許光俊の言いたい放題 『フレンニコフの交響曲』
2006年10月10日 (火)
特別寄稿 許光俊の言いたい放題 第17回『フレンニコフの交響曲』
ようやく新著の校正が終わり、近々発売される。結局、タイトルは『生きていくためのクラシック〜世界最高のクラシック第2章』(光文社)となった。自分でいうのも何だが、なんと280ページもあるのに720円だ。1ページ3円もしないのである。そのうえ、前著より濃厚な内容になっている。これをお得と言わずしてどうする。
しかし、だ。本を書くのは楽しくもあれば、辛くもある。毎度のことだが、校正をしていると、いやになってくる。あちこちが不満で、全部ボツにして書き直したくなるのだ。ブルックナーが異様な改訂魔だったと人は言うが、とんでもない、当たり前の話だ。まともな人間なら、何のジャンルであれ、仕事のあとで「もっとうまくできるはず」と完成直後から不満を感じないはずがないのである。おそらく、他にしたい仕事、しなくてはならない仕事があるために、いちいち直さないだけの話であろう。
それはともかく、おもしろいもので、どういうわけか本を書いていると締め切り間際に「これは!」という新譜が飛び込んでくる。今回もパイヤールのリュリとか、そういったものが何点もあって慌てさせられた。
結局間に合わなかったのがスヴェトラーノフ指揮のフレンニコフだ。この作曲家、ものの本には必ず「ソ連音楽における大衆路線の典型」と書いてある。しかしながら、第1番を聴き始めたあなたは、「これが・・・?」と思うはず。何だかショスタコーヴィチそっくりではないか。あの苦みや皮肉は希薄で、神経衰弱的、鬱的な気分もないけれど、重厚で堂々たるシリアスな作品なのだ。「ピーターと狼」の仲間みたいな音楽を想像すると肩すかしを食らう。それも当たり前、この曲を書いたとき、作曲者はわずか20歳と少しだった。当時最先端だったショスタコに影響されていたに違いないのである。
だが、「そうか、そうか、大衆路線といっても、かなり高級な大衆を想定しているのだな」と早合点してはならない。2番、3番と聴き進むうちに、みるみる音楽が軽くなっていくではないか。
第1番のわずか数年後に書かれた第2番では、第1番のシリアスさが消えている。第1楽章も騒がしいが、特にフィナーレだ。まるで軍事パレードのような行進曲調なのである。
そして交響曲第3番。第1楽章。何ですか、この軽さは。作曲家60歳にしてこんな音楽を書くなんて、と目を白黒させてくれる。しかも、第2楽章は、革命の間に咲いた恋の花、みたいな甘さ。
が、スヴェトラーノフは徹底的にマジメ。どのくらいマジメかというと、燕尾服ではなく、軍服を着て演奏するほうが似合うくらい。崩しもなく、これでもかとオーケストラの性能を見せつける。ギシギシ往復する弓が見えるような弦楽器、例によって爆発する金管楽器。第3番では、胸がすくようなトランペットの名技が楽しめる。ファンにはたまらないだろう。珍重されていたのが理解できる。
しかし、私は、演奏の立派さよりも、こういう作品が大マジメに演奏されていたということのほうに注意を向けられた。ここでのスヴェトラーノフには、「ローマ三部作」で見せた諧謔や、「レニングラード」での悲痛がない。
いずれにしても、ソ連に生きた芸術家としてのスヴェトラーノフの姿をもっともよく表した演奏と言えるだろう。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学助教授)
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輸入盤
交響曲全集 スヴェトラーノフ&ソ連国立響
フレンニコフ(1913-2007)
価格(税込) :
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