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「クラシックは狂気の音楽」

2012年2月13日 (月)

連載 許光俊の言いたい放題 第202回

「クラシックは狂気の音楽」

 少し前に、カルロス・パイタの破滅的・破壊的なワーグナー演奏について述べたが、正月休みを利用して、大野和士のバイエルン州立歌劇場デビューとなる「さまよえるオランダ人」をミュンヘンに聴きに行った。この指揮者は、現在の日本のクラシック・ファンでは知らぬ人がいないほどの人気と評価を得ている。だから、今更私が褒め称える必要などまったくないのだが、それにしてもこの「オランダ人」がよかったのである。
 私がこのオペラを初めて聴いたのは約30年前。それ以後、さまざまな上演や録音に触れたが、ただの一度も心の琴線に触れたことがなかった。私だけではあるまい、「私があの不幸な男を救うんだ!」という女性主人公ゼンタの思い込みの強さにはついていけないのが、普通の頭の持ち主であろう。また、「清純な娘によって救われたい」という男の願望もめちゃくちゃに身勝手だと感じられて当然であろう。もっとも、日本のアニメを見るまでもなく、ジャンヌ・ダルク以来、19世紀はむろんのこと、現代に至るまで「若い娘が世界を救う」的な発想は性懲りもなく生き続けているわけだが・・・。
 1980年代以後に制作された「オランダ人」演出は、この女主人公の思い込みに関して冷淡だった。中には、彼女は頭がおかしいとあからさまに表現するものすらあった。21世紀になって作られたバイエルンの「オランダ人」(コンヴィチュニー演出)もそうしたタイプだ。オランダ人といい、父親といい、自称恋人のエリックといい、みんながみんなゼンタを自分のいいようにしたいという、つまりは男が自分のわがままを一方的に女に押しつけるドラマだというふうに解釈しているのである。で、男が女に求めるわがままの究極が、女が自分を犠牲にすることで男を救うことだ。これを読替だの斬新だのと言ってはいけない。普通の現代人なら、こう感じて当然である。
 ところが、大野の演奏を聴いていると、ゼンタの思い込みこそが真実ではないかと思えてくるのだ。ここの和音の揺らぎには、ここのオーボエのソロには、ここの無音部分には・・・というぐあいに細部の意味がきわめて丹念に表現されているからだ。それがあまりに明快かつリアルなので、演出はいらないのではないかとまで思わされるほど。もちろん作曲者の心の中を百パーセントのぞけるわけはないけれど、これほどまでにワーグナーの心に沿った演奏というのもめったにないだろう。夢こそが、妄想こそが真実であり、そこらへんの事実や常識など、つまらない嘘っぱちなのだ。このロマン主義者の信条をこれほどまでに説得力をもって演奏できる音楽家はそうはいない。一般論として、現代の演出家には自分の問題意識を表現する権利があると思う。そのために古典作品を利用するのも一向構わないと思う。ちょうどワーグナーが、神話をもとにして自分の世界観を開陳したように。しかし、このような演奏に触れると、やはりこれこそが本道だとも思わされるのである。
 世の中には、大野の演奏を優等生的と感じる人々もいるようだ。なるほど、作曲者の心に寄り添おうという態度は優等生的と言えば優等生的に見える。だが、その作曲者は、たいがいは狂気の人なのだ。だとしたら、それに殉じるのも狂気の沙汰である。ゼンタの妄想こそが正しいのだ、彼女の異常な信念は他の登場人物の誰の思いよりも決定的に真実であり尊いのだと感じさせてしまう演奏が、狂気の仕事でないわけがない。
 これまで私は、大野の広いレパートリーの中でも「トリスタン」や「ルル」といった官能大作が特に見事だと感じていたが、今回の「オランダ人」を聴いて、ワーグナー全般が向いているのだと確信した。3月にはリヨンで「パルジファル」とワーグナー・コンサートを指揮するという。「パルジファル」というワーグナーの思い込みの総集編のような作品がどのように鳴り響くのだろうか。今から楽しみだ。

 ところで、狂気の人と言えば、大野の「オランダ人」の前後、ヴァイオリニストのトーマス・ツェートマイアーを聴いて驚愕した。かつてこの人を聴いてから二十年近く経っていたと思うが、空恐ろしくなるほどの表現意欲にタジタジとなった。ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団とともにベルクのヴァイオリン協奏曲を演奏したのだが、この曲がこれほどまでに身近に、切々と感じられたことはいまだかつてなかった。超辛口で、一般のヴァイオリン好きが求めるような甘美な官能性は完全にゼロ。一音一音がえぐるような意志を感じさせる。その緻密さは、正気のものとも思われない。ヴァイオリンがすさまじすぎて、ナガノ指揮のオーケストラがまったく耳に入ってこないのだ。弾いている姿もあまりにも怪しすぎる。
 家に帰ってから、HMVで大量に注文し、1枚ずつ聴いているが、とにかく聴いていてくたびれることおびただしい。フレージングにせよ、音色にせよ、とことん明晰をきわめるのだ。ここをオレはこう弾くぞという迫力が聴き手を疲れさせるのである。
 とりあえず、ベートーヴェンの協奏曲を聴いてみれば、この人の異常さが理解できるだろう。平和的な音楽とされているこの曲が凶暴で悪魔的に響くさまには誰もが度肝を抜かれるはず。伴奏のブリュッヘンもすっかりイケイケ状態になっていて、複雑精妙大胆な演奏に興じている。
 バッハの無伴奏曲もすさまじい。有名なシャコンヌなど、普通期待される雄大な流れや高揚をあえて断ち切るかのようだ。ちょっと言葉にしにくいような、だからまさしく音楽的と言うしかないのだろうが、基本の付点リズムを強調しつつ薄気味悪い変奏を続けていく。最後のあっけないこと、空前絶後ではないか。何にせよ、楽器のコントロールの異常な精密さに圧倒される。
 現在、甘口ジクジク路線をきわめているムターのまさに正反対を突っ走っているのがツェートマイアーである。私にとって、今後ナマでもっとも聴きたい演奏家のひとりである。パガニーニは悪魔のヴァイオリニストと呼ばれたが、現代においてもっともそうした領域に近いのがこのひとなのではないか。ヴァイオリンでしかあり得ない摩訶不思議な異空間的世界を繰り広げるのだ。
 やはりクラシックとは、平和な音楽ではない。狂気に満ち満ちた、日常の感覚や常識を揺るがす演奏こそがクラシックの醍醐味である。この毒の味を堪能せずして、何がクラシックかと思う。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


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