出所後、SnoopはWarren Griffin(Warren G)と共にラップをするようになり、地元の仲間であるNate DoggらとThree The Hard Way、後の213というグループを結成。この頃作ったデモ・テープは近所で2000本売れたという。Warren Gの義兄弟であるDr Dreがそのデモ・テープを聴き彼らに興味を示した。すぐさまDr Dreは映画『Deep Cover』(92年)のサントラに収録されたタイトル曲"Deep Cover"にSnoopを起用し、彼の記念すべきキャリアが始まった。
ウェスト・コーストの伝説的なグループN.W.A.などで活躍してきたDr Dreはグループを離れ「Chronic」で衝撃的なソロ・デビューを飾る。この名盤にSnoopはほぼ全編にわたりフィーチャーされ、ヒップホップの永遠のアンセム"Nuthin' But A "G" Thang"を生み出すなど、Snoopなくしてはこの傑作の誕生はありえなかった。
Snoopのラッパーとしての地位は93年11月にリリースしたソロ・デビュー・アルバム「Doggystyle」で確実になった。Dr Dreが全面的にサポートしたこのアルバムは、予想通りビルボード・チャート1位を獲得。"Gin & Juice"、"What's Your Name?"とヒット曲を量産。ソウル好きで知られるSnoopは"Doggy Dogg World"でDramaticsをフィーチャーし、MTV Video Music AwardsのBest Rap Videoを受賞、ローリング・ストーン誌ではベスト・ラッパーに選ばれるなど順風満帆に事が進んでいた。
セカンド・アルバムをリリースする96年までに、Snoopは主演映画『Murder Was The Case』のサントラを発表するなどしていたが、肝心のDr DreはDeath Rowから抜け、自身のレーベルを立ち上げる。残ったSnoopはDr Dreなしでセカンド・アルバム「Doggfather」を制作する。DJ Poohが中心となって制作されたアルバムは、Gap BandのCharlie Wilsonをゲストに迎えるなどしたが、好みはリスナーによって分かれるような内容となった。ちなみにこの作品は制作後すぐに亡くなった2 Pacに捧げられている。この頃、自身のレーベルであるDoggy Style Recordsを設立。同年12月に再来日。
97年、SnoopはLallapalooza Tourのヘッドライナーとしてツアーをこなし、「Doggumentary」というEPを制作するものの、Death Rowとのいざこざでリリースは見送られる。翌98年には遂にDeath Rowを離脱。これからはDoggy Styleのレーベル運営に力を入れるのかと思いきや、Master P率いるNo Limit Recordsと驚きの契約を交す。もともとSnoopとMaster Pはよく声を掛け合っていた間柄だったらしく、Death Rowを離れるというSnoopの噂を聞きつけ手を差し伸べたのが、この「やり手」Master Pであったという。SnoopはこのNo Limit時代にビジネスマンとして必要なことをかなり学んだと後に語っている。98年8月、移籍第1弾アルバム「Tha Game Is To Be Sold, Not To Be Told」をリリースし、Snoop Doggy DoggからSnoop Doggへと改名した。
同年、「No Limite Soldier Night 98」としてSnoopは3度目の来日。99年には第2弾アルバム「No Limit Top Dogg」を発表、Dr Dreと再び共演が実現した。この年はDr Dreの「2001」にSnoopも参加し、2人のタッグがいかに強力かということを証明してみせた。また当時からDeath Rowの嫌がらがはじまるようになり、アルバム・タイトルは本来「Top Dogg」の予定であったが、Death Rowから同名アーティストがデビューしたためタイトルの変更を変えざるを得ない状況に追い込まれたりもしていた...。