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100人の偉大なアーティスト - No. 35

2003年5月18日 (日)

 Ella Fitzgerald の声の魅力は、張りのある高音とスキャットになったときに、搾り出すように歌う独特のグルーヴ感、そして、何よりステージでの清々しいまでの爽やかさである。
 どこか隣のお店のオバチャンが歌う、そんな安心感と、歌い始めたときのスピードに乗った素晴らしいスイング感は御三家随一だ。若くしてビッグバンドの女性リーダーとして責任を持ったエラは、どこか安定感では一番だった。

 ヴォーカル御三家の中で、最も長い間活躍し、ほかの誰もが成し遂げていないグラミー賞13回受賞という実績はアメリカのポップス界全体を見渡しても他にはいないだろう。実際にエラが健在時のグラミー賞受賞式では、会場の参加者全員がスタンディング・オベイションでエラを称える姿が目撃された。

 エラ・フィッツジェラルドは、1917年4月25日、ヴァージニア州ニューポート・ニュースに生まれている。ここからすぐにエラは移住する。しかし、実の母が亡くなったときにエラは継父のところから家出し、ハーレムで歌を歌ったり踊ったりして「お金を稼いでいた」といわれている。

 子供のときから踊りが好きだったエラは、1934年、16歳の時に、今や「ニューヨークの音楽と芸能の登竜門」と言われている“アポロ・シアター”に出演した。奇抜な服装で臨んだエラはすっかりあがってしまって、踊りで挑戦のはずが歌を歌う羽目になってしまった。好きだったコニー・ボスウェルの「ジュディ」と「ジ・オブジェクト・オブ・マイ・アフェクション」を歌ったエラはコンテストに優勝した。

 続いて“ハーレム・オペラ・ハウス”でもエラはコンテストに優勝した。その賞品は1935年2月16日から1週間の“ハーレム・オペラ・ハウス”への出演だった。プロ歌手エラ・フィッツジェラルド誕生の瞬間である。それ以降、紆余曲折はあったにしても、“幸いなことに”、Chick Webb のバンドに雇われたエラは、チックのバンドでプロ生活を始める。複雑な家庭で育ったエラにとってチックは父であり良き指導者であった。エラはこのバンドで数年を過ごすが、彼女は自分をアピールするという意味も含めて独特の歌い方を考え実践する。その最も典型的な例が「A Tsket A Tasket」である。この曲はチックにとって生涯唯一の“ナンバーワン・ヒット”となり、1938年のヒットチャートのトップを一年近くも走りつづけた。20歳を前にしてエラはハーレムの星になっていた。
 翌1939年には「アンデサイテッド」がヒット、しかし、チックの突然の死によってエラは1942年までバンドリーダーを兼任することになる。

 その後、独り立ちしたエラはデッカ・レコードへ録音を続けヒット曲を生み出している。この頃のエラは様々なゲストを呼んだり企画物を録音したりと、忙しい活動を続けている。声は1930年代よりは大人っぽくなり、声量も増して、既に女王の貫禄を身に付け始めている。

 1940年代も後半となり、エラはノーマン・グランツが企画するJATPに参加する。多くの大物ミュージシャンに伍してエラは見事にステージをつとめた。この頃の優れたインストの名手たちとの共演経験が、スキャットにおける彼女の素晴らしい歌唱法を生み出した。Ray Brown とはこの時期一時結婚していたし、Louis Armstrong ともデュエットの傑作を録音することになる。

グランツはJATPにおけるエラの歌をじっくり聴きこんだ後に契約、彼女の歌声がいわゆる今で言うところのスタンダード・ソングにぴったりなところを見抜き、多くのアメリカの作曲家の作品を歌わせた。
エラは、“ジャズ以外のジャンルの聴衆にとって最も有名なジャズ歌手”として、1996年に亡くなるまで61年間の現役生活を続けたことになる。

 Billie Holiday が、天性の声に苦しい人生経験を重ねて心の奥底を抉り出すような歌を歌ったのに較べ、幼少時の不幸はあったにしても、生まれついての明るさを持ったエラの歌は清々しささえ感じる。
 また、スキャット唱法におけるスリリングなスピード感は他の誰をも追随を許さなかった。「Verve Label」に残された膨大なレコーディングは様々な編集方法で発売され、今でも新しい多くのファンを獲得している。

 中では「ソングライター物」が際立っているが、サッチモとのデュエットに加えて、後年にはグランツが自分が好きなパブロ・ピカソのファースト・ネームを採って付けた「パブロ・レーベル」からは、Joe PassTommy Flanaganとの名コンビによる作品など,最後まで衰えを知らない作品を送りつづけた。

 エラがほかの歌手に与えた影響は、Sarah Vaughan と共に最も広く大きい。モダン。スイングともいっていいスイング感とスキャットにおける手法こそは、ジャズ・ヴォーカルの多くの後進たちに圧倒的な影響を与えた。近年、そのエラに捧げた『Dear Ella』を発表して、自ら、スキャットをはじめとする「エラ的な」ジャズ・ヴォーカルの正統的な後継者であることを宣言したDee Dee Bridgewaterこそは、エラの伝統を最も正当に現代に伝える歌手の一人だ。

 いま21世を超えて「20世紀アメリカが生んだ最も素晴らしい文化遺産」のひとつであるジャズが新たな認識を獲得しつつある。そうした意味からは、いまだ人種差別の横行する時代から活躍を続け、常に聴くものに楽しい気持ちを味あわせてくれたエラ・フィッツジェラルドこそは、「ノーベル平和賞」に値する存在だったといえるかもしれない。

 「グラミー賞」授賞式における、老若男女人種を超えた、エラへのスタンディング・オヴェイションの映像はアメリカの良心の存在の一部を見る思いだった。

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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