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100人の偉大なアーティスト - No.13

2003年6月9日 (月)

 Francis Albert Sinatraことフランク・シナトラほど、21世紀のアメリカ音楽界全体から見ても重要な歌手はそう多くは存在しないだろう。

 先輩Bing Crosbyが持つ、独特の“余裕”、Fred Astairの“粋”、そして、シナトラ自身が付け加えた、Artie Shaw楽団で鍛えられた、例えようのない“スイング感”、そして、歌手として何より素晴らしく、縦横無尽のスキャットヴォーカルを駆使する正統派ジャズ歌手たちをも凌駕する、“メロディをほとんど崩さずに歌いながら原曲以上の情感を醸し出す”表現力こそはシナトラをポピュラー音楽の頂点に押し上げた原動力だった。

 1915年2月12日、消防士の息子として生まれたシナトラは、高校を中退すると歌を歌い始め、やがて、20歳のころには 「the Hoboken Four」というグループで、そのころ全盛だったラジオ・ショウの「オリジナル・アマチュア・アワー」に出演、優勝している。

 1939年、ベニー・グッドマン楽団を辞したHarry Jamesは、新しく結成するバンドにシナトラを迎えた。ついにシナトラに「時代」がやってきた。そして、翌1940年、さらに大きな人気を誇るバンド、Tommy Dorsey Big Band に引き抜かれたシナトラは、“I'll Never Smile Again”をはじめ多くのヒット曲を飛ばす。

 1942年、今度は“Night And Day”でソロ・ヒットを飛ばし、ソロ歌手としての独立の自信を深めていく。その後、40年代は、いわゆる「ティンパン・アレイ」の作品を次々とバンドで歌いヒットを続けて行った。戦争も終わり、シナトラはラジオ番組も持ち順風満帆に見えた。このころから映画出演と歌手活動でシナトラは絶好調を維持し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

 1950年に入り、Nelson Riddle との出会いによって、いままでのシナトラが持っていた“洗練されたスイング歌手”を翻す、都会的な憂愁を湛えたアレンジとの共演によってもたらされた“ハイセンスなニュー・ヴォーカル”路線が定着、再びシナトラは帝王への道を走り出して行った。この時期の作品は、すべてが洗練されたアレンジと、円熟の極地にたどり着いた歌とがあいまった傑作ばかりであり、シナトラ中期の代表作だ。

 1960年、それまでの定番を打ち破った「ミディアム・スイング」の作品『Nice 'N' Easy』を発表、大ヒットを飾るが、次第に大きくなっていた「キャピトル・レコード」との契約問題での溝は埋められず、結局、シナトラは自己のレコード会社「リプリーズ・レコード」を設立、その結果、1961年、2つのレコード会社の5枚のアルバムがレコード店を埋めた。『Sinatra's Swingin' Session!!!』『Ring-a-Ding Ding!』『Sinatra Swings』『Come Swing with Me!』『I Remember Tommy..., 』にコンピレイション作品『All the Way』を入れて7枚のアルバムが次々と発売された。そして、この年のグラミー賞「レコード・オブ・ジ・イヤー」を“"The Second Time Around"で受賞、売り上げ、実績でトップに君臨する。

 1962年には「キャピトル」最終作品『Point Of No Retrurn』が発売される。1963年、「時代」の流れが押し寄せる中発売された3枚の作品の中、唯一『Sinatra & Strings』のみがトップテンに達するのみで、ビートルズ時代が到来する。

 シナトラは“Days of Wine and Roses”“Moon River”といった作品をヒットさせ、「ソフト・バラードの帝王」としての路線を確保、相変わらずヒットを続けていく。1966年シナトラのTV戦略の遺憾として発売された2枚組み作品『A Man and His Music』がグラミー賞年度アルバム賞を獲得、さらにミリオン・セラーを突破するシングルヒット“ストレンジャー・イン・ザ・ナイト”をスマッシュする。順調にヒット街道を走るシナトラが1969年発売したのが、ポール・アンカ作曲の生涯の代表作“My Way"だった。そして、1971年、55歳のシナトラは引退を発表する。

 しかし、わずか一年半で、TVスペシャル番組作品『Ol' Blue Eyes Is Back』を抱えてカムバック、帝王健在振りどころか更なるステージアップを見せ付けた。“レッツ・ミー・トライ・アゲイン”こそは、シナトラが歌ったソフト・バラード中、最高最良、さらに最上の一曲だろう。シナトラはその後6年間で6枚のアルバムを制作、1980年には晩年の最高傑作『Trilogy』を発表する。“ニューヨーク・ニューヨーク”は、NYのテーマソングとして長く歌われ、当地ソングとして“シカゴ”と共にシナトラの代表作となる。

 その後、活動は持続しながらも『L.A.Is My Lady』以来、録音をしなかったシナトラは、1993年、古巣「キャピトル」と再契約、時代と空間を越えた作品『Duets』を発表、300万枚の大ヒットとなる。翌年、続作『DuetsU』を発表、1995年度グラミー賞を受賞した。

 1995年、80歳でシナトラは引退を表明、1998年5月14日、LAで心臓麻痺のために亡くなった。

CD時代以降、シナトラの作品はボックス化、コンプリート化などさまざまな形で、すべての時代の作品がリリースされ聞き続けられている。2003年になって、かつてのTVショウ時代の貴重なデュエット映像だけを収録したVHS&DVD作品『Classic Duets』が発売され、オールド・ファンを喜ばせている。

 シナトラの影響力は、加山雄三からシド・ヴィシャスまでにわたり、そのすべては遠く記せないが、基本的には二つ。ソフト・スイング、ソフト・バラードにおける唱法における、聴く者を吸い込んでしまうような包容力溢れる歌声と、楽器のスタッカートよろしく、歌詞を切り刻んで生じるフェイクを生かす「間」の表現だろう。

 カウント・ベイシーやデューク・エリントンといった超一流バンドとの共演でも、まったく遜色のない歌を聞かせるシナトラの声量、音程、表現力は、ジャズ〜ポピュラー・ヴォーカル界広しといえども稀有である。また、近年、DVDで見ることが出来るようになったステージでの泰然とした姿は、シナトラが“生まれついてのエンターテイナー”であることを物語っている。「Mr.エンターテイナー」こそ、シナトラに相応しい称号だ!

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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