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100人の偉大なアーティスト - No.1

2003年6月21日 (土)

ジョン・ウィストン・レノン。1940年10月9日、英リヴァプール生まれ。父は船員だったアルフレッド・レノン、母は映画館の案内役として働いていたジュリア。父方の祖父、ジョン・レノン(ジャックと仲間に呼ばれていた)は、アイルランドのダブリン生まれで、レノンの姓はオリアンネインというアイルランドの一族の名前を英国風に短縮したものだった。アメリカに渡ったこともあった祖父ジャックは、結局リヴァプールに落ち着いたが、 ジョンの父となるアルフレッドがまだ幼い頃に他界してしまった。そのためアルフレッドはリヴァプールの慈善孤児院で育つことになる。一方、ジョンの母親となるジュリアはリヴァプールの平均的な家庭からするとかなり良家の環境に育ったという。ともあれフレッドとジュリアの二人は出会い、結婚を果たすが、ジョンが生まれるとまもなく夫婦仲が悪くなり、1941年の春にジョンはジュリアの姉メアリー(ミミ)という伯母のところへ預けられることになるのだった。ミミ伯母さんの家があったメンローヴ・アヴェニューという地域は弁護士や医者など社会的地位の高い人たちが住んでいるところだった。というわけでジョンビートルズのメンバー中、唯一中流的な環境で育つことになった。42年の春に船員だったアルフレッドと連絡が途絶えたジュリアは、生活費も送ってこなくなった夫に見切りをつけ、新しいパートナーと暮らし子供までもうけた。しかしその後、1946年にアルフレッドが突然帰ってきた。彼は5歳になるジョンを連れて、ブラック・プールに居る友人のところへ行ってしまう。息子を奪われたと感じたジュリアは、父と母のどちらを選ぶかをジョンに決めさせ、結局ジュリアについて帰ってきたジョンは再びミミのところへ預けられることになる。このときのことを指し、母親に捨てられたということをジョンが後に語っているが、一方で10代半ば頃になると母ジュリアのもとを訪れるようになっており、趣味でバンジョーを弾き語るというボヘミアン的なセンスを持った彼女をジョンは心から愛していたふしもある。

同年の1946年に小学校にあがったジョンは、一度の転校を経て、グラマー・スクール(日本の中学〜高校にあたる)に進学。そのグラマー・スクールに入学する前提となる試験で、算数以外の科目で好成績を収めていたジョンは、しかしグラマー・スクールに実際に通うようになると以前よりも不良っぽい言動が顕著になり、成績はみるみる下がっていったという。またこの頃、1955年に父親代わりだったミミの夫、ジョージ伯父が亡くなると、ジョンはミミ伯母さんからときに過剰なほどの愛情を受けて育つようになった。

1956年頃、ロニー・ドネガンのヒットをきっかけに英国で流行したスキッフルや、米国のロックンロールが大好きになったジョンは、ミミ伯母さんにおもちゃではないギターをねだって(これ以前、ほんの子供の頃に母のジュリアからジョンはおもちゃのギターを与えられていた)、実母ジュリアのところへ通うようになった。ジュリアからバンジョーのコードを教えてもらい、それを参考にギターを弾き始めたジョンは翌1957年にグラマー・スクールの友人達とスキッフルのバンド、クォリー・メンを結成。16歳となっていたジョンはかなりの不良を気取り、学校の卒業も危ういところまでいったが、結局絵画の才能を認められ、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートへと進学する。進学後、バンドにかなりのめり込んでいったジョンは1957〜58年頃の間にポール・マッカートニージョージ・ハリスンなど後にビートルズのメンバーとなる人物と出会っていった。そんな中、1958年にジョンをひどく悲しませる事件が起こった。ミミの家を訪ねた後、帰宅しようとしたジュリアがメンローヴ・アヴェニュー付近で、夜勤に向かう警官が運転する自動車にはねられ帰らぬ人となったのだった。ジュリアの家で彼女の帰りを待っていたジョンは、悲痛にくれたという。

クォリー・メンはジョンポール・マッカートニージョージ・ハリスンらを擁するバンドになっていた。その後、ジョンの学友スチュアート・サトクリフを加えたバンドは、ジョニー&ザ・ムーンドッグス、シルヴァー・ビートルズ、そしてビートルズとバンド名を改名しながら活動を続けていった。ドラムスにピート・ベストを加えた彼らは1960年にはじめてドイツのハンブルグへ公演旅行に出掛けた。その後地元リヴァプールのキャバーン・クラブや幾度かのハンブルグ公演でバンドとしての基礎体力をつけていったビートルズは、1962年4月スチュアート・サトクリフの脱退、そしてその直後の彼の死亡などといった経験を経て、同年12月マネージャーにブライアン・エプスタインを迎え、デビューへ本格的に乗り出す。

1962年1月1日にデッカのオーディションに落ちて以来、いくつかのレーベルを受けるがどこも失敗に終わった彼らは、遂にのちの彼らのプロデューサーとなるジョージ・マーティンの興味をひき、EMI系パーロフォンと同年7月に契約を果たした。正式デビューに際しドラムスが弱いとの理由でピート・ベストがクビ。代わりにビートルズのメンバーとは顔見知りだったロリー・ストーム&ハリケーンズのリンゴ・スターが加入。よく知られるビートルズの4人が揃い、10月4日、デビュー曲“ラヴ・ミー・ドゥ/PSアイ・ラヴ・ユー”でデビューした。

その後ビートルズはよく知られているように、音楽業界に旋風を捲き起こし、社会現象といえるまでになった。しかしそんなビートルズは、激動の60年代を潜り抜け、多くの優れた作品をデビューから8年という短期間の間に遺し、1970年正式に解散してしまう。

ジョンビートルズ時代にも映画に出演したり、ビートルズ後期に知り合った伴侶/盟友ともいえるオノ・ヨーコとの前衛的なコラボレーション作品を発表したりしており、もともとバンド存続中から脱ビートルズ志向であった。そんなジョンは、この解散と前後するようにして、オノ・ヨーコと二人三脚を組むようにして充実したソロ活動を展開していく。特に1970年12月に発表されたジョンの魂でのビートルズ時代とは明らかに違うシリアスさに包まれた楽曲は話題となり、その後のソロ・アーティストとしてのジョンを印象づける結果となった。その後1971年にイマジン、1972年にサムタイム・イン・ニュー・ヨーク・シティ、1973年にヌートピア宣言、1974年に心の壁、愛の橋、1975年にロックンロールといったアルバムを発表。そして1975年10月9日、ジョン35歳の誕生日にヨーコとの間の子、ショーン・タロー・レノンが誕生。これを機にジョンは音楽界から離れ「主夫」生活に入った。1976年ジョンは米国の永住権を獲得。1977〜79年の間のうち6ヶ月をヨーコ、 ショーンとともに日本で過ごしたりもした。1980年になると、パパはビートルズだったの?というショーンの言葉にも刺激を受けたジョンは再び音楽活動を始め、夏頃に曲作りとレコーディングを行った。完成したアルバムはダブル・ファンタジーと名付けられ、またシングル・カットの“スターティング・オーヴァー”とともに11月に発表された。しかし、その後あのよく知られている悲劇がジョン・レノンを襲った。12月8日、ヨーコとともにレコーディングから帰る途中、自宅のダコタ・アパートの前で午後10時50分、狂信的なファンのマーク・チャップマンに撃たれ、出血多量のため死亡する。40歳の生涯だった。

以下は今年2001年のはじめに「トップ100シンガーズ企画ページ」でジョン・レノンを取り上げたとき、ジョン・レノンの歌唱について書いた部分と「この一曲」を選ぶ際にいろいろと考えたことだが、この時点ではあの「テロ事件」など考えもしなかったことを付け加えて読んでいただければ幸いだと思う――

――ジョン・レノンのヴォーカルからは自分の作った曲から決して自らが遊離しないというシンガー・ソングライターの究極みたいな質感を感じる(ソロ以降に顕著ではあるが、ビートルズ時代も同様)。筆者自身が事後的に体験した世代なので、ジョンのやったことは全て凄かった、みたいな「神話化」を推し進めるのもどうかと思うけれど、やはり音楽界広しといえどもかなりの強烈な個性を持つミュージシャン、シンガーだったということには多くの人が同意していただけるのではないだろうか。音楽ライターでミュージシャンやプロデューサーでもある和久井光司氏の著作によると、楽理的に言うとジョンのメロディの特徴は、コード中の7度の音がフラットしたりしなかったりという「ブルースの7度のマジック」というべきものを生かしたメロディがあるということと、リズムにアイリッシュ的な感覚が見られることだという。そうした楽理的な表現に強くない自分でもそうした明確なメロディのクセは感覚的にはわかる気がするし、実際、そうしたジョンの「クセ」の部分に共鳴するジョン・レノン・ファンは多いのではないだろうか。楽理的にどういう説明になるかも解らないし、曖昧な言い方で申しわけないが、何となく筆者にはジョンの歌(メロディや声の質感を合わせたもの)は「奇数の歌」というイメージがあり、「割り切れなさ」を表現しているように感じることがあり、これが先述のジョンの「クセ」と通じているのかもしれないな、と思う(また反対に例えばポール・マッカートニーは「偶数的」な安定感を感じさせるし、スティーヴィ・ワンダーも曲によっては違うがやや偶数っぽい気がするけれど、これはどちらがいいという話では勿論ないので、念の為)。ときにジョン・レノンの歌が「ワールド・ミュージック的」ともいわれることは、大雑把に言えば、この西洋音楽的な安定性と別のノイズ的な要素があるということでもあろうと思う。またそれに関連するところもあるが、もっと根源的なジョン・レノンの魅力として、その声の質感というところはやはり見逃せない。フィルムなどを観るとあの高音に金属質な鋭さを持つクセのある声(ときに低い声でおどけたり唸ったりしてみせたりすることもある)を聞かせてくれていて、喋っているだけでもカッコ良いのだが、それが曲で発揮された場合の味わいにはまた格別なものがあるのだ。

ジョン・レノンの歌唱がその後に及ぼした影響に触れたい。多かれ少なかれジョン・レノンの歌に影響を受けていない欧米のポピュラー系ミュージシャンというのは無意識的なものも含めれば居ないと断言してもよいのかもしれない(音楽的に直接の影響がある、ということとは違うかもしれないが)。ジョンの母違いの息子達、ジュリアンショーンの声質に似たものがあるというのは当たり前のことでもあるが、彼らはそうしたことを絶対に指摘される、という非常にキビしい状況に置かれながらも自分達の音楽、質の高い作品を作り続けている。ここでは個性は違うものの、質感的に同種の雰囲気を持つという点で、元ウォーター・ボーイズ〜現ワールド・パーティのカール・ウォリンジャーやエルヴィス・コステロなどアイリッシュ系のロック・シンガーの二人を正統的で代表的な人達として挙げたい(余談ながら90年前後、ポール・マッカートニーと競作していたコステロは、英音楽誌が企画した「ビートルズ再結成するなら誰を加入させる?」コンテスト(!?)の一位だった、確か)。

例えば20世紀の名曲として“イマジン”を選ぶことにはやぶさかではないし、実際にそのメッセージ性を否定するわけでもなく、今あえて言うべきこと、という気分もあるが、やはりこの曲に代表される「愛と平和」のジョン・レノンだけに収束してしまうのは正直言って抵抗感がある...といったようなことを考えているとまたまたワケが解らなくなる。反則ワザだし、おまえは何様だ、という気も自分でしてくるが、最後にジョン・レノンの歌における聴きどころというのを勝手にいくつか挙げてみたい。“アンナ”や“ゼアズ・ア・プレイス”、“ノット・ア・セカンド・タイム”のホロ苦さよりもそれぞれやや勝っている若さの勢い。“ツイスト&シャウト”や“マネー”での爆発的なエネルギー。“エニタイム・アット・オール”の鋭さや“ユー・キャン・ドゥ・ザット”の見栄っ張りぽいカッコつけ。“ノー・リプライ“や”アイム・ア・ルーザー“のシャープな叫び。”ウィ・キャン・ワーク・イット・アウト“のポールのメロと対をなす「ライフ・イズ〜」の部分の見事さや”ヘルプ“の切実さ。”ノルウェイの森“、”ガール“、”イン・マイ・ライフ“での内省的な抒情。”アイム・オンリー・スリーピング”、“アンド・ユア・バード・キャン・シング”、“シー・セッド・シー・セッド”、“トゥモロー・ネヴァー・ノウズ”、“レイン”、“アイ・アム・ザ・ウォラス”、“ストロベリー・フィールズ〜”などサイケ時代の名曲群、再評価著しくもはや説明要らずか。“ディア・プルーデンス”、“ハピネス・イズ・ア・ウォームガン”、“アクロス・ザ・ユニヴァース”、“カム・トゥゲザー”など後期のスピリチュアルともダイレクトなエモーションの発露ともいえる名曲群。そしてジョンの魂イマジンなどソロ作収録曲まで…。本当に挙げ出したらキリのないジョン・レノン名曲――

――と数々の曲を挙げてあれかこれかと当時考えていたのだが、あの「テロ事件」以降、これほどまでにはっきりとした形で、ジョン・レノンのメッセージ性がまた取り沙汰されることになるとは考えていなかった。ここで改めていろいろな見解を付け足して述べるつもりはないが、ジョン・レノンの「歌」がいろいろな場面において強い影響力をもつことを改めて認識させられたことだけは確かだった。

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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