トップ > 音楽CD・DVD > ニュース > 100人の偉大なアーティスト - No. 50

100人の偉大なアーティスト - No. 50

2006年9月23日 (土)

 エドワード・ケネディ・エリントンは、1899年4月29日、昭和天皇に2歳先んじてワシントンD.C.に生まれている。ホワイトハウスの黒人執事だったという黒人上層階級に属するエりントンの家庭環境は、“Duke”というあだ名が示しているような雰囲気を持っていたのだろう。

 デュークは、7歳でピアノをはじめ10代に入ると作曲に取り組んでいる。そして、ほかの多くのミュージシャンと同じ、18歳で音楽を目指して学校を辞めている。ワシントンD.C.周辺で演奏を続けていたデュークは1923年、ニューヨークを目指して上京。当時、「ハリウッド・クラブ」と呼ばれたジャズクラブを根城に演奏を始めている。

 1927年、「コットンクラブ」と契約を結び、安定した状況でバンドの音楽的な進化を進めていった。1931年2月にはここを辞して、死ぬまで続くことになるバンドツアーへと歩みを進めている。恐慌期を乗り切ったデュークは順調にバンドの発展を続け、アイヴィー・アンダーソンをフィーチャーしたテーマ曲“スイングしなけりゃ意味ないね”のヒットを飛ばす。長年の盟友であり、優れた作曲家、そして、デュークの最大の理解者であるBilly Strayhorに続き、不世出の天才ベース、Jimmy Blanton、テナーの最初のスター、Ben Websterが続いて入団。ここにデューク・エリントン楽団は最初のピークを迎えた。

 Cootie Williams、Johnny Hodges、Harry Carney、ら綺羅星のようなメンバーが揃って1940年代にはデュークの理想のバンドが完成する。

 しかし、戦争が終わり「スイングの時代」が終焉、ビッグバンドは、経営難に陥っていった。

 そして、1956年、ニューポート・ジャズフェスティバルに現れたデュークは、モダンに進化したエリントン・サウンドで観客を魅了した。その後、60年代は『Anatomy of a Murder』『Paris Blues』といった映画音楽や、 Frank Sinara との共演作品、さらに世界各国をツアーをしながら作った『極東組曲』といったアルバムによってエリントン・サウンドの表現領域を拡大していった。

 そうした中、英国のエリザベス女王に捧げられ、後に『Ellington Suite』としてリリースされたのが『Royal Suite』だった。1973年1月8日に録音された、Joe Pass、 Ray Brown、 Louis Bellsonとの『Duke's Big Four』は最後期のエリントンの姿を捉えた作品。

 こうして50年にわたってジャズ界を引っ張ってきた偉大なる存在、Edward Kennedy Ellingtonは、1974年5月24日、ニューヨークで永眠した。

 その影響は、ジャズ界をはるかに超えてすべての音楽ジャンル、そして、アルヴィン・エイリーをはじめ多くの舞踏団、さらにクラシック界にも及ぶ。

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

top 100 most influential artists The List So Far....