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100人の偉大なアーティスト - No.30

2003年5月23日 (金)

常に自らを実験台のようにして、作品発表毎に「命がけの飛躍」を自分の活動に課しつつ、一定の成果を上げてきたマドンナという存在のユニークさというのは、同時代のアーティスト達の中でも、ちょっと類を見ない。これから同種の活動を期待できるアーティストを想像するとすれば、意外にも ベック辺りになるのではないだろうか(それとてセールス面を別にすれば、の話だが)。もともとはショウビズにおける上昇志向だったり、何が何でも勝ち組に…という負けん気だったりするんだろうけれども、それを自分は世界に愛されるべき、何故ならそれほどの努力を払っているし才能もあるから…という形で成し遂げてしまうというのはやはり並大抵のことではないように思う。ことさらな自分というものを押し広げるためには、 マドンナのように、外部の血を有効に作用させるという組織力に長けていないといけないし、それと同時に「時代の空気を読み切った」みたいなアーティスト側のみでの充足感とは別の話となってくる、セールス自体についても無自覚であることはできないのだと思う。

後にスーパー・アーティストとなるマドンナは、本名マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チコーネとして1960年8月16日、デトロイト郊外のベイ・シティに生まれる。家庭は典型的なクリスチャンの一家で、父はイタリア系移民の子、母はフランス系カナダ人だった。マドンナが6歳の頃、母が乳ガンで他界。男手で育てられた幼少時のマドンナは常に成績優秀で、ハイスクールではチア・リーダーも務めた。そのチア・リーダーの経験もあってダンスに興味を持ったマドンナは1976年、ミシガン州立大学の舞踏家に奨学生として入学。本格的にバレエやダンスのレッスンを積んだ。また同時にディスコにも入り浸るようになっていた彼女は、音楽にも関心を持つようになり、1978年に35ドルだけを手にスターの座を目指してニュー・ヨークへと向かった。

昼はファースト・フード店で働き、夜はアルヴィン・エイリー・ダンス・シアターで、ダンスのレッスンを本格的に受けるようになったマドンナは、ある日フランスのディスコ・シンガー、パトリック・ヘルナンデスのヨーロッパ公演にバック・コーラス兼ダンサーとして抜擢される栄誉を勝ち得たが、結局半年で帰国。ブレックファスト・クラブなどのローカル・バンドで歌い始め、生活費のためにヌード・モデルなども引き受けマイナーな映画にも出演していた。

1980年“エヴリバディ”を含む自作のデモ・テープを制作。これに反応したDJのマイク・カミンズによって、デモ・テープを作り直し、1982年にマイクのつてでサイアー・レコードと契約を交わした。12インチ・シングルでリリースされたデビュー・シングル“エヴリバディ”は当時のダンス・チャートで好成績を収め、翌1983年に発表された2ndシングル“バーニング・アップ”はダンス・チャートで首位を獲得するなど、順調な滑り出しを切った。

1983年8月、デビュー・アルバム バーニング・アップ(Madonna)発表。同年10月の3rdシングル“ホリデイ”(全米16位)でマドンナの名は広く知れ渡ることとなった。続くシングル“ボーダーライン” 、“ラッキー・スター”でマドンナの人気は決定的となった。1984年9月、映画 マドンナのスーザンを探してがクランク・イン。初主演を飾る。また同年発表のセカンド・アルバム ライク・ア・ヴァージン(Like A Virgin)から先行発売された同名シングルが全米1位を初めて獲得、またイギリス、ドイツ、カナダ、日本などでも首位に輝き、世界レベルで大きな人気を得た。ナイル・ロジャースがプロデュースしたアルバムの方もヒットし、全米はもちろん、のべ11カ国でナンバー・ワンを獲得し、1500万枚のビッグ・セールスとなり、セカンド・アルバムにしてマドンナの人気は早くも頂点に達した。

1985年1月には日本にプロモーション目的で初来日。またこの頃、映画ビジョン・クエストのサントラに収められた“クレイジー・フォー・ユー“が全米ナンバー・ワンを収めている。その後、同年4月からの「ザ・ヴァージン・ツアー」は大反響を呼ぶ成功を収めた。またそのツアー中に俳優のショーン・ペンと電撃婚約という出来事もあり、ファンを驚かせる行動を次々と起こしていく、マドンナらしい資質が早くも出てきている。

25歳の誕生日にショーン・ペンとめでたく結婚。しかしその新婚生活をはじめるたのも束の間、9月には次作トゥルー・ブルー(True Blue)の制作を開始。翌1986年には、レコーディングの合間を縫って、ジョージ・ハリスン制作の映画上海サプライズに夫のショーンと共演するという出来事もあった。

1986年4月サード・アルバムトゥルー・ブルー(True Blue)発表。この中から“パパ・ドント・プリーチ”、“オープン・ユア・ハート” 、“リヴ・トゥ・テル”、 “ラ・イスラ・ボニータ”の4曲のシングルが連続して全米ナンバー・ワンを記録。快挙を成し遂げた。

1987年、主演第三弾となるフーズ・ザット・ガールの公開と時を同じくして、大規模なツアーを開始。6月には初来日を果している(一部公演は風雨のために中止を余儀なくされた)。1988年になると夫ショーンとの不仲が表面化。初の舞台公演を3ヶ月間こなすという精力的な活動を見せる一方で、結局次作のレコーディング開始から間もなく離婚が決定した。

1989年3月、4thアルバム ライク・ア・プレイヤー(Like A Prayer)発表。同名シングルのヴィデオ・クリップが、宗教を汚すもの、とされイタリアはじめ各国で放送禁止となる騒ぎも起きた。また映画ディック・トレイシーで監督を務めたウォーレン・ビーティとの交際が明るみに出る一方で、別の恋人の子供を妊娠したことを新聞にスクープされた。この頃から数年間のマドンナは幾つものスキャンダラスなイメージを撒き散らしていくことになる。

1990年に映画ディック・トレイシーのイメージをそのまま受け継いだコンセプチュアルな異色作アイム・ブレスレス(I’m Breathless)を発表。それと前後してシングル“ヴォーグ”が200万枚以上という空前の大ヒットを記録。また同年10月に初のベスト・アルバム ウルトラ・マドンナ―グレイテスト・ヒッツ(Immaculate Collection)をリリース。新曲として収録されたレニー・クラヴィッツ作“ジャスティファイ・マイ・ラヴ”が全米1位を記録するが、曲やヴィデオの官能的すぎる、といった理由で、世界各国で放送禁止となったりもした。

1991年マドンナ自身のドキュメンタリー映画イン・ベッド・ウィズ・マドンナ公開。またウッディ・アレンの影と霧に端役で出演したり、プリティ・リーグで重要な役どころを演じるなど、映画への意欲を積極的に見せた。またこの頃、バルセロナ・オリンピック支援のオムニバスに収録された“マイ・プレイグラウンド”が全米ナンバー・ワンとなっている。

この年にマドンナは、米タイム・ワーナー社と6000万ドルという高額で契約。これに伴って音楽、TV、映画などの広いメディアをカヴァーするマドンナ独自の会社「マーヴェリック」を設立。後にこのレーベルからはアラニス・モリセットミシェル・ンデゲオチェロなどユニークな女性アーティストが生まれている。

1992年10月、エロティカ(Erotica)発表。 “ディーパー&ディーパー”などのヒットを記録。その後エロティカ(Erotica)の世界を写真というメディアで表現する話題作“SEX”出版。さらに強烈なセックス・シーンやヴィジアルの世界が話題となった主演映画 Bodyの公開、やはりエロティシズムを強調したワールド・ツアーを敢行、と世間に大いに話題を提供すると共に、アーティスティックでもあり、優れてポップでもある表現を見せつけ、マドンナはその圧倒的な存在感を示すこととなった。

1994年、映画ウィズ・オナーズ/きっと忘れないの主題歌”アイル・リメンバー”や、”シークレット”をヒットさせたマドンナは10月にベッドタイム・ストーリーズ(Bedtime stories)を発表。1995年にはベスト・アルバムの第二弾、ベスト・オブ・マドンナ〜バラード・コレクション(Something To Remember)をリリース。マドンナ自身のバラード系の名曲に加えて、新曲としてマーヴィン・ゲイのカヴァー”アイ・ウォント・ユー”などが収められた。

1996年、アンドリュー・ロイド・ウェーバーらのミュージカルを基にした映画エヴィータに主演。イタリアの女性を演じ、映画自体も高い評価を受け、オスカーにもノミネートされた。また同時にサントラ盤エヴィータ~オリジナル・サウンドトラックもリリースされている(同サントラのコンプリート版もある)。

映画でもひとしきりの評価を決定づけたマドンナは、1998年になると音楽の世界に舞い戻った。テクノ/エレクトロの奇才、ウィリアム・オービットを迎え、クラブ・シーンにも対応したアルバム レイ・オブ・ライト(Ray Of Light)を同年春に発表。ただクラブ・シーン以外でも、そのスケール感溢れる、たゆたうようなトリップ・ホップ感覚に通じるような音世界は、好評を博し、広い層のリスナーに受け入れられたことも付け加えたい。レイ・オブ・ライト(Ray Of Light)は、マドンナの本格的な音楽活動再開を告げた作品となった。

その後、1999年には映画オースティン・パワーズ・デラックスサントラ ”ビューティフル・ストレンジャー” で参加。また同年こちらも映画となる『二番目に大切なこと(Next Best Thing)』に主演とサントラ曲提供で参加。中でも”アメリカン・パイ”ドン・マクリーンの70年代ヒットのカヴァー曲)はヒットを記録した...という具合にマドンナは再び映画仕事で1999年を終えた。

2000年になるとマドンナ新作アルバムのウワサも大きくなってきたが、新しく生まれてくる赤ん坊の誕生に合わせてアルバムの発売日を設定するため、わざと延ばしているのではないか、といったウワサがまことしやかに語られた。8月にマドンナは出産、男児が誕生(マドンナは90年代半ばからシングル・マザーとしての人生を選択している)。そして9月にアルバム ミュージック(Music)を発表した。前作が完全なるものや奥の深さを目指した作品だとすれば、この作品は誰よりも完全主義者なマドンナが、感覚重視の傾向に傾いた作品として記憶されることになるのではないだろうか。デコボコに感じられる個性的な楽曲を使って、柔らかな統一感を作る、といったような手法や、本人が語るようなフランス60〜70年代ポップのいかがわしさ(これらと同時にマドンナ特有の情感の豊かさを示す切ない歌感覚は健在である)といったようなものは、再びマドンナをポップ・フィールドの真ん中に舞い降りさせることを約束しているような気がする。

2001年には90年代のマドンナを総括するベスト・アルバムGhv 2をリリース。2003年には映画「007」シリーズ最新作のダイ・アナザー・デイの主題歌に起用された“ダイ・アナザー・デイ”を大ヒットさせ、アルバム、アメリカ・ライフ(American Life)を発表。表題曲のヴィデオ・クリップが戦争をイメージさせる内容のため放送を自粛するなど、話題に事欠くことはない。

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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