Top 100 Japanese pops Artists - No.44

2003年10月18日 (土)

1947年7月9日、東京都港区白金に生まれる。
1969年、「エイプリル・フール」に加わりプロとしてデビュー。
1970年、大滝詠一鈴木茂松本隆とともにはっぴいえんどを結成、優れた日本語による歌詞とサウンド・プロダクションによって高い評価を得、1973年に解散、伝説のグループとなった。
豊かな演奏力とユーモアに溢れるファースト・ソロ・アルバムHosono Houseを自宅録音で製作。このときのプレイヤー、松任谷正隆林立夫鈴木茂が核になって後のミュージシャン集団、ティン・パン・アレーが生まれる。

ティン・パン・アレーは1977年まで流動的なサウンド・プロデュース・チームとして活動し、荒井由実南佳孝山下達郎吉田美奈子矢野顕子大貫妙子などのレコードに新鮮な音楽を提供、細野晴臣はベーシストとして中核の役割を果たす。
ティン・パン・アレーのセッション・ワークと平行して1975年、ノスタルジックなポップスの探求がエキゾティックというキイ・ワードによって強化されたTropical Dandy発表。日本のポピュラー界に衝撃を与える。翌年、その傾向をさらに推し進めた泰安洋行を発表。その独特の音楽を自らチャンキー(ごった煮)・サウンドと命名する。

1978年、はらいそのレコーディングに参加した高橋幸宏坂本龍一と意気投合。同年、Y.M.O.としての第一作を発表。

Y.M.O.は音楽的にもセールス的にも世界的な成功を収め、音楽界全体の動向にも強い影響を及ぼした。活動中に唯一のソロ・アルバムフィルハーモニーを発表、またYENレーベルを設立して新人発掘を行った。この時期は歌謡曲畑や他者のプロデュースでも特に多くの仕事をこなし、独特のサウンド・プロダクションをメジャーな領域で展開しヒット曲天国のキッス禁区ガラスの林檎などによってメロディー・メイカーとしての才能を広く知らしめた。

Y.M.O.は1983年に散開。翌年、レーベル『ノン・スタンダード』『モナド』設立、Y.M.O.時代にやり残したポップスや、やりたくても制約の中で実現できなかった形式の音楽を立て続けにリリースする。1985年、アニメーション「銀河鉄道の夜」の音楽を製作。翌年、全曲を20世紀の名曲からシュミレーションした越美晴のアルバムEcho De Miharuレコーディング開始、1987年発表。1989年Omni Sight Seeing発表、玉石混交のワールド・ミュージック・ブームに湧く日本に本家の実力を示す。

1991年、一枚のレコードを創るため忌野清志郎坂本冬美とともにユニットHisを結成、異色のこぶし・歌心へのアプローチがアルバム日本の人に結晶した。1992年と翌年、青森県森田村の野外円形劇場でアイヌ民族や縄文文化に関連するコンサートに出演。1993年、「近年ようやくたどり着いた」というネイティヴ・アメリカン精神への共感が結実した「メディスン・コンピレーション」発表。
同年、突然のY.M.O.再生。「火種がくすぶっていたY.M.O.を終わらせるための再生」と発言する。
1995年12月には新レーベル"daisyworld discs"を発足し、アトムハートテツ・イノウエとのユニットハットとコンピレーション・アルバムデイジー・ワールド・ツアーを発表する。1997年8月、プロデュース作品としてワールドスタンダードのアルバムカントリー・ガジェットシーナ&ロケッツ@Heartをリリース。

99年10月には久保田麻琴とともにハリー&マックを結成し、70年代のスワンプサウンドを彷彿とさせるアルバムRoad to Louisianaを発表。2000年3月、これまでの活動を4枚のCDに収めたHosono Box 1969-2000を発表。
2000年11月、鈴木茂林立夫とともにティンパンを結成し、アルバムティンパンを発表。12月には東京・大阪でコンサートを開催した。翌年4月には福岡でも追加公演を開催。

現在は高橋幸宏と新たに結成した新ユニットSKETCH SHOWとして活動中。21世紀の新しいポップス/エレクトロニカを指し示すサウンドで最新サウンドを創造している。2ndアルバムTronikaでは小山田圭吾が全面参加。コンピレーションアルバムAudio Sponge 1では最先端音楽の新潮流”ポスト・エレクトロニカ”をパッケージ。このなかには細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏のお3方が揃い踏みした限定ユニットが参加!!フューチャーサウンドの未来を占う、今もっともリスナーが渇望しているサウンドです。

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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