リヒャルト・シュトラウス・オペラ・ボックス(15CD)
フランスのディアパゾン誌がレコード会社と提携してリリースするシリーズの中でも特に注目されるのがこのリヒャルト・シュトラウスのオペラ・ボックス。7つのヴェールならぬ7つのオペラをとりあげていますが、登場する音源は、高水準な演奏や、作曲者ゆかりの歴史的な意義があったりするものばかり。
『影のない女』初のステレオ収録となったベーム&ウィーン・フィルによるデッカ録音に、シュトラウスと親しかったクレメンス・クラウスの『サロメ』のデッカ録音、シュトラウスの誕生日記念公演をベームが指揮した『ナクソス島のアリアドネ』ライヴに、シュトラウスも認めていたデラ・カーザの歌ったカラヤンのもうひとつの『ばらの騎士』ライヴ、そしてミュンヘンのナショナルテアター再建記念公演をカイルベルトが指揮した『アラベラ』ライヴなど、どれもシュトラウス好きには気になるものばかり。(HMV)
【収録情報】
リヒャルト・シュトラウス[1864-1949]
Disc1-2
● 『サロメ』全曲
クリステル・ゴルツ(サロメ)
ハンス・ブラウン(ヨハナーン)
ユリウス・パツァーク(ヘロデ)
マルガレータ・ケニー(ヘロディアス)
アントン・デルモータ(ナラボート)
エルゼ・シュルホフ(ヘロディアスの小姓)、他
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
クレメンス・クラウス(指揮)
録音:1954年3月15-21日、ウィーン(セッション)
クレメンス・クラウス[1893-1954]は、戦後、ウィーン・フィルやバイロイト音楽祭、ザルツブルク音楽祭のほか、バイエルン放送響、バンベルク響などに出演する多忙な生活を送っており、指揮活動のピークを迎えていました。クラウスは若い頃からリヒャルト・シュトラウスに信頼されており、『アラベラ』『平和の日』『ダナエの愛』『カプリッチョ』の初演も任され、『カプリッチョ』では台本も書くという親しい関係でもありました。この『サロメ』は、シュトラウス没後5年目、クラウス急死の2ヶ月前におこなわれたセッション・レコーディング。サロメ歌いとして高名なゴルツによる歌唱は妖しい官能を湛えた見事なもので、ウィーン・フィルの美しいサウンドとのコントラストも印象的。明快な起伏をもつ筋立てと心理描写、雄弁をきわめた管弦楽に、ドラマティックでありながら叙情的な要素も強いサロメ役と神秘的なヨハナーン役を核に一気に聴かせます。
【ゴルツ・プロフィール】
クリステル・ゴルツは、1912年7月8日、ドイツのドルトムントに生まれ、ミュンヘンでオルネッリ・レープに声楽とバレエを学び、さらにヒンデミットの弟子で後に彼女の夫ともなるテオドール・シェンクに師事しています。
最初の舞台はフュルト市立劇場での合唱歌手兼踊り手というもので、続いて『魔弾の射手』のアガーテ役や『ばらの騎士』のオクタヴィアン役、『マイスタージンガー』のエヴァ役、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のサントゥッツァ役などをこなし、プラウエン市立劇場に移って出演しているところをカール・ベームに見出され、1941年、ベームが音楽監督を務めていたザクセン(ソレスデン)国立歌劇場の『オベロン』のレチア役でソロ歌手としてデビューすることとなります。ドレスデンを拠点に過ごした彼女はやがてベルリン国立歌劇場に移り、そして1951年にはウィーン国立歌劇場のメンバーとなります。
ここで大きな成功を収めた彼女は、ミラノ、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ザルツブルク、ローマ、ブイリュッセルなどの舞台にも出演して国際的に活躍、1950年代を代表するドイツのドラマティック・ソプラノとして ゆるぎない名声を確立します。
現代作品にも出演するなど研究熱心で努力家であった彼女は、100以上のレパートリーを持っており、ウィーン国立歌劇場での出演だけに限ってもその役柄は28に達し、実に430の公演に出演していたほど。中でも特に評価の高かったのは、その強力な声と演技力を生かした、リヒャルト・シュトラウスのサロメ、エレクトラ、染物師の妻、ベルク『ヴォツェック』のマリー、ヤナーチェクのイェヌーファ、ベートーヴェンのフィデリオ、プッチーニのトゥーランドット、オルフのアンティゴネといった諸役でした。
実際の舞台で忙殺されていたためか、レコーディングにはあまり恵まれませんでしたが、それでも残された録音から彼女の素晴らしい歌唱を偲ぶことは出来ます。
ベームとの『影の無い女』の見事なセッション録音と
ライヴ録音、
カイルベルトとの『サロメ』、
スイトナーとの『サロメ』、
ミトロプーロスとの『サロメ』、
ベームとの『エレクトラ』、
カイルベルトとの『アラベラ』など大物指揮者たちとの共演多数です。
Disc2-3
● 『エレクトラ』全曲
インゲ・ボルク(エレクトラ)
リーザ・デラ・カーザ(クリュソテミス)
ジーン・マデイラ(クリュテムネストラ)
クルト・ベーメ(オレスト)
マックス・ロレンツ(エギスト)
アロイス・ペルネルシュトルファー(オレストの老僕)、他
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ディミトリ・ミトロプーロス(指揮)
録音:1957年8月7日、ザルツブルク(モノラル/ライヴ)
ギリシャの詩人ソフォクレスの原作を、ホフマンスタールと40代なかばのシュトラウスが壮絶な復讐オペラに仕立てた『エレクトラ』を得意としたミトロプーロスによる緊迫演奏。不幸な身の上ゆえに尋常ではない存在となったエレクトラ役を劇的に歌い上げるインゲ・ボルクの歌唱も素晴らしく、これにミトロプーロス率いるウィーン・フィルの強烈なサウンドが重なって息苦しいまでの緊張感を生み出しています。指揮台での動きが非常に激しく、ときにかなりの高さまでジャンプすることがあったことから、「エアボーン・マエストロ」とも呼ばれていたミトロプーロス[1896-1960]は、表現力豊かな指揮ぶりと共に、驚異的な記憶力の持ち主としても知られており、それゆえか手間のかかる作品や初演物の依頼が多く、特にマーラーや声楽大作、オペラの多いことでは、戦後の欧米楽壇で際立って目立つ存在でもありました。一方でミトロプーロスは、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番やクレネクのピアノ協奏曲を弾き振り(!)するなどピアノの腕前もソリスト級、しかも自ら作曲もおこなうという多芸多才な人物で、その個性の強さにはすごいものがありました。
Disc4-6
● 『ばらの騎士』全曲
リーザ・デラ・カーザ(元帥夫人)
セーナ・ユリナッチ(オクタヴィアン)
ヒルデ・ギューデン(ゾフィー)
オットー・エーデルマン(オックス男爵)
エーリヒ・クンツ(ファニナル)
ヒルデ・レッセル=マイダン(アンニーナ)、他
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
録音:1960年7月26日、ザルツブルク(モノラル/ライヴ)
シュトラウス本人からもその実力を認められていたデラ・カーザは、1960年のザルツブルク音楽祭でも『ばらの騎士』の舞台で大きな成功を収めていました。セッション録音や映画制作では、実権を握っていたウォルター・レッグの布陣となっていたシュワルツコップが歌うことになってしまいましたが、幸いなことに、ザルツブルク音楽祭の舞台上演がオーストリア放送によって収録されていたため、モノラルとはいえ聴きやすい音質で、デラ・カーザ、ユリナッチ、ギューデン、エーデルマン、クンツ、カラヤン&ウィーン・フィルによる素晴らしい演奏を楽しむことが出来ます。
【デラ・カーザ・プロフィール】
1919年2月2日、スイスのベルンに、イタリア系スイス人の父とバイエル人の母の間に誕生。15歳でチューリヒ音楽院に入学してマルガレーテ・ヘーザーに師事して歌を学び、21歳で地方劇場で蝶々夫人を歌ってデビュー。1943年からはチューリヒ市立劇場に出演するようになり、1946年にはリヒャルト・シュトラウスの大のお気に入りだったソプラノ歌手マリア・チェボターリ[1910-1949]の『アラベラ』にズデンカ役で出演して彼女から高く評価され、翌1947年のザルツブルク音楽祭出演への道が開けることとなりました。そのザルツブルクでは同じく『アラベラ』でズデンカ役を歌い、今度はリヒャルト・シュトラウス本人からその実力を認められることとなるのです。
その成功により同年、ウィーン国立歌劇場にもリゴレットのジルダ役でデビューし、すぐにウィーンに移ってウィーン国立歌劇場と契約、モーツァルトやR.シュトラウスのオペラなどで活躍して名を上げ、1949年には『ばらの騎士』のゾフィー役でスカラ座デビューも果たし、スカラ座の音楽監督だったデ・サバタからスカラ座に移るよう請われるものの、デラ・カーザはウィーンに残る道を選びます。
その後、『フィガロの結婚』の伯爵夫人役でグラインドボーン音楽祭にデビューし、1951年にはバイエルン国立歌劇場で初のアラベラ役に挑んで成功、1952年にはバイロイトで『マイスタージンガー』のエヴァ役に出演し、1953年には『フィガロの結婚』の伯爵夫人役でメトロポリタン歌劇場にデビュー、1954年にはフルトヴェングラーの映画版『ドン・ジョヴァンニ』にドンナ・エルヴィラ役で出演するなど、多くの役柄で成功を収めていきました。
1960年のザルツブルク音楽祭でも『ばらの騎士』の舞台で大きな成功を収めていますが、並行して制作された映画版『ばらの騎士』への出演契約はウォルター・レッグらの画策によって一方的に破棄されてしまい、彼女の心に深い傷を与えてしまったようです。しかしそれ以後も、彼女はオペラ出演や歌曲リサイタルに熱心に取り組み、1974年、ウィーン国立歌劇場でアラベラ役を歌った年に、娘の重病のために引退することを発表、34年に及ぶ舞台活動に幕を引くこととなります。
Disc7-8
● 『ナクソス島のアリアドネ』全曲
マリア・ライニング(アリアドネ)
マックス・ローレンツ(バッカス)
エーリヒ・クンツ(ハーレクイン)
パウル・シェフラー(音楽教師)
イルムガルト・ゼーフリート(作曲家)
アルダ・ノーニ(ツェルビネッタ)、他
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
カール・ベーム(指揮)
録音:1944年6月11日、ウィーン(モノラル/ライヴ)
オペラ制作過程のドタバタと、出来上がったオペラを劇中劇で再現するという二重構造を持つユニークな作品。「小編成オーケストラの伴奏と、大人数のキャストによる劇中劇を含むオペラ」という特殊な条件のこの作品には、表現力の豊かさが不可欠。リヒャルト・シュトラウス80歳の誕生日を祝う記念公演でもあったこの『ナクソス島のアリアドネ』では、前年にウィーン・デビューしたばかりの24歳のゼーフリートによる作曲家役や、クリップスの推薦で起用したアルダ・ノーニのツェルビネッタ役、元帥夫人でおなじみだったライニングによるアリアドネ役のほか、バッカスにローレンツ、ハーレクインにクンツ、音楽教師にシェフラーという実に豪華なキャストが登場します。
Disc9-11
● 『影のない女』全曲
ハンス・ホップ(皇帝)
レオニー・リザネク(皇后)
エリーザベト・ヘンゲン(乳母)
パウル・シェフラー(バラク)
クリステル・ゴルツ(その妻)
クルト・ベーメ(霊界の使者)、他
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
カール・ベーム(指揮)
録音:1955年12月、ウィーン(ステレオ/セッション)
『バラの騎士』が『フィガロの結婚』に範をとったと言われるのと同じく、『影のない女』は、やはりモーツァルトの『魔笛』から多大な影響を受けたとされています。それはたとえば『魔笛』と同じく現実離れしたメルヘンの世界を題材としていることや、「象徴」の手法が多用されている点にもみてとれますが、このオペラは、ホーフマンスタールの台本がたいへんな力作ということもあって、より複雑で繊細な味わいに富みながらも、全体のスケールはきわめて大きなものとなっているのが特徴。ちなみにホーフマンスタールは、1915年に完成された台本版のほか、4年後には小説版まで書きあげ、作品への深い愛着を示してもいました。作曲時期は1914年から1917年、第一次世界大戦のさなかということもあってか、かえってこの作品に集中的に取り組むことが出来たようで、ホーフマンスタールとの数多い書簡のやりとりからもそのことはよく伝わってきます。数多い登場人物の描き分けの巧みさ、オーケストレーションの見事さもまさにシュトラウスの絶頂期を示すものと言え、その作曲技法の熟達ぶりは、ホーフマンスタールとの一連の共同作業から生まれた傑作群(『エレクトラ』『バラの騎士』『ナクソス島のアリアドネ』『影のない女』『エジプトのヘレナ』『アラベラ』の6作品)の中にあってもまさに最高クラスの水準を示すものと言えます。
舞台設定は、架空の時代の東方のある国、というもので、体裁はまさにおとぎ話。カルロ・ゴッツィの諸作やゲーテのほか、世界各地の民話や伝説、『千夜一夜物語』などに取材しています。
台本作者のホーフマンスタール自身が述べているように、モーツァルトの『魔笛』を意識して書かれたため、ウィーンの民衆劇が定型としていた「皇帝&皇后」のペアに対し、コメディア・デラルテのペアが置かれる予定でしたが、実際にはそれはアラビアの影響を感じさせるキャラクターでもある「染物師バラク夫妻」に変更され、猥雑さや滑稽さよりも家族愛・人類愛の表現にシフトしたものとなっています。もちろん、本来のコメディア・デラルテのペアが持っていた騒々しさが無くなったわけではなく、その役割はここでは、バラクの兄弟たちによって実現されています。
このオペラの数多い登場人物中で、唯一名前があるのがこのバラクというのも何やら象徴的ですが(カイコバートは実際には登場しませんので)、これに女性版メフィストフェレスともいうべき魔法使いの「乳母」が絡んで、女性版ファウストのような「皇后」と「バラクの妻」の価値観の変質を描いてゆきます。
演奏にあたっては大編成のオーケストラを要し、透明で室内楽的なサウンドから管弦楽曲的な巨大音響まで含むという表現の幅の広さは、オーケストレーションの達人であるシュトラウスとしてもかなり高度なもので、スコアが完璧に再現された際のオーケストラ・サウンドの雄弁さには凄いものがあります。
この作品初のセッション録音となったベーム指揮ウィーン・フィルによる演奏は、ウィーン国立歌劇場再建記念公演の一環としておこなわれた上演の直後に、デッカによってムジークフェラインザールでセッションを組んでレコーディングされたもので、準備万端の演奏者たちを率いるベームの指揮にもまったく隙がありません。複雑膨大な作品情報を余すところなく表現した立派なこの演奏は、ステレオ最初期の録音ながら聴きやすい音質もあって、往年の名歌手たちによる演奏を快適に楽しむことが出来ます。
Disc12-13
● 『アラベラ』全曲
リーザ・デラ・カーザ(アラベラ)
アンネリーゼ・ローテンベルガー(ズデンカ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(マンドリーカ)
オットー・エーデルマン(ヴァルトナー伯爵)
イーラ・マラニウク(アデライーデ)、他
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヨゼフ・カイルベルト(指揮)
録音:1958年7月29日、ザルツブルク(ステレオ/ライヴ)
昔から有名なカイルベルトの『アラベラ』。ミュンヘンのナショナルテアター再建記念公演のライヴとあって、骨太なカイルベルトの音楽作りに豊かな感興が加わった演奏は、記念公演ならでは名演と以前から評価の高かったものです。キャストも「最高のアラベラ」と評されたデラ・カーザの可憐であでやかな名唱をはじめ、フィッシャー=ディースカウ、ローテンベルガー、マラウニクと名手が揃って充実しています。
【カイルベルト・プロフィール】
1908年4月19日に南ドイツのカールスルーエで生まれました。父親はカールスルーエのバーデン公国宮廷楽団のチェロ奏者、祖父もミュンヘンの軍楽隊員という音楽家の家系でした。
1925年、カールスルーエ国立劇場(現バーデン州立劇場)の練習指揮者としてキャリアをスタート、1933年に第1指揮者に昇格します。
1940年、フルトヴェングラーの推挙により、プラハで創設されたドイツ・フィルハーモニー管弦楽団(バンベルク交響楽団の前身)の指揮者として転出、1945年にはドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任しています。
1949年(または1950年)、第2次大戦後にチェコスロヴァキアを脱出したドイツ・フィルの団員を主体として結成されたバンベルク交響楽団の首席指揮者に就任します。
1951年、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の客演指揮者に就任、1952年にはバイロイト音楽祭に招かれ、1956年まで主要な指揮者として活躍します。ザルツブルク音楽祭への出演もこの頃で、同年同月生まれのカラヤンと親交を結んでもいます。
1959年、バイエルン国立歌劇場の音楽総監督に就任、伝統的なドイツ音楽を主要なレパートリーとし、ワーグナー、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス、プフィッツナーなどに辣腕をふるって、1960年代のドイツを代表する指揮者として活躍しました。
日本へは1965年と1966年、1968年に来日、NHK交響楽団に客演して、この楽団から名誉指揮者の称号を贈られています。また、1968年にはバンベルク交響楽団とのコンビでもも来日公演をおこないました。
1968年7月20日、バイエルン国立歌劇場において『トリスタンとイゾルデ』を指揮中に心臓発作をおこして急死、60歳という指揮者としては早すぎる最期でした。
Disc14-15
● 『カプリッチョ』全曲
伯爵夫人マドレーヌ(若き未亡人):エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
伯爵(マドレーヌの兄):エーベルハルト・ヴェヒター(バリトン)
作曲家フラマン:ニコライ・ゲッダ(テノール)
詩人オリヴィエ:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
劇場支配人ラ・ローシュ:ハンス・ホッター(バリトン)
女優クローレン:クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
3人の舞台上の音楽家:
マヌーグ・パリキアン(ヴァイオリン)、レイモンド・クラーク(チェロ)
レイモンド・レッパード(ハープシコード)、他
フィルハーモニア管弦楽団
ヴォルフガング・サヴァリッシュ(指揮)
録音:1957年9月、1958年3月(モノラル/セッション)
単独でもよく演奏される、美しい“伯爵令嬢のモノローグ”と、“月の光の音楽”で知られるシュトラウス晩年の名作。詩と音楽についての論争を背景に、あくまで知的に構築される室内劇の魅力はシュトラウスならではのものであり、歌曲や室内楽への接近が、オペラ芸術の奥深さを実感させないではおきません。 当アルバムの演奏は、シュワルツコップ、ヴェヒター、ゲッダ、F=ディースカウ、ホッター、ルートヴィヒという非常に豪華なキャストによるもので、モノラルながらクリアな音質もあって感銘深い仕上がりです。
【サヴァリッシュ・プロフィール】
ヴォルフガング・サヴァリッシュは1923年8月26日ミュンヘンの生まれ。幼い頃からピアノを始め、作曲と理論も同地で学び、さらに指揮についてハンス・ロスバウトに教えを受けていました。しかし第二次世界大戦に通信兵として出征したため学業が中断、戦後、復学し卒業したのち、アウクスブルク歌劇場の練習指揮者の職を得、そこで『ヘンゼルとグレーテル』の指揮をする機会に恵まれ、その指揮が高く評価されて第一指揮者に任命されます。
サヴァリッシュはピアノ演奏にも長けており、1949年に開かれたジュネーヴ国際コンクールの二重奏部門では、ヴァイオリニストのザイツと組んで首位を獲得するなど、室内楽ピアニストとしても高い能力を示してもいました。
その後、サヴァリッシュは次第に声望を高め、1953年にはアーヘンの歌劇場の音楽総監督となり、任期中の1957年にはバイロイト音楽祭へ『トリスタンとイゾルデ』で初出演を果たしています。また、同じ1957年にはフィルハーモニア管弦楽団を指揮してロンドン・デビューする一方、ピアニストとしてもシュワルツコップの伴奏でリサイタルに出演するなど多方面で活躍していました。
そして1958年にはヴィースバーデンの歌劇場の音楽総監督、1960年にはケルンの歌劇場の音楽総監督となり、同年にはウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1961年にはハンブルク・フィルの首席指揮者、1970年にはスイス・ロマンド管弦楽団首席指揮者も務めるという人気ぶりでした。
さらに1971年、バイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任し、1982年には音楽総監督に任命され1992年まで同劇場の水準向上に貢献、1992年にはフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任、79歳を迎える2002年まで指揮します。
以後はフリーランスとして各地で指揮をおこなっていましたが、心臓病のため2006年に引退、7年後の2013年2月22日、グラッサウの自宅で亡くなっています。
その間、1964年にはNHK交響楽団に初めて客演、以後、数多く来日して人気を博し、名誉指揮者を経て1994年からは桂冠名誉指揮者となり、通算40年に渡って同楽団に深く貢献していました。