Underworld

Underworld (アンダーワールド) プロフィール

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Underworld

カール・ハイド(Vo, G)、リック・スミス(Key)、そして現在はソロ・アーティストとして旅立ったDarren Emerson(DJ)。この三人によって結成されたUnderworldは、 93年にアルバム・デビューを飾って以来、現在まで3枚のオリジナル・アルバムをリリースし、世界のダンス・ミュージック・シーンを塗り替えてきた。また映画「トレインスポッティング」の挿入歌「Born Slippy」(96年)が映画と共に大ブレイクしたことがきっかけとなり、一躍メジャー・シーンに躍り出た。彼らの活動は自身もメンバーの一員であるアート集団TOMATOと連動によって、音楽作品のみならず、ライヴ、アート、ファッション、映画、コマーシャル、コンピュータと、表現の可能性をどこまでも広げてきた。そのマルチメディア活動の集大成をしたDVD「Everything, Everything」(2000年)をリリースし大ヒットを記録した。


アンダーワールドは88年にロンドンで結成された。当初は5人組のロック・バンド形態をとり、ニュー・ウェイヴの余波を引きずるグループだった。ご存知の方も多いと思うがアンダーワールドの母体となったグループはニュー・ロマンティックスの流れ汲むFreurである。このFreurはクラフトワークとダブのファンであるリックがカーディフ大学でアート学生のカールに出会い80年頃結成され、83年にUKで「Doot Doot」(CBS)をスマッシュ・ヒットさせた。ジャケットのアートワークをカール自身が手掛けているものもあり、後のTOMATOへ繋がるグラフィックスの才能を既に発揮している。Freurは2枚のアルバムを残し、86年頃まで活動したが「Doot Doot」以降はヒットが無く消えていった。1990年リックとカールは無一文になってロムフォードに戻り、音楽ビジネスのインチキ臭い終焉に懲りていたので、アシッド・ハウスとエクスタシーの効果が広まると、枠組に縛られないエレクトロニック・ミュージックを試し始めるようになった。そして心機一転、新しくカールとリックのふたりがスタートしたバンドがアンダーワールドなのだ。

結成時のアンダーワールドはインダストリアル・ファンクなどと銘打っていたが、Freurが変名したバンドだという認識が強かった。サウンド面においても基本的にはFreurの頃と大した変化は無く、イギリスのニュー・ウェイヴやエレクトロ・ポップを継承したもので、その頃にしては特に目立ったものではなかった。メジャー・レコード会社SIREと契約し「Underneath The Radar」(88年)、「Change The Weather」(89年)の2枚のアルバムをリリースするが、セールス的にも伸びず契約は解除されることになる。実は90年に3作目のアルバム用に7曲が完成していたが、結局お蔵入りとなってしまっている。その後アンダーワールドは存続の危機となり分裂状態となってしまうが、彼らのライヴを手伝っていた若手DJのダレン・エマーソンを正式メンバーとして加え、新たにリックとカールの3人で新生アンダーワールドとして92年から活動を再開した。

新しく歩み始めた新生アンダーワールドは、ダレン・エマーソンの若い感性を生かし、当時ジワジワと侵食しはじめていたハウス・ミュージックへサウンドをシフトさせていくことになる。彼らはまず自主制作で500枚だけ「Mother Earth」(91年、Tomato Record)というシングルを発表する。このシングルではSteppin Razo(SpookySven VathSimply Red等のリミックスもこの名義で手掛ける)というリミキサーが登場するが、ダレンとリックによるプロジェクトである。その後、ロンドン・レコード傘下のマイナー・レーベル、Boy's Ownから「Mmm...Skyscraper I Love You」を発表。これが評判となり三人でのアンダーワルドは本格的な活動へと突入していった。また同時に変名プロジェクトであるLemon InterruptをBoy's OwnのクラブDJ向けレーベルJunior Boy's Ownで始動。当初はこのLemon Interruptをクラブ向けのユニットとして区分していたようであるが、後にアンダーワールドとしての活動に統一されることになる。そして彼らが本格的に注目されることになるのは、この後にリリースされた「Rez」(93年)からだ。

「Rez」はスリーヴもヴァイナルもレーベル面もすべてピンク色の限定盤(1000枚)でリリースされ、DJの間で少しずつ火がつき始めた。アナログ・シンセサイザーのレゾナンス(恐らく「Rez」とはレゾナンスを意識したタイトルではないだろうか)を変調させていくアシッド感覚なトラックでクラバー達から大絶賛されたのである。日本でもアンダーグラウンドなテクノ・シーンから同時に注目され、アンダーワールドの存在は徐々に認知されるようになった。その後、「Rez」は正式版としてJunior Boy's Ownからリリースされ世界中でロング・ヒットとなった。

当時(92〜93年頃)、アンダーワールドを含め、UKの新しいハウスの流れを総称してプログレッシヴ・ハウスと呼んでいた。アメリカからのアシッド・ハウスやガラージ・ハウス、デトロイト・テクノに触発されつつも、独自解釈でUKらしさをアピールしながら成長していったものだといえる。このプログレッシヴ・ハウスは、それまでのブリティッシュ・ロック・シーンとリミックス・ワークなどを通じて結びつくことにより、さらにオーバーグラウンドなものへと広まりを見せることとなった。現在も脈々と続くUKの新しいクラブ・サウンドは、多くの点でプログレッシヴ・ハウスを継承したものだといえるだろう。

さて、アンダーワールドのアーティストとしての本領が発揮されるのはこの後からである。サウンド面で大きく変革を行い、成功を収めた後、彼等はアートワークの統一性に本格的に着手しはじめる。タイポグラフィといわれる独特の質感を持ったデザインは、新生後の初アルバム「Dubnobasswithmyheadman」(93年)で完成されることになる。サウンド的にもこれまでのテクノやハウスの枠を越えた「Dubnobasswithmyheadman」は、セールス的にも良い結果を残し、クラブ・ミュージックの裾野を一般にまで広げることとなった。さらにアンダーワールドが元来持つロック的なアプローチはテクノやハウスがポップ・フィールドを巻き込むようになったといえる。

ポップ・シーンやロック・サイドを巻き込む動きはセカンド・アルバム「Second Toughest In The Infants」(96年、邦題「2番目のタフガキ」)でさらに強化された。カールのヴォーカルを強く全面に押し出し、なおかつクラブ・ミュージックとしてのバランスを損なわないサウンド作りを実現したものである。またこのアルバムに先駆けてリリースされたシングル「Born Slippy」(96年)は映画「トレインスポッティング」に使われ、まさしく世界的な大ヒットを記録した。名実共にUKクラブ・シーンの頂点を極めたアンダーワールドは、アメリカのレーベルWaxTrax!とも契約を結び、世界的なマーケットへと進出しはじめたのである。

「Beaucoup Fish」(99年)は多くの点においてこれまでのアンダーワールドの活動を総括するものとなったといえる。移り変わりの異常なまでに激しいUKクラブ・シーンで、これほどまでにマイペースに、自分達のキャリアを生かしたサウンド作りを行ってきたアーティストは他に無かった。ハウス、テクノ、エレクトロ、ニュー・ウェイヴ、ロック、ブレイクビーツなど、見事なまでに融合させ一つの作品に構築したのである。アンダーワールドは80年代の活動を含め、すべてを糧にこのアルバムを作り上げたといえる。

アンダーワールドのステージのヴィジュアルやジャケットのアートワークを総合的にコントロールしているのがデザイン集団TOMATOである。TOMATOは中核にリックとカールも参加し、その名前はアンダーワールドの成功に比例して広まっていった。このようなサウンド面とヴィジュアル面の統一化は、マルチメディア時代の先駆けともいえるもので、時代の潮流に見事に乗ったといえる。TOMATOはその後も活動を広げ、様々な大手企業をクライアントに、インターネットからテレビ・コマーシャルまでメディア全体を活用していった。そのマルチメディア集大成ともいえるものがライヴDVDアルバム「Everything, Everything」だ。

そして、彼らの前スタジオ・アルバムから3年、賞に輝いたDVD(「Everything, Everything」)の発表から2年、アンダーワールドの4枚目のアルバムが2002年、「A Hundred Days Off」というタイトルで到着する。最高級のダンス・ミュージックを生み出し続けて10年を経てもなお、カール・ハイドとリック・スミスには今なお威厳をもってそれをやり遂げることができるし、驚くべきことに、長く一緒にやってきたDJのダレン・エマーソンの脱退後もなおダンスフロアを制覇することができる、ということを証明するような強い輝きに満ちた作品だ。
彼らは言う。「ダレンが辞めたときはある意味安堵の感があったね。そうなると、ここ数年募っていたテンションを感じることなく僕たち3人全員がやりたいことをやれるようになるわけだから。彼は自分のやりたいことをまったく制約なしにどんどん進めたし、僕たちもそうしたから、今まで何年間も一緒にアルバムを作ってきたけど、こんなにもストレスの少なかったアルバムはなかったよ」

レコーディングの初期の段階で、「ギンギン派手な」曲の方がうまくいかずにあきらめることとなりアンビエントなアイデアに取り組むことにした。一時期「A Hundred Days Off」は4部作になりそうだった。それから、今度はカールがそんなにぎっちり詰まったレコードは我慢できないと言いだし、リックは10曲入りの作品にすることに心を決めた。この作品の大きな違いは、特にカールやスティーヴ(・ホール。彼らのレーベル、JBOのアーティスト)にプレイしてもらい、根底にナチュラル・リズムとワールド・ミュージックが流れていることだ。「Second Toughest in The Infants」に収められたような曲の中に渦巻いていたより暗い潮流は今回ぐっと目立たなくなり、広い意味で「A Hundred Days Off」はソウルフルなレコードである。

10年間にわたってアンダーグラウンドと一般的成功との間を行ったり来たりしてきたアンダーワールド。それは失敗した自己弁護、後退と前進の10年だった。カールは言う。「長い間ダンス・ミュージックの世界にいたわけだけど、ある意味僕たちみたいな人間のせいでジャンルの間の垣根が曖昧になってしまったみたいなところがあって、それが僕たちにとってはいいことだった。おかげでより広いオーディエンスにアピールすることが可能になり、僕たちの初期の頃のオーディエンスは解体して、結局より多くの人たちにうまくクロスオーバーすることができたんだ。」
「ダンス・ミュージックでは、たとえば音楽を作ることがある種お仕事になってしまうと──魂のこもっていない行為だと言うつもりはないけど──人々は立ち去ることによって意思表示をした。みんな僕たちがいいレコードを出すか出さないかを理由にダンスフロアに出てきたんだよ」

10年経ってもなお彼らはダンスフロアを意識し、枯渇することのない才能と定型にこだわらないサウンド、そしてライブへのこだわりを常に持っている。変化することを恐れず、成長し分裂、拡張していくアンダーワールド。再び新たな段階に突入していく彼らに、我々も必死でついていかねばなるまい。

reference : V2 Official Site

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