「ピアノの歴史」

2007年4月6日 (金)

連載 許光俊の言いたい放題 第106回

「ピアノの歴史」

 だいぶ陽が長くなった。海も山もすっかり春の色になってきている。
 「春」や「春の〜」という名前がついている曲は、シューマンの交響曲、ヴィヴァルディの協奏曲などいろいろあるが、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタもそのひとつ。しかし、実は私はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタがあまり好きではない。というより、基本的に弦楽器とピアノという楽器は、響きの上からも、特性の点でも、必ずしも好ましい組み合わせではないのでは、という疑問を抱いているのである。たとえば、かつて大人気だったギドン・クレーメルとマルタ・アルゲリッチの共演など、もとから水と油の楽器を、水と油の奏者が弾いて、ぐちゃくちゃに野蛮な音楽をやっているように思えて仕方がなかった。特に「クロイツェル」は、えぐくて(「えぐい」とは、本来、あくが強くて喉がひりひりする感じの意味)、辟易した。
 だが、中には、ひたすら感嘆しつつ聴くしかないような演奏が存在することも事実である。ズバリ、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタに関して、グリュミオーとハスキルの共演は、私はこれ1種類さえあれば他はいらないと思っている演奏だ。これが激安セットになった。
 CD3枚目の最初に入っているト長調のソナタを聴けば、一目瞭然。何がすばらしいって、ピアノもヴァイオリンもやりすぎない、実にいいバランスなのである。どちらがおまけでも主役でもない。楽器の組み合わせを問わず、これでこそふたりで音楽をやる意味があるというもの。
 ハスキルのピアノは、実に繊細だし、上品だ。ちょっとモーツァルトみたいな感じがするほど。転調による鮮やかな、だがわざとらしくない気分の変化。音色のパレットが豊富なのだ。グリュミオーも、よく言われるように端正。艶がありすぎず、押しつけがましくない。攻撃的でない。ふたりとも、あっさりしているけどいい味があるという感じ。
 ちなみに「クロイツェル」など、他の曲も特徴は同様。特に「クロイツェル」は、エネルギーむき出し全開のアルゲリッチ、クレーメルのしつこい音楽とは正反対の、しゃきっとした高級感あふれる音楽。ここでもハスキルのピアニストが実にいい。第2楽章のトリルなど、まるでクープランかという雅だ。グリュミオーとの洒落たやりとりは、宮廷の豪華な広間で聴くのがふさわしい。トルストイはこの曲に不穏な欲望を感じ、小説『クロイツェル・ソナタ』を書いたが、もしこの演奏を聴いたら書かなかったのではないだろうか。
 「春」第1楽章は、妙にヴァイオリンをクローズアップしてしまっていて、バランスが悪い録音だ。ヴァイオリンだけが耳元で鳴っているようで、非音楽的(こんなヴァイオリン・ソナタの録音は他にもたくさんある)。でも第2楽章はまとも。あまりにもきれいなピアノが味わえる。ヴァイオリンのはかなげな風情もいい。フィナーレは貴人の戯れのようだ。
 とにかく、あまりにも高貴なこの演奏を知ってしまうと、他はみな俗世間にまみれているような気がして仕方がなくなる。しつこくて、野暮で、ダサいベートーヴェンが嫌な人には気に入るはずである。

 ところで、ピアノという楽器が、チェンバロからさまざまな変化、発展を経て現在の形になったことはよく知られている。フォルテピアノだのクラヴィーアだの、製作者だの、レプリカだの、私たちがピアノに先立つ鍵盤楽器についての情報に触れる機会も増えた。イェルク・デームスがたくさんの楽器で、それが製作された時代に作曲された名曲を弾いた2枚組「グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッソス山への階梯)」は、ざっと鍵盤楽器の歴史を一目で見渡せるきわめて便利なセットだ(よけいなお節介だが、「ピアノの歴史」とか何とか、わかりやすい名前をつけていたら、もっと売れるだろうに)。
 バッハからモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ショパンを経てドビュッシーやベルクまで、弾かれているのは大半が非常に有名な曲ばかり。そのために用いられた楽器はなんと約30にのぼる。確かに、オリジナル原理主義者たちが主張するように、それぞれには少なからず違いがある。私たちが慣れ親しんでいるスタインウェイの現代ピアノと大きく異なる響きもする。ショパンの遺作のノクターンなど、「はあ?」と驚くような不思議な音色だ。
 しかし、それを超えた共通性があるのも事実。作品の性格を理解できていれば、適切な演奏を行うことに何の問題もなかろうと私には思われた。改めて、作品自体が持つ表現の強さを思い知らされるのだ。
 デームスの演奏は、ドイツ、オーストリアの本流を行く人らしく、柔らかい情感のこもったロマンティックなもので、好ましい。最後に入っているドビュッシーはベーゼンドルファー・インペリアルで弾かれているが、神秘的なまでに美しいピアノの音を満喫させてくれる。特に「沈める寺」はこの楽器の重厚で深い響きと合致した絶品だ。ドイツ・オーストリア人が弾くドビュッシーだから、などと敬遠せず、聴いてみるといい。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


【許光俊の言いたい放題】
第1回「謎の指揮者エンリケ・バティス」
第2回「残酷と野蛮と官能の恐るべき《ローマの祭》」
第3回「謎の指揮者コブラ」
第4回「快楽主義のベートーヴェンにウキウキ」
第5回「予想を超えた恐るべき《レニングラード》《巨人》」
第6回「必見! 伝説の《ヴォツェック》名画がDVD化」
第7回「ついに発売。ケーゲル最後の来日公演の衝撃演奏」
第8回「一直線の突撃演奏に大満足 バティス・エディション1」
第9回「『クラシックプレス』を悼む」
第10回「超必見、バレエ嫌いこそ見るべき最高の『白鳥の湖』」
第11回「やっぱりすごいチェリビダッケ」
第12回「ボンファデッリはイタリアの諏訪内晶子か?」
第13回「アルトゥスのムラヴィンスキーは本当に音が悪いのか?」
第14回「ムラヴィンスキーの1979年ライヴについて」
第15回「すみません、不謹慎にも笑ってしまいました」
第16回『これまで書き漏らした名演奏』
第17回「フレンニコフの交響曲」
第18回「驚天動地のムラヴィンスキー!」
第19回「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番」
第20回「クーベリックのパルジファル
第21回「『フィガロ』はモーツァルトの第9だ」
第22回「デリエ演出による《コジ・ファン・トゥッテ》」
第23回「美女と野獣〜エッシェンバッハ&パリ管のブルックナー」
第24回「無類の音響に翻弄される被征服感〜ムラヴィンスキー・ライヴ」
第25回「クーベリックのベートーヴェン(DVD)」
第26回「ある異常な心理状況の記録〜カラヤン、驚きのライヴ」
第27回「これはクレンペラーか? スヴェトラの『オルガン付き』」
第28回「トルストイのワルツは美しかった」
第29回「カルロス・クライバーを悼む」
第30回「スヴェトラーノフの『ペトルーシュカ』はすごい」
第31回「『展覧会の絵』編曲の傑作」
第32回「ケーゲル、悲惨な晩年の真実〜写真集について」
第33回「種村季弘氏を悼む」
第34回「今度のチェリビダッケはすごすぎ!」
第35回「世界一はベルリン・フィル? ウィーン・フィル?」
第36回「シュトゥットガルトの《ラインの黄金》は楽しい」
第37回「小泉首相なら「感激した!」と絶叫間違いなし」
第38回「平林直哉がここまでやった!〜『クラシック100バカ』」
第39回「まさしく大向こうをうならせる見せ物!」
第40回「日本作曲家選輯〜片山杜秀氏のライフワーク」
第41回「こんなすごいモーツァルトがあった!」
第42回「秋の甘味、レーグナーのセットを聴く」
第43回「ヴァントとライトナーに耳を洗われた」
第44回「ギレリスのベートーヴェン・セットはすごいぞ」
第45回「これは・・・思わず絶句の奇書〜宮下誠『迷走する音楽』」
第46回「青柳いづみこ『双子座ピアニストは二重人格?』」
第47回「あのラッパライネンが遂に再来日〜今度も...」
第48回「テンシュテットのプロコフィエフはトリスタンみたいだ」
第49回「テンシュテットのブルックナーは灼熱地獄」
第50回「もしクラシックが禁止されたら? リリー・クラウスについて
第51回「ケーゲルのパルジファル」
第52回「ベルティーニの死を悼む」
第53回「残忍と醜悪とエクスタシー、マタチッチのエレクトラ」
第54回「マルケヴィッチの『ロメジュリ』は実にいい」
第55回「ジュリーニを悼む」
第56回「こいつぁあエロい『椿姫』ですぜ」
第57回「ヴァントとベルティーニ」
第58回「夏と言えば・・・」
第59回「ライヴ三題〜ジュリーニ、ヴァント、テンシュテット」
第60回「困ったCD」
第61回「秋は虫の音とピアノ」
第62回「真性ハチャトゥリアンに感染してみる」
第63回「フェドセーエフでスッキリ」
第64回「シーズン開幕に寄せて」
第65回「あまりにも幸福なマーラー」
第66回「これが本当にギーレンなのか?」
第67回「バーンスタインでへとへと」
第68回「今年のおもしろCD」
第69回「やったが勝ちのクラシック
第70回「正月の読書三昧」
第71回「レーゼルのセット、裏の楽しみ方」
第72回「実はいいムーティ」
第73回「フォークトのモーツァルト」
第74回「空前絶後のエルガー」
第75回「爆笑歌手クヴァストホフ」
第76回「ギーレンのロマンティックなブラームス」
第77回「エッシェンバッハとバティス」
第78回「ネチネチ・ネトネトのメンデルゾーンにびっくり」
第79回「暑くてじっとりにはフランス音楽」
第80回「ジュリーニ最高のモーツァルト」
第81回「1970年代の発掘2点」
第82回「ヤンソンスは21世紀のショルティ?」
第83回「アーノンクールと海の幸」
第84回「なんと合唱も登場〜ケーゲルの『音楽の捧げ物』」
第85回「ヴァントとミュンヘン・フィル」
第86回「テンシュテットのライヴはすごすぎ」
第87回「8月も終わり」
第88回「激安最高のヴィヴァルディ」
第89回「ジュリーニ最晩年のブルックナー第9番」
第90回「激安セットで遊ぶ」
第91回「分厚い響きが快適」
第92回「極上ベヒシュタインを聴く」
第93回「繰り返し聴きたくなる長唄交響曲」
第94回「あなたはこの第9を許せるか?」
第95回「モーツァルト年」
第96回「実相寺監督を悼む」
第97回「シュヴァルツコップのばらの騎士」
第98回「今見るべきDVDはこれ」
第99回「年末のびっくり仰天」
第100回「チェリビダッケ没後10年が過ぎて」
第101回「最大級の衝撃「君が代変奏曲」
第102回「コンセルトヘボウVSドレスデン」
第103回「エロスと残酷の『ドン・ファン』」
第104回「当たり連発のBBC」
第105回「北島三郎とバロック」

【番外編】
「ザンデルリング最後の演奏会」
「真に畏怖すべき音楽、ケーゲルの《アルルの女》」
「ケーゲルのブルックナー、ラヴェル、ショスタコーヴィチ」
「ケーゲルとザンデルリンクのライヴ」
「聖なる野蛮〜ケーゲルのベト7」
「ヴァント、最後の演奏会」
「バティス祭りに寄せて」
「ベルティーニ / マーラー:交響曲全集」
「ギレリス、ケーゲル、コンヴィチュニーほか」
⇒評論家エッセイ情報
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