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100人の偉大なアーティスト - No. 56

2006年9月9日 (土)

ブライアン・イーノ 。その名前を聞いたのは自分がまだ中学生の頃、セックス・ピストルズクラッシュを聴きながらドキドキして胸を高鳴らせていた時だ。当時自分のクラスの社会の授業を受け持っていた教師が一風変わった教師で、音楽だけに限らず色んな事を話を本気でしてくれる人であった。自分が「ピストルズが好きだ」と話をしたら、「じゃあイーノ聴けよ、イーノ!」と返してきたのである。まだ毛も満足に毛も生え揃っていない中学生にそんな話を本気でするというのも凄まじいが、その教師は「ブライアン・イーノって人はな、アンビエントってもわかんねぇか、環境音楽をつくった人でジョン・ライドンはブライアン・イーノから滅茶苦茶影響受けてるんだよ」と話してくれた。当時の自分には何故ジョン・ライドンと環境音楽がつながるのかサッパリ???であったが、そうして知ることになったブライアン・イーノ との出会いは今でも鮮明な出来事として記憶している。

ブライアン・イーノ は1948年5月15日、イギリスのサフォーク州ウッドブリッジに生まれた(本名:Brian Peter George St. John Le Baptiste De La Salle Eno。両親が新約聖書の 聖者の名前を合わせつけたものらしい)。なんと7歳の若さで化粧をする事を覚えたイーノ はその化粧をしたままの顔で外を出歩いていたそうだ。学生時代は優秀な成績を修める優等生だったようだが、16歳のとき通常学校教育から離れ、その後はイプスウィッチ・アート・スクール、ウィンチェスター・アート・スクールに通った。既にこの子の頃からイーノ の音楽的才能は開花しており、実験的な音楽性のバンドを幾つも組んでいた。

69年にはアート・スクールを卒業。電子機器のセールスマンや地方紙のデサイナーとして生計を立てていたイーノ は既に前衛音楽のコミュニティでは有名人であったアンディ・マッケイと出会い、サウンド・ミキサー兼テクニカル・エンジニアとしてロキシー・ミュージックに参加するのであった(ほどなくしてシンセサイザーとテープの操作を担当する正式なバンド・メンバ−として迎えられる)。

72年にデビューを果たしたロキシー・ミュージックは瞬く間にイギリスでセンセーションを起こし、新たな時代を予感させる存在として認知された。イーノ はバンド内でブライアン・フェリーと双璧を成すまでの存在となるがフェリーと意見が衝突し、ロキシー・ミュージックフォー・ユア・プレジャーの2枚のアルバムに参加しただけに留まり、73年7月にロキシー・ミュージックを脱退している(フェリーに追い出されたという説も)。

ロキシー・ミュージックを脱退したイーノ はすぐさま動き始める。73年11月にはキング・クリムゾンロバート・フリップとの共作ノー・プッシーフッティングを発表。74年3月には初のソロ・アルバムとなるヒア・カム・ザ・ワーム・ジェッツを発表。74年6月1日にはロンドンのレインボー・シアターで行われた「ACNE」なるコンサートに参加。ケヴィン・エアーズジョン・ケイルニコらと共演をたした。この時の模様はJune 1, 1974のタイトルで発表されている。同年ジョン・ケイルのアルバム、フィア』をプロデュースし、自らの2作目トーキング・タイガー・マウンテンも発表した。

75年はイーノ にとって後の活動を左右する運命的な出来事が起こる。年が明け早々の1月18日、交通事故に遭遇、入院を強いられることになった。そしてイーノ は入院先のベッドの上で友人が持ってきたハープのレコードを聴き、あることに気付くのであった。そのレコードの音はスピーカーの片方のチャンネルからしか音が出てこなかったのだ。音量も小さく聞くに堪えない状況ではあったが怪我を負っていたイーノ はそのまま身動きもせず、その微かなレコードの音に耳を傾けていると、その微かな音は既存の音楽としてではなく、むしろ環境の一部を成すものとして耳に入ってくるのであった。そう、後の「アンビエント・ミュージック」のアイデアが生まれた瞬間がこのときなのであった。こうしてアンビエントの雛型であるディスクリート・ミュージックが誕生した。この年イーノ はもう1枚アルバムを発表しており、それがイーノ の最高傑作との誉れ高いアナザー・グリーン・ワールドである。また同年キング・クリムゾンロバート・フリップとの共演第2弾『イヴニング・スター』も発表している。

その後のイーノ は順調に自らの作品のリリースを重ねながらウルトラヴォックスディーヴォトーキング・ヘッズらのプロデュースを手掛け、音楽プロデューサーとしての才能も開花させていく。ノーウェイヴと称されたニューヨークのアンダーグラウンド・ミュージシャンが終結した歴史的コンピレーション・アルバム、ノー・ニューヨークのプロデュースを担当する。この頃からイーノ はニューヨークへと居住を移し、アート関係の仕事にも携わるなど活動の幅を徐々に広げていった。

80年代に入るとイーノ の名前はさらに浸透していく。トーキング・ヘッズとの仕事で残された作品は「通な」音楽リスナーに大きな衝撃を与えたが、やはり決定的であったのが84年、熱い直線サウンドを売りにしていたU2のプロデュースを担当した事だろう。U2ファンの間では一見ミスマッチとも思える組み合わせに危惧も抱かれたが、この顔合わせは暫くの間続いた。こうしてイーノ の名前は「アンビエント・ミュージック」の開拓者、U2のプロデューサーとして広く知られていくのであった。

…最近の出来事としては2001年TBS50周年特別企画「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」で坂本龍一の呼びかけにより細野晴臣高橋幸宏UADJ KRUSHら日本人アーティストらに交じり、デヴィッド・シルヴィアンタルヴィン・シンといった教授と馴染みの深い海外アーティストとともにN.M.L.(NO MORE LANDMINE)に参加し、Zero Landmineを発表した。また最新作としては実験的なジャズ・バンドSlop Shopを率いる気鋭のミュージシャン、ピーター・シュワルムとのコラボレーション・アルバム、ドローン・フロム・ライフが挙げられる。まだまだブライアン・イーノ の実験は終わっていない。

ブライアン・イーノ がその後のアーティストに与えた影響という点を挙げ始めたら枚挙にいとまないのだが、U2は言うまでもなく冒頭でも触れたジョン・ライドン、アンビエントの可能性を広げたKLF、ポスト・ロック/音響系のトータス、またイーノ の楽曲からバンド名を頂戴したバーニング・エアラインズなど にまで至っている。ここまで幅広いシーンに影響を与えたアーティストというのもホントに珍しいと思う。これってイーノ の音楽は前衛的であるが、けっして限られた人たちだけに向かって発信している音楽ではないことが証明されるちょっとイイ話ではないだろうか。

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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