My Bloody Valentine

My Bloody Valentine (マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン) プロフィール

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My Bloody Valentine

ある種の音楽リスナーの間でマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの中心人物、ケヴィン・シールズは今や現代のブライアン・ウィルソンと呼んでも過言ではない位置を獲得してしまった。ニルヴァーナの時代であり、ベックの時代であり、ある場合にはオアシスレディオヘッドの時代だった90年代のインディ/オルタナティヴ・シーンは、極端な見方が許されるならある意味でマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの伝説とバンド自体の不在を巡る物語だったとさえ言えるくらいだ。次々と現れるマイブラ影響下のバンドはいうまでもなく、インディ・ギター・ロック界でその範疇以上の何物かを目指すバンド、グループはどこかでマイ・ブラッディ・バレンタインを意識せざるを得ないというような、まさに彼らの不在、沈黙こそがマイブラの存在を特別にしていたとも言えるかもしれない。実際に音響うんぬんという事象にしてもイギリスで早くもその分野に足先を突っ込んでいたのはマイブラだけだったということも言えるのでは、とは思う(アンダーグラウンドなテクノ勢は除いたほうがよいかも)。

ただこうした現象を語る際には、どうしても一面的にならざるを得ないことも確かで、一概に全ての始まりがマイブラだったというような言説に、うさんくささが伴うのも事実だ。実際、彼らが遺した音源を辿れば、ジーザス&ザ・メリー・チェインがこじ開けた扉をC-86バンドらとともに進み、あるいは同時代のUSインディ勢、ソニック・ユースダイナソーJr.らとの共時性を有しながら、かつその上でいわゆるストーン・ローゼズ以降の「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」のグルーヴ主義に刺激された痕跡がありありと見える。伝説は一枚岩ではないし、かつて「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドみたいになれたらいいなって思うよ」と語ったケヴィン・シールズは、その時点ではまだ自分をごくまっとうな「ある脈絡」に位置付けられたほどにかつては冷徹な視線の持ち主だった。たとえその後が過度のプレッシャーからの逃避的傾向、ドラッグ漬けと終わらない音楽探求だったとしても。

マイ・ブラッディ・バレンタインの歴史(今のところ?)は大雑把に言って二つに分かれる。ばかばかしいほど簡単な区分けだが、クリエイション・レーベル移籍後とその前史ともいうべき時期だ。のちのちまでメンバーとして残るケヴィン・シールズとコルム・オシオソイグがバンドを始めたのは1984年アイルランドはダブリンでのこと。「マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン」というバンド名は、初期に居たデイヴというメンバーが提案したもので、B級ホラー映画からとられたものだという。ケヴィンは後のインタビューで、その映画を当時は見ていなくて、あとで見たらバンド名を変えたくなる代物だった、という意味のことを語っている。3カ月ほどオランダに滞在したバンドは、ベルリンに移りファースト・ミニ・アルバム、ディス・イズ・ユア・ヴァレンタインをリリース。ここでは初期に在籍したメンバー、デイヴがヴォーカルをとっていて、後のマイブラ的記号はまったくといっていいほど見出せない。1985年にロンドンへ渡った彼らは、その夏に女性ベーシスト、デビー・グッジをバンドに迎え、その年中にギークEPをリリース。その後1986年にザ・ニュー・レコード・オブ・マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、1987年にサニー・サンデー・スマイルというEPを出した。この辺りでは当時話題となっていたC-86(音楽誌NMEのコンピレーションから取られたでっち上げシーンの呼称)〜アノラック勢にも通じるギター・ポップを聴かせていく。その後初期ヴォーカリストのデイヴが小説を書くため脱退。替わりにビリンダ・ブッチャー(vo/g)が加入し、よく知られたマイブラの4人が揃う(ケヴィンがg/vo、コルムがds)。このラインナップでリリースした初めてのシングルが“ストロベリー・ワイン”(ちなみにここまでのリリースを纏めたCDがオランダのレーベルから一時期出ていた)。そして“ストロベリー・ワイン”リリースからひと月後、彼らは1987年9月にミニ・アルバム、エクスタシーをリリースした。ちなみにこの“ストロベリー・ワイン”収録曲とエクスタシーを合わせた編集盤エクスタシー・ワインが、マイブラ・ブレイク後に、プリミティヴズなどを擁したレイジー・レーベルからリリースされ、バンド側が猛反発した、という出来事もあった。とここまでが前史。ここまではガレージっぽいサウンドから“ストロベリー・ワイン”のお花畑のようにカラフルな青春アノラック・サウンドまで、というサウンド的な流れだ。

そして1988年クリエイション・レーベルに移籍。ここから彼らの怒涛の快進撃が始まる。とはいってもリリースやギグがそれほど多かったわけではない。ユー・メイド・ミー・リアライズEP、フィード・ウィズ・ユア・キッスEPと、一枚のアルバム、イズント・エニシング?の評判のみといってもいいような状態で重要バンドの地位についてしまったのだ。余談ながら輸入盤のみのリリースということもあって、この時期彼らを取り上げる日本のメディアはそれほど多くなく、レコードから聞こえてくるノイジーでどこかのネジがトンでしまったような彼らのサウンドだけが妙に輸入盤を買い求める層の一部でウケていたのを憶えている。当時、小野島大氏主宰のロック雑誌『ニューズウェイヴ』に「黒コートの部屋」というコーナーがあって、そこでマイブラが紹介されていたのを憶えているが、そこではループやスペイスメン3といったバンドと並びUKの3大新世代サイケ(表現はこれとは違ったけど)というような扱いだったのが印象に残っている。今のリスナーの感覚からすると不思議に思うかもしれないが、当時の音楽メディアで一般的にマイブラが取り上げられることはほとんどなかったといっていいだろう。話を戻すと、ところでこのイズント・エニシング?、タイトルやイメージの作り方などがちょっとジョークっぽい。一曲目の“ソフト・アズ・スノウ”。「雪のように柔らかく、内側は温かい」と歌われ、男女ヴォーカルが交錯する。“フィード・ミー・ウィズ・ユア・キス”のヴィデオ・クリップも実験アートぽくしてあったけれど、要はキス・シーンを延々と流しつづけているというもの。当時のインディ・ギター・バンドでこうしたイメージをあからさまに打ち出したものはあまりなかったのではないだろうか。強いてあげればジーザス&ザ・メリー・チェインの無意味な暴力、セックスといったものを嫌悪しつつ甘受するという退廃的な態度を踏襲したもの(もっと遡ればヴェルヴェッツか)とも言えるが。

イズント・エニシング?から一年半後の1990年、グライダーEP発表。特にその一曲目“スーン”ではダンス・ビートが導入され(イズント〜の一曲目ほかで試みられてはいたが)話題となる。「90年〜セカンド・サマー・オブ・ラヴの気分」にも呼応したその曲は90年を代表する楽曲のひとつとなった。高まっていくマイブラ人気の中、さらに1991年2月にはトレモロEPを発表。そこではエスニックなパーカッション使いすら見られ、かつての「ノイジー・ギター・バンド」という枠はここで最早崩れ去っていたように思う。そして90年代のマスターピースとも言われるアルバム(前作から三年ぶりの)ラヴレスを1991年後半に発表。この作品は制作に二年半、20万ポンド(当時約5000万円)がかけられたというウワサの力作だった。リリース後唯一の来日公演を敢行。筆者が見た日の印象の限りでは、(確か)少し前にダイナソーJr.の逞しいライヴを見たこともあり、マイブラの演奏はあまりにも脆弱に感じられたのを憶えている。実際ライヴで憶えているのはサウンドの感触よりも、ケヴィンがかなり右奥に下がって自信なさそうに歌っていたのと、そのケヴィンとビリンダの間に挟まれてやたらベースのデビーが小さく見えたことのほうだ(会場も最後のほうにはダレてしまった)。とはいえ、マイブラが決してライヴで力を発揮するバンドと思って観たわけではないので、結局彼らはレコーディング・バンド、もっといえばケヴィン・シールズの頭の中で鳴る音像を具現化するバンドなのだな、というのがその時はっきりと判ったのは収穫といえば収穫だった。またそうしたことを裏付けるかのように、その後マイ・ブラッディ・バレンタインは休止。以降作品制作過程が断片的に伝わってくるだけで一向に作品は発表されていない(2003年11月現在)。と同時に伝わってくるのは、ケヴィンはいつ完成するともしれないマイブラの次作を製作するためスタジオに篭りマッド・サイエンティストのごとき人間になっているなどというウワサばかりだった。

ケヴィンはこの空白期間をリミックス仕事を主体に活動。人前に現れるのはプライマル・スクリームのギタリストとしての活動のみだった。しかし2003年、ソフィア・コッポラが監督した映画「ロスト・イン・トランスレイション」のサウンド・トラックにケヴィンが4曲を書き下ろしたというニュースがメディアを賑わせ、マイブラ遂に復活か?ともまで囁かれた。だがしかし、それは噂の域でしかなかったようだ。

他のメンバーではデビーが元ステレオラブムーンシェイクのキャサリン・ギフォードらとともにスノウポニーというバンドで作品を発表している。

今後ケヴィン・シールズがマイ・ブラッディ・ヴァレンタインとして作品を発表するかどうかはわからないが、たとえ発表がなかったとしても、これまで発表してきた作品を聴いた若いリスナーによってマイブラは発見され続けていくのだろう。

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