Ry Cooder

Ry Cooder (ライ・クーダー) プロフィール

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真の意味で「クロスオーヴァー」なギタリストという人物を挙げるとすれば、その筆頭に挙げられるのがライ・クーダーかもしれない。その活動の成果はフォーク、オールド・ジャズ、R&B、カントリー、ゴスペル、ハワイアン、テックスメックス、キューバ音楽、そして琉球音楽に至るまで、と多種多彩に渡って披露されており、近年アメリカン・ルーツ・ロックなどと呼ばれている音楽性を明確な形で体現しているのが彼だと言ってしまってもよいだろう。また70年代以降、ロックというスタイルの中で、スライド・ギターがしばしば活躍するようになるが、その先駆的な役割を果たしたギタリスト、またその代名詞的な存在となったのがライ・クーダーだった。

ライ・クーダーは1947年3月15日、カリフォルニア州LAサンタモニカで生まれた。ライは3歳の頃から、フォーク・ファンだった両親の持っていたテナー・ギターをオモチャのようにして遊んでいたという。またウディ・ガスリーなどの音楽に入れ込んだ彼は(早熟!)、10歳になるとマーチンのアコースティック・ギターを手に入れた。やがてLAのクラブに出入りするようになった彼は、ジャッキー・デ・シャノンのバック・バンドに参加。この時点で1963年頃だが、ライは10代半ばにして早くもプロとしてのキャリアをスタートさせたのだった。

1965年、ライタジ・マハールらと、ユニークなテイストを持ったフォーク・ロック/ブルース・バンド、ザ・ライジング・サンズを結成。このバンドで発録音を経験するが、当時この音源は未発表に終わる。このときの音源は1992年になって初めてRising Sonsとしてアルバム化されたが、そこではライによる、まだまだ未熟ながらもチャレンジ精神に溢れたスライド・ギターが聴けた。この後、奇才キャプテン・ビーフハートの1967年の名盤 セイフ・アズ・ミルク に参加。そしてこの頃にはライはボトルネック・ギタリストとしての名声を早くも獲得しつつあった。やがてLAシーンのセッション・ギタリストとして、数々のレコーディングに参加したライは、1969年にローリング・ストーンズとの作業に入る。ストーンズの名曲“ホンキー・トンク・ウィメン”の誕生に少なからぬ貢献をすることになる(のち1971年にも名作 スティッキー・フォンガーズ にも参加。“シスター・モーフィン”で素晴らしいスライド・プレイを聴かせている)。

1970年、ライ・クーダーは ライ・クーダー・ファースト(Ry Cooder)でソロ・デビュー。同作品は商業的には全く話題とならなかったが、そこで聴ける独特のムードを持ったサウンドとギター・ワークは音楽ファンの間で、少しは注目を浴びることにもなった。さらにライは1971年、セカンド・アルバム 紫の峡谷(Into The Purple Valley) 、翌1972年にサード・アルバム 流れ者の物語(Boomer’s Story)と続けざまに作品を発表。ここまでの初期3作で、古くは1920年代に遡るアメリカン・ソングの再生の試みともいえる独自のスタンスで(特に20年代から30年代にかけての不況時代の歌をとりあげるなど)、ライは同時代の主流とは異なるユニークな佇まいの曲をまとめあげた。また一方で彼のギターはマール・トラヴィスなどに代表されるギャロッピング・ギター、ロバート・ジョンソンを思わせる鋭いボトルネック奏法といった手法を織り交ぜながら、実にオリジナリティ溢れるサウンドを聴かせていたのだった。

その後ライ・クーダーは、テックスメックス、ゴスペル、そしてハワイアンといった要素を自らのレコードに取り入れていく。1974年に名作の誉れ高い パラダイス・アンド・ランチ(Paradise And Lunch)を発表。またこの作品がリリースされた同時期1974年の4月にライは大きな出会いを果たしている。ハワイで催されたライのコンサートにスティール・ギター奏者のギャビー・パヒヌイが現れ、意気投合した二人はその後何度かのセッションを重ねたのだった(ギャビーは次作にフィーチャーされる)。パラダイス・アンド・ランチ(Paradise And Lunch)でメキシコへの憧憬をも感じさせていたライだが、実は同作のレコーディングの時点ではメキシコのノルティーニャ〜テックスメックスの音楽のことはそれほど知らなかったといわれている。しかし同作を発表後、すぐにテックスメックスに大きな関心を寄せたライは、テキサスへと赴き、ある意味ギャビー以上ともいえる出会いを果たす。出会った相手はフラーコ・ヒメネスというアコーディオン奏者。果たして、こちらも名作の誉れ高い1976年発表のチキン・スキン・ミュージック(Chicken Skin Music)フラーコギャビーは参加し、ライ自身の彼らへの敬意や高い精神性とも相俟って、非常に豊かな音楽がここに生み出されることになるのだった。

自身のソロ・アルバム以外でもライは70年代を通して、リトル・フィートマリア・マルダーランディ・ニューマンアーロ・ガスリーといったアーティスト達のレコーディングに参加。そして1977年には前年の1976年12月に行われたステージの模様を収めたライ・クーダー初のライヴ・アルバム ショウ・タイム(Show Time)を発表。同演奏はバックをフラーコ・ヒメネス含むチキン・スキン・レビューが務めるものだった。また翌1978年にはソロ通算7作目となるジャズ(Jazz)を発表。同作品でライはいわゆるモダン・ジャズ以降のジャズではなく、ノスタルジックな香り漂うジャズとその周辺にかつて存在していた豊かなポピュラー音楽のスタイルを取り上げているが、これはジャズがもともと持っていた異文化の混合といったものを炙り出す傑作となっていた。

1979年、R&Bや初期ロックンロールのフレイヴァーを感じさせるバップ・ティル・ユー・ドロップ(Bop Till You Drop) を発表。同作はデジタル方式でレコーディングされた史上初のロック・レコードであり、また一見ミスマッチとも思えるが実に効果的だったチャカ・カーンとの競演も話題となった。

1980年暮れにはバップ・ティル・ユー・ドロップ(Bop Till You Drop) のR&B的な部分を継承する ボーダーライン(Borderline) が発表されているが、80年代になると、ライ・クーダーのその幅広く豊かな才能は、新たな音楽フィールドへと向かっていくことになった。その新たな音楽のフィールドとは映画のサウンドトラック制作だ。彼が手掛けた主な映画のスコアは、ウオーターヒル監督の「ロングライダース」、同じく「ストリート・オブ・ファイアー」、ヴィム・ヴェンダース監督「パリ・テキサス」、ルイ・マル監督「アラモベイ」など。また伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンへのトリビュート作品となる「クロス・ロード」では、劇中の主演俳優の弾くギターの吹き替えを担当してもいる。というわけで80年代、結局ライ・クーダーのソロ・アルバムは 前述のボーダーライン、スライド・エリア(Slide Area, 1982年)、ゲット・リズム(Get Rhythm, 1987年)と3枚のみに留まってしまった。

90年代のライ・クーダーも基本的には映画のスコア制作やセッション活動に重きを置いて活動したため、純粋に彼のオリジナルとなるソロ作といえるものは発表されなかった。ただ1992年にはジョン・ハイアットニック・ロウジム・ケルトナーといった錚々たるシブいメンツとともにスーパー・グループ(?)、リトル・ヴィレッジを結成し、同年にアルバム リトル・ヴィレッジを発表。そしてやはり90年代後半に大ブームを捲き起こしたキューバ・ミュージシャンとの共演 ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ は、ライの名を再び表舞台に上げたこととして触れないわけにはいかないだろう。古くからキューバ音楽を演り続けてきた老齢のミュージシャン達(しかしそのパワーは凄かった)との共演を収めた、映画ブエナ・ヴィスタ〜の印象とともにこの出来事はまだ記憶に新しいところだ。

ライ・クーダーの多様な音楽自体、そしてさまざまな地域の音楽からの影響は、ここでとてもひとことで言い表せるような種類のものではないので、ここではその特徴的なスライド・プレイについて少し触れよう。スライド・バーは金属製のものではなく、ガラス製で、特にシェリー酒のボトルネックなど酒瓶を好んで使用。これを左手のミュート・コントロールとともに組み合わせ、右手の正確無比としか言いようのないフィンガー・ピッキングで奏でる。その音色はエレクトリック・スライドの場合にはディストーションを効かせた鋭い切れ味、アコースティックの場合には適度な湿り気を帯びた哀愁いっぱいのサウンド、という持ち味で聴かせてくれる。またギターそのものにしてもやはり相当なコレクションを持っていると想像されるが、ドブロなどのリゾネイター・ギターはその金属的な音がライには好みではないというウワサで、スライド・ギタリストとしては珍しくこれを一切使わないという話だ。

余談になるが、80年代初頭にライ・クーダーは日本のテレビCMに出演していて、当時まだ中学生になるかならないかといった年齢だった筆者は、ライ・クーダーをよく知らなくても、何となくそのシブい佇まいが非常に印象深かったことだけは覚えている。当時のCMイメージ・ソング”アクロス・ザ・ボーダーライン”や”ビッグ・シティ”は現在入手不可で残念だが、その音も何となくの感触だけは記憶にある(また80年代後期にもライはウィスキーのCM出演しており、このときは自らギターを抱えての出演だった)。

完全な後追い世代である自分のようなリスナーが、あとから遡ってみてみると、70年代にライ・クーダーが何と「進んだアプローチ」、「ヒップではないことのヒップさ」を展開していたかに驚かせられる。また同時代のロックからすれば異端であったライの音楽は、ともすれば学究的ともいえるアプローチのみに成り下がってしまってもおかしくなかったのだが、そうはならなかったことが興味深い。それを可能にしていたのは、ライ・クーダー自身が「音楽のキモ」といえる部分、ポップスとしての楽しさ、ストレートに音楽に没入できるという資質の部分、といった辺りを、一貫して捨て去らなかったたためではないかと思う。ただ最近の活動を見ていると、そうした資質をもっとポップス系のフィールドでソロ作として聴かせてくれはしないものか(もちろんギターをフィーチャーして)、とも思ってしまうのだった。これはファン自身もかなり諦めているところもあるかもしれないが、ぜひもう一度でいいからライ・クーダー本領発揮のポップ・アルバムを聴かせて欲しいところだと思う。

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