許光俊 「トルストイのワルツは美しかった」
2006年7月8日 (土)
連載 許光俊の言いたい放題 第28回
「トルストイのワルツは美しかった」
キング・インターナショナル社に、宮山さんという人がいる。この人は、たいへんなロシア通として、業界でも有名だ。いや、単なるロシア通と呼んでは、不足である。生半可な専門家など足下にも及ばない知識と情熱の持ち主で、私など、いつも教えてもらってばかりいる。こんなことを言っても全然恥ずかしいことはない。何しろ、宮山氏は、かのロジェストヴェンスキーにも一目置かれているほどの人物なのである。
しかも、何事も徹底しないことには収まらない性格らしく、チャイコフスキー博物館員のロシア女性と結婚し、息子さんたちには生粋のロシアの名前をつけたあげく、将来は音楽家にしようとたくらんでいるらしい。まさに人生をすべてロシア音楽に捧げたようで、浮気性でふらふらしている私など、羨ましくてならない。まあ、私が宮山氏に対抗できるのは、大食くらいであろうか。
その彼が、わざわざ新しく作ったCDを送ってきた。ロシアの文化人たちが作曲した作品集である。ずいぶん前から聞いていた企画だが、ようやく形になったらしい。決して大言壮語をしない人なので、よほどできばえに自信があるのだろう。
はたして、とても美しいアルバムだった。知人だから褒めていると取られると困る。店頭で第1曲だけでも試聴すれば、私が決してひいきの引き倒しをしているわけではないことがわかるはずだ。以下、特に有名な人たちの作品についてコメントしよう。
第1曲目はあの文豪トルストイが書いたワルツだ。1分半の短い作品だが、ショパン風の艶美な音楽だ。繊細な情感の綾があって、黙って聞かされたら、これがあの敬虔な大作家の手によるものとはわからないはずだ。トルストイが音楽と因縁浅からぬ関係であることは、よく知られた「クロイツェル・ソナタ」という中編があることでも明らかだが、こんなはかないワルツを書いていたなんて。晩年、ますますキリスト教に帰依し、財産を農奴に分け与えた男が、本来生粋の貴族文化を血肉としていた人間であるとよくわかる。
「ドクドル・ジバゴ」で有名なパステルナークも本格的な前奏曲やピアノ・ソナタを書いている。暗い音色がさまざまに駆使されているが、ラフマニノフより透明感があり、聴きやすい。
ストラヴィンスキーなどにバレエを発注したことで有名な、ロシア・バレエ団の総帥ディアギレフは、歌曲を書いている。ストラヴィンスキーに限らず、ピカソ、マティスなど、当時の前衛的な芸術家に仕事を頼んでいたわりには、ずいぶんと甘い、俗っぽいと言ってもよい歌で、意外だ。題名からして「憶えているかい、マリヤ」だもの。
バレエの振付の大家、バランシンの曲もある。先ほどのトルストイ作品にも似た、ワルツだ。ただ、旋律は流麗に流れ去ろうとはしないで、振り返るように立ち止まる。このたたずまいも名残惜しげで美しい。最後、まるで未完成作品のように唐突に終わるのが、なんとも言えない。
アウエルバッハのピアノ演奏は作品の性格によく合っていて、申し分ない。ピアニスト、詩人、小説家・・・というと、アファナシエフみたいだけれど、ああいった重苦しさとは遠く、適度にセンチメンタルで、柔らかい。音質もクリアで快適。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学助教授)
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