モダンジャズの偉人チャーリー・パーカー・トリビュート・アルバムがImpulse!より登場


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現代ジャズシーンを代表する豪華ミュージシャン&ヴォーカリストが参加 モダンジャズの偉人チャーリー・パーカーのトリビュート・アルバムがImpulse!より登場


「モダンジャズの父」と呼ばれるテナー・サックス奏者/コンポーザー、チャーリー・パーカーのトリビュート・アルバムが完成。2015年に没後60年を迎えたチャーリー・パーカーの功績を称えて企画されたアルバムです。

プロデューサーには名匠ラリー・クラインを起用し、新たに歌詞を付け、カート・エリング、グレゴリー・ポーター、キャンディス・スプリングス、メロディ・ガルドー、マデリン・ペルー、ルシアーナ・ソウザなどジャズ界の一流ヴォーカリストをフィーチャーし、チャーリー・パーカーの生涯を1枚のアルバムを通して表現。




ミュージシャンには、デヴィッド・ボウイの遺作『★』に起用され一躍注目を集めたテナー・サックス奏者ダニー・マッキャスリンをアルバム全編に起用しているほか、同じく『★』のバックを務めたベン・モンダー(g)、マーク・ジュリアナ(ds)、さらには、エリック・ハーランド(ds)、スコット・コリー(b)、ラリー・グレナディア (b)、クレイグ・テイボーン (p)など今日のジャズシーンの最先端で活躍するミュージシャンたちを起用しています。

収録曲


01. Ornithology - feat. Madeleine Peyroux
02. The Epitaph Of Charlie Parker (Visa) - feat. Barbara Hannigan
03. Yardbird Suite - feat. Gregory Porter
04. So Long (K.C. Blues) - feat. Jeffrey Wright
05. Every Little Thing (Bloomdido) - feat. Luciana Souza
06. Central Avenue (Interlude)
07. Moose The Mooche - feat. Kurt Elling
08. Live My Love For You (My Little Suede Shoes) - feat. Kandace Springs
09. Fifty Dollars (Segment) - feat. Jeffrey Wright
10. The King Of 52nd St. (Scrapple From The Apple) - feat. Melody Gardot
11. Salle Pleyel (Interlude)
12. Au Privave - feat. Camille Bertault

ダニー・マッキャスリン (ts)
ベン・モンダー (g)
マーク・ジュリアナ (ds)
エリック・ハーランド (ds)
スコット・コリー (b)
ラリー・グレナディア (b)
クレイグ・テイボーン (p,el-p,Hammond B-3 org)
ラリー・クライン (produce)


チャーリー・パーカー(Charlie Parker)
チャールス・クリストファー・パーカーは、1920年8月29日、チャールスとアディー・パーカーのただ一人の子供としてカンサス州カンザス・シティに生まれている。パーカー自身は、生涯に4回結婚し、5人の子供をもうけている。世に言う艶福家といっていだろう。

彼は子供の時にミズ−リ州カンザス・シティに一家で移住したという、当時この地はゴスペル・ミュージックをはじめ、様々な音楽が溢れており、パーカーにとっては音楽的な温床として恵まれた場所に住むことになった。

1933年、パーカーは学校のスクールバンドでアルト・サックスを手にとることになる。そして、学校を卒業してプロのミュージシャンになる前にすでにセミプロとしての活動を開始していたようで、楽器を手にとってから間もなくローカル・バンドでのパーティの仕事などをしていた。

1935年から1939年の間、パーカーは地元カンザス・シティでブルースやジャズのグループで働いている。ここでの経験がジャズ・プレイヤーの中でも“とびきりのブルース”を吹くパーカーにとって大きな肥しになったことは間違いない。この時期パーカーは様々なバンドのレコードに耳を傾けたり、地元の上手な演奏家たちと交って自己の研磨に励んでいた。

1938年にはカンザス・シティの最も重要なミュージシャンの一人ジェイ・マクシャンのバンドに加入し、シカゴやニューヨークをツアーで回ることになる。 シカゴの55丁目のクラブでレギュラーでプレイした後、ニューヨークに移り、皿洗いをしながら修行を続けるが父親が亡くなり、その葬儀の為に一時カンサス・シティに戻る。そののち再びニューヨークに戻ったパーカーは「ハーラン・レオナードのロケッツ」に参加、約半年を過ごす。

その後、パーカーはカンザス・シティに戻り、再びジェイ・マクシャンのバンドに参加、1942年までここに留まることになる。

一人っ子だったパーカーにとって母親を一人きりにしてニューヨークに出ることは難しかっただろう。しかし、バンドの中枢メンバーとなったパーカーはソロの機会を与えられ大きな飛躍への時間を過ごすことになる。この当時のパーカーのプレイを収録したアルバムが『ジェイ・マクシャン/ブルース・フロム・カンザス』で、パーカーのほかにバンドの看板プレイヤーだったWalter Brown をフィーチャーした演奏が聴ける。

「コンフェッシン・ザ・ブルース」は当時の代表的なヒット曲である。こうしたバンドとのツアーの間、パーカーは“ミントンズ・プレイ・ハウス”などでジャムセッションに興じ、ニューヨークの最先端の音楽に遅れないよう鍛錬し続けていた。

1942年、マクシャン・バンドを辞したパーカーは earl Hinesのバンドに一時期在団し、1943年にはテナー・サックスもプレイしている。当時はレコーディング・ストの時代で、パーカーにとってはバンドでのプレイ以外アピールする機会がなかったころである。

  そして、ついに1945年がやってくる、パーカーは自己のグループを率いてジャズ・シーンの中心に登場してくる。若冠24歳のパーカーはすでにビバップのアルト・プレイヤーの中でも突出した実力を持っていたことは当時のレコードを聴けば明らかだ。スリリングなフレーズとカンザス時代に演奏した様々なブルースのフレーズが大きな財産となってパーカーのプレイを輝かせている。スリルとスピード、そして、オリジナリティ、モダナイズされたブルース・フィーリングと、時代の先端を行くパーカーはすでにトップランナーだった。もちろん、それに加えて、ほかのミュージシャンを圧する音量は当時のレコーディングをマスタリングするとパーカーに時だけメーターが振り切れることでおなじみだ。

映画『バード』でも有名になった1946年のディジー・ギレスピーとのハリウッド・ツアーの時、パーカーはロスアンジェルスに残り、翌1947年1月に退院するまでこの地で療養生活を余儀なくされる。1945年から46年にかけての演奏はサヴォイ、ダイアル両レーベルヘの大量の録音に収められている。精神的な問題を内包しつつもこの時期、パーカーの天才は燦然と輝いていた。

1947年4月、ニューヨークに戻ったパーカーは、新しいグループを結成する。マイルス・デイヴィス(tp)、デューク・ジョーダン(p)、トミー・ポッター(b)、マックス・ローチ(ds)を従えた「チャーリー・パーカー・クインテット」である。また、パーカーには「ビリーズ・バウンス」を捧げて録音した敏腕のマネージャー、ビリー・ショウが付き、ビジネス的にも大きな成功を収めつつあった。演素はすでにビバップの時代を抜けつつある雰囲気をたたえ、“パーカーの時代を歩むスピードの速さ”を感じさせる。

1951年までのこの時期こそ、ある意味でのパーカーの最も安定したプレイが聴かれる時期で、様々なフォーマット、“ウィズ・ストリングスもの”に至るまでアルト・サックスで出来ること全てをパーカーが成し遂げた時代といってもおかしくない。傘下からは次の時代を担うマイルスが育っていった。パーカーの演奏はいかなる断片さえも凡百の演奏を遥かに超えたイマジネイションをわれわれに与え続けるが、この時期パーカーはヨーロッパにも出掛け大歓迎を受けた。

アメリカにおける人種的な偏見を持たない観衆からの絶大な支持を感じ嬉しかったのだろうか、かの地には多くの演奏が残されている。特に1947年は、翌年のミュージシャン・ユニオンのストを見越して多くの録音が残されている。今となっては天啓としか思えない時期にパーカーの最高のプレイが記録されていた。この時期の「JATPのジャム・セッション」への参加もパーカーを再び大きな舞台で飛躍させた。

1951年7月、パーカーは麻薬禍によってニューヨーク州のキャバレー・カードを取り上げられ、マンハッタンのクラブへの出演は不可能となった。この直後のレコーディングが、8月8日に行われた『スウェディッシュ・シュナップス』である。プレイ自体はいささかも衰えは見せておらず、むしろ、後年のバド・パウエルがそうであったように哀愁漂う趣きを感じさせる。1952年12月『ナウ・ザ・タイム』、1953年には、バド・パウエル(p)、チャールス・ミンガス(b)、マックス・ローチ(ds)、ディジー・ガレスピー(tp)との『ジャズ・アット・マッセイホール』を残し、1954年3月,10月には『プレイズ・コール・ポーター』を録音する。栄光のクインテットで再びニューヨーク・シーンに姿を見せたパーカーだったが、後年のレコーディングはほとんどプライヴェート録音が多く、後に発掘音源として正式に発売されたもの中にこの時期のパーカーの姿を伝えるものが多い。

この時期1954年はパーカーは二度にわたる自殺未遂を行っており、正式なレコーディングのセッティングはレコード会社にとってはリスクが大きかったのかもしれない。

いずれにしてもチャーリー・パーカーは、1955年3月5日、自分の名前を冠した名門クラブ「バード・ランド」への出演を最後に1週間後の3月12日この世を去って、次の世界へと旅立った。 チャーリー“ヤードバード”パーカー、まだ彼は34歳だった。彼の亡き骸を見つけたのはニカ夫人であった。警官が出したパーカーの推定年齢は55歳だったという。

ジャズの100年に渡る歴史の中で、実働20年しかも34歳で死したパーカーが残した偉業は語りつくせない。“インプロヴィゼイション”こそは、すべてのジャズのエネルギーの源泉だと、パーカーはいいたかったのかもしれない。その影響は、“パーカー派”と呼ばれるハードバップ期の数えられないミュージシャンに及び、パーカーの死去と共に彗星のように現れたキャノンボール・アダレイ、直系のフィル・ウッズ、ジャッキー・マクリーンら多くのフォロワーを生んだが、誰もがパーカーが持つカリスマ性を持つには到らなかった。むしろ、その精神はエリック・ドルフィー、オーネット・コールマン、スティーヴ・レイシーらに引き継がれたと言ってもいいだろう。


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