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2006年7月5日 (水)
連載 許光俊の言いたい放題 第27回「これはクレンペラーか? スヴェトラの『オルガン付き』」
いいかげんスヴェトラーノフばかり取り上げるのもマンネリのようでイヤなのだが、おもしろいのだから仕方がない。今回もおつきあいください。
「オルガン付き」がきわめてユニークで、一聴の価値がある。スヴェトラの「オルガン付き」というと、おそらく誰もが豪華絢爛たる大音響の嵐を期待するであろう。まるでボロディンの交響曲第2番かというセンチメンタルな歌を期待するであろう。弦楽器がゴリゴリやるスケルツォを期待するであろう。だが、そうした期待は徹底的に裏切られる。そう、これは最初から最後まで裏切られっぱなしというのが実におもしろい演奏なのだ。
第1楽章(と、本当は称していないのだが、便宜上1〜4楽章ということにして話を進める)は思ったよりおとなしい。曲調から言って、当たり前と言えば当たり前だけれど、躁状態のスヴェトラを期待すると裏切られる。あれ、まだ気分が乗らないのか。違う。深謀遠慮があるのだ。
ゆっくりとした第2楽章も、ロシアっぽさ全開の陶酔的なこぶし(というより、おおぶしですな、大将のは)を期待すると裏切られる。なるほどレガートを効かせて美しく歌うのだが、いつもの暑苦しいほどの感情の押し売りはない。抑制されていて、意外なほど神秘的、敬虔な雰囲気があるのだ。このオーケストラとオルガンの静かな音楽を聴いていると、まるでミサに参列しているかのような気がしてくる。こういう演奏、ありそうでなかなかないのである。弦楽器だけの絡み合いなど、いまだかつて聴いたことがないような美しさだ。
スケルツォは控えめ。端正と言ってよいほどだ。妙に正確にこだわった弾き方が、薄気味悪い。機械人形が踊っているような、旧ソヴィエトの体操競技みたいと言ったら、わかりやすいだろう。
が、これらすべては、フィナーレに向けての下準備だった。ついに最後、われわれの期待を満たすがごとく、ソヴィエト国立響は咆哮する!
のではないんだな、これが。なんと、ここでスヴェトラがやっているのは、まるで晩年のクレンペラーのような超重厚な音楽なのだ。あるいはクナッパーツブッシュか。きわめて遅いイン・テンポで、重量級の響きを重ねていく。よけいな感情移入はない。徹頭徹尾、厳粛なのだ。興奮していないのだ。荘厳なのだ。何せ、あの普段は金切り声をあげるトランペットたちも神妙なのだから。
ジクジクと少しずつ進んでいく歩みは不気味なほどで、やがて「ボリス・ゴドゥノフ」のような巨大さに到達する。このフィナーレが「ボリス」か「展覧会の絵」かというムソルグスキー調で鳴り響いた前例は皆無に違いない。テンポを速めたり、派手な音響で刺激したりという、陳腐な作戦がないため、音楽は崇高、荘厳と呼ぶべき異様な境地に入る。特にあちこちの対位法的部分で漂う静かな殺気がすごい。まるでバッハの「フーガの技法」か「音楽の捧げ物」か。この異常な味わいはクセになる。以後、誰の演奏で聴いても、思い浮かんでしまうのではないか。
最後、ようやく少しばかり速度を上げる。指揮者の体温は上がっていないが、楽員と聴衆は汗ばんだのではなかろうか。オーケストラがとんでもない音を出しているであろうことは予想がつく。うーん、スヴェトラーノフはこんな音楽もやっていたのか。
あえて下世話にたとえれば、晩餐会に呼ばれた大男が、無口で何もしゃべらず、ひたすらものすごい量の料理を呑み込んでいく。最初は、周囲は「なんか静かな人だな」と思って、気にもしないで飲食や会話に夢中になっている。が、やがて彼の大食漢ぶりに気づくとにわかに恐怖を覚え、しまいには全員が凍り付いて、淡々と食べ物を口に運び続ける男を見つめている、そういう感じだ。
この演奏、全曲でなんと39分もかかる。この作品のもっとも個性的な演奏であると断言できるし、私はこういう毒のある演奏が好きだ。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学助教授)
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