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2016年4月20日 (水)

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アルゲリッチ/DGショパン録音全集(5CD)

アルゲリッチの国際的なキャリアは、1957年8月にブゾーニ国際ピアノ・コンクールで優勝、9月にジュネーヴ国際ピアノ・コンクールで優勝し、各地で演奏するようになって名を知られるようになったあたりから始まっており、ドイツ・グラモフォンへのレコーディングもショパン・コンクール優勝のだいぶ前に開始されていました。とはいえ、ショパンの録音が活発化するのは、やはりショパン・コンクール優勝後のことで、3枚のアロ・アルバムと2曲の協奏曲録音をおこなったほか、チェロと組んだ室内楽アルバムも2枚制作しています。
 アルゲリッチのソロが聴ける独奏曲と協奏曲については、20代なかばから30代なかばにかけての収録で、室内楽は39歳の時と59歳の時の収録ということになります。
 まだ若かっただけに、独奏曲と協奏曲では、高度なテクニックに裏打ちされたダイナミックで勢いのある演奏を楽しむことができます。シューマンを好むアルゲリッチならではのショパン解釈なのか、繊細さや感傷よりは、音と音のぶつかりあいが生み出す明暗のコントラストや陰影、高揚・沈潜といった要素が重視されているかのようです。(HMV)

【収録情報】
Disc1

ショパン:
1. ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 Op.35
2. ピアノ・ソナタ第3番ロ短調 Op.58
3. スケルツォ第2番変ロ短調 Op.31
4. スケルツォ第3番嬰ハ短調 Op.39
5. 舟歌 嬰ヘ長調 Op.60

Disc2
6. 24の前奏曲 Op.28
7. 前奏曲 嬰ハ短調 Op.45
8. 前奏曲 変イ長調 Op.posth
9. 3つのマズルカ Op.59
10. アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22
11. ポロネーズ 変イ長調 Op.53『英雄』
12. ポロネーズ 変イ長調 Op.61『幻想』

Disc3
13. ピアノ協奏曲第1番ホ短調 Op.11
14. 序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 Op.3
15. チェロ・ソナタ ト短調 Op.65

Disc4
16. ピアノ協奏曲第2番ヘ短調 Op.21
17. チェロ・ソナタ ト短調 Op.65

Disc5
18. バラード第1番 Op.23
19. エチュード第4番 Op.10-4
20. マズルカ第26番 Op.41-1
21. マズルカ第27番 Op.41-2
22. マズルカ第15番 Op.24-2
23. マズルカ第40番 Op.63-2
24. マズルカ第23番 Op.33-2
25. ノクターン第4番 Op.15-1
26. ノクターン第16番 Op.55-2
27. マズルカ第36番 Op.59-1
28. マズルカ第37番 Op.59-2
29. マズルカ第38番 Op.59-3
30. ピアノ・ソナタ第3番 Op.58

 マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
 ミッシャ・マイスキー(チェロ:14,15)
 ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ:17)
 クラウディオ・アバド指揮、ロンドン交響楽団(13)
 ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮、ワシントン・ナショナル交響楽団(16)

 録音:1959〜2000年


【ショパン・プロフィール】

二つの名前
ショパンはポーランドに生まれた作曲家ですが、成人してからは父親の国であるフランスを中心に暮らしていたこともあって、通常、「フレデリック・フランソワ・ショパン」というフランス名で呼ばれ、祖国ポーランドでは「フリデリク・フランツィシェク・ショペン」と呼ばれています。

フランス系ポーランド人
ショパンの父親、ニコラ・ショパン[1771-1844]は、10代のなかばからポーランドで暮らしていたフランス人で、ポーランド解放軍に従軍したのちは家庭教師となってポーランド貴族の家庭で子女にフランス語を教えて過ごし、やがて同じく貴族の家庭で働いていたポーランドの没落貴族の子女であるユスティナ・クシジャノフスカ[1782-1861]と結婚し、フレデリックが生まれることとなります。なお、父の名はポーランド名ではミコワイ・ショペンとなります。

体質
ショパンは肺結核のため39歳という若さで亡くなっています。結核には生涯を通じて悩まされており、17歳の時には2歳下の妹エミリアを同じ病気で失っています。インフルエンザでもショパンは重態に陥るなど、その華奢な体はあまり健康には恵まれていませんでした。

恋愛
幼少からピアノの練習と作曲の勉強に明け暮れ、体もあまり丈夫ではなかったショパンですが、よく知られている話としては4人の女性への恋愛事情が知られています。
 最初の女性は19歳のときに出会った歌手のコンスタンツィア・グワトコフスカで、残念ながら片思いに終わってしまうものの、その心情はピアノ協奏曲第2番の第2楽章に結実しています。
 2人目は、ポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家の令嬢マリアで、婚約にまで至りますが、翌年、マリア側から破棄されてしまいます。
 3人目は、作家のジョルジュ・サンドで、9年間に渡る交際の中、さまざまな名曲が生み出されます。
 4人目は、歌手でもあるデルフィヌ・ポトツカ伯爵夫人。彼女は古くからショパンと交流があり、死の床にも駆けつけたとされる人物で、若き日のピアノ協奏曲第2番と晩年の『小犬のワルツ』が捧げられてもいます。

使用楽器
ショパンが活躍した19世紀前半は、ピアノという楽器がまだまだ進化の途中だったとされる時代で、そのサウンドは現代の楽器とは少なからず違ってはいたものの、それでも古典派時代のフォルテピアノに較べると大きな変貌を遂げており、ショパンの作曲意欲を刺激するのに十分な機能を持ち合わせていたものと思われます。
 実際に当時の楽器で演奏されたCDもリリースされていますが、1840年代に製造されたものは、現代のピアノとはまた違った魅力に富んでおり、ショパンが思い描いたイメージをリアルに再現するという意味でも、たいへん興味深い仕上がりを示しているものが多いようです。  時代楽器によるショパン演奏
ピアノの可能性を探求
そうした機能面で恵まれた楽器に接していたこともあってか、ショパンのピアノ音楽は、それまでの作曲家の書いたピアノ音楽には無かった、非常に繊細で抒情的な美しさや、ダイナミックな表現にまでさまざまな感情の込められたものなど、独自の工夫を感じさせるものが多く、オペラや交響曲には目もくれず、ピアノという楽器に没入したショパンならではの、音楽表現の可能性の探求がなされているのがポイントといえます。

ピアノ曲以外の音楽
人生の中心がピアノだったショパンは、作曲した曲もほとんどがピアノ曲ですが、わずかながら室内楽曲や歌曲も書いています。チェロ・ソナタは親友のチェリストで作曲家のオーギュスト・フランショーム[1808-1884]のために書いたショパン晩年の作品で、同じ時期にヴァイオリン・ソナタにも着手していることから、ショパンがピアノ曲以外のジャンルにも積極的になっていたことが推測されています。
 歌曲については、歌が好きで幼いショパンにいつも歌って聴かせていた母親の影響や、歌手だった恋人たちの影響もあるものと思われます。

年表
ポーランド時代[1810-1830]
1810
0歳。ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラに、フランス人の父とポーランド人母の間に誕生。生後六ヶ月でワルシャワのサスキ宮殿近くに転居。
1814
4歳。母や姉からピアノ演奏を習い始めます。母はピアノと歌が得意でした。
1816
6歳。ヴォイチェフ・ジヴニーからピアノの指導を受け始めます。
1817
7歳。最初の作品『ポロネーズ ト短調』を作曲。スカルベックの援助で出版。
1818
8歳。ワルシャワでイーロヴェッツのピアノ協奏曲を演奏。
1821
11歳。師のジヴニーの誕生日のために名技的なポロネーズを作曲して献呈。
1823
12歳。フェルディナント・リースのピアノ協奏曲を演奏。ワルシャワ音楽院長ユゼフ・エルスネルから対位法、和声学を学び、ヴィルヘルム・ヴュルフェルからオルガンの指導を受けます。
1825
15歳。高等学校の正式なオルガニストになります。
1826
16歳。高等学校を退学しワルシャワ音楽院に入学。
1827
17歳。妹エミリアが結核で死亡。
1828
18歳。ベルリンに行きウェーバーの『魔弾の射手』、チマローザの『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を鑑賞。
1829
19歳。声楽のコンスタンツヤ・グワトコフスカに恋愛感情を抱き、ピアノ協奏曲第2番の第2楽章にその気持ちを反映。ワルシャワ音楽院を首席で卒業し、ウィーンで演奏会を開催。
1830
20歳。ピアノ協奏曲第2番をワルシャワで演奏。ウィーン行きを決め告別演奏会を開催。ピアノ協奏曲第1番を演奏し、ショパンの希望でコンスタンツヤはロッシーニの『湖上の美人』のアリアを披露。その後、コンスタンツヤから別れの詩を贈られ、ウィーンに出発。ウィーン到着後、まもなくワルシャワ蜂起がおこります。
1831
21歳。ワルシャワ蜂起の影響もあり反ポーランドの色が濃くなったウィーン楽壇では演奏する機会がなかなか得られず、7月にウィーンを去り、8月、ミュンヘンでピアノ協奏曲第1番ほかによる演奏会を開催。翌月、シュトゥットガルトでワルシャワ蜂起の失敗を知り、パリに向かいます。パリ到着後、デルフィヌ・ポトツカ夫人と再会。

フランス時代[1831-1849]
1832
22歳。2月、プレイエル・ホールでカルクブレンナーと演奏会開催。リスト、メンデルスゾーン、ヒラー、ベルリオーズらと親しくなります。
1833
23歳。リスト、ヒラーと共にバッハの3台のピアノのための協奏曲を演奏。ベッリーニと知り合い友情を深めます。
1835
カールスバートで両親と最後の再会。かつて親交のあったポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家のマリアとドレスデンで再会し、ワルツを献呈(後に『別れのワルツ』と呼ばれる曲)。 ハイデルベルクとパリで喀血、ショパン重態説が流れます。
1836
26歳。マリア・ヴォジンスキに求婚。リストの愛人マリ・ダグー伯爵夫人のサロンでジョルジュ・サンドを紹介され、その後、ショパン宅の夜会にサンドを招きます。
1837
27歳。2月、インフルエンザ罹患。7月、ヴォジンスキ家から婚約が破棄。
1838
28歳。アルカンの演奏会に出演。サンドとの交際がスタート。結核療養のためマジョルカ島に4ヶ月滞在しますが病状は一進一退。
1839
29歳。4月、友人の歌手ヌーリが自殺し、鎮魂ミサでオルガンを演奏。6月、サンドの別荘のあるフランス中部のノアン村(パリの南約270キロ)に到着、夏を過ごします。
1840
30歳。モシェレスと共にサン・クルー宮殿で御前演奏。
1841
31歳。4月、プレイエル・ホールで演奏会開催。6月、ノアンに出発。11月、サンドの住むピガール街に転居。
1842
32歳。2月、プレイエル・ホールで演奏会開催。4月、親友マトゥシニスキの死を看取ります。5月、ノアンに出発。
1843
33歳。5月、ノアンに出発。10月、パリに戻ります。体調の悪化に伴い、サンドの交友相手に嫉妬。
1844
34歳。冬、インフルエンザにより重態。春、回復。5月、父親死去。5月、ノアンに出発。11月、パリに戻ります。サンドの息子モーリスとの感情的対立が深刻に。
1845
35歳。3月、病状悪化。6月、ノアンに出発。7月、サンドの娘ソランジュとショパンの心の繋がりが強まり、サンドは息子モーリスとの繋がりを強めて対立的に。
1846
36歳。5月、ノアンに出発。モーリスとの関係、さらに悪化。9月、健康状態悪化。
1847
37歳。サンドのいない新年。インフルエンザ罹患。5月、喘息の発作で一時重態に。7月、ソランジュをめぐるいざこざもあり、サンドから別れの手紙。
1848
38歳。 2月、プレイエル・ホールで演奏会開催。パリで最後の演奏会。4月、ロンドンに出発。ヴィクトリア女王の御前演奏。エディンバラ、マンチェスター、グラスゴーなどでの演奏会を経て10月ロンドンに戻ります。ひどい風邪で呼吸困難に。11月、パリに出発。喀血。体調悪化。
1849
39歳。冬の間病床。春、小康状態に。6月、シャイヨに転居。大量の喀血。この頃、大流行したコレラにより友人のカルクブレンナー、カタラーニが死亡。8月姉ルドヴィカと再会。9月、パリ中心のヴァンドーム広場のアパルトマンに転居。10月、病状悪化、デルフィナ・ポトツカ夫人、病床を見舞い歌う。10月17日、死去。  葬儀はパリのマドレーヌ寺院でおこなわれ、モーツァルトのレクィエムが演奏されました。これは、ショパンの生前の希望によるもの。遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬。
1850
1月、ショパンの意向により、心臓が姉ルドヴィカによってポーランドに持ち帰られます。
1855
1月、ワルシャワの聖十字架教会に心臓が安置されます。
※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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発売日:2016年05月27日
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