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100人の偉大なアーティスト - No. 98

2003年3月16日 (日)

「デルタ・ブルースの父」「デルタブルースの創始者」と呼ばれ、伝説のブルースマンとして崇められているチャーリー・パットンにまつわる資料は意外と少ない。生誕についても謎に包まれており、1900年に行われた国税調査によるとビル(父)とアニー(母)を両親に1891年4月に生まれたという説もあるが、1881年生まれとも1887年生まれとも言われている。

アルバム・ジャケットやその他で現存する唯一のチャーリー・パットンの写真をご覧になればお気づきであろうが、彼は純粋なアフリカン・アメリカンではない。父ビルは黒人であったが、母アニーがインディアンと白人の血を引いている。アメリカの州のうち幾つかは黒人の血が64分の1でも入っていたらばそれはもう白人ではないと見なす州法があるという。こうした白人でもなく黒人でもないマイノリティーとしての生い立ちを過ごした事が後の音楽に反映されていることは言うまでもないだろう。

チャーリーが生まれて数年が経つとパットン一家はミシシッピー州ハインズからドッケリー・プランテーションへと移り住む。パットン一家はドッケリー農園より土地を借り、そこで得た農作物を生活の糧へとしていった。ドッケリーに移り住んでから数年後、パットン一家は自らの土地を持つまでになった。経済的にチャーリー・パットンは比較的恵まれた環境で育ったといえる。それを裏付ける出来事としてチャーリー・パットンは当時の小作人よりはるかに高い教育を受け、ある程度の読み書きも出来たと伝えられている。

父ビル・パットンは厳格なクリスチャンでチャーリーが世俗音楽に没頭していく事をひどく嫌ったという。世間一般では当時音楽を聴く人間など不良、ましてや演奏する側など言語道断。そのような音楽が流れる場などまさに不良の溜まり場。すでに音楽に魅せられていたチャーリーは土曜の夜になると家を抜け出し、パーティーに出かけていった。そいった不良の溜まり場に行く事を恐れた父が仕方なしに買い与えたのがギターであった。パットン一家の近隣には音楽一家のチャットマン家があり、そこに出入りしては演奏を共にし数多くのレパートリーをマスターしていった。そうした毎日が続きミュージシャンとしての力量も備わってきた頃にもなるとジューク・ジョイントやハウス・パーティー、食料品店の客寄せの為に演奏をこなし、評判を得たチャーリーはちょっとしたローカル・ヒーローとなっていった。チャーリー の甥トム・キャノンの後日談では「彼が演奏すると何百人も人が集まって大変な騒ぎだった」という。

音楽に目覚めその道を志してから20年近くが経とうとしていた1929年、レコーディングのチャンスが訪れようとしていた。数多くのカントリー・ブルース歌手を抱えるパラマウント社が次なるスターとして パットンを指名したのである。同年6月14日インディアナ州リッチモンドにてパットンの代表曲とも呼べる14曲が吹き込まれた。その後34年まで数度のレコーディングを経験し60曲ほどの録音を残す。30年には盟友サン・ハウス、ウィリー・ブラウン、ルイーズ・ジョンソンらとのセッションも残し、34年最後のレコーディングの直後4月28日、持病の心臓病で帰らぬ人となった。この死亡説にも諸説あって、毒殺、刺殺、落雷、伝染病、他の病気など…。死の翌日には本人の遺言により教会のからすぐの墓地に埋葬されている。

チャーリー・パットンはデルタ・ブルースの創始者ではあるがブル−スという音楽を創り上げた訳ではない。BBキングマディ・ウォーターズといった誰もがその名を知っているブルースマンでもない。どちらかといえば知る人ぞ知るといった形容の方が似合っている。 しかしパットンの地響きのように唸るギター、力強いヴォーカルは彼の後に続いたロバート・ジョンソンハウリン・ウルフエルモア・ジェイムスなど数限りないデルタ・ブルース・ミュージシャンに多大な影響を与えた。つまりは今日の「ロック」の根源ともいえるのがチャーリー・パットンのブルースなのである。

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