037
組み枚数
:
2
レーベル
:
:
日本
フォーマット
:
CD

商品説明


シモン・ゴールドベルクの遺産(2CD)
1992年ラスト・リサイタル


名ヴァイオリニストにして名指揮者シモン・ゴールドベルク[1909-1993]。フルトヴェングラーからスカウトされ、ベルリン・フィルのコンサートマスターに就任したのが弱冠20歳。16歳で既にドレスデン・フィルのコンサートマスターを務めていたのですから如何に早熟な天才であったかが分かります。ユダヤ人だったために、ナチスの台頭によって退団を余儀なくされ、1945年にはジャワ島で日本軍の捕虜になるなど辛酸を舐めますが、1953年にアメリカに帰化し、ヴァイオリニストとしてのみならず指揮者としての活動も活発に行います。1955年にはオランダ室内管を組織し、世界各国で演奏会を開きます。1967年に同管と二度目の来日。1987年には桐朋学園大学の招きで来日しオーケストラを指導。ピアニストの山根美代子氏と1988年に結婚。1990年には新日本フィルを初めて指揮し、後に指揮者に就任しています。
 1930年代の名盤、リリー・クラウスとのモーツァルト、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ集が広く知られておりますし、後にラドゥ・ルプーともモーツァルトを録音しているほどですが、ゴールドベルク自身は本来、録音嫌いというよりも録音自体を否定していたと言います。それ故に名声に比して極度に録音は少なく、特に解釈にますますの熟成が見られた晩年の演奏がほとんど残されておりません。この度ご遺族から最後のリサイタルとなった1992年の新潟におけるライヴ録音の提供を受けて発売できることとなりました。音楽の使徒ともいえる自らに厳格な音楽家による最後の証言をご堪能ください。
 ゴールドベルク最後の伴侶となったピアニスト、山根美代子との最後のヴァイオリン・リサイタル。ここには幸福な時間のみが流れております。ゴールドベルク最晩年の枯淡の境地ともいえるものですが、どの部分も機械的な箇所がなく血が通った文字通り人間の奏でる音楽を聴くことができます。録音に否定的なゴールドベルクの至芸を何とか保存しようと名エンジニアとして知られる半澤 仁氏が、山根美代子の了解を得たうえで、苦心して録音に成功したもので、その辺りもライナーノートで触れてくださっております。モーツァルトのト長調ソナタは、第2楽章はほとんどピアノが主役という曲目で、ゴールドベルクが芸術家としての山根美代子を尊重していることが理解できます。ブラームスでは第2番を好んだと伝えられておりますが、第1番のほとんど人の声のような語り口も心打たれる名演です。(東武レコーディングス)

【収録情報】
Disc1
● モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第27番ト長調 K.379
(I. 9:46/ II. 9:43)
● ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調 Op.78(I. 10:34/ II. 7:20/ III. 8:27)

Disc2
● モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第36番変ホ長調 K.380
(I. 6:44/ II. 8:20/ III. 4:15)
● ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調 Op.100(I. 8:15/ II. 6:32/ III. 4:56)

 シモン・ゴールドベルク(ヴァイオリン)
 山根美代子(ピアノ)

 録音時期:1992年7月2日
 録音場所:新潟県、新潟市音楽文化会館
 録音方式:ステレオ(デジタル/ライヴ)

【ゴールドベルク・プロフィール】
モーツァルトやブラームス、シューベルトの名盤で知られるシモン・ゴールドベルク[1909-1993]は、名ヴァイオリニストであると同時に名指揮者でもありました。
ポーランドに生まれたゴールドベルクは、幼少期からワルシャワでヴァイオリンを習い始め、8歳のときにベルリンで高名なカール・フレッシュの門下生となり、12歳でワルシャワでコンサート・デビュー、センセーショナルな成功を収めます。
その後、16歳でドレスデン・フィルのコンサート・マスターとなり、20歳のときにはフルトヴェングラーに請われてベルリン・フィルのコンサート・マスターに就任、同時にヒンデミットのヴィオラ、フォイアマンのチェロとの組み合わせで「アマール弦楽三重奏団」を結成して室内楽分野でも活躍します。
しかし1934年になるとナチス政権が樹立され、フルトヴェングラーの抗議もむなしく、ユダヤ系ポーランド人だったゴールドベルクはベルリン・フィルを退団させられてしまい、演奏活動にも支障をきたすようになった為、ロンドンへと移り住むことに。
ロンドンではリリー・クラウスとめぐりあい、意気投合した二人は演奏会のほか、レコーディングにも取り組み、さらに世情不安な中、世界ツアーまでおこないます。
ツアー中、1936年には日本を訪れ、1938年にはアメリカでもデビューを果たす彼らですが、アジア・ツアー中の1942年、ジャワ島滞在中に、進撃してきた日本軍の捕虜となってしまい、終戦まで抑留生活を余儀なくされることに。
戦後は再び渡米し、1951年からアスペン音楽学校で教え(1965年まで)、指揮者としての活動も開始。1953年にはアメリカに帰化しますが、1955年になるとオランダ室内管弦楽団を結成して音楽監督に就任、以後22年間に渡って同楽団と密接な関係を保つ一方、室内楽でもカザルス、ゼルキンとトリオでの演奏活動をおこない、アスペン音楽祭の委員も務めるなどして活躍します。
1969年になるとイギリスに居を移し、1977年からマンチェスター・カメラータの指揮者を務めていますが(1979年まで)、1978年からは再びアメリカに戻り、ジュリアード音楽学校で教えるほか、エール大学やカーティス音楽院、マンハッタン音楽学校などで教授活動を展開。
やがて、日本人ピアニストの山根美代子との結婚を機に、1990年には日本に居を構え、新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者に就任し、多くのファンを魅了、1993年7月19日、富山県大山町で84年の生涯を終えることとなります。(HMV)

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