Jethro Tull
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Jethro Tull (ジェスロ・タル) プロフィール

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Jethro Tull

ジェスロ・タル ――― この名前に聞き覚えはなくともロック・ファンならば一度や二度くらいはイアン・アンダーソンの名前くらい耳にした事があるはずだ。東京の観光名所の一つである東京タワー内にある蝋人形館でフルートを吹きながら、おそ松くんに出てくるイヤミのように片足を上げている毛むくじゃらのおっちゃん、そう彼こそが「狂気のフラミンゴ」の異名をとる男でありジェスロ・タルのフロントマン、イアン・アンダーソンである。

ジェスロ・タルの歴史はイアン・アンダーソンに置き換えることが出来るほどに彼を中心に廻ってきた。ここでも彼の生い立ちからジェスロ・タルの歴史を紐解いていこう。

イアン・アンダーソンは1947年8月10日、スコットランドのエジンバラで生まれた。幼少の頃家族と共にエジンバラからブラックプールへと移り住んだイアン・アンダーソンは後に美術学校へ進学し、後のジェスロ・タルの原点でもある最初のバンド、ジョン・エヴァンズ・スマッシュを結成する。ブルース色の強いロックを演奏していたこのバンドのマネージメントを務めたのが後のクリサリス・レコード設立者の一人クリス・ライトであった。

ジョン・エヴァンズ・スマッシュは結成当初ブラックプール近辺のクラブなどを活動の拠点としていたが、まもなくそれをロンドン近郊のルトンへと移動するが、メンバーのうちのほとんどがバンドに対するモチベーションが下がり、故郷ブラックプールへと帰ってしまった。残ったイアン・アンダーソンとグレン・コーニックはルトンで新たなバンド、バック・オブ・ブルースを結成する。この時集まったメンバーはメンバーは元マクレガーズ・エンジンのミック・アブラハムスとクライヴ・ハンガー。バンドはほどなくして18世紀の農学者の名前であるジェスロ・タルを名乗るようになった。

ジェスロ・タルは68年にMGMレコードと契約を交わし、同年3月にシングル“Sunshine Day”を発表。しかしこの時は同会社のプロデューサーの意見によりバンド名をJethro Toeと名乗らされてのリリースだったが、このシングルはまったくの空振りに終わる。再びジェスロ・タルを名乗ったバンドは68年8月にサンベリーで開かれた第8回ナショナル・ジャズ・ブルース・フェスティバルに出演する。トラフィックティラノザウルス・レックスといった錚々たるバンドが参加するこのフェスで一番の評判を集める事に成功したのであった。この時最も注目されたのがやはりイアン・アンダーソンである。ステージ狭しと走り回り、妙なダンスを披露、そしてなんと言ってもフルートの演奏スタイルがオーディエンスの目を奪った。一本足奏法とでも言おうか、フラミンゴよろしく片足の爪先立ちでフルートを奏でるその姿は「狂気のフラミンゴ」などと評された。そこでの評価はスターダムの階段を一気に昇り詰めるに十分なものであった。

68年9月にはアイルランド・レコードに移籍し、10月には1stアルバム『This Was』をリリースした。前述のフェスで既に名声を勝ち取っていた甲斐もあってアルバムは見事に全英チャートでトップ10入りするヒットを記録。さらには68年度メロディ・メイカー誌ポップ・ポール(所謂人気投票)でビートルズに次ぐ第2位に選出された。しかし11月にはミック・アブラハムスが自分のバンドであるブロウドウィン・ピッグを結成する為に脱退。ブラック・サバスのトニー・アイオミやイエスに参加する前のスティーヴ・ハウなどをヘルプに迎え、なんとかその場をしのぎ、オーディションの末、新たにマーティン・バレが加入させた。69年には全米ツアーも行い、アメリカ独立記念日である7月4日にはニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演し、圧倒的な声援でもって迎えられた。そして2ndアルバム『Stand Up』をリリース。全英ナンバー1を獲得する。70年には『Benefit』をリリース。全英トップ3、全米でもチャートの11位まで上昇するヒット作品となった。同年4月には前身バンド、ジョン・エヴァンズ・スマッシュ時代に田舎へ帰ったジョン・エヴァンが加入。12月には結成当初からのメンバーであるグレン・コーニックが脱退し、後任としてジェフリー・ハモンドが加入する…と、メンバーの動きがかなり流動的であったがバンドはこのラインナップで最高傑作の誉れ高い『Aqualung』をリリースする。

ワンマン・バンドの宿命であろうか、メンバー・チェンジが定例行事のようになったジェスロ・タルであるが、71年には最後のオリジナル・メンバー、クライヴ・ハンガーまでもが脱退してしまう。ジョン・エヴァン同様、ジョン・エヴァンズ・スマッシュ時代に田舎に帰っていたバリモア・バーロウがクライヴ・ハンガーの後任として加入する。72年にはライヴ+未発表音源などで構成された『Living In The Past』をリリース。また同年バンドはクリサリス・レコードへと移籍。8歳の少年による詩をもとにしたトータル・コンセプト・アルバム『Thick As A Brick』をリリースする。前作『Aqualung』と並ぶ大傑作で大ベストセラーを記録し、完全に名声を物にした。73年にはイアン自身が監督、脚本、編集を務めた映画とステージを融合させるための『Passion Play』をリリース。1年間ステージ活動を停止した後の74年10月には『Warchild』、75年4月には『Minstrel The Gallry』をリリースするなど、このメンバーでのジェスロ・タルは比較的安定した活動を続けることになった。74年には同メンバーで日本公演も行っている。

その後も何度かのメンバー・チェンジを繰り返しながら、ジェスロ・タルは順調キャリアを重ねていく。時には失速し、バンド崩壊の危機も訪れているが、何だかんだでその度に危機を乗り越えている。87年にリリースした『Crest Of A Knave』が88年度グラミー賞から新たに設けられた「Best Hard Rock/Metal Performance Vocal Or Instrumental」でボン・ジョヴィガンズ・アンド・ローゼズメタリカといった当時勢い盛んであった若手バンドを押しのけて受賞してしまう。また同年、活動20周年を記念し4枚組のボックス・セット『20 Years Of Jethro Tull』をリリースした。その後もアコースティックによるライヴ・ツアーを展開し、93年には再来日、95年にはトラッド色豊かな『Roots To Branches』をリリース、99年にはIT時代を象徴するかのようなタイトルの『J-Tull.Com』をリリースした。もちろんバンドは今なお存続している。

ジェスロ・タルはロック界にはじめてフルートを導入した画期的な存在である。コンセプト・アルバムやアルバム1枚を1つの組曲で終結させてしまう大作を創り上げたりと、プログレッシヴ・ロックのイメージが強いが、時代と共にそのサウンドを変貌させてきたバンドでもある。トラッド・ミュージックやニューウェイヴ、ヘヴィ・メタルと時代に合わせた音作りを試み、そのたび新しい世界を見せてくれた。それらが全て成功し、後の音楽シーンに影響を与えてきたといえば嘘になるかもしれないが、イアン・アンダーソンが贔屓にしているデヴィッド・ボウイのようにこれからも時代とシンクロした作品を聴かせてくれることであろう。

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