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2013年12月20日 (金)

連載 鈴木淳史のクラシック妄聴記 第52回

「ソコロフの穴をソコロフで埋める」

 冒頭の一小節で「こりゃ失敗だったかも」と思った。一曲目の最後の音がホールから消えたとき、腰が2センチほど浮いた。さっさと帰ってビールでも浴びるべさ、と身体が即座に反応したのだった。でも、ここは我が身に染みついた貧乏性、いやそれよりも、この演奏のダメさは何なんだろうと見極めたい好奇心に駆られ、再び腰を座席に落ち着けた。
 それにしても、この中米出身のピアニストは、なぜヴィラ=ロボスやアルベニスをこんなにムッツリ、つまらなそうな顔付きで弾くのだろう。表現は一辺倒で、フォルテは硬いばかりで耳が痛くなる。二曲目の演奏最中から、席を立って帰る人もちらほら出始めた。
 
 演奏会前、窓口で控えを差し出すと、「グレゴリー・ソコロフ」と印字されたチケットを手渡された。そうなのだ、ソコロフのピアノを聴くためだけに、旅程を二日延長してウィーンに留まったのだ。現地に着くなり、ソコロフはキャンセル、代役のピアニストは某です、いい奴です、よろしく、などというホールからの淡々としたメールを着信。ソコロフはここ二ヶ月あまり病気でヨーロッパ各地の演奏会をキャンセルしていたので、深憂抱いていたものの、それが現実になると鼻のあたりをぐわんと殴られたような心地がする。それにしても、長期の病気となると心配だ。
 この時期に旅程を変更するのは財政的にリスクあったし、この地で他に聴くべき演奏会もないし、代役は聴いたことないピアニストだったし、ラテン系好きだし、面白かろ、掘り出し物かもしれん、と思って払い戻しもせずに席に着いたのが間違いだった。ソコロフ!ソコロフ!と興奮しながらポチったので、この日まで気づかなかったが、チケットの値段も決して安くなかった。

 後半、ブゾーニのカルメン幻想曲あたりからピアニストの表情も柔らかくなり、お国モノのゲレーロのハバナ組曲はノリが急に良くなり、最後のラ・ヴァルスは、味も素っ気もなかったけど、その猛然たるド迫力だけで聴かせてくれた。超絶技巧とノリだけで弾いちゃうピアニストなのだなあ、それらが通用しない、あるいは同時に成り立たない曲はまったくダメなのかも、とわたしは彼を結論づけた。急な代役でコンデションも良くなかったろうし、慣れぬウィーンの聴衆を前にして変な緊張感がプログラム前半に出てしまったのかもしれんな、といささか同情を交えつつ。
 ともあれ、ソコロフとはまったく違うタイプのピアニストであったのは確か。その夜のビールはひときわ苦いのだった。

 帰国して、しばらく聴いていなかったソコロフのディスクを取り出す。録音とかレコードとか嫌いなアーティストといわれているらしい彼のディスクはそれほど多くない。若いときのメロディア音源と、ナイーヴ・レーベルから出ている10点に満たぬアルバムだけがほぼすべてだ(ナイーヴ・レーベルの音源全部が入った格安BOXが販売されている。これはお得すぎる)。
 まずは、ショパンのエチュード集op.25。この曲集を面白く聴かせてくれるピアニストは少なくないけれど、やはりソコロフの柔軟なスタイルはスペシャルなのだ。左右のタッチの柔らかさと硬さが交差して輝かしく響く第5番、決して音は濁らせずに巨大な造形で聴かせる第11番や第12番。
 このエチュード集とカップリングされているソナタ第2番は、コントラストは激しいし、組み立てはクールなのだが、実にショパンらしいエモーショナルな抑揚もある。決して過剰なところはまるでなく、収まるところにスッキリ収まることの心地良さ。

 先日わたしが聴き逃しソコロフのリサイタルでは、このショパンのソナタ第2番に加え、シューベルトの「3つのピアノ曲 D.946」を弾く予定だった。後者は、先月クン=ウー・パイクのリサイタルで聴いたばかりだったので、その憑依系どよーん演奏とは方向性が180度異なるシューベルトを楽しめるんじゃないかと期待していたのだった。
 ソコロフの同曲録音は残念ながら出ていないが、シューベルトの抒情性に加え、その明晰さとスケール感が両立しているソナタ第21番が入ったディスクがいい。
 シューベルト晩年の大規模なソナタは、前半ロマンティシズムの気配が濃厚な前半と、古典的にどっかと構えた後半とで、半獣半人的な音楽になりがち。それをソコロフは、上半身と下半身をするする一続き、一体感をもって聴かせるのが格別に上手いのである。
 色彩的で丁寧なタッチ。ズブズブと細部描写にハマってしまうこともなく、一つひとつが明晰に弾かれているのだけど、全体をその憂いがかったトーンがさりげなく覆っている。研ぎ澄まされた緊張感のうちに。

 だから、バッハもベートーヴェンもプロコフィエフもすばらしい。いや、このピアニストが録音した演奏で不満を覚えることは一度もない。同じロシア・ピアニズムの流れを汲むアナトリー・ヴェデルニコフの現代版であり、さらにその極上のピアニズムは、あのミケランジェリにも充分に匹敵するんじゃないか。それが、わたしのソコロフのイメージである。こんなことを書いていると、ますます生演奏を聴き逃した古傷がズキズキ痛む。

 ソコロフは新しい録音も途絶えてるし、飛行機や時差が苦手らしく、日本にもやって来ない。北米あたりまでは演奏旅行しているらしいのだけど、アジアまでは無理なのか。それとも、1990年代に最後に来日したときよほど嫌な思いをしたのか。
 ソコロフを日本へ招聘しようとした人は少なくないだろう。とあるホールの人は「8年間毎年オファーしたけど断られ続けて、今はすっかり諦めました」と憑き物が落ちたような爽やかな笑顔で語った。まあ、取扱いがひじょうに面倒くさい演奏家であることは確かのようだ。
 伝説化してしまうのも困るが、近いうちにどこかで聴ければいいか。今はゆっくり療養に努めて欲しい。また行くからねえ。

(すずき あつふみ 売文業) 

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