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2006年8月8日 (火)

連載 許光俊の言いたい放題 第60回

「困ったCD」

 驚きは突然訪れるものである。
 ある晩のこと。遅い夕食をすませ、出さねばならないメイルを書き終わった私は、楽しみにしていた川口浩探検隊のDVDを見るつもりだった。地底探検ばかりで3枚組。特典で真っ赤な探検隊のユニフォームが付いている。
 そのとき、机の上に何気なく置いてあったサンプル盤が目に入った。モーツァルト交響曲全集。
 アリゴーニ? トリノのイタリア・フィル? 知らない演奏家だ。たぶん私のあまり好きでない古楽器演奏だろう。最近はイタリアでも古楽器が盛んみたいだからな。けれど、川口浩を見る前にちょっとばかり聴いてみるか、そうだな、40番の頭でも。
 が、それは私の予想に反して、あのジュリーニもびっくりの遅いテンポで始まったのである。
 これは・・・私はしばし言葉を探した。
 別世界の匂いがする。私は中学生のころ、この曲を、いやモーツァルトを聴くと、自分が知らないどこか別世界を眺めているような気がした。それがたまらなくて、毎日モーツァルトばかり聴いていた時期があった。そんなことをほとんど30年ぶりに思い出させられた。
 美しい。とても美しい。弦楽器がたっぷり歌っている。響きが柔らかい。しばし聴き惚れた。
 が、ふと我に返った。今私の耳が喜んでいるのは、演奏が極上だからなのか?
 どうやら違うらしい。演奏が最高にすばらしいというわけじゃない。オーケストラの質は十分だが、超絶的なわけではない。イタリアならではの演奏流儀で、隅から隅まで完璧に仕上がっているわけではない。そりゃ、合奏の精度は昔とは比べものにならないけれど、今日的水準からすればおおざっぱな部分も散見される。
 それなのに妙に心そそる。私はせっかく買い込んできた川口浩を放りっぱなしにして、この全集をとっかえひっかえ聴いてみた。
 「ジュピター」のフィナーレ。それぞれの楽器がいちいち美しい。音が下降するだけで、どうしてこんなにきれいに聞こえるのか? これは指揮者の腕なのか? まさか。
 もしかして、と第29番も聴いた。案の定、甘美な響きで夢見るように演奏している。第25番は、ヴィヴァルディの短調みたいな感じ。
 一番困る恋は、つまらない女に対する恋である。超絶的美人や蜜も滴るセクシーな女に恋をするなら、当たり前。こんな恋は不思議でも何でもない。だが、特に何か抜きん出ているとも思えない女への恋はたちが悪い。「あの女には、こういう欠点がある、ああいう欠点もある」、そう数え上げることができるのに、心ひかれる。どうして心ひかれるかもわからない。このCDを聴きながら、そんなことを考えた。
 この演奏は、私にとっては謎である。ずば抜けた演奏とも思えないのに、モーツァルトがとんでもない傑作を書いたことがものすごくよくわかる。この指揮者はとりたててどうこう言うような人ではなさそうだ。にもかかわらず、もしかしたら他の誰の演奏よりも、作曲者の天才を痛感するかもしれない。いったい、なぜだ?
 ものすごく不思議だ。単に弦楽器が刻むだけのところ。パリ管みたいに、ちっぽけなところを信じられなく美しく、洗練のきわみで演奏してみせるなんてことは、全然ない。なのに、なんてきれいな音楽なのだろうと思わせる。無駄な音がないと思わせる。
 おそらく、この演奏は、意識するともなく、モーツァルトの音楽のある急所を押さえてしまっているのだろう。

 誤解のないように言っておくと、このCDの演奏は、たとえばチェリビダッケやヴァントの上出来の演奏のように「なんて立派な仕事をしているんだろう!」と感心させるような演奏ではないにしても、日本やアメリカのオーケストラより根本的にずっとよい。つまり、ちゃんと歌えるし、和音や調性によって響きが変わるという基本がきちんとしている。だから、演奏にふくらみがある。陰影がある。どこもかしこも杓子定規にきっちりしているだけという味気なさとは無縁だ。どの曲もテンポは遅いが、その遅さがクレンペラーのような無機質的建築志向に行かない。
 もしかしたら、細かなことを気にしてこうした演奏を立派だと褒められない私や、あるいは現代という時代がおかしいのかもしれない。はっきりしていることは、私はこの演奏を聴いていると、ささいな不都合が全然気にならない。そんなことでは揺るがない大きな音楽の懐にいるような気がする。音楽そのものの美しさに面と向かっているような気がする。
 音楽マスコミやおっちょこちょいの評論家たちが、一部の演奏家やレコード会社の思惑に乗っかって、古楽器でなければもはやまともな古典派演奏ではないような風潮を作り出した。それはおかしい。このようなモーツァルトが今も生き延びていることを言祝ぐべきだろう。
 自分の耳がもしかしておかしいのかと日を変えて何度も聴き直した。その結果、言い切ることができる。やっぱりこの演奏は美しいのだ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


⇒評論家エッセイ情報
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交響曲全集(46曲) アレッサンドロ・アリゴーニ&オルケストラ・フィラルモニカ・イタリアーナ(10CD)

CD 輸入盤

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モーツァルト(1756-1791)

ユーザー評価 : 4点 (76件のレビュー) ★★★★☆

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発売日:2004年10月14日
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