The Smiths
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The Smiths (ザ・スミス) プロフィール

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The Smiths

ザ・スミスは80年代英国でインディ・バンドとしては最大の成功を収めたバンドだ。当時アメリカの市場で殆ど活躍しなかった(できなかった)ために、ザ・スミスの現在での評価はそこそこのものに留まっているようにも思えるが、当時のイギリスの若者層からの支持は凄まじいものだった。1983年のシングル・デビューで世間に姿を現したスミスは、モリッシーによる鋭い感覚とそれを具現化した歌詞、コンポーザーであるジョニー・マーの書く伝統的な音楽的素養に満ちた楽曲の良さといったもので、デビュー後即座に当時の英国若者層から一種熱狂的ともいえる歓待を受けたのだった。

モリッシーは、公団住宅に暮らし生涯華やかな生活をすることなく死んでいく労働者階級、ゲイ、ただ自堕落で少しばかり考えすぎの社会不適合者、老人(モリッシーはメディア・パフォーマンスとして、国から支給される老眼鏡、補聴器などを身に付けることがあった)といったロックンロールのマッチェイズムやきらびやかさの伝統からすれば、ひとつもヒップではない「社会的弱者」の要素を逆手に提示してみせた。モリッシーが言わんとすることは、そうした者達にもまっとうな居場所が用意されるべきだという主張だが、もっと言えば究極的にはニーチェの言うような「弱者」が実は「強者」なんだ、という風な論理が目論まれていたといってもいいかもしれない。ただバンド・エイドやUSA・フォー・アフリカ、ライヴ・エイドといった運動を嫌悪するモリッシー は、そうした論理を具体的なマイノリティ運動のようなものには結びつけることはなかった。今から考えてみると、ただただ自分の周りで起こっている狂騒を楽しんでいただけのようにみえる当時のモリッシーは、確かにしょうもない人間だったのかもしれないが、当時のある種のリスナーにとって彼は、ただただ圧倒的に正しい存在だった。

償うことが多すぎる、とモリッシーが歌ったマンチェスターはイギリス北部の斜陽な工業都市。ここでポップ・ミュージック/ロックを聴くことを楽しみに育ったスティーヴン・パトリック・モリッシー(vo.)とジョニー・マー(g.)によってザ・スミスは’82年に結成された。彼ら曰く、奇妙なバンド名は自らの凡庸さを証明するために付けたとのことだった。

思春期にニューヨーク・ドールズのファン・クラブに入っていたというモリッシー (当時の英北部では珍しい趣味だった)。彼は自宅の公団住宅に篭って10代~20代前半を好きなオスカー・ワイルドの本を読んだり、ポップ・ミュージックを聴き、頭の中で妄想を描いたりしてよく過ごした(モリッシー は20代になっても親元に暮らしていた。英国北部では成人したら独立するのが当たり前らしい)。それはあまり外交的とは言えない生活で、突然強力なパフォーマンスを売りにするシンガーに変身する前のサナギの時代と言えた。一方のジョニー・マーは洋服屋でバイトをしながらギターの腕を磨き、作曲することに楽しみを見出していた。そんなマーはある日、音楽誌NMEへの投稿などで、地元では有名だったモリッシー のもとを訪ねる。いいロック・バンドを作りたい、と伝えたようだが、その出会いはミック・ジャガーキース・リチャーズ、金儲けをしないかい?と誘ったといわれるレッド・ツェッペリン辺りの結成エピソードにも似ていた。

意気投合した二人はグループを結成、アンディ・ルーク(b.)、マイク・ジョイス(ds.)を加え、ギグを行う。ザ・スミスの曲はマーがギターを使って、ほぼ完成の域まで作ってからモリッシーに渡し、モリッシーが詞を付けるというスタイルが採られた。マーが後に語ったところによると、ヴォーカル・ラインの入ってる曲も入ってない曲も渡していたそうだが、たとえ入っていたとしてもモリッシーが変えて歌ってしまうことが多かったそうだ(誤解ないように言うと大抵はラインが変わったことで曲は良くなったという)。またマーはモータウン・ソングなどのような3分間のコンパクトでキャッチーな曲を作ることを目標にしたともいう。モリッシー/マーという作曲クレジットは、かつての黄金ポップス時代のソングライター達やレノン/マッカートニー、ジャガー/リチャードら偉大な作曲家チームを多分に意識していたのだろう。

ギグの評判が高まった彼らはインディ・レーベルのラフ・トレードと契約。’83年5月、シングル"ハンド・イン・グローブ(手袋はめて)"でデビューする(イントロのハーモニカはビートルズのデビュー曲"ラヴ・ミー・ドゥ"を意識した?)。彼らは瞬く間に人気となり’84年にはインディ・チャートのトップ3独占という快挙を成し遂げる。同年1stアルバム ザ・スミス 発表。英国内では人気、実力ともにトップ・クラスのインディ・バンドという評判を確定的にする。特にモリッシーの描く労働者階級的かつ文学性の高い詞と、”バーズの再来”と呼ばれたアルペジオを交えての独特の繊細かつダイナミックなマーのギター奏法が話題だった。

スタジオ・ライヴ+シングル曲などで構成されたコンピレーション ハットフル・オブ・ホロウ の早過ぎるベスト盤という趣きは当時の英国内での大人気に応え、クリスマス商戦前のリリースという形をとったためだった(やや堅苦しい印象を受けた1stの曲がスタジオ・ライヴによって生き生きした感じになってて、内容的にはかなり良い!)。’85年実質的2nd ミート・イズ・マーダー 発表。その兆発的なアルバム・タイトルと陰鬱なムードのタイトル曲が物議を醸したが(モリッシーは菜食主義)、全体にハード・エッジになったマーのギターを始め、タイトなバンド・サウンドが実った作品となった。余談だが一般に名盤として評価される クイーン・イズ・デッド よりも筆者個人としてはこの作品とハットフル・オブ・ホロウ がアルバム単位では好きだ。また本作とハットフル・オブ・ホロウ 収録の"ハウ・スーン・イズ・ナウ"ではディレイ?か何かのエフェクターをギターにかけて、それまでのスミスに無い独自のサウンドを聴かせているのにも注目したい。マーのただギターを普通に使うだけでは物足りないという実験的な好奇心はのちのエレクトロニックに繋がる。この頃、アンディ・ルークがドラッグ問題で抜け(モリッシー はドラッグを軽蔑している)、元アズティック・カメラブルー・ベルズのクレイグ・ギャノンが加入した後、再びアンディが復帰というゴタゴタも起こっている。

そして’86年、代表作 クイーン・イズ・デッド 発表。もともと扇動的な発言とパフォーマンスで有名なモリッシーだったが(以前TV放映されたドイツのライヴでの煽り方はスゴかった!)、ここで遂に正面きって英国王室に喰って掛かった。そのタイトル曲はアップ・テンポの危機感迫る名曲に仕上がっていた(ビデオ・クリップもカッコ良かった)。またこの作品では美しいラヴ・ソング"ゼア・イズ・ア・ライト"も絶品だった。だが、彼らの勢いを感じさせる快進撃はやはりこの辺りまで。’87年9月、 スミスはラフ・トレードから大手EMIに移籍。但しまだラフ・トレードとの契約が残っていたため、’85年以降のシングルを集めたコンピ ワールド・ウォント・リッスン をリリースする(DJを吊るせ、という過激なコーラスをモリッシーの回転数を変えて変調させた声が歌う"パニック" 、他に"アスク・ミー"など収録)。

一方でバンドはラフ・トレードでのラスト・アルバム ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム を制作。しかし、メジャー契約を決めたスミスはここで空中分解してしまうのだった。実はEMI移籍が9月に決定する直前の8月に、ジョニー・マーモリッシーとの関係を拗らせ脱退していたというのだ。メンバーを補充して活動するつもりだったモリッシーもさすがにマー抜きでの活動は断念した(この後ソロになったモリッシーは折りに触れ、未練たらたらのジョニーへの想いを歌中でもインタビューでも語っている)。当時日本に居た多くのリスナーはほぼ同時期にEMI移籍、ジョニー・マー脱退、解散!というニュースを受け取ったハズだろう。

さて本当のラスト・アルバムとなってしまったストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム が届いたが、陰鬱なサウンドに満ちており、果たして解散を強く意識させる作品であった。昏睡状態の彼女を歌った"ガールフレンド・イン・ア・コーマ"の薄ら寒さはファンには悲しかったが、これこそがスミスという気がして実はよく聴いたものだ(今では距離を置いたせいかアルバム全体もなかなか良く出来てると思う)。

解散後’88年にライヴ・アルバム ランク発表。とうとうスミスのライヴを見れなかった日本のファンには、ライヴでは意外に激しさを持ったバンドだったんだな、と思わせる内容だった。その後現在までに各種ベストやコンピレーションが編まれている。

’80年代英国最大のインディ・バンドであったザ・スミスは、ジョニー・マーの持つ幅広いポピュラー・ミュージックの知識とシングル曲などに見られる3分間のポップ・フォーマットへの拘りといった要素、そしてモリッシーの文学性、カリスマ性が見事に融合した、いわば古典的なバンドらしいバンドだった。上の方で触れられなかったが、彼らのシングルにはジャケット・スリーヴと楽曲の完成度が噛み合ったトータルな芸術品といえるような美しさがあった。CD時代になってどうしてもアルバム単位で語ってしまうようになるが、伝統的にシングルが強いイギリスで労働者階級のロック・ファンに彼らが何故あそこまで人気があったのかと考える時、そうした事も見ておく必要があるだろう。

Morrissey
スミス解散後、モリッシーはソロ・アーティストとして活動を始め、現在に至るまでEMI→RCA→マーキュリーとメジャー系レーベルを渡り歩いて作品を発表し続けている。スミスにおいてモリッシーのクセのあるヴォーカルとその独特な歌詞世界、キャラクターは非常に重要な部分を占めていた為、当初ファンがどうしてもスミスの幻影を見てしまっていたことは否定しようがないだろう。しかし活動開始から暫くはジョニー・マーの不在という現実を強く感じさせる活動に終始していたが、バック・バンドと共に纏まりを感じさせる作品やライヴを見せるなど、’90年代中頃にはソロとして安定した活躍をした。手前みそだが、サウスポー・グラマーが発表されたころ'90年代半ばの来日時に、モリッシーはHMV池袋(現在の池袋メトロポリタンプラザ)にインストア・イヴェントで来てくれたことも追記しておきたい。これは殆ど快挙といっていいものだった。実物のモリッシーはとても紳士的な雰囲気を持った人で、イヴェント中、自分の背後に人を立たせないでほしい、というまっとうな注文をする人だった。一方でソロに成ってからのモリッシーは、スミス時代以上に過激な発言、楽曲を連発、熱心なファン、リスナーが引く場面も見られたことは、リアルタイムで接してきたファン以外には説明が要るかもしれないが...。

Johnny Marr
バンド脱退後、いち早く活動を始めたジョニー・マー。自分が解散の原因だったクセに…とコアなスミス・ファンの怒りに触れた。プリテンダーズなどの録音に参加したりしていたマーだったが、’89年にはバーナード・サムナー(ニュー・オーダー)、ニール・テナント(ペット・ショップ・ボーイズ。最初期のみ参加)と共にエレクトロニックなるユニットを組んで作品を発表。一時的なスーパー・グループとも言われたが、現在までに3枚のアルバムをリリースしている。またマット・ジョンソン率いるザ・ザの’89年作 マインド・ボム では、ほぼメンバー扱いでレコーディングに参加。この作品に伴うツアーでジョニー・マーも来日、中野サンプラザ他で公演した(ジョニー目当てのお客さんも多かった)。スミスのドラマーだったマイク・ジョイスはこれより先にジュリアン・コープのバンド・メンバーとして来日している。

A Tribute To The Smiths
パンク、ハードコアを起点に様々な音楽要素を盛り込んだバンドがUSマイナー・シーンを中心に増えてきているが、中でもこのフェイス・トゥ・フェイスザ・スミスの音楽性の高さ、エモーショナルな表現にリスペクトを表明しており、カヴァー集 スタンダーズ・アンド・プラクティス では"ホワット・ディファレント〜"を取り上げている(同作収録のジャム・カヴァー"ザッツ・エンターテイメント"もモリッシーのソロ経由?な、わけないか)。一方、フランスの雑誌が企画したスミス・トリビュート盤"World Still Won't Listen"ではハイ・ラマスショーン・オヘイガン(’80年代にスミスの影響を受けたマイクロディズニーというバンドに在籍した)らの演奏が聴けた。しかし、これは残念ながら現在廃盤となっている。

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