Stevie Ray Vaughan
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Stevie Ray Vaughan (スティーヴィー・レイ・ヴォーン ) プロフィール

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スティーヴィー・レイ・ヴォーンはロックのフィールドにブルースのフィーリングを持ち込んだ最大の功労者的存在であると言えよう。デヴィッド・ボウイ一筋のロック愛好家からもコテコテのブルース愛好家からもその存在を認められている類稀な存在とも言える。スティーヴィー・レイ・ヴォーンが活躍した80年代、ギター・ヒーローといえばエディ・ヴァン・ヘイレンであり、スティーヴ・ヴァイであり、イングヴェイ・マルムスティーンであった。早弾きハードロック・ギタリストにグルリと周りを囲まれながらもスティーヴィー・レイ・ヴォーンがギタリストとして確固たる地位を確立出来たのは何故なのだろうか。

スティーヴィー・レイ・ヴォーンは1954年10月3日、アメリカはテキサス州ダラスで生まれた。ブルース・マニアであった3歳の離れた兄、ジミー・ヴォーンの影響で音楽とギターに興味を注ぐようになった。特に影響を受けたのがハウリン・ウルフマディ・ウォーターズTボーン・ウォーカー、アルバート・キングBBキングらブルースマンだけでなく、ジミ・ヘンドリックスエリック・クラプトンジェフ・ベックからも強い影響を受けたという。13歳になる頃にはジミーのバンドのベーシストとして早くもブルース・クラブのステージに立っていたそうだ。思春期の大半を音楽に費やす生活を選んだスティーヴィー・レイ・ヴォーンはハイスクールを中途退学する。18歳になる頃、活動の場をオースティンに移しブラック・バード、コブラ、トリプル・スレット・レビューなど幾つかのバー・バンドをひとしきり渡り歩いた後、クリス・ホイッパー・レイトン(Ds)、トミー・シャノン(Ba)と共に「ダブル・トラブル」を結成。地元テキサスを中心に精力的な活動を開始する。

80年代初頭、とあるクラブに偶然居合わせたローリング・ストーンズミック・ジャガーキース・リチャーズスティーヴィー・レイ・ヴォーンのプレイをいたく気に入り、ニューヨークでのパーティーにゲストとして招かれた。そのパーティーが切っ掛けとなり82年7月スイスにて開催される「モントルー・ジャズ・フェスティバル」のブルース・デイに出演する事になる。ここでスティーヴィー・レイ・ヴォーン率いるダブル・トラブルは大きなチャンスをつかむ事になる。そのステージを観ていたデヴィッド・ボウイスティーヴィー・レイ・ヴォーンのプレイに惚れ込み当時制作途中であったレッツ・ダンス(Let's Dance)への参加を依頼されるのである。

デヴィッド・ボウイのアルバム、レッツ・ダンスへの参加に応じたスティーヴィー・レイ・ヴォーンはアルバート・キングさながら(しかしオリジナリティに溢れる)のプレイを聴かせローカル・バンドのいちギタリストから一躍注目を集めるギタリストとなった。同年遂に自身のアルバム、テキサス・フラッド(Texas Flood)をリリースしたスティーヴィー・レイ・ヴォーンは様々な音楽賞にて最優秀ギタリスト、最優秀ギター・アルバムなどを受賞、一気に名声を得るに至った。デヴィッド・ボウイからはアルバムだけでなく、引き続きツアーへの参加も依頼されるがここでスティーヴィー・レイ・ヴォーンはこの話を断り、自分の音楽を優先する(デヴィッド・ボウイがギャラをケチったという説もある)。84年スティーヴィー・レイ・ヴォーンテキサス・フラッドに続きテキサス・ハリケーン(Couldn't Stand the Weather)をリリース。ジミ・ヘンドリックスの”ヴードゥー・チャイル”のカヴァーが収録されており、熱狂的なヘンドリックス・ファンから賛否両論をかうも全米チャート最高32位にランクされゴールド・ディスクに輝いている。

85年には1月には初来日公演を行う。作品以上にパワフルなプレイは聴衆を圧倒した。また同年ソウル・トゥ・ソウル(Soul To Soul)をリリース。ブルースを基本とした従来のダブル・トラブル・サウンドにキーボードやブラスなど新たな要素も加味しサウンドの幅を広げた。本作からは”ルック・アウト・フォー・リトル・シスター”がラジオでヘヴィ・ローテションにもなった。この頃のスティーヴィー・レイ・ヴォーンの順調な音楽活動と反比例するかのようにスティーヴィー・レイ・ヴォーンの体は容赦なく蝕まれていく。ドラッグとアルコールによるものだった。休養を余儀なくされたスティーヴィー・レイ・ヴォーンは86年10月遂に入院するに至る。入院中には初のライヴ盤、ライヴ・アライヴ (Live Alive)がリリースされた。パワフルなプレイが十二分に味わえる本作のリリースはスティーヴィー・レイ・ヴォーンの復帰を一日でも早く待ちわびていたファンに嬉しいプレゼントとなった。

友人であったエリック・クラプトンらの助け、辛いリハビリを耐え抜いた結果89年に長い入院生活にピリオドを打ち、遂に現場復帰。長らく断ち切れなかったドラッグの甘い誘惑を断ち切ったスティーヴィー・レイ・ヴォーンは最高傑作のひとつトとしてカウントされるイン・ステップ (In Step)をリリースする。先を案じていた訳でないだろうが、ここでのスティーヴィー・レイ・ヴォーンのプレイは鬼気迫るものすらある。ヴォーカルにおいてもそれは同様で、特に”クロス・ファイアー”などはスティーヴィー・レイ・ヴォーンのベスト・ワークに挙げるファンも多い。因みに本作はグラミー賞も受賞している。

翌90年にはスティーヴィー・レイ・ヴォーンが音楽の世界に身を投じる切っ掛けを与えた兄、ジミー・ヴォーンとのユニット、ヴォーン・ブラザーズ名義でアルバム、ファミリー・スタイル (Family Style)をリリース。いつか実現させたかった夢であったと自ら語っていた本作は、いつもより幾分リラックスした雰囲気のソウル〜R&Bテイストなサウンドは余裕すらも感じさせた作品であった。しかしこの後スティーヴィー・レイ・ヴォーンを待っていたのはあの忌まわしい悪夢のような惨事なのである…。

1990年8月26日ウィスコンシン州のイースト・トロイ市アルペン・ヴァレーで行われたブルース・フェスティバルでエリック・クラプトンロバート・クレイバディ・ガイ、兄のジミー・ヴォーンと共演した会場からの帰りのその日の夜、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの搭乗した移動用のヘリコプターが墜落するという事故に巻き込まれ死亡…享年35歳。復活した矢先の思いがけない事故、誰もがこの事態を飲み込むのに暫くの時間を要したはずだ。

…とここまでスティーヴィー・レイ・ヴォーンの短い35年間を振り返ってみたが、冒頭の話に戻ろう。それはつまりこういう事ではないだろうか、スティーヴィー・レイ・ヴォーンのギター・プレイはブルースに深く根差したものである。だが古き良きブルースをまんま踏襲するだけでなく、ロックやR&Bの要素も取り入れ自らの血肉としていったのだ。スティーヴィー・レイ・ヴォーン本人も影響を認めていたジミ・ヘンドリックスという偉大な先が既にそういったスタイルを実践していたという事もあるが ― 例を一つ出してみよう。塗装が剥げ落ちた銀色の「SRV」のロゴがトレード・マークのサンバーストのストラトキャスター「ナンバー・ワン」。スティーヴィー・レイ・ヴォーンはこのギターを生涯に渡って愛用し、ワイフ(妻)と呼ぶほどこのギターを愛用していた。しかもそのギターには常人では爪弾く事すら不可能であろう超極太の弦が張られていた。そのボロボロのギターに張られた極太弦から紡がれたフレーズの数々は圧倒的なオリジナリティを誇り、他に二つとない音色となるのである。

他のロック・ヒーローがそうであったのと同じく、エリック・クラプトンもまたその類稀なる才能をドラッグとアルコールによって潰しかけた一人である。しかしスティーヴィー・レイ・ヴォーンはどん底から這い上がり、自らのキャリアの中で最も輝かしい時期に予期せずして起こった不慮の事故によってその命を奪われてしまったのである。第2のキャリアの幕開けの直後に待っていた当然の死。これが運命だったなんて思いたくもないし、思えるはずもないがスティーヴィー・レイ・ヴォーンの残した数々の音源は今も輝きに満ちていてこれから先もずっとその輝きは瞬く事をやめないはずだ。

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