ニューヨークのグリニッジヴィレッジで生まれ、ジャズシンガーの母とChet Bakerマネージャーだった父を持つという恵まれた環境で育つ。Janis Joplin, Jimi Hendrix, Charles Mingus, John Lennon, Yoko Ono, The Mothers Of Invention等のミュージシャンが両親の仕事の関係で周りに居たり、Nile Rogersを学友に持ったりと、通常では考えられない程音楽に溢れた少年時代を過ごしていたDannyだが、71年、父親の知人であり近所に住んでいたポリドールの副社長が社屋を案内してくれた際に紹介してくれたJames brown本人から、彼は2枚のプロモ盤(JBの「Get On The Good Foot」とリリース前のLyn Collinsの「Think」)を手渡され、まさにこの時、DJとして本格的に活動する意思を固める。
とはいえ、この頃はちゃんとしたミキサーもない時代、彼は自宅の2台のカセット・デッキで録音/ミックスした素材を駆使して現場でプレイしていたという。これは後のDannyの代名詞ともなる”リ・エディット”の手法へと連なるアイディアとも言えるが、こうしたユニークなセンスが評判を呼び、彼の父親がオーナーであるクラブ、「The Ninth Circle」,「One's」,をはじめ、ディスコ全盛の70年代後半には「Trude Hellers」のレジデントDJも務める。また、同時にNicky Siano, Walter Gibbons, Tee Scot, David Rodoriguez等のDJと親交を深めていったのもこの頃。
アンダーグラウンドでは、そうして名声を得てはいたものの、当時のDannyの収入は乏しく、ソウル・フード・レストランの厨房に入ったり、建設現場で働くなどのバイト仕事で生計を立てていたという。伝説的なDJ David MancusoのThe Loftに通い出したDannyは、そこでLarry Levan, Francois Kevorkianと出会い、彼らから強く影響を受けたのもこの頃。
そんな彼に大きなチャンスが訪れるのが、79年。ダウンタウンのスケートリンクを改装してオープンした巨大クラブ「Roxy」のメインDJとして招かれる。当時は、Timmy RegistfordやShet Pettinboneらのゲストともプレイしていた彼だが、後に「Roxy」は、Afrika BambaataaやRed Alert, Love Bug Starskiなどの活動でも知られるオールドスクール・ヒップホップのメッカとなり、彼も"Danny Rock"という名を名乗ってその流れに合わせたこともあったという。いずれにしろ、この画期的なヴェニューにおける4年間に渡る活動で、彼は確固たるキャリアを築き上げることになった。また、その後4年間のレジデンツを務めた後、「Limelighte」, 「Red Zone」, 「Save The Robots」, 「Studio 54」等の当時のニューヨークで人気だったクラブの殆どで、DJとして活躍した。
80年代になるとエディット等でスタジオ作業にも関わり始めるのだが、ここで前記したように、彼には”リ・エディット”というもう一つの看板があった事も忘れてはならない。Dannyは、この”リ・エディット”という手法によって(プロモ12"のクレジットでは「Mr.K」として)よく知られるDJだが、それが決して”リミックス”とは呼ばれないところがまた一つのポイントでもある。これはLil Louisなど、シカゴで古くから活動していたDJ達も同様だったようだが、当時、機材に乏しかった頃は皆、ダンスフロア向けのグルーブを持続させる音源を自ら創り出そうと、オープン・リール・テープなどを使って独自のエディットを「行っていた。DannyはそれをJames brownの"Funky Drummer"で見事に成し遂げ、「Roxy」で目撃したDST(後にHerbie Hancockの"Rock It"でスクラッチを世に広めた)のプレイにも感化され、"Rock The House"等も仕上げている。その他、James brown「Soul Power」, 「Give It Up And Turn It Loose」, Gloria Gaynor「Casanova Brown」等が知られているが、中でもMFSB「Love Is The Message」や、Ecstacy Paasion & Pain「Touch & Go」等は特に有名である。また、彼はその”リ・エディット”という態度について、こんな発言もしている。
「僕は良い音楽に対するリスペクトの気持ちを強く持っている。だから必要以上にその音をいじったりせずに、リアレンジするくらいに留めたいんだ。初めてChaka hanの"I Know You, I Live You"をEditした時はだから、イントロを長く延ばすくらいにしかしなかったんだ。でも何年かして、ちゃんとそれに相応しいリスペクトの気持ちを込めれば、リ・エディットしていいんじゃないかと思えたんだ。」