Wes Montgomery
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Wes Montgomery (ウエス・モンゴメリー) プロフィール

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 John Leslie Montgomery、ことウエス・モンゴメリーは1923年3月6日、インディアナポリスに生まれている。そして、1935年、後年グループを組むことになる兄に買ってもらったのが“テナー・ギター”という、4弦で中低音を受け持つ半分ベースのようなギターだった。

 19歳の時、ウエスは結婚と同時にチャーリー・クリスチャンの“Solo Flight”を聴き、ギター探求への道を歩き始める。なんと次の日にはアンプと「エレキ・ギター」を買ってしまったのである。ウエスの家庭は決して裕福ではなく、350ドルもの大金をはたいたのは並大抵のことではなかった。ウエスは回想している「一年間はこのアルバムのほかには何も聴かなかった」と、お蔭でウエスは、翌年地元の「440クラブ」に雇われ、クリスチャンのコピー演奏を披露することになる。

 1948年、ライオネル・ハンプトンがインディアナポリスを訪れ、欠員メンバーを募集するという。応募したウエスは譜面が読めないにもかかわらず合格、ハンプのバンドに参加することになる。この当時の演奏はLionel Hampton - 1949-1950 の中の“Moon Glow”ではっきりと聴くことが出来る。後年の演奏からは想像できないソフトな演奏はシングルトーンである。しかし、ウエスにとって家族と離れて暮らすことは絶え難いことであったらしく、一年半ほどでハンプトン楽団を退団してしまう。この時点ですでにウエスは27歳になっており、しかも、これからしばらく工場での朝7時半から午後3時までの「仕事」、そして、午後9時から夜中の2時までのバーでの「仕事」、そして、その後、やっと地元の「ミサイル・ルーム」というクラブでジャズを演奏するのである。後年、この無理が天才ウエスを早く天国へと旅立たせる原因になる。

 その間、ウエスは兄弟たちと“モンゴメリー・ブラザース”後に“マスター・サウンズ”に参加して活動している。残念ながらハンプトン楽団退団後のウエスの軌跡は録音上は1955年までの空白がある。この時期にウエスは「オクターブ奏法」を完成させるが、彼はこのことについて「練習する時間が夜中でアンプの音が近所迷惑だったから、ピックを使わずに親指で弾いたんだよ」と語っている。ウエスを早逝させた厳しい生活がウエスに「オクターブ奏法」という、ウエスをジャズ史に刻み込むことになる演奏法をもたらした。なんと言う皮肉だろう。“マウスター・サウンズ”に客演したウエスは、「パシフィック・ジャズ」に4枚のアルバムを残している。

 1959年9月7日 、遂にウエスが中央ジャズ界にデビューするきっかけがやってくる。当時「リヴァーサイド・レコード」の新人発掘担当でもあったキャノンボール・アダレイがウエスの地元インディアナポリスにやってきた。コンサートの後、地元ミュージシャンがジャムセッションを行なう前述の「ミサイル・ルーム」に招かれたキャノンボールは、ウエスの演奏の一曲目の半ばで席をウエスの「真ん前に」移りそれからそこを動かなかったという。すぐに「リヴァーサイド」と契約を結んだウエスはニューヨークに出て、初リーダー作 The Wes Montgomery Trio を Melvin Rhyne(org) Paul Parker(dr)とのトリオで吹きこんだ。評判は芳しくなかったが、続いて吹きこんだ Incredible Jazz Guitar によって、ウエス・モンゴメリーの名はジャズ史に刻まれることになる。

 これに先立つナット・アダレイの Work Song を初めとして、ウエスは一気に多くの録音に参加、自己名義の Moving Along 録音後、1962年1月25日、ウエス最高傑作の一枚となる Full House を、ジョニー・グリフィンを迎え、バークリーに来ていたマイルス・デイヴィスのリズムセクション(ウイントン・ケリー〜ポール・チェンバース〜ジミー・コブ)を加えたクインテットで「ツボ・コーヒー・ハウス」で録音する。1960年から1963年に掛けてウエスは、ジャズ専門誌“ダウンビート誌”の批評家投票でジャズギターの首位を独占する。しかし、ウィズ・ストリングスの作品 Fusion を残して、ウエスはリーヴァーサイド・レーベルを去る。

 1965年、多くの家族を抱えたウエスは「ヴァーブ・レーベル」と契約し、“大衆ジャズ路線”を歩むことになる。より多くの聴き手へアルバムを届けることと、自己の音楽の葛藤はあったとはいえ、この頃のウエスの演奏は決して迎合した演奏であるわけではない。円熟したテクニックと歌心は、どんな演奏形態においてもウエスを人気のギタリストに押し上げ、1966年には、オリヴァー・ネルソンの編曲指揮によるビッグバンドとの共演盤 Going Out Of My Head で「グラミー賞 ベスト・インストルメンタル・ジャズ・パフォーマンス部門」を手中に収めている。いままで批評家の評価は抜群だったとはいえ、経済的に恵まれたわけではなかったウエスにとってこのことの意義は忘れてはならない。この時期の作品にはいまだに多くのファンを魅了する人気盤 California DreaminTequilaなどがある一方で、最高傑作 Full House での相性も良かったウイントン・ケリーとの、クラブ“Half Note” でのライヴ演奏など、シリアスなジャズファンを納得させる素晴らしい演奏も 残されており、この時期ウエスがアルバムでは大衆路線を行きながらも、ライヴ演奏においては、ジャズのメインストリームを歩み続け、次々と素晴らしいパフォーマンスを繰り広げていたことが窺える。

 1967年、「ヴァーヴ」でもプロデュースを担当したクリード・テイラーが独立し、ウエスは「A&M レコード」と契約。ウエスにとって最後の時期を迎えることになる。この時期はビートルズがポップスの世界で覇権を握り、ロックが音楽界を席捲してきた時期だった。ギターの世界にとっても、ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトンといったギターの歴史に名を残すパフォーマーたちが出現していた。
 しかし、この時期テイラーは親しみやすいビートルズのナンバーを選んで作品を制作。第一作 A Day In The Life は、喫茶店にも流れる大衆ヒット曲となった。その後も“ジージア・オン・マイ・マインド”を含む作品、Down Here On The Round 、“フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン”“イエスタデイ”を含む Road Song を発表してウエスの人気は大きくなっていった。

 しかし、1968年、家族には内緒で以前からニトリグリセリンを常用していたウエスは、医者にかかるために故郷インディアナポリスに帰った。しかし、時はすでに遅かった。6月15日、ウエスは心臓麻痺で故郷に45歳の生涯を終えた。

 ウエス・モンゴメリー、オクターブ奏法を完成させ、ジャズギターを大衆化した人気ギタリスト。しかし、経済的にはなかなか恵まれなかった。近年、ウエスの大衆路線の作品が若い新しいファンに聴かれ、ウエスの人気は復活しつつある。その根底にあるのはウエスの演奏が持つ「歌心」と「暖かい音色」だろう。心をほっとさせる“カリフォルニア・ドリーミング”の演奏は永遠に不滅だ。

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