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100人の偉大なアーティスト - No.6

2006年12月16日 (土)

ジミ・ヘンドリックスは1942年11月27日、米ワシントン州シアトルに生まれた。インディアンの血をひく母親は、ジミが10歳の時にアルコール中毒で亡くなった。ジミがエレクトリック・ギターを初めて手にしたのは12歳の時。その頃聴いていたのはB・B・キングエルモア・ジェイムスなどブルースのミュージシャンだったという。1960年、15歳の頃ナッシュヴィルのアマチュア・バンド、カジュアルに参加。のち17歳でハイスクールを中退した彼は庭師の父親の仕事の手伝いなどをしていたが、1963年になると軍隊に入る。所属は第101空挺部隊と呼ばれるところで、後にバンド・オブ・ジプシーズを結成することになるビリー・コックスとここで知り合いバンド活動を始めるが、パラシュートの落下で負傷したジミは1964年には除隊した。

序隊後ナッシュヴィルを起点にプロフェッショナルなギタリストとして働き始めたジミはソウル系のミュージシャンのバックの仕事を多くこなした。1964年から1966年にかけて渡り歩いたバンドは――ウィルソン・ピケットリトル・リチャードサム・クックチャック・ブラウンジャッキー・ウィルソンジョニー・ハモンドのバンドなど――40以上になると言われている。そのうちアイズレー・ブラザーズリトル・リチャード、カーティス・ナイト、 ロニー・ヤングブラッドとの仕事はレコードとして残された。

1966年、ジミは自分のバンド、ジミ・ジェイムズ&ザ・ブルー・フレイムスを作る。グリニッチ・ヴィレッジの幾つかのクラブで演奏する。この当時から右利きながら左手でギターを弾き、背中回しや歯弾きなどトリッキーなプレイを見せていたようで、また音自体も当時としてはとてつもなくデカい音で演奏していたらしい。そのうちに、クレイジーな奴が居ると評判になったジミのステージを、 アニマルズローリング・ストーンズのメンバーも見にやってきたという。特に元アニマルズのチャス・チャンドラーはジミに強い関心を寄せた。

ブルー・フレイムスが解散した後、ジミはチャス・チャンドラーの誘いでイギリスに渡ることになった。そしてノエル・レディング(b)、ミッチ・ミッチェル(ds)と共にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスが結成され、その4日後にはパリのオリンピア劇場でジョニー・アリティの前座を務める。その後イギリスに帰国したエクスペリエンスは、ニュー・ アニマルズと共にツアーを行った。またイギリスの人気音楽TV番組「レディ・ステディ・ゴー!」に出演したのもこの頃で、そのギターと存在感でイギリスのロック・ファンを驚かせたといわれる。

翌1967年に入ると、エクスペリエンスはクラブ・マーキーをはじめとしてロンドン中のクラブに出演しまくって、より注目を集めるようになっていった。そしてレコード・デビュー。1stシングルの “ヘイ・ジョー(Hey, Joe)” と2ndシングルの “紫の煙(Purple Haze)” が立て続けにヒットした彼らは、ヨーロッパ諸国を廻るツアーに入る。5月には1stアルバム アー・ユー・エクスペリエンス(Are You Experienced?) をリリース。好セールスを記録した。

1967年春、アメリカに戻ったジミは、6月に モンタレー・ポップ・フェスティヴァル の最終日18日に出演し、アメリカでの人気に火を点けた。有名なエピソードだが、この日ザ・フーと演奏順でもめたジミとザ・フーはそれをコインで決着。コイン投げの結果はジミの敗北。 ザ・フーがギターを叩き壊し、ドラムスをひっくり返した後に登場したジミは、 ザ・フーを凌駕するような凄まじいステージを見せた。ギターとのセックスを模して、火を点けて燃やしてしまうシーンはあまりにも有名だ。

1967年7月からはモンキーズの前座としてアメリカをツアーして廻り、以降はアメリカとヨーロッパを往復する日々が続いた。11月に2ndアルバム アクシス:ボールド・アズ・ラヴ(Axis: Bold As Love) をリリース。このアルバムは前作に比べても格段のサイケデリック感を感じさせるもので、冒頭から音がパンニングされるさまは3次元サウンドなどとも呼ばれた。

1968年にアルバム未収録のシングルを集めた スマッシュ・ヒッツ(Smash Hits) をリリースしたジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはイギリスに戻り、次作の制作準備に入る。その間に “見張り搭からずっと(All Along The Watchtower)” がスマッシュ・ヒットを記録。これはジミのヴォーカル・スタイルに影響を与えたボブ・ディランの曲だった。夏にはNYのエレクトリック・スタジオで エレクトリック・レディ・ランド(Electric Ladyland) を録音。アル・クーパースティーヴ・ウィンウッド、クリス・ウッド、ジャック・キャサディ、フレディ・スミス、バディ・マイルスなども参加したこの作品は2枚組アルバムとなった。リリースされたオリジナル3rdアルバム エレクトリック・レディ・ランド(Electric Ladyland) は発表と同時にチャートを駆け上がり、ビルボード誌のアルバム部門でトップを獲得した。

翌1969年1月にジミ・ヘンドリックスバディ・マイルスの2ndアルバムのプロデュースを何曲か手掛け、2月にはトラフィックソフト・マシーンを前座に ロイヤル・アルバート・ホール のステージに立っている。またこの頃NYのレコード・プラント・スタジオでラリー・リー、ジム・マッカーティ、ビリー・コックス、ミッチ・ミッチェルなどと行ったジャム・セッションは、後に ナイン・トゥ・ザ・ユニヴァース Nine To The Universe に収められた。

エクスペリエンスは1969年のツアー中に崩壊した。新しいグループ、ファット・マットネスを結成したノエル・レディングの代わりに、ビリー・コックスが加わったバンドは8月17日の「ウッドストック・アート&ミュージック・フェア」に参加した。この時の演奏は、映画 ウッドストック(Woodstock) や、 ボックスセットはじめ 各種CDなどで一部見聴き出来るが、現在ではリマスター映像/音源で処理された ジミのステージ映像、 ライヴ・アット・ウッドストック(Live At Woodstock)のCD ヴィデオ DVD などで楽しむことが出来る。

1969年12月、ジミはバディ・マイルス(ds)、ビリー・コックス(b)を加えたニュー・グループ、バンド・オブ・ジプシーズのメンバーで、NYのフィルモア・イーストに出演。大晦日から元旦にかけてのこのバンド・オブ・ジプシーズのデビュー・ステージは バンド・オブ・ジプシーズ という作品となったが、ウッドストックでの演奏などと同じく、こちらも最近ではリマスター音源で纏められた ライヴ・アット・フィルモア・イースト(Live At Filmore East) で聴く事ができる。なお、ここでタイトなサウンドを持ち、目指す音楽性をサポートし得るリズム・セクションを得たジミだったが、かつての愛着も断ち難かったのか、ビリー・コックスとミッチ・ミッチェルの顔ぶれによるエクスペリエンスも再結成して気まぐれなコンサート活動も行っていた。

1970年8月、ジミは再編エクスペリエンスのメンバーで、 ワイト島フェスティヴァル の最終日30日に出演した。その後9月6日には西ドイツのポップ・フェスティヴァルに出演。1995年になって初めてドキュメンタリー映画化されたこの時のステージが最後の公式コンサートとなってしまった。

1970年9月18日、ロンドンのサマルカンド・ホテルで昏睡状態のジミが発見された。ジミは病院へ運ばれる途中、救急車の中で息をひきとった。直接の死因は睡眠薬の多量摂取による呼吸困難と診断されている。24歳での余りにも若すぎる死だった。その2日前にはエリック・バードン&ジ・ウォーと競演し、最後に “タバコロード” を演奏したと言う。ジミの遺体は故郷のワシントン州に埋葬された。

ジミの死後もさまざまなアルバム、作品が発表されている。LP時代には貴重なスタジオ・テイクを集めた クライ・オブ・ラヴ(Cry Of Love) などがその代表格だった。また近年では旧作が、発見の多いリマスター盤にてリリースされたり、未発表テープからの音源が ブルーズ(Blues) 、 ヴードゥ・スープ(Voodoo Soup) 、 ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン(First Rays Of The New Rising Sun) といった形で発表されたり、 BBCライヴ (BBC Sessions) や、先にも触れた ライヴ・アット・フィルモア・イースト(Live At Filmore East) ライヴ・アット・ウッドストック(Live At Woodstock) といった決定番ライヴ・リマスターCDなどがリリースされ、以前よりも整理された形でジミの遺した偉大な音源が聴けることになった。

ジミ・ヘンドリックスは、60年代後半にロックのエレクトリック・ギター演奏における大変革をあらゆる面でもたらした。独自の音響を得るために数多くのエフェクター類を試したというジミだが、ここでその例を幾つか挙げよう。多くのスタジオ・エフェクトのほかに、よく知られたヴォックスのワウワウ・ペダルをはじめ、ダラス・アービター・ファズ・フェイス、メイヤー・オクタヴィア、レスリー・スピーカーなどなど。60年代末に存在したほぼ全てのエフェクター類に手を出していたとも言われるジミ・ヘンドリックスは、頭の中で鳴る音楽、あるいはサイケデリック的な意識下の音をこうした当時の最新技術で増幅しようとしたのかもしれない。また補足すると、ギター自体のほうは、右利き用のフェンダー・ストラトキャスターに逆さに弦を張り、左利き用として使用しており(ままギブソン・レス・ポールやフライングVを使用したこともあった)、アンプは大抵の場合、マーシャルの100ワット・スタックを愛用していた。大音響を可能にする大出力のアンプとエフェクターを駆使し、音響における未知の可能性を追求したジミは、今でこそロック・ミュージックにおいては当たり前な感じさえする、こうしたサウンド上の試みを追求し、後世に大きな影響を与えることになったのだ。

上記のようなエフェクト、アンプといった要素のほかに、当たり前のようだが後世にジミ・ヘンドリックスが与えた大きな影響として、その演奏テクニックが挙げられる。ジミがシーンに登場した1967年頃、トレモロ・バーはロックンロール演奏において目新しい小道具ではなかった。だがそれを操るジミ・ヘンドリックスの手捌きが何といっても斬新だったのだ。彼以前には、基本的に音符やコードを揺らし微妙にヴィブラート効果を得る、といったあくまで味付け程度だったこの装置を、ジミは強力なフィードバックと組み合わせつつ、ある音やコードのピッチを極端に落とすなどの暴力的なサウンドを得たり、あるいは爆撃、爆発音を真似るためのものとして扱った。またジミはその他にも、ピックや指をギター弦上で滑らせ、物を磨り潰すようなノイズを出したり、ギター本体を叩きつけてより大きなフィードバックを得たり、といったようなアクロバティックだがその後のロック・サウンドに大きな影響を与えた奏法(?)を駆使した。「もし」とか「たら」「れば」、という話はこうした場合には無効かもしれないが、それでもやはりジミ・ヘンドリックスがいなかったとしたら、60年代後半以降、現在までのロック・ギターの行方は少し違っていたのかもしれない、と思わずにいられない。

最後に彼のステージ上でのパフォーマンスにも多少触れねばならないだろう。あの、これ見よがしに頭の後ろにギターを回し、肩の上辺りでギターを弾くパフォーマンス、あるいは歯や舌を使ってリードギターを弾く、といったアクションは、おそらくかつての黒人R&Bミュージシャンやショウのパフォーマーたちがステージ上で行っていた「見世物」的な要素からきているのだろう。こうした悪ふざけともいえるパフォーマンスは、初めこそ人の注意を惹くに充分な要素だったが、晩年のジミ自身が、ピエロになるのは沢山だ、とインタビューで答えていたように、最終的にはマイナス・イメージの要素となっていったのだった。

その短いキャリアの中でロック・ミュージックにおけるギタープレイの革命を起こしたジミ・ヘンドリックスは、現在もなお「伝説」として語り継がれている。またジミは、イノヴェイティヴな音楽を遺した業績は勿論のこと、そのどこか音楽の殉教者といえるような悲劇的な佇まいから、ひょっとしたらロック史において最も「天才」という言葉が似合うアーティストと言えるかもしれない。

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