もうひとつの表現域としてのライヴの場が存在
中山康樹(音楽評論家)
最近は、
キース・ジャレット『サムホエア』と
ウエイン・ショーター『ウイズアウト・ア・ネット』のあいだを行ったり来たりしている。きのうはキース盤の《トゥナイト》を聴き、次にショーター盤の《ペガサス》を聴いた。そしてショーター盤について考えた。ショーターの『ウイズアウト・ア・ネット』は超ド級の傑作だが、わずかに疑問が残る。だからといって評価が下がるわけではないが、ぼくが考えていることとは、つまりはこういうことだ。
『ウイズアウト・ア・ネット』は、ライヴ音源を再構築することによって、1枚のアルバムとして完結した世界観をつくり上げた。スタジオとライヴの狭間にある、異質にして唯一無二のサウンドというべきか。したがって大きくライヴ・レコーディングとは謳われず、最後の曲はフェイドアウトという手法で閉じられる。疑問に思うのは、では同様の手法を用いれば、超ド級の傑作が無数につくられるのではないかということだ。水準以上のライヴ音源を素材に新たに再構築して順次アルバム化していけば、それこそ傑作や名盤を毎日のように生み出すことだってできる。だから超ド級ではあるけれど、ショーターにとっては奇跡でもなんでもなく、これが「フツーの演奏」なのかもしれない。
しかし、とここで立ち止まる。ショーターは、あえてこのような手法をとった。それはライヴでしか生まれえない瞬間的な創造の爆発をアルバムという「かたち」のなかに封じ込めたかったからだろう。
そういった「ライヴの神秘」を、キース・ジャレットは昔から信じてきたように思う。通称スタンダーズ・トリオのアルバムに圧倒的にライヴ・アルバムが多いのは、そうした理由によるものではないか。当たり前のことだが、片っぱしからライヴ・レコーディングをして、それらを適当にライヴ・アルバムとして発表しているわけではない。スタンダーズ・トリオが残した、数少ないスタジオ録音盤と多数のライヴ盤の関係は、ぼくにはいまだに謎の部分が多い。スタジオ録音の再現がライヴということではなく、そのライヴにしても、前言を翻すようだが、周到に準備された上で発売スケジュールが決められているとも思えない。明白なことは、スタンダーズ・トリオは、スタジオ録音よりもライヴのほうが圧倒的に自由度が高く(しかしそれは「ライヴだから」という理由だけではない)、トリオの演奏は、時に途方もない地点に着地する。スタジオ録音では、それがあらかじめ見える場合がある。
ここから話はさらにややこしくなるが、ぼくがいっていることは、「ジャズはライヴに限る」とか「制約の多いスタジオから解放されたライヴだからこその自由な展開」といったことではない。キース・ジャレット(とウエイン・ショーター)は、スタジオでもライヴ会場でもない、もうひとつの表現域としてのライヴの場が存在することを知っているように思う。第3のライヴとでもいうべきか。
先に挙げたショーター盤の理屈からいけば、したがってスタンダーズ・トリオのライヴ・アルバムに凡作がなく、すべてが傑作かそれに準じる作品であることは、むしろ当然かもしれない。ややキース寄りにみれば、ショーターが目論んだかもしれないことを、キースはすでに30年近く前に発見し、スタンダーズ・トリオをその実践の場として捉えているということになる。ふつう、これだけライヴ・アルバムがつづけば、さすがに食傷気味になるだろう。しかしスタンダーズ・トリオの演奏には、そういった限界や弱点がまったく感じられない。それどころか、あえて意識しなければ、それがライヴ・レコーディングであることを忘れることさえある。
最新作の『サムホエア』は、時系列としては過去(09年)のライヴ・レコーディングに入るが、スタンダーズ・トリオの場合、先のショーター盤とともに、そうした「時間」がどのような意味があるのだろうかと疑問に思う。記録としての側面を宿命的に背負いこむライヴ・アルバムに「時間」が存在しないという音楽的・創造的真実。
最後に新たな疑問が出たところで、これから2枚のアルバムをまた行ったり来たりしよう。さて、きょうはどの曲を聴こうかな。
中山康樹 (なかやま やすき)
音楽評論家。1952年大阪府生まれ。最近はローリング・ストーンズ3部作(『ローリング・ストーンズを聴け!』『ローリング・ストーンズ全曲制覇』『ローリング・ストーンズ解体新書』)の執筆に没頭していたが、今年の後半にはジャズ書を執筆予定。目下研究・検証中のミュージシャンは、ゲイリー・バートン。いつか一冊にまとめてみたいと思っている。ジャズやロック、マイルスやビートルズ関連の著作多数。