Radiohead
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Radiohead (レディオヘッド) プロフィール

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Radiohead

1985年頃、イギリスのオックスフォード郊外にある全寮制男子校・アビンドン・スクールで、のちにレディオヘッドを結成するメンバー達は出会った。その5人はトム・ヨーク(vo,g,key /1968年10月7日生)、コリン・グリーンウッド(b/1969年6月26日生)、エド・オブライエン(1968年4月15日生)、フィル・セルウェイ(ds/1967年5月23日生)、ジョニー・グリーンウッド(g, key /1971年11月5日生)。当初トムはTNTというバンドをやっていたが、その次に結成したのが「オン・ア・フライデイ」という名前のバンドだった。毎週金曜日に練習をしていたところから、そう名付けられたこのバンドはレディオヘッドの前身となる。メンバーは学校を卒業すると、トムはエクセター大学、コリンはケンブリッジ大学、エドはマンチェスター大学、フィルはリバプール大学、ジョニーはオックスフォード大学へとそれぞれ進学していった。こうして離れ離れになったメンバー達だったが、この頃にもバンドは夏休みなどを利用してバンドは続けていたという。またフィルとエドは大学卒業後1〜2年間就職し、本格的にバンドをやるためにトムの卒業を待っていたとも言われている。

彼らは1991年の夏に本格的なデモ・テープを制作。その頃にバンド名はレディオヘッドと改められた。そしていよいよこのデモ・テープの出来が認められて、彼らはEMI傘下のパーロフォン・レーベルと契約をとりつける。1992年5月に4曲入りのEPドリルを発表。ここでは先のデモ・テープからの楽曲を聴くことができる。このEPはアンダーグラウンドなインディ・ファン達の間で注目を浴びたものの一般的な成功とまではいかなかった。そして彼らは2nd EPの制作に入る。ここで呼ばれたのが米ボストン・シーンで有名だったプロデューサー、ポール・コードリーとショーン・スレイド。レディオヘッドのメンバー達のお気に入りだった ピクシーズを手掛けたこともあるプロデューサーだった。しかし、この2ndEPのレコーディングはやや難航した。そんな中、結局収録されたのは彼らがいつもリハーサルで演奏してきた楽曲を見直し、録音したものだった。これが彼らのブレイクのきっかけになる”クリープ“。何とこの”クリープ“はワンテイクで録られたもので、あまりにスムーズに録音が済んだという。2ndEP”クリープ“を発表。しかし歌詞がラジオの放送コードに触れたこの名曲は、昼間の時間帯には放送されないという憂き目を見、結局チャートも最高位75位に終わった。その一方でバンドはライヴを精力的にこなし、ファンを徐々に増やしていった。こうしてこの年の暮れまでに、レディオヘッドは英国国内でかなりの注目を集めるようになっていた。それを裏付けるように、年末のNME誌の企画で、レディオヘッドは有望な新人バンド10組に選ばれ、 ”クリープ“が同誌の最優秀シングルを獲得した。

1993年に入ると初の大規模な英国国内ツアーを敢行。ほとんどのショウをソールドアウトにするなどレディオヘッドはファンに熱狂的に受け入れられた。2月、3rdEP“エニワン・キャン・プレイ・ギター”を発表。そして初のトップ40ヒットとなった同曲に続き、2月22日、デビュー・アルバム パブロハニー を発表。この後、このアルバムはある出来事をきっかけにロングセラーとなっていく。5月、4thシングル“ポップ・イズ・デッド”発表。そしてこの後、この年の夏に前述したある出来事(それは本人達にも予想できない出来事だった)が起こり、一気に彼らに注目が集まることとなった。アメリカでの人気だ。”クリープ“の輸入盤を米国のラジオ局がこぞって流し始めた。その後リスナーからのリクエストも多数寄せられ、反響の大きかった同曲はMTVで繰り返し流された。前後するが、6月にレディオヘッドは米国ツアーを行っており、大物アーティスト達からのサポートの話を断った彼らは、小さなクラブを中心に廻った。結果的にツアーは大成功を収めた。そうしたことが複合的に組み合わさり、グランジの勃興でオルタナティヴ・ロックを受け入れる土壌が出来ていたアメリカのリスナーの心をレディオヘッドは掴んだのだった(米タイムズ誌はレディオヘッドニルヴァーナのイギリス版などと評していた。逆にイギリスのメディアは、かつてREMスミスのアメリカ版などと紹介するなど、実際こうしたことは多くある)。またこのアメリカでの成功を受けて、英/ヨーロッパで”クリープ“が9月に再リリース。同曲は全英チャート7位という好結果を残すことになった。レディオヘッドは10月から全米18都市、欧州14都市、全英10都市のツアーを敢行。その間中もアルバム パブロハニー とシングル ”クリープ“は世界中でヒットしていた。

1994年、バンドは2ndアルバムのレコーディングを開始。プロデューサーはXTCストーン・ローゼズで有名なジョン・レッキー。5月ワールド・ツアーを開始、この中の5/27ロンドン公演の模様は後にヴィデオ ライヴ・アット・ジ・アストリア としてリリースされた。また6月には初の来日公演を行っている。9月にシングル“マイ・アイアン・ラング”発表(入手はミニ・アルバム体裁のマイ・アイアン・ラングが便利)。1995年2月17日、シングル “ハイ・アンド・ドライ”発表。そして3月遂に2ndアルバム ベンズ が発表された。今のミューズなど新世代英バンドのサウンドに大きな影響を与えたサウンドというと解り易いだろうか。そうした感触が全編に渡って展開されたのがこの作品だった。またOKコンピューター、リリース後のことになるが、椎名林檎がこのアルバムをフェイバリットだと発言したこともあって、日本でこの作品はリリース後かなりのブランクが開いているにも関わらず、より広いリスナー層に受け入れられたということもあった。ともあれ、この作品も世界中で熱狂的に迎えられ、ヒットを記録。5月に全米ツアー、そして6月に再来日公演。その後再び米国で公演を行っている。9月、ボスニアの戦災児のためのチャリティ・アルバム ヘルプに参加。レディオヘッドは新曲“ラッキー”を提供した。またこの頃から始まった、 REMの欧・米ツアーで、長期にわたるサポートを務めている。

1996年に入り1月からニュー・アルバムに向けてのリハーサルに突入。その直後からプロデュースを手掛けることになったナイジェル・ゴドリッチと共に制作に入る。8月、アラニス・モリセットのツアー・サポートを務め、全米スタジアム・ツアー敢行。また10月には、新曲“トーク・ホスト・ショウ”が収録されたオリジナル・サウンドトラック ロミオ+ジュリエット がリリースされている。

1997年3月、新作となる OKコンピューター のレコーディング終了。5月アルバムからの1stシングル“パラノイド・アンドロイド”を発表。6月7/8日、ビースティー・ボーイズが提唱し実現した有名なチャリティ・ライヴ、ニュー・ヨークで行われたチベタン・フリーダム・コンサートに参加。そして6月16日に、後に90年代の重要作と呼ばれることになる、3rdアルバム OKコンピューター を英/欧州で発表される(日本での発売は先行で5月27日だった)。

この作品は、それまでのレディオヘッドの音にあったエモーショナルな面を解り易く押し出した作風とは、やや異なる重層的な趣き、音像を有していた。今聴くと、この作風をエモーショナルであると言うことは容易に感じられるし、そうした感情の発露に対する距離感(具体的にはプロデュースを手掛けたナイジェル・ゴドリッチとバンド自身の共同作業の中から生まれた、ギター・バンド的サウンドへのエレクトロニクスの混入がそう感じさせる)がこのレディオヘッド作品に独特の雰囲気を与えていると思うことも見えてき易くはなった。ただ正直言えば、初めてこのサウンドを聴いたときには、ある程度の洋楽体験(例えばメンバーらと同世代の人間が体験した80年代のニュー・ウェイヴなど)があるとないとで聴こえ方が違ってくる部分があるように感じたし(特権的な言い回しにとられても仕方がないがそれほど一聴して盛り上がる、といった類のサウンドでないことは確実だろう)、またそれと同時に彼らが古参・英ニュー・ウェイヴ人種の慰みもの以上のサウンドをはるかに越えて出してきたところに、ある種感慨があったことも付け加えたい。

OKコンピューター はその優れたサウンドもさることながら、そのコンセプチュアルなアートワークとも相俟って、独自の世界観を提示していた。80年代のヨーロッパ近代主義的精神を持ったイデオローグが、当時の日本や東京に見出したようなポストモダンな記号としての「都市」のイメージ、あるいはそこに加えて90年代に入ってから大きな展開を見せたインターネットが、世界中の各地に神経細胞のように張り巡らされたことで得られる、ニューロティックなイメージなどが組み合わさった、漠然としながらそれでいて確固たるイメージがホログラムのように立ち現われるのだ。

ともあれこのアルバムはセールス的にも全英一位を記録した。やや遅れ、7月2日全米でOKコンピューター 発売。ここに至り英米のいわゆる音楽評論家と呼ばれる層にレディオヘッドは大絶賛されることとなった。またこの頃以降、多くのミュージシャンがこの作品に対する賛辞を送り、殆ど無名に等しかったナイジェル・ゴドリッチが売れっ子のプロデューサーになるなど、レディオヘッド周辺の評価は、このアルバム・リリース後、それこそ日増しに高くなっていった感がある。次作キッドAが発表される頃までには、ジャーナリズムの一部は「レディオヘッドは現代のピンクフロイドだ」という賛辞を送り、リスナーの間にもそうした、彼らにいちもく置く感覚が出てくるなど、レディオヘッドはロック・ファン達による重要な評価を欲しいままにした。

またこの年に公開された映画 ヴェルヴェット・ゴールドマインのサントラにトムとジョニーが、ヴィーナス・イン・ファーズなる架空のバンドの曲で参加。ちなみに他にヴィーナス・イン・ファーズ名義で演奏したのは、バーナード・バトラーアンディ・マッケイ、クルーン、ポール・キンブルといった人達。

1998年1月、トム・ヨークがゲスト参加の”エル・プレジデント”という曲を収録したドラッグストアのアルバム ホワイト・マジック・フォー・ラヴァーズ がリリース。そしてOKコンピューター からの3rdシングル ノー・サプライゼス 発表。その直後に3度目の来日公演。その後、彼らはオーストラリア公演を経て全米ツアーへと向かっていった。4月にアメリカ限定ミニ・アルバム“エアー・バッグ/ハウ・アム・アイ・ドライヴィング”をリリース。そして4月から9月まで、レディオヘッドはバンド結成以来初めての長期休暇をとった(彼らは休暇中にも唯一のライヴを行ってはいるが――6月13/14日とワシントンDCで開かれたチベタン・フリーダム〜に出演)。その休暇中の主な動きを挙げると、5月にヴィデオ・クリップ集 セヴン・テレヴィジョン・コマーシャルズ がリリースされたり、8月にトム・ヨークが参加したDJシャドウとジェイムス・ラヴェルのユニット、U.N.K.L.E.のアルバム サイエンス・フィクション(トムは“ラビット・イン・ユア・ヘッドライツ”に参加)がリリースされたりといったことがあった。そして休暇を終えたバンドは、12月にはパリで開かれたアムネスティ・インターナショナル・コンサートに参加する。

1999年2月、ナイジェル・ゴドリッチと新作の制作に入る。6月、チベタン・フリーダム〜に三たび参加、ただしメンバーはトムとジョニーのみでアコースティックなパフォーマンスを披露した。7月頃からレディオヘッド・オフィシャル・ウェブサイト上でエドによるレコーディング日誌が連載され始める。こうして1999年のレディオヘッドは、表向きの活動としてはこの新作の録音に終始した。

2000年に入ってもレディオヘッドはレコーディングを続けていた。そんな彼らが人前に現われライヴを見せたのが2000年6月のヨーロッパ・ツアー。新曲がいくつか披露され、好評を博す。その後トム・ヨークがビョークとデュエット、と話題となったサントラ ダンサー・イン・ザ・ダーク が9月上〜中旬にリリースされた。

そして迎えた9月27日、日本先行で世界中が待ちに待った新作4thアルバム キッドAがリリース(英米では10月2日発売)。英国は勿論ナンバーワン。そして何とこのアルバムは全米チャートでも首位に立った。

問題作とも言われた、このキッドA。ここ日本でもその音楽への意見がさまざまなメディア上で闘わされたりもした。英国ではコア・ファンを交えての賛否両論となったと言われているし、米国ではアイドル的なアーティスト達が多くチャートを占めるポップ・シーンの現状の中、今回のレディオヘッドは、そのサウンドの斬新さもさることながら、派手さのないプロモーションを貫くことでかえって米国リスナーにインパクトを与えるに充分だったとする見方もあるし、そして彼らのヨーロッパ的、知的イメージが、上手く作用し、チャート1位となったとする見方などもある。

翌2000年には宣言通り、キッドAと同時期に録音されていたアルバム、アムニージアックを発表。キッドAと比べると若干ギター・サウンドが強めの感もあるが、いずれにせよファンの間で物議をかもした問題作といえるであろう。同年には来日公演も行い圧倒的な世界観で聴衆を魅了。このときのライヴをみた友人はこれでやっとキッドAアムニージアックが掴めた気がするとの感想を残していた。この時のライヴを見逃した方はライヴ盤、アイ・マイト・ビー・ロングでその凄まじさ、、緊張感の一端を感じてみてはどうだろうか。

2002年はこれといって目立った活動はしていないが、既にライヴやインターネット上で新曲を数曲披露した。そして2003年6月、待望の6thアルバム、ヘイル・トゥ・ザ・シーフを発表した。事前の情報ではギター主体のロック・サウンドに回帰した作品と伝えられたが、いざ蓋を開けてみればこれまでの集大成的な印象が強く、前2作で試みられたエレクトロニカやアヴァンギャルドなジャズ、クラシックの導入、実験は既に血肉化されており、そこにトム・ヨークのヴォーカルらしいヴォーカル、5人のバンド・サウンドのダイナミズムが戻ってきているのである。ここまで凄まじい勢いとスピードで駆け抜け、進化してきたバンドの「全て」がここにあると断言できる作品に仕上がった。同年夏にはロック・フェスティバル、サマーソニック'03でヘッドライナーとして出演。幕張公演ではラストに“クリープ”を演奏し、クラウドを沸かせた。

2004年4月には単独での日本ツアーを敢行。また来日記念盤としてシングルのB面曲などを収録したコム・ラグ2+2=5をリリースする。

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