バンド活動が軌道に乗りEMIとの契約にこぎつけたバンドは70年シングル“モーニング・デュー”を発表するも不発に終わる(バンド名変更はこのシングル発表後との説もある。厄掃いの意味でも込められていたのだろうか)。ワン・ショットで終わったEMIに見切りをつけイギリスに渡ったバンドはデッカと契約。71年記念すべきファースト・アルバム、シン・リジィ – Thin Lizzyを発表する。翌72年にはブルー・オーファン - Shades Of A Blue Orphanageを発表。73年には初のヒットとなる“ウィスキー・イン・ザ・ジャー”を含む西洋無頼 - Vagabonds Of The Western Worldを発表。と、ここまではコンスタントにやってきたのだが、エリックが体調不良の為バンドを脱退。後任に以前活動をともにした経緯でゲイリー・ムーアを加入させるが、数曲レコーディングしただけで脱退。フィルはバンド解散まで思い悩むが西洋無頼がイギリスのみならず、アメリカでも売れ始めていた為、上からストップがかかり、2人の助っ人ギタリストを加える形でドイツ・ツアーを敢行。イギリスに戻りバンド再建を決意したフィルはオーディションの末、ブライアン・ロバートソン、スコット・ゴーハムを正式メンバーとして迎え入れる。心機一転バンドはヴァーティゴに移籍し74年ナイトライフ - Nightlifeを発表。75年にはファイティング – Fighting を発表。ここからは“ロザリー”というヒットも生まれる。76年には大ヒット曲“ヤツらは町へ”を含む脱獄 – Jailbreakを発表。本作は初のゴールドディスクを獲得し遂にトップ・バンドの仲間入りを果たす。その脱獄から7ヶ月間というハイスピードで作られたサギ師ジョニー – Johnny The Foxの発表を前後してブライアン・ロバートソンが左手を負傷。バンドでの思うようなプレイが難しくなり、脱退にまで発展する。ツアーにはゲイリー・ムーアをサポートで参加させ難を逃れるが、目ぼしい後任もおらず結局ブライアンを準メンバーという形でバンドに呼び戻す。77年バッド・レピテイション – Bad Reputationを発表するもすぐにブライアン・ロバートソンは脱退してしまう。ソロ活動を始めたフィルは同時にドラッグに溺れるようにもなり、この頃からバンド間に嫌な雰囲気が流れ始めていた。