1959年9月7日 、遂にウエスが中央ジャズ界にデビューするきっかけがやってくる。当時「リヴァーサイド・レコード」の新人発掘担当でもあったキャノンボール・アダレイがウエスの地元インディアナポリスにやってきた。コンサートの後、地元ミュージシャンがジャムセッションを行なう前述の「ミサイル・ルーム」に招かれたキャノンボールは、ウエスの演奏の一曲目の半ばで席をウエスの「真ん前に」移りそれからそこを動かなかったという。すぐに「リヴァーサイド」と契約を結んだウエスはニューヨークに出て、初リーダー作 The Wes Montgomery Trio を Melvin Rhyne(org) Paul Parker(dr)とのトリオで吹きこんだ。評判は芳しくなかったが、続いて吹きこんだ Incredible Jazz Guitar によって、ウエス・モンゴメリーの名はジャズ史に刻まれることになる。
これに先立つナット・アダレイの Work Song を初めとして、ウエスは一気に多くの録音に参加、自己名義の Moving Along 録音後、1962年1月25日、ウエス最高傑作の一枚となる Full House を、ジョニー・グリフィンを迎え、バークリーに来ていたマイルス・デイヴィスのリズムセクション(ウイントン・ケリー〜ポール・チェンバース〜ジミー・コブ)を加えたクインテットで「ツボ・コーヒー・ハウス」で録音する。1960年から1963年に掛けてウエスは、ジャズ専門誌“ダウンビート誌”の批評家投票でジャズギターの首位を独占する。しかし、ウィズ・ストリングスの作品 Fusion を残して、ウエスはリーヴァーサイド・レーベルを去る。
1965年、多くの家族を抱えたウエスは「ヴァーブ・レーベル」と契約し、“大衆ジャズ路線”を歩むことになる。より多くの聴き手へアルバムを届けることと、自己の音楽の葛藤はあったとはいえ、この頃のウエスの演奏は決して迎合した演奏であるわけではない。円熟したテクニックと歌心は、どんな演奏形態においてもウエスを人気のギタリストに押し上げ、1966年には、オリヴァー・ネルソンの編曲指揮によるビッグバンドとの共演盤 Going Out Of My Head で「グラミー賞 ベスト・インストルメンタル・ジャズ・パフォーマンス部門」を手中に収めている。いままで批評家の評価は抜群だったとはいえ、経済的に恵まれたわけではなかったウエスにとってこのことの意義は忘れてはならない。この時期の作品にはいまだに多くのファンを魅了する人気盤 California DreaminやTequilaなどがある一方で、最高傑作 Full House での相性も良かったウイントン・ケリーとの、クラブ“Half Note” でのライヴ演奏など、シリアスなジャズファンを納得させる素晴らしい演奏も 残されており、この時期ウエスがアルバムでは大衆路線を行きながらも、ライヴ演奏においては、ジャズのメインストリームを歩み続け、次々と素晴らしいパフォーマンスを繰り広げていたことが窺える。
1967年、「ヴァーヴ」でもプロデュースを担当したクリード・テイラーが独立し、ウエスは「A&M レコード」と契約。ウエスにとって最後の時期を迎えることになる。この時期はビートルズがポップスの世界で覇権を握り、ロックが音楽界を席捲してきた時期だった。ギターの世界にとっても、ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトンといったギターの歴史に名を残すパフォーマーたちが出現していた。 しかし、この時期テイラーは親しみやすいビートルズのナンバーを選んで作品を制作。第一作 A Day In The Life は、喫茶店にも流れる大衆ヒット曲となった。その後も“ジージア・オン・マイ・マインド”を含む作品、Down Here On The Round 、“フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン”“イエスタデイ”を含む Road Song を発表してウエスの人気は大きくなっていった。